浅草、もう一つの風景
[浅草見て歩る記・その2]
(Another scene of Asakusa, Tokyo)

-- 2004.10.25 エルニーニョ深沢(ElNino Fukazawa)
2014.06.03 改訂

 ■はじめに - 浅草を別の角度から眺める

 前回の[浅草見て歩る記・その1]の
  ぶらり浅草(Drift in and trip out Asakusa, Tokyo)

に於いて、浅草の仲見世通りを中心に昼間の浅草の風景をご紹介しましたが、今回は夜の風景や周辺の風物をご紹介します。しかし、飽く迄も私独自の視点から、という姿勢は変わりません。「独自の視点」とは「自然体に、自分の目線の高さと立脚点を見失わない」ということです。
写真N0:夜の雷門。 それでは”ぶらぶら”と夜の浅草見物から始めましょう。昼間見慣れて居る所でも夜の風景は大変違って見えるものです。しかし、夜でも浅草見物はやはり右の写真の雷門(正式名:風雷神門)(浅草1丁目)からです。雷門は浅草寺(せんそうじ)の総門金龍山は浅草寺の山号です。ご覧の様に門の右側の風神像、左側の雷神像が睨みを利かして居ます。
 03年12月8日の19時過ぎなのに門の向こう側の仲見世の灯火は明るく観光客が大勢居ます。門前には早朝から観光客が訪れ、夜迄絶えません。「雷門」と書いた大きな赤い提灯は待ち合わせの絶好の目印です。

 → 地図を見る方はココをクリック(Open the map)!
    {この部分に在った雷門再建秘話は05年11月21日に「ぶらり浅草」に移しました。} 

 ■夜の浅草

 前回の「ぶらり浅草」では直ぐに雷門を潜(くぐ)りましたが、今夜は直ぐには潜りませんよ。旅の夜ですからね、先ずは一杯引っ掛けてから。
 今夜は神谷バーに行きます。ここは浅草1丁目1番地に在ります、正に”浅草の主”ですな。神谷バーは明治・大正の「ワイン王」と言われ、あの牛久シャトー(※1)を建てた神谷伝兵衛(※1-1)が明治13(1880)年に「我が国初の洋酒バー」として創業した店で、当時の文学にも登場する浅草の名店の一つです。ここは特に電気ブラン(※1-2)が有名で、例えば太宰治(※2)の『人間失格』には「酔ひの早く発するのは、電気ブランの右に出るものはない」と出て来ます(△1のp37)し、川端康成は辛辣に浅草には一流のものが何一つない。...<中略>...一串一銭か二銭のおでんや、「焼鳥」、それから、支那そば、肉うどん、牛めし、すいとん──得体の知れないものと電気ブランが浅草である。この大衆の食卓の屋台店に、うまい天ぷらを捜したりするのは、浅草の異端者であろう。」と言い切って居ます(△2のp156)。

 以下の2枚04年4月18日(日)に撮影 -確か日曜日に撮影した- しましたが、04年4月18~19日撮影一部の原画が壊れて仕舞い、下の2枚の原画は今は在りません。このページに貼り付けてある写真だけが、こうして見れます。{この段は04年12月18日と05年2月25日に追加}
 左下が神谷バーです。右下は店内の様子で、古い”洋食屋”の様に先に「食券」を買うシステムです。前に座って居るのは横浜野毛に出没する”一発屋”の御仁で、こちらは”G主”です。勿論我々は電気ブランを飲みました。通常の電気ブランはアルコール度数30度で、電気ブラン・オールドと言うのが往年のそれ(45度)に近い40度です。電気ブランを片手に川端康成が言う如く”二流のアテ”で引っ掛けました。しかし電気ブランが広辞苑に載って居るとは知りませんでしたね。電気ブランの概略は【脚注】※1-2の通りですが、焼酎のアルコールを使いカラメルでブランデーの様な琥珀色にした”洋酒”は、飲めば電気の様にピリッと来て文明開化を味わうことが出来たのでした。
写真N1:神谷バー。写真N1-2:神谷バーの店内。
 フーム、文明開化の味がしましたね。明治のモダンは今ではレトロ(※1-3)に変わりました。電気ブランは明治の頃は”怪しくモダン”な味がしたのです。この”知る人ぞのみが知る”味の人気は衰えること無く続き、こうして愛好者が集まって来るのです。エルニーニョのお薦めは電気ブランのオン・ザ・ロックです、ロックにすると甘味が醸し出され円やかな味に成ります。持ち帰り用にボトル販売もして居ますので、お土産にどうぞ。

 さて、一杯引っ掛けた後で雷門を潜り浅草寺の境内に入ってみましょう。仲見世通りは相変わらずごった返して居ます。以下の3枚の写真は03年12月8日に撮影したものです。
写真N2:夜の浅草神社。
 右は浅草寺本堂の北東隣に在る浅草神社(浅草2丁目)の夜景です(←大分明るく調整して在ります)。祭神は観音像を授かった主従3柱(=土師中知、檜前浜成・武成)です。由緒の詳細については[浅草見て歩る記・その1]に記して在りますので参照して下さい。
 夜に成るとここには訪れる人は殆ど居ません。権現造りの社殿は慶安2(1649)年に3代将軍・家光の寄進以後、震災や空襲を潜り抜けた国の重文で鴨居には狩野重信の鳳凰図が在ります。
 


写真N3:夜の浅草寺本堂と五重塔。

 逆に夜でも訪れる人が絶えないのが浅草寺本堂と五重塔(左の写真)です。夜に成るとご覧の様にライトアップされ、修学旅行の中学・高校生や一般の観光客で混雑して居ます。
 浅草の何が人々の心をこれだけ惹き付けるのでしょうか?!

 こうして再び雷門に戻って来ました。雷門前の浅草通りから駒形橋に通じる道路(雷門1、2丁目)は12月に成るとクリスマスに合わせてライトアップされます(下の写真)。道路中央の電飾は先程見た浅草寺の五重塔を模して居るのが判ります。
写真N4:ライトアップされた雷門前の道路。

 これで浅草寺界隈は昼も夜も満喫しました。又、日を改めて次は周辺を散策してみましょう。

 ■周辺の風景その1 - 鷲神社の「酉の市」と樋口一葉

 この章の写真は03年12月8日に撮影しました。浅草寺西の国際通りを北へ行くと、右下の写真の鷲神社(おおとりじんじゃ)(台東区千束3丁目)が在ります。鷲(わし)と書いて「おおとり」と読み、祭神は天日鷲命(※3)と日本武尊で、現在は浅草七福神の寿老人です。天日鷲命と言うと出雲神話に出て来る神です。土師氏も出雲族で隅田川流域から荒川と利根川に挟まれた北関東の両毛地方には出雲族の足跡が色濃く残って居ます。尚、鷲神社は大阪堺市の大鳥神社を総本社とする神社です。
 因みに、ここは吉原(=嘗ての新吉原(※4) -即ち遊郭地帯- です。明暦3(1657)年明暦の大火 -俗に振袖火事と言う- で日本橋葺屋町(=元吉原)から新吉原に移って来たのです。今はソープランド地帯が近くに存在します。実は吉原と浅草は近く浅草寺から北へ1km位行けば吉原です(→吉原の地図)。
写真W1:吉原の鷲神社の鳥居前。
 鳥居前の門の入口に浅草酉乃市御本社 鷲神社」と書かれて居る様に吉原は浅草圏内なのです。でも、ここは吉原ですゾ!。
 この社の「酉の市」(※5)は「新酉」と呼ばれて有名で、社伝に拠ると日本武尊が東征の帰りにこの社の松に熊手を掛けて戦勝を祝したその日が11月の初酉の日であったそうです。
 「酉の市」は関西の十日戎と同じく開運・商売繁盛の祭として、江戸末期から関東の庶民の間で人気が高まり、稲穂付き熊手お多福面が参道や境内で売られます。

 しかし幕末に刊行された随筆『守貞漫稿』(※6)に拠ると、「けだし熊手を買ふ者は、遊女屋、料理屋、船宿、芝居にかかはる業体の者のみこれを買ふ。一年中天井に架して、その大なるを好しとす。正業の家にこれを置くことを稀とす。」と在り(△3のp283)、幕末には熊手は一般(=堅気の家)には浸透して無い」と書かれて居ます。鷲神社は吉原の一角に在るので「遊女屋」、即ち花魁・置屋などが集まり華やかな場所柄なので熊手を買う事が流行り、吉原の鷲神社の「酉の市」から急速に関東一帯に広まったのではないかと私は考えます。ここが新酉と呼ばれる様に成ったのもその頃と思われます。そして明治中期には「酉の市」が一般に浸透したのです(→又後で触れます)。

 この神社の「酉の市」の賑わい振りは樋口一葉(本名:奈津)(※7)の小説『たけくらべ』に描かれて居ることで良く知られて居ます。境内には

写真W3:樋口一葉文学碑。 此年三の酉まで有りて中一日はつぶれしかど前後の上天気に大鳥神社の賑ひすさまじく、此処をかこつけに検査場の門より乱れ入る若人達の勢ひとては、天柱くだけ地維かくるかと思はるる笑ひ声のどよめき、中之町の通りは俄かに方角の替りしやうに思はれて、角町京町処々のはね橋より、さっさ押せ押せと猪牙がかった言葉に人波を分くる群もあり、河岸の小店の百囀(ももさへ)づりより、優にうづ高き大籬(おおまがき)の楼上まで、絃歌の声のさまざまに沸き来るやうな面白さは大方の人おもひ出でて忘れぬ物に思すも有るべし。
写真W4:正岡子規の句碑。
という『たけくらべ』の一節(△4のp91~92)と木村荘八(※8)の画を付した「樋口一葉文学碑」(左の写真)が在ります。因みに「大鳥神社」とは、この吉原の鷲神社のことです。



 又、境内には

  雜鬧や 熊手押しあふ 酉の市    子規

という句を刻んだ「正岡子規の句碑」(右の写真)などが在ります(雜鬧は雑踏のことです)。正岡子規については「漱石の猫、即ち”吾輩”を追って」を参照して下さい。{このリンクは09年2月10日に追加}

 先程の一葉の『たけくらべ』の文章の中で「此年三の酉まで有りて」と在り、「三の酉」迄有る年は火災が多いという迷信が在った様です(※5、△3のp284、△3-1のp276)。そして「大鳥神社の賑ひすさまじく」と在る様に、明治中期(=一葉が書いた頃)には「酉の市」がすっかり定着して居るのです。『たけくらべ』が書かれたのは明治28(1895)年1月~明治29年1月です(△4の108)。
 私は子供時代に貸本屋(※9、※9-1)で『たけくらべ』を借りて読んだ覚えが有ります。

 [ちょっと一言]方向指示(次) 私が小学校の頃は近所に貸本屋が在りました。この家の主人はサラリーマンで貸本屋はサイドベジネスです。この家の兄弟の一番年下の子は私の遊び仲間で、時々留守番を兼ねて貸本屋を遣って居ました。私はここで上の『たけくらべ』や『坊つちやん』や「日吉丸の物語」や漫画『のらくろ』などを借りて読みました、我が家は全然本が無かったですから。内の町内に2、3軒は貸本屋が在りましたが1960年頃に貸本屋は消えましたね。

 その内容はすっかり忘れました。今この文章を書く為に『たけくらべ』を斜め読みに読み返し子供時代に印象深かった箇所を思い出しました。次の部分です(△4のp67~68)。

 信如いかにしたるか平常の沈着に似ず、池のほとりの松が根につまづきて赤土道に手をつきたれば、羽織の袂も泥に成りて見にくかりしを、居あはせたる美登利みかねて我が紅の絹はんけちを取出し、これにてお拭きなされと介抱をなしけるに、友達の中なる嫉妬(やきもち)を見つけて、藤本は坊主のくせに女と話をして、嬉しさうに礼を言つたは可笑しいでは無いか、大方美登利さんは藤本の女房(かみさん)になるのであらう、...

 美登利が主人公です。全体的にモノクロ的な文章の中で「紅の絹はんけち」だけがカラーでした。恋に目覚めた乙女心が言い表されて居ます。そしてもう一箇所

 美登利は障子の中ながら硝子ごしに遠く眺めて、あれ誰れか鼻緒(※10)を切った人がある、母さん切れを遣つても宜(よ)う御座んすかと尋ねて、針箱の引出しから友仙ちりめんの切れ端をつかみ出し、...<中略>...それと見るより美登利の顔は赤う成りて、何のやうの大事にでも逢ひしやうに、胸の動悸の早くうつを、人の見るかと背後(うしろ)の見られて、...<中略>...此処に裂(き)れが御座んす、此裂(これ)でおすげなされと呼かくる事もせず、...

という場面です(△4のp87~89)。「それと見るより」とは信如で、彼女は鼻緒の切れを持って出ますが顔は赤く心臓は早く打ち到頭鼻緒の事は言い出せずに終わり、信如は通り掛かった長吉の下駄を履いて帰るのです(△4のp91)。この場面も思い出しました。しかし今の若い人に下駄の鼻緒が解るでしょうか?、昔の古い物がどんどん忘れ去られて居ます。

写真W2:吉原の鷲神社の社殿。 左の写真が鷲神社の社殿です。ご覧の様に周りをビルに囲まれた小さな社ですが、この社の賑わいは、ここが嘗ての吉原(現・台東区千束3、4丁目)の入口という立地に依る所が大で、事実直ぐ傍には吉原神社吉原弁財天が在ります。
 その為に花魁(おいらん)や太夫や芸者衆が大勢繰り出して華やいだ雰囲気を醸し出し、の「自然の摂理」に則り女が集まれば男も集まるという公式が成り立ち、忽ち「本酉」として有名な足立区花畑7の大鷲神社(おおとりじんじゃ)を凌ぐ様に成りました。

写真W5:「一葉桜まつり」の提灯。 4月に成ると右の写真の様に「一葉桜まつり」の提灯が浅草寺北の浅草4丁目や千束辺りの通りに飾られます(左上の提灯に「樋口一葉」と書かれと居ます)。一葉の命日の11月23日頃には昭和36(1961)年に開設された台東区立「一葉記念館」(台東区竜泉3丁目)で「一葉祭」が開催されます。近くには「樋口一葉旧居跡碑」(台東区竜泉3丁目15番、旧・下谷竜泉寺町)が在り、ここに一葉は明治26(1893)年7月~翌年4月迄10ヶ月間住み(←彼女はここで駄菓子屋を遣った、△4の113)、『たけくらべ』『にごりえ』の舞台としました。「酉の市」が終わると関東は本格的な冬を迎えます。
 

 一葉が住んで居た界隈吉原の大門(おおもん)(※4-1) -遊郭の入口の門- からも近く、又鳶人足や車屋(=人力車引き)も住んで居て、一葉が生きた明治時代は嘸(さぞ)面白かったでしょうな。尤もそう考えるのは男の発想で、女性は遊郭の”女の悲哀”を感じて生きたのかも知れません。
 左が嘗ての大門跡です(この写真は04年4月19日に撮影)。左の写真の道路標識に
 「吉原大門
 Yoshiwaraomon」

と書かれて居ます(右が拡大写真)、ちゃんと「おおもん」に成って居ますね。
 この横断歩道を渡り「武蔵」と書かれたビルの前の道を左に行くと遊郭が、おっと今はソープランド街が現れます。吉原遊郭跡に入りたい人は▼下のページ▼に入って下さい。
  吉原慕情-宴の後で(Longing for Yoshiwara, after the banquet, Tokyo)
    {吉原へのリンクは09年10月7日に追加}

 一葉の『にごりえ』には

 お力(りき)といふは此家の一枚看板、年は随一若けれども客を呼ぶに妙ありて、さのみは愛想の嬉しがらせを言ふやうにもなく我まゝ至極の身の振舞、少し容貌(きりょう)の自慢かと思へば小面(こづら)が憎くいと蔭口いふ朋輩もありけれど、交際(つきあつ)ては存の外やさしい処があつて女ながらも離れともない心持がする、あゝ心とて仕方のないもの面(おも)ざしが何処となく冴へて見へるは彼(あ)の子の本性(ほんしょう)が現はれるのであらう、誰しも新開へ這入るほどの者で菊の井のお力(りき)を知らぬはあるまじ、菊の井のお力か、お力の菊の井か、さても近来まれの拾ひもの、あの娘(こ)のお蔭で新開の光りが添はつた、抱え主は神棚へさゝげて置いても宜(い)いとて軒並びの羨やみ種になりぬ。

と書かれて居ます(△4のp9)。お力(りき)は『にごりえ』の主人公で、発表は明治28(1895)年9月です。「にごりえ」とは「濁り江」(※7-1)のことだと思いますが、遊郭地帯を水の濁った入り江に見立てて描いて居るのです。彼女はこの地域を「新開」と呼んで居ますが(『たけくらべ』でも同様)、新しく開けた色街の意味で今の「新開地」や「新地」と同じです。
 明治中期に花を咲かせた一葉ですが肺結核の為に24歳で生涯を閉じました。尚、5千円札に面影を留めて居ます。

  ■■「一葉泉」という銭湯を見付けた

 私は02~07年は随分と浅草や吉原界隈を経巡りましたが、07年1月19日(金)の午後3時半頃に浅草~三ノ輪の方を散歩中に偶然「一葉泉」(台東区竜泉3丁目17番)という銭湯を見付けて仕舞いましたので、この章をここに追加します。一葉泉が在る所は樋口一葉の旧居跡の直ぐ近くです。
 私が最初に見付けたのが左下、中央下の煙突です。和風の風呂屋の建物の奥から「一葉泉」の煙突が突き出して居ます。銭湯の煙突は好いですねえ、何とも言えない”味” -下町の風情- が有ります。銭湯「一葉泉」は今はコインランドリーを併営して居て表通りに看板が出て居ます(右下の写真)。「お湯の出る大型洗濯機」「ソフトに仕上げる大型洗濯機」と在り、そして住所表示も在ります。


 この日は予定が立て込んで居て残念乍ら風呂に入ってる暇は有りませんでした。それで銭湯の脇に廻ったら自転車置き場に「陸中海岸」の絵が在りました(左の写真、絵に左に「陸中海岸」と在る)。この絵は明らかに銭湯の中 -銭湯の中には絵師が描いた絵が在るのです- の絵と同じ絵師に依るものです。陸中海岸は三陸海岸とも言います。何故ここに陸中海岸か?、多分一葉泉の経営者の故郷か、それとも絵師の故郷かでしょう。
 昭和30年代に建てられた和風建築の中は大分改装され今はサウナも在ります。

 陸中海岸(或いは三陸海岸)と言ったら岩手県東部の典型的リアス式海岸の陸中海岸国立公園が在る所です。又しばしば地震が起こりリアス式海岸の為に津波被害に遭って居ます。例えば明治三陸沖地震(1896年)や昭和三陸沖地震(1933年)、そしてチリ地震(1960年)の津波被害 -地球の反対側の地震による”とんだ迸(とばっち)り”- です。
    {この章の「ここ迄の段」は07年3月7日に追加}

 三陸海岸の地震や津波の話をしていたら、本当に2011年3月11日(俗に3.11)に東北地方太平洋沖地震(東日本大震災)が起きて仕舞いましたが、私にはこういう事が良く在るのです。東北地方や三陸海岸は津波被害、福島県は原発事故で、今日本はパニック状態です。3.11の2日後に横浜からのレポートが在りますので▼下▼を是非お読み下さい。
  エルニーニョの打っ棄り的相撲論議(ElNino's throw away Sumo discussion)
    {この段は2011年3月21日に急遽追加しました。}

 ■周辺の風景その2 - 隅田川と川向こうの墨田区

 今迄見て来た所は浅草のトワイライト&レトロ(乃至はプレ・モダン)な風景です。隅田川に架かる橋をキーワードに見て行きます(→浅草の地図)。

    ◆吾妻橋 - ポスト・モダンのウンコビル

 これから浅草近隣のポスト・モダン(※11、△5のp8~32)をちらっとご紹介しましょう。この節の写真は05年4月8日に撮影しました。
写真S1:吾妻橋交差点とアサヒビール・ビル(通称ウンコビル)。 左が吾妻橋交差点の風景です。写真の手前を左右に走る道が江戸通りで、それと交差して奥に赤い欄干を見せるのが吾妻橋です。この江戸通りにも雷門前の浅草通りにも、嘗てはは都電(=チンチン電車)が走って居ました。
 左手の神社風の緑色の屋根の建物は交番です。神社風の屋根をした交番は関西にも在りましたね。
 吾妻橋のこちら側が台東区浅草、向こう側が墨田区です。橋の向こう側にウンコ型オブジェが乗っかって居るビルが浅草新名所のアサヒビール・ビル(墨田区吾妻橋1、通称:ウンコビル)です。この「遊び」の精神こそポスト・モダンの真髄、中々好いセンスですなあ、これは脱糞。あっ、これは否々、脱帽でした!!
 レトロなこちら側の台東区に対し、向こう側の墨田区は斬新さと奇抜さで挑んで居ます。その両区の間を土建・金権・利権の象徴である高速道路(首都高速6号)が走って居て、高速道路は今ウンコの下で構造改革の俎上に乗せられて居ます

    ◆隅田公園 - 両岸の桜と『花』の歌詞の碑

 下の2枚の写真は05年4月8日に撮影しました。左下の写真が違う角度から撮った吾妻橋で今度は隅田公園(台東区花川戸1丁目)から、即ち隅田川(※12)の右岸(=台東区)から南(=下流)に向かって撮ったものです。写真右端に水上バス発着所が見えていて、その右側に先程の神谷バーが在るのです。
 右下の写真は桜橋(=吾妻橋の2つ北の橋)から隅田川を下流に向かって撮ったもので写真左側が墨田区です。ウンコビルも正面に写って居ます。桜橋から見た満開の桜は美しい!!、写真には写って居ませんが桜はこちら側(=台東区側)にも同様に咲いて居ます。

                         墨田区の桜   (→台東区)
                                  ウンコビル
                                    ↓
写真S3:隅田川左岸の桜並木。               台東区の
             水上バス発着所
                 ↓
写真S2:隅田公園から見た吾妻橋。
 現在、隅田川両岸は隅田公園 -台東区側は花川戸1~2丁目、浅草7丁目、対岸の墨田区側は向島1~2丁目- に成って居て、公園には台東区側に約700本、墨田区側に約400本のの木が植林され、ご覧の様に春は花見客で賑わいます。隅田川は能の謡曲・浄瑠璃・長唄・常磐津などに登場します(※12-1)。

 隅田川は坂東の昔から桜の名所で、正に『花』武島羽衣作詞(※13)、滝廉太郎作曲)の一節「春のうららの隅田川...」の歌詞そのものです。

 その『花』の歌詞の碑、及び武島羽衣の説明板が在ります(この写真は05年8月15日撮影です)。左が碑全体、右が歌詞の冒頭部分の拡大で、「春のうららのすみた河 上り下りのふな人が かいのしづくも花とちる...」と書いて在ります。
 尚、武島羽衣は『美しき天然』(又は『天然の美』)の作詞でも知られて居ますが、この歌は不思議な運命を背負って居ます。それについては
  不思議な運命を背負った「美しき天然」('Beautiful Nature' shoulders mysterious fate)

をお読み下さい。{このリンクは07年3月7日に追加}
    {この章は05年11月21日に追加しました。}

 ■白鬚橋と迷宮「玉の井」遊郭跡 - 永井荷風の『濹東綺譚』

 ところで、右上の写真の桜並木の左奥には東武鉄道の東向島駅 -旧:玉ノ井駅(※14)- が在り、その辺りは嘗て関東大震災直後に出現し東京大空襲で消えた「玉の井」遊郭(※14、墨田区東向島4、5丁目)が在った所で、永井荷風(※14-1)の『濹東綺譚』の舞台に成った所です。「濹東」(※14-2)とは「隅田川中流の東側」の事ですが、荷風は「墨水をわたって東に遊ぶ事」(墨水とは隅田川です)と作中で説明して居ます(△6のp63)。
 先ず『濹東綺譚』が書かれたのは解説に在る様に「昭和11(1936)年9月21日~同年10月25日」です(△6のp173)。昭和11年と言えば「二・二六事件」が有った年で、つまり『濹東綺譚』は「二・二六事件」の約半年後に書き始められた訳で、こういう時に娼婦と”しけこむ”(※14-3)とは世の中の動きに逆らって居ますな~。しばし「玉の井」にタイムスリップして見ましょう。 因みに私が持っている岩波文庫本には木村荘八画伯の挿絵が何とも言えぬ人情の温もりを伝えています。

    ◆白鬚神社と白鬚橋

 『濹東綺譚』には

 わたくしの忍んで通う溝際(どぶぎわ)の家が寺島町七丁目六十何番地にあることはすでに識(しる)した。

と在り(△6のp65、47)、寺島町については

 むかし白髯さまのあたりが寺島村だという話をきくと、...

と在ります(△6のp29)。


 「白髯さま」とは白鬚神社(祭神:猿田彦、墨田区東向島3)(※15)(←髯・鬚・髭の字に注意!)のことで直ぐ近くには白鬚橋が架かって居ます(右の写真は05年4月8日に撮影)。
 白鬚神社の本社(祭神:猿田彦) -元々は比良山を祀って居たとも言われ比良明神とも言われます- は滋賀県高島町に在り、一の鳥居が沖島を背景に琵琶湖の中に浮かぶ幻想的な神社です。墨田区の白鬚神社は951年に本社から勧請したと伝えます。因みに、白鬚神社は新羅系の神社とも言われて居ます(△3のp451)。
 実は私は1995年の阪神淡路大震災(兵庫県南部地震)の罹災者で95年4月頃~96年3月迄の間、滋賀県蒲生郡安土町に住んでいたので白鬚神社の本社はその時に3回位行って居るのです。{この段は2014年6月3日に追加}

    ◆迷宮「玉の井」

 昭和5年頃の様子を『濹東綺譚』は

 しかるに昭和五年の春都市復興祭の執行せられたころ、吾妻橋から寺島町に至る一直線の道路が開かれ、市内電車は秋葉神社まで、市営バスの往復はさらに延長して寺島町七丁目のはずれに車庫を設けるようになった。それと共に東武鉄道会社が盛り場の西南に玉の井駅を設け、夜も十二時まで雷門から六銭で人を載せて来るに及び、町の形勢は裏と表と、全く一変するようになった。今まで一番わかりにくかった路地が、一番入りやすくなった代わり、以前目貫きといわれたところが、今では端(はず)れになったのであるがそれでも銀行、郵便局、湯屋、寄席、活動写真館、玉の井稲荷のごときは、いずれも以前のまま大正道路に残っていて、俚俗広小路、または改正道路と呼ばれる新しい道には、円タクの輻輳(ふくそう)と、夜店のにぎわいとを見るばかりで、巡査の派出所も共同便所もない。このような辺鄙な新開町(まち)にあってすら、時勢に伴う盛衰の変は免れないのであった。いわんや人の一生においてをや。

と書き(△6のp66~69)、更に「玉の井」の盛り場の様子を

 わたくしは脚下の暗くなるまで石の上に腰をかけていたが、土手下の窓々にも灯がついて、むさくるしい二階の内(なか)がすっかり見おろされるようになったので、草の間に残った人の足跡をたどって土手を降りた。すると意外にも、そこはもう玉の井の盛り場を斜めに貫く繁華な横丁の半程(なかほど)で、ごたごた建て連なった商店の間に路地口には「ぬけられます」とか、「安全通路」とか、「京成バス近道」とか、あるいは「オトメ街」あるいは「賑本通(にぎわいほんどおり)」など書いた灯がついている。

と書いてます(△6のp31)。「オトメ街」など好いですな!!

 「玉の井」遊郭の歴史を別の文献(△7)に拠り見てみましょう。

    ++++ 迷宮「玉の井」遊郭の歴史 ++++
 「わたくし」馬鹿丁寧な第一人称の呼び方が特徴的な『濹東綺譚』ですが、玉の井は狭い通りが特徴で迷路・迷宮(=ラビリンス(labyrinth)) -荷風はフランス文学を遣った人なのでラビラント(labyrinthe)とフランス風に言ってます(△6のp144)- を成し「ぬけられない」通りが一杯在ったのです。
 何故そう成ったか?、初めにちょっと記しました1923(大正12)年の関東大震災に因り浅草のシンボルである凌雲閣(通称:十二階)が傾き(←後にダイナマイトで爆破)、その下の魔窟と呼ばれた私娼街は川向こうの亀戸天神の裏玉の井の2箇所に”震災引っ越し”したのです。最下層民は必死です、御上の区画整理など待っては居られません。玉の井に越して来た人々は銘々が狭い路地裏を確保し準備が整った所がら商売(=売春)を始めたので迷宮が形成されたのです。「大正13年6月の調査ですでに玉の井260軒、亀戸268軒」と在り、玉の井では小窓から娼妓の顔を見て交渉したそうです(△7のp74~75)。
 そして昭和に成り、昭和20(1945)年3月9日夜の東京大空襲(※16)で「玉の井」は全焼、487軒で1200人居た娼妓は焼け出され終戦(=敗戦)を迎えました。
 戦後は”カフェー式”に成りました(△7のp75)が嘗ての「玉の井」とか「寺島町」の地名は無くなり盛時の面影は在りません。玉の井の南側(=東武鉄道曳舟駅界隈)には「鳩の街」というカフェー街(=売春街)が戦後出来ました。東武鉄道の玉ノ井駅1924(大正13、関東大震災の翌年)年~1987(昭和62)年迄在り、その後は今の東向島駅に改称されました。
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 尚、ここで言う”カフェー式”とは表向きはカフェーを装いその実体は”売春”をさせる店の事です。日本では元々女給が接待して洋酒類を供する店を”カフェー”と伸ばして言ったのですが、それの発展形ですね。この辺の事を”もっと広く深く勉強したい方”は▼下▼をお読み下さい。
  国性爺珈琲盛衰記(Rise and fall of cafe and KOKUSENNYA)
    {このリンクは07年7月1日に追加しました。}

 さて、迷宮に嵌まり込まずにタイムスリップから無事に戻って来た様ですが、浅草の”妖気と澱み” -「玉の井」も元々は浅草の十二階下が発祥です- に触れた思いです。斯くして、このページは樋口一葉の吉原、永井荷風の「玉の井」と、期せずして「遊郭」の情緒にどっぷりと浸った様です。
    {この章は05年6月23日に追加しました。}

 ■言問橋と『伊勢物語』


写真S4:隅田公園の夜桜。 右が隅田公園夜桜です(05年4月8日に撮影)。{この写真05年6月23日に追加}
 この公園もプー太郎(=ホームレス)の侵食が随分進み新たな”澱み”に成りつつ在ります。大阪でもそうですが、今は不景気なので公園は次第に彼等のテント村に化して居ます。

 ところで言問橋(ことといばし)の名称は『伊勢物語』(※17)に由来するもので、旧「玉の井」近くには業平橋業平橋駅、そして業平町という地名など在原業平(※17-1)に因んだ地が点在します。平安時代の隅田川辺りの情景は『伊勢物語』第9段に描かれて居て、物語中でも1、2の美しく心打たれる名場面ですので、以下にそれを記して置きましょう(△8のp15)。

 なほ行き行きて、武蔵の国と下つ總の国との中に、いと大きなる河あり。それをすみだ河といふ。その河のほとりにむれゐて思ひやれば、限りなく遠くも来にけるかなとわびあへるに、渡守(わたしもり)、「はや舟に乗れ、日も暮れぬ」といふに、乗りて渡らむとするに、皆人ものわびしく、京に思ふ人なきにしもあらず。さる折しも、白き鳥の嘴と脚と赤き、鴫(しぎ)の大きさなる、水のうへに遊びつつ魚(いを)をくふ。京には見えぬ鳥なれば、皆人知らず。渡守に問ひければ、「これなむ都鳥」といふをききて、

  名にし負はば いざこととはむ 都鳥
        わが思ふ人は ありやなしやと


とよめりければ、舟こぞりて泣きにけり。


 この「名にし負はば」の歌は『古今集』巻9-411にも載っている有名な歌です(△9のp112)が、ここに歌われた「都鳥」とは、「白き鳥の嘴と脚と赤き、鴫(しぎ)の大きさなる、水のうへに遊びつつ魚(いを)をくふ。」という記述から渡り鳥のユリカモメ(百合鴎、※18)とされて居ます。現在のミヤコドリ(※18-1)は背中が黒く主に干潟で貝などを突いて食べます。そして隅田川に架かる言問橋の名はこの歌の「いざこととはむ」に由来し、地下鉄(今は東京メトロと言いますが)の「都営ゆりかもめ線」もこの歌の都鳥の別名・ユリカモメから採って居て、更にこの歌の縁でユリカモメは東京都の鳥に指定されて居ます。しかし「京には見えぬ鳥」とも記され、平安時代には京都には居なかったのでしょうか?、現在では鴨川に飛来しますが。
 東京の近在では江戸時代から「大川」(※12-2)と呼ばれた隅田川両岸の桜並木や水上バスを見ていたら、私も『伊勢物語』の舟人の様に大阪の桜之宮公園を想い出して仕舞いました。何故なら桜之宮公園を流れる淀川支流も大阪では同じく「大川」と呼ばれ水上バスが走って居るからです。そして04年4月2日にはユリカモメが桜満開の桜之宮公園に大挙して飛来した光景をカメラに収めて居ます、どうぞご覧下さい。

 ■結び - 浅草はモダンとレトロが交錯した町

 浅草はモダンとレトロが交錯した町です。「まち」という語には「町」と「街」が在りますが、浅草の様にそこに住んでいる人々の息衝き情緒が伝わって来る場合は「街」よりも「町」の方が相応しい様に思えます。線香の香り、大衆演芸、羽子板や独楽など、他の町では疾っくに廃れて仕舞った江戸や明治の情緒が、町に染み付いて残って居ます。と同時に活況を呈する仲見世や三社祭や町中を走る観光向け人力車や、神社の様な屋根をした交番に「旧き佳き物」を大切にする心が窺われます。
写真e:吉原弁財天に咲いていた菫の花。
 浅草は一葉荷風川端康成の他にも多くの人々の文章に書き留められて居ます。正に浅草は名所の数より”物書き”の数の方が多い、正に「あさくさ」は「どさくさ」(※19)の感が有ります。しかし玉石混淆ではあっても、こうして「或る地域が或る時代に輝いて居た姿」が後世に伝えられて行くことは、伝えられないよりも”増し”でしょう。
 右の写真は吉原弁財天にひっそりと咲いていた菫の花です(03年12月8日に撮影)。前に述べた様に浅草と吉原は近いのです。
 これで[浅草見て歩る記]シリーズは終了です。どうも有難う御座居ました!!

                m(_~_)m

 尚、[浅草見て歩る記]シリーズの他画面への切り換えは最下行のページ・セレクタで行って下さい。(Please switch the page by page selector of the last-line.)

φ-- おしまい --ψ

【脚注】
※1:牛久シャトー(うしく―)は、正式名はシャトーカミヤ神谷伝兵衛が婿養子の伝蔵をフランスのボルドー地方に派遣し3年間ワイン醸造を学ばせ、明治36(1903)年に茨城県牛久市に建設した葡萄園を併設したワイン醸造工場ルネサンス様式赤煉瓦造りの2階建て、地下1階。
※1-1:神谷伝兵衛(かみやでんべい)は、葡萄酒製造家(1856~1922)。三河国(現・愛知県幡豆郡一色町)の豪農に生まれたが生家は没落、17歳で横浜の醸造会社に勤め、明治13(1880)年に浅草に「我が国初の洋酒バー」(現在の神谷バー)を開店し、更に神谷酒造を創業し焼酎と調整葡萄酒である蜂印香竄葡萄酒(通称:蜂葡萄酒は有名)を売り出す。1903年に開設した牛久シャトー(茨城県牛久市、正式名:シャトーカミヤ)は有名。尚、香竄(こうざん)は父の号
※1-2:電気ブラン(でんき―)とは、ブランデー風の雑酒の商標名。明治20(1887)年頃東京浅草の酒店主、神谷伝兵衛が作り始め、同36(1903)年開業した神谷バーで販売し、大正中期に掛けて全盛。電気が未だ珍しかった当時の命名。
※1-3:レトロ(retro[仏])は、復古調懐古的。或る時代の様式を真似た様(さま)。又、それを好むこと。「―なインテリア」「―趣味」。

※2:太宰治(だざいおさむ)は、小説家(1909~1948)。本名、津島修治。青森県生れ。東京大学在学中に左翼運動に参加。屈折した罪悪意識を道化と笑いで包んだ秀作が多い。戦後は虚無的・頽廃的な社会感覚を作品化。麻薬中毒、4回の自殺未遂を経て、山崎富栄と玉川上水で入水心中した。作「晩年」「虚構の彷徨」「斜陽」「ヴィヨンの妻」「人間失格」など。<出典:一部「学研新世紀ビジュアル百科辞典」より>

※3:天日鷲命(あまのひわしのみこと)は、出雲の国譲り神話に登場する神で、『日本書紀』の一書では作木綿者(ゆうつくり)として居る。古代の木綿(ゆう)とは楮(こうぞ)のことで織物繊維の原料にされて居た。又、天照大神が天岩屋戸に隠れた時、穀木綿(ゆう)を植えて和幣(にきて)を作ったことから麻植神(おえのかみ)とも言う。阿波の忌部連、弓削連、多米連、天語連などの祖神

※4:吉原(よしわら)は、この場合、江戸の遊郭1617年(元和3)市内各地に散在していた遊女屋を日本橋葺屋町に集めたのに始まる。1657年明暦の大火に全焼し、千束日本堤下三谷(さんや)(現在の台東区千束)に移し、新吉原と称し北里/北州/北郭などとも呼ばれた。旧吉原を元吉原と呼び、新吉原をやがて吉原と呼んだ。江戸時代、公許の遊郭として庶民の生活と結び付いて、洒落本・人情本など江戸町人文芸発展の背景と成った。1956年に公布された売春防止法に依り遊郭は廃止。<出典:一部「学研新世紀ビジュアル百科辞典」より>
※4-1:大門(おおもん)とは、 [1].大きな門。だいもん。
 [2].邸宅・城郭などの第1の表門。正門。
 [3].遊郭の入口の門

※5:酉の市(とりのいち、rooster bazaar)は、11月の酉の日に関東の大鷲神社鷲神社大鳥神社(何れも読みは「おおとりじんじゃ」、関東には多い)で行われる祭。初酉の日を一の酉と言い、順次に二の酉・三の酉と呼ぶ。特に東京下谷(今の台東区千束)の鷲神社の祭は名高く、縁起物の熊手などを売る露店で浅草辺迄賑わう。三の酉迄有る年は火災が多いという俗信も有る。お酉様。酉のまち。季語は冬。

※6:守貞漫稿(もりさだまんこう)は、(正しくは「守貞謾稿」と書く)随筆。喜田川守貞著。30巻、後編4巻。1853年(嘉永6)頃一応完成、以後加筆。自ら見聞した風俗を整理分類し、図を加えて詳説。近世風俗研究に不可欠の書。明治末年「類聚近世風俗志」の書名で刊行。

※7:樋口一葉(ひぐちいちよう)は、小説家(1872~1896)。本名、奈津。東京生れ。和歌を中島歌子に学び、小説は半井桃水(なからいとうすい)に師事、後に「文学界」同人と親交。小説「たけくらべ」「にごりえ」「十三夜」などの他、文学性高い多数の日記を残した。
※7-1:濁り江(にごりえ)は、水の濁った入江。伊勢集「―のすまむことこそかたからめ」。

※8:木村荘八(きむらしょうはち)は、洋画家(1893~1959)。東京生れ。岸田劉生と共にフュウザン会・草土社を創立。「にごりえ」「濹東綺譚」などの挿絵を描き、随筆家としても知名。作「パンの会」「牛肉店帳場」、著「東京繁昌記」など。

※9:貸本(かしほん)は、損料を取って貸す書籍・雑誌。「―屋」。
※9-1:貸本屋(かしほんや、rental library)は、料金を取って書籍・雑誌を貸す職業。絵本・読本(よみほん)類の出版が盛んに成った江戸時代中期に成立し、庶民を得意先として繁盛した。第二次世界大戦後は劇画の発達と普及を支える役割も果たした。<出典:「学研新世紀ビジュアル百科辞典」>

※10:鼻緒(はなお、clog thong)は、下駄や草履などの履物の緒の、爪先の指 -親指と人差し指の間に挟まる部分- に掛かる所。転じて緒の全体をも言う。「―をすげる」。<出典:一部「学研新世紀ビジュアル百科辞典」より>

※11:ポスト・モダン(post-modern)とは、1979年イギリスの建築史家C.ジェンクスが機能主義・合理主義に基づくモダニズム建築に対して抒情的な、より人間的な「遊び」の有る様式を指す用語として提案したのが切っ掛け始まった運動。建築に始まり芸術一般やファッション・思想の領域に広まり、一般にモダニズム(近代主義)を超えようとする傾向を指す。ポスト・モダニズム。脱近代。<出典:一部「現代用語の基礎知識(1999年版)」より>
 補足すると、建築に於けるポスト・モダニズムとは、近代主義(modernism) -ル・コルビュジエ等に代表される直線的な機能主義や効率主義- に対するアンチテーゼ乃至は反動から起こって来ている運動で、装飾性の復活・曲線の挿入・無駄の効用というデザイン上の変革に依り人間性・ゆとり・個性の回復を目指すもの、と定義出来るでしょう。

※12:隅田川(すみだがわ)は、(古く墨田川・角田河とも書いた)東京都市街地東部を流れて東京湾に注ぐ川。元荒川の下流。広義には岩淵水門から、通常は墨田区鐘ヶ淵から河口迄を言う。流域には著名な橋が多く架かる。東岸の堤を隅田堤(墨堤)と言い、古来桜の名所。今、隅田公園が在る。大川。
※12-1:隅田川を舞台にした作品として
 [1].能では観世元雅作の「隅田川」
 [2].浄瑠璃・歌舞伎では近松門左衛門作「双生隅田川(ふたごすみだがわ)」
 [3].長唄・常磐津・河東・一中・清元の「隅田川」
などが在り、[2]、[3]は[1]に題材を取ったもの。元に成った[1]の内容は、「人買いに誘拐された愛児梅若丸を狂い尋ねて都から下った女が、隅田川で我が子の死を知り、その後世を弔い悲しむ」、というもの。
※12-2:大川(おおかわ)は、[1].大きな川。
 [2].東京都内を流れる隅田川の吾妻橋付近から下流の異称。
 [3].大阪市中を流れる淀川下流の異称。

※13:武島羽衣(たけしまはごろも)は、歌人・詩人(1872~1967)。名は又次郎。東京生れ。東大卒。塩井雨江・大町桂月らと共に大学派の詩人・美文家として知名。歌人として御歌所寄人(よりゅうど)を務め、詩人としては擬古派的で「美しき天然」(又は「天然の美」)、「花」などを作詞。共著「美文韻文花紅葉」など。<出典:一部「学研新世紀ビジュアル百科辞典」より>

※14:玉の井/玉ノ井(たまのい)は、大正末期から昭和期に掛けて、東京都墨田区の東武伊勢崎線玉ノ井駅(←今の東向島駅)周辺に在った銘酒屋街(=私娼街)の通称。永井荷風作「濹東綺譚」の舞台。今の東向島4~6丁目。<出典:「学研新世紀ビジュアル百科辞典」>
※14-1:永井荷風(ながいかふう)は、小説家(1879~1959)。本名、壮吉。東京生れ。広津柳浪に師事、「地獄の花」などでゾラを紹介。後、明治末期に耽美享楽の作風に転じた。当代文明への嫌悪を語り乍ら、江戸戯作の世界に隠れ、花柳界など下層狭斜の風俗を描いた。作「あめりか物語」「すみだ川」「腕くらべ」「おかめ笹」「濹東綺譚」、日記「断腸亭日乗」など。文化勲章。
※14-2:墨東・濹東(ぼくとう)とは、(「濹」は墨田川の意。江戸時代、林述斎の作字と言う)今の東京都墨田区一帯、即ち隅田川中流東岸の雅称
※14-3:「しけこむ」とは、[1].〔自五〕こっそり入り込む。遊里などに入り込む。東海道中膝栗毛4「密夫(まおとこ)めが―んでけつかるは」。
 [2].(不景気で)気の滅入った状態で閉じ篭もる。

※15:白鬚神社/白髭神社(しらひげじんじゃ)は、滋賀県高島郡高島町に在り猿田彦神を祀る。元は比良山の神体山の比良明神とも、或いは白鬚明神とも言われる。琵琶湖の中に赤鳥居が在り能「白鬚」で謡われる。東京墨田区の白鬚神社は滋賀県の分霊を祀り、隅田川七福神の寿老人である。
 補足すると、「白」の字を持つ神社は新羅の神とも言われる。

※16:東京大空襲(とうきょうだいくうしゅう)は、太平洋戦争下、1945年3月10日アメリカ軍B29爆撃機344機に依る東京への夜間焼夷弾爆撃死者約10万人、焼失戸数約27万、下町地域を中心に全都の約40%、40㎢が焦土と化した。

※17:伊勢物語(いせものがたり)は、平安時代の歌物語。作者未詳。在原業平らしき男性の一代記風の形で、色好み即ち男女の情事を中心に風流な生活を叙した約125の説話から成る。業平の歌集を原形として生長したかと言う。現存の形に成ったのは平安中期か。在五が物語。在五中将の日記。勢語。
※17-1:在原業平(ありわらのなりひら)は、平安初期の歌人(825~880)。六歌仙・三十六歌仙の一。阿保親王の第5子。世に在五中将・在中将と言う。「伊勢物語」の主人公と混同され、伝説化して、容姿端麗、放縦不羈、情熱的な和歌の名手、色好みの典型的美男とされ、能楽や歌舞伎・浄瑠璃の題材にも成った。家集「業平集」。

※18:ユリカモメ(black-headed gull、百合鴎)は、カモメの一種(チドリ目カモメ科)。小形で、体は白色。冬羽は頭部白く、後頸・耳羽は褐色、雨覆いは銀灰色。夏羽では頭部が黒褐色と成る。嘴・脚は暗赤色。ユーラシア大陸北部で繁殖し、秋、日本に冬鳥として全国の海岸地帯に渡来。キャァーキャァーと騒がしく鳴く。伊勢物語「名にし負はばいざこととはむ都鳥」など、古歌に詠まれた隅田川の「都鳥」はこの鳥と言う。季語は冬。<出典:一部「学研新世紀ビジュアル百科辞典」より>
※18-1:ミヤコドリ(都鳥)は、[1].oystercatcher。チドリ目ミヤコドリ科の鳥。大形で、背面黒く腹面は白色。嘴は長く黄赤色、脚と眼も赤色。新旧両大陸の寒帯で繁殖し、冬期は南へ渡る。海岸に棲み、春秋に日本を通過。海岸の干潟や岩礁に群生し、貝類・甲殻類を捕食。ピッピッピッと大声で鳴く。<出典:一部「学研新世紀ビジュアル百科辞典」より>
 [2].ユリカモメの雅称。古くから和歌・物語・歌謡などに現れる。上千鳥(うわちどり)。季語は冬。万葉集20「来ゐつつ鳴くは―かも」。伊勢物語「名にし負はばいざこととはむ―」

※19:「どさくさ」は、取り込んで騒々しい様。混雑。日葡辞書「ドサクサスル」。「引越の―」。

    (以上、出典は主に広辞苑です)

【参考文献】
△1:『人間失格・櫻桃』(太宰治著、角川文庫)。

△2:『土地の記憶 浅草』(山田太一編、岩波現代文庫)。

△3:『日本の神様[読み解き]事典』(川口謙二編著、柏書房)。
△3-1:『現代こよみ[読み解き]事典』(岡田芳朗・阿久根末忠編著、柏書房)。

△4:『にごりえ・たけくらべ』(樋口一葉著、岩波文庫)。

△5:『ポスト・モダンの座標』(松葉一清著、鹿島出版会)。

△6:『濹東綺譚』(永井荷風作、岩波文庫)。

△7:『赤線跡を歩く 消えゆく夢の街を訪ねて』(木村聡著、ちくま文庫)。

△8:『伊勢物語』(大津有一校注、岩波文庫)。

△9:『古今和歌集』(佐伯梅友校注、岩波文庫)。

●関連リンク
参照ページ(Reference-Page):浅草や吉原の地図▼
地図-日本・東京都(Map of the Metropolis, Tokyo -Japan-)
参照ページ(Reference-Page):関東大震災や阪神淡路大震災や
東日本大震災について▼
資料-地震の用語集(Glossary of Earthquake)
補完ページ(Complementary):今の吉原を訪ねて江戸時代の吉原を偲ぶ▼
吉原慕情-宴の後で(Longing for Yoshiwara, after the banquet, Tokyo)
補完ページ(Complementary):3.11に
東北地方太平洋沖地震(東日本大震災)が発生
(その2日後のレポート在り)▼
エルニーニョの打っ棄り的相撲論議(ElNino's throw away Sumo discussion)
牛久シャトー▼
ちょっと気になるマンホール蓋(Slightly anxious MANHOLE COVER)
原画ファイルの破壊状況と破壊時期▼
初歩的な神道の神々(The gods of rudimentary Shinto)
横浜野毛に出没する”一発屋”の御仁▼
[横浜物語#2]野毛([Yokohama story 2] Noge)
大鳥神社や神社風の屋根をした交番について▼
阪堺電車沿線の風景-浜寺編(Along the Hankai-Line, Hamadera)
正岡子規について▼
漱石の猫、即ち”吾輩”を追って
(Pursuing the SOSEKI's CAT, namely, 'Wagahai')

私が話すとそれに関連して後から事件や天変地異が起こることが多い▼
日本、珍にして奇なる光景(The RARE and STRANGE scene, Japan)
土建・金権・利権について▼
戦後日本の世相史(Shallow history of Japan after World War II)
武島羽衣は『花』の他に『美しき天然』の作詞者▼
不思議な運命を背負った「美しき天然」
('Beautiful Nature' shoulders mysterious fate)

白鬚神社は新羅系とも言われる▼
猪甘津の橋と猪飼野今昔(The oldest bridge and Ikaino, Osaka)
私は阪神淡路大震災で1年間、滋賀県蒲生郡安土町に住んでいた▼
エイが向かいし島「江井ヶ島」(Rays went toward Eigashima, Kinki)
”カフェー”について▼
国性爺珈琲盛衰記(Rise and fall of cafe and KOKUSENNYA)
在原業平について▼
2003年・交野七夕伝説を訪ねて(Vega and Altair legend of Katano, 2003)
在原業平の桜の歌や大阪の大川のユリカモメ▼
日本全国花見酒(Cherry blossoms and banquet in Japan)
大阪淀川のユリカモメと古名「都鳥」を詠んだ大阪の歌▼
”生きている”淀川の入江(Live CREEK in Yodo-river, Osaka)
普段から地元の人々が公園を利用する心▼
旅は身近な所から(Usual and familiar travels)
「旧き佳き物」を大切にする心▼
温故知新について(Discover something new in the past)


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