−− 2003.03.20 エルニーニョ深沢(ElNino Fukazawa)
2003.06.28 改訂
※注意:このページは写真が多く、読込みに時間が掛かります。 ★−−−暫くお待ち下さい(Wait a minute)−−−★ |
交野の七夕伝説(※1)については既に冷泉家のページで紹介して居ますが、我々一行は03年3月9日(日)に、交野七夕伝説所縁の磐船神社、交野山、機物神社、観音山公園の牽牛石、そして鵲橋を訪ねて来ました。メンバーは鵲森宮(かささぎもりのみや)の石崎宮司率いる「日本磐座岩刻文字研究会」の人々です。私を入れて8名で、私は例に依って「熱烈歓迎面白半分的宴会的」心で参加しました。因みに、当サイトのコンセプトは似非中国語で
熱烈歓迎刺激的魔道神力的逆説的助平的大和魂的
面白半分的宴会的食狗蛇蠍的超個性的激辛電視帳
です。これはトップページに掲載して居ますので一度気を付けてご覧下さい。
今回は車3台に分乗して行ったので、ドライブ&ハイキングです。交野ヶ原に展開する広大な”地上絵の世界”、そして日本人の「神」信仰の原型と言っても良い神奈備信仰や磐座信仰(※2、※2−1)を少しでも実感して戴けたらと思って居ます。
→ 地図を見る方はココ(Open the map)
大阪森之宮神社を9時過ぎに出発し、四條畷市の飯盛山、清滝峠を越えて天野川(←天空の「天の川」(※1−1)に対応)の上流沿いに国道168(この辺りは磐船街道と呼ばれて居ます)を下ると磐船神社に出ます。ここは金剛生駒国定公園の北端です。
左の写真が磐船神社の御神体・天の磐船です。高さ12m位、幅12m位有る船の形をした巨大な磐座です。
右上の写真が天の磐船を祀る拝殿で、礼拝して居るのが、この日の案内役・岡本さん。岡本さんは学校の教師ですが、何と以前この交野市で教鞭を執って居たそうで、更に何とこの磐船神社で”修行”した経験が有り、ここの宮司さんとも懇意にして居ました。拝殿の左奥に鳥居が見えて居ますが、後で述べる岩窟巡りはこの鳥居の左脇の入口から入ります。
この神社の御祭神は饒速日命(※3)。饒速日命は物部氏の遠祖(とおつおや)とされる天孫系の神(=天津神)で、この辺りの哮峯(たけるがみね)に天の磐船に乗って降臨した伝承が在ります。交野一帯は古代は肩野物部氏の勢力範囲だった所です。交野市森で発見された森古墳群の前方後円墳群はこの一族の墳墓と言われて居ます。しかし崇仏論争の果てに蘇我氏に滅ぼされた物部残党は、追っ手を逃れ散り散りに成り、僅かにこの地に留まった人々は住吉神社の庇護の基に身分を隠し、細々と生きることを余儀無くされました。
++++ 物部氏の真相 ++++
前述の様に物部氏は蘇我氏との崇仏論争に敗れ滅びたというのが定説です。しかし私は、崇仏論争よりもっと根本的な問題、即ち饒速日命(物部氏の祖)と神武天皇(現皇統の祖)をそれぞれの始祖とする天孫二族の「両雄並び立たぬ」覇権闘争が根底に有ったと考えて居ます。『日本書紀』神武紀に拠れば、イワレヒコ(=神武天皇)が日向を出て難波津から上陸し大和の地を平定しようすると、先住民の”服(まつろ)わぬ酋長”・長髄彦(※4)の激しい抵抗に合い捕らえて訳を糾すと、長髄彦は先に降臨した饒速日命に仕え妹を嫁がせていると語ります。そして後から天孫族を名乗って上陸して来たイワレヒコに「豈(あに)両種(ふたはしら)有さむや」と訴えて居ます(△1のp231)。結局、饒速日命自らが長髄彦を討ちイワレヒコに帰順しますが、饒速日命の後裔たる物部氏は絶大な古代豪族として存続します。これは覇権闘争の決着の仕方としては中途半端で「豈両種有さむや」が完全に払拭された形では無いのです。それ故に私は、崇仏論争などは口実の一つで、物部氏は何れ滅ぼされる運命に有った、と考える訳です。
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[ちょっと一言] 古代の河内湾・河内湖の時代には生駒の麓に草香津が在り、この草香(くさか)は長髄彦が抵抗した孔舎衛(くさかえ)で(△2のp25)、現在の東大阪市日下(くさか)町です。つまり神武は船で河内湖内部に侵入し草香津に上陸した時に長髄彦の軍に抵抗された訳です。
左下の写真が天の磐船を背景に磐船神社の宮司さん(左)と石崎宮司。磐船神社の宮司さんにはこの神社や天の磐船の謂れ、肩野物部氏の伝承、これから我々が体験する岩窟巡りの話などを丁寧に説明して戴きました。
磐船神社の岩窟は古来より神道的な磐座信仰の対象であると共に修験道の行場(ぎょうば)としても使われ、昔の儘の姿を保つ為、必要最低限の安全措置しか講じて無いそうです。岩窟巡りをするには写真右の石崎宮司が着ている様な白衣を神社で借りて着て、磐船横の赤鳥居を潜り入口の鍵を開けて貰って入ります。一旦入ったらひたすら矢印の書いて在る方向に前進有るのみですよ!
岩窟の中は底に天野川の分流が流れ、狭い岩穴の間を上に下に潜り抜けて行きますので、相撲の力士みたいな人は無理。又、時には天野川分流の上に渡して在る細い板の橋を渡ったりしますのでスリルが有ります。
そして最後には右下の写真の様な白龍社の小さな鳥居が見えて来ます(この左奥に黒龍社、金龍社も在ります)。ここに龍神を祀ってるということは「雨乞い」の行でもしたのでしょうか?
ここを矢印の方へ行けば再びお天道様を拝めます。
この後、我々は磐船の奥の小山(=饒速日山)に登りました。山中には修験者が心に感応した神の名を石に刻んで居ます(左の写真)。「オキ大神」とか「八剣大神」などと刻まれて居ますね。
又この山は大阪府私市と奈良県北田原町との県境に当たり、県境を示す杭が在りました(右の写真)。
山を降りる途中展望の利く所から磐船街道(現国道163号)の天野川下流方面を写したのが右の写真です。哮橋から鮎返しの滝方面です。
山から戻って磐船神社の縁側で持参の弁当で昼食です。昼食後少し境内を散歩して居ると、神社の境内を流れる天野川分流の岩の上に蛙の像が在りましたので、蛙が好きな私は思わずパチリ(左下の写真)。岩の下を流れて居るのが天野川分流です。
この蛙の謂れは聴いて居ません!
尚、饒速日命降臨伝承を持つ神社は他にも石船神社(京都府京田辺市高船里)や磐船大神社(大阪府南河内郡河南町平石)にも存在します。これらの神社も何れ訪ねてみたいと思って居ます。
又、今回の磐船神社や肩野物部氏の詳細については「磐船神社」公式サイトに力作が載って居ますので、興味有る方は最下行の関連リンクから参照して下さい。
さて磐船神社を去り、交野ヶ原のシンボル的存在の交野山に登りました。ここが何故シンボルなのかは、このページを読み進めばお解り戴ける筈です、そして又ここも神奈備・磐座(※2、※2−1)として崇められて来たことも。
交野山は帰りに寄る倉治の機物神社の脇の道を交野カントリークラブ方面に上って行きます。この日は車で登って行き、山頂の大岩の案内板(右の写真)の所から頂上迄登りました。
この案内板には、標高350m、山頂の大岩には開元寺中興の祖、実伝(じつでん)が彫った「「聖観音」の梵字がある」、と記されて居るのが読めると思います。ここも磐船神社と同じく神道の磐座と修験道の行場とが一体化して居ます。前回行った大国見山もそうでした。
この案内板から5分位登ると、下の様な見晴らしの良い所に出ます。左下が高槻方面を、右下が小雪舞う中で石清水八幡方面を写したものです。
私が冷泉家のページで推理して居る様に、交野ヶ原に「ナスカの地上絵」の如くに分布する七夕関連の各地点は、この辺りからなら全て視野の中で一望の下に見渡せます。交野ヶ原は、後述する歌にも詠まれて居る如く平安時代は朝廷の御狩場として一般人立ち入り禁止の「禁野」(※5)で、交野市の「私市(きさいち)」「私部(きさいべ)」という地名は皇后(きさき)の世話をする私部(きさいちべ)という部民(※6、※6−1)が置かれた場所の名残です。
更に5分も登れば頂上。頂上には幾つかの巨岩が在り、その内の一つには何やら”文字か文様らしきもの”が彫られて居ました(右の写真)。しかしその近くの岩には明らかに最近の人名の様な物も在り、迂闊に断定は出来ない状態です。
そして、左の写真が頂上の観音岩 −側面に梵字で「聖観音」と彫って在る大岩− に登って高槻方面をバックに撮ったものです。向こう側は絶壁です。
私はその絶壁の下に回り、「聖観音」という梵字を撮影しました(左下の写真)が、お判りに為りますか?、何か彫って在るのは判りますが、ちょっと近過ぎて「文字」として認識するのは困難です。もっと離れた地点からだと「文字」として読めるそうです。
右下の写真は観音岩近くの岩の梵字です。こちらは「文字」として読めますね。
右は下山途中に取った白旗池と交野カントリークラブ。先程の磐船神社近くもきさいちカントリークラブや四条畷カントリークラブが在り、この辺りは生駒山麓ということも有って可なり”開発”が進んで居ます。
この交野山山麓からは神宮寺遺跡の様な先土器・縄文遺跡が発掘され(△2のp10)、物部氏や渡来人が住み着く遥か以前から、縄文人が山麓に生活して居ました。
それからもう一つ。来た道を下って機物神社に降りて行ったのですが、この交野山の裾の道には桜の木が沢山植えられて居ました。ここ桜の季節には絶好ですよ!
(^o^)
右下が機物(はたもの)神社の鳥居と本殿です。石崎宮司と私は2年程前にもこの神社に来て居り、その際中村宮司からこの神社に纏わる色々な話を直接伺いました。
それに拠りますと呼び名の由来は、この辺りは5、6世紀の頃養蚕や機織技術を携えた秦氏が大陸から渡って来て定住した所で、この神社が在る倉治を「秦者(はたもの)」と呼び、それが今日の「機物」に成った、更に枚方市津田を秦田(はただ)、交野市寺を秦山(はたやま)と呼んで居た時代が有った、ということです(△3のp22)。
[ちょっと一言] 倉治という地名は『日本書紀』神武紀に登場する兄倉下(えくらじ)・弟倉下(おとくらじ)という兄弟の出身地に比定されて居ます(△1のp228)。
御祭神は天棚機比売大神(あまのたなばたひめのおおかみ)、栲機千々比売大神(たくはたちぢひめのおおかみ)、地代主大神、八重事代主大神。後者2神は出雲系の国津神 −多分この地方の元々の豪族の氏神か何かでしょう− 前者2神が秦氏が齎(もたら)した七夕の織女の神です。秦氏は養蚕や機織技術と共に、道教的(※7)な星信仰や七夕伝説の伝承者でも在ったのです(△4のp158〜162、△5のp331)。
ところでその「機物」を詠み込んだ七夕の歌が『万葉集』巻10−2062の秋の雑歌の中の「詠み人知らず」の歌です(△6の(上))。
機ものの ふみ木持ち行きて 天の川 打橋わたす 君が来むため
「打橋」とは架け外し出来る木橋のことで、それを「踏み木」で渡そうということです。
交野山は神社の境内からは木々の陰で見え難いのですが、本殿裏の道路からは左の写真の様に、思わず頭(こうべ)を垂れたく成る様な整った円錐形(ピラミッド型)の姿を見せて居ます。
中村宮司の話では、冬至の日には機物神社から交野山に重ね合わせた「日の出」が見られるそうで、古代ここに祠が出来る以前は交野山それ自体が御神体で神奈備・磐座信仰の対象だったということを強く実感出来ます。私たちは僅か30分前には、この円錐形の頂上に居たのですが、こういう姿こそ素朴な日本の信仰の原型です。
さて七夕伝説に因み、境内には右上の写真の紀貫之の歌碑が在ります。これには『拾遺和歌集』から
ひととせに 一夜と思えど 七夕の逢ひ見む 秋の限りなき哉
という歌が刻まれて居ます。
そしてもう一つ七夕伝説と所縁が深いのが梶の木です(右の3枚の写真)。左が梶の木、真ん中と右が願懸けを葉の裏に書いて在る様子。
古代ではこの梶の木の葉の裏に願い事を書いて願を懸ける習わしが有り、近世頃から笹の葉に吊るした短冊に替わって来ました。古くからの宮中行事の伝統的作法を受け継いで居る京都・冷泉家では今でも七夕の行事「乞巧奠」(※1−3)に於いて、この梶の木の葉に
天の川 遠き渡りに あらねども 君が船出は としにこそ待て
という歌を墨書するそうです(△3のp49)。
ということで、7月6日(宵宮)と7日(本宮)は大勢の人出で賑わう様です。でも私などは、やはり旧暦の7月7日を大事にして欲しいと願うばかりです。この事については後で詳述します。
1組は機物神社で別れたのですが、我々は次に車で牽牛石に移動。牽牛石は枚方市香里ヶ丘の観音山公園に在る花崗岩の自然石で、機物神社からは丁度真西の方角です。途中、機物神社の織女と彦星(牽牛)が出会うという天野川に架かる逢合橋(あいあいばし)を抜けて茄子作(なすづくり)という町を通って行くと観音山公園に着きます。左が牽牛石の立て札で、前述の説話を書いて在ります。
ここは元、奈良時代創建・南北朝の動乱で焼失した中山観音寺という密教寺院の敷地だった所です。
左が牽牛石。南西から見ると牛が臥せている様に見える所から「牛石」と呼ばれたそうです。
嘗てはここから東の方角に、織女を奉る機物神社の磐座・交野山が見渡せたのですが、今はマンションが建っていて、交野山のテッペン部分がマンションの上からほんの少し見えるだけです。
そう言えば交野山の頂上も観音岩ですから、交野の織女・彦星の逢瀬は観音様の御導きなのでしょうか?
さて牽牛石の地点からは交野山の全貌は見えなかったのですが、少し脇に寄って見ると、右の写真の様に、公園の木々の間から民家の屋根の向こうに交野山の三角形をした姿が見えました。
この日の最後は鵲橋(かささぎばし)です。鵲橋は枚方駅の少し北側、天野川が淀川に注ぐ所に在ります。右下が鵲橋近くの道路標識です。
鵲は、旧暦7月7日の七夕の夜、牽牛星(Altair)(※1−4)と織女星(Vega)(※1−5)とを会わせる為に両翼を広げ(或いは鵲の群れが翼を連ね)て「天の川」(※1−1)に橋を渡すと言われて居る鳥で『小倉百人一首』の6番歌にもその伝説が歌われて居ます。因みに石崎宮司の神社が鵲と因縁の深い鵲森宮ですよ。
左下が鵲橋から望んだ交野山です。交野山は特に高い訳では無いのですが、均整の取れた三角形の姿は遠くからでも見分けが付きます。
右下が鵲橋のモニュメントの前での記念撮影。写真の右の橋の欄干に「鵲橋」と書いて在ります。
こうして機物神社から、牽牛石の観音山公園から、そしてこの鵲橋から見て来て、交野山がこの交野ヶ原一帯のシンボル的山である、ということがこれでお解り戴けたと思います。こういう山が神奈備山と称されて、縄文の古代から日本人の崇敬を集めて来たのは、多分「カミ」が宿る象徴と思われたからでしょう。
この場合の「カミ」とは「超自然的な力を持つ者」を指します。古代に於いては人間の生活を左右する洪水や日照や疫病それ自体が「超自然的な力」であり、それを畏敬する所から「原始のカミ概念」が生じたと私は考えて居るのです。シンボル的山とは、大抵円錐形の富士山型をして居るので「××富士」などと呼ばれることが多く、古くは神奈備山と称されました。又、遠くから見て三角形の目立つシンボル性を強調して最近では「日本のピラミッド」と呼ぶことも有ります。
これでこの日の交野七夕伝説巡りは無事終了です。皆さん、お疲れ様でした。
(1)何故「旧暦」なのか − 旧暦で意味が浮かび上がる節句
交野ヶ原には星田とか星の森とか”星”の字が付く地名が所々に在りますが、実は昔星が降ったという降星伝説が在るのです。それは嵯峨天皇の時代に星田妙見宮、星の森、降星山光林寺の3箇所に落下したと言われて居て、この3箇所を結ぶ三角形の1辺が8丁有るので八丁三所(はっちょうみどころ)と呼ばれて居ます。
そして既に述べた様に、交野ヶ原は秦氏所縁の地で平安の昔から『伊勢物語』(後述)などに登場して居て、私は交野こそ「七夕に関して全国で最も由緒正しき地」だと思って居ますので、是非旧暦の7月7日に、本来の七夕の心を甦らす様な行事を執り行なって戴きたいと願わずには居られません。何故なら皆さん、前述の機物神社の歌をご覧下さい。「機物」を歌った歌は秋の雑歌で、紀貫之は「秋の限りなき哉」と歌って居るのですよ。七夕が何故「秋」なのか?、それを解く鍵が「旧暦」なのです。
日本の旧暦は陰暦とも通称しますが正確には太陰太陽暦で、これは「月の満ち欠け」(=太陰暦)と「太陽の日照時間の長さ」(=太陽暦)を組み合わせた中国伝来の暦です。この内、「日照時間の長さ」に基づくものが二十四節気で、1年の季節は立春で始まり、【脚注】に記した如くに雨水、啓蟄、春分、...と続く訳です。そして1年の締め括りが節分。それに対し旧暦の各月は「月の満ち欠け」で決められ必ず新月(月が見えない夜=朔月(さくげつ))で始まり満月が月の中程(=15日)に来ます。だから満月の夜を十五夜と呼ぶのです。そして奇数を陽の数、偶数を陰の数とする「陰陽五行」(※7−1)という中国の考えに基づき、陽の数の重なる日が節目の行事日、即ち節句(※8) −その中でも重要なものを特に五節句(※8−1)と言う− として昔から重んぜられて来ました。
ところが「月の満ち欠け」の周期(=朔望月)は約29.5日ですので12ヶ月で354日にしか成らず、これを補正する為に旧暦では閏月などが発生し現在の西暦(新暦)との対比は年に依って可なりずれて来ます。実は今でも年賀状で「迎春」とか「新春」とかの言葉を用いるのは旧暦の名残なのです。西暦1月1日は冬の真っ盛りですが、旧暦に基づく旧正月は「雨水」直前の新月の日を元旦と定めている −各月の1日目を朔日(さくじつ、ついたち)と呼ぶ− ので旧正月は立春前後に廻り来ることに成り正に「迎春」「新春」な訳で(△7)、中国では旧正月を「春節」と呼びます。下の関係表をご覧下さい。
<旧暦と節句の関係表>
<旧暦> <西暦>
1月1日=旧正月 1月22日〜 2月20日頃
立春 2月 4日頃
3月3日=上巳の節句 3月23日〜 4月21日頃
(形代流し→雛流し→桃の節句)
八十八夜 5月 2日頃
立夏 5月 5日頃
5月5日=端午の節句 5月23日〜 6月21日頃
7月7日=七夕の節句 7月25日〜 8月23日頃
立秋 8月 7日頃
9月9日=重陽の節句 9月27日〜10月26日頃
立冬 11月 8日頃
この関係表で気付くのは、二十四節気は太陽年に基づいてるので現在の暦(新暦)に対しズレが少ないのに対し、旧暦の各月は太陰暦に基づいてるので新暦に対するズレが大きいので年毎に変動するという事です。
その違いを旧暦七夕(←「月の満ち欠け」に基づく)と二十四節気の立秋(←太陽年に基づく)を例に採り上げて比べてみましょう。
旧暦七夕(7月7日) 立秋
1998年 新暦8月28日 新暦8月8日
99年 新暦8月17日 新暦8月8日
2000年 新暦8月 6日 新暦8月7日
01年 新暦8月25日 新暦8月7日
02年 新暦8月15日 新暦8月8日
03年 新暦8月 4日 新暦8月8日
この様に立秋が殆ど固定的なのに対し旧暦七夕は立秋の前後に大きく変動して居ます。故に往古から旧暦の七夕は立秋前後の行事、つまり「秋を告げる行事」とされ、従って俳句に於ける七夕や乞巧奠の季語は「秋」(※1、※1−3)なのです。この頃は空も澄んで居る(=秋空(※9))ので琴座のベガ(織女星、※1−5)や鷲座のアルタイル(彦星、※1−4)や天の川(※1−1)が良く見えるのです。それを西暦の7月7日の梅雨が明け切らぬ内に行ったのでは星は見えず本来の季節感が損なわれて仕舞う訳です、つまり形骸化ですね。
(>v<)
(2)七夕は万葉時代から「秋」の風物詩
日本最古の歌集『万葉集』に於いても、七夕は巻10の「秋雑歌」の中に沢山載って居ます(1996〜2093番歌、△6の(上))。前述の機物の歌もこの中の1首でした。ここで大伴家持(※10)が7月7日、天漢(あまのがは)を仰ぎ見て作った長歌1首と反歌(※11)2首を『万葉集』巻18−4125〜4127(△6の(下))からご紹介して置きましょう。
長歌1首
天照らす 神の御代より 安の河 中に隔てて
向ひ立ち 袖振り交し いきの緒に 歎(なげ)かす子ら
渡守 船も設けず 橋だにも 渡してあらば
その上(へ)ゆも い行き渡らし たづさはり うながけりゐて
思ほしき ことも語らひ 慰むる 心はあらむを
何しかも 秋にしあらねば 言問ひの ともしき子ら
うつせみの 世の人吾も ここをしも あやにくすしみ
往き更(かは)る 年のはごとに 天の原
ふりさけ見つつ 言ひ継ぎにすれ
反歌2首
天の川 橋渡せらば その上(へ)ゆも
い渡らさむを 秋にあらずとも
安の川 こ向ひ立ちて 年の戀 日長(けなが)き子らが 妻問の夜ぞ
天の川のことを「安の河」(※12)と言ったのですね、「袖振る」(※13)とは愛し合う男女が別れを惜しむ情景、「いきの緒」(※14)とは命のことです。家持は『万葉集』の編者の一人と目されて居る人ですが、上の1番目の反歌は山上憶良(※10−1)の
袖振らば 見もかはしつべく 近けども
渡るすべなし 秋にしあらねば
という歌(『万葉集』巻8−1525、△6の(上))を意識した様にも思えます −家持は憶良より約50歳程後輩− が、どうでしょうか。
ところで、立秋の頃の澄み切った夜空の天の川に翼で橋を渡すのが前述の鵲(かささぎ)ですが、家持は鵲の歌も詠んでましたね。
(3)旧暦「7日の月」の意味
そしてもう一つ。旧暦の月の始めは必ず新月ですから「7日の月」は必ず上弦の月なのです。上弦の月と言うのは実際に左図の様な形をして居て、これって舟の形に見えませんか?
元来七夕は天空の天の川で織女と牽牛が1年に1度逢うという話ですが、これを古(いにしえ)の人々は天の川を地上の川に見立て、その上を上弦の月の「舟」に乗って2人が出逢う、と豊かに想像力を膨らませたのでした。前述の冷泉家の歌で「君が船出は」と詠んで居るのはこの事を指します。これも上弦の月だからこそ、つまり旧暦の7月7日だからこそ成り立つのです。実はこの説明、殆ど冷泉貴美子さんから伺った話の受け売りです、ムッフッフ!
(~t~) (~t~) (~t~) (~t~) (~t~) (~t~) (~t~) (~t~)
メディア好みのワイワイ騒ぐだけのイベントが横行する中、日本の七夕伝説の真髄を伝える交野の皆さんには、是非旧暦の7月7日の日に「七夕の心」を、そして「日本の心」を語り継ぐ”静かな”祭を、後世に伝えて戴きたく思って居ます!!
{この章は03年6月28日に加筆し更新}
さて、石崎宮司と行くと何時も最後は温泉です。枚方から北に枚方大橋を渡って淀川を越え、高槻市塚脇の温泉で今日一日の疲れを癒しました。ここは摂津峡の入口です。
この日は低気圧の通過とかで朝から寒く、1時間置き位に雪が舞って又少し晴れるという天気の繰り返しでした。正に気紛れな天候でした。
日曜日で駐車場が満杯で約30分位待たされました。この待たされて居る時に、道路の北側の林に白鷺が舞うのを見付け、見ていたら枯れ木に止まりました。どうやらこの木に巣が在るらしく3、4羽この木の廻りを舞って居ます。そこでシャッターを切ったのが右上の写真です。西日を浴びた枯れ木のテッペンに1羽止まって居るのが見えると思います。
然う斯うする内にやっと順番が来て温泉に入れました。ビルの屋上の露天風呂に入って居ると又、空が暗く成り雪が舞って来て風流な気分に浸れました。この時ばかりは気紛れ天気に感謝です。
やはり交野ヶ原は良かったですね。大阪市内から電車でも1時間で行ける所ですが、京都や奈良という観光地に比べ知名度がぐっと低い交野市のことは、関西在住の人でも知らない人の方が多いのではないでしょうか?
しかしこういう所を訪ねるのが「旅は身近な所から」の実践というものです。そして又ここには日本人の心を解く鍵が眠って居ました。今日の探索だけでも以下に挙げる幾つかのキーワードが在ります。
[1].地上絵の如き壮大な星信仰と七夕伝説
[2].神武以前の天孫族・饒速日命(物部氏の祖)の降臨伝説
[3].古代の神奈備・磐座信仰と縄文遺跡と修験道の融合
[4].自然の恵みに感謝する心
[5].昔の暦は単なる日捲りでは無く意味が有る
などなどです。正に「温故知新」、これ又「日本再発見の旅」の典型です。
交野ヶ原の七夕伝説は万葉の時代から歌に詠まれて来ましたが、その中で最も有名な歌が『伊勢物語』第82段の下の2首ではないでしょうか(△8)。
狩り暮らし たなばたつめに 宿からむ 天の河原に 我は来にけり
在原業平
一年に ひとたび来ます 君まてば 宿かす人も あらじとぞ思ふ
紀有常
「たなばたつめ」とは機織女のこと(※1−2)で、この歌は在原業平(※15)らが惟喬親王(※15−1)のお供で交野の天野川の辺(ほとり)に来た時のもので、業平の歌に対して紀有常(※15−2)が親王に代わって返した歌です。この2首は当時から大変有名で『古今集』(△9のp114〜115)や『今昔物語集』にも載って居ます。又これを受けて清少納言(※16)は『枕草子』第62段に於いて
天の川原、「たなばたつめに宿からん」と、業平がよみたるもをかし。
と、好色な業平の下心を揶揄して居ます(△10)が、成る程やはり『枕草子』は「をかし」の文学(※16−1)ですね。私から見れば清女史の揶揄も又「をかし」即ち面白いという訳で、第62段は私のお気に入りです。
他にも交野ヶ原は『栄華物語』『新古今集』『山家集』にも詠まれて居ますし、江戸時代の『河内名所図会』や貝原益軒の『南遊紀行』にも出て来ます。詳しくは下の【参考文献】△3を参照して下さい。
ということで、今回も皆さん有り難う御座いました、とても良い旅でした!!
m(_=_)m (^o^)/~~~
尚、[磐座探検]シリーズの他画面への切り換えは最下行のページ・セレクタで行って下さい。(Please switch the page by page selector of the last-line.)
【脚注】
※1:棚機・七夕(たなばた)は、(棚即ち横板の付いた織機の意)
[1].棚機津女(たなばたつめ)の略。古事記上「あめなるやおと―のうながせる」。
[2].五節句の一。天の川の両岸に在る牽牛星と織女星とが年に1度相会すると言う、7月7日の夜に星を祀る年中行事。中国伝来の乞巧奠(きっこうでん)の風習と日本の神を待つ「棚機津女」の信仰とが習合したものであろう。奈良時代から行われ、江戸時代には民間にも広がった。庭前に供物をし、葉竹を立て、五色の短冊に歌や字を書いて飾り付け、書道や裁縫の上達を祈る。七夕祭。銀河祭。星祭。季語は秋。蜻蛉日記上「祓ひのほども過ぎぬらん、―は明日ばかりと思ふ」。
※1−1:天の川・天の河(あまのがわ、Milky Way)は、銀河系の異称。銀河系の円板部の恒星が天球に投影されたもの。数億以上の微光の恒星から成り、天球の大円に沿って淡く帯状に見える。中国の伝説では、牽牛星と織女星とがこの川を渡って、7月7日の七夕に出逢うとされる。銀漢。漢。天漢。河漢(かかん)。天の戸河。季語は秋。万葉集10「―楫の音聞ゆ彦星と織女(たなばたつめ)と今夕逢ふらしも」。
※1−2:棚機津女(たなばたつめ)は、
[1].機(はた)を織る女。秋さり姫。万葉集10「わがためと―のそのやどに織る白たへは織りてけむかも」。
[2].織女星(しょくじょせい)。棚機姫とも。季語は秋。万葉集8「ひこぼしは―と・・・いなうしろ川に向き立ち」。
※1−3:乞巧奠(きっこうでん、きこうでん)とは、(女子が手芸に巧みに成ることを祈る祭事の意)旧暦7月7日の夜、供え物をして牽牛・織女星を祀る行事。中国の風習が伝わって、日本では宮中の儀式として奈良時代に始まり、後に民間でも行われた。季語は秋。
※1−4:牽牛星(けんぎゅうせい)は、鷲座の首星アルタイル(Altair)の漢名。白色光を放つ。七夕伝説に名高い。彦星(ひこぼし)。犬飼星(いぬかいぼし)。男星(おぼし)。〈書言字考〉
※1−5:織女星(しょくじょせい)は、琴座の首星ベガ(Vega)の漢名。7月7日の夕、天の川の対岸に在る牽牛星と逢うという伝説が在る。棚機津女(たなばたつめ)。棚機(たなばた)。織姫星(おりひめぼし)。
※2:神奈備(かんなび、かむなび)とは、神の鎮座する山や森。神社の森。三諸(みもろ)。神名備・神南備・甘南備。祝詞、神賀詞「大三輪の―」。神奈備山とは、神の鎮座する山の意。
※2−1:磐座(いわくら)とは、(イハは堅固の意)[1].神の鎮座する所。岩座。
[2].山中の大岩や崖。
※3:饒速日命(にぎはやひのみこと)は、記紀神話で、天孫降臨に先立ち天より降り、長髄彦(ながすねひこ)の妹三炊屋姫(みかしきやひめ)を妃としたが、神武天皇東征の時、長髄彦を誅して天皇に帰順したと言う。物部氏の始祖と伝える。
※4:長髄彦(ながすねびこ)は、神話上の人物。神武天皇東征の時、大和国生駒郡鳥見(とみ、今の富雄)地方に割拠した土豪。孔舎衛坂(くさかえのさか)で天皇に抵抗、饒速日命(にぎはやひのみこと)に討たれた。
※5:禁野(きんや)とは、天皇の猟場と定め、私人の狩猟を許さなかった所。標野(しめの)。大和国宇陀野や河内国交野など。
※6:私部(きさいちべ、きさいべ)とは、(「后部(きさきちべ)」の音便か)后妃の為に置いた部。敏達天皇の時、后妃個人個人の為の名代(なしろ)の部の代りに后妃全員の為に置いたと言う。「私」の字を当てたのは中国の古典に后妃の為の官を「私官」と記したことに拠るか。
※6−1:部民(べのたみ/べみん/ぶみん)とは、大化改新前代に於ける私有民の総称。朝廷全体に隷属するものを品部(しなべ)、天皇が皇族の為に設定したものを子代(こしろ)・名代(なしろ)、諸豪族に隷属するものを部曲・民部(かきべ)と言う。大化改新で全て廃止される事に成ったが、品部の一部は律令制官庁に配属されて残り、部曲は律令貴族の給与の一部である封戸(ふこ)に変質した。
※7:道教(どうきょう、Taoism)は、中国漢民族の伝統宗教。黄帝・老子を教祖と仰ぐ。古来のアニミズムや巫術(=シャーマニズム)や老荘道家の流れを汲み、これに陰陽五行説や神仙思想などを加味して、不老長生の術を求め、符呪・祈祷などを行う。後漢末の五斗米道(天師道)に始まり、北魏の寇謙之(こうけんし)に依って改革され、仏教の教理を取り入れて次第に成長。唐代には宮廷の特別の保護を受けて全盛。金代には王重陽が全真教を始めて旧教を改革、旧来の道教は正一教として江南で行われた。民間宗教として現在迄広く行われる。
※7−1:陰陽五行説(いんようごぎょうせつ、combination of Yin and Yang principles and Chinese
5 fundamental elements)とは、古代中国に起源を持つ哲理。一切の万物は陰・陽二気に依って生じ、「木・火・土・金・水」の五行中、木・火は陽に、金・水は陰に属し、土はその中間に在るとし、これらの消長に因って天地の変異、災祥、人事の吉凶を説明する。
※8:節句(せっく、seasonal festival)とは、節日、即ち人日(1月7日)・上巳(3月3日)・端午(5月5日)・七夕(7月7日)・重陽(9月9日)などの季節の式日。
※8−1:五節句(ごせっく)とは、毎年5度の節句。正月7日(人日)・3月3日(上巳)・5月5日(端午)・7月7日(七夕)・9月9日(重陽)の総称。
※9:秋空(あきぞら)は、秋の爽やかに澄み切った空。季語は秋。
※10:大伴家持(おおとものやかもち)は、奈良時代の歌人(717?〜785)。三十六歌仙の一。旅人の子。越中守を初め、中央・地方諸官を歴任、783年(延暦2)中納言。万葉集中歌数最も多く、その編纂者の一人に擬せられ、繊細で感傷的な歌風は万葉後期を代表。
※10−1:山上憶良(やまのうえのおくら)は、万葉歌人(660 〜733)。山上臣。702年(大宝2)遣唐録事として入唐、707年(慶雲4)頃帰国。従五位下・伯耆守・東宮侍講、後に筑前守。豊かな学識を有し、「思子等歌」「貧窮問答歌」など現実的な人生社会を詠じた切実・真率な作が多い。「類聚歌林」を編む。
※11:反歌(はんか)とは、長歌の後に詠み添える短歌、希に旋頭歌(せどうか)。長歌の意を反復・補足し、又は要約するもので、1首ないし数首から成る。
※12:安の河/安の川(やすのかわ)とは、天上に在るという川。天の安の河。又、天の河・天の川。万葉集18「―中に隔てて向かひ立ち」。
※13:袖振る(そでふる)とは、[1].別れを惜しみ、或いは愛情を示して袖を振る。万葉集1「あかねさす紫野行き標野(しめの)行き野守は見ずや君が―」。
[2].袖を振って舞う。今鏡「舞姫十人、綾綺殿にて―けしき」。
※14:生の緒/息の緒(いきのお)とは、(息の長く続くことを緒にたとえた語)
[1].命。たまのお(玉の緒・魂の緒)。(「―に」の形で「命に懸けて」の意に用いる)万葉集18「―になげかす子ら」。
[2].息。三十二番職人歌合「―の苦しき時は鉦鼓こそ南無阿弥陀仏の声たすけなれ」。
※15:在原業平(ありわらのなりひら)は、平安初期の歌人(825〜880)。六歌仙・三十六歌仙の一。阿保親王の第5子。世に在五中将・在中将と言う。「伊勢物語」の主人公と混同され、伝説化して、容姿端麗、放縦不羈、情熱的な和歌の名手、色好みの典型的美男とされ、能楽や歌舞伎・浄瑠璃の題材にも成った。家集「業平集」。
※15−1:惟喬親王(これたかしんのう)は、文徳天皇の第1皇子(844〜897)。母は紀名虎の女静子。大宰帥、常陸・上野太守。第4皇子惟仁親王(後の清和天皇)の外戚藤原良房の力が強く、皇位継承は成らなかった。剃髪して小野の里(山城国愛宕郡)に隠棲し、小野宮と言う。木地師の間の伝承ではその祖とされる。
※15−2:紀有常(きのありつね)は、平安前期の歌人(815〜877)。歌は「古今和歌集」「新古今和歌集」に在る。在原業平の妻の父として、歌舞伎など惟喬親王失脚の物語に登場。<出典:「学研新世紀ビジュアル百科辞典」>
※16:清少納言(せいしょうなごん)は、(「清」は本姓清原の略。「少納言」は宮中での呼称)平安中期の女房。元輔の女。中古三十六歌仙の一。生没年未詳(966頃〜1017以降)。本名未詳。981年頃に橘則光と結婚、翌年則長を生むが離別。993年に一条天皇の皇后定子に仕えて寵遇を受けた。1000年定子没後の消息は不明だが、藤原棟世と再婚して上東門院に仕えた小馬命婦(こまのみょうぶ)を生んだらしい。和漢の学に通じた才女で、紫式部と並び称せられ「枕草子」の作者。家集「清少納言集」。<出典:一部「日本史人物辞典」(山川出版社)より>
※16−1:「をかし」/「おかし」とは、物事を観照し評価する気持で、「あはれ」が感傷性を含むのに対して、より知性的・客観的に賞美する感情。特に平安時代の「枕草子」などに代表され。←→「あはれ」(もののあはれ)。
[1].心惹かれる気がする。好ましい感じである。宇津保物語俊蔭「ほのかにいふ声、―しう聞ゆ。いとど思ひまさりて」。源氏物語紅葉賀「おぼえず、―しき世を見るかな」。
[2].面白い。興味が有る。源氏物語絵合「心々に争ふ口つきどもを―しと聞し召して」。
[3].趣が有る。風情が有る。風流だ。源氏物語薄雲「いと木繁き中より篝火どもの影の遣水の蛍に見えまがふも―し」。
[4].可愛らしく愛すべきである。美しくて魅力が有る。宇津保物語国譲上「腹ばひなどして、人見てはただ笑ひに笑ひて、白く―しければ」。源氏物語胡蝶「起きあがり給ひてはぢらひ給へり。顔の色あひ、いと―し」。
[5].優れている。見事だ。落窪物語1「箏の琴をよに―しく弾き給ひければ」。
<出典:一部「学研新世紀ビジュアル百科辞典」より>
(以上、出典は主に広辞苑です)
【参考文献】
△1:『日本書紀(一)』(坂本太郎・家永三郎・井上光貞・大野晋校注、岩波文庫)。
△2:『大阪府の歴史』(藤本篤著、山川出版社)。
△3:『交野ヶ原と七夕伝説』(天の川七夕星まつりの会編・発行)。
△4:『道教の神々』(窪徳忠著、講談社学術文庫)。
△5:『歴史読本臨時増刊 古代天皇家と宗教の謎(特別企画 日本道教遺跡探訪事典)』(新人物往来社編・発行)。
△6:『万葉集(上・下)』(佐佐木信綱編、岩波文庫)。
△7:『現代こよみ[読み解き]事典』(岡田芳朗・阿久根末忠編著、柏書房)。
△8:『伊勢物語』(大津有一校注、岩波文庫)。
△9:『古今和歌集』(佐伯梅友校注、岩波文庫)。
△10:『枕草子』(池田亀鑑校訂、岩波文庫)。
●関連リンク
@参照ページ(Reference-Page):大阪府交野市や高槻市摂津峡の地図▼
地図−日本・枚方、交野市周辺(Map of Hirakata, Katano etc, Osaka -Japan-)
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資料−天文用語集(Glossary of Astronomy)
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資料−聖徳太子の事績(Achievement of Prince Shotoku)
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資料−「太陽・月と暦」早解り(Quick guide to 'Sun, Moon, and CALENDAR')
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資料−小倉百人一首(The Ogura Anthology of 100 Poems by 100 Poets)
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