2003年・京都禅寺探訪
[三成の子孫は生きていた!]
(Zen temple of Kyoto, 2003)

-- 2003.05.21 エルニーニョ深沢(ElNino Fukazawa)
2004.02.07 改訂

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 ■はじめに - 禅宗入門

 2003年5月4日(日)の快晴のこの日、「関西歴史散歩の会」(下村治男会長)の皆さんの後に付いて京都洛西の禅寺巡りに行って来ました。これはその随行記で、【参考文献】△1がこの記事全般の基本資料です。

写真1:やはり5月はツツジです(妙心寺で撮影)。 JR嵯峨野線の花園駅を起点に妙心寺と等持院、そして途中嵐電(京福電鉄嵐山線のこと、地元では皆「らんでん」と呼びます)に乗って車折神社、天竜寺境内を通って阪急嵐山駅迄を、それぞれに纏わる歴史的エピソードを、この日の講師・稲垣隆造氏の解説を聴き乍ら楽しく散策しました。
 日本の禅宗(※1、※1-1)には臨済宗曹洞宗黄檗宗と在りますが、京都の禅寺は殆どが臨済宗で、この日巡る寺も全て臨済宗(※1-2~※1-4)です。私は禅宗と言うと坐禅座禅)(※1-5)位しか知りません。
 ところで右の写真はこの日、妙心寺の塔頭(※1-6)で撮った白ツツジ、5月はツツジの季節ですね。
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 ■妙心寺

 (1)花園上皇と妙心寺

 花園上皇(※2)は大徳寺の開祖・宗峰妙超に帰依し臨済禅を学び出家して洛西の地に離宮萩原殿を建てここに住まわれました。そして1342(康永元年)年、大徳寺で知遇を得た関山慧玄(※3)を開山として招き、離宮を改めて禅刹とし「妙心寺」と名付けたのが始まりで、上皇はその傍らに玉鳳院を建てて塔所とされました。妙心寺の現住所は京都市右京区花園妙心寺町、この様に花園の名は地名としても駅名としても今に残って居ます。
 正法山妙心寺は敷地面積約16万㎡(=4万8千坪)、七堂伽藍と47塔頭を抱える臨済宗妙心寺派本山です。更に末寺として、あの石庭で有名な竜安寺を始めとして、全国で約3500もの寺を擁する臨済宗中最大勢力の総元締めです。この様に大勢力に成った背景には室町時代の五山十刹制度(※4)の施行で、皮肉にも叢林と呼ばれる官寺に組み込まれず、非官制(林下)の寺として民間布教に力を入れたことが挙げられます。応仁の乱で一度は大破しましたが、その後豊臣、徳川家の諸大名らの帰依を受けて復興しました。
 築地塀で包まれた敷地には広い参道が続き、南の勅使門より中央に放生池、三門、仏殿(本尊は釈迦如来)、法堂、寝堂、大方丈(※5)、小方丈、座裡と続き、東側に浴室、鐘楼、経蔵、開山堂と玉鳳院が在ります。所謂観光スポットとしては法堂天井画「八方睨みの龍」(狩野探幽作)(※6)や「明智風呂」(→後出)や国宝の梵鐘、塔頭の中で拝観出来る退蔵院、桂春院、大心院などでしょう。特に退蔵院の禅問答の公案(※1-2)「ぬるりとした鯰を瓢箪で押さえられるか?」を描いた国宝『瓢鮎図』(如拙作)(※7、※7-1)は有名です。
写真a1:三門。

 写真を見て戴きましょう。右が三門(桃山期の作で重要文化財)で5間3戸、重層、入母屋造、本瓦葺の唐様建築。朱の色がとても鮮やかです。2階の回廊に上がって見学して居る人の姿が見えます。

 左下の写真が三門脇の参道から大方丈を撮ったものでご覧の様に広大な敷地です。所謂七堂伽藍の部分で、左側手前が仏殿(江戸期、重文)、その奥が法堂(江戸期、重文)、参道正面の一番奥が大方丈(江戸期、重文)です。
 右下の写真は仏殿の前庭の松の実、これが枯れて落ちると松ぼっくりです。松の木の各枝一杯に黄金色の実を付けている姿はとても綺麗でした。私たちは広い境内を散策し乍ら正面に見えている大方丈に向かいました。
写真a2:参道より大方丈を望む。写真a3:仏殿前の松の実。

 私たちは先ず大方丈を見学しました。左下が大方丈(江戸期、重文)で、単層、入母屋造、檜皮葺。隣に小方丈が続いて居ます。方丈とは【脚注】※5に在る様に寺の住持が住まう所ですが、ご覧の様に檜皮葺の屋根が温もりを感じさせます。そして右下が大方丈の庭で、枯山水(※1-7)です。
写真a4:桧皮葺の大方丈。写真a5:大方丈の庭。
写真a6:大方丈の襖絵。
 左が大方丈内部の襖絵山水図です。この部屋はこの様な襖絵山水図・獅子図で囲まれて居て、狩野探幽(※6)・益信の筆と伝えられて居ます。

 この後七堂伽藍を離れて境内北西に在る寿聖院に向かいます。途中、所謂「○○院」と名の付く塔頭を幾つかを通り過ぎて行きましたが、これら塔頭の庭にはそれぞれの雅趣が有り落ち付きの有る日本美を見せて居ます。

 下の写真はそんな塔頭の庭のスナップです。左が白い牡丹、真ん中がツツジ、そして右が塔頭の庭の全景です。石畳が好いですね。
写真a7-1:塔頭の庭の牡丹。写真a7-2:塔頭の庭のツツジ。写真a8:塔頭の庭。

 (2)寿聖院と石田三成

 寿聖院(じゅしょういん)は1599(慶長14)年、即ち関ケ原の合戦の1年前に、石田三成(※8)が父・正継の菩提寺として妙心寺伯浦恵稜和尚を開基として創建したもので、妙心寺47塔頭の一つです。しかし関ケ原の敗戦の為一部書院のみを残し全面解体されたのですが、元和年間に当院第3世・宗享(=三成の長男・重家)が竜安寺末寺の材を集めて再建し、現在の形に成って居ます。創建当時の東門は現在妙心寺の北門に、西門は西隣の天翔院の門に成っているそうです。院内の墓地には三成と家族の供養塔が在ります。本堂の南に在る庭園は桃山時代のものです(△2)。
 尚、六条河原で処刑された三成の遺骸は、生前より親交の深かった大徳寺の春屋宗園に引き取られ、三成自らが創建した大徳寺三玄院に葬られました。三玄院の三成公墓所には傍らに兄正澄とその子の供養塔が在ります。
 左下が寿聖院とその前庭です、左に松、正面奥に今はツツジが咲いて居ますが、その後ろに桜が在り、4月初め頃には桜花が咲きます。右下が門の表札とその右側の板に三成の歌が書かれて居ます。字が小さいですが読めるでしょうか?

  散残る紅葉は殊にいとほしき
    秋の名残はこればかりぞと   三成


と書いて在ります。
写真a9-1:寿聖院の玄関部。写真a9-2:寿聖院の門。門の右に三成の歌を掲げてある。
写真a10:寿聖院本堂の中庭。
 右が寿聖院本堂の中庭です。石が巧みに配置され松を主体に紅葉などをあしらい、良く整備されて居ます。松を雲形に刈り込んで居て木が盆栽の様に見えます。
 こういう中庭方式の松を雲形に仕上げる庭造りは中国四川省辺りのちょっとした家で今でも良く見掛ける様式です(四川省では盆栽も盛んです)。ま、造園技術及び審美観も元々は中国から伝わったものでしょうが。
 

 左下が本堂の隣室で三成の家族の肖像画が掛けられて在ります。
写真a11:寿聖院本堂の三成一族の肖像画。 上の額が4つ並んで居る左端がこの塔頭の名に成っている寿聖院・正継(三成の父)、右端が瑞岳院(母)、下の掛け軸の左がこの寿聖院を再興した済院・重家(三成の長男=宗享禅師)、そして右が歴史関係の本に良く出て来る江東院・石田三成の肖像画です。法名の江東院は三成が琵琶湖東岸の長浜(=近江国)の生まれで佐和山城主だったからです。
 そして下段右端の本堂には三成直筆の書の掛け軸が掛かって居ます。書の部分を拡大したのが下の写真です。
写真12:三成直筆の書。

 さて今回、妙心寺を訪れた一番の目的は「寿聖院」と石田三成の因縁を谷口楚碩和尚直々の講話で拝聴することでした。この寿聖院は普段は非公開なのですが、この日谷口和尚は私たちの為に特別に時間を割いて下さり、ご高齢にも関わらず約30分間三成に対する想いを語って呉れました。下が講話して居る谷口和尚です。
写真a13:三成直筆の書と仏壇の前で講話する谷口楚碩和尚。
写真a14:本堂の仏壇。
 上の写真の様に、和尚は三成直筆の書の掛け軸と仏壇に囲まれた本堂中央で、石田三成一族と寿聖院との関わりや後述する三成の末裔達の話などを実に情熱的に語って下さいました。少し耳が遠く成っている様でしたが、ご覧の様に非常に元気なお姿でした。

 右が本堂の仏壇です。
 


写真a15:寿聖院の屋根瓦の九曜の家紋。 右の写真をご覧下さい、寿聖院本堂の屋根瓦に施された九曜の家紋を。これが石田家の家紋です。石田家の出自については幾つか説は有る様ですが、未だ定説は無く余り判って無い様です。
 和尚は最後に墓地に在る三成の供養塔に詣でて経を上げ私たちにお焼香をする様に勧めて呉れました。ここには三成の父母、三成夫婦と長男、兄夫婦と長男夫婦の供養塔が三成夫婦のを中心に並んで居ます。

 下はこの日の講師・稲垣さんが江東院(三成)と無量院(三成の室)の供養塔の前で焼香して居る所です。私もこの後焼香しました。合掌!!

            (-_-)
            _A_
写真a16:三成の供養塔への焼香風景。

 (3)その後の三成一族 - 三成の子孫は生きていた!

 さて三成が処刑された時、嫡男隼人正重家は12~3歳の少年でした。三成挙兵の際には大坂城に籠もって居ましたが、西軍が敗れたので乳母らに連れられて縁有る寿聖院を頼り、寿聖院主伯浦恵稜の手に依って剃髪し仏門に入りました。流石の家康も仏門に入った重家を殺すこは出来ず助命され、後に寿聖院第3世・宗享と成り取り壊された寿聖院を今日の形に復興したことは既に述べました。ところが、実は三成の次男・重成は津軽にのがれ杉山源吾と名前を改め、子孫の系統は今日迄続いていると言うのです。
 それではどの様にして津軽に逃れどの様にして生き延びて今日に至っているのか?、関ヶ原の合戦や三成の軍略については、学者や作家などの色々な本が出て居ますが、この話は一般には全く知られて居ない話でそれを知るには以下の2冊位しか無い様です。
  『石田三成とその一族』  白川亨著、 新人物往来社(¥9800)
  『石田三成と津軽の末裔』 佐賀郁朗著、北の街社  (¥2000)
 私も未だ読んで居ないので簡単に本の紹介だけを以下に記しますので、詳しく知りたい方は上の文献を御一読下さい。
 白川氏の本は、寿聖院の「霊牌日鑑」などの石田家のルーツ資料を当たり、三成の子孫が津軽藩の家老杉山家として命脈を保ったこと、を現地に足を運び精力的に調べ上げた労作です。それに拠ると杉山家は三成の娘が北政所の養女として津軽二代藩主・信牧に嫁ぎ、三代藩主の生母と成ったことに始まります。又、関ヶ原の合戦当時は北政所(=秀吉の正室・禰(ねね))が三成をバックアップして居たという新説を提唱して居て充実した内容です。
 佐賀氏は白川氏とも会って石田家のルーツ探りの共同作業をしたそうで、引用資料も白川氏の本と重なる部分が多いのですが、より平易に読み物風に書いて在り値段も安く手頃です。
 私もこの日迄三成一族が津軽で命脈を保っていることを全く知りませんでした。徳川から見れば逆賊の子孫、やはり落ち延びるとしたら陸奥(みちのく=道の奥)という事に成るのでしょうか。しかし三成は南部一揆前後(※8、※8-1)に奥州仕置として奥州に赴任して居たので陸奥地方に伝(つて)が有ったと考えられます。
 そして注目すべきは白川氏も佐賀氏も共に、自らが津軽に落ち延びた三成の子孫の末裔であるということで、お二人にとってこれらの本の出版は自分の先祖のルーツ探しであると同時に名誉回復の祈りを込めた作業だった様に思えます。「歴史の通説は常に勝者が創るもの」という世界共通の鉄則に、敗者の末裔の方が通説を覆す為に果敢に挑んで居る姿は、

 「しかし、人間の歴史ドラマそのものは決して勝者が言う様な一元論的構図では無かったし、現在も、そして将来も一元論では規定し得ない。」

という私の考えと深く共鳴し、心を打つものが有ります。

 ■等持院

 衣笠山南麓の万年山臨済宗天竜寺派の禅寺で現住所は京都市北区等持院北町63番地。1341(暦応4=興国2)年、足利尊氏(※9)が禅の師の夢窓国師(※10)を請じて三条高倉に建てさせた等持寺が初め。後1358(正平13)年尊氏を葬った現在の場所に移築創建し、尊氏の法名(=等持院殿仁山妙義)から等持院を寺号とし、以後足利家累代の廟所と成ります。本尊は伝教大師作と伝えられる地蔵尊。応仁の乱など何度か火災に合い乍らも再建されて来ました。尊氏・義詮(よしあきら)以下の木像が在り、更に夢窓国師作と伝えられる庭園は有名です。
 左下の写真は、等持院の敷地の北隣に在る立命館大学のキャンパスで、この日はこのキャンパスで弁当を食べました。右下が等持院の庭越しに望む衣笠山です。標高は201mと高く無いのですが、整った三角形をして日本人が古来から崇めて来た神奈備山の形をして居ます。この山を囲む様に金閣寺、わら天神、平野神社、この等持院、竜安寺が建てられて居るのも肯けます(神奈備信仰についてはココから参照して下さい)。
写真b0:等持院北隣の立命館大学。写真b1:等持院から見た衣笠山。
 左下が入口から撮った等持院です。屋根の形が面白いので右下に屋根部を載せて置きます。ところでこの等持院の墓地に日本映画黎明時代を支えたあの牧野省三の銅像が立って居ました。
写真b2:等持院。写真b3:等持院の屋根。


写真b4:足利尊氏の木像。 前述の様に等持院は足利尊氏が足利家の菩提寺として建てたのですが、霊光殿には尊氏が日頃信仰した地蔵尊を本尊として居て、達磨大師(※1-1)と夢窓国師像を左右に、両側に足利歴代将軍像と徳川家康像を安置して居ます。右が霊光殿の尊氏の木像です。
 尊氏は良く言えば人を信じ易く気が優しく、悪く言えば優柔不断で、どちらにしろ武将に相応しく無い一面が有り、南北朝の争いに乗じて南から北に寝返ったり、それで居て自分が裏切った後醍醐天皇(※11)の為に天竜寺を創建したり、戦いに散った戦没者の為に全国60余州に安国寺と利生塔を建てたりと、”迷える武将”でした。そんな尊氏を支えたのが冷徹で果敢な実弟・直義でしたが、尊氏が室町幕府を開き建武式目を発効してからの二頭政治が結局兄弟対立を生み、観応の擾乱に至り直義を毒殺する破目に成ります。
 そんな尊氏ですから「あなたは足利尊氏をどう評価しますか?」と人に尋ねると面白いですよ。と言うのは、尊氏に対しては先の三成の様な固定的な人間像が世間に浸透して無いので、その答えに依っては逆に評価を下す側の人間を評価出来るからです。私と同じ様に意地悪な性格の方はどうぞ一度お験し下さい、アッハッハ!
 しかしこれと同じ事は室町時代そのものについても言えますね。テレビの時代劇は殆どが戦国時代以降で、偶(たま)に義経の鎌倉が放映されますが、室町は言わば通常の日本人にはエアポケットに成って居ます。しかし文化的に見ると

  能:       観阿弥、世阿弥
  水墨画:     如拙、雪舟
  造園:      夢窓疎石
  茶道:      村田珠光
  花道:      池坊専慶
  小歌:      閑吟集
  連歌:      連歌師(後の俳句の先駆け)
  風流踊り:    後の盆踊り
  貨幣経済の発達: 明銭の流通

など、後の江戸・元禄に花開く文化の下地の多くがこの室町期に萌芽して居て、私は室町時代はもっと見直されるべきだ、と思って居ます。


写真b5:清漣亭。写真b6:方丈にあった中国製の陶器。

 さて、左の写真が方丈から夢窓国師作の庭園・芙蓉池苑とその奥の茶室・清漣亭を望んだ風景です。
 右が方丈に在った中国製の陶器で、側面には中国人の絵が描かれて居ます。明貿易の輸入品なのでしょうか?

 私たちはこの後庭に降りて散策しました。

 左下は茶室清漣亭の内部です。第8代将軍・義政はこの庵で村田珠光(※12)らと芙蓉池を眺め乍ら茶道を興隆させたと言います。珠光が始めた侘茶(※12-1)は後に新興の堺で千利休に依り完成されました。
 右下は庭の散策途中に居たカラスです、歴史とは関係有りません!
写真b7:清漣亭の内部。写真b8:庭に居たカラス。

 左下が足利家15代供養塔です。
写真b9:足利家15代の供養塔。 右下は東の苑池です。番(つがい)のカモが泳いで居ました(この写真では見えません)。
写真b10:東の苑池。
 そして最後にご覧戴くのは、方丈の廊下正面の大きな達磨大師の絵(※1-1)、元天竜派管長・関牧翁の筆に成るそうです。幅2間(3.6m)、高さ1間(1.8m)位でしたかね、スゴイ迫力でした、でも何処かユーモラスですね。暇な人はこの「だるまさん」と睨めっこして下さい、アップップッ.....ムッ...!!
写真b11:大きい達磨大師の絵。

 ■天竜寺

 等持院から嵐電に乗って西高瀬側沿いに車折神社(くるまざきじんじゃ)を通って天竜寺に向かいました。
 霊亀山天竜寺(※13)は臨済宗天竜寺派大本山で現住所は京都市右京区嵯峨天竜寺芒ノ馬場町、嵐山山麓を流れる大堰川(=桂川)(※14、※14-1)の左岸の嵯峨に在り嵐山観光の中心です。大堰川については後出の渡月橋を参照して下さい。
 1339(暦応2=延元4)年足利尊氏・直義が後醍醐天皇の菩提を弔う為に夢窓国師を開山として亀山殿の跡に建立。この造営の費用を得る為に1342(康永元)年に元に天竜寺船(※13-1)を派遣し、後の勘合貿易の先駆けに成りました。本尊は釈迦如来。方丈の前には夢窓国師作の庭園が在り曹源池が有名です。
 創建当初は塔頭110ヶ院を数えたそうで、後に京都五山の第一と成り五山文化の主導的存在に成りました。やはり何度も火災に会いその都度再建されて今日に至って居ます。現在塔頭の数は境内に9、境外に3です。左下が天竜寺境内で、右下が如来仏像群です。
写真c1:天竜寺。写真c2:天竜寺の如来像。

                (^_^)/~~~

  ■■番外編 - 渡月橋と大堰川

 こうして「関西歴史散歩の会」は天竜寺で解散しましたが、稲垣さんと私たち数名は桂川に架かる渡月橋を渡り阪急嵐山駅に向かいました。下が渡月橋の上流側です。川でボートにのんびりと乗っている人たちも居ます。
写真d1:渡月橋。

 この渡月橋の少し上流の所に江戸時代に造られた(※14-2)が残って居ます(左下の写真)。実は厳密に言うと、渡月橋辺りでは桂川(※14-1)は大堰川(おおいがわ)(※14)と名前を変えるのです。左下の写真の左端に渡月橋の一部が見え向こうの山が嵐山です。この渡月橋の少し下流の右岸(←この写真は左岸から撮っているので渡月橋の向こう側に小さく写って居ます)に5世紀後半~6世紀初頭頃に造られた葛野大堰(かどののおおい) -秦氏が造った!- の跡が在るとされ、これが大堰川の名称起源です。渡月橋の橋名には「渡月橋」(←これは当たり前)と、川名には「大堰川」と書いて在るのです。秦氏と言うと養蚕機織技術七夕伝説を伝えた事は知られて居ますが、治水及び利水事業もしてたとは知らなかった!!

   葛野大堰
    ↓
写真d2:渡月橋付近の堰の跡。写真d3:白鷺。 江戸時代の角倉了以亀岡~嵯峨間の保津川開削で穀物や材木の大量輸送が可能に成りました。そしてここ嵯峨が材木の集散地と成り、ここから更に都に運ぶ為に先程通って来た西高瀬側を開削しました。当時は桂川(大堰川)沿いに材木屋が沢山立ち並び筏流し(※14-3)で運搬し、この堰で材木を堰き止めて居たそうです。川の向こう岸には船を上流に引き上げる為の狭い道路が作られ、これも残って居ます。
 右はこの堰で遊ぶシラサギ(白鷺)です。

 観光客が大勢訪れ通り過ぎているこんな所に歴史の後が残っているのですね、「その後の三成一族」の話もそうですが、これぞ「日本再発見の旅」です。

    ◆大堰川~保津川~桂川水系の鵜飼

写真d4:女性の車引き。
 以上の様に歴史散歩は終わりましたが、5月の連休中日しかも好天ということでこの日の嵐山は観光客で一杯でした。渡月橋の脇には嵐山名物・人力車(※15)も出て居ます。で、良く見ると、何と若い姐ちゃんの車引きです。そこで早速パチリと遣ったのが左の写真です。
 しかし人を乗せて嵯峨の坂登れるんですかねえ。下心の有る方は女性の車屋さんを見付けて乗ってみて下さい。「おーい車屋さ~ん」、アッハッハ!
 そう言えば

  やれ 面白や えん 京には やれ 淀に舟
    えん 桂の里の鵜飼舟


という小歌が『閑吟集』(※16、△3のp69)に在りましたね。室町時代には京都に大原女(おはらめ)(※14-4)や桂女(かつらめ)(※14-5)が出現しました。桂川には鵜飼集団桂女が住み鮎(あゆ)や飴などを行商して居たそうで、この小歌はそんな光景を表して居ます。尚、当時の車は牛車(ぎっしゃ)ですよ。

 ところで、大堰川~保津川~桂川水系では古くから鵜飼(※17)が行われて居ました。鵜飼の歴史は古く大和朝廷時代には鵜飼部(※17-1)という鵜飼の世襲専業集団が朝廷に隷属し、捕れた魚を朝廷に貢納して居ました。『万葉集』にも各地の鵜飼の情景が詠まれて居ますが、この大堰川の鵜飼を詠んだものとして鎌倉時代初期の『新古今和歌集』巻3(夏歌)-253に

  大井河 かがりさし行く 鵜飼舟 いく瀬に夏の 夜を明かすらむ
                           皇太后宮大夫俊成


という歌が載って居ます(△4のp60)。「大井河」とはこの大堰川(※14)の事で「かがり」とは鵜飼舟の篝火のこと、皇太后宮大夫俊成とは藤原俊成(※18)のことです。この様に平安末期の俊成も嵐山付近の「大井河」(=大堰川)で鵜飼舟を詠み込んでいるのです。この大堰川水系では保津峡にも鵜飼橋という名の吊橋が架かって居ます(→保津峡や嵐山の地図)。今は鵜飼は京都では宇治川ですね。
    {この章は04年2月7日に最終更新}

 ■結び - 死を覚悟した時

 妙心寺の章で述べた様に、石田三成は関ヶ原合戦の1年前に父の菩提寺として寿聖院を建てましたが、今回の探訪記を纏めるに当たり明智風呂(国の重文)の謂れを紹介しましょう。
 先程の妙心寺三門の東に在るこの浴室は名前の通り、明智光秀(※19)の供養の為に建てられたもので蒸し風呂(=サウナ、現在は使われて無い)です。信長を討つ決意を固めた光秀は或る日叔父の密宗和尚を妙心寺に訪ね、もし自分に万一の事が有ったら菩提を弔って欲しい、と言って金を置いて去ったと言います。そして光秀が山崎の合戦で敗れたのでその追善供養の為に浴室を建てたと言うのです。その心は「浴室は身を清める所、身を清め心を清め、光秀の”逆賊”という汚名を洗い流そう」という禅問答的解釈でしょう。
写真e1:妙心寺の明知風呂で道案内する女性。 私がここで締め括りとして言いたいのは、三成も光秀も大事の前に既に死を覚悟して居た、ということです。そして死を覚悟した人間はやはり心の平安、遺される家族の無事を願うものなのでしょう。そういう死を覚悟した人間の最後の心の拠り所、ここにこそ宗教の究極的存在価値 -有史以前からどの民族にも存在して居た宗教の本源的意味- が有るのだと私は思います。生老病死と言いますが死は絶対的、有らゆる生物にとってこれ程絶対的な事象は有りません。その絶対的な死を目前にして相対的存在である人間が最後に思う事、これこそ”真の無心の境地”というものです。
 そしてこの無心の境地から生まれた寿聖院で、三成の嫡男は禅僧と成り命を全うし、次男は津軽に逃れ得たと言えなくもありません。...全ては「神のみぞ知る」です。

                (*_-)

 上の文章(↑)中々好いでしょ。しかし、マジメ過ぎてもう一つ面白味に欠けて居ますねえ。これでは私らしい個性が無いと思いませんか?
 そこで最後に右上の写真をご覧下さい。これが上で話した明智風呂の入口の風景です。私がここを通り掛かった時、手前のリュックを背負った知らない男性が道を尋ねる為か奥へ声を掛けたら、出て来たのが写真の若い姐ちゃん。そこで思わずシャッターを切りました、「へえ、禅寺の浴室に若い姐ちゃんが居るんかいな、背中でも流して呉れるんかいな、まさか...」とか想いつつ(←しかし私って修行が足りまへんなあ)。女性の車屋さんの時もそうですが思わず女性に反応して仕舞う私です、その心は

  歴史の陰に在り

なのです。そして、この写真の女性が歴史を動かすか否か?、...これこそ「神のみぞ知る」です、アッハッハッハッハ!!!
 これでやっとエルニーニョらしい個性的な”落ち”が付いたと思いますので、ここで終わりましょう。稲垣さん、ご苦労様、そして有難う。やあ、皆さんも、あ・り・が・と・う!

              m(_=_)m  \(^O^)/

φ-- おしまい --ψ

【脚注】
※1:禅宗(ぜんしゅう)は、仏教の一派。その教旨は、仏教の真髄は坐禅に依って直接に体得されるとし、教外(きょうげ)別伝・不立文字(ふりゅうもんじ)・直指人心(じきしにんしん)・見性(けんしょう)成仏を主張する。6世紀前半、達磨が中国に伝え、後に5世弘忍に至り、その門下2派に分れ、6世慧能は南宗を、神秀は北宗を開いたと伝える。慧能の門下南岳の門から臨済・潙仰(いぎょう)の2宗を出し、青原の門から曹洞・雲門・法眼の3宗を出し、合して五家と称する。又、臨済の門から楊岐・黄竜の2派を出し、合して七宗と言う。日本では、1168年(仁安3)栄西が入宋して臨済宗を伝え、1223年(貞応2)道元が入宋して曹洞宗を伝え、1654年(承応3)明の黄檗山の隠元が渡来して黄檗宗を開いた。禅門。仏心宗。浄土宗や時宗の他力に対して自力の修行を重んじたので、尚武を旨とする武士階級に広まって行った。
※1-1:達磨(だるま)は、[1].菩提達磨(Bodhidharma[梵])の略。禅宗の始祖(?~528?)。南インドのバラモンに生れ、般若多羅に学ぶ。中国に渡って梁の武帝との問答を経て、嵩山の少林寺に入り、9年間面壁坐禅したと言う。その伝には伝説的要素が多い。その教えは弟子の慧可(えか)に伝えられた。諡号は円覚大師・達磨大師。達摩。
 [2].tumbler。達磨大師の坐禅した姿に模した張子の玩具。普通、顔面以外の部分を赤く塗り、底を重くして、倒しても直ぐ真直に立つ様に作る。開運の縁起物とし、願い事が叶った時に目玉を描き入れる慣わしが在る。起き上がり小法師。不倒翁。「―に目を入れる」。
※1-2:臨済宗(りんざいしゅう)は、禅宗の一派。唐の臨済を祖とする。日本では鎌倉時代に栄西が伝えたのに始まり、室町幕府は京都・鎌倉に五山を定めて保護した。公案に依って弟子を教化する看話禅(かんなぜん)の立場を採る。現在15派に分れる。
※1-3:公案(こうあん)とは、禅宗で、参禅者に示して坐禅工夫させる課題。古徳の言行を内容とする難問が多い。
※1-4:看話禅(かんなぜん)とは、〔仏〕公案を工夫参究して悟りを開こうとする禅法。←→黙照禅。
※1-5:坐禅/座禅(ざぜん、Zen meditation)とは、この場合、〔仏〕(「禅」は梵語dhyanaの音写「禅那」の略)静座して精神を集中させる行法。又、心性を究明して悟りを求める修行。主に禅宗で行い、安楽の法門とする。「―を組む」。<出典:一部「学研新世紀ビジュアル百科辞典」より>
※1-6:塔頭/塔中(たっちゅう)とは、(唐音)[1].禅宗で、高僧の塔が在る所。又、その塔を司る僧。
 [2].転じて、一山内に在る小寺院。大寺に所属する別坊。寺中(じちゅう)。子院。脇寺。
※1-7:枯山水(かれさんすい/かれせんずい)は、水を用いず、唯地形に依って山水を表す庭。石組を主とし、水を表すのに砂礫(されき)を用いる事が在る。室町時代に輸入した宋・明の山水画の影響に拠る。大徳寺塔頭大仙院竜安寺の庭の類。涸山水(こせんすい)。

※2:花園天皇(はなぞのてんのう)は、鎌倉後期の天皇(1297~1348、在位1308~1318)。伏見天皇の皇子。名は富仁(とみひと)。後醍醐天皇に譲位。風雅和歌集を監修。和漢の学問に通じ、日記「花園院宸記」、著書『誡太子書』『学道の御記』。1335年出家の後萩原殿に住んだ(法名遍行)が、この萩原殿が後に妙心寺開山堂に成り花園の地名が今に残る。<出典:一部「日本史人物辞典」(山川出版社)より>

※3:関山慧玄(かんざんえげん)は、鎌倉後期~南北朝期の禅僧(1277~1360.12.12)。諱は慧玄(初めは慧眼)。妙心寺派の派祖。信濃の高梨氏の出身、鎌倉建長寺、京都大徳寺で修行。1327(嘉暦2)年大徳寺の開祖宗峰妙超に会う。1330(元徳2)年美濃国伊深に移る。その後花園上皇が開創した妙心寺の開山と成る。

※4:五山十刹制度(ござんじっせつせいど)とは、足利義満(第3代)が中国の五山制度(禅宗で最高寺格の五寺)を習って定めた制度。京都南禅寺を別格に、その下に京都五山、鎌倉五山、その下にそれぞれ京都十刹、関東十刹を置き、その下を諸山とした。
       ┌─京都五山(天竜寺・相国寺・建仁寺・東福寺・万寿寺)
  京都南禅寺┤
       └─鎌倉五山(建長寺・円覚寺・寿福寺・浄智寺・浄妙寺)
 因みに中国五山は万寿寺・広利寺・景徳寺・霊隠寺・浄慈寺。

※5:方丈(ほうじょう)とは、(天竺の維摩居士の居室が方1丈であったという故事から)禅宗などの寺院建築で、長老・住持の居所。本堂・客殿を兼ねる。転じて、住持。住職。又、師への敬称としても用いる。

※6:狩野探幽(かのうたんゆう)は、江戸初期の画家(1602~1674)。鍛冶橋狩野の祖。孝信の子。永徳の孫。名は守信。後、探幽斎と号す。幅広い画技を有し、幕府の御用絵師として、一門の繁栄を拓いた。法印に叙せられる。二条城・名古屋城の障壁画など数多くの作品を残す。

※7:如拙(じょせつ)は、生没年不詳。室町前期、応永(1394~1428)頃の京都相国寺の画僧。我が国水墨画の開拓者の一人。足利義持の命で描いた瓢鮎図(ひょうねんず)が現存。
※7-1:瓢鮎図(ひょうねんず)は、如拙(じょせつ)の水墨画。将軍足利義持の命に依り、瓢箪で鮎(なまず)を押えるという禅の公案を描く。大岳周崇他30人の禅僧の賛を伴う。1415年(応永22)以前の作。妙心寺退蔵院蔵

※8:石田三成(いしだみつなり)は、織豊期の武将(1560~1600.10.1)。父正継の三男。近江国坂田郡石田(現在の滋賀県長浜市石田町)生まれ。幼時、観音寺に預けられ、そこで秀吉の目に留まり仕官の切っ掛けを得た(三献茶のエピソード)と言われ、その後一貫して秀吉に仕え奉行として頭角を現し、1586(天正14)年堺政所。その後秀吉の小田原攻め従軍・九州征伐の兵站奉行・朝鮮出兵の舟奉行を勤め、特に太閤検知で能吏としての手腕を発揮、現在島津家に三成署判の検知尺が残る。95(文禄4)年近江国佐和山城主(19万4千石)。98(慶長3)年8月、秀吉の死で在鮮軍を撤収させる為に博多に赴く。1600(慶長5)年9月15日関ヶ原の戦いで西軍の総大将に成るも敗れ、9月21日伊吹山中の近江古橋村で田中吉政に捕らえられる。10月1日京都六条河原にて処刑される。<出典:一部「日本史人物辞典」(山川出版社)より>
 補足すると、石田三成は1590(天正18)年、南部一揆前後に奥州仕置として奥州に赴く。93(文禄2)年秀吉への書面で朝鮮出兵を非難、これが武断派の加藤清正等との不和の原因に。大徳寺三玄院に葬られる。
※8-1:南部藩(なんぶはん)は、別名を盛岡藩。江戸時代の奥州の有力な藩。鎌倉初期に源氏から出た南部光行を祖とし、豊臣政権時に10万石の領域を確立。江戸初期には盛岡を中心に発展し、末期には20万石と成った。

※9:足利尊氏(あしかがたかうじ)は、室町幕府初代将軍(1305~1358、在職1338~1358)。初め高氏。後醍醐天皇の名「尊治」の1字を賜って尊氏と称した。元弘の乱に六波羅を陥れて建武新政の切っ掛けを作ったが、後に叛いて光明天皇を擁立し、征夷大将軍と成り、室町幕府を開いた。

※10:夢窓疎石(むそうそせき)は、鎌倉後期~南北朝時代の臨済宗の僧(1275~1351)。伊勢の人。初め天台・真言を学んだが、後に禅門に入り、後醍醐天皇・足利尊氏らの帰依を受け、7代の天皇から国師号を贈られた。天竜寺船の派遣を建議し、天竜寺開山と成る。門下を夢窓派と言い、五山文学の中心。又、造園技術に秀で京都西方寺・天竜寺などの庭園が有名。著「夢中問答集」「夢窓国師語録」など。諡号は仏統国師など。

※11:後醍醐天皇(ごだいごてんのう)は、鎌倉末期・南北朝時代の天皇(1288~1339、在位1318~1339)。後宇多天皇の第2皇子。名は尊治(たかはる)。親政を志し、北条氏を滅ぼして建武新政を成就。間も無く足利尊氏の離反に因り吉野入りし、南朝を樹立したが、失意の間に没す。

※12:村田珠光(むらたしゅこう)は、(名はジュコウとも)室町時代の茶湯者(1423~1502)。奈良称名寺の僧と成り、後に京都に住む。大徳寺の一休に教えを乞い、禅味を加えた点茶法を始めた。侘茶(わびちゃ)の祖と言われる。
※12-1:侘茶(わびちゃ)とは、茶の湯の一。東山時代に流行した書院茶に対して、村田珠光以後、桃山時代に流行し、簡素静寂の境地を重んじたもの。千利休が完成したと言われる。

※13:天竜寺/天龍寺(てんりゅうじ)は、京都市右京区嵯峨に在る臨済宗天竜寺派の大本山。山号は霊亀山足利尊氏後醍醐天皇の冥福を祈る為、1345年(貞和1)亀山殿の跡に建立。天竜資聖禅寺と称し、開山は夢窓疎石。夢窓疎石作庭の庭園は国の特別名勝/史跡。後に京都五山の第一と成り、五山文化を主導。<出典:一部「学研新世紀ビジュアル百科辞典」より>
※13-1:天竜寺船/天龍寺船(てんりゅうじぶね)は、室町幕府が天竜寺造営の資金を得る為、博多商人至本に銭5千貫納入を条件として公許し1342年(康永1)元に派遣した貿易船。

※14:大堰川(おおいがわ)は、丹波山地から亀岡盆地を経て、京都盆地北西隅、嵐山の下へ流れ出る川。亀岡盆地と京都盆地の間は保津川とも言い、下流を桂川と言う。嵐山付近では平安時代に管弦の船を浮べて貴族が宴遊した。大井川。
※14-1:桂川(かつらがわ)は、京都市南西部を流れる川。大堰川(おおいがわ)の下流。鴨川を合せ、宇治川に合流して淀川と成る。嘗ては鮎の産で有名。
※14-2:堰(せき、dam, sluice)は、(「塞(せ)く」の連用形から)取水や水位/流量の調節の為に、水路中、又は流出口に築造した構造物。いせき。→―を切った様。
※14-3:筏流し(いかだながし)は、木材流送の為に筏を組み、筏師が乗って操り乍ら川を下る事。又、それを業とする人。筏師。
※14-4:大原女(おはらめ/おおはらめ)は、大原の里から黒木や木工品などを頭に乗せ京都の町に売りに来る女。黒木売。
※14-5:桂女(かつらめ)とは、京都の桂の里に住み、独特の風俗を伝えていた一種の巫女(みこ)。正月/婚礼/出産/出陣など諸家の祝い事に訪れ、花嫁に付き添ったり祝言の祓(はらえ)をしたりした。平安時代、天皇に桂川のを献じたのに始まり、後には桂包という白い布を頭に巻いて鮎や飴などを売り歩いた。ここの名主は明治年間迄女系相続を守った。桂姫。桂御前。頼政集「―や新枕する夜な夜なはとられし鮎のこよひとられぬ」。

※15:人力車(じんりきしゃ、rickshaw)は、人を乗せ、車夫が引いて走る一人乗、又は二人乗の二輪車。1869年(明治2)和泉要助・高山幸助・鈴木徳次郎らが発明し、翌年東京府下で開業したのに始まる。大正後期より衰退。腕車(わんしゃ)。俥(くるま)。人車(じんしゃ/くるま)。力車(りきしゃ)

※16:閑吟集(かんぎんしゅう)は、歌謡集。1巻。編者未詳。1518年(永正15)成る。室町時代の小歌集で、当代の歌謡311首を収める。

※17:鵜飼(うかい、うがい)は、[1].夏、篝火を焚いて鮎(あゆ)などを寄せ、飼い馴らしたを使って捕る漁。岐阜県長良川のは有名。季語は夏。
 [2].鵜飼を業とする人。鵜匠(うじょう)。
※17-1:鵜飼部(うかいべ)とは、大和朝廷時代、鵜を使って魚を捕え、朝廷に貢納することを世職とした品部(しなべ)。大化改新後も解放されず宮内省大膳職に所属。

※18:藤原俊成(ふじわらのとしなり/ふじわらのしゅんぜい)は、1114(永久2)-1204(元久1)年。始祖藤原長家から4代目に当たる。平安末期の歌人。俊忠の子、定家の父。皇太后宮大夫。法名、釈阿。五条三位と称。「千載集」の撰者。歌学を藤原基俊に学び、俊頼を尊敬、両者の粋を採り、清新温雅な、所謂幽玄体の歌を樹立した。御子左(みこひだり)家の基を築く。歌は「新古今集」以下勅撰集に四百余首載る。家集「長秋詠藻」、歌論書「古来風躰抄」など、他に歌合の判詞が多い。

※19:明智光秀(あけちみつひで)は、安土時代の武将(1528?~1582)。通称、十兵衛。織田信長に仕え、近江坂本城主と成り惟任(これとう)日向守と称。次いで丹波亀山城主と成り、毛利攻めの支援を命ぜられたが、信長を本能寺に攻めて自殺させた(本能寺の変)。僅か13日で豊臣秀吉に山崎で敗れ、小栗栖(おぐるす)で農民に殺される

    (以上、出典は主に広辞苑です)

【参考文献】
△1:「関西歴史散歩の会」歴史ウォーク資料『石田三成一族とその後の洛西の禅寺』。

△2:寿聖院パンフレット『寿聖院と石田三成』。

△3:『閑吟集』(浅野建二校注、岩波文庫)。

△4:『新古今和歌集』(佐佐木信綱校訂、岩波文庫)。

●関連リンク
参照ページ(Reference-Page):京都洛西の地図▼
地図-日本・京都市洛西(Map of West of Kyoto city, Kyoto -Japan-)
参照ページ(Reference-Page):秦氏について▼
資料-聖徳太子の事績(Achievement of Prince Shotoku)
補完ページ(Complementary):石田三成と忍城について▼
2003年・「忍の浮城」-武蔵忍城
(The Oshi floating-castle, Gyoda, Saitama, 2003)

神奈備信仰や養蚕/機織技術/七夕伝説を伝えた秦氏▼
2003年・交野七夕伝説を訪ねて(Vega and Altair legend of Katano, 2003)
堺で利休が侘茶を完成させた茶室▼
阪堺電車沿線の風景-堺編(Along the Hankai-Line, Sakai)
茶と禅、日本の茶の歴史▼
2006年・金谷急ぎ旅(Kanaya hurryingly, Oi-river Railway, 2006)
桂川(大堰川)の上流の保津川▼
2004年・出雲大神宮の御蔭山(Mikage-yama, Kyoto, 2004)
藤原俊成や「歴史の陰に女在り」について▼
冷泉家時雨亭文庫(Reizei Shigure-tei library)
「関西歴史散歩の会」のサイト▼
外部サイトへ一発リンク!(External links '1-PATSU !')


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