丸山眞男における<国家理性>の問題、姜尚中、丸山眞男を読む、状況出版、1997

6 解体と終焉、竹内洋、日本の近代12 学歴貴族の栄光と挫折、中央公論社、1999


丸山眞男を読む 6 解体と終焉、竹内洋、日本の近代12 学歴貴族の栄光と挫折

丸山眞男の没後、思想史や、いわゆる論壇で発表された批判は、丸山は二つの点で自意識過剰であったという主張で共通しているようにみえる。それらの意見をまとめると丸山は「日本人」と「知識人」という自意識を過剰にもっていた。姜の論文は「日本人」という観念が、丸山の内面でどれほど重要な位置を占めていたかを摘出する。

竹内の著書では「丸山眞男という範型」という一節を設けて、丸山が旧制高校的知識人の典型であったことを明らかにしたうえで、戦争責任について、いかに自分を含めた「知識人」を無自覚に擁護していたか、詳細に分析する。


これらの批判はいずれも正鵠を射ている。例えば姜が紹介している「日本人の九十パーセントは祖父母の代から日本に住んでいる」という丸山の発言は、彼が「日本」や「日本人」という概念をあまりにも安直にとらえていたことを暴露している。この発言は、外国からの帰化者も増えている今日では差別的と非難されてもおかしくない。

竹内は、丸山のファシズム批判は責任をインテリになり損ねた亜インテリゲンチャに押しつけるだけで、自分を含めた第二類型と呼ばれる「本来のインテリゲンチャ」を擁護する「循環論証」に陥っていると批判する。

竹内によれば、丸山の考えは戦争を仕掛けたのは亜インテリであり、自分を含めて戦中に消極的抵抗をして戦後に反省する者こそ、これから日本国を再建する階層だと自己正当化する。そして、周囲の受け止め方を含めて、「インテリの類型論において、『規範的』定義(あるべきインテリの定義)と『分析的』定義(インテリの社会階層的定義)とがごっちゃになっている点について当時は誰も異論をとなえていない」状況だったと竹内は結論する。


確かに「知識人」と「日本人」という点で自意識過剰だったという批判は、彼の置かれた状況、彼が自覚していた意図に対する評価にはなるとしても、本質的な批判とはならないように私には思われる。これらはいずれも的確な批判であるけれども、実は丸山自身がもっとも強く自覚していた点でもあるから。

日本人のほとんどが同質という認識は、現在からみれば暴論かもしれない。しかし敗戦後の日本国で、とりわけファシズムを生み出してしまったという悔恨に苦しむ人々を、新しい民主国家の担い手として自覚をもたせることに丸山の意図があったことも見逃せない。そして知識人としての自覚についていえば、丸山自身はその家庭環境や教育履歴からいっても知識人であったことは間違いない。


竹内の論考によれば、二十世紀前半、日本国では旧制高校に代表される学歴貴族(エリート)の崩壊と、大学の大衆化が進んでいた。ところが敗戦という異常事態に教養主義、また教養を備えた知識人は輝かしく「復活」した。やがて全共闘運動の敗北とともに、大学の大衆化は一気に加速した。丸山は、そうした時代に生きたまさに知識人の最後の一人ということができるかもしれない。

蛇足ながら付け足しておくと、批評家小林秀雄は戦後早くから「知識人」という言葉は死んだ、と書いている(「知識階級について」『全集 第九巻』)。小林は教養の大衆化ということを意識していた。もちろんその背後には、彼が教養主義の頂点を極めながらも、そこに安住できなかった外的、内的な要因があった。同じ東大という教養主義の頂点を相次いで通過した二人。後から生れた学者丸山が最後の知識人となり、批評や訳詩の仕事で先に栄光を手にした作家小林が最初の大衆的教養主義者となったことには、さまざまな含意がある。

従って問題は、丸山が「知識人」として自意識過剰であったという点にあるというより、敗戦後、丸山を読んだ多くの人たちは、もはや彼と文化資本と学歴資本を共有した同質の知識人では必ずしもなかったという点にある。加えて言えば、丸山の知識人意識はエリートだけがもつ強い責任感、いわゆるノブレス=オブリージュという感覚に支えられていた。

文化資本、学歴資本と責任感は表裏一体のもの。ところがそうした屋台骨と精神的支柱がない人々が、丸山から「君たちも明日の日本を担うインテリだ」と激励されたとき、それは敗戦後の辛い時期にあっては「肩の荷が下りる。希望と勇気がわいてくる(竹内)」体験となると同時に、丸山自身が「惑溺」と言って恐れるような偶像崇拝や現実逃避への扉も開けてしまったのではないだろうか。与えられたものであれ、努力して身につけたものであれ、読み手の側にきちんとした土台と意識がなければ、今度は吉本隆明のように丸山とは正反対の社会階層から生れた思想を読む対象としたところで、生きた思想とはならない。


それでは思想史家、丸山眞男に対する本質的な批判は、どのような議論になるだろうか。ここでは丸山における「伝統」の問題について、伝統の担い手と伝統の内実との二点で丸山眞男に質問を投げかけてみたい

第一は、伝統は何かをした人だけが残すのか、という質問。丸山は日本政治思想史をたどり、政治社会の主流だけでなく、傍流や周辺にあたる集団に普遍的原理を備えた者たちを探求する。聖徳太子、北畠親房、佐久間象山、陸渇南、隠れキリシタンなどを、丸山は次々と発見し、読み替えを行う。これらはいずれも政治的、社会的に何かをした人々。多くは書物を残したり、体制に反対したりした人々。そうした人々のなかに、主体的な意識や批判精神があったことは間違いないだろう。とはいえ、それはそうした人々だけがそうした意識をもっていたことにはならないのではないか。

確かに、行動した者だけが伝統を継承すると丸山自身が言っているわけではない。だから、このような批判は言っていない点を指摘する揚げ足とりにすぎないかもしれない。それでも指摘しておきたいのは、丸山の伝統理解に従うとそうした論理に帰着しかねないから。何かをした人だけが伝統を残す。このような考え方を押し進めると、何もしなかった人は伝統を残さなかった、すなわち普遍的原理を持たず権力と体制に追従しただけだった、という理解に陥る可能性がある。


物言わぬ人たちはものを考えていない、ということにはならない。ものを考えた末に物言わぬ手段をとったのかもしれないし、政治や文化とのかかわりを積極的にもたないことで、一つの主義を貫いたのかもしれない。あるいは、そうしたことすら意識せずに、日常の労働に埋没したまま一生を送ったのかもしれない。そうした人々は体制には抗わなかったし、文章も残さなかったし、信仰にも殉じなかったかもしれない。だからといって、彼らに普遍的な原理がなかったとは必ずしもいえないだろう。体制に反抗したのは一揆を起こした農民だけで、それ以外の人はすべて従順であったとは言えないはず。

江戸町人の意識とプラグマティズムを安易に同一視する感覚を、丸山は批判する。確かに時代も場所も異なる、庶民の日常感覚と哲学者が探求の末にたどりついた観念とを短絡的に結びつけることには問題がある。しかし、歴史的地理的相違を突き詰めて人間心理の奥底までたどりついたとき、それらに共通点はないと言い切れるだろうか。

思想とは、自覚的につかんだ考え方の体系。それは、言葉と行動で表される。そうだとしても、言葉でも行動でも表現されなかったところには何もなかったとは言えまい。


第二は、普遍的な原理だけが「伝統」となりうるのか、という質問。普遍的な原理とは「自己を歴史的に位置づけるような中核、あるいは座標軸」にあたるもの。座標軸上で自分の位置を確かめるためには、原点と終点、少なくとも終点の明確な方向性が必要になる。それらがなければ、はじめから見てどこまできたか、終わりから見てどれだけあるか、という測定はできない。座標軸上を原点から終点へ進む運動を丸山は「進歩」と呼ぶ。

ある永遠なものーーその本質が歴史内在的であれ、超越的であれーーの光にてらして事物を評価する思考法」に駆動され、人間や文化は、「進歩」する。(「日本の思想」)

右の引用文で進歩の思考法として具体的に想定されているのは、マルクス主義とキリスト教。歴史内在的にプロレタリアート革命を最終地点とするマルクス主義と、超越的な「最後の審判」を信仰するキリスト教は、その進歩史観ゆえにそうした伝統が希薄だった日本思想に史上最大の一撃を与えた。そして、丸山の仕事は、日本社会に進歩史観は不在でなく、希薄であったという前提に立ち、それを備えた普遍的な原理の痕跡を思想史に探ること。

「進歩」の対概念は「進化」。「進化」には初めと終わりがない。無限に適応し、無限に改善されるが、永遠にたどりつかない。終点が規定されていないから。「日本の思想」における丸山は、明らかに「進歩」により価値を見出している。

元来、「進歩」と「進化」は、どちらかがよくて、どちらかがよくないというものではない。「進歩」の考え方が硬直すれば、歴史観の押しつけとなり、キリスト教がもたらした多くの戦争や、マルクス主義がたどりついたソビエト的全体主義を思い起こすまでもなく、服従しない者は征服してしまえばいいという極端な発想になりかねない。他方、「進化」の考え方だけに浸れば、鷲田清一が言う例の「アヴァンギャルドとネオマニー」、すなわち差異と目新しさだけが次代を生み出すような無秩序に陥る可能性がある。


「進歩」をつねに念頭に置きながら、「進化」する。あるいは、「進化」にすぎないかもしれないと言いきかせながら「進歩」の努力をする。そうした態度が必要ではないだろうか。それは両者の間をとるということではない。両極を知り、両極をつねに見渡しながら進むということ。中庸とは、本来、中途半端やどっちつかずということではないはず。

ここまで丸山に対する批判のつもりで書いてきたけれども、いずれも丸山は承知だったのではないかと気がしてくる。

丸山は、自分を含めた知識人に政治的行動を期待をするけれど、それ以外の階級集団による思想や行動を否定しているわけではない。否定していないどころか、知識人だけが思想と政治行動を独占することを戒めている。丸山が理想とするのは、多様な階層、集団、個人がそれぞれに思想や行動を発すること。学問研究者という彼自身の立場は、そうした諸集団の一つにすぎない。だからこそ、彼はその重要性を己の責任感に結び付けて強調する。


「原理原則から天降るのではなしに、いわば映画の手法のように現実にある多様なイメージを素材として、それを積み重ねながら観客に一つの論理なりアイディアなどを感得させる方法(「思想のありかたについて」)」というとき、丸山は自らを原理原則の発信者としてではなく、積み重ねられた多様なイメージの一コマとしてとらえていたのではないだろうか。

また、「『である』ことと『する』こと」において、丸山は日本社会においてつねに属性が行動に優先していることを懸念している。だからこそ丸山は、敗戦後の日本国に民主主義を確立するという目的は、「『する』こと」、すなわち「行動」によってしか達成できないと主張したのではないだろうか。

明らかなのは、丸山が「普遍的原理」というとき、どの時代、どの地域にも適用される「万能の原理」を意味しているわけではないということ。それは、敗戦後の日本国に民主主義を確立するためという、きわめて歴史的、地域的に限定された目的を達成するための「普遍的原理」であった。


丸山ほど、内面的な動機づけを大切にした社会科学者は多くない。同時に、彼ほど自分の専門領域の境界を明確に自覚した研究者も少ない。つまり、丸山眞男は、戦後日本の復興、民主主義の確立という大目的を胸に秘めながら、つねに政治思想史研究という限定された領域で表現したと考えられる。

そのとき表現されるのは、「進歩」という「普遍的原理」を備え「知識人」と自覚した人々による「行動」でなければならなかった。そう理解すれば、すべてを承知のうえで丸山は自分の表現を選び取ったのだと思われてくる。そうだとすれば、後世の者にできるのは、丸山を批判することではない。批判したつもりでできることは、せいぜい彼の問題意識を明確に理解すること、彼の研究を規定していた歴史的、地理的、資質的な制約を分析することに過ぎない。

何より大切なのは、多くの成果を残した先人を批判したつもりで悦に入ることではなく、思想史家丸山眞男たらしめているものを学習者が自覚的に明らかにすること。つまり、私たちがすべきなのは、先達の方法と動機づけを学び、彼を規定していた諸要素を理解し、それらを踏まえて彼らが提示した問題関心に向かい合うことではないだろうか。


確かに彼は専門分野以外での発言、行動も少なくなかった。とはいえ彼の専門分野以外の行動、言い換えるならば人間・丸山眞男に評価を下すことにはさらに意味がないだろう。少なくとも私は人間を評価することに興味はない。

すし屋に行って、ここはパスタは上手いかねと聞くのは野暮というもの。まして板前に「ヴァイオリンは上手に弾けるか」と聞くのは阿呆。旨いすしを食べた帰りに思うのは、同じ味を家で試してみようかということではない。あの板前のきっぷのよさは見習いたいものだな、そういうことではないだろうか。


さくいん:丸山眞男竹内洋


碧岡烏兎