−− 2004.10.22 エルニーニョ深沢(ElNino Fukazawa)
2010.05.10 改訂
04年4月24日(土)に、例に依って「日本磐座岩刻文字研究会」の面々と出雲大神宮(京都府亀岡市千歳町出雲)の御神体山に登りました(→亀岡市の地図)。この神社は丹波国一の宮ですが、この日は一の宮巡りでは無く磐座探検です。一の宮巡りは「美しい日本文化研究所」が初詣でとして毎年挙行してる行事で今年は紀伊国一の宮の丹生都比売神社で、私も1月に同行し参拝して来ました。ま、どちらも森之宮神社の石崎宮司が主宰してるのでメンバーは殆ど同じ、というのが実情です。
この日は晴れで暖かく絶好のお出掛け日和、アウトドア日和でした。大阪市中央区の森之宮神社に集合し岡本さんの運転するライトバンで亀岡に向かいました。神社は亀岡市中心部の真北約5kmの位置に在ります。この日は出雲大神宮御神体山の磐座を探検する以外には然して特別の予定も無く成り行き任せでしたが、却って色々と”未知との遭遇”(→後のお楽しみ)が有り面白かったですね。
右が出雲大神宮の御神体山である御蔭山(御影山とも書く)です。境内の西側から見るとこの様に整った円錐形に見え、これが聖山たる神奈備山に共通した特徴であり日本人の「神」信仰の原型を見て取ることが出来ます。この形は人々を魅了し延いては御神体山として崇められて行くのです。
我々はこの神々しく見える御神体山をこれから登る為にわざわざ遣って来たのですが、物事の順序として山に登る前に出雲大神宮の由緒や境内の様子を先にご紹介しましょう。
(1)「元出雲」と言われる”飛んでる由緒”
由緒書に拠れば、創建は和銅2(709)年とされ延喜式神名帳(※1、※1−1)の丹波国桑田郡に出雲神社と載る丹波国一の宮です。主祭神は大国主命とその后の三穂津姫命の二柱が公式発表ですが、これとは別に天津彦根命・天夷鳥命・三穂津姫命の三柱説や三穂津姫命のみの一柱説が存在し、大国主命を欠く理由は何れも和銅年間に大国主命を”当社から杵築の地(=出雲大社)に遷座”させたという『丹波国風土記』の記述を根拠として居ます。これが為に当社は「元出雲」と呼ばれる訳ですが、出雲大社より歴史が古いとは実に”飛んでる話”です。江戸時代迄は今の出雲大社のことを杵築大社(きづきのおおやしろ)とか単に大社(おおやしろ)と呼んで居ましたので、出雲社と言う場合は当社を指して居たのは事実ですが。
しかし『徒然草』第236段(△1)に
丹波に出雲と云ふ所あり。大社をうつして、めでたくつくれり。
と在る様に、杵築大社(=出雲大社)から分霊を勧請し当社を創祀したと考えるのが世間の常識です。序でに同段には
御前なる獅子・狛犬、背きて、後ろさまに立ちたりければ、...
とも記され、狛犬が後ろ向きだった様ですが注意して見ませんでした。
左は鎌倉時代の元徳年間(1329〜1331年)に建立され更に足利尊氏が南北朝の貞和2(1346)年に修築したと伝えられる三間社流造の本殿(国の重要文化財)です。本殿の一部は改修中でした。
当社の祭礼では毎年4月18日に行われる鎮花祭(又は花鎮祭)が知られ、風流踊の一種の風流花踊(京都府無形民俗文化財、※2)が奉納されます。
ところで、天夷鳥命は天穂日命(※3)の子で、天穂日命は千家氏(せんげし) −代々出雲大社の宮司を務める(※3−1)− や土師氏の祖とされて居ます。この様なことから、この地に住み着いた出雲系の有力豪族に依って祀られた神社と考えられます。
左は境内の南側の弁財天社(←正面に見える赤い部分)が守る池の端から見た御神体山の御蔭山(又は御影山)の姿です。ご覧の様に実は双子峰で総体を千年山(ちとせやま)と言い、住所の千歳町はこれに由来し、当社の別名を千年宮(ちとせのみや)とも言います。
由緒書に拠れば、御蔭山は国常立尊(※4)が鎮座する神域とか。天地開闢と共に現れた国常立尊が坐す山を御神体とする事は「元出雲」に相応しい古さを補完してる様に思えます。
以上の様に、出雲大神宮は古代の原初的祭祀形態を残していて本来の意味の古神道の形(※5)を覗わせます。
(2)境内摂社・末社
右が案内板の境内案内図です。既に見て来た本殿や境内社の配置関係が判ります。御蔭山中腹には幾つかの磐座空間が在り、御蔭山中腹に古墳も在ることが読み取れます。
(3)御蔭山の磐座
案内図を見ると磐座は2箇所に在りますが、我々は案内図内の右上方に記された磐座を目指すことにし登り始めました。
所々に左の様な注連縄を巻いた小さな岩が在ります。
右が目指した磐座です。注連縄で囲まれ、「磐座」と記した立て札の横の木の台上には”ちゃっかり”と賽銭箱が置かれて居ました。ご覧の様に高さ1m位の岩と3本の木が「亀と蛇」の玄武(※6)の様に絡み合ったものです。
この奥に大きな岩が見えて居ましたので、我々は巨岩を求めて道の無い崖を登って分け入ることにしました。左下は高さ3m位の大岩を見上げたものですが、写真では判り難いですね。
右下は高さ1m位の岩が2つですが、右側の岩には層状の模様が見えます。
左は高さ3m位の崖の洞窟の跡らしき痕跡です。写真の右上方の赤い部分は山躑躅(つつじ)です。
右はちょっと卑猥な窪みです。私はこういうオブジェが大好きです。
我々はこの崖の上の見晴らしが良い場所で各自持参の弁当で昼食です。私はコンビニの「おにぎり」です。
山中には所々に山椒の木が自生して居た(左の写真)ので、山椒の葉を摘んで両手で葉をパチンと叩いて「おにぎり」と一緒に食べたらとても旨かったですね。とても良い香りでした。
右は南西に見えるJR千代川駅方面(亀岡市千代川町)の市街地の眺望です。
帰りは愛宕山下〜嵯峨野(→嵯峨野の地図)に向けて府道を走りました。途中私は少し眠って居ましたが目覚めた時に水を張った棚田が眼前に見えたので車を急停止して貰い撮ったのが左下の写真です。直ぐ近くの府道沿いには地元の土産物売り場の様な建物(右下の下の写真) −実は樒原特産物加工場− が在りました。実は私は建物前面の直径2m位の”大きな樽”に真っ先に目が行って仕舞いましたが、樽の上には
ようこそ鎧田の里樒原
と書いた板が在りました(右下の上の写真)ので、ここが樒原(しきみがはら)という地名でこの棚田を中心に「鎧田の里」と呼ばれて居る事を知りました。僅かに垣間見ただけですが、ご覧の様に各々の田の湾曲具合に何とも言えぬ味わいが在り一目で気に入りました。冒頭で示唆した”未知との遭遇”とはこの棚田との出会いの事でした。こういう思わぬ所での「思わぬ発見」こそ旅の醍醐味 −今回はちょっとしたハイキングでしたが小さな旅とも言えます− で、私はこの良き偶然に感謝したい気持ちで一杯に成りました。
上の写真は棚田の山腹斜面を上方から撮ったものですが、棚田は約800枚在るそうで棚田斜面を遠方から見ると鎧の様に見えるので鎧田との事です。
帰ってから調べるとここの住所は京都市右京区嵯峨樒原鎧田です。京都市内というのが驚きですね。地図を見ると、ここは京都市の西北部で亀岡市との市境、即ち”境の地”です。車では出雲大神宮からここ迄は随分迂回して来て居ます(→ルートは後述)が、樒原は大神宮から東北東に直線距離で僅か約3kmの地点に位置して居ます。飛べたら近いのです。
私は中国では元陽の世界最大級の棚田や龍勝の大規模な棚田を見て来て居ます。土産物を売ってる小母さんに拠れば僅かな本数乍らここをバスが運行してるという話です。するとドアが付いてる大きな樽は待合室か?、そんな疑問も湧きこの棚田は改めて是非一度再訪したい場所です(→「その後」の章を参照)。
樒原を後にし再び車で愛宕山(※7)の麓を通過して暫く狭い道を行くと前方にJR山陰本線の保津峡駅が見えて来ました(→保津峡の地図)。左下の写真の橋上が駅のホーム(無人駅)で、京都行きの電車がちょうど走り出した瞬間です。我々は車から降り無人駅なので駅のホームに入るとホームの両側はトンネルです。私はホームの上即ち橋の上から保津川(※8)を覗き込みました。素晴らしい眺めです。
ゴールデンウィーク直前の観光シーズンなので有名な保津川下りの川舟がお客を乗せて急流を下って行くのが見えました(右下の写真)。望遠で見ると、お客を10数人乗せ舟の前に立つ船頭と後に立つ船頭の2人が竿で巧みに舟を操り、更に別の1人が櫂(かい)で漕いで居ます。
眼下には嵯峨野観光鉄道の保津峡駅と名物のトロッコ列車が見えます。トロッコ保津峡駅から対岸に架かってるのは吊橋ですが鵜飼橋という名前ですので、鵜飼で鮎(あゆ)などを捕って居たのでしょう。鵜飼橋の背後では鯉幟も川幅一杯に泳いでましたよ(右の写真)。
この様にJR保津峡駅からの眺望は抜群で、このホームに立つだけで保津峡観光を充分楽しめるという「思わぬ発見」を、又々して仕舞いました。
ところで、この辺りは京都市右京区嵯峨水尾と西京区嵐山北松尾山と亀岡市保津町が拮抗してる場所です。何処の自治体も観光地を”我が町”に取り込みたいのでしょうが、逆にこの様な”境の地”に跨ってる場所だからこそ京都中心部から僅か20分という近さにも拘わらず俗化を免れて居るとも言えます、樒原も”境の地”でしたが。
この保津川(※8)は丹波山地から流れる大堰川(おおいがわ)の一部ですが観光地の嵐山(←ここも嘗ての鵜飼漁の地)に流れ込み桂川(※8−1)と成り、やがて宇治川に合流し最後は淀川に成り海に出ます。川の水も旅をしているのですね。『方丈記』の冒頭に在る様に、正に「ゆく河の流れは絶えずして、しかも、もとの水にあらず。」と実感しました(△2のp9)。
ところで、この日の帰りのルートですが、出雲大神宮を出発して樒原・保津峡を通ってるということは地図で調べると、我々は大神宮前の府道を北上して亀岡市旭町で国道477号に入り京都市との市境の峠 −鬱蒼とした山道でした− を越して越畑(右京区嵯峨越畑)に行き、越畑から府道を南下して樒原(右京区嵯峨樒原)〜保津峡(右京区嵯峨水尾)〜嵐山(西京区嵐山)〜向日市、と経て大阪市に向かいましたが、大阪への道路は渋滞模様。そこで高槻市で高速道路を出て摂津峡 −厳密には摂津峡入口の高槻市塚脇の温泉街(→地図を参照)− に寄り温泉で疲れを取り除くことにしました、石崎宮司は温泉好きなのです。ここは交野に行った帰りにも寄った所です。左下は温泉宿(←我々は宿泊せず)の庭先に居た茶トラのノラ猫ですが、口を開けて鳴いて居る姿は山猫みたいでした。
上空には三日月が冴え冴えと光って居ました(右の写真)が、04年4月24日は旧暦の3月6日、月齢4.6の三日月です。
温泉で疲れを癒してる間に渋滞も終わり、つまり世の中というのは大体こういうものなので、我々は悠々と大阪に帰ることが出来ました。今日も良い旅が出来て満足です、皆さんも良い旅をして下さい!
(^o^)/
>>>■その後
●10年5月10日、樒原の棚田の再訪記事をアップ
頭の片隅に引っ掛かっていた樒原の棚田ですが、10年5月1日に遂に再訪を果たしました、実に6年振りです。そして5月10日に再訪記事の第1弾をアップしましたので、どうぞ▼下のページ▼をご覧下さい。
2010年・京都樒原の棚田(Rice terrace of Shikimigahara, Kyoto, 2010)
{この章は10年5月10日に追加}
【脚注】
※1:延喜式(えんぎしき)とは、弘仁式・貞観式の後を承けて編修された律令の施行細則。平安初期の禁中の年中儀式や制度などの事を漢文で記す。50巻。905年(延喜5)藤原時平・紀長谷雄・三善清行らが勅を受け、時平の没後、忠平が業を継ぎ、927年(延長5)撰進。967年(康保4)施行。
※1−1:神名帳(しんめいちょう/じんみょうちょう)とは、神祇の名称を記した帳簿。特に延喜式巻9・巻10の神名式を言い、毎年祈年祭(としごいのまつり)の幣帛に与る宮中・京中・五畿七道の神社3132座を国郡別に登載する。この延喜式神名帳に登載された神社を式内社、それ以外を式外社と言う。
※2:風流踊(ふうりゅうおどり)とは、(「みやびやかな」の意から出たもの)日本芸能の一。趣向を凝らした作り物や仮装を伴う。下学集「風流。風情義也。日本俗呼拍子物曰風流」。太平記23「御堂の庭に桟敷を打つて舞台をしき、種々の―を尽さんとす」。
※3:天穂日命(あまのほひのみこと)は、日本神話で、素戔嗚尊と天照大神の誓約(うけい)の際に生れた子。天孫降臨に先立ち、出雲国に降り、大国主命祭祀の祭主と成る。出雲国造らの祖とする。千家氏(=出雲大社の宮司)はその子孫と言う。又、その子が天夷鳥命(あまのひなどりのみこと)で、武蔵国造や近江国造などの祖とされる。
※3−1:千家(せんげ)は、出雲国造家の一。代々出雲大社の宮司に任ずる。
※4:国常立尊(くにのとこたちのみこと)は、日本書紀の冒頭に記されて居る、天地開闢と共に最初に現れた神。国底立尊(くにのそこたちのみこと)。
補足すると、古事記で天地開闢の時に現れた神は天常立神(あまのとこたちのかみ)。
※5:古神道(こしんとう、Old Shintoism)とは、仏教・儒教・道教など外来宗教の強い影響を受ける以前の神道。記紀・万葉集・風土記などに窺われる。
※6:玄武(げんぶ)は、青竜/朱雀/白虎と共に天の四方を司る四神の一。玄は五行説で北方に配し、水の神で、亀に蛇の巻き付いた姿に表す。→北狄。
※7:愛宕山(あたごさん/あたごやま)は、京都市北西部、上嵯峨の北部に在る山。標高924m。山頂に愛宕神社が在って、雷神を祀り、防火の守護神とする。
※8:保津川(ほづがわ)は、大堰川(おおいがわ)の一部。通常、亀岡盆地と京都盆地との間の山地を流れる部分を言う。嵐山付近から下流は桂川と成る。保津川下りで有名。ほうづがわ。
※8−1:桂川(かつらがわ)は、京都市南西部を流れる川。大堰川(おおいがわ)の下流。鴨川を合せ、宇治川に合流して淀川と成る。嘗ては鮎の産で有名。
(以上、出典は主に広辞苑です)
【参考文献】
△1:『徒然草』(吉田兼好著、西尾実校注、岩波文庫)。
△2:『方丈記』(鴨長明著、市古貞次校注、岩波文庫)。
●関連リンク
@参照ページ(Reference-Page):亀岡市や嵯峨野や保津峡の地図▼
地図−日本・京都府(Map of Kyoto prefecture, -Japan-)
@参照ページ(Reference-Page):高槻市摂津峡の地図▼
地図−日本・枚方、交野市周辺(Map of Hirakata, Katano etc, Osaka -Japan-)
@参照ページ(Reference-Page):日本の旧暦と月の形について▼
資料−「太陽・月と暦」早解り(Quick guide to 'Sun, Moon, and CALENDAR')
@横顔(Profile):磐座や神奈備山や「日本磐座岩刻文字研究会」について▼
日本磐座岩刻文字研究会(Megalith and ancient sign club)
@横顔(Profile):森之宮神社と「美しい日本文化研究所」について▼
鵲森宮と「美しい日本文化研究所」
(Kasasagi-Morinomiya and Elegant JPN culture)
@補完ページ(Complementary):2010年、樒原の棚田を遂に再訪▼
2010年・京都樒原の棚田(Rice terrace of Shikimigahara, Kyoto, 2010)
日本人の「神」信仰の原型や神奈備山や古神道について▼
2003年・年頭所感−感謝の心を思い出そう!
(Be thankful everybody !, 2003 beginning)
「思わぬ発見」こそ旅の醍醐味▼
「日本再発見の旅」の心(Travel mind of Japan rediscovery)
”境の地”の恩恵▼
2003年・伊賀忍者村訪問記(Iga NINJA-village, Mie, 2003)
中国の大規模な棚田▼
2002年・三江のトン族を訪ねて(Dong zu of Sanjiang, China, 2002)
保津川(大堰川)の下流の風景▼
2003年・京都禅寺探訪(Zen temple of Kyoto, 2003)
私の淀川(My Yodo-river, Osaka)
摂津峡の山猫みたいなノラ猫▼
ノラ猫狂詩曲(What's new PUSSYCATS ?, Japan)