<海外と日本の写真集>
私自身の写真集・海外と日本編
(My own PHOTO album in overseas and Japan)

-- 2007.02.10 エルニーニョ深沢(ElNino Fukazawa)
2017.07.16 改訂

※注意:このページは写真が多く、読込みに時間が掛かります。
★---暫くお待ち下さい(Wait a minute)---★

 ■はじめに - 明るく楽しい葬儀の為に

 私も年を取り、私も何時死ぬか判りません。つまり自分のという問題が何時自分に降り掛かろうが全く不自然で無い状況に成りました。そこで私が死んだらこの中の写真から葬儀写真を選んで欲しいと私は思って居ます。或いは、これらの写真のスライドショーにして貰っても良いですね。これらの写真には大判写真が付いて居ます。
 そこで私を送り出す葬送行進曲は『スーダラ節』(作詞:青島幸男、作曲:萩原哲晶、歌:ハナ肇とクレイジーキャッツの植木等にして貰いたいですね。と言うのは1961年にヒットしたこの曲は素晴らしいと思って居るからです。植木等は実は真面目な人で、『スーダラ節』の歌詞を見て歌うのを躊躇したそうですが、彼の父(=浄土真宗の僧侶)が歌詞の「わかっちゃいるけどやめられない」は親鸞の教えに即したものだ、と言って歌う事を薦めたそうで、案の定歌はヒットしたのです。親鸞と言えば「いはんや悪人をや」(△1のp45)という文が有名ですね。
 ここで一寸脱線します。

  ◆日本も高度成長期は批判精神が溢れて居た

 青島幸男は他にも植木等の歌を作詞していて『無責任一代男』『だまって俺についてこい』『ドント節』(歌い出し:「サラリーマンは気楽な稼業ときたもんだ」)など、今の人が聴くと”只のコミックソング”に聞こえるかも知れませんが、これは無責任なグータラ社員が当時の高度経済成長のモーレツ社員を皮肉った曲、つまり昭和期の歌(=歌謡曲)には批判精神が溢れて居ました。又、この歌を聴く大衆も、その皮肉を理解して居たのです。青島幸男は後に東京都知事に成って居ます。尚、青島幸男は『悲しき六十才』(訳詞:青島幸男、作曲:アザム・バークレイ、歌:坂本九)の訳詞も担当しました。{「悲しき六十才」へのリンクは2017年6月20日に追加}
 もう1つ批判精神が溢れた歌を紹介しましょう。「掲示板のおちゃらけ議論」(△2のp38~39)で既に紹介している『僕はサラリーマン』(作詞:サトウハチロー、作曲:三木鶏郎、歌:三木鶏郎、並木路子)という曲で1951年に作られました。これは概略次の様な歌詞です。「♪ぼくはサラリーマン、会社のホープだよ とか何とか煽てられ、しまいにゃよ♪」
 戦後間も無く、こんな歌が実質的な”国営放送”のラジオから流れていました。サトウハチロー三木鶏郎(或いはトリロー)も凄い。どうです皆さん、これはサラリーマンの永遠の真理です。私は「この歌を小学校で毎日歌わせると良いですね。」と言って居ます。{拙著△2の紹介は2014年12月10日に追加}

  ◆1960~70年がクラシック/ジャズ/ポピュラーのピーク
     - 後は残念乍ら下り坂

 考えてみると、私が子供時代は国は貧乏でしたが、この様に批判精神が横溢して居ました。その事は「モダニズムの音楽」概論の中で既に少しだけ述べて居ます。即ち「「前衛復活の時代」にはマイルス・デイヴィスJ.コルトレーンらのジャズの革新が公民権運動と結び付いて起こり、ビートルズ反ヴェトナム戦争と結び付いて全世界を席巻しました。クラシック音楽界の前衛運動もこの様な社会状況と連動して居たのです。」と(△2-1のp199~200)。時代的には1960~70年に相当します、この時代は「世界的なうねり」が有ったのです。{拙著△2-1の紹介は2014年8月10日に追加}
 翻って今の時代に目を向ければ、国は豊かに成りましたが批判精神など何処にも無く、今の歌はどれも口当たりが良くて貴方(貴女)に”寄り添った”、偽善ソングばかりです。以後は1960~70年のピークを超える事は無く、私に言わせれば「ずっと下り坂をころがり落ちて」居ます。更に言うならば、私は今の平成という時代は歴史上最も”下らない”時代だと思って居ます、何故なら今の世の中は全て「虚(きょ)」の世界で何一つ実体が無いからです!!

                (>_<)

 話を葬儀に戻すと、葬儀は意味も無く、真面目で、深刻で、死んだ当人は大した実績も無い癖に如何にも”惜しい人を無くした”などと無理に思わせようとするから、詰まらないものに成るのです。あの漱石先生死んでいゝ奴は千駄木にゴロゴロして居るのに」と手紙に書いて居る(△3のp343)様に、今は本当に「死んでいゝ奴は日本中にゴロゴロして居る」のです。私が名付けた「多老」(△2のp42~85)などはその最たる存在です。{「死んでいゝ奴」へのリンクは2013年10月21日に追加、拙著△2の紹介は2014年12月10日に追加}
 もっと正直に”下らない人間”が亡くなり気持ちが清々しました」本心(=本音)を表現すれば葬式を出す方も気が楽と言うものです。そう言えば漱石も天邪鬼(あまのじゃく)な批判精神の持ち主でした。

 そもそも人間は必ず死ぬのです。死んで”惜しい人”など現実にはそんなには居ないのです、恐らく1%位でしょう。人間社会は誰かが死に、新しい人が生まれる、その繰り返しなのです。私は人間の進歩とか可能性は、この交換可能性にこそ在ると思って居ます。簡単に言うとAはBに何時でも代われるという事です。だから詰まらない葬儀は止めにして、「スイスイスーダラダッタスラスラスイスイス~イ」と大いに♪明るく楽しい葬儀♪を広めたいと私は思って居ますゾ、ブワッハッハッハ!!
 尚、各節の<××.××.××:○○○○>は××.××.××が撮影日、○○○○が撮影場所です。

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    2003年(無し)      コメント有り
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    2016年(無し)

 ■2001年

  ◆中国の麗江と中甸(香格里拉)にて



 <撮影日=2001.10.15:撮影場所=中国の麗江>左の写真が麗江雲杉坪でのワ・タ・シ。何か怪しい雰囲気ですね、ここではイ族(彝族)の人々が記念撮影用に衣装を貸してくれます。この写真だけ見たら何処の国の人か判り難いでしょ、無国籍人(=国籍不明人)を標榜する私にピッタリですね!
 ところで私が被っている動物の毛皮で出来た帽子、これはレッサーパンダです。
 因みにレッサーパンダは中国語で小熊猫と書きます。ジャイアントパンダ -皆さんが通常パンダと呼んでいる- が熊猫です。実際、パンダはネコ目パンダ科ですゾ!

 <01.10.17:中国の中甸(香格里拉)>右下は虎跳峡鎮からマイクロバスで小中甸河に沿う様に国道214号を北上すること約2時間で中甸県小中甸に着きました。

 小中甸はチベット族の放牧地の中の、通り過ぎて仕舞いそうな小さな村です。しかし紅葉のタイミングにドンピシャと合わせるなんて難しいのです、この幸運に感謝です!!
 真っ赤に紅葉して居るのは人の膝位の低い灌木の葉です。名称は不明です。
 尚、私たちが旅した直後の2002年1月から中甸県は香格里拉県に名称変更されました。
 

  ◆中国と日本の温泉比較

 <01.10.19:中国中甸(香格里拉)>右は中甸県下給温泉で、硫黄系の所謂”温泉の匂い”がするので見付けられました。夕方行ったら、木製の個室バンガロー(浴室)が10棟位在って、赤い屋根と白壁の保養所の建物は宿泊所で、建物の1階には土産物屋や麻雀卓やゲーム機などが在り、何人かが麻雀をして居ました。バンガローの中は木製の浴槽が有り3、4人は一緒に入れます。私は早速持っていた中国の焼酎で乾杯、この時ばかりは日本酒が飲みたかったですね!
 それと、バンガローの中は蒸気が物凄く、私は右下の写真を撮る為にカメラのレンズが直ぐ曇るので窓を開け蒸気を追い出してやっと撮ることが出来ました。本当はもっとぼやけて居たのですが、画像の編集でコントラストを上げて処理しました。

 [ちょっと一言]方向指示(次) ここで断って置きますが、中国では温泉は有りますが、ここの様に和式の”素っ裸”に成れる(=チンチンを出せる)温泉は極めて少ないです。殆どが水着着用混浴、従ってチンチンは出せません(出したら猥褻物チン列罪で逮捕されます)。私は中国の温泉は5、6箇所入りましたが和式の温泉はここだけでした。

 <01.11.01:和歌山県田辺市龍神村>朝、大阪を出て御坊迄は海沿いの良い道を通り、そこから山道を通って龍神温泉に着きました(左の写真)。ご覧の様に露天風呂、時刻は11:00頃です。桶でアソコを隠し、全く以て軽薄な -でも短小では無いですゾ!- 私です。しかし皆さん、これが私の本性(ほんしょう)ですので、宜しく!
 写真の右は甥っ子です。

 <01.11.02:和歌山県那智勝浦町>その後、中辺路を経て熊野本宮大社を拝み、那智勝浦の海の温泉(右の写真)に着きました。ここも露天、時刻は17:00頃です。私の後ろの石囲いより前が温泉、後ろが海です。
 

 私はこの様に露天の温泉が滅茶苦茶好きなのです!

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 ■2002年

  ◆中国で犬(狗)肉ラーメンを食う

 <02.10.21:中国の昆明>昆明犬(狗)肉ラーメンを食いました。

 色々な肉をトッピングで選べ、私は「狗肉」の看板(左の写真)を見て「それ」を遣って貰いました。
 右が犬(狗)です。凄いですね、顔はシェパードの様です。中国では狗は何でも食います。食わない狗はチン(狆)とか、元々ペットとして開発された狗だけです、後は全部食います。

 左が狗肉ラーメン、右がスープを旨そうに啜る私。
 私は昨日は蛇肉を食い、去年は豚の脳味噌を食って居ます。何事も経験です、見るだけでは経験は出来ません。狗肉はさっぱりして「中々行けます」ゾ!!
 この話は▼下▼にも
  中国のヘビーなお食事-”食狗蛇蠍的!”(Chinese heavy meal)

にも載って居ます。

  ◆回族のイスラム帽子を買って早くも心は西域へ

 <02.10.26:中国の昆明>私はトルファンという語に惹かれ回族のイスラム帽子 -私が被っているのがそれです(右の写真、小池さん撮影)- を昆明清真通りで買って帰りました。その話は
  昆明の「清真」通り('Qingzhen' street of Kunming, China)

に書いた通りです。多分、20元(=約300円)位で買ったものですが、2004年に本当に西域(※3)の旅をするとは、2002年の段階では夢にも思いませんでした。回族のイスラム帽子が呼び込んだ幸運(=中国西域の旅は▼下▼です!
  2004年・新疆とタクラマカン砂漠の旅(Travel of Xinjiang and Taklimakan Desert, China, 2004)

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 ■2003年

 2003年SARS(又はSARS)が猛威を振るった為に外国旅行を断念しました。

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 ■2004年

  ◆02年に昆明で買った回族のイスラム帽子が、
     04年の西域(シルクロード)の旅を呼び込んだ!

 <04.06.27:中国の新疆ウイグル自治区>この日は広州を9:00に飛び立ち14:40に中国新疆ウイグル自治区の区都・ウルムチ(※3-1)に着きました。私は早速日本から持って来た帽子 -幸運を呼び込んだ回族のイスラム帽子- を被り左の写真の如くに登場しました(17:30頃、小池さん撮影)。新疆ウイグル自治区には私の様な顔付きをしている人も結構居るので国籍不明人を標榜する者にとっては怪しまれずに居られるので大変居心地の良い所です。事実、イスラム帽子を被って居ると現地人が親しみの有る表情を浮かべ、時には話し掛けて来る事さえ有ります。
 しかし、この男は実に怪しいですゾ。写真を見て下さい、サングラスを掛け、右手にデジカメを持ち、阪神タイガースのタオルを首に掛け(←去年は阪神タイガースが18年振りにリーグ優勝したのだ!)、浮世絵のTシャツを着て、パスポートを入れたバッグを確りと首と胴にぶら下げて、そして体を嫌らしくくねらせて居ます!

 そして回族のイスラム帽子を拡大したのが右の写真です。これは同日の夜、私がイスラムの饂飩(うどん) -スープにトマトが入っている!- を食べている時小池さんが撮ったもので帽子以外を削除しました(22:25頃)。この帽子は模様に紛れて直径2~3mm位の穴が開いているので暑い砂漠で頭が蒸れるのを防いで居ます。中々良く考えられて居ます。これは昆明でイスラム的惣菜を作って販売して居た姉ちゃんと同じ帽子です。
 私は本場新疆ウイグル自治区で「回族のイスラム帽子」をもう一つ買いました。2個目の帽子は緑色です。

  ◆西域(シルクロード)の旅から


 <04.07.04:中国のカシュガル>新疆ウイグル自治区のカシュガル(喀什)の、とあるイスラム寺院を背景にパチリ。ここでも昆明で買った例のイスラム帽子を被って居ます(左の写真)。空気が乾燥してるので然程汗を掻きません。
 イスラム教を冒涜している!、なんて言われそうですね。でも私、イスラム教に忠誠を尽くして居まっせ、イスラム帽子を被って忠誠を表して居まっせ!
 

  ◆標高5000mのパキスタン国境

 <04.07.05:中国のタシュクルガン>タシュクルガン(塔什庫爾干)は新疆ウイグル自治区タジク自治県の最西部に近い街で、そこから標高5500mの峠を越えてパキスタン国境に行きました。
 左下の写真は標高5000mのパキスタン国境、即ち私が立って居る所が標高5000mです。背後には万年雪の山の中を中国-パキスタンを結ぶ車道が通って居ます。この国境は絶景です!
 通行量は少なく15~20分に1台の割合で軍用車が通行するだけですが、2時間に1台位の割合で商用バス(=国際バスが走って居るのを見ました。実は私も国境が大好きなのです(→後出)。

 左上及び左の写真は国境の中国側ですが、少しだけパキスタン側から写真を撮らせて貰いました(右の写真)、"PAKISTAN"と書いて在りますね。
 この国境はガイド帯同を義務付けられてる区間ですが、国境の1時間も手前で自動小銃を持った国境警備兵2人が我々の車に乗り込んで来たのには吃驚しましたね。そして帰りも又乗り込んで来ました。
 実はガイド -右上の写真で白いパンタロンの女性- が”訳有り”で、彼女の旦那がパキスタン国境警備隊に派遣され、彼女は我々を国境に案内すると同時にハミ(哈密)瓜とか西瓜の差し入れを旦那に持って来て居たのですが、彼女はその事を自動小銃の兄ちゃんに言わない。それで自動小銃の兄ちゃんは頻りに「こんな小さな会社では国境に来れない筈だ」と不審視してぶつくさ言ってましたね。パキスタン国境に着いて初めて解ったという訳です。国境は色々な事が有って面白い!


 ここに来るには崑崙山脈(※3-2)の標高3600mに在るカラクリ湖の脇を通り、標高7546mムズターグアタ山 -この山はキルギス族の霊峰です- を横目に見て、標高5500mの峠を越えて遣って来ました。
 右の写真が駱駝とカラクリ湖とムズターグアタ山です。

 ところで私はパキスタンのムシャラフ大統領に似ているらしいですよ、ムッフッフ!!

  ◆景洪で買った基諾族製の葉巻を大理で吸う

 <04.11.04:中国の大理周城>周城藍染めが有名な所です(←私は1999年に来て居ます)。「パーリャン小学校の竣工記念旅行」で来た私たちはここで休憩し藍染めの様子を見学しました。私たちは中国雲南省孟連県パーリャン村小学校を建てました(△2-2のp12~36)。{拙著△2-2の紹介は2014年5月1日に追加}
 そして1つの仕事を遣り終えた達成感開放感で満たされている私たちは、ここで「2000年・雲南の旅」で紹介した「基諾族製の葉巻」を私が披露し有志で吸いました。右下が私です。
 あぁ、旨い...(^_^)/-゜゜゜!!
 葉巻を吸った有志たちを見たければ「2004年・パーリャン小学校竣工記念旅行」をご覧下さい。

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 ■2005年

  ◆水無瀬の滝で

 <05.02.06:大阪府島本町水無瀬>ここには「関西歴史散歩の会」(会長:下村治男)で来ました。水無瀬の滝は水無瀬川の上流、名神高速道路より北側に在ります。島本町の案内板に拠ると、天王山(※x、※x-1)に源を発する高さ約20mの滝です(左下の写真)。
 天王山と言えば、1582(天正10)年羽柴秀吉明智光秀とが山崎で戦って秀吉が勝ちましたが、これが両軍の勝敗を決した事から勝敗の分れ目を「天王山」と言う様に成りました。水無瀬は後鳥羽上皇の離宮(今は水無瀬神宮) -後鳥羽上皇は最後は隠岐に配流された- が在った所です。
 又、案内板には、水無瀬の滝の傍には八太竜王/白姫竜王/玉竜大神などが祀られ竜神信仰(=古代の雨乞いの神)が在った様だ、とも書いてます。竜神と言ってますが竜(龍)は架空の動物なので実体はです。

 ところで、水無瀬神宮(=離宮の跡)からここに来る途中の水無瀬川右岸で、私はバグパイプをブカブカ鳴らしてる”おっさん”を見付けて仕舞いました。
 私が被っているのはカエルの帽子です(右の写真)。目が2つ飛び出して居るのが判りますね。この帽子を被っている所を子供に見られるとガキが「あっ、カエルだ!」と騒ぎ大変煩いです、アッハッハ!

  ◆基諾族製の葉巻を日本で吸う


 <05.02.08:大阪の飲み屋>パーリャンの悪友たちとの飲み会で、私は又も基諾族の葉巻を吸いました(右の写真)。左から佐野さん、又川さん、伯砂先生、そして私です。
 伯砂先生はご自分の煙草のケースを披露していますが、これは懐かしいゴールデンバットですね。しかしゴールデンバットなど今は自動販売機では有りません。多分通販で手に入れるのでしょう。
 

  ◆中国の東北地方 - 哈爾浜・瀋陽・大連

 <05.08.29:中国の瀋陽>2005年8月29日瀋陽故宮博物院脇の”屋台の土産物屋” -道路に土産物を並べて商売してる- で二束三文で売ってた紅衛兵の帽子(※5)を買いました。もう1つ毛沢東語録も買いましたがこれは私の弟子に遣りました。2つ共嘗ては一世を風靡してた物ですが今ではゴミ以下です。これは現地で写真を撮って無かったので日本に帰国してから後日に撮ったものです(右の写真)。私は何故かこの時代の風潮にノスタルジー(郷愁)を感じて仕舞いますが、自分でも笑わずには居られませんね。
 ネットを見ると「紅衛兵なりきりセット」という人民服一式 -紅衛兵の帽子から靴迄- を売ってる店が在る様です。
 しかし持っていると恥ずかしく成りますね、この帽子は。回族のイスラム帽子の方がずっと優れて居ます。「紅衛兵の帽子」は後に広州でも撮りました


 <05.09.01:中国の大連>左が市電(=トラム)(※7)です。料金は固定 -精々20分~25分位で大連(※10)から終点に着いて仕舞います- で1駅でも10元、終点迄乗っても10元です。大連からに行くコース西に行くコースの2通り(→後出)です。運転士が写ってますが私の見た限り皆女性です。「203」(←これは系統番号)、「争做文明市民」と書いて有ります。



 <05.09.02:中国の大連>右が翌日、東へ行くコースの市電(=203系統)に乗り終点の華東広場迄行き水浴びをしました。ここは海水浴場では無いみたいですが結構皆が泳いで居ます。私は物陰でこそこそっと海パン(=海水パンツ)に着替えました、こんなの”へっちゃら”です。
 何なら見せましょうか?、何、猥褻物チン列罪ですと?、然もありなん、ブワッハッハッハ!!


  ◆タイのプーケット島

 <05.10.29:タイのプーケット島>プーケット滞在も3日目に成り大分街の様子も解って来たので、この日の午後は1人でパトン・ビーチの繁華街を探検する事にしました。皆ヴァカンスで来ているので欧米系の外人も昼間からアルコールを飲んでます。私も或る店に入り、ご覧の様に上半身裸 -熱帯で湿度が高い!- でビールの喇叭飲みです、旨い!!
 写真は店の女の子に撮って貰いました、この写真は「2005年・タイ国プーケット島の休日」にも載って居ます。皆さん、ここは熱帯ですゾ!

 私は熱帯には直ぐ溶け込んで仕舞います、中々溶け込めないのが日本です、ブワッハッハッハ!!

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 ■2006年

  ◆伊勢神宮の伊雑宮で

 <06.01.20:三重県志摩市磯部町上之郷>この日は伊勢神宮の内宮別宮の伊雑宮(いざわのみや)(※11、※11-1)に近鉄志摩線の上之郷駅で下車して行きました。こんな小さな宮ですが志摩国一の宮で、毎年6月24日に行われる御田植神事(△xのp179)は特に有名です。私も今年来る6月24日の御田植神事の下準備で来ました。
 誰も近くに居なかったので、デジカメを石ころの間にセットし10秒タイマーを使って撮りました。私が左手に持って居るのは2005年のプーケット島で買った錫製の小瓶です。プーケット島は19世紀後半からスズ鉱山の開発が進み精鉱・鉱石をプーケット港から積み出して居ます
 私はこの中にウィスキーを入れて時々飲み乍ら伊勢神宮を回りました。私の後ろの木の立て札に「伊雑宮」と書いて在ります。




  ◆大井川鐵道で

 <06.08.30:大井川鐵道井川線あぷとラインで>大井川鉄道(正式名称:大井川鐵道(株)、略称:大鉄又は大鐵)と書くのが正式です。又、井川は濁らず「いかわ」と読みます。
 あぷとラインの事は大鐵のことを知った時から日本で唯一のアプト式機関車で駆動する井川線に乗りたかったのです。大鐵金谷駅~千頭駅~井川駅を往復する為私は前日静岡に宿を取りました。早朝に静岡のホテルを出てからの旅程を以下に記します。旅程は
  2006年・井川線あぷとラインの旅(Ikawa Abt-line, Oi-river Railway, 2006)

からコピーして置きます。「井川線あぷとライン」については是非▲上▲をお読み下さい。

  8月30日(水)      <黒字:JR  青字:JR以外
   静岡のホテル → 静岡(06:22) → 金谷(06:54)
   大鐵金谷(07:36) → 千頭(08:49) 千頭(09:00) →<アプト>→ 井川(10:45)
   井川(11:03) →<アプト>→ 千頭(12:45) 「山菜蕎麦」を立ち食い
                        SL資料館や千頭駅構内を見学
                  千頭(15:23) →<SL急行>→ 大鐵金谷(16:56)

   金谷(17:12) → 東京へ          ●宿泊(浅草のホテル)


 何と馬鹿馬鹿しい旅程だと思うでしょうが全くその通りです。しかし、この馬鹿馬鹿しさが実に私らしくて好いですね、アッハッハッハ!!

 左の写真は井川線あぷとラインの往路で奥泉駅に着く手前で撮影したもので、カメラを持って自分で自分を撮りました(9:16頃)。「2006年・井川線あぷとラインの旅」では写真では無く自画像風にアレンジしました。

 <06.08.30:大井川鐵道千頭駅で>本線の復路はSLに乗って帰りました。大鐵本線のSLに乗車する為には乗車券の他に、SL急行券(=座席指定、560円)が必要で、乗ったのは千頭15時23分発のSL急行「かわね路号」です。大井川鐵道のSLについては▼下▼をご覧下さい。
  2006年・大井川SL道中記(Go by SL, Oi-river Railway, 2006)

                     SL列車の走る向き(バック牽引)─→

 千頭駅で出発間際にC11190型蒸気機関車に乗った私の写真を通り掛かった人に撮って貰いました(右の写真、15:00頃)。良い記念です。バック牽引ですので、列車は右に向かって走ります
 私は直ぐに席に戻りました。するとSL列車は「ブウォーッ」と大きく汽笛を鳴らし、ゆっくり動き始めました。ホームで思い思いに写真を撮っていた10数人のSLマニアたちは、今度は一斉にこちらを向いて写真を撮り始めました。私たちのSLは又「ブウォーッ」と汽笛を鳴らしホームを後にしました。
 それではチャオ(ciao)(※12)!!

 <06.11.09:大井川鐵道千頭駅から寸又峡へ>この日は前日から紅葉を求めて日本の秘境・寸又峡を訪ねました、大井川鐵道の千頭駅からバスが出て居ます。寸又峡温泉が在る所です。昨日のバスで来る時、峡谷の狭い道路の急カーブで後輪のカバーをガードレールに引っ掛けて進退出来なく成った時は怖かったですね(15:24頃)、でも”秘境感”が有り良かったですね、アッハッハ!
 ここはバスが1台しか通行出来ない箇所が在り、バスの車掌がお互い無線機を持ち自分のバスがここを通れるかどうかお互い確認して居ます。昨日私は大井川鐵道井川線の奥泉駅の民宿に泊まったので都合4回バスに乗りました。即ち、乗った寸又峡線バス時刻表は以下の通りです。

          千頭駅    奥泉駅前    寸又峡温泉
  11月8日  14:50 → 15:00 → 15:30   寸又峡散策
             (宿泊)17:20 ← 16:50
  11月9日           7:55 →  8:25   寸又峡散策
         11:10 ← 11:00 ← 10:30


 左の写真は「夢の吊橋」をこれから渡ろうとした所で、腕を伸ばして自分で自分を撮りました(9:30頃)。右が紅葉です。
 寸又峡名物は「はちのこめし」で、これ漢字で書くと「蜂の子飯」です。私は子供の頃、アシナガバチ(脚長蜂)を食い、中国雲南省ではスズメバチ(雀蜂)の「蜂の子」を食いました。スズメバチなど成虫も混じって居ましたゾ!
 貴方(貴女)も「日本の虫食文化」に親しんで下さい、アッハッハ!!

 この後、私は「鹿刺」を食いました。冷凍肉ですから大阪で食うのと何ら変わりは有りませんでした。この寸又峡で大井川鐵道の旅も終わります。
 おっと、話が少々こってりし過ぎましたかな、でも”秘境感”有ったでしょ。大井川鐵道は川根茶の茶畑の間を縫って走って居ます。是非、お口直しに「川根茶」を一杯飲んで行って下さい!

                (+_@;)
                ┌U_

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 ■2007年

  ◆日本にて - 大阪/東京日本橋/太地で鯨を食う/佐和山城

 <07.02.15:大阪市>左は自宅のミッキーマウスの人形です。私はミッキーマウスが好きですが、まぁ、これはご愛嬌です。

 <07.02.17:大阪市>右は自宅で私自身を自分で撮りました。鍔(つば)の付いた帽子を友人から貰ったので、どんな感じかちょっと写真に撮ってみました。

 <07.03.19:東京都中央区日本橋1-1>この日の一番の目的は秋葉原のメイド喫茶視察→メイド喫茶は後で又登場します)に行く事ですが、その前に「日本橋1-1」に寄って写真を撮って貰いました。旅の同行者は太田照政さんです。この人は私が2013年3月沖縄に永住する際に言葉では言い表せない程お世話に為った人です。

 日本橋が初めて架けられたのは徳川家康が征夷大将軍に任命され幕府を開いた年、即ち慶長8(1603)年と伝えられて居ます。歌川広重作「東海道五十三次」の第1景の絵が日本橋です。そして「日本橋1-1」に着きましたので記念撮影(11:20頃)。「日本橋一丁目1」の標識が見えますね。標識下部には

   Chuo-ku
  Nihonbashi
   1-chome

と在ります。
 


 <07.04.06:和歌山県太地町>この日はを食いに遣って来ました。左は「鯨の町」の梶取崎灯台です。

 そして皆さん、右の灯台の天辺(てっぺん)の拡大を見て下さい。風車に東西南北と印(しる)した風向計の天辺がです。中々芸が細かいですね。
 鯨のフルコースはこちら、又、鯨食文化についてはこちらをご覧下さい。

 <07.04.08:滋賀県佐和山城>これは「日本古城友の会」(尾原隆男会長)の例会で近江佐和山城跡を訪ねた時の写真です。因みに私は「日本古城友の会」の”付録会員”です。何故かと言うと私の会員番号は「ふ-6」(=フロク)だからです、アッハッハッハ!

 私の後ろの石柱に「佐和山城趾」と陰刻されて居ます。佐和山城は石田三成の城でしたが、三成は西軍の大将でしたが天下分け目の関ヶ原で破れ処刑されました。言わば「負け組み」なので城跡も大した物は残って居ません。江戸期の井伊家の彦根城の方が名が通って居ます。
 しかし私の様な小数派は佐和山城に思い入れが有ります。石田三成についてや、三成が忍城を水攻めして失敗した事など、興味有る話が有ります。この作戦は秀吉が備中高松城などの水攻め成功に気を良くして強引に「水攻め」と決めたので、敗因は寧ろ秀吉に有ると考えます。
 私はここでもカエルの帽子を被って居ますね。
 

  ◆ドイツにて

 <07.04.30:ドイツのミュンヘン>ドイツと言ったらビールでしょう。で私が飲んで居るのは黒ビールと普通のビールとのハーフです。当ては鴨肉のハーフ、つまり鴨1羽を真ん中で2等分したのを焼いて食うんです。ドイツは鴨が安い、日本円で1000円位/半羽。又、ボリュームが有る、これ見て下さい(奥の方)。私は旅の途中で色々摘み食いしたので鴨半羽を食い切れなかったですね。手前は私の友人ので、これは豚の照り焼きです。
 それとジャガ芋、やっぱりこれですよ、ジャガ芋を食って初めてドイツに居るという実感が湧きます。
 ビールの国ドイツでは会社の社員食堂にビールが有るのです。昼にビール飲むの、OKです。要は自己責任なのです。昼ビールを飲んで午後の仕事が出来なく成る人が飲むと自ずと信用を無くす訳です。フランスやドイツは徹底的に個人主義だ、という事をお忘れなきように!
 私はフランクフルトからドイツに入りましたが、早朝のフランクフルト空港から市内に行く列車の中でビール瓶片手の乗客に出会(でくわ)しました。私も早朝バー -早朝6:00~8:00頃に遣っているバー(←或いは深夜バーが早朝に遣っているのか?)が在ります- に入りビールを飲みました、旨い!!

 <07.05.01:ドイツのミュンヘン>この日はバイロイト(※13)に行くので、ミュンヘンから列車(右の写真、8:20頃)に乗りました。このポーズ、”ドイツを股に掛ける”のパロディーなんですが。
 列車は日本のJRと略同じで各停の駅は無人駅です。社内販売が有り車掌が商品のワゴンを押して来ます。それでビール -ドイツでは缶よりも瓶の方が主流- を注文すると車掌は代金と引き換えにビールの瓶を置いて行きました。さて飲もうと思ったら栓抜きが無い、じゃあ灰皿は付いてないかと見たら日本のJRと同じで禁煙です(←昔の人は覚えて居る筈ですが灰皿が栓抜きの代わりに成ったのです!)。それで斜向かいに同じくビールを買ったドイツ人を見たら”マイ栓抜き”を持って居るではありませんか!!
 この時は車掌が来るのを待って開けて貰いました、車掌は笑って居ましたね。私はバイロイトで早速”マイ栓抜き”を買いました。この時買った”マイ栓抜き”は今も持って居ます、ドイツ旅行の思い出の品です。
 ドイツの鉄道システムが日本のJRに似ていると書きましたが、1つだけ決定的に異なる点が有ります。それはドイツでは各車輌に必ず自転車置き場が有る事です。即ちドイツは非常にエコ志向(=エコロジー志向)で大学生の乗客など可なりの率で車内に自転車を持ち込んで乗ります、それも折り畳まずその儘です。
 エコ志向と言えば市電(トラム)(※7)もそうですね。フランクフルト、ミュンヘン、ドレスデンなど街の中心部を市電が走り、又市電の乗客が多いのが特徴です。
 序でに、もう一つ。ミュンヘンなど所謂ストリート・ミュージシャンを良く見掛けますが、8割がクラシック2割がジャズです、素晴らしいですね。私は観客をワクワクさせるPOPSはビートルズの解散から10年、つまり1980年で終わって居ると思って居ます。偽善的なPOPSを聴いても面白く無い!!


 <07.05.01:ドイツのバイロイト>バイロイトには12:30に着きました。バイロイト(※13)と言えばワーグナー(Richard Wagner)(※13-1)です。小さな街のバイロイトがこれ程迄に外国人を引き付けているのは偏(ひとえ)にバイロイト祝祭劇場(※13-2)で催されるワーグナーの歌劇や楽劇です。
 斯く言う私は滅茶滅茶ワグネリアン(※13-3)でワーグナーの歌劇・楽劇は全部「話の筋」を知ってますし、その中の幾つかは旋律を鼻歌で歌えます。まぁ全然自慢に成りませんが。
 その私が右の写真で立っている所がバイロイト祝祭劇場(←ワーグナー自身の設計)の前なのです(15:00頃)。

 左がバイロイト祝祭劇場の全貌です。建物中央下部に柱が4本見えますね、そこに私が立っていたのです。
 今はシーズンオフですが夏のシーズンに成ると世界中から紳士淑女が集まります。
 祝祭劇場は緩い真っ直ぐな坂道を登った所に在りバイロイト駅からも建物の一部が見えます。
 良い思い出に成りました!

 <07.05.04:ドイツのドレスデン>右下が有名なドレスデン国立歌劇場(←一番馴染みのある呼び方)の回廊に立つ私です。しかし東西ドイツが統一した1990年以降は正式にはザクセン州立歌劇場です。又、設計者ゴットフリート・ゼンパー(Gottfried Semper)の姓を採ってゼンパーオーパー(Semper Oper)とも言います、オーパー(Oper)はオペラ劇場という意味です。1841年に建てられました。天井画や壁の彫刻そしてシャンデリアは王宮文化の粋(すい)と言えます。

 左下が観客席で、2階席・3階席が丸く取り囲んで居ます、日本だと大抵長方形ですが。それを丸く取り囲んで居るのが右の回廊という構造です。

 ワーグナーR.シュトラウスなどが数々のオペラをここで初演して居る、大変由緒有る歌劇場です。又、ここを本拠にしている管弦楽団シュターツカペレ・ドレスデン(Staatskapelle Dresden) -統一前はドレスデン国立歌劇場管弦楽団と呼ばれた- は世界的に有名です。

 バロック時代の様式を残すドレスデンは国立歌劇場の近くにツヴィンガー宮殿や、第二次世界大戦で一部が破壊されましたがドレスデン王宮が在ります。

 そして左が国立歌劇場の近く(←市電の通りを渡る)のカフェで黒ビールを飲む私です。勿論、コーヒーも在りますよ、ここはカフェですから。でもここはドイツなのです、お解りですね!!
 因みに、ドイツでは1516年に施行された純正令が今でも守られており、ドイツビールにはホップモルト(麦芽)だけしか使っては為らないのです。純正令が発布された4月23日は今では「ドイツビールの日」に成って居ます。
 日本のビールはどれも不純物が混じり失格です。私は「日本のビールなんて屁みたいなもの」という事が良~く解りました!!

 今、日本ではメイド喫茶(直訳:女中喫茶なる物が流行って居ますが、ドイツのカフェは殆どがメイド喫茶のコスチューム(←それを私はメイド・コスチュームと呼びます、日本語で「女中衣装」)です。
 写真の彼女も肩の膨らんだブラウスと緑色のメイド・コスチュームを着て居ます。

 この直ぐ目の前の通りは市電(トラム)(右の写真)が通って居て心が和(なご)みます。2005年の中国大連の市電(前出)と比べて見て下さい。
 私は国籍不明人ですが、ドレスデンは誰とでも話が出来そうで私の様な人間は心が落ち着きます。
 それでは乾杯!
            (+_@;)
             U┐

 あ~ぁ、旨い!!
 昼間から飲む純正ビールは格別です!

  ◆中国の旅順にて

 <07.06.14:中国の旅順>


 日本側では二〇三高地(※10-1)と呼びました。








  ◆中国の大連にて

 <07.06.17:中国の大連>ここは大連の星海公園の海水浴場で、ご覧の通り砂浜も有ります。

 大連市の西側に在り市電で20分位で来ることが出来ます、料金は10元。私は更衣室など使わずに、ちょっと物陰で着替えて仕舞いました。その方が早いし金も掛からない。
 私が今(時刻は15:08頃)何をしてるかと言えば、もう海水浴は終わり海パン(海水パンツ)を乾かしている所です。帰りは海パンの上からズボンを穿いて仕舞えば良いのです、どうせこの後はを飲むだけです。

 私は大連が大変好きです、もう3、4回来て居ます。
 私は生まれ故郷の横浜を棄てました。私が子供の頃の横浜は、やはり30分位市電に乗って磯子とか屏風ヶ浦に行き遠浅の海岸で海水浴をし乍ら潮干狩りが出来たのです。しかし私が高校生の頃、横浜市は京浜工業地帯の造成の為に磯子・屏風ヶ浦を埋め立てて仕舞い、もう横浜には「浜」が無いのです!
 私は大連が大変好きだと言いましたが、それは市電(トラム)で行ける海が有るからです。故郷を失った私には大連が第2の故郷の様な感じがするのです。2005年に海水浴したのが大連市の東側の市電の終点です、但しこちらには砂浜は有りません。

    西側   大連市  東側
        __●_
     市電/    \市電(トラム)
      /      \
     ○        ○
    星海公園の    海之的広場
     海水浴場    (海で勝手に海水浴)

 でも大連は冬は-5℃位に成ります。

  ◆高句麗族の遺跡を訪ねて

 <07.07.26:中国の集安>私は07年7月25日~7月31日高句麗(※16)の古代山城遺跡と壁画古墳を見て来ました。下の2枚は元々1枚の写真から採っていて吉林省集安市(※16-1)で撮ったものです。左下の写真で、私の背後は鴨緑江、対岸は北朝鮮(正式名は朝鮮民主主義人民共和国)です。私も国境が非常に好きですが中国人(=漢族)は更に輪を掛けて国境”異常”に好きで、このビアガーデンもそういう中国人で賑わって居ました、ここの様に北朝鮮国境で飲むビールは乙(おつ)なものです。ベトナムとの国境もビアガーデンが賑わって居ましたね。

 ところで、ここのビールは右の写真の様にハルビン(哈爾浜)ビールです。英語でも

  哈爾浜啤酒
  HARBIN BEER
  Since 1900


とテーブルクロスに書いて在ります。
 それでは乾杯!、乾杯は何度遣っても好いですね。

                (+_@;)
                 U┐

 <07.07.27:中国の五女山城>この日の午後に遼寧省桓仁満族自治県五女山城(左下の写真)に行って、五女山下のコテージに泊まりました。一緒に写って居るのは「関西城郭研究会」(略称:関城研)、「日本古城友の会」の会員の河合延明氏です。

 写真はタクシーの運ちゃんに撮って貰いました。この日は時間が遅く成り石垣を少し見ただけで城跡を出なければ為らなかったのですが、私が係員の静止を振り切って急な石段を降り、そしてこの石垣を見付けたのです。タクシーの運ちゃんは我々の帰還が遅いので心配してここ迄見に来てくれました。私は係員が追って来たと思い警戒しました。運ちゃん、謝謝、謝謝!!
 背後の石垣を見て下さい。「城好き」には”石垣屋”とか”土塁屋”とかの少数派が居るのですが私も歴(れっき)とした”石垣屋”という変態趣味の一人です。
 その石垣を語る時、高句麗族の石垣は欠かせないのです。ここでは石垣に深入りはしませんが日本の古代山城を語る場合にも高句麗の石垣は重要だ、と思って居ます。そう思って居るからこそ高句麗遺跡を態々(わざわざ)見に来たのです。日本の古代山城に深入りしたい人は
  古代山城とは?(What is the ANCIENT MOUNTAIN-CASTLE in Japan ?)

を覗いてみて下さい。
 因みに五女山城は2004年に世界文化遺産に登録されました、「高句麗前期の都城と古墳」が登録理由です。高句麗族は五女山に発し、集安、平壌と首都を移して来ました。それ故、五女山は高句麗族の聖地なのです。

 <07.07.30:中国遼陽市の燕州城>日付は次の虎山長城と逆転しますが、30日に遼陽市東太子河の燕州城(左下の写真)へ行きました。

 右が「燕州城山城」の石碑「省級文物保護単位」と在ります。

 <07.07.28:中国丹東市の虎山長城>28日は丹東市(※16-2)の北約20kmの寛甸満族自治県虎山長城(←万里の長城の一番東端)を見に行きました(△4のp107)。建造は1469(成化5)年に始まったとされ、目的は勿論「東夷防衛」ですが守り切れず後から興った後金(=) -女真族とか満州族とか靺鞨族とか言われる、中国では満族- に因って破棄されましたが1992年から中国政府に依り復元されて居ます。
 南は鴨緑江が流れ、その向こうが北朝鮮です。虎山長城は標高146mなので北朝鮮が良く見渡せます国境の好きな中国人(漢族)は当然の事乍ら虎山長城が大好きです!

   望楼①          望楼②
    ↓            ↓


 望楼①→


 望楼②→

 この長城の近くに在る丹東市寛甸満族自治県の「一歩跨」北朝鮮との国境を成す鴨緑江の川幅が20m位しか無い所遊覧船(=50元)で見て、「一歩跨」で北朝鮮の煙草を買いました(←女性の民族衣装チマ・チョゴリ(※19、※19-1)も売って居ました)。「一歩跨」周辺は鉄条網が張り巡らされていて、国境破り対策ですが”見え見え”ですね。この日は丹東市内に泊まりました。
 右が「一歩跨」の石碑「中朝遣境」と在ります(←向こう側が北朝鮮)。
 

  ◆余呉湖のヒグラシとセミヤドリガ

 <07.08.18:滋賀県余呉駅>JR北陸線の余呉駅単線で30分に1本位しか列車は来ません、御負けに無人駅です。私の後ろ方向が近江塩津駅です。
 そこで私はレールの上で休むことにし、この写真(撮影時刻は14:10頃)は他の乗客に撮って貰いました。乗客も2、3人です。この日の私は余呉湖を一周し大いに満足して私はもう帰る所です。

 余呉湖はちょっと山地に入るとヒグラシ(蜩) -夕方「カナカナ」と綺麗な声で鳴く蝉です- が居ます。そして平地に居たヒグラシにはセミヤドリガ(蝉寄生蛾)が寄生しているのを発見しました。大変珍しい物なのでご覧に入れましょう、桜の木に止まって居ました(略実物大、撮影時刻は13:20頃)。
 白く見えるのが寄生虫のセミヤドリガで、見た所未だ白い蛾の幼虫3~4匹寄生してる様です。セミヤドリガはヒグラシに寄生しヒグラシの体液を吸って生き続けます。勿論ヒグラシも体液を吸われ乍ら生き続けます。それが寄生(※21)という事です。
 セミヤドリガは殆どヒグラシの♀に寄生します、不思議ですね!

 私は生物社会の生存競争の変則な一例を見た思いがします。尚、生存競争に関しては拙著(△2のp162~175)で論じて居ます。又、私は1998年頃からデジカメを買い”昆虫撮集”(←これは私の造語です)を遣って居ます、もう虫を殺す昆虫採集 -昆虫を取って殺して展翅して標本を作る事- は止めました。{拙著△2の紹介は2014年12月10日に追加}

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 ■2008年

  ◆広州にて「紅衛兵の帽子」

 <08.03.24:中国の広州>05年8月29日瀋陽で買った「紅衛兵の帽子」は今迄中国で写真を撮って無かったので今回撮ろうと思って日本から態々(わざわざ)持って来たのですが、何時もその事を忘れて仕舞うのです。それに流石に今時「紅衛兵の帽子」は気恥ずかしいですが、もう明後日は広州から日本へ帰る日なので帽子を持って来ました。
 雲南の旅からの帰り、広州の街中で松岡さんに撮って貰いました(19:15頃)。瀋陽で買った帽子(←前の写真は日本で撮影)を3年後に広州で撮ったという訳です。

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 ■2009年

  ◆遂に北京で蠍(さそり)を食う

 <09.02.01:中国の北京>2009年2月1日、貴州省からの帰りに北京の繁華街の屋台で遂に蠍(サソリ)を食いました、見て下さい、この顔を!

 5元(=約75円)でした。1串に4匹ついていたので蠍1匹=1.25元(=約20円)という事に成ります。醤油味が付いて居ました。まぁ、海老だと思って食ってます!
 ここは北京市の滅茶中心街で地元の人のみ為らず、青い目の外人や日本人も来て居る所です。
 右が蠍の串刺しで、未だ焼く前です。
 他にもイモリ(蠑螈)とかイナゴ(蝗)とか蝉の幼虫などが在りました。詳しくは
  中国のヘビーなお食事-”食狗蛇蠍的!”(Chinese heavy meal)

をご覧下さい。

  ◆中国最北端の漠河にて - 北緯53度

 <09.09.06:中国の漠河>09年9月5~6日は中国最北端の黒竜江省漠河県に行きました。運が良ければオーロラ(※23)が見えるとか。日本の関西では未だ残暑厳しい季節ですが、こちらは昼は12~15℃位に成りますが夜は3~0℃位です。昨日の夜は北極村のバンガローに泊まりましたがオンドル(※24)で暖房してました。漠河については掲示板に
  エルニーニョの打っ棄り的相撲論議(ElNino's throw away Sumo discussion)

に少しだけ書いて居ます。


             ↑
          上がロシア文字
 ロシア国境に行ったのは9月6日で直ぐ北側が黒竜江(=アムール川、※25)でその北側はロシアです。左上の写真で、私が立って居る所が中国最北端のモニュメントの一つです。私が着ているのが救命胴衣ですが今朝ここに来る前に国境をモーターボートで遊覧 -中国人は国境が大好き、実は私も大好き!- しました。右上の写真が黒竜江とロシア国境とロシアの警備船です、ロシアの役人の姿も見えますね。警備船のロシア文字を拡大したのが、その下の写真です。”Б”とか”Г”とか”Я”とかの文字が確認出来ますね。
 ところでタクシーの運ちゃんは「冬はこの川は凍り自動車で渡れるんだ」と言い、「おいおい、この川は国境だぞ???」と言うと「冬は川全体が国境に成るんだ」と答えました。つまり、冬は一般人や外国人がこの川に近付く事は出来無く成ります(△5のp30~31)。

    ◆◆漠河でルリボシヤンマを撮る - アカネ系も居た

 <09.09.06:中国の漠河のルリボシヤンマ>漠河でルリボシヤンマの撮影に成功したので”昆虫屋”の私としてはそれを載せる事をお許し願いたい。私はその事を掲示板に書いて居ます。これは掲示板の「おちゃらけ議論」には定着させて無いので、ここで紹介しましょう。

中国最北端の地でルリボシヤンマを撮影! 投稿者:エルニーニョ深沢 投稿日:(No.79)2009年10月 1日(木)12時08分3秒
<板-2>

    <...前半は上と同じ様な内容なので省略...>

 翌6日(日)は、晴天下の湿地には赤トンボ属 -アキアカネミヤマアカネムツアカネなど- が居ましたが、特に北方系のルリボシヤンマを撮影出来たのには感動しました。蝶ではキベリタテハエルタテハも居ました。




 という事で、右がルリボシヤンマです(♂)、略実物大。私はルリボシヤンマを見たのも、この時が初めてです。日本では関東以北の山間地の抽水植物の在る湿地や北海道の大沼など寒い地方に居ます。
 本当に美しい!!、言葉は不要です。


 私は漠河とルリボシヤンマがこうして1セットで記憶されました。
 掲示板に書いた様に、アカネ系トンボも主だったアカネが全て居ました。

  ◆北京市鼓楼大街の旅館にて

 <09.09.23:中国の北京市でジンバブエ人と会う>この日は呼和浩特(フフホト)から飛行機で北京に着き、鼓楼大街の波菲特酒店という旅館(←ホテルと言うよりも)に泊まりましたが、そこでジンバブエ(※26)から来ている3人の女性に会いました、この写真は旅館の従業員に撮って貰いました(左下の写真)。

 彼女たちは英語を喋り(←でも相当訛りが有る)、彼女たちはとても明るく気さくです。私は靴を穿いてますが彼女たちは裸足も居ます。
 彼女たちの足元にはキリンの模型(右の拡大写真)が在りますが、彼女たちはこの様な模型のおもちゃを売り生活の足しにしている様です。

 しかし、この鼓楼大街は北京の庶民の生活が垣間見えとても気に入りました。日本人と一人も会わなかったのが更に良し!

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 ■2010年

  ◆信楽駅 - 「信楽焼の狸」の聖地を訪ねる

 <10.09.09:信楽高原鐵道の信楽駅>この日は滋賀県のローカル線・JR草津線に乗り信楽甲賀(←甲賀忍者の里)を散策しました。信楽には貴生川駅から出ている三セク線の信楽高原鐵道に乗りました。
 尚、1991年JR西日本から信楽線に乗り入れの快速列車とJR信楽線とが正面衝突した事故が大きく報道されましたが、私は93年秋に仕事を辞め -第3の人生の開始(△2のp102)- て94年春にJR信楽線に乗って信楽に来ていますので、信楽訪問は2度目です。{拙著△2の紹介は2014年12月10日に追加}

 信楽と言えば信楽焼(※31)が有名で、信楽焼と言えば「♪たん、たん、狸のきん●まは、風も無いのにブラブラ♪」という「信楽焼の狸」の歌を子供の頃から歌ってましたね。そうです、ここは「信楽焼の狸」の聖地なのです。全国の「信楽焼の狸」はここで生まれて居るのです、建前は。今では各地で「信楽焼の狸」が生まれて居るかも知れません。
 右はその狸の家族に囲まれて信楽駅ホームで撮った写真です。
 私が子供の頃に高さ50cm~1m位の狸の置物が私の家や近所の家に在りました、何かの縁起物でしょう。

 信楽や信楽焼の狸については▼下▼をお読み下さい。
  信楽焼の狸(Raccoon dog of Shigaraki-yaki)

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 ■2011年

  ◆シタールの生演奏

 <11.09.07:大阪市>私が主宰する第81回の【ブラボー、クラシック音楽!】ではシタール(※33)のライヴ演奏をして貰いました(於「ニューサントリー5」、△2-1のp32)。{拙著△2-1の紹介は2014年8月10日に追加}
 奏者は田中峰彦さんです(右下)。インドの民族楽器シタールの生演奏は中々珍しいので、この日は司会の私もカメラをぶら下げ大忙しで、左下の写真は演奏が終わって色々歓談している所です(左が拡大)。演奏曲目は古典の『ラグパティ』『ラーガ・チャンドラ・コーシキ』、ビートルズの『ノルウェーの森』『エリナ・リグビー』、田中峰彦作曲の『青海波』『源流』などでした。ビートルズでは故ジョージ・ハリスンがシタールに嵌まって居ましたね。
 実は私はシタールの音が大好きで色々CDも持って居ます。峰彦さんの演奏会には去年の12月10日に出掛け、既に持っている『ミネラル・ファンタジー』というCDにサインして貰いました。

 この会には木村耶須子さんが居りますが、木村さんが峰彦さんの伯母様に当たる事から実現しました。この日は木村さんも朗読や折紙を披露して戴きました。
 又、私のパーリャンの仲間も来てくれました。尚、この写真は私と事務所 -当時は(有)オメガシステム- を共同使用している産業情報新聞社の三浦さんに撮って貰いました。

  ◆私は脳出血 - 2011年12月2日21時15分

 <11.12.02:大阪市>私は2011年12月2日(金)21時15分に自宅に於いて脳出血で倒れて仕舞い、以後3ヶ月の入院と1年間のリハビリをする事に成りました。

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 ■2012年

 2012年は脳出血のリハビリの為に費やし俗世間と没交渉です。後で判った事ですが2012年に友人とか知人が亡くなって居ました。私は”亡くなり”ませんゾ、そう簡単には、ウィッヒッヒッヒ!!

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 ■2013年

  ◆大阪で最後の「ブラボー、クラシック音楽!」

 <13.03.06:大阪市>【ブラボー、クラシック音楽!】元々第84回(2011年12月7日(水))を最終回に予定して居たのですが、主宰者である私が最終回の直前に脳出血に倒れて仕舞い、皆様に多大な迷惑をお掛けして誠に申し訳有りませんでした。
 その最終回が2013年3月6日(水)の13~17時に淀屋橋のレストラン・モリシタ「音楽サロンの会」の会場(→後出))で行われる事に成りました。テーマも同じ<ベートーヴェンが最後に希求した単純なメロディー>です、皆さんに感謝です!!

 後列の右から藤澤、太田、吉井、橋本さん、中段が右から古田、衣川(旧姓:楠瀬)、奥村、中島、坂元さん、最前列で座って居るのが右から森岡、そして私、和田さんです。
 この会の幹事である上野満里子さんは御主人の介護で欠席です。この写真は衣川さんのカメラでお店に人に撮って貰いました。
 この後、会場を移し壮行会(=お別れ会)を開いて戴き私は感謝感激です。2004年10月1日から続いた【ブラボー、クラシック音楽!】は、この日の最終回(=第84回)を以て無事終了しました。私は2013年3月18日から沖縄那覇市に永住しましたので、大阪最後の集いに、皆さん本当にどうも有難う御座居ました。

                m(_~_)m。

 尚、この日のテーマについては下記の画面で「感謝の言葉と、ベートーヴェン最後の仕事」
  クラシック音楽の曲目解説目次(Explanation menu of CLASSIC MUSIC)

から選べば、インターネットで見ることが出来ます。又、この日の【ブラボー、クラシック音楽!】の模様は拙著に載って居ます(△2-1のp332~333)。更に尚、大阪では引き続いて「音楽サロンの会」を坂元女史・古田さん・太田さんが中心に成り、今も続行して居ります!!{拙著△2-1の紹介は2014年8月10日に追加}

  ◆沖縄糸満にて

 <13.07.22:沖縄糸満市>以上の様な訳で、私はウチナーンチュ(沖縄の人)に成り、沖縄に住んで4ヶ月目位に成りました。自転車 -大阪ではチャリンコと言いますが沖縄では言いません- も大阪から持って来ましたよ。

 好天のこの日、私は家から自転車で糸満市を経巡りました。途中色々寄り道をしたので3時間位掛かりましたが、寄り道しなければ1時間30~45分位で来れます。
 ここは「美々ビーチいとまん」の展望台(糸満市市役所の西側)です。私が座っている左脇に青い水平の部分が見えますが、これはなんです。海はとても綺麗です、大阪の人は想像出来ないでしょうね。被写体を明るくする為に海の部分は単なる青に成って仕舞いましたが。この写真は10秒タイマーを掛けて1人で撮りました。
 このクソ暑い日に展望台をウロチョロしている人は余り居ませんでした。
 糸満は漁師の町です。

 沖縄に来て感じる事は、海が綺麗な事です。那覇市は多少汚れて居ますが、それでも大阪とは比べ物に成らない程です。大阪の海、あれは便所です、アッハッハッハ!

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 ■2014年

 <14.11.27:那覇市泊港>11月25日~12月2日迄、中国雲南省孟連県パーリャン村で一緒に小学校を建てたボランティア仲間の友人が沖縄を訪ねてくれました。パーリャンの話は本に成って居ます、拙著(△2-2)を参照して下さい。

 私は別に釣り好きでは無いですが、友人が私の釣り棹迄用意して来たので、友人に付き合って遣ったまでの事ですが、友人は私が釣りが好きだと勘違いして居る様です。
 しかし、この日は私が真鯵を2匹釣り、これもパーリャンの仲間の店「鯵のタタキ」”らしく”料理して貰い、とても旨かったですね。これを肴(さかな)に飲む泡盛は最高でした!
 左の写真で私の顔が少し赤いのは -未だ飲んで無いゾ!- 日に焼けた為です。11月後半も押し詰まった日に私はTシャツ1枚で日に焼ける、これが沖縄です!!

 <14.11.28:糸満市ひめゆりの塔>そこで友人を紹介しましょう。

 明石から約1週間、沖縄に来てくれました、又川(またかわ)さんです。清音、つまり濁らないそうです。私もこの時初めて知りました。
 友人は長い間、沖縄に対し特別な思いが有り、沖縄に素直に向き合う事が出来なかったと言ってました。正にその象徴とも言える「ひめゆりの塔」(※35)の前に我々は立って居ます。友人はどんな感想を抱いたのでしょうか...。
 又川氏はその後、2015年、2016年も来沖して居ます。この両年には渡嘉敷島(※39)に渡り、又川氏の釣りは益々エスカレートして居ます!
 尚、又川氏は拙著の「友の言葉」に手記が載って居ます(△2-2のp78)。又、先程のパーリャンの仲間の店の女主人も拙著にパーリャン発起人の追悼文を載せて居ます(△2-3のp20~27)。

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 ■結び - ワテは無駄口が嫌いですねん

 エルニーニョ氏は忙しいから「結び」の章は「お前、書いて置いてくれ。」と言うので、ワテが代わりに「結びの言葉」を書く破目に成りました。しかしワテは文章を書くのは一番苦手中の苦手で、その上エルニーニョ氏の様に無駄口を叩くのは、どうも性(しょう)に合わんのです。そやから、すぐ結論に入りましょう。

 どうでっか?、中々オモロかったでしょう。
 しかし、エルニーニョ氏は相当変わりモンでっせ。温泉で桶でアソコを隠してる写真とか、犬(狗)肉ラーメンを食べている写真や、イスラム帽子や「紅衛兵の帽子」を被っている写真とか、露出趣味ケッタイ趣味が有りまんな、この人は!
 えっ、ワテですか?、ワテは出版者 蛙ブックス】のオーナーでっせ、宜しく!

【出版者 蛙ブックス】のオーナー。

 お帰りは、気を付けて。ほな、さいなら、さいなら、さいなら!!!
    {このページ全体は2017年7月16日に文章や写真をチェックし最終更新しました。}

-- 完 --

【脚注】








※3:西域(せいいき/さいいき、Western Territory of Chinese)とは、中国の西方諸国を中国人が呼んだ汎称。広義にはペルシャ/小アジア/シリア/エジプト方面まで含む。狭義にはタリム盆地(東トルキスタン) -新疆の天山南/北路地方- を言い、漢代にはオアシスにイラン系諸族が分散・定住して小都市国家が分立、西域三十六国と総称され、唐代に掛けて東西交通の要衝。<出典:一部「学研新世紀ビジュアル百科辞典」より>
※3-1:ウルムチ(烏魯木斉、Urumchi)は、中国新疆ウイグル自治区の区都。天山山脈の中部北麓に在る要衝。1763年築城して迪化(てきか)と命名。1953年現名に改称。嘗て隊商貿易の中心地。解放後は鉄鋼/機械/化学などの工業が発達。1991年カザフスタンと結ぶ鉄道が開通し、政治/経済/文化/交通の要地。人口128万(1995)。<出典:一部「学研新世紀ビジュアル百科辞典」より>
※3-2:崑崙山脈(こんろんさんみゃく)/クンルン山脈(―さんみゃく)は、中国西部のチベットと新疆ウイグル自治区の境を東西に走る大山系。全長約2500km。パミール高原から東へ伸びて、最高峰はコングール山7649m(→次がムズターグ山(慕士塔格山、ムズターグアタ)の7546m)。年代を経た褶曲山脈で、万年雪を頂く峰や氷河が多い。<出典:一部「学研新世紀ビジュアル百科辞典」より>









※x:天王山(てんのうざん)は、京都府乙訓(おとくに)郡大山崎町に在る山。標高270m。淀川を挟んで男山に対し、京都盆地の西の出入口を扼する形勝の地で、付近一帯史跡に富む。1582年(天正10)羽柴秀吉明智光秀とが山崎に戦った時、この山の占領を争い、秀吉の手に帰した。これが両軍の勝敗を決した事から、勝敗の分れ目「天王山」と言う。
※x-1:男山(おとこやま)とは、この場合、京都府南部、八幡市に在る山。標高143m。山頂に石清水八幡宮が在る。




※5:紅衛兵(こうえいへい、Red Guard)は、1966年8月、中国で毛沢東の支持の下に作られ、文化大革命初期に活動した青少年の組織。1969年以降は多くの紅衛兵が「下放」と称して農村や辺地に移動させられた。後、極左偏向と内部分裂で崩壊。<出典:一部「学研新世紀ビジュアル百科辞典」より>


※7:トラム(tram)は、市街[路面]電車。




※10:大連(だいれん/たいれん、Dalian)は、中国、遼寧省南部の港湾都市。遼東半島の末端に近く、大連湾の南西岸。1898年ロシアが租借してダルニー(ダーリニー)と命名、日露戦争後、日本の租借地。中華人民共和国成立後、旅順などを合せて旅大市と成る。1981年大連市と改称。外資進出による経済開発が著しい。人口254万7千(1995)。
※10-1:二〇三高地(にひゃくさんこうち)は、この場合、中国遼寧省大連市に在る標高203mの、旅順港を見下ろす山。日露戦争の激戦地。乃木大将が爾霊山(にれいさん)と命名。
 補足すると、この旅順の軍施設(=東鶏冠山北堡塁)は中国当局に依って外国人には禁止されて居ましたが、2009年3月20日外国人にも解放されました。又、ここには日本側が「二〇三高地」と呼んだ施設の跡も在ります。





※11:伊雑宮(いざわのみや/いぞうのみや)は、三重県志摩郡(今は志摩市)磯部町に在る、伊勢皇大神宮(内宮)別宮の一。祭神は皇大神御魂(=天照大神)他。古くは伊佐波登美命を祀っていたと言う。毎年6月24日に行われる御田植神事は有名。志摩国一の宮。遥宮(とおのみや)。磯部の宮。
※11-1:皇大神(こうたいじん/すめおおかみ)とは、最高の神の称。専ら天照大神に用い、熱田/賀茂その他の神にも稀に用いた。


※12:チャオ(ciao[伊])は、(挨拶語)「おはよう」「こんにちは」「さようなら」などを兼ねる語。親しい間柄で用いる。

※13:バイロイト(Bayreuth)は、ドイツ南東部、バイエルン州北東部の都市。ワーグナー晩年の居住地で1876年に建設した祝祭劇場が在り、毎年夏のバイロイト音楽祭は有名。
※13-1:ワーグナー(Richard Wagner)は、ドイツの作曲家(1813~1883)。旧来の歌劇に対し、音楽・詩歌・演劇などの総合を目指した楽劇を創始、又、バイロイト祝祭劇場を建設。歌劇「さまよえるオランダ人」「タンホイザー」「ローエングリン」、楽劇「トリスタンとイゾルデ」「ニュルンベルクのマイスタージンガー」「ニーベルングの指環」「パルジファル」など。
※13-2:バイロイト音楽祭(―おんがくさい、Bayreuther Festspiel[独])は、作曲家ワーグナーが彼の作品を上演する為に1876年に創設した音楽祭で、同年楽劇「ニーベルンゲンの指輪」が全曲初演されたのが最初。今は毎年7月25日~8月28日迄開催される。<出典:一部「学研新世紀ビジュアル百科辞典」より>
※13-3:ワグネリアン(Wagnerian)とは、ワーグナー風の作曲家にも言うが、特に熱烈なワーグナー崇拝者を言う。


※16::高句麗・高勾麗(こうくり、Koguryo)は、古代朝鮮の国名(0頃~668)。三国の一。紀元前後、ツングース系の朱蒙の建国と言う。中国東北地方の南東部から朝鮮北部に渡り、4~5世紀広開土王・長寿王の時に全盛。都は209年より集安の丸都城、427年以来平壌。唐の高宗に滅ぼされた。中国東北部に移された高句麗の遺民は後に渤海国を建てた。故都集安や平壌に壁画古墳を残し、遼寧省や集安に古代山城を残す。高麗(こま)。<出典:一部「学研新世紀ビジュアル百科辞典」より>
※16-1:集安(しゅうあん、チーアン、Jian)は、中国吉林省鴨緑江中流西岸の都市。人口29万。古代から朝鮮半島への交通上の要地で、広開土王碑を始め高句麗や渤海の遺跡が多い。1965年迄は輯安と書いた。<出典:「学研新世紀ビジュアル百科辞典」>
※16-2:丹東(たんとう、タントン、Dandong)は、中国遼寧省南東部の港湾都市。鴨緑江を挟んで朝鮮の新義州と相対し、瀋陽に向かう鉄道の基点。木材・大豆の集散地。旧称、安東。人口68万1千(1995)。





※19:チマ(裳、chima[朝鮮語])は、朝鮮の民族服。女性が用いる、スカートに似た胸から踝(くるぶし)迄の丈の裳(も)。上着のチョゴリと共に着用(=チマ・チョゴリ)する。
※19-1:チョゴリ(赤古里、chogori[朝鮮語])は、(原語はモンゴル語)朝鮮人の着る丈の短い上衣。筒袖、和服風打合せで、右胸の上に幅の広い長紐を付け、結んで余りを垂らす。男女とも同形





※21:寄生(きせい、parasitism)は、この場合、生物が栄養の大部分や暮し場所を他の生物体(宿主)に一方的に依存して生活すること。ウイルス/細菌類/菌類には他の動植物に寄生して病原体と成るものが多い。<出典:一部「学研新世紀ビジュアル百科辞典」より>


※23:オーロラ(aurora[ラ])は、(ローマ神話の曙の女神アウロラから)地球の南北極に近い地方でしばしば100km以上の高さの空中に現れる美しい薄光。色は緑色・青色・赤色などが在り、緑色のものが最も多い。形はカーテン状/弧状/帯状/縦縞状/放射状などが在る。太陽から飛来する荷電粒子(陽子/電子)が高層大気を構成する原子や分子と衝突して発光する。磁気嵐に付随することが多い。極光。<出典:一部「学研新世紀ビジュアル百科辞典」より>

※24:オンドル(―)は、(朝鮮語、「温突」が朝鮮語の漢字表記)朝鮮の暖房装置。床下に煙道を設け、これに燃焼空気 -炊事の余熱など- を通じて室内を温める。<出典:一部「学研新世紀ビジュアル百科辞典」より>

※25:黒竜江/黒龍江(こくりゅうこう、Heilong Jiang)は、中国東北地区の北境、シベリアの南東部を東流して、間宮海峡に注ぐ大河。南は内モンゴルのアルグン河、北はモンゴルのオノン河を源流とし、松花江/ウスリー江を合せ、長さ6237km。別称アムール川


※26:ジンバブエ(Zimbabwe)は、(バンツー語で「石の家」の意)アフリカの南部、イギリス連邦に属する共和国。元、南ローデシア。1980年独立。主産物は葉タバコなど農産物と各種鉱物資源。面積39万㎢。人口1152万(1995)。首都ハラレ(旧称ソールズベリ)。













※31:信楽焼(しがらきやき)は、信楽地方(滋賀県甲賀郡信楽町)から産出する陶器。鎌倉時代に常滑焼の影響のもとに開窯し、農具や雑器を製出。室町時代に及んで茶器を焼いて有名と成るが、今は再び雑器を造る。



※33:シタール(sitar[ヒンディ→英])は、北インドの古典音楽に用いる撥弦楽器。長く太い棹(長さ約90cm、幅約8cm)に7弦の演奏弦及び11~13本の共鳴弦を張り、16~22個の可動フレットに依って音高を得るリュート型の楽器。ペルシャのセタールから変化したと言う。



※35:ひめゆりの塔(ひめゆりのとう)は、第二次大戦末期、沖縄で看護要員として動員され悲劇的最期を遂げた県立第一高女・沖縄師範女子部の職員・生徒(ひめゆり部隊)を合祀した塔。その最期の地、沖縄県糸満市に建つ。1989年(平成1)には「ひめゆり平和祈念資料館」が建設された。<出典:一部「学研新世紀ビジュアル百科辞典」より>



※39:渡嘉敷島(とかしきじま)は、沖縄県の慶良間(けらま)列島に在る南北に細長い島。面積15.8㎡。渡嘉敷村の主島。大部分が山地で、低地はサトウキビ畑。国立沖縄青年の家・渡嘉敷青少年旅行村や阿波連(あはれん)ビーチなどの砂浜が在る。2014年3月5日慶良間諸島国立公園に指定された。<出典:「学研新世紀ビジュアル百科辞典」>




    (以上、出典は主に広辞苑です)

【参考文献】
△1:『歎異抄』(親鸞著、金子大栄校注、岩波文庫)。

△2:『日本の現状は「多老」だ ~偽善社会を抉る~』(エルニーニョ深沢著、蛙ブックス)。
△2-1:『ブラボー、クラシック音楽! ~活動履歴・曲目解説・オリジナルCD・折々の感想など~』(エルニーニョ深沢著、蛙ブックス)。
△2-2:『パーリャン小学校の思い出(第2版(改訂版)) ~中国雲南省の辺境地に小学校を作る~』(エルニーニョ深沢著、蛙ブックス)。
△2-3:『富樫穎先生追悼文集 -『パーリャン小学校の思い出』別冊-』(厉仁玉・武田淳・河合民子・西潟範子・エルニーニョ深沢著、蛙ブックス)。

△3:『漱石全集 第14巻(書簡集)』(夏目漱石著、岩波書店)。

△x:『神社参拝 ポケット図鑑』(岡田荘司監修、主婦の友社)。







△4:『地球の歩き方D04 大連と中国東北地方 2005~2006年版』(「地球の歩き方」編集室、ダイヤモンド社)。

△5:『来た、見た、撮った!-中国国境8000km』(田島正著、徳間文庫)。

△6:『わらべうた -日本の伝承童謡-』(町田嘉章・浅野建二編、岩波文庫)。

△7:『カラーブックス やきものの旅』(宮崎修二朗著、保育社)。

△8:『新訂増補國史大系 続日本紀(前編)』(國史大系編修會編、吉川弘文館)。

●関連リンク
参照ページ(Reference-Page):雲南省の麗江と
香格里拉(旧:中甸)の地図▼
地図-中国・雲南省北部(Map of Northern part of Yunnan, -China-)
参照ページ(Reference-Page):昆明の地図▼
地図-中国・昆明と雲南省(Map of Kunming and Yunnansheng, -China-)
参照ページ(Reference-Page):タクラマカン砂漠の地図▼
地図-中国・タクラマカン砂漠(Map of Taklimakan Desert, -China-)

参照ページ(Reference-Page):雲南省の大理の地図▼
地図-中国・雲南省北部(Map of Northern part of Yunnan, -China-)



















参照ページ(Reference-Page):パーリャンの在る孟連県の地図▼
地図-中国・孟連(Map of Menglian, -China-)
参照ページ(Reference-Page):プーケットの地図▼
地図-東南アジア(Map of Southeast Asia, -Multinational-)



参照ページ(Reference-Page):ドイツの地図▼
地図-ドイツ(Map of Deutschland, -EU-)









参照ページ(Reference-Page):余呉湖や信楽の地図▼
地図-日本・琵琶湖(Map of Lake Biwa, Shiga -Japan-)







参照ページ(Reference-Page):広州の地図▼
地図-中国・広東省の広州(Map of Guangzhou of Guangdong, -China-)







参照ページ(Reference-Page):中国の少数民族▼
資料-中国の55の少数民族(Chinese 55 ETHNIC MINORITIES)

参照ページ(Reference-Page):C11190型蒸気機関車や
SLの歴史や型式番号について▼
資料-SL発達史と日本SLの型式番号(The history and naming rule of SL)

補完ページ(Complementary):大衆は批判精神を持つべき▼
理性と感性の数学的考察(Mathematics of Reason and Sense)
補完ページ(Complementary):私は国籍不明人▼
2003年・大阪城の梅便り
(Japanese apricot blossoms of Osaka castle, 2003)

補完ページ(Complementary):私の脳出血から沖縄永住迄の経緯や
パーリャンの仲間の店▼
2013年・大阪から那覇へ(From Osaka to Naha, Okinawa, 2013)
日本の戦後史(モーレツ社員が活躍した高度経済成長)▼
戦後日本の世相史(Shallow history of Japan after World War II)

青島幸男は『悲しき六十才』も作詞▼
1999年・雲南の旅(昆明/西双版納/大理)
(Kunming, Xishuangbanna, and Dali of Yunnan, China, 1999)


批判精神溢れたサトウハチローと三木鶏郎(トリロー)の
『僕はサラリーマン』▼
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(以後はずっと下り坂)▼
「モダニズムの音楽」概論(Introduction to the 'Modernism Music')

漱石が「死んでいゝ奴は千駄木にゴロゴロして居る」と書いた書簡▼
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(Pursuing the SOSEKI's CAT, namely, 'Wagahai')










「多老」とは▼
日本の現状は「多老」だ(Present Japan is the SURPLUS OLD-PEOPLE society)


中国の麗江の旅▼
2001年・麗しの麗江(Beautiful Lijiang, China, 2001)
中国の中甸(香格里拉)の旅▼
2001年・紅葉の中甸(Red leaves of Zhongdian, China, 2001)

昆明の犬(狗)肉ラーメンとか北京の蠍(さそり)とか▼
中国のヘビーなお食事-”食狗蛇蠍的!”(Chinese heavy meal)

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昆明の「清真」通り('Qingzhen' street of Kunming, China)
回族のイスラム帽子が呼び込んだ中国西域の旅▼
2004年・新疆とタクラマカン砂漠の旅
(Travel of Xinjiang and Taklimakan Desert, China, 2004)


2003年はSARS(又はSARS)が猛威を振るった▼
2003年・新型肺炎SARSとは?!(The SARS, new pneumonia, 2003)
2003年・SARS-感染源はハクビシン?!
(The SARS, what is the source ?, 2003)


2003年、阪神タイガースはセ・リーグ優勝▼
2003年・阪神、御堂筋パレード
(The victory parade of HANSHIN Tigers, 2003)

私はパキスタンのムシャラフ大統領に似ているとか、
中国瀋陽で二束三文で買った紅衛兵の帽子▼
風船爆弾は雅(みやび)な兵器(Balloon bomb is the elegant arms)



1999年の雲南の旅で来た周城▼
1999年・雲南の旅(昆明/西双版納/大理)
(Kunming, Xishuangbanna, and Dali of Yunnan, China, 1999)


2004年のパーリャン小学校の竣工記念旅行▼
2004年・パーリャン小学校竣工記念旅行
(Completion travel of Paliang's primary school, China, 2004)

私たちは中国雲南省孟連県パーリャン村に小学校を建てました▼
パーリャン村の小学生を支援する会
(Support team for Paliang's schoolchildren)

パーリャンに小学校をつくる会
(Construct team for Paliang's primary school)




基諾族製の葉巻▼
2000年・雲南の旅(河口/元陽/紅河etc)
(Hekou, Yuanyang, Honghe etc. of Yunnan, China, 2000)


水無瀬川右岸でバグパイプを鳴らしてる”おっさん”や
横浜に「浜」は無い矛盾(←私が子供の頃は有った)▼
日本、珍にして奇なる光景(The RARE and STRANGE scene, Japan)


2005年のタイ国プーケット島でビールの喇叭飲み▼
2005年・タイ国プーケット島の休日
(Vacation of Phuket Island, Thailand, 2005)


06年6月24日の伊雑宮の御田植神事▼
ダヴィデの星(Star of David)

大井川鐵道の井川線あぷとラインの事や
奥泉駅に着く手前で撮り自画像風にアレンジした画像▼
2006年・井川線あぷとラインの旅
(Ikawa Abt-line, Oi-river Railway, 2006)

大井川鐵道(=大井川鉄道)のSL▼
2006年・大井川SL道中記(Go by SL, Oi-river Railway, 2006)
川根茶について▼
2006年・金谷急ぎ旅(Kanaya hurryingly, Oi-river Railway, 2006)
寸又峡について▼
2006年・大井川の寸又峡(Sumata-ravine, Oi-river Railway, 2006)

日本の虫食文化▼
日本、珍にして奇なる光景#2(The RARE and STRANGE scene 2, Japan)

寸又峡で鹿刺(=紅葉)を食う、
和歌山県太地町で鯨のフルコースを食う、鯨食文化にも言及▼
日本、形有る物を食う旅(Practice of active meal, Japan)

石田三成について▼
2003年・京都禅寺探訪(Zen temple of Kyoto, 2003)
石田三成と忍城水攻めの失敗は秀吉に原因が有る▼
2003年・「忍の浮城」-武蔵忍城
(The Oshi floating-castle, Gyoda, Saitama, 2003)




生物社会の生存競争▼
2005年・年頭所感-幸せ保存の法則
(Law of conservation of HAPPINESS, 2005 beginning)

”昆虫撮集”について▼
私の昆虫アルバム・南西諸島編(My INSECTS album in South-West Islands)
中国漠河の記事▼
エルニーニョの打っ棄り的相撲論議(ElNino's throw away Sumo discussion)




R.シュトラウスについて▼
R.シュトラウス「皇紀2600年奉祝楽曲」
(Celebrating music in Imperial 2600, R.Strauss)


ビールに関するドイツの純正令▼
2007年・ドイツでビールと音楽の旅
(Travels with BEER and MUSIC, Germany, 2007)


秋葉原のメイド喫茶を視察▼
懐かしの「純喫茶」(Nostalgic 'Pure coffee shop')




北朝鮮国境でビールを飲む私▼
中国の新少数民族か?、ラ族(裸族)
(Is a new minority of China ?, 'Luo zu')

日本の古代山城・序論▼
古代山城とは?(What is the ANCIENT MOUNTAIN-CASTLE in Japan ?)
ベトナムとの国境も賑わっていた▼
2008年・雲南の河口/金平etc
(Hekou, Jinping etc. of Yunnan, China, 2008)









信楽や信楽焼の狸についての詳細▼
信楽焼の狸(Raccoon dog of Shigaraki-yaki)

2011年9月7日の田中峰彦さんのシタール演奏、
2013年3月6日の【ブラボー、クラシック音楽!】の
最終回とお別れ会の模様▼
ブラボー、クラシック音楽!-活動履歴(Log of 'Bravo, CLASSIC MUSIC !')
「感謝の言葉と、ベートーヴェン最後の仕事」は
下記から選んで下さい▼
クラシック音楽の曲目解説目次(Explanation menu of CLASSIC MUSIC)
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中国の少数民族や「関西歴史散歩の会」や「日本古城友の会」のサイト▼
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