2001年・麗しの麗江
[麗江・中甸の旅#1:麗江編]
(Beautiful Lijiang, China, 2001)

-- 2004.02.24 エルニーニョ深沢(ElNino Fukazawa)
2016.10.24 改訂

※注意:このページは写真が多く、読込みに時間が掛かります。
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 ■はじめに - 麗江の旅程

 2001年10月14日、関空から日本を発ちその日の夜に麗江(※1)に着きました。今回もJAS(日本エアシステム)の関空~昆明直行便(週2便:日と水)を利用して居ます。同行のメンバーは「雲南桃源倶楽部」の小池さん、松岡さん、井本さんです。今回の旅は雲南省の麗江・中甸を巡り、その後小池さんと井本さんが景洪(=景洪組)へ、松岡さんと私が四川省の成都へ行きました。
 先ず今回の旅の全旅程は以下の通りです。麗江の旅に記しているのは、その内の14~17日の麗江を去る迄です。

 10/14(日) 関空 → 昆明 → 麗江   飛行機     麗苑酒店
   15(月) 雲杉坪、白沙村、束河村を観光 マイクロバス   同上
       夕食後、納西古楽       徒歩
   16(火)  大研鎮旧市街、新市街を観光 徒歩       同上
   17(水) 麗江 → 虎跳峡 → 小中甸
                → 中甸  マイクロバス  碧塔大酒店
       夕食後、チベット民族風情館  マイクロバス
   18(木)  碧塔海を観光、松賛林寺   マイクロバス   同上
   19(金)  街中散歩、下給温泉     タクシー     同上
   20(土) 中甸 → 昆明 → 景洪   飛行機     <景洪組>
              └─→ 成都   列車      成昆鉄道の車中
   21(日) 成都 → 広漢(三星堆博物館)タクシー    広漢賓館
   22(月) 広漢 → 都江堰、青城山   タクシー
          → 成都        タクシー    西蔵賓館
   23(火) 成都市内見物 → 昆明    列車      成昆鉄道の車中
   24(水) 昆明で<景洪組>と合流  → 関空 飛行機

 実は私は1999年の第1回雲南桃源旅行で麗江に来る予定でしたが、大理を旅してる時に料理に使う油の匂いが嫌に成り、大理で夕食を食べれなく成ったので麗江行きをキャンセルして北山先生と一緒の飛行機で帰って来たという苦い経験が有るのです。今回はその分も取り返そうと思って居ますゾ!{この段は2016年10月24日に追加}
 麗江は1997年世界文化遺産に登録され、日本のメディアでも可なり紹介されて居ますので、ご存知の方も多いと思います。麗江のことは旅行案内書など(△1のp94~104)を参考にして下さい。地図は▼下▼です。
  地図-中国・雲南省北部(Map of Northern part of Yunnan, -China-)

 そこでこのページでは写真をドバッと掲載しますので、”ご緩りと”ご覧下さい。ページが表示されるのも”ご緩り”ですね、アッハッハ!

 ■10月14日(日) - 麗江到着

 左下が私たちを乗せて麗江空港に到着した中国雲南航空公司の旅客機 -この緑色の旅客機は懐かしい、何故ならば弱小航空会社の為に2002年10月に中国東方航空に吸収され今はこのデザインは無いからです!- です。空港に着いたら手筈通り現地のマイクロバスが来て居ました。今回麗江・中甸を同行する

  通訳の馮琨さん(男性:日本語OK[日本語とガイドを勉強中])
  麗江専用ガイドの和玉梅さん(女性:本語ダメ、麗江のみの案内)
  マイクロバスの運転手の和建科さん(男性)

の3人です。因みに麗江では「和」(平民系)、「木」(貴族系)という姓が多いそうです。
写真0-2:麗江空港でのメンバー。写真0-1:雲南航空公司の旅客機。
 右が麗江空港の外に出た所で撮った私たち4人の写真です。後列右から小池さん、松岡さん、井本さんです。前列のアホは勿論私です。通訳の馮さんに撮って貰いました。
 雲南航空公司の旅客機は今はもう見れませんので、後編の中甸から昆明へ帰る飛行機(01年10月20日撮影)の写真をここに載せて置きます。但し、この日は濃霧で離陸が4時間以上遅れたという最悪の条件でコントラストを物凄く上げて処理して居ます。横に中国雲南航空と在り、尾翼に孔雀の羽が書かれて居ます。私はこのデザインが好きだったのです!

 麗江は正式には麗江納西(ナシ)族自治県と言い、その県庁に当たる大研鎮(又は麗江県城)は直線距離にして昆明の北西330kmの所に位置し、標高は2400mです。
 ナシ族(Naxi zu)チベット・ビルマ語派の彝(イ)語系の言語を話し、元は古代の羌(きょう)(※2)の流れをくむ遊牧民で、漢人から「摩沙」「磨些」と表記されて来た少数民族で、現在の人口は約27万人です。チベット方面から徐々に南下し隋・唐時代に金沙江(長江上流の川)の上流地域に住み着き、南宋時代(1127~1279年)に麗江県城を築いて、現在は殆ど麗江県とその周辺地域に集中して住んで居ます。
 チベット文化を基底とし、その上に現在でも使われて居る独特の象形文字「東巴(トンパ)文字」を7世紀頃に創作して築いた文化は、トンパの神話・疎水を利用した街造りや建築・壁画・音楽や舞踊など、固有性が際立って高いもので、その宇宙観はトンパ文字を使って11世紀頃に記述された『トンパ教』の経典に結実して居ます。
 河川流域ではトウモロコシ・小麦(水稲は少し)、山地ではジャガイモ・蕎麦・燕麦を主に産します。
 又、北の四川省との境の瀘沽湖に住むモソ人(Mosuo people)もナシ族と同系で、独特の丸木舟と「アハバラ」という歌謡、そして母系制と阿注婚(=妻問い婚)を今に残して居て、ナシ族が父系的であるのと対照的です。
 麗江県には現在、ナシ族の他にイ族リス族チベット族ペー族プミ族などの少数民族が居住して居ます。

    ++++ トンパ教(東巴教)とは ++++
 東巴(トンパ、dongba[中国]、Tompa)とは、トンパ教の祭司を指し「智者」の意味です。2400以上の神々が存在すると言われ、トンパ文字で書かれた経典は1400種、2万5千巻を有したそうですが、海外に流出したりで今は5000巻が保存されて居ます。その奥義は一子相伝で祭司家男子に伝えられ、口伝が多いので文字だけでの解読は困難を極めますが、巫術、医術、学術、芸術、技術など生活全般に及んで居ることから「ナシ族の百科全書」とも呼ばれて居ます。中でも占星術が大きな意味を成し、天体の動きと地上の生命とは互いに呼応するという「天人合一」(※3)の素朴な宇宙観は、ナシ族の女性が背中に身に付けている「七星羊皮」に体現されて居ます。トンパ教の下層部分はチベット族がラマ教(=チベット仏教)に改宗する以前に信奉して居た「ボン教」を土台にして居ます。
 ボン教とは、古くは西方からチベットに伝わり、吐蕃 -7世紀初め、ソンツェン・ガンポが建国した古代のチベット人の王国- を建国以前にはチベット族の間に広まって居ました。「生ける者の為に神を供養し、死せる者の為に魔を払う」というシャーマニズム的儀礼(※2-1、※2-2)とアニミズム(※2-3)を内包した多神教的宗教ですが、原始宗教では無く歴(れっき)とした教団宗教です。
 吐蕃を建国し国家統一の原理として仏教を導入以後、漸次東遷し現在は中国青海省・四川省ネパール北部に僅かに残って居るだけです。しかしその一派のゾクチュン教学は逆にラマ教に多大な影響を及ぼしたとされて居ます。青海省・四川省のボン教は古代の羌(チャン)が齎(もたら)したと考えられます。(△2のp479、712)
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写真1-1:鯉料理を中心にした夕食。 さて、麗江に着いた我々全員、腹がペコペコ。先ずはビール、そして飯(めし)。いやはや、腹が減るということは健康な証拠ですゾ!!
 左の写真が今回の旅最初の現地料理です。手前右から豚肉炒め、次も豚肉の煮込み小松菜(の様な野菜)の炒め物、真ん中に鯉の唐揚げの餡掛トマト入り玉子焼き、そして黒く見えるのが昆布と野菜の煮物です。昆布でダシを取るのでは無く昆布を食べる文化が在るのです。まあ、難しい話は兎も角、皆でビールで乾杯しました、旨い!

 ということで初日は先ず旅の味に慣れました。何と言っても旅で大事なのはですから。旅で飯の次に大事なのは睡眠です。ここは人に依り意見が分かれる所で睡眠を一番に挙げる人も居ます。だけど私は腹減ってたら睡眠出来ない質(たち)なので、やはり飯が一番です。
 えっ、その次ですか?、次は、ブワッハッハッハ!!

 ■10月15日(月) - 郊外の観光

 (1)大研鎮の朝
写真1-2:大研鎮の朝。

 15日の朝の天候は曇りです。ホテルの窓から市街地の南南西に文筆山の三角峰(右の写真)がシルエットで見えて居ます。この山はそれ程高くは無いのですが、遠くからでも大変目印に成ります。
 それではボチボチ出掛けましょう!

 (2)雲杉坪

 朝食後直ぐにマイクロバスで一路、大研鎮の北15kmに在る玉龍雪山(※1-1)に向かいます。

 玉龍雪山は主峰が5596mの万年雪を頂く山で、13の峰が南北に連なり「銀色の龍が空を飛ぶ」様に見えることからこの名が付いて居ます。ナシ族の主神「三朶」が住むと信じられて居る霊山(→その山容は後出)であり、その宇宙観「天人合一」の象徴です。

写真2-1:雲杉坪のリフト。 私たちは一路玉龍雪山に向っているのですが、生憎天候が悪く雪山の頂上は雲の中に隠れて全く見えません。バスで1時間半位で麓のリフト乗り場に着きましたが全く見えません。少し小雨がぱらついて居ます。
 にも拘わらず中国人の旅行者が大勢来ていてリフトに乗るのに1時間以上待たされました。それにしても、こういう時の中国人の騒がしいの何の、彼等が静かに成るのは食い物を呑み込む瞬間だけです。食事中でも食い物頬張り乍ら煩いこと、...いやあ中国に来たんだなあ、と実感させられた次第です!
 右の写真がやっと乗れた2人乗りリフトです。リフトを降りると土産物屋などが在り、寒かったので私は茹でたトウモロコシ -トウモロコシは麗江で産する主要穀物- を買って食べました、旨い!
写真2-2:雲杉坪の休憩所。
 山麓の平坦な林の中を30分位歩きます。左は途中の休憩場で一休みして居る所です。
 ここから暫く行くと沿道に土産を売る屋台などが出ていて、それらを見乍ら進みます。
 


写真2-3:雲杉坪にてイ族の衣装で。 右の写真が目的地・雲杉坪でのワ・タ・シ。何か怪しい雰囲気ですね、ここではイ族(彝族)の人々が記念撮影用に右の様な衣装を貸して呉れます。この写真だけ見たら何処の国の人か判り難いでしょ、無国籍人を標榜する私にピッタリですね!本からの写真1:レッサーパンダ。
 ところで私が被っている動物の毛皮で出来た帽子、これはレッサーパンダ(※4、※4-1)です。中国語で小熊猫と言い、大研鎮で買った麗江の写真集(△3のp90)からその顔を左側に載せて置きます。
 ご覧の様に一見狸の様な顔をしてヒゲが猫の様にピュッと生えて居ます、【脚注】※4-1、※4-2に在る様にネコ目パンダ科です(皆さんご存知の所謂パンダはジャイアントパンダ(※4-2)です)。
 ここ雲杉坪は玉龍雪山観光の一大拠点で、天候が好ければ私の背後に玉龍雪山が間近に逼って見えるハズなのですが、この日は全くダメ。何にも見えませんでした。

 玉龍雪山は天候の変化が激しい山でこれ以上奥に入ることは出来ませんが、漢方の生薬や自然動物の宝庫でもあります。私は土産を売る屋台で小さな蛇が蜷局(とぐろ)を巻いて日干しに成っている乾燥蛇を買いました。これは日本の”苦労半顔”氏に効くと思いましたが私はラーメン屋の知人に贈呈しました。彼がこれをラーメンのダシに使ったか否かは関知して居りません!

 [ちょっと一言]方向指示(次) この乾燥蛇は、効能書に拠ると「白花蛇」という名称で、玉龍雪山の3800mの灌木中に居る「蝮蛇科五歩蛇」 -マムシ(蝮)の子供- の内臓を除去し全体を乾燥させた物です。用法は「煎服泡酒」で中風湿麻痺、口面歪斜、半身不遂、疥癬などに効くそうです。但し血虚生風者(=貧血症や風邪引き中の人)はダメ、と在ります。

写真2-4:玉龍雪山麓の牧場。 霞の中で玉龍雪山の霊気を浴びて再びリフトで降り、少しバスで戻り食堂で昼飯。ナシ族(納西族)ガイドの和玉梅さん(→写真は後出)の話に拠ると、ここの近くに自称”東洋一のゴルフ場”を開発中とのことで、それらしき芝生が遠くに見えました。そして近くには西洋風の瀟洒なコテージが在り分譲中とかで、価格は20万元位(=約300万円)だそうです。ここは街中から車で1時間位の所です。ガイドは「中国名花集」に登録しました。{このリンクは05年1月4日に追加}
 右上は帰りのバスの中から手前の牧草地(←馬やヤクなどを放牧して居る)の背後の玉龍雪山です。午前中よりは少し雲が薄く成り、切り立った岩肌の一部が見えて来ました。

 (3)白沙村

写真3-1:白沙村の風景(背後に玉龍雪山)。 帰りには先ず白沙村に寄りました。ここは麗江県城の統治者・木氏の本貫地白沙壁画を見学しました。部屋の中では撮影禁止で、外から中を映したのですが、暗くて失敗でした。
 右が村の風景で、通りの向こうに玉龍雪山が見えて居ます、少し晴れ間も出て来ました。麗江では右の写真の様にあちこちの家で藍染めの布を壁際に吊るして乾燥させて居る風景を見掛けます。
 藍染め(※5、※5-1)は大理が盛んですが、麗江は直線距離で大理の真北150kmに位置して居ます。
写真3-2:白沙村の土産物屋も前で。 左が村の土産物屋風景です。既に私は掛け軸を1本買い右手に持って居ます{このリンクは2015年7月7日に追加}
 後ろに写っている売店で単純な作りの猥褻(ワイセツ)な玩具を見付け、早速買いました。1個5元のを5個で10元に値切って手に入れましたが、その甲斐有って中国人にも日本人にも非常に受けましたね。私は”イヤラシ系”なのです。えっ、どんな物か見たいですと?、そういう方はココをクリック、但しパスワードが必要ですよ、ムッフッフ!!

    (^_*)/

写真3-3:白沙村の土産物屋のナシ族の少女。 左はやはりこの近くの売店で母親と一緒に土産を売っていたナシ族の姉ちゃんです。
写真3-4:白沙村の龍型の煙管。 右がこの姉ちゃんから買った大きな煙管(きせる)と灰入れです、確か120元位のを80元位に値切ったと思います。木を龍の形に彫って作った物で、私は帰国後母に上げたのですが2002年に他界し、この煙管も一緒に”あの世”に行きました。彼女は「中国名花集」に登録しました。{このリンクは05年1月4日に追加}
 「素焼の小便小僧」(←大理で買ったのと同じ奴)が在ったので5個買いました。最初1個10元と言っていたのですが何と「5個で10元で良い」(2元/1個)と言うので、どう成ってるんでしょうかね?!

 白沙は大研鎮から北に12kmの所に在る、嘗てのナシ族の豪族・木氏土司(※6)の本拠地で明・清時代は麗江の政治・文化の中心地だった所です。木氏は明の時代にはチベット軍と金沙江の長江第一湾で戦い侵入を防ぎました。それを顕彰した碑が石鼓鎮に在るそうです。

 (4)束河村

 その後、大研鎮の北西4kmの所に在る束河村に寄りました。下の写真が村の広場での午後の風景です。何やら民族衣装を着けて女性たちが踊りの練習をして居る風景で、この女性たちが背中に背負っている白い袋が「七星羊皮」です。民家の前には小さな子供たちが出て来て踊りを見て居ます。民家の屋根は藁葺きの様な感じで、屋根の上が黄色く見えるのは、何かの黄色い花が咲いて居る為です。
 ここでも軒先に藍染めの布を吊るして在ります。ナシ族の民族衣装はこの様に地味な藍色が基本で、藍で染め出して居るのでしょう。
写真4-1:束河村で踊る女性たち。
写真4-2:藍染の蝶の図案。
 左がやはり吊るして在った藍染めの布の図柄で、この様な「蝶」の図柄を良く見掛けました。

写真4-3:米袋を積んだ車。
 右が村の中にを運び込んで居る車です。車体は錆だらけ、タイヤは泥んこです。この辺りでは昔日本でも使っていた練炭を燃料に使っていて、練炭を満載した車も見掛けました。
 


写真4-4:束河村の風景。
 村を散歩した後、疎水の水源池が在ると言うので右の写真の様な村道を歩いて向かいました。

 又、下の写真の様な小川に架かる石橋も渡りました(2枚共小池さん撮影)。石橋の上ではナシ族の頬髯のオッサンが私たちを見て居ました(右下)。
写真4_k-1:束河村の陸橋の上で。写真4_k-2:束河村の陸橋の上で我々を見ているナシ族のオッサン。

 この村はとても鄙びていて長閑さを感じます。

 (5)龍泉寺の「九鼎龍潭」 - 疎水の水源池

 行き着いた所は龍泉寺で、「九鼎龍潭」と呼ばれる「疎水の水源池」が在り、ここにも枝垂れ柳(※7)が在ります(左下の写真)。恐らくここは束河村の唯一の観光スポットではないでしょうか。池の辺(ほとり)には東屋が在り、そこで現地の男たちが麻雀をして居ました(右下の写真)。日本の麻雀牌の倍位有る大きな牌を使用して居ます。
 この村で気付いたことは、男性は道端で1m位有る大きな竹筒の水煙草を吸ったり麻雀をしたり或いは唯ブラブラ歩いたりと”のんびり”して居ますが、女性たちは大きな藁束を背負ったりして”力強く”働いて居ることでした。しかし男尊女卑という訳では無く、家の中では「かかあ天下」の様です。これがナシ族の伝統なのです。
  写真5-1:束河村の水源池の龍泉寺「九鼎龍潭」。写真5-2:「九鼎龍潭」の東屋で麻雀をする男たち。
写真5-3:「九鼎龍潭」に架かる橋で。

 九鼎龍潭には屋根付きの綺麗な橋が架かっていて、私たちはここで暫く休憩しました。
 右の写真は、右からガイドの和玉梅さん(←上述)、小池さん、通訳の馮さんです。ガイドの和さんは「中国名花集」にに登録して在ります。{このリンクは05年1月4日に追加}
写真5-4:「九鼎龍潭」に架かる橋のトンパ文字の天井。

 そして圧巻なのは東屋の天井です。左の写真の様に極彩色を施し、トンパ文字でぎっしりと埋め尽くされて居ました。ナシ族の文化遺産の一端に触れることが出来ました。
 

 (6)再び束河村へ

写真6:「九鼎龍潭」から流れ出る疎水。

 右の写真が帰りに写した、九鼎龍潭から流れ出る水が、疎水と成って流れて居る光景です。
 私は2004年にも麗江を訪れ、右の写真と同じ場所で撮影して居ますが、左の壁の奥に喫茶店(又はレストラン)が出来て居ます。もう束河村の素朴な風景は消え去りつつ在り、喫茶店やレストランの喧騒さが目立つ様に成りました。

写真7-1:束河村の四合院造りの家の壁。写真7-2:束河村の四合院造りの家の壁のトンパ文字。 再び束河村に戻り少し散歩。左の写真は、中庭を囲む四合院造りの立派な家の壁に日本語で「いらっしゃいませ」と書いて在ったので、思わずパチリ。何の家なんでしょうか?、入口には「四友雅閣」と書いて在りました。壁の「農家楽」と書いて在る横にはトンパ文字も書かれて居ます(右上の写真)。
写真7-3:束河村の四合院造りの家の中庭。

 そこで中庭を覗いてみると、ご覧の様に盆栽です(右の写真)。松が見えて居ますが、恐らく中国で人気の高い五葉松でしょう。五葉松は日本でも人気で一瞬日本に帰ったかの様な、懐かしい錯覚に襲われました。
 

 左下は村の中学校です。中国のエライはんみたいな人々が数人視察に来ていた様です。壁には「学習天天向上」と書かれて在ります。一生懸命学習して天迄登れ、という意味でしょうか。空も漸く晴れて来て玉龍雪山が見えて来ました。
写真8-2:洗濯板でシャツを洗うオッサン。写真8-1:束河村の中学校(背後に玉龍雪山)。

 右は雑貨屋の店先で洗濯板でシャツを洗っているオッサン。いやあ、何とも言えず好い光景ですね、オッサン頑張れ!!
        (^O^)/
 2001年には束河村は未だ俗化されて無い素朴な感じの村でしたが、2004年に来た時は急速に俗化されている束河村を見て仕舞いました。こうして束河村の「文化の固有性」は失われて行くのです。
    {この節の記事は一部04年11月17日に追加更新}

 (7)夕食と納西古楽

写真9-1:黄昏の四方街の料亭の前で。 大研鎮に戻って来ましたが、夕食には少し早いので、四方街(→後出)を少し散歩しました。
 左の写真が黄昏の四方街の一角です。私の後ろに枝垂れ柳(※7)と疎水が見え、向こう側では暮れ行く夕空の中で逆に少しずつ明るさを増して行く料理屋の灯明が見えます。
 いやあ、タマラナイですねえ、私はこの様な”しっとり濡れた情緒”が大好きです。京都四条から三条に掛けての高瀬川辺りの雰囲気ですね!!
写真9-2:夕食とスコッチウィスキー。
 さて、右は楽しい夕食前に撮ったものです。料理は手前の方に魚(名前不明)や骨付き豚の唐揚げや野菜の炒め物やスープetcです。
 私が手にして居るのは、井本さんが日本から持って来たスコッチウィスキーの名品
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ですよ、ムッフッフ!
 


写真10_k-1:「麗江中国大研納西(ナシ)古楽会」招待所の入口。
 晩飯の後は東大街の「麗江中国大研納西古楽会」招待所で納西古楽を鑑賞しました(左の写真、小池さん撮影)。
 写真では見え難いですが、この門の左には縦書きで「宣科先生毎晩八点在此主持」と書いて在ります。宣科先生(※8)が毎晩8曲を自ら紹介し演奏するという意味でしょう。宣科氏こそ「納西古楽」を発掘し、「大研納西古楽会」を組織した人物です。

 私は翌日、麗江の市場で納西古楽会の演奏するCD(△4)を買って帰りましたが、それには「鬼才 宣科」と在り彼の経歴と「麗江中国大研納西古楽会」(※8-1)の沿革が書いて在りますので、そのCDの解説を以下の「古楽会」の説明及び【脚注】※8、※8-1に利用させて戴きました。
写真10_k-2:納西(ナシ)古楽会の演奏風景。 左の写真が「麗江中国大研納西古楽会」が演奏中の写真です(小池さん撮影)。中にはペルシャ伝来の物も在るというナシ族伝統楽器を多く用いた演奏は大変素晴らしいものでした。
 先ず、演奏の最初には必ず『八卦経腔』という曲が演奏されますが、これは玄宗皇帝統治の741年に唐で作曲された『紫微八卦舞』という儀礼的宮廷舞曲の一部だそうです。そして「詩琴」「琵琶」「竹胡琴(胡弓の一種)」などの弦楽器、「十面雲鑼」「太鼓」などの打楽器、「縦笛」「横笛」「笙」などの管楽器で奏でる音楽は、正にナシ族のオーケストラと言えるでしょう。

 序でに述べると、同じCDの解説に拠ると、宣科氏は1994年に雲南省北西部こそジェームズ・ヒルトンの小説『失われた地平線』中のシャングリラ(Shangri-La)に酷似して居ると提唱しました。それに依って2002年1月(=私たちの訪問直後)に中甸県が香格里拉県(=シャングリラ県)に改称されました。解説に在る様に正に「鬼才 宣科」です。『失われた地平線』や香格里拉県に関しては、このページの続編の[中甸編]をご覧下さい。
 しかしこの旅行中は未だ改称前でしたので、この訪問記は旧来の中甸で通します。

 ■10月16日(火) - 大研鎮をさ迷い歩く

 (1)世界文化遺産登録記念碑と東大街

 今日は一日中徒歩で麗江中心街の古城巡りです。先ずは一躍観光スポットのメッカに成った古城入口の玉龍橋の上で世界文化遺産登録記念碑と水車の記念写真(左下)です。
写真11-1:世界文化遺産登録記念碑と水車。 下がその記念碑の文字を拡大したものです。当時の国家主席だった江沢民の碑文と署名(※9)です。
 因みに江沢民は私の弟子ですよ!
写真11-2:記念碑の江沢民の筆跡。

 ここで「江沢民は私の弟子」について、明らかにして仕舞いましょう。それには私の秘密も明らかにしなければ為りませんが。これは
  エルニーニョ深沢とは何者か?!(Who am I ?)

の中の「「エルニーニョ」は悪魔の洗礼名」という章で述べて居ます。
 即ち、ユダヤ系アラビア人教授から悪魔の仲間入りを祝して授かった名がElNiño(エルニーニョ)で、彼は私に

    深 沢明(しんたくみん[Shen Zeming])

という中国名を付け便宜を図って呉れたのです。
 因みに名前の第1字の「沢(澤)」は出世運が強いらしい。毛沢東(もうたくとう[Mao Zedong])江沢民(こうたくみん[Jiang Zemin])を見て下さい。序でに言うと江沢民は私の弟子なのですが、これが全く出来の悪いガキでした。まぁ、子供の頃は腕白が好いということですね、ブオッホッホッホ!!

 下の写真が古城入口から真っ直ぐ南に延びる如何にも観光客用の広い道が東大街です。この写真は東大街の南端から北へ向かって撮ったもので、道路には麗江産の五花石(=花崗岩の一種)が敷き詰められて居ます。道路奥の正面に大きな液晶スクリーンが見えますね。その近くに先程の記念碑が在ります。
 道路右側の3階の建物が昨夜納西古楽を鑑賞した「麗江中国大研納西古楽会」招待所で、「大研古楽 招待聘」と書いた幟が垂れ下がって居ます。道路左手には鮮やかな花が飾られ枝垂れ柳が見えて居ます。この通りには清掃用具を手にした小母ちゃんが常に何処かを歩いて居て観光客が落としたゴミを直ぐ掃き清めて行きます。

              液晶スクリーン
               ↓
写真12:東大街の風景。正面奥に液晶スクリーン。

 皮肉な見方ですが、麗江の世界文化遺産登録にはその前年の大地震が有利に働いた様です。地震での倒壊を機に、狭い路地や汚い場所を或る程度”綺麗に”整地することが出来たからです。

 (2)新華街と四方街

  (2)-1.新華街

 さあ、これから古城の中の迷路に入って行きましょう。何故迷路か?、中国の城は城壁で囲むのが通常ですが、この地を治めた木氏は囲いを設けると「木」→「困」に成るとして、城壁を築かなかったからだそうで、その為に我が【エルニーニョの館】と同じく迷宮の様に入り組んだ道に成っているのです。しかし私が知る麗江が好きな日本人は大抵この”迷路の虜”に成った人たちですよ、アッハッハ!
写真13-2:私が買ったトンパ文字の印鑑。
写真13-k-1:入れ歯を陳列して居歯医者。写真13-1:歯医者の店先の入れ歯のサンプル。 私たちは先程の古城入口から東大街の1本西の道・新華街を通って行きました。ここでは狭い通路に露天の土産物屋やが所狭しと並び、それに混じって歯医者が入れ歯を陳列して居たり(左の2枚の写真)、散髪屋が在ったりと中々面白い所です。
 私は干支の動物を彫った石にトンパ文字で名前を彫る印鑑屋で、私の中国名を彫って貰いました。右の写真が私が買ったトンパの印鑑、ほぼ実物大です。確か300元位(多分?)でしたね。
 新華街には他に二胡(=2弦の胡琴)を売る店や苗(ミャオ)族の人が刺繍を実演し乍ら売っている店も在りました。ここにミャオ族が居るとは思っても居ませんでしたね、”出稼ぎ”でしょうか?

  (2)-2.四方街

 新華街をぶらぶら南に行くと四方街に出ます。この四方街から木府へ掛けてが麗江県城旧市街観光の中心地です。右下が四方街の疎水枝垂れ柳(※7)で、これが四方街の特徴的風景です。日本の京都に居るみたいで、上でも書きましたが”しっとり濡れた情緒”が感じられます。
 おっと、枝垂れ柳に触発されて戯れ歌が浮かんで来ました。

  人知れず 枝垂れ柳に
    跳び付く蛙 柳の絵札は
      道風跳び蛙

  頼り無く 柳の幹に しな垂れて
    思い出すのは 猫柳かな

                月海


 左が花札の絵札の小野道風の跳び蛙(※10)で柳は11月を表します。道風は必死に努力する跳び蛙を見て書道の奥義を窮めたと言われて居ますが、花札にも”教育的教訓”が含まれて居るのですね。インターネットのブラウザ(browser)(※11)で見ると跳び蛙が飛び上がって居ますゾ。こういう動く素材をアニメーションGIFと言います。
 又、猫柳ちゃん(※7-1、※7-2)と私が渾名(あだな)した芸子が京都に居りましたねえ。
 因みに、当サイトのデザインは花札と密接に結び付いて居ることは総合目次などで気が付いた人も居られると思います。

写真14-1:四方街の楼閣の前で。 左が橋の前に建つ3階造りの楼門が立派な旅館です(小池さんが撮影)。左から松岡さん、私、井本さんが写って居ます。

 疎水の両側にはカフェやイタリアの三色旗を掲げたピザ屋が建ち並び、各店からはロックが大きな音量で流れて来ます。青い目のガイジンさんも可なり居ます。
 右下がそんな一角に在るカフェでコーヒーを飲んで居る私たちです(小池さんが撮影)。
写真14-k-1:四方街のカフェで。
 小雨が少しぱらついて来た様です。

写真14_k-2:四方街の疎水と石畳の路地裏風景。 右が四方街の路地裏風景疎水と石畳が見え、「古城 花馬園客桟」と書いた旅館が写って居ます(小池さん撮影)。
 この旧市街の疎水は玉龍雪山の雪解け水が湧き出す玉泉公園の黒龍潭に水源を発し、先程の記念碑の在った玉龍橋の下の流れと成って、あちこちの通路に分散して居ます。石畳は麗江産の五花石が敷き詰められ独特の雰囲気を醸し出して居ます。
 

 (3)焼き松茸と昼食後の市場

 旧市街散歩の後、東大街に戻り昼食。左下の写真、何の料理か判りますか?
 これは特別注文で作って貰った「焼き松茸」です。これを醤油を付けて食べました、まあまあ、でしたね。やはり香りがイマイチでした。値段はもう忘れましたが高かったですよ、400元位(=約5500円)したのでは?、これだけで。市場の近くの小汚い店に入れば10元でタップリ飯食えますからね、ま、これも記念です。井本さんは午後はホテルで休む事に成ったので、小池さん、松岡さんと3人で市場へ行きました。
写真15:昼食での特別注文料理「焼き松茸」。 写真16:市場の亀とスッポン。
 私はこの市場で掛け軸(昨日白沙村で買った物)を入れる細長いバッグを30元位で買い、ザクロを買って食べ乍ら歩きました。因みに、この細長いバッグは作りも確りしポケットも2つ付いて居て何かと便利なので、以後の旅行には必ず持ち歩いて居ます。{このリンクは2015年7月7日に追加}
 右上が市場で売っていた亀と鼈(スッポン)、亀甲模様が有るが亀です。

 (4)木府と獅子山

 木府白沙村出身のナシ族の豪族・木氏が南宋時代(1127~1279年)に築いた行政府で、その後明の太祖・朱元璋から土司(※6)の官職を賜わり、1723年に清の直轄地として麗江府が置かれる迄の約500年弱の間、「城主」としてこの地を治めました。
 従って今在る木府の建物は城主・木氏の城跡なのです。1996年2月3日の麗江を震源とする大地震では瓦屋根や壁の一部が崩壊しましたが、釘を1本も使わない木組み構造部分は大した損傷も無く、崩壊部分は再建され世界文化遺産登録に至って居ます。
写真17-1:四合院造りの孤児院。
 私たちも木府へ行きましたが、ここはもう観光客で一杯、もうムンムンという感じで、うんざりして街の外れの方をぶらつきました。街外れの迷路の中で、何処に在ったか判らないのですが、右が綺麗な四合院造りの孤児院です。表札には「雲南省麗江民族孤兒育幼院」と書いて在ります。「兒」の字は親族名称としての子というのが字義ですが、一般的に幼児を指します。

            象山
            ↓
写真17-2:獅子山中腹から見た木府の建物。 何処をどう歩いて居るのか判らなく成った私たちは兎に角、獅子山 -木氏がこの地を治めた城山で山と言うより丘- に登ってみることにしました。
 左が獅子山の中腹から撮った木府の建物群で、背後の山が「象の寝姿に似ている」と言われて居る象山です。日本でも在りますね、象頭山と呼ばれてる山が、確か香川県の金刀比羅宮が在る山でしたね。
 

 獅子山に登り始めると、やがて白壁が続く道に出て寺院の様な楼閣が見えて来ました(左下の写真)。この楼閣は「光碧楼」という寺院(右下の写真)で、極彩色の装飾文様は大変美しいものでした。「益篤忠貞」と書いて在ります。
 今こうして訪問記を書く為に地図で調べると、木府を離れ私たちがウロウロして居た場所は光壁巷、光義街辺りだったのです。
写真18-1:獅子山中腹の「光碧楼」。写真18-2:極彩色の「光碧楼」の門前で。
写真19_k-1:金星巷から獅子山への登り口の風景。
 その後金星巷の方に廻り込んで獅子山の頂上目指して更に登りました。右がその上り口の界隈で、所狭しと土産物屋が並んで居ます(小池さん撮影)。
 この写真の道を進むと上り坂に成り、ゆっくりと登りました。頂上近くにも民宿が何軒か在りました。
 

 頂上には満古楼が在るのですが、結構観光客が居るので頂上少し手前の民宿の庭のテラスでお茶を頼み、そこから180度の眺望が楽しめました。
 下が獅子山のテラスから北方に見えた麗江のシンボル・玉龍雪山の全容で、麗江の人々が「神が宿る」と考えるのも無理は無く、その気持ちは日本人と共通して居ます。もう「素晴らしい」の一言で、ここ迄登って来た甲斐が有りました。
 ところで、この民宿には”変な顔”をした犬(→後出)がじゃれ付いて居ましたが、ここでは写真を撮りませんでした。
写真19-1:獅子山頂上からの玉龍雪山の全容。
 この獅子山の北にはもう一つ小高い丘が在り、そこにはテレビ局が在って、鉄塔やパラボラアンテナが見えて居ました。しかしそれは上の写真の枠外の左前方です。


 序でに民宿のテラスから、玉龍雪山をバックに私の写真を撮って貰いました。まぁ、これは愛嬌です。
 この様に民宿のテラスからの眺めは最高です。
 


写真19-2:獅子山から望む大研鎮旧市街の民家群。
 右の写真は獅子山から見た景色です。東方にはナシ族の特色の有る民家 -木造2階建ての「三坊一照壁」で瓦屋根の鳥衾(※12)が長く突き出して居る- が大研鎮旧市街をぎっしりと埋め尽くして居る情景は圧巻です。
 液晶スクリーン
   ↓
写真19-3:獅子山から望む東大街。

 左の写真は東大街付近の民家です。液晶スクリーンが見えて居ますね。
 

    ◆”変な顔”の犬 - マニ車で功徳を積んだチベタン・スパニエル

 獅子山の階段を下りる途中で右の写真の犬を見付けました。犬なんかどうでも良いのに、この犬は”変な顔”をしているので1枚写真を撮りました。私は犬の事は殆ど知らないので、中々犬の品種が判らなかったのですが漸く判明しました。これはチベタン・スパニエル(※13) -チベット原産の犬- です。スパニエル(※13-1)とは、耳が垂れ毛の長い犬の事です。
 それにしても出っ歯と言うか、へっこみ歯と言うか、歯の噛み合わせが上歯より下歯の方が前に出ているので、とても”変”なのです。ところが、この犬は中々賢いらしくラマ教(=チベット仏教)の寺院で何千年も前から大切に飼育されて来て王族への贈り物とされて来たらしいのです。そしてラマ寺に必ず在るマニ車(摩尼車)(※13-2)を回す役を仰せ付かり、何でもマニ車は一周回すことで一回経文を唱えたのと同等の功徳が有るそうで、その為にこの犬も功徳を積んで居るのです、畏れ入りました。
 実は先程書きましたが、チベタン・スパニエルは獅子山の頂上付近の民宿でも見て居ます。麗江はチベット族が住む地域(=この後で向かう中甸)に近いのです。しかし、この犬の”変な顔”からは”功徳を積んでいる”様には全然見えませんが...。否、これは作出したチベット族に責任が有りますね。即ち、何故チベット族は態々”変な顔”の犬を作ったのか!?、それが問題です。

                (-_*)
    {この節は04年11月17日に追加}

 (5)新華街でTシャツにトンパ文字で名前を書いて貰う

 獅子山を下り、帰りは再び新華街を通って行きました。そしたらTシャツにトンパ文字を書いて売っている店が在ったので、早速入ってみました。
 左下が店で真っ白なTシャツにトンパ文字私の中国名を書いて貰っている所です。書いて乾燥させるのに2時間位待てば出来上がります。3枚買いましたが1枚80元位に値切ったので、もう泣きそうな顔してましたね。
 この女の子、Tシャツに描く前に先程の印鑑の師匠の所へ行きトンパ文字を確認して居ます。どうやら先程の印鑑の師匠がトンパ文字の権威の様です。
写真20:Tシャツにトンパ文字を書いているところ。
 右下の写真は後日帰国してからTシャツを撮ったもので、トンパ文字で「深澤明」と書かれて居ます。
    深   澤   日   月


 この字を先程の印鑑と比較してみて下さい、同じですね。権威が確認してますから!

 (6)新大街

 四方街を旧市街の代表とすると、新大街は麗江の新しい顔を代表する新市街、西洋風のモダンなビル街です。大研鎮の街を南北に貫くメインストリートでその北端は、これも一大観光スポット玉泉公園に繋がります。
 左下が新大街の風景です。近代的大通りの向こうに玉龍雪山が威容を覗かせて居ます。
写真21-1:新大街の風景(玉龍雪山が見える)。
 下がガラス張りでおシャレな理容店です。
写真21-2:新大街の理容店。

 (7)夜はカラオケ

写真22:カラオケ熱唱中! 麗江最後の夜は、通訳の馮さんに案内して貰い別のホテルにカラオケ -"karaoke" は今や世界に通用する国際語- を歌いに行きました(右の写真、左から松岡さん、小池さん、井本さん)。個室を借り日本語の歌詞で歌いました。戦前の歌から少し古い歌謡曲系の歌を中心に200曲位揃えて在り、中国では何と言っても「北国の春」が人気です。但し、日本語の歌詞は全て「ひらがな」で歌い難いですね。しかし外国で日本の歌を大声で歌えるのは好い気分です。料金は2時間位ビールをバンバン飲んで歌ってツマミ食って70[元/人]位(日本円で約1,000[円/人])でした。
 この日はずっと歩き詰めで疲れて居たので、飲んで歌ってぐっすり眠れました。

 ところで、これは松岡さんも小池さんも勿論井本さんも知らない話ですが、実は私は2000年の旅の景洪で、李亜琴(北山先生の留学生)と直美ちゃん(「雲南桃源倶楽部」の会員)に誘われて -私が誘ったのでは無いですゾ!- 中国のカラオケは経験済みなのです。まぁ、私は不良ですが、李亜琴と直美ちゃんはもっと不良な女性です、でも楽しかった!!

 ■10月17日(水) - 麗江を後にして

 (1)虎跳峡に向けて
写真23-1:虎跳峡へ行く途中での玉龍雪山。
 大研鎮の街を後にして先ず西に向かい、虎跳峡へ寄り、次の目的地・中甸へ向かいます。途中拉市海でしょうか?、綺麗な湖の脇を通って行きました。そして途中から国道214号に入り以降は金沙江(長江上流)に沿って北に向かいます。この日は朝から好い天気で、途中ずっと玉龍雪山が見え隠れして居ました。
 右の写真は大研鎮からマイクロバスで2時間位の中間地点の尾根(星明辺りか?)で休憩した時のものです。大研鎮から西側に回り込んだ所からの玉龍雪山の姿は又違った趣が有ります。写真の一番右側が運転手の和建科さんです。通訳の馮さんに撮って貰いました。女性ガイドはお役御免です。
写真23-2:ススキの川と遠く中甸県の哈巴雪山を望む。

 バスは進みます。右の写真は走行中のバスの中から撮ったもので、手前にススキの穂が風に靡(なび)き、金沙江が流れるその向こう、つまりバスの右手前方に見える雪山は中甸県の哈巴雪山(5396m)です。

 下の写真がその哈巴雪山の切り立った山頂です。
写真23-3:哈巴雪山の威容。

    ◆龍蟠の市場

写真24-1:龍蟠の市場での丸焼きの豚の顔。


 やがて20分位で龍蟠の市場に着きました。右は龍蟠の市場での真っ黒く丸焼きにされた豚の顔です。幾つも無造作にゴロゴロ置かれて居ます、ムーッ、これが中国ですね!

 下も同じく龍蟠の市場の光景です。笛を売っているお爺さんで、大変見事に笛を吹きます。私はお爺さんが吹いて居るこの横笛を買って来ました、10元位だったと思います。
 龍蟠の市場はご覧の様に露天の売店が立ち並ぶ規模の小さい市場ですが、食べ物だけで無く衣服や日用雑貨など色々な店が在りました。
写真24-2:龍蟠の市場で横笛を吹くお爺さん。

 (2)虎跳峡

 左下が虎跳峡の「上虎跳」の波飛沫です。ここは玉龍雪山と哈巴雪山に挟まれた峡谷に金沙江が流れ、麗江県と中甸県の境界です。がこの峡谷を飛び越えたという伝説が名前の由来です。この急流の傍迄は、駐車場から峡谷の急坂を大分下る必要が有ります。ここから峡谷を「中虎跳」から「下虎跳」へと歩くコースも有りますが(急流の向こうに橋のアーチが見えて居ますね)、観光客の多くはここで満足し元来た道を引き返します。帰りは急坂を登らなければ為りません。

 そこで駕籠屋が2人1組で1人を担いで運ぶ商売をして居て、高齢の井本さんは駕籠に乗せて貰い降りました(下り50[元/人]=約750円)。右下が井本さんを乗せた下りの駕籠です(小池さん撮影)。
 しかし、駕籠には上りも在ります(上り80[元/人]=約1200円)。井本さんは上りも駕籠を利用し歩いて登った私の方が先に上に着いて待っていたら、井本さんを汗だくで担いで来た駕籠屋は上に着くなり、ぶっ倒れて荒い呼吸をして居ました。しかしそう遣って15分位休んだら再び客に声を掛け始めました、いやあタフですね!!
写真25-1:虎跳峡。写真25_k-1:虎跳峡の駕籠屋。

 麗江を訪れる観光客はここ迄見に来て麗江に引き返すのが普通です。この日も大勢の観光客が来て居ました。青い目の外人さんも結構いましたし、日本人観光客にも会いました。しかし私たちは中甸を目指し先へ進みます。

 ■空から見た玉龍雪山

 麗江編の最後として、空から見た玉龍雪山の切り立った稜線をご覧に入れましょう。どうか”ご緩りと”ご覧下さい...(^O^)。
写真e:飛行機の上からの玉龍雪山の稜線。
 この写真は後編の中甸から昆明へ帰る飛行機の中から01年10月20日に撮影したものですが、やはりこの山は麗江県の人々と深く結び付いて居る霊山ですので、編集上ここに入れました。

 ■結び - 観光開発と「文化の固有性」

 麗しの麗江、それは「疎水とトンパ文字と玉龍雪山の街」でした。そして”しっとり濡れた情緒”を醸し出しているのが枝垂れ柳です。
 万年雪を頂く玉龍雪山と清流が在り、日本で言えば長野県の様な所です。又、大研鎮旧市街や束河村を流れる疎水の風景は郡上八幡の様でもあり、低層の民家がぎっしりと建ち並ぶ様は京都の西ノ京辺りの様でもあり、枝垂れ柳は京都の四条~三条辺りを彷彿とさせ、日本人には何処か「懐かしさ」を感じさせる街です。又老人たちが矍鑠(かくしゃく)として元気で、納西古楽会にも80歳以上の高齢者が幾人も居ました。
 しかし1997年の世界文化遺産登録で新たなスタートを切った麗江は、御多分に洩れず急速な観光開発の波に揉まれ”俗化”が進行しつつ在るのも事実です。麗江大研鎮は10年後には一大観光都市に変貌して居るかも知れません、虎跳峡にエレベーターが付いてるかも知れません、観光客が落として行くマネーが拝金主義の成金社会を生み出して居るかも知れません。そうなった時に麗江固有の文化や景観がどう成っているのか?、世界遺産登録が仇花に成らない事を祈るのみです
 民族の伝統や「文化の固有性」の保持と観光地化の問題については、既に発表して在る私の論考「世界遺産登録で本当に遺跡や文化が守られるのか?」を是非お読み下さい。これは麗江だけで無く日本にも通じる問題なのです。私の麗江訪問記は問題提起の形で終わります。

 この後は中甸編に続きます。この[麗江・中甸の旅]シリーズの他画面への切り換えは最下行のページ・セレクタで行って下さい。(Please switch the page by page selector of the last-line.)

 >>>■その後

 私たちの訪問後の麗江地区の観光開発について新情報を得ましたので、以下に記して置きます。

  [1].本文で自称”東洋一”と書いた玉龍雪山麓のゴルフ場は世界一長いコース(8500ヤード)として02年にオープン完了。
  [2].石鼓長江第一湾~虎跳峡迄の「金沙江下り」遊覧船が02年暮れから就航。所要時間は下り80分、上り100分で20人乗り。料金は180[元/人]。船からの眺めは”絶景”とか。
  [3].大理~麗江間の鉄道敷設案が浮上し、大量輸送手段として既に敷設予定地の調査完了。
<以上は昆明中国国際旅行社日本部提供の「雲南省の新しい観光情報(03年1月号)」より>


 「結び」の章にも記しましたが、麗江の今後の変貌がちと心配です。
    {この記事は04年9月4日に追加}

♪♪♪ つづく ♪♪♪

【脚注】
※1:麗江(れいこう、Lijiang)は、中国雲南省北西部の市。旧市街は世界遺産。ナシ(納西)族独特の文化が残る。近郊には世界一深い渓谷の虎跳峡玉竜雪山(標高5596m)など名所が多い。
※1-1:雪山(せつざん)は、万年雪の有る山を中国では雪山(せつざん)と呼びます。

※2:羌(きょう)は、チベット系の遊牧民族。中国の西北辺、今の甘粛/西蔵/青海方面に拠り、漢代には西羌と呼ばれ、匈奴と連合して西境を侵す。五胡時代に後秦を建国。唐代には党項(タングート)の名で現れ、11世紀には西夏を建てた。
 補足すると、羌とは字の如く「羊の人」、即ち羊を飼う遊牧民を表します。現在四川省西北部に住んで居る羌(チャン)族は古代羌(きょう)の一分枝です。彼等は「万物に霊魂が宿る」というアニミズム的宗教観を持っていてナシ族と共通します。
※2-1:シャーマニズム(shamanism)とは、シャーマンを媒介とした霊的存在との交渉を中心とする宗教様式。極北/シベリア/中央アジア、北米の先住民に一般的で、類似の現象は南アジア/東南アジア/オセアニアなどにも見られる。しかし世界観/超自然観や社会的背景を反映し、一様では無い。中国/朝鮮/日本では巫術巫俗巫女等の名で知られる。
※2-2:シャーマン(shaman)とは、自らをトランス状態(忘我・恍惚)に導き、神/精霊/死者の霊などと直接に交渉し、その力を借りて託宣/予言/治病などを行う宗教的職能者。シベリアのツングース系諸族の例が早くから注目された。日本に於いても古代の巫女である卑弥呼が典型で、現在でも東北地方のイタコや南西諸島のユタなどに特徴が見られる。巫者(ふしゃ)。巫女(みこ)。巫術師(ふじゅつし)。<出典:一部「学研新世紀ビジュアル百科辞典」より>
※2-3:アニミズム(animism)とは、(anima[ラ]「魂・霊魂」から)宗教の原初的な超自然観の一。自然界の有らゆる事物に霊的存在を認めるという信仰。自然界の有らゆる事物は、具体的な形象を持つと同時に、それぞれ固有の霊魂精霊などの霊的存在を有すると見做し、諸現象はその意思や働きに依るものと見做す信仰。<出典:一部「学研新世紀ビジュアル百科辞典」より>

※3:天人合一(てんじんごういつ)とは、中国の世界観の一で、「天」「人」とは「理」を媒介にして一繋がりであり、天意と人事とは相互に因果関係が有ると考えるもの。儒家の天命説道家の無為自然説もこの立場に立ち、易姓革命や讖諱(しんい)思想の背景と成った。又、孟子の天人相通論 -人の心・性は天と通じ合って居るとする考え方- は宋代に発展し、宋学の重要な基礎観念と成った。<出典:一部「学研新世紀ビジュアル百科辞典」より>

※4:パンダ(panda)は、ジャイアントパンダ(giant panda)とレッサーパンダ(lesser panda)の総称。
※4-1:レッサーパンダ(lesser panda[ネパール])は、(「ニーヤラ・パンダ(竹を食うものの意)」に由来)ネコ目パンダ科の哺乳類で、1属1種。体長約60cm、尾長30cm。毛色は背側が赤褐色、腹側は黒褐色、顔に白斑が有る。全体としてアライグマに似る。アッサム地方から中国南西部の森林・竹林に棲み、単独で生活。木の芽・竹の子・果実などを食べる。小パンダ。中国語では小熊猫
※4-2:ジャイアントパンダ(giant panda)は、(「ニーヤラ・パンダ(竹を食うものの意)」に由来)ネコ目パンダ科の哺乳類で、1属1種。頭胴長1.5~2m、尾長20cm程。毛色は白で、目の周囲、耳、肩から前肢、後肢は黒、腹はやや茶褐色を帯びる。中国四川省など、極めて限られた地域に生息。1869年に初めて存在が報告された珍獣。毛皮が美しく、動作も愛らしいので珍重されるが、生息数が少ない上に、主食をササ(笹)/タケ(竹)だけに依存している為、増殖が難しく、絶滅の恐れがある。野生での生息数は数百頭とされる。大パンダ。中国語では大熊猫。日本では通常パンダと呼ばれて居る。

※5:藍染め(あいぞめ)は、藍で染めること。又、その染めたもの。
※5-1:藍(あい)は、タデ(蓼)科の一年草。東南アジアの原産。高さ50~70cm。イヌタデに良く似て、秋に花柄を出し、紅色の小花を穂状に付ける。葉や茎から染料を採る。古く中国から輸入され、江戸時代には四国を中心に広く栽培。三草の一。蓼藍。藍蓼。

※6:土司(どす)とは、元、明、清の時代に少数民族の首領に世襲の官職を与え、その地を支配させた制度。

※7:枝垂れ柳(しだれやなぎ、weeping willow)は、ヤナギ科の落葉高木。原産地は中国で湿地に繁茂。高さ10~15m。枝は細長く、垂れ下がる。雌雄異株。春、葉に先だって暗黄緑色の花を穂状に付ける。種子には白い毛(柳絮)が有る。水辺に植え、又、街路樹として、日本を始め全世界で植栽。糸柳。季語は春。
※7-1:猫柳(ねこやなぎ、pussy willow)は、カワヤナギ(川柳)の季節的な愛称。花穂の銀毛が猫を思わせるので言う。季語は春。
※7-2:川柳(かわやなぎ)は、[1].川辺に生える柳。かわやぎ。
 [2].(「川楊/檉」とも書く)ヤナギ科の落葉低木。水辺に群生、高さ50cm~2m。葉の下面は白色。雌雄異株。春、葉より先に黄白色の花を穂状に付け、銀色の毛を密生。猫柳狗児柳(えのころやなぎ)。季語は春。新撰字鏡[7]「檉、川夜奈支」。

※8:宣科(Xuan Ke)は、麗江ナシ族の民族音楽学者(1930~)。昆明教会学校に学び、長年民族音楽を研究に従事。その後共産党の政策に反対し一時は投獄されたが、大器晩成の典型で後年、幅広い民族学理解と多言語学的知識に基づき各民族の伝統音楽の発掘や民族学の論文を発表し、民族音楽や民族学関係の著作多数。中でも羌の流れを汲むと言われるナシ族のルーツに関して『納西族的遠祖併非羌族』なる書物で「ナシ族は羌にあらず」と主張して居ます。古希を前にして尚、ロンドン大学、オックスフォード大学や中央音楽学院、四川音楽学院、雲南民族学院、雲南大学など、国内外の大学に研究と講義の為に訪れて居ます。
※8-1:「麗江中国大研納西古楽会」は、1981年に宣科氏の発案に拠り結成され、古楽 -特に道教的所作の「古老的楽曲」- の研究と研鑚を積み、且つ若手演奏者を育成して1988年7月より演奏活動を開始。

※9:江沢民(Jiang Zemin)は、中国の政治家(1926~)。江蘇省揚州生れ。電子工業相/上海市長を経て、1989年天安門事件直後、党総書記。93年国家主席を兼任。2004年引退。

※10:小野道風(おののとうふう)は、(名は正しくはミチカゼと読む)平安中期の書家(894~966)。篁(たかむら)の孫。醍醐/朱雀/村上の三朝に歴仕。若くして書に秀で、和様の基礎を築く。藤原佐理(すけまさ)/藤原行成(ゆきなり)と共に三蹟と称される。真蹟として「屏風土代」「玉泉帖」などが在るが、信ずべき仮名の作品は未発見。

※11:ブラウザ/ブラウザー(browser)とは、(browseは拾い読みする意)データファイルの中身に目を通す為のソフトウェア。編集や加工は出来ない。特にインターネットで使うウェブブラウザーを言う。
辞任。

※12:鳥衾(とりぶすま)とは、瓦の一種。大棟(おおむね)又は降棟(くだりむね)の外れに在って、鬼瓦・鬼板の上に突出する長く反った円筒状のもの。雀瓦。

※13:チベタン・スパニエル(Tibetan Spaniel)は、チベット原産愛玩犬種。体高は24~28cm、体重は4~7kg。巻き尾で、歯の噛み合わせが上歯より下歯の方が前に出ている。性格は忠実だが、マイペースで頑固な側面も有る。紀元前の非常に古い時代からチベット仏教(ラマ教)の寺院で大切に飼育され、王族への贈り物にされた。愛玩犬だけで無く、寺院ではマニ車を回す役(←勤行犬と言う)を負って居た。1898年に初めてヨーロッパに紹介された。
※13-1:スパニエル(spaniel)は、(「スペインの」の意から)[1].スペイン原産の犬を指し、一般的にはコッカー・スパニエルを指す。
 [2].スペイン原産に拘泥せず、吻(ふん)が短く、額の位置が高く、耳が大きく垂れた小形~中形の犬の総称。体毛は厚くて長いものが多く、尾は房状と成る。チベット原産のチベタン・スパニエルなどが在り、ヨーロッパ原産のセッター中国原産のペキニーズチン(狆)などもこの系統に入る。<出典:「学研新世紀ビジュアル百科辞典」>
※13-2:マニ車/摩尼車(まにぐるま)とは、チベット仏教(ラマ教)の寺院に在る、経文を蔵した車。一周回すことで一回経文を唱えたのと同等の功徳が有るとされ、信者はこれを回す。経車

    (以上、出典は主に広辞苑です)

【参考文献】
△1:『地球の歩き方104 雲南・四川・貴州と少数民族 1999~2000年版』(「地球の歩き方」編集室、ダイヤモンド社)。

△2:『縮刷版 文化人類学事典』(石川栄吉・梅棹忠夫・大林太良・蒲生正男・佐々木高明・祖父江孝男編、弘文堂)。

△3:『麗江(LIJIANG)』(中国旅遊出版社・麗江地区旅遊局編、中国旅遊出版社)。

△4:CD『納西古楽(Naxi Ancient Music)』(宣科監修、麗江中国大研納西古楽会演奏、周善甫解説)。

●関連リンク
参照ページ(Reference-Page):麗江の地図▼
地図-中国・雲南省北部(Map of Northern part of Yunnan, -China-)
参照ページ(Reference-Page):中国の少数民族▼
資料-中国の55の少数民族(Chinese 55 ETHNIC MINORITIES)
参照ページ(Reference-Page):東洋の占星術について▼
資料-天文用語集(Glossary of Astronomy)
補完ページ(Complementary):「文化の固有性」と観光地化について▼
世界遺産登録で本当に遺跡や文化が守られるのか?(World heritage)
横顔(Profile):「雲南桃源倶楽部」について▼
雲南桃源倶楽部(Yunnan is Shangri-La)
1999年の雲南桃源旅行で麗江行きをキャンセルした事▼
1999年・雲南の旅(昆明/西双版納/大理)
(Kunming, Xishuangbanna, and Dali of Yunnan, China, 1999)

”苦労半顔”氏について(”苦労半顔”氏は私の弟子)▼
上田研而税理士、又の名をハリケーン上田(Hurricane Ueda)
私が麗江で買った掛け軸▼
中国の掛け軸(Chinese Hanging scroll)
麗江のガイドの和玉梅さんや麗江白沙村の土産物売り場の姉ちゃん▼
中国名花集-花の写真館(Chinese Flowers)
麗江や雲南省で最近起こった地震▼
2003年・雲南で大地震、ヨーロッパは熱波
(The earthquake and heat-wave, 2003)

シンボル的山に神を感じる心▼
2003年・年頭所感-感謝の心を思い出そう!
(Be thankful everybody !, 2003 beginning)

中国の豚食▼
昆明の「清真」通り('Qingzhen' street of Kunming, China)
私の弟子・江沢民や私の中国名、小野道風の跳び蛙について▼
エルニーニョ深沢とは何者か?!(Who am I ?)
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