2002年冬至・石上奥の大国見山
[磐座探検#1]
(Okunimi-yama, Nara, 2002 winter solstice)

-- 2003.01.09 エルニーニョ深沢(ElNino Fukazawa)
2003.03.20 改訂

 ■はじめに - ハイキングの旅程

 2002年12月22日(日)の冬至の日に発足したばかりの「日本磐座岩刻文字研究会」の皆さんの後に付いて、「山の辺の道」の一角に鎮座する石上神宮(※1)背後の神奈備山(※2)である大国見山(標高約498m)の盃岩の鎮魂祭に行って来ました。この日の旅程は余り詳しくは聞いて無かったのですが、兎に角8:30に森之宮神社(大阪市中央区)に集合という事なので遅れない様に行きました。尚、「日本磐座岩刻文字研究会」の詳細は
  日本磐座岩刻文字研究会(Megalith and ancient sign club)

を参照して下さい。この会は森之宮神社の石崎宮司が主宰して居ます。
 この日の旅程は以下の如くでした。”足”は岡本さんと田村さんが運転する乗用車2台です。

  8:30 森之宮神社集合
  9:00 奥社で「十種大祓(とくさのおおはらい)」の祝詞を上げ朝日を遥拝
  9:30 車2台に分乗し出発
 10:30 石上神宮奥の「桃尾の滝」で下車
       大国見山迄軽く登山
 11:30 大国見山頂上に到達
       頂上の盃岩を清め、注連縄(しめなわ)を張る
 12:00 冬至の正午に「十種大祓」の祝詞(※3)を上げ鎮魂
       その後、直会(なおらい)
 13:30 下山
 14:30 「桃尾の滝」から山添村に車で移動
 15:30 山添村の「牛ヶ峰岩屋桝型」へ登る
       この山には露出した大岩が多い
 17:30 月ヶ瀬温泉
 18:30 帰阪
 20:00 森之宮神社着、帰ってから22:30迄話に花が咲く
 22:30 解散

    天候:薄曇り

 ■大国見山の盃岩を冬至の正午に鎮魂

 という訳で以下は写真をふんだんに載せてこの日の報告します。地図を開いて2つのウィンドーを突き合わせてご覧に為ると良いですよ。
 → 地図を見る(Open the map)

 左下の写真が桃尾山の桃尾の滝で布留川の支流に在ります。石上神宮は古くは布留社(ふるのやしろ)(※1)と呼ばれ、大国見山(奈良県天理市滝本町)は神奈備山として神道の聖地でしたが、同時にこの付近は修験道の聖地(※4)でもありました。実はそういう場所は多く後で訪ねた場所も両方の聖地です。
 滝の前の説明板(右下の写真)には嘗て真言密教の龍福寺が修験道場として栄え明治初期迄存したと書かれて居ます。古来から「布留の滝」として歌に詠まれ、説明板には後嵯峨天皇の歌が紹介されて居ます。
写真1:桃尾の滝。写真2:桃尾の滝を詠んだ後嵯峨天皇の歌。
 因みに清少納言は『枕草子』第61段で「瀧は 音なしの瀧。」として「布留の滝」を挙げて居ます(△1)。
 大国見山へは、この桃尾の滝から奥の山道を登ってって行きます。この日は冬至ですのでモミジはすっかり葉を落として居ましたが、ここは秋には紅葉が綺麗な所です。左の写真が登山途中で撮った南天の実、赤い色が鮮やかです。大国見山の住所の滝本町は「布留の滝」の本(もと)という意味でしょうか。
 約50分程ゆっくり登るともう頂上です。「国見」(※5)という名の通り、頂上からは四方の地勢が見渡せ、右下の写真が西の方に見える天理市街と生駒山の眺望です。
写真3:大国見山の南天。写真3-2:大国見山頂上から生駒山方面の眺望。

 大国見山は高い山では無い、所謂円錐形の整った形をして居て、それ故に神奈備山として古代から崇められて来た山です。頂上には下の写真の様に岩の上面を盃型に彫った盃岩が在り、この盃岩には岩刻文字が刻まれて居ます(左下の写真)。写真では薄ぼんやりして居ますが

    \───○

という、虫が這って居る様な図形が描かれて居ます。
写真4:大国見山頂上の盃岩に刻まれたペトログラフ。写真5:盃岩に注連縄を張ったところ。
写真6:大国見山頂上で全員の写真。
 「日本磐座岩刻文字研究会」のメンバーは、この盃岩こそ古代人が「聖なる山」(=神奈備山)と崇めて来た大国見山の秘めたる「御神体」に違い無いという確信を抱き、この日2002年12月22日の冬至の日にここへ来て盃岩に注連縄を張り岩の盃に御神酒を注ぎ供物を供えた上で、正午きっかりに古代の「十種大祓」の祝詞を上げ、この地を祓い清め古代人の御霊(みたま)を鎮魂したという訳です。
写真7:大国見山頂上やや下のペトログラフ。
 右上はこの日のメイン行事、大国見山頂上の盃岩鎮魂式の後、盃岩をバックに撮った全員の写真。この後「直会(なおらい)」を戴いて下山しました。
 左は大国見山頂上の盃岩を2、30m程下った所に在る岩刻文字の刻まれた岩です。舟形の上に人の顔の様な図像がお判り戴けるでしょうか。ここにも注連縄をして祓い清めて来ました。
 如何でしたか。石上神宮、桃尾の滝、そしてこの大国見山は何れも古代の豪族・物部氏(※1-1)所縁の地です。 

 ■考察 - 冬至の正午に神奈備山を鎮魂する意味

 ここで少し、冬至の正午に神奈備山を鎮魂する意味、について考えてみましょう。

 (1)冬至の正午は1年の始まり

 冬至とは日の長さが最も短く成る日ですね、まあ、こんな事は誰でも知って居ますが、古代人はこの日を1年の再生の日と見做しました。即ち太陽の光が最も弱く成るこの日は、しかしこの日の正午を境にして少しずつ日の光は再び長く成って行く訳ですから、冬至の日の正午は「年が生まれ変わる瞬間」として特別視されました。ですから日本に限らず世界的に、古代の暦は大抵冬至の日を1年の始まりとして居ます。
 今の日本人は商業化し形骸化したクリスマスに付和雷同して居ますが、クリスマスも元々は冬至の祭だったのです。ですから冬至の日の正午に祓い清めるという意義はそれ以後1年間の無病息災を祈る事に成るのです。今の暦の元旦では無く冬至の方が根源的な意味を持つという訳です。

 (2)石上神宮は鎮魂(たまふり)の社

 さて、鎮魂(ちんこん)と言えば実はこの地の神域を守る石上神宮こそ我が国で最初に鎮魂の儀式を行った由緒を持つ鎮魂(たまふり)の社なのです。冒頭で別名を布留社(ふるのやしろ)と記しましたが、「布留(ふる)」=「御霊振(みたまふり)」、即ち「鎮魂」を表して居るのです。
 そもそも石上神宮の創祀は、神武東征の際に国土平定に偉功を立てた平国之剣(くにむけしつるぎ)を布都御魂大神(ふつのみたまおおかみ)と称し、饒速日命降臨の際に天神から授けられた鎮魂の主体である天璽瑞宝十種(あまつしるしみずのたからとくさ) -十種神宝(※3)のこと- の霊力を布留御魂大神(ふるのみたまおおかみ)と称して、物部氏の遠祖・宇摩志麻治命(うましまちのみこと)が鎮魂の儀式を行い神武天皇に奉ったのが起源です(△2のp140~143、p222)。つまり

  布都(フツ)=フツと切る → 剣の武威    → 宮中武器庫の管理
  布留(フル)=御霊をフル → 十種神宝の霊力 → 十種祓詞に依る鎮魂

こそが、石上信仰の骨格です。物部(もののべ)とは「モノノフ」、即ち武威を表す音です。
 石上神宮は古代に於いては特に宮中の尊崇が絶大で、奈良時代以前に「神宮」と呼ばれたのは伊勢神宮と石上神宮だけです。その後物部氏の没落と共に社格は下降し、又「十種大祓」も物部系とされる中臣氏(=藤原氏の祖)の専管儀礼に成ったのです。

 これで私たちが石上神宮の神奈備山で、「冬至の正午に「十種大祓」の祝詞を上げ鎮魂する」意味が、お解り戴けたことと思います。

 ■山添村の「牛ヶ峰岩屋桝型」

 この後は奈良県山辺郡山添村大字北野へ車で移動。布目湖の近くに在る「牛ヶ峰岩屋桝型」は小高い山の中腹に在る磐座です。
写真8-1:「岩屋」の写真。

 下から約30分位登って行くと先ず「岩屋」が在ります(左の写真)。中に護摩壇と小さな仏像が見えて居ますので、ここも修験道の聖地と重なってた訳です。写真は「岩屋」の入口(又は出口)の一つで、中を潜って通り抜け別の出口へ出ることが出来ます(写真では出口は写って居ませんが)。
 「岩屋」と呼ばれる岩の前には下の様な説明板が在ります。これを見るとこの山には昔から巨岩大石が在り、上方に屹立して居る岩には桝の形の切り込みが有ることから「桝型」と呼び、その下方には岩窟が在り護摩壇を設けている「岩屋」という岩が在り、この2つは元は一つの岩だったと記して居ます(下の写真)。
写真8-2:牛ケ峰岩屋枡型の説明札。

 「岩屋」を少し登った所には下の写真の様な、前面を人工的に垂直な平面に加工した大きな岩が現れます。これが「桝型」です(左下の写真)。お堂の上の木の陰で見えなく成っている所に桝の形をした収納庫の入口が在り、垂直面の前にはご覧の様なお堂が在り中には弘法大師(=空海)の像(※6)が安置されて居ます(右下の写真)。上の写真の立て札に拠ると、昔弘法大師がこの「岩屋」に大日如来を彫り付けて、その時使用した鑿(のみ)と槌を「桝型」に納めたそうです。
 何れにしても弘法大師の息の掛かった所に違いは無いですが、この垂直面は磁石で測るとほぼ真西を向いて居て私には古代の鏡石(※7)の様にも見え、仏教以前の磐座信仰の跡と思われます。
写真9:牛ケ峰岩屋枡型の山の大岩。岩は垂直面で真西を向いている。写真10:大岩前のお堂内の弘法大師像。
写真11:お堂の前での全員の写真。 右はこの弘法大師のお堂の前での記念写真 -右端が「日本磐座岩刻文字研究会」会長の石崎さん- です。

 山添村は京都府・奈良県・滋賀県・三重県の県境に位置し車でないと行き難い所(→地図を見る)ですが、逆にそれ故に神秘な遺跡が残って居ると言えます。神野山(こうのさん) -名前からして神憑って居る- の山腹には長さ600mに亘って大小の岩が連なる鍋倉渓や、岩尾神社(磐座を示唆する名前)には十字紋の有る巨石や鏡石(※7)が在り、巨石文化遺跡が散在して居ます(△3、△4のp140~143)。磐座信仰を研究する者にとって山添村は”怪しくてオモロイ”でっせ!

 以上の様に、古代人の「聖なる山」(=神奈備山)を祓い清めて来ましたので、帰りには山添村から程近い月ヶ瀬温泉郷(奈良県添上郡月ヶ瀬村)へ行き我が身も清めて来ました。
 森之宮神社に帰ってからも話に花が咲き、大変楽しく清々しい一日でした。

                (^o^)/

 ■結び - 古代人の聖地を祀る心

 さて今回の盃岩の鎮魂式に同行して、古(いにしえ)の人々の素朴だが確固たる信仰に触れることが出来ました。古の人々がどの様な思いで岩や山を崇める様に成ったのか、解る気がします。私の「個人的見解」のコーナーに「2003年・年頭所感」を記しましたが、その中で私は日本人の信仰の原型について考察して居ます。この論考は私の考え方の基本でもありますので、興味有る方はココをクリックして是非お読み下さい。
 私は現代の日本人(日本人だけでは無いかも知れませんが)に一番欠けているものが、「感謝の心」だと思って居ます。これは”信仰以前”の心的動機であって、自分自身や他人に対して、そして我々が存在して居る宇宙というものに対して、もっと謙虚に成らなければ行けないと思って居ます。古(いにしえ)の人々の神奈備信仰の根本にはそういう謙虚な「感謝の心」が宿って居る様な気がします。

 尚、このページは古代人の霊感に触れる[磐座探検]シリーズの一つです。[磐座探検]シリーズの他画面への切り換えは最下行のページ・セレクタで行って下さい。(Please switch the page by page selector of the last-line.)

φ-- おしまい --ψ

【脚注】
※1:石上神宮(いそのかみじんぐう)は、奈良県天理市布留町に在る物部氏所縁の元官幣大社。祭神は布都御魂大神(ふつのみたまのおおかみ)で霊剣の化身。二十二社の一。布留社(ふるのやしろ)。所蔵の七支刀が著名。
※1-1:物部氏(もののべし)は、古代の大豪族。姓は連(むらじ)。饒速日命(にぎはやひのみこと)の子孫と称し、天皇の親衛軍を率い、連姓諸氏の中では大伴氏と共に最有力と成って、族長は代々大連(おおむらじ)に就任したが、6世紀半ば仏教受容に反対、大連の守屋は大臣の蘇我馬子及び皇族らの連合軍と戦って敗死。律令時代には、一族の石上・榎井氏らが朝廷に復活。
※1-2:布都御魂(又は韴霊)とは、(フツは断ち切る様を言う)日本神話で、天照大神(及び高木神)の神慮に依り、神武天皇が熊野の人高倉下(たかくらじ)から受け、国土を平定したという霊剣。石上神宮の祭神。

※2:神奈備(かんなび、かむなび)とは、神の鎮座する山や森。神社の森。三諸(みもろ)。神名備・神南備・甘南備。祝詞、神賀詞「大三輪の―」。神奈備山とは、神の鎮座する山の意。

※3:十種神宝(とくさのかんだから)とは、饒速日命(にぎはやひのみこと)がこの国に降った時、天神が授けたという10種の宝。即ち瀛都鏡(おきつかがみ)・辺都鏡(へつかがみ)・八握剣(やつかのつるぎ)・生玉(いくたま)・足玉(たるたま)・死反玉(まかるかえしたま)・道反玉(ちがえしのたま)・蛇比礼(おろちのひれ)・蜂比礼(はちのひれ)・品物比礼(くさもののひれ)を言う。
※3-1:領巾・肩巾・比礼(ひれ)とは、(「風に閃くもの」の意)
 [1].古代、波を起こしたり、害虫・毒蛇などを払ったりする呪力が有ると信じられた布様のもの。古事記上「蛇の―...呉公(むかで)蜂の―を授けて」。
 [2].奈良・平安時代に用いられた女子服飾具。首に掛け、左右へ長く垂らした布帛。別れを惜しむ時などにこれを振った。欽明紀「韓国(からくに)の城(き)の上に立ちて大葉子は―振らすも日本(やまと)へ向きて」。
 [3].平安時代、鏡台の付属品として、鏡を拭うなどに用いた布。
 [4].儀式の矛などに付ける小さい旗。

※4:修験道(しゅげんどう)は、役小角(えんのおづぬ)を祖と仰ぐ日本仏教の一派。日本古来の山岳信仰に基づくもので、元々山中の修行に依る呪力の獲得を目的としたが、後世の教義では、自然との一体化に依る即身成仏を重視する。中世に天台系の本山派と真言系の当山派が確立した。
※4-1:役小角(えんのおづぬ)は、7世紀前半の呪術者。修験道の開祖と崇められるが、多分に伝説的な人物で「日本霊異記」「今昔物語集」などに多くの説話が残り、各地の山岳信仰に結び付いた伝説が在る。大和国の葛城山で修行し、吉野の金峰山・大峰山の道場を開いたが、術で人を惑わす事が多かったので、699年韓国連広足の讒(ざん)に因って伊豆国に流されたと「続日本紀」に記録されて居る。諡号は神変大菩薩。役優婆塞(えんのうばそく)。役行者。<出典:一部「学研新世紀ビジュアル百科辞典」より>

※5:国の形勢を高所から望み見ること。元は農耕儀礼。万葉集1「天の香具山登り立ち―をすれば」。

※6:空海(くうかい)は、平安初期の僧(774~835)。我が国真言宗の開祖讃岐の人。灌頂号は遍照金剛。初め大学で学び、後に仏門に入り四国で修行、804年(延暦23)入唐して恵果(けいか)に学び、806年(大同1)帰朝。京都の東寺・高野山金剛峯寺の経営に努めた他、宮中真言院や後七日御修法の設営に依って真言密教を国家仏教として定着させた。又、身分を問わない学校として綜芸種智院(しゅげいしゅちいん)を設立。詩文に長じ、又、三筆の一。著「三教指帰」「性霊集」「文鏡秘府論」「十住心論」「篆隷万象名義」など。諡号は弘法大師

※7:鏡石/鏡岩(mirror rock)とは、表面に光沢が有って、物の影の良く映る石。各地にこの名の石が在り、種々の伝説を伴う。

    (以上、出典は主に広辞苑です)

【参考文献】
△1:『枕草子』(池田亀鑑校訂、岩波文庫)。

△2:『神道の本(八百万の神々がつどう神秘的祭祀の世界)』(学研編・発行)。

△3:「奈良県山添村」公式サイト。

△4:『古代文明 天文と巨石の謎』(吉村作治監修、光文社文庫)。

●関連リンク
参照ページ(Reference-Page):大国見山、山添村の地図▼
地図-日本・奈良県石上神宮と山添村
(Map of Isonokami and Yamazoe, Nara -Japan-)

横顔(Profile):磐座や「日本磐座岩刻文字研究会」について▼
日本磐座岩刻文字研究会(Megalith and ancient sign club)
横顔(Profile):森之宮神社について▼
鵲森宮と「美しい日本文化研究所」
(Kasasagi-Morinomiya and Elegant JPN culture)

日本人の信仰の原型について▼
2003年・年頭所感-感謝の心を思い出そう!
(Be thankful everybody !, 2003 beginning)

物部氏・石上神宮についての詳細▼
(「神奈備にようこそ」のサイトをご覧下さい)
外部サイトへ一発リンク!(External links '1-PATSU !')


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