冷泉家時雨亭文庫
(Reizei Shigure-tei library)


エルニーニョの一言。   *** エルニーニョからの一言 ***

 私が「冷泉家時雨亭文庫」のことを知ったのは去年(2002年)の夏、大阪で冷泉貴美子さんの話を聞いた時でしたね。丁度七夕(※1)に関する色々な事をシリーズで遣って居た会合の締め括りとして、平安の昔から七夕の日に乞巧奠(※1−2)の伝統を守り抜いて居る冷泉家のお話を伺おうということで特別にお招きして講演して戴いた時でしたね。冷泉貴美子さんは旧暦(=太陰太陽暦)のことから話を始められ、日本の伝統的行事は全て旧暦を基に成り立って居るということを実に解り易く且つ面白く話され、旧暦7月7日の七夕は立秋前後の「秋」の祭事(後述)であると仰り乍ら乞巧奠の貴重なスライドなどを見せて戴きました。大変屈託無く明るい印象の方で、買い物袋でもぶら下げたらその辺のおばちゃんと変わりません。その講演の最後に、時雨亭文庫のことを話されたのが切っ掛けです。
 冷泉家は藤原俊成・定家・為家の血を引く「歌の家」としての伝統と文化(冷泉邸も完全な形で現存する唯一の公家屋敷、先祖の自筆の文献、宮中でも失われて仕舞った伝統的行事や作法など)を今日迄守り続けている訳ですが、この内の文献を目録を作り維持管理し広く世に広めて行く、というのが時雨亭文庫の役割で、私も微力乍ら応援させて戴く意味で、会員にして戴きました(会員番号:正2286)。
 尚、このページの背景画は薄墨桜です。

基本データ
        ■概要

名称  :財団法人「冷泉家時雨亭文庫」
     藤原定家が『小倉百人一首』を撰んだ場所とされる
     京都小倉山の山荘「時雨亭」に因んで命名された
代表  :[冷泉家第25代当主]冷泉 為人(理事長)
設立  :1981(昭和56)年4月
設立趣旨:藤原俊成・定家・為家以来の「歌の家」として冷泉家に
     伝わる有形、無形の文化財をより善く継承保存して社会
     に貢献する

住所  :〒602-0893
     京都市上京区今出川通烏丸東入玄武町599
TEL :075-241-4322
FAX :075-256-7144
●冷泉為人氏の略歴
1944(昭和19)年 誕生
関西学院大学大学院修了(江戸絵画史)
池坊短期大学学長
大手前女子大学教授

冷泉家第25代当主
2002年6月より財団法人「冷泉家時雨亭文庫」理事長


●冷泉貴美子氏の略歴
1947(昭和22)年 京都冷泉家に生まれる
京都女子大学大学院修了(日本史)

冷泉家当主為人氏夫人
2002年6月より財団法人「冷泉家時雨亭文庫」理事
▼地図
京都冷泉家の地図。
地図の距離目盛。


  ●時雨亭文庫の正会員に成って

 日本固有の文化を絶やさず後世に伝えて行く為ならということで、最初に述べた様な経緯で会員に成ったら、会報「志くれてい」のバックナンバーがドサッと送られて来ました。ざっと目を通すと結構興味深い事が書いて在ります。思い付く儘に私が面白いと思った所を拾い出してみると第67号の同志社大学の山路龍天教授の寄稿に京都女子大当時の貴美子氏の挿話が載っていて、教授が「レイゼイさん?」と聞くと貴美子さんに「レエゼエです」と切り返された話や、第73号では定家の日記『明月記』(※2)が重文から国宝に指定されたことに寄せて定家が60歳を過ぎてからも当時既に古典と成っていた『伊勢物語』『更級日記』『源氏物語』などを家人を動員して書写して居て、『明月記』もこの時期に清書されたと考えられるという論考(美川圭 摂南大学助教授)や、第77号に寄せた貴美子氏の冷泉家住宅の工事と公開に至る当時の心境を吐露した部分などです。この部分は財団法人設立や冷泉家住宅大修理に至る経緯の他に、現在の「やんごとなき人々」の悩みが良く表されて居て、大多数の「一般の人々」や私の様な「底辺の人」から見て興味深いと思われますのでここに引用させて戴きます。

 『財団法人冷泉家時雨亭文庫が設立される前夜、この冷泉家の朽ちかけた公家屋敷は、冷泉家の者にとって、大きな重荷でした。
 それがかけがえのない文化財であるとは知りつつ、大きすぎる邸をもてあましていました。あっちこっちの雨漏りの応急処置だけで精一杯で、税負担も重く、建物への愛着と現実の中で途方に暮れる日々を過ごしていました。
 突然の新聞報道から世論の支持を得、多くの人々の協力のもと、昭和五十六年(1981年)に財団法人を設立し、住宅が重要文化財に指定されてからも、来るべき建物の解体修理工事の莫大な費用負担が出来るかどうか、いつも頭を悩ませていました。
      ...(中略)...
 総工事費は十億円にのぼろうとしています。その間、事務局長として資金繰りには大変苦労いたしました。国、京都府、京都市の補助はもちろんですが、社団法人霞会館、株式会社京セラをはじめ、会員の皆様、その他一般の皆様の暖い支援を得てこその事業の達成です。
 二十年前の夢また夢の世界が、今現実となりました。ありがとうございました。
 完成した建物を、まず会員の皆様から見ていただきます。御応募お待ちしております。』


写真2:文化庁長官彰を受賞された前理事長・冷泉布美子氏。 「志くれてい」には毎回「冷泉家の歴史」が連載されて居ますが、第79号には2001年11月に、当時の時雨亭文庫理事長・冷泉布美子氏に文化庁長官彰が授与されたと在ります。右が表彰状を持つ布美子氏の写真です(会報「志くれてい」より)。
 その後、時雨亭文庫編の『冷泉家の秘籍』(朝日新聞社)という豪華本が時雨亭文庫設立20周年を記念して発刊されることに成ったという案内が来たので私も一冊注文しました。これは俊成・定家・為家の自筆原本の写真が多数載っていて興味の有る人には貴重な資料です。

 後で「為人氏の言葉」の所でも述べますが、2002年6月に布美子氏から為人氏へ理事長が受け継がれた訳ですが、バックナンバーを見て行くと、会報「志くれてい」には「歌の家」に相応しく、毎回或る「兼題」(※3)を設定しそれに対して会員の方々から寄せられた和歌を撰んで載せる「冷泉流歌壇」という欄が有るのですが、第76号(2001年4月発行)迄は布美子氏単独で撰んで居て、それが第77号(2001年7月発行)では布美子氏と貴美子氏の連名に成り、第78号(2001年10月発行)からは貴美子氏単独に成って居ます。ですから事実上はこの頃(2001年6月頃)、即ち現体制に成るほぼ1年前から、ご高齢の布美子氏から為人・貴美子夫妻に実務のバトンタッチが行われて居た様に思われます。布美子氏にとっては何と言っても冷泉家住宅の「平成の大修理」が大きな事業で、この頃はその完成が漸く眼に見えて来た時でもあり、又それに合わせるかの様に文化庁長官彰を受賞されて、見事に勇退を果たされたのだと思います。
 


  ●「歌の家」の確立と冷泉家誕生秘話 − 歴史の陰に女在り

 冷泉家は御堂関白と呼ばれ満月の様な栄華を謳われた、あの道長の六男・藤原長家を始祖として居ます。取り分け藤原俊成・定家・為家は三代続いて勅撰和歌集の撰者に就いたことに依り「歌の家」としての基礎を確立し、以来800年冷泉家に受け継がれ今日に至って居ます。先ずこの3人の業績を広辞苑から抜粋して置きます。

    1.藤原俊成(ふじわらのとしなり)

 1114(永久2)−1204(元久1)年。(名は「しゅんぜい」とも)始祖藤原長家から4代目に当たる。平安末期の歌人。俊忠の子、定家の父。皇太后宮大夫。法名、釈阿。五条三位と称。「千載集」の撰者。歌学を藤原基俊に学び、俊頼を尊敬、両者の粋を採り、清新温雅な、所謂幽玄体の歌を樹立した。御子左(みこひだり)家の基を築く。歌は「新古今集」以下勅撰集に四百余首載る。家集「長秋詠藻」、歌論書「古来風躰抄」など、他に歌合の判詞が多い。

 → 『小倉百人一首』第83番歌

    2.藤原定家(ふじわらのさだいえ)

 1162(応保2)−1241(仁治2)年。(名は「ていか」とも)鎌倉前期の歌人。京極中納言などと呼ばれた。俊成の子。「新古今集」(共撰)・「新勅撰集」を撰。歌風は絢爛・巧緻で、新古今調の代表。家集「拾遺愚草」の他に歌論書「近代秀歌」「毎月抄」「詠歌之大概」など。「源氏物語」「古今集」「土佐日記」などの古典校勘の業に従い、日記に「明月記」が在る。「小倉百人一首」の撰者。書風は、後世、定家流と呼ばれ、江戸の茶人に珍重された。

 → 『小倉百人一首』第97番歌

    3.藤原為家(ふじわらのためいえ)

 1198(建久9)−1275(建治1)年。鎌倉中期の歌人。定家の子。初め蹴鞠に名有り、承久の乱後、家学を継ぎ、権大納言に至り、「続後撰集」「続古今集」(共撰)を奏覧。晩年、平度繁の養女・阿仏尼を側室に迎えた。歌風平淡。歌論書「詠歌一体」、家集「為家集」など。
 補足すると、晩年は阿仏尼の子・為相(ためすけ:冷泉姓の始祖)を溺愛し、相続問題を起こす。


    4.阿仏尼(あぶつに)

 さて、上の男性だけではどういう経緯で藤原姓が冷泉姓に成ったのか説明不足ですね。そこで、そのキーマン(=鍵を握る人物)、それがあの『十六夜日記』の著者の才女・阿仏尼である、という結論だけ先に指摘して置きます。では阿仏尼とは一体どの様な人物だったのでしょうか?、広辞苑では相続問題については解らないので日本史人物辞典(山川出版社)から引用すると

 ?(1220頃か)−1283(弘安6)年。鎌倉中期の歌人。安嘉門院に仕え女房名は安嘉門院四条(あんかもんいんのしじょう)。実父母は不祥。平渡繁(ひらどのりしげ)の養女。日記「うたたね」は若き日の失恋の顛末を記したもの。30歳頃藤原為家の側室と成り、為相、為守を生む。為家没後、播磨国細川荘の相続を巡り嫡妻の子為氏と争い、1279(弘安2)年訴訟の為鎌倉に赴く。その折の紀行と鎌倉滞在の記が「十六夜日記」である。訴訟の結果をみずに60余歳で没した。「弘安百首」などに参加。関東10社に勝訴を祈願して奉納した「安嘉門院四条五百首」や「安嘉門院四条百首」などが在る。歌論書に「夜の鶴」が在り、為相に始まる冷泉流歌学の礎を築いた。

と在り、若かりし頃は恋多き女だったのですね。そこでこの相続争いとはどの様な内容だったのか、この点に絞って更に詳しく見て行くことにしましょう。

    5.為氏と為相の相続争い

 この節の以下の記述は、前述の『冷泉家の秘籍』の中から「冷泉家の歴史」(山本信吉 元奈良国立博物館長)と為家譲状の解説を基に私が組み立てました。

 相続争いの原因は藤原為家に在ります、どう見ても。為家は正妻宇都宮頼綱の娘との間に嫡男為氏(ためうじ)、次男為教(ためのり)が在りましたが、側室阿仏尼との間に為相(ためすけ)が生まれるとこの為相を溺愛し、一度は為氏に譲った幾つかの所領地を為氏から奪い返し、阿仏尼の子の為相に与えようとしました。良く有るパターンですね。
 ところが為家の没後、為氏は父の遺言を無視して播磨国細川荘を為相に渡さなかった為、阿仏尼は未だ子供であった為相に替わり、為家の「譲状」を懐に、鎌倉幕府へ訴訟に赴きました。この為家の「譲状」は4通在り、晩年の為家が、後妻阿仏尼とその子為相らの為に、相伝の文書、『明月記』、及び所領を譲与し、合わせて歌学の継承と為家自身の菩提を願ったもので、冷泉家にとっては極めて重要な根本資料です。
 細川荘は流祖長家以来の所領である播磨国越部荘と共に重要な領地で、後に「和歌所永領」と呼ばれた由緒有る荘園でした。訴訟は長引き、阿仏尼、為氏の存命中には決着が着かず、為相と為氏の子為世(ためよ)との争いに持ち込まれました。そして漸く為家の「譲状」が認められ為相の勝訴という形でケリが着きました。

    6.冷泉家誕生

 この判決を得て為氏が二条家を、為教が京極家を、為相が冷泉家を、それぞれ分立し歌学を継承することに成りましたが、後に二条、京極両家は断絶し、阿仏尼系の冷泉家のみが残りました。その後、冷泉家は南北朝の頃に上冷泉家(為尹(ためただ))と下冷泉家(持為(もちため))に分かれ、上冷泉家が今日の冷泉家として「歌の家」を継承して居ます。この様な三家分立、その後の上下分立を来たした背景には、当時の政治の二重構造(幕府と朝廷)、朝廷自体の二重構造(持明院統と大覚寺統、やがて南北朝の争いに発展する)、歌壇内部の主導権争い(復古調と革新派)などが挙げられます。
 尚、冷泉の名称の謂れですが、為相が御所の南の冷泉通りに家を構えたのでこの名が付いたそうです。又、下が冷泉家の「酢漿草(かたばみ)」紋です。因みに下冷泉家の家紋は「雪笹」紋です。そう言えば会報「志くれてい」の巻頭言の題が「雪笹」に成って居ましたね。
              冷泉家の酢漿草紋。

 これで冷泉家の誕生の経緯がお解り戴けたのでは、と思います。まさに「歴史の陰に女在り」を地で行って居ますね。今日冷泉家が現存する唯一の公家屋敷として残存するのも、こうして見て来ると阿仏尼の執念、或いは生前に訴訟の決着が着かなかったことへの怨念の様に思われて来るから不思議です。
 私は常々思っているのですが、歴史というのは決して綺麗毎では無く、ドロドロとした欲望が蠢いている、生身の人間同士の熱い戦いの血の結晶です。こうした人間ドラマとして捉えれば歴史は決して過去のものでは無く、現代と何ら変わらない立体像と成って姿を表します。
 どうでしたか、私の冷泉家誕生秘話、冷泉さんには悪いのですけど、面白かったでしょう!!

    7.歴史を動かした女性 − 阿仏尼再評価

 ところで阿仏尼という人は一体どんな人物だったのか、これも興味有りますね。才色兼備で、『うたたね』に在る様に若い時には恋多き女、老いてからは自分の子を守る賢き強き母、というイメージが浮かびますね。特に相続争いでも感情的に成らず裁判に訴えるなど、可なり知的で論理的な人ですね。まあ、この辺の所をもっと知りたい方には、意地悪な私は『悪女阿仏尼』(瀬野精一郎著、東京堂出版)などを読んでみることをお薦めします。果たして、阿仏尼が善女であったか悪女であったか、という問題は酒のツマミにはモッテコイの話ですね。
 一般論で言うと、再び冷泉さんには悪いのですが、悪女の方が断然面白いですよ、そうあの藤原薬子の様にね!!

    8.冷泉家初代当主・冷泉為相(れいぜいためすけ)

 最後に冷泉姓の祖、阿仏尼の子為相についてその業績を載せて置きます。広辞苑に拠ると

 1263(弘長3)−1328(嘉暦3)年。鎌倉末期の歌人。藤原為家の子。母は阿仏尼。冷泉家の祖。権中納言。多く関東で活躍。家集「藤谷集」

と簡単に記して在るだけなので補足すると、為相は勅撰集の撰者に成ることを希望し、『玉葉集』の撰者に成りたかったのですが、相続問題で争った二条為世(為氏の子)の反対に遭い実現しませんでした。ま、相続争いの後遺症ですね。彼は1317年に正二位権中納言に昇りましたが、後醍醐天皇の即位を前に、僅か半年で辞任して居ます。その後はしばしば鎌倉へ赴き、幕府の武士への歌の普及に努めた様です。
 


  ●冷泉家が唯一の公家屋敷として残った理由

写真3:平成の大修理が完了した冷泉邸。 明治維新と共に、明治天皇の東京遷都に伴ない多くの公家も東京に移って行きましたが、羽林家(※4)という公家としては然程高く無い家格の冷泉家は京都留守居番という名目で京都に残されました。この時は冷泉家も明治新政府という権力に遠かった為の悲哀を一旦は味わいました。ところがどっこい人間何処でどう転ぶか知れません。その後、ご存知の様に東京は関東大震災に遭い、日本は急激な欧米化に向かい西欧列強に追い付き追い越せでひたすら富国強兵・軍備拡張にひた走り、最初は勝ち進んで居ましたが遂には第二次世界大戦の空襲で焦土と化し負けて仕舞います。
 京都は震災にも遭わず空襲も受けなかったのです。結果として唯一冷泉家のみがほぼ完全な形で伝統的な公家屋敷を保存することが出来たという訳です。尚、冷泉邸が現在の烏丸今出川に移ったのは1606(慶長11)年で、その後火災に遭い今回大修理が行われた邸は1790(寛政2)年の再建です。右上が平成の大修理を終えた冷泉邸です(冷泉家時雨亭叢書パンフレットより)。
 正に「塞翁が馬」(※5)ですね。或いは定家より伝来の

  「紅旗征戎非吾事(こうきせいじゅうわがことにあらず)」

の心、即ち「天下の政争には吾関せず」でしょうか(△1のp12)。
 こうして現在迄「歌の家」として存続して来た冷泉家には、歌祖と言える定家が『近代秀歌』に記した

  「詞(ことば)は古きを慕ひ、心は新しきを求め」

の精神(=心)(△2のp162)が綿々と受け継がれて居るのだと思います。
 


  ●私と冷泉家を結び付けたもの − 交野ヶ原の七夕伝説

    1.冷泉家を知る切っ掛け

 私が冷泉家に興味を持った切っ掛け、それは大阪府交野市に伝わる七夕伝説です(△3)。交野の七夕伝説について、簡単に言うとこうです。
 大阪の枚方市と交野市に跨って古くより壮大な七夕伝説が在るのを皆さんご存知でしょうか?、七夕伝説は元々は中国から伝わった話ですが、交野には生駒に水源を発する天野川(あまのがわ)という川が実際に流れて居て枚方市を通って淀川に注いで居ます。そして彦星と織姫の年に1度の逢瀬を助ける為に天の川に翼を渡すと言い伝えられて居る(かささぎ)に因んだ鵲橋が、淀川近くの天野川に実際に架かって居ます。そして織姫を祀る神社機物(はたもの)神社と彦星を表す牽牛石が在り、ここには寺社の礎石や手水鉢(ちょうずばち)や石仏などが見付かって居ます。そして生駒寄りには「星田」という地名が残り星田妙見宮 −妙見とは北極星のこと− や星田神社が在ります。
 この辺りは古くから渡来人が住み着いた所で百済寺跡ややはり百済の渡来人王仁(わに)氏に因む王仁公園が在ります。又、漢人の秦氏(はたし)が住み着いた所でもあります。先程の「機物神社」は元は「秦物神社」と言われ、秦氏が祀った神社です。秦氏は養蚕や織物を日本に広めたことで知られて居ますので「秦→機」は納得出来ると思います。この秦氏が同時に織姫の七夕伝説を日本に広めるのにも一役買って居るのも当然でしょう。
 こんなに広い地域に跨った所を一望するには生駒山系の山頂に登らなくては為りません。恐らく七夕伝説を大切にして居た秦氏一行が、遠い故郷を偲んで交野で星祭をしたのが始まりではないかと私は思って居ます。そして地を流れる天野川を天空の「天の川」に見立てて、広大な交野ヶ原 −当時この辺りは朝廷の御狩場でした− で行われる星祭を生駒山系の山頂辺りから眺めたのではないでしょうか。「ナスカの地上絵」(※6)を見る様な光景ですね。正に壮大なスケールなのです。

 そして再び機物神社に戻りますが、ここの境内には梶の木が植えられて居るのです。梶の木は紙を作る原料の楮(コウゾ)や椏(ミツマタ)が手に入り難い古代には、その代用として紙(多分質の悪い物であったと思いますが)の原料にされて居た木です。この梶の木こそ、京都冷泉家が今でも七夕の行事「乞巧奠」(※1−2)に使用して居る木なのです。「歌の家」冷泉家では旧暦の7月7日に七夕の歌を詠むのですが、詠んだ歌をこの梶の葉の裏に書いたりするそうです。梶の葉はここでは「紙」を象徴して居るのだと思います。
 尚、機物神社の祭神は天棚機比売大神(あまのたなばたひめのおおかみ)と栲機千々比売大神(たくはたちぢひめのおおかみ)です。この辺の所を詳しく知りたい方は
  「2003年・交野七夕伝説を訪ねて」

を参照して下さい。


    2.歌に詠まれた交野の七夕

 交野の七夕伝説は全国的な知名度は現在では低いですが、その由緒は古く平安・鎌倉時代の公家の間では、ここが御狩場だったことも有って広く一般に知られて居ました。今では七夕の行事もイベント化して仕舞って、東北地方の大きな七夕祭などは有名で観客動員数も圧倒的に多いですが、はっきり言って大した由緒は有りません。だから中身は七夕だか盆踊りだか訳が解らないものに成って仕舞って、唯ワアワア騒いで居るだけです。それに比べ交野では古代からの星を崇める信仰や習俗が基底を成して居ます。
 そういう訳で交野の七夕祭は古くから宮廷歌人たちに詠まれて居て、その中で最も有名な歌が『伊勢物語』第82段の下の二首ではないでしょうか(△4)。

    狩り暮らし たなばたつめに 宿からむ
      天の河原に 我は来にけり
                    在原業平

    一年に ひとたび来ます 君まてば
      宿かす人も あらじとぞ思ふ
                    紀有常

 「たなばたつめ」とは機織女のこと(※1−1)で、この歌は在原業平らが惟喬(これたか)親王のお供で交野に来た時のもので、業平の歌に対して紀有常が親王に代わって返した歌です。この二首は当時から大変有名で『古今集』(△5のp114〜115)や『今昔物語集』にも載って居ます。又これを受けて『枕草子』第62段には

  天の川原、「たなばたつめに宿からん」と、業平がよみたるもをかし。

と書かれて居ます(△6)。
 、冷泉家では藤原為家(例の相続争いの原因を為した人)が交野の天野川について、こんな歌を詠んで居ます(「続後撰集」)。

    天の川 遠き渡りに なりにけり
      交野の御野の 五月雨の頃
                    為家

    (^o^) (^o^) (^o^) (^o^) (^o^) (^o^) (^o^) (^o^)

    3.冷泉家と七夕

 さてもう一つ、冷泉家当主為人氏が会報「志くれてい」第77号(2001年7月発行)の巻頭に載せている話をご紹介します。

 『冷泉家には「二星(たなはた)」「乞巧奠(きっこうでん)」の二つの祭事が伝えられています。前者の二星は皆様方のお宅で行っている、いわゆる七夕であります。一方乞巧奠は、文字通り、技芸の上達を乞う祭(※1−2)であって、中国から伝来し宮中において受けつがれ、盛んに行われたものであります。この後者の乞巧奠は、現在、冷泉家や、わずかな所のみで行われている祭、年中行事であります。
 冷泉家の年中行事は概ね旧暦で行っております。今年の乞巧奠も、旧暦で行う予定になっております。また、乞巧奠に関する和歌として、彦星と織姫の二星に供える供物を忘れないための和歌

    うりなすび もも梨からの さかづきに
      ささげらんかず 蒸しあわび鯛

と、梶の葉に墨書する和歌

    天川 とほきわたりに あらねども
      君が舟出は 年にこそまて

とが伝えられています。』


 因みに旧暦7月7日は立秋(=西暦の8月7日頃)前後の秋の祭事で、俳句に於いても七夕や乞巧奠の季語は「秋」(※1、※1−2)で、それ故に空も澄み渡り二星の逢瀬を地上から見ることが出来る訳です(→七夕と立秋の関係の詳細はココを参照)。更に旧暦の月の始めは必ず新月ですから「7日の月」は必ず上弦の月で、古代人はその形をに見立てました(→上弦の月の形はココを参照)。上の歌で「君が舟出は」の舟は旧暦の「7日の月」(=上弦の月)を暗示して居ます。又、「とほきわたり」は先程の為家の歌にも出て来ましたね。

 以上、歌に詠まれた交野ヶ原の七夕伝説を紹介しましたが、私はこういう日本的な感性、日本的な心をもっと大切にしたい、そして皆さんにも大切にして欲しいと思っているのです。
        (~t~) (~t~) (~t~) (~t~) (~t~) (~t~) (~t~) (~t~)

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  ●冷泉為人氏(現冷泉家当主)の言葉

 2002年6月に財団法人「冷泉家時雨亭文庫」の理事長が、それ迄の冷泉布美子氏(前当主夫人)から冷泉為人氏(現冷泉家当主)に受け継がれ若返りを果たしました。ここでは会報「志くれてい」第81号(2002年7月発行)の為人氏の理事長就任の挨拶から写真と共に転載させて戴きます。

写真4:現冷泉家当主為人氏。 この度、財団の六月の理事会で理事長に選任されました。微力ではありますが努力していく所存ですので何卒よろしく御支援、御協力のほどお願い申し上げます。
 財団、冷泉家時雨亭文庫は先代為任が昭和五十六年に設立したものであります。その設立の前後は極めて多忙であった聞いております。設立後も出版や展覧会等を行っており、これからもさらなる活躍をという矢先の、昭和六十一年七月八日に黄泉の国に旅立ちました。
 直ちに、義母布美子が二代目理事長に就任いたし、今日までの十七年間の長きに亘り、財団の運営を無事に果たしてまいりました。その間、展覧会や出版、そして典籍などの修理を数多く行ってきております。
 その主だったものをあげますと、展覧会では「冷泉家の歴史と文化展」「冷泉家の至宝展」「冷泉家展」など、出版では『冷泉家の年中行事』『冷泉家時雨亭叢書』『冷泉布美子が語る京の雅 冷泉家の年中行事』『冷泉家・時の絵巻』など、修理では「明月記」や「冷泉家住宅平成大修理」などがそれであります。
 これら二代の理事長の足跡を鑑み、財団の趣旨である、有形、無形の文化財をより善く継承保存して社会に貢献することに努力いたしたく思っておりますので、よろしくお願い致します。

    八百歳の 遠つ御祖の 文庫(ふみくら)
     千代に八千代に なほ伝へなむ

                    理事長 冷泉家当主

 


        *** エルニーニョからの二言目 ***

  ●「文化の空洞化」について

 私は現在の日本の文化状況に対しては正直言って相当危機感を持って居ます。譬えて言うと、丁度琵琶湖の生態系が人間の吐き出す汚物と外来種のブラックバス(※7)などに因って脅かされて居るのと全く同様の現象が、日本文化の周辺で起きている様に思えます。即ち、不必要な程溢れ返るモノと音、そして過度に欧米化された思考法や”カタカナ語”の氾濫です。そしてそれが”豊かな生活”だなどと思い込んで居る点が滑稽ですね。これは豊かさ所か日本の「文化の空洞化」(=「文化のブラックバス現象」)で、それは現代日本人の「心の空洞化」即ち「心の貧しさ」に起因し、問題は一層深刻なのです。
 嘗ての日本人は質素な中の調和、静寂の中の虫の声や月明かり、自然に触れて歌を詠む、という外国人には無い独自の感性で特色有る高度な文化を築いて来ました、そしてそれは諸外国からも高く評価されて居ます。ですから日本の伝統文化や古典芸能を守ろうと、寧ろ外国人が奮闘して居ますが、これって変ですよね。政府も漸く音楽教育に雅楽を取り入れたり”カタカナ語”を日本語に戻す作業を始めている様ですが、マスコミやメディアは全然反省してませんね。
 琵琶湖の日本種の魚や佐渡のトキと同じですが、日本固有の文化は日本で消滅したらそれは地球上からの絶滅を意味する、ということをもっと切実に考える時期に来ている様に思えます。茶髪・金髪に染めて付和雷同して居る場合では無いのです。
 もう一度、日本人の伝統と文化、即ち私たちの心の故郷(ふるさと)を見詰め直してみましょう、ニッポンの皆さん!!
 

 おしまい 


【脚注】
※1:棚機・七夕(たなばた)は、(棚即ち横板の付いた織機の意)
 [1].棚機津女(たなばたつめ)の略。古事記上「あめなるやおと―のうながせる」。
 [2].五節句の一。天の川の両岸に在る牽牛星織女星とが年に1度相会すると言う、7月7日の夜に星を祀る年中行事。中国伝来の乞巧奠(きっこうでん)の風習と日本の神を待つ「棚機津女」の信仰とが習合したものであろう。奈良時代から行われ、江戸時代には民間にも広がった。庭前に供物をし、葉竹を立て、五色の短冊に歌や字を書いて飾り付け、書道や裁縫の上達を祈る。七夕祭。銀河祭。星祭。季語は秋。蜻蛉日記上「祓ひのほども過ぎぬらん、―は明日ばかりと思ふ」。
※1−1:棚機津女(たなばたつめ)は、
 [1].機(はた)を織る女。秋さり姫。万葉集10「わがためと―のそのやどに織る白たへは織りてけむかも」。
 [2].織女星(しょくじょせい)。棚機姫とも。季語は秋。万葉集8「ひこぼしは―と・・・いなうしろ川に向き立ち」。
※1−2:乞巧奠(きっこうでん、きこうでん)とは、(女子が手芸に巧みに成ることを祈る祭事の意)旧暦7月7日の夜、供え物をして牽牛・織女星を祀る行事。中国の風習が伝わって、日本では宮中の儀式として奈良時代に始まり、後に民間でも行われた。季語は秋

※2:明月記(めいげつき)は、藤原定家の日記。巻数不詳。漢文体。1180〜1235年(治承4〜嘉禎1)の公武間の関係、故実・和歌などの見聞を記したもので、鎌倉時代の史料として貴重。京都冷泉家の時雨亭文庫などに大量の自筆本が現存。照光記。2000年4月に国宝に指定。

※3:兼題(けんだい)とは、(兼日題の略)歌会・句会などを催す時、予め出して置く題。又、その題で詠んで置く歌・句など。兼題。無名抄「―の会には皆歌を懐中して」。←→当座。

※4:羽林家(うりんけ)は、中世以降、公卿(くぎょう)の家格の一。摂家・清華(せいが)・大臣家に次ぎ、名家・半家の上位。大納言・中納言・参議に迄昇進出来、近衛中・少将を兼ねた家柄。四辻・中山・飛鳥井・冷泉・六条・四条・山科などの諸家が在った。

※5:塞翁が馬(さいおうがうま)とは、[淮南子人間訓]塞翁の馬が逃げたが、北方の駿馬を率いて戻って来た。喜んでその馬に乗った息子は落馬して足を折ったが、為に戦士と成らず命長らえたという故事。人生は吉凶・禍福が予測出来ないことの譬え。塞翁失馬。

※6:ナスカ(Nazca)は、ペルー南西部の町。7世紀頃ナスカ文化が栄えた地。付近の砂漠に在る岩石列で描いた地上絵が有名で、フマナ平原の地上絵と共に世界遺産に登録。<出典:「学研新世紀ビジュアル百科辞典」>

※7:ブラックバス(black bass)は、オオクチバス(大口バス、large-mouth bass)の通称。サンフィッシュ科の淡水産の硬骨魚。全長50cm。北アメリカから移入され全国に広がった。湖沼や流れの緩やかな河川に生息する。肉食性で日本在来の淡水魚を捕食する為、生態系に大きな影響を与える。<出典:一部「学研新世紀ビジュアル百科辞典」より>

    (以上、出典は主に広辞苑です)

【参考文献】
△1:『明月記抄』(今川文雄編訳、河出書房新社)。

△2:『中世歌論集』(久松潜一編、岩波文庫)。

△3:『交野ヶ原と七夕伝説』(天の川七夕星まつりの会編・発行)。

△4:『伊勢物語』(大津有一校注、岩波文庫)。

△5:『古今和歌集』(佐伯梅友校注、岩波文庫)。

△6:『枕草子』(池田亀鑑校訂、岩波文庫)。 

●関連リンク
参照ページ(Reference-Page):日本の旧暦について▼
資料−「太陽・月と暦」早解り
(Quick guide to 'Sun, Moon, and CALENDAR')

参照ページ(Reference-Page):天の川について▼
資料−天文用語集(Glossary of Astronomy)
参照ページ(Reference-Page):『小倉百人一首』▼
(第83番が俊成、第97番が定家)
資料−小倉百人一首(The Ogura Anthology of 100 Poems by 100 Poets)
参照ページ(Reference-Page):関東大震災について▼
資料−地震の用語集(Glossary of Earthquake)
参照ページ(Reference-Page):虫の声について▼
資料−昆虫豆知識(Insect Trivia)
補完ページ(Complementary):交野ヶ原七夕伝説巡り▼
(七夕と立秋、上弦の月と舟の関係にも言及)
2003年・交野七夕伝説を訪ねて
(Vega and Altair legend of Katano, 2003)

七夕伝説に出て来る鵲(かささぎ)や日本文化について▼
鵲森宮と「美しい日本文化研究所」
(Kasasagi-Morinomiya and Elegant JPN culture)

祭とイベントの違い▼
「動物の為の謝肉祭」の提唱(Carnival for Animals)
日本人の「心の空洞化」の始まり▼
戦後日本の世相史(Shallow history of Japan after World War II)
日本人の心の故郷について▼
温故知新について(Discover something new in the past)

2003.01.01 エルニーニョ深沢(ElNino Fukazawa)
2003.03.20 改訂

♪BGMは多夢[TAM Music Factory]サイトのバナー。[TAM Music Factory]のオリジナル曲(MIDI)です。

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