§.2003年・年頭所感−感謝の心を思い出そう!
(Be thankful everybody !, 2003 beginning)

−− 2003.01.06 エルニーニョ深沢(ElNino Fukazawa)
2003.12.18 改訂

 ■はじめに − 2003年の現状を憂う
 現代の日本はモノ(物)やカネ(金)やメディア主導のイベントに大衆が翻弄されて居る時代だと、私は思っているのですが、しかし結局モノやカネに執着して居る大衆は大したモノに在り付けず、カネからは全く見放されて居るのが現状です。イベントに動員されてもカネを取って行くのはメディアの方で、大衆に残るのは時間の浪費と”草臥れ儲け”だけです。「悲しきかな一般大衆」ですね。
 言い換えると、皆が自己の権利を主張し欲しがるだけで「感謝の気持ち」を忘れて居るということです。「花咲爺さん」(※1)などの昔の譬え話の様に、欲しがる奴の所には何も来ないということが現実に起こっている訳ですから、テレビを見ている暇が有ったら昔の譬え話でも読み返したらどうでしょうか、皆さん!!
 2002年11月20日に当サイトを開設して初めての年頭所感は、そんなモノやカネやイベントに振り回され迷走して居る世間を”初っ端”から無視し、世間に逆らって「心」の問題を取り上げます

 ■考察 − 日本人の「心」の原点と「神」信仰の原型について
  ◆日本人の「神」信仰の原型 − それは万物に対する「感謝の気持ち」
 古代の日本人は、「八百万の神」(※2)と言われる如く有らゆる物に霊魂を見出して大切に接して居ました。これはアニミズム(※3)という原始信仰の一形態で日本以外にも在りますが、現代の言葉で解釈すれば「有らゆる物に「存在意義」を認めて”在るが儘”に受け入れる」という態度です。自然や宇宙の森羅万象を「畏(かしこ)きもの」「尊きもの」として捉えて畏敬して居たのです。すると自ずと「有り難きもの」という「感謝の気持ち」が湧き出て来ます。これこそは”信仰以前”の心的動機であって、これが日本人の心の中に在る「神」信仰の原型であると思えます。
 つまり「人は自然や宇宙の中で”生かされて居る”」という発想ですね。”生かされて居る”からこそ、生きて行くことに関わる有らゆる物や自然の恵みに「感謝の気持ち」が”自発的”に湧き起こって来て、特に畏れ多きものを「聖なる物」「聖なる場所」として畏怖し「神々しさ」を感じ取る中から次第に「原始のカミ概念」が生まれたのではないか、そして「カミ的なるもの」から「神」への昇格は「祭(まつり)」が媒介した、と私は考えて居ます。畏敬や感謝という”無形”な「心」を有形化したのが「祭」です。そして人々の長(おさ)として「祭」を執り行う者も「カミ的なるもの」の怒りを鎮静出来る”畏敬すべき力”を持つ者として神格化されて行ったと考えられます。そもそも古代の「政(まつりごと)」=「祭り事」(←これは世界共通)であり、「神」という字は「示」と「申」から成り、「示」は「祭」を表すので「御祭り申す」という意味が込められて居るのです。
 字の意味についてもう一つ言えば、古代人は雷を「神の怒り」と感じて居て、広辞苑を引くと「雷(かみなり)」=「神鳴(かみなり)」と出て居ます。日本の神奈備信仰・磐座信仰(※4、※4−1)はその好例で、即ち神々しい山に「神が鳴って降臨する」と考えて居たと思われます。更には神々しい山に「神が宿る」と。万葉歌(※5)に数多く詠まれた三輪山(※6)や大和三山(※7)などは神奈備山の典型で、特に三輪山の別名の「三諸山(みもろやま)」自体が神奈備山を指す呼称(※4、※6−1)であり、それ故その山麓に日本最古の大神神社(※6−2)が鎮座して居るのも頷けます。本殿を持たない大神神社を拝むことは即ち御神体である三輪山を拝むことに等しいという、この関係こそが神奈備信仰・磐座信仰を具現化した神社拝礼の原初の形(=古神道(※8)の萌芽)であり、やがて現在の各神社の拝礼形式へと多様化して行ったと考えられます。そんな古代人の例として『万葉集』巻13−3228(雑歌)
  神南備の 三諸の山に 齋(いは)ふ杉
    おもひ過ぎめや こけ生(む)すまでに     詠み人知らず

を載せて置きます(△1)が、「杉」と「過ぎ」は掛詞(※9)を成して居ます。
 [ちょっと一言]方向指示(次) 三輪山や大和三山(=耳成山・香具山・畝傍山)は決して高い山では無いですが、奈良の三輪から桜井を歩けば、この三輪山や三山が斯くも多く『万葉集』に詠まれた訳が一目瞭然と解ります。山の高さでは無く、形が良く遠くからでも目立つシンボル的山に古(いにしえ)の人々は神々しさの象徴を感じ、畏れ、崇め、祈り、そして「祭」を催して感謝を表して来ました。これが神奈備山として聖視されるに至った理由と考えられます。又、こういう山は大抵円錐形の富士山型をして居るので多くの場合「××富士」などと呼ばれます。

 尚、この節で述べた考えはその後「学問としての磐座学」という考え方に発展して居ます。{「学問としての磐座学」については03年12月18日に追加}

  ◆神概念の洋の東西比較
  (1)農耕を支配する太陽と日本の神
 アマテラスに象徴される太陽信仰も農耕民族の「感謝の気持ち」が根底を成して居ると考えられます。日本人は基本的には農耕民族なので、太陽が最も大切な存在であったのは当たり前な話で、その他各季節の行事を”歳時記”として日常生活に定着させて行ったのも、以上の様に考えると実に当たり前に理解出来るのです。ですから逆に、有らゆる歳時の行事は全て神を祀る行事であったことも又、当たり前に理解出来ます。ですから日本人が心の中に描く「神」は決してキリストの様な絶対者でも無ければ、天皇ですら在りません。そういうはっきりした”図像”で描けるものでは無く、どちらかと言えば形を成さない抽象的なもので、しかし思わず手を合わせたく成る様なもの、そういったものが日本の神の原型だと思えます。形を成さないからこそ逆に有らゆる物に宿ることが出来るのです。しかし又、形を成さないから説明し難いとも言えますね。ですから外国人から見ると日本人の宗教観は”解り難い”という事に成るのでしょう。

  (2)内発的な日本の神概念と絶対的・外的な西洋の神概念
 この点は西欧のキリスト教やその基に成っているユダヤ教とは対照的です。欧米人の神概念では、ヤハウェにしろキリストにしろ、神には先ずはっきりした人の形をした図像的イメージが有り、「聖書」に具現化されたその言葉と行いは絶対的なもので、人は神と契約し聖書の規律と戒律とで裁かれるのです。これを神信仰の心の動きから見ると、日本の神信仰が万物に対する「感謝の気持ち」という心の内在的な所から”自発的”に生まれて来た抽象的なものであるのに対し、西欧的な神信仰は絶対的・具象的な神が人の存在以前にア・プリオリ(※10)に存在し、聖書に基づき人の行いを外的に規制する形で、言わば”外的な所から強制的に”作用する存在である様に思えます。ですから非常に説明的で、日本の神概念より余程”解り易い”ことも確かです。事実キリスト教の発展史を見ると、有名なニカイア公会議(※11)などを頻繁に開き、自らの正統性を説明し他を論破することに最大のエネルギーを注ぎ込んで来たのです。神は絶対者であり”絶対的に正しい”という訳ですね。この事はあの有名なガリレオの地動説を巡る話で皆さんも良くご存知でしょう。ま、これは西欧人が狩猟民族或いは遊牧民族であること(=非農耕民族)と本質的な関係が有るのかも知れません。

  (3)私の宗教観 − 私に信仰が有るとすれば、「唯悟自然」
 しかし宗教は本来他人に説明したり論破する為に存在する訳ではありません(教団にとっては必要かも知れませんが)。私は未だに宗教に縁遠い人間なので100%の確信を持って断言は出来ませんが、私にとって宗教とは先ずは個人の領域の問題である(=教団や所属社会に左右されない)という大前提が有ります。個人が自己と向き合い自己の内面性のより深い部分で”何か”を体得し「自己再生」した上で、改めて世界を見直す所に宗教の意味が有る様に思えます。その自己再生の契機こそ「心の眼(=心眼)」(※12)を開く端緒であり、「悟り」(※12−1)に至る道だと考えます。ですから私には「教団に入会する」とか「経典を唱える」とか「教会に行ってミサを歌う」という行為は全て外面的な儀式か社交儀礼に過ぎない様に思えます。聖徳太子は
  「世間虚仮、唯仏是真」(=世間は仮の姿、仏道のみが真(まこと))
と語ったと伝えられて居ますが、冒頭に述べた如くモノやカネやイベントに翻弄されて居る世間の状況は正に「虚仮」(※13)です。私の心には神も仏もイエスもアラーも在りません。私は
  「世間虚仮、唯悟自然」(=世間は仮の姿、唯自然を悟るのみ)
という心境です(←「唯悟自然」は私の造語です)。
    {この段の「世間虚仮」の部分は03年1月23日に追加}

  (4)ギリシャ神話に近い日本の神々の世界
 ところで日本の神々は『古事記』に見られる様に、神で在り乍らそんなに正しくも無く色々な失敗もしたり大変”スケベ”だったりします。まあ相対的な存在ですね、この点はギリシャ神話に近いですね。事実、伊邪那岐命の冥界下り話(△2のp26)とオルフェウスの話(△3のp32)など、内容が全く似通ったものも有ります。

 ■アイデンティティーを失い迷走する日本
 まあ、以上の様な訳で、明治以降の極端な西欧化政策の結果、思考方法迄も無理矢理西欧的な鋳型に押し込まれて来たと私には思えます。思考方法というのは、脳の構造に依存して居るそうですから(確か、養老猛司氏が『唯脳論』の中でそう言って居ましたっけ(△4のp23))、幾ら外的に西欧的思考法を注入しても、何処かに”無理”が出て来ます。況してや頭を茶髪・金髪に染めたって西欧的思考法など身に付く訳が有りません!
 その”無理”が今、先の見えない景気の低迷という形で現れて居るのです。今日本が先が見えず迷走して居るのも結局、地に足が着いた確かな考え方、ものの見方が出来て無いからですよ。ドサクサに紛れて大型合併したって何の解決にも成りません、これは将来禍根を残すでしょう。企業の図体を必要以上に大きくすると、それは少数企業の寡占化を生じ、やがて経済の硬直化を引き起こします。こんな事は嘗ての日本が経験して来た筈なんですがねえ、皆さんのお父さん位の世代が、学習効果が有りませんねえ。こういう”量的”な発想ではダメです、日本は今「質的転換」を迫られて居るのです。こういう鈍い感性ではダメですね。もっと自分のアイデンティティーを大切にしないと行けません、借り物の考え方や真似事では最早日本の問題は解決出来ません。それともアメリカが日本の問題を解決して呉れるとでも思っているのですか?

 ■年頭のご挨拶 − 感謝の心を思い出そう!
 毎年廻り来る「年の始め」は原点返りと捉えることが出来ます。今迷走して居る日本の皆さん、権利を主張し欲しがるだけで無く日本人の原点である「感謝の心」を思い出して下さい、そして周囲に翻弄されない自分の生き方を見出す様にしてみて下さい。
 既に単なるイベントとして初詣でをして仕舞った方は、もう一度「感謝の気持ち」を込めて家の近くの神社で初詣での遣り直しをしたら如何でしょう。何も人が一杯集まる所や、テレビが中継に来る所ばっかり行くのが能じゃ有りませんよ!!

 さて、”迷走”して居る皆さんを尻目に、私は又「瞑想」に耽ることにしましょう。その前に自然の恵みに感謝する必要が有りますね。そして申し遅れましたが、今年1年の皆様のご健康と御多幸を祈願致します!
              m(_=_)m  (-_-)
                    _A_

−−− 完 −−−

【脚注】
※1:花咲爺(はなさかじじい)は、(花咲かせ爺の約)昔話の一。枯木に花を咲かせたという翁のお伽噺。愛犬報恩の物語に、欲の深い老人の物真似失敗談を加えたもの。室町末期か江戸初期頃に成る。

※2:八百万(やおよろず)は、数が極めて多いこと。古事記上「―の神」。→千万(ちよろず)。
※2−1:千万(ちよろず)は、限り無く多いこと。せんまん。万葉集2「天の河原に八百万―神の神集ひ集ひいまして」。→八百万(やおよろず)。

※3:アニミズム(animism)とは、(anima[ラ]「魂・霊魂」から)宗教の原初的な超自然観の一。自然界の有らゆる事物に霊的存在を認めるという信仰。自然界の有らゆる事物は、具体的な形象を持つと同時に、それぞれ固有の霊魂精霊などの霊的存在を有すると見做し、諸現象はその意思や働きに依るものと見做す信仰。<出典:一部「学研新世紀ビジュアル百科辞典」より>

※4:神奈備(かんなび、かむなび)とは、神の鎮座する山や森。神社の森。三諸(みもろ)。神名備・神南備・甘南備。祝詞、神賀詞「大三輪の―」。神奈備山とは、神の鎮座する山の意。
※4−1:磐座(いわくら)とは、(イハは堅固の意)[1].神の鎮座する所。岩座。
 [2].山中の大岩や崖。

※5:万葉集(まんにょうしゅう、まんようしゅう)とは、(「万世に伝わるべき集」、又「万(よろず)の葉」即ち「歌の集」の意とも)現存最古の歌集。20巻。仁徳天皇皇后の歌と言われるものから淳仁天皇時代の歌(759年)迄、約350年間の長歌・短歌・旋頭歌(せどうか)・仏足石歌体歌・連歌合せて約4千5百首、漢文の詩・書翰なども収録。編集は大伴家持の手を経たものと考えられる。東歌・防人歌なども含み、豊かな人間性に基づき現実に即した感動を率直に表す調子の高い歌が多い。益荒男振り(ますらおぶり)と評され、古今集以降の手弱女振り(たおやめぶり)と対照的。

※6:三輪山(みわやま)は、奈良県桜井市に在る山。標高467m。古事記崇神天皇紀に、活玉依姫と蛇神美和の神とに依る地名説明伝説が見える。三諸山(みもろやま)。麓に大神神社が鎮座。
※6−1:三諸・御諸(みもろ)とは、神の鎮座する所。神奈備のこと。神木・神山・神社など。古事記下「―の厳白檮(いつかし)がもと」。
※6−2:大神神社(おおみわじんじゃ)は、奈良県桜井市三輪に在る元官幣大社。祭神は大物主大神(おおものぬしのかみ)。大己貴神(おおなむちのかみ)・少彦名神(すくなびこなのかみ)を配祀。我が国最古の神社で、三輪山が神体本殿は無い酒の神として尊崇される。二十二社の一。大和国一の宮。杉の御社。三輪明神。

※7:大和三山(やまとさんざん)は、奈良盆地南部に在る三つの山。古代の藤原京を囲み、北に耳成山、東に香具山、西に畝傍山が在る。

※8:古神道(こしんとう、Old Shintoism)とは、仏教・儒教・道教など外来宗教の強い影響を受ける以前の神道。記紀・万葉集・風土記などに窺われる。

※9:掛詞・懸詞(かけことば)とは、同音異義を利用して、1語に2つ以上の意味を持たせたもの。「待つ」と「松」との意に掛けて、「秋の野に人まつ虫の声すなり」という類。主に韻文に用いられる修辞法の一。

※10:ア・プリオリ(a priori[ラ])とは、(先天的の意)〔哲〕
 [1].発生的意味で生得的なもの。本有的
 [2].経験に基づかない、それに論理的に先立つ認識や概念。カント及び新カント学派の用法。先験的
 [3]演繹的な推理などの経験的根拠を必要としない性質。←→ア・ポステリオリ(a posteriori[ラ])。

※11:ニカイア公会議(―こうかいぎ)とは、325年ローマ皇帝コンスタンティヌス1世がこの地にキリスト教会最初の公会議を召集、アリウス派を異端とし、アタナシウス派を正統とした。又、787年の公会議では聖像問題を議した。
 ニカイア/ニケーア(Nicaea)は、小アジア北西部の古代都市。現在のトルコのイズニク

※12:心眼(しんがん、mind's eye)とは、物事の実体や真相をはっきり見通す鋭い心の働き。しんげん。日葡辞書「シンガンヲアキラムル」。「―に映ずる」、「―を開く」。
※12−1:悟り/覚りとは、[1].perception。理解すること。知ること。又、気付くこと。感付くこと。察知。玄奘表啓平安初期点「識(さとり)、該通に謝(あらざ)れば」。「―が速い」。
 [2].enlightenment。〔仏〕迷いが解けて根本の真理を会得すること。又その会得した真理。法華義疏長保点「此に因て暁(さとり)を得使(し)めむとなり」。新古今和歌集釈教「底清く心の水を澄まさずはいかが―の蓮(はちす)をも見む」。「―の境地」。

※13:虚仮(こけ)とは、[1].〔仏〕内心と外相とが違うこと。真実で無いこと。歎異抄「ひとへに賢善精進の相をほかにしめして、うちには―をいだけるものか」。
 [2].思慮の浅薄なこと。愚かなこと。又、そういう人。洒、辰巳婦言「是もやつぱりおれが―から発(おこっ)たことだ」。
 [3].(名詞などの上に付けて)無闇にするの意を添え、又、貶(けな)して言うのに用いる。「―惜しみ」「―威し」。

    (以上、出典は主に広辞苑です)

【参考文献】
△1:『万葉集(下)』(佐佐木信綱編、岩波文庫)。

△2:『古事記』(倉野憲司校注、岩波文庫)。

△3:『ギリシャ神話』(アポロドーロス著、高津春繁訳、岩波文庫)

△4:『唯脳論』(養老猛司著、ちくま学芸文庫)。

●関連リンク
補完ページ(Complementary):「学問としての磐座学」について▼
2003年・磐座サミットin山添(Iwakura summit in Yamazoe, Nara, 2003)
日本人の「神」信仰の原型を訪ねて▼
2002年冬至・石上奥の大国見山
(Okunimi-yama, Nara, 2002 winter solstice)

2003年・交野七夕伝説を訪ねて(Vega and Altair legend of Katano, 2003)
民族の特徴の類型化▼
民族占い(Comparative Ethnologic approach)
企業寡占化の弊害▼
日本人の自己責任意識を問う
(Self-responsibility consideration of Japanese)

質的転換が必要な日本▼
デフレ論議に疑問を呈す(Is our DEFLATION true ?)


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