-- 2012.09.30 エルニーニョ深沢(ElNino Fukazawa)
2012.11.22 改訂
★このページは<エイを追え#1>「赤エイの御利益」の続編です。
私は2011年12月2日(金)21時15分に脳出血(※1)で倒れ、2011年12月初~2012年2月末迄「檻の中」で入院生活を送りました。入院生活とは私にとっては正に「檻の中」に幽閉されたも同然の状態ですが、でもそれなりに楽しい部分も有りましたが...、基本的には単調な毎日です。
詳細は省きますが、一応身体的には元の状態の90%は取り戻したかなという感じですが、言語障害が30%位残って居ます。これも2012年10月段階でも非常に”ゆっくり”とではありますが回復過程に在ります。
その様な状況の中で、私は文章が矢鱈(やたら)と書きたく成り、それで全く新規に筆を起こしたのが当ページです。以下のページの改造を2作完成させた後ですので、
脳出血後第1作(改造) 大阪天満宮の天神祭船渡御
第2作(改造) <エイを追え#1>「赤エイの御利益」
当ページは脳出血後3番目の仕事(新規ページとしては初)です。現地取材は2011年10月28日で脳出血前でしたが、その後の脳出血の為に当ページは翌年の2012年9月30日に初めて文章化の筆を執りました。このエイの話を書きたかったのです。
尚、エイについては[エイを追え#1]の末尾の「参考資料」を参照して下さい。
エイを追い求めてやって来ました、ここは江井ヶ島です。住所は兵庫県明石市大久保町江井島で、最寄の駅は山陽電鉄の江井ヶ島駅、JRでしたら大久保駅です。もうお気付きと思いますが現在の町名は江井島、「音読み」が中心の表記では江井ヶ島で、どちらも読みは「えいがしま」です。
私は全然知らなかった所ですが兎に角行ってみることにしました、何やらエイ伝説に巡り合えそうですから。それで好天の2011年10月28日(金)に山陽電鉄で行きました。右が山陽電鉄「江井ヶ島駅」、各駅停車しか止まりませんが駅員は居ます。駅から海岸迄は南南西に約800m、目指すは江井ヶ島港です。
駅から江井ヶ島港へ行く道は左の写真の様に道路が装飾されていて、私の様に初めて来た人間にも判り易く成って居ます。右の写真の様に魚などの絵が施されて居て工夫の跡が覗えます。私はエイは在るのかと探しましたがエイは無し(残念!)、右の写真は眼が体の左側に在るのでヒラメです。
ということで、このデザイン舗道は地元住民(←或いは行政サイド)の何らかの期待が込められている様ですが、残念乍ら金曜日の11時頃にこの道を歩いている人は、地元の人を除いて居ませんでした。
ここ江井ヶ島は畿内を中心に社会事業僧として活躍した行基(※2)に纏わる話が満ち溢れて居る所です。行基は高志系氏族の血を引く百済系渡来人で河内国大鳥郡の人。因みに古代の河内は百済系渡来人が多い所です。
暫く行くと下の写真の行基橋 -橋の左側に行基橋、右側に赤根川と書いて在ります- と出会(く)わしますが、この橋の名は後世に付けたものでしょう。まぁ兎に角、ここは行基の町なのです。
(1)行基と「魚住の泊」
行基はここでは摂播五泊(※3)の一つの「魚住の泊(とまり)」という古代の港を開いた人として登場します。魚住は山陽電鉄で西に江井ヶ島駅-西江井ヶ島駅-山陽魚住駅と連なり、JRでは魚住駅が対応します。
++++ 摂播五泊 ++++
行基が摂津から播磨に掛けて整備したとされている船が停泊出来る5つの港のことで、隣の港との航程が1日に設定されて居ます。中でも大輪田の泊(※3-1)は後に平清盛に整備され更には神戸港に成ったことで知られて居ます。
河尻の泊 尼崎市神崎町
大輪田の泊 神戸市兵庫区 -→ 後の神戸港
魚住の泊 明石市魚住町
韓の泊 姫路市的形町
檉生の泊 たつの市御津町室津
--------------
(2)行基開基縁記の寺 - 定善寺と長楽寺
その様な関係から山陽電鉄の江井ヶ島駅~西二見駅に掛けては行基開基縁起を持つ寺が非常に多いのが特徴で、江井ヶ島港の近くに神社や寺が固まって存在して居ます。そんな中から寺を2つご紹介しましょう。
定善寺(左下の写真)も長楽寺(右下の写真)も共に天平16(744)年、行基菩薩が「魚住の泊」を築いた折に開基した寺 -道昭の弟子の行基(※2)も法相宗- です。定善寺は行基の薬師如来像が、長楽寺は行基の御崎地蔵尊(※4)が開基縁起談として語られます。又、共に建永(1207)年に法然上人が四国に流罪に成った際に教化を受け法相宗から浄土宗に改宗して居ます。
長楽寺は明和年間(1764~1771年)には他に先駆けて寺子屋が開かれ、それが現在の江井島小学校の前身と成って居ます。或る意味で江井ヶ島のシンボル的存在と言えるかも知れません。そんな長楽寺に「行基の位牌」(※5)なる物が残って居て何やら曰く有り気です。何故ならその裏書に
行基この嶋にきたりて地蔵尊を彫刻す
祈るによって一夜の中に磯湧き出ず
時に応じて鱝向嶋と名付く
と書かれていると言うのです。地蔵尊とは勿論「御崎地蔵尊」です(→後述する様に「御崎地蔵大菩薩/行基大菩薩」と彫った石碑が思わぬ所に在りました)。
潮流の速い明石海峡(※6)の只中を、しかも古代には「嶋」と呼ばれていた当地 -磯が幾つもの島状を成して居た- への築港は、百済の先進技術を以てしても難工事を極めたのでしょう。そこで霊験灼(あらたか)な行基菩薩が御崎地蔵尊を彫って祈願すると一夜にして磯が湧き出す如くに港が完成した、更に港を目指して沖から鱝(えい)が群れ成して泳ぎ向かった、という話が出来上がりました。つまり「鱝(えい)が向かって行った嶋」という地名起源説話です。そしてこの鱝向嶋(えいがしま)が時を経て今の江井島(江井ヶ島)に成ったというのです。
但し何時頃「鱝向嶋」と呼ばれたかは定かでは有りません、行基の時代以後ですが。地蔵信仰が日本で一般化するのは平安時代以降です(※4)ので、上記の伝説自体が行基の話と御崎地蔵尊の話の、2つの話が伝承され時が経る間に何時しか1つの話にくっ付いた可能性も有ります。
一方、地元には少し違う話も伝わって居ます。行基が港を作り航海の安全を祈願していると畳2枚程もある大きなエイが港の中に入って来たので、村人たちは追い返そうとしましたが逃げません。段々気味が悪くなったので行基菩薩に頼むと、行基はエイに酒を飲ませました。するとエイは満足そうに沖に帰って行ったそうです。
しかし畳2枚程のエイとは随分大きなエイで、大きさだけから言えばマンタ(「参考資料」のΨ5-1)しか該当するものは有りませんが、元々が荒唐無稽な部分を多く含んでいる言い伝えですので、この話だけからエイの種類の特定は少し無理が有ります。
兎に角、この地が嘗て「エイ」に纏わる謂れを持ち、行基の頃か或いはもう少し後に鱝向嶋と呼ばれて居たらしい言い伝えが在り、それが何時しか今の江井ヶ島に成りました。今では江井(エイ)という音(おん)がその名残なのです。
鱝向嶋(えいがしま)
→ (エイ + ヶ島) → 江井ヶ島(えいがしま)
長楽寺から江井ヶ島港へは眼と鼻の距離ですが、私は先に東へ200m位の江井ヶ島海水浴場へ行ってみました。
左の写真は海水浴場から東の方向を撮ったものです。この砂浜が天然のものか、それとも人工のものなのか?
季節外れの海水浴場は人も疎らですが逆に良い風情でも有ります、純粋に風景が楽しめます。背景に淡路島と明石海峡大橋(※6、※6-1)が写って居ます。
淡路島と明石海峡大橋を拡大したのが左の写真です。この日はご覧の様に快晴で波がとても静かで、僅かな人も風景を楽しんでる様でした。
ところで明石海峡大橋が出来たのは1998年です。ということは阪神淡路大震災(※7)より後に完成したんですね、この大震災を引き起こした兵庫県南部地震(※7-1)は1995年1月17日に発生ですから。阪神淡路大震災は今臨んでいるこの方向が震源地でした。
実は私も阪神淡路大震災の被災者でしたので溜め息と共に色々な事が思い出されます。当時の私は神戸市東灘区に住んで居ました、あの阪神高速が倒壊した地点から直線距離で800m位の所です。マンションのエレベーターが故障で動かなく成り、それよりも何よりも水道水が出なくなり、市役所で滋賀県蒲生郡安土町の公営住宅を確保して貰い1年間住んだ事も今と成れば良い思い出です。私は今は大阪に住み、この物件は他人に賃貸で貸して居ます。
そして今、私が初めて江井ヶ島に遣って来た2011年10月28日の約半年前の2011年3月11日に未曾有の東日本大震災(東北地方太平洋沖地震)(※8)は起きたのです。東日本大震災は津波と原子力災害が甚大且つ深刻でしたが、その影響で江井ヶ島海水浴場でも南海地震発生時の「津波注意」情報(左の写真) -兵庫県東播磨県民局が管理- で注意を喚起して在りました。
人それぞれに事情は異なりますが、私にとっては自分が被災したという意味で阪神淡路大震災の方が東日本大震災よりも格段に身に迫って来るものが有ります。
(1)江井ヶ島漁協
海水浴場から港の方へ戻ります。江井ヶ島港は漁港です。港にはご覧の様に江井島漁協(※9)が在ります(左下の写真)。ここに漁協が在るということは漁業を生業(なりわい)としいる人々が暮らして居るということです。
その漁協の前には石碑が立って居ます。見ると
御崎地蔵大菩薩
行基大菩薩
と彫って在ります。この2つは江井島(江井ヶ島)の地名起源説話に所縁の名前です。尚、御崎地蔵尊 -高さ30cm位の座像- は長楽寺の本堂に安置されて居て、毎年8月23日~24日の地蔵盆(※4-1)の時だけ一般公開されるそうです。
それにしても「御崎地蔵大菩薩」と「行基大菩薩」を併記したこの石碑は先程見て来た長楽寺に在った方が良さそうに思いますが、何故ここに在るのでしょうか?、とチラッと思って仕舞いました。尤も長楽寺と江井島漁協とは直線距離で100m位しか離れてないのですが。
ところで、この付近にはノラ猫が居て漁港で獲れた魚などを与えられて居るので、ここのノラ猫は幸せです。
(2)万葉歌に詠まれた「名寸隅(なきすみ)の船瀬」
私は先ずここで昼食 -コンビニで買った”おにぎり”2個- にしました。食べ終わった時刻は略14時頃。ここに万葉歌のモニュメントが在ります。
このモニュメントの形は港(丸い部分)と水路(ニョロニョロッとした切れ目)だそうで、全体の形は魚住のUを表現して居ます。そして台座に「泊」と在れば「魚住の泊」を表しているのは明白です。
さてモニュメントでは次の万葉歌 -『万葉集』巻6(雑歌)-937(△1のp252)- を採り上げ説明を施して在ります。実はこの歌は次の様な書き出し「三年丙寅秋九月十五日、播磨国印南郡に幸しし時、笠朝臣金村の作れる歌一首并(ならび)に短歌」で始まる長歌一首(935番)と短歌二首(936、937番)の、最後の短歌なのです。
935番の最初の長歌は
名寸隅(なきすみ)の 船瀬ゆ見ゆる 淡路島
松帆の浦に 朝なぎに 玉藻刈りつつ 夕なぎに
藻鹽(もしお)やきつつ 海(あま)をとめ ...
と、先ずこの地方の風景描写から始まります。そして937番の短歌が
往きめぐり 見とも飽かめや 名寸隅(なきすみ)の
船瀬の浜に しきる白波
と詠まれます。
説明板 -平成5(1993)年11月(兵庫県)- の説明を補足して記すと、聖武天皇(※2-1)治世の神亀3(726)年に聖武天皇が印南野を行幸した折、随行歌人の笠金村がここ江井島に絶えず白波が寄せて来て恰も天皇一行を御迎えしている様だと讃えた歌です。因みに、聖武天皇と行基が初めて会合したのは天平13(741)年で、それは天平15(743)年の東大寺大仏造営の勧進に起用の為です。従ってこの歌を笠金村が詠んだ時は未だ行基は登場しません。
ここで「名寸隅(なきすみ)の船瀬」と言うのが赤根川河口に築島した江井島港の万葉時代の旧称(←赤根川はここに来る途中の行基橋を流れていた川)です。その後、この地に行基が天平16(744)年に「魚住の泊」を築いたので以後は「魚住の泊」と呼ばれる様に成ったと在ります。
長歌が詠んでる様に万葉当時の「名寸隅の船瀬」の海岸には「藻塩(※10)を焼く海をとめ(=海女)(※10-1)」が居て長閑だったのです。しかし嘗ての名寸隅(なきすみ)の名も現在では知る人は希です。
尚、印南野(いなみの) -或いは稲見野(いなみの)、稲美野(いなみの)、稲日野(いなびの)、伊那毘能(いなびの)などとも書く- は兵庫県中南部、東を明石川、西を加古川、北を美嚢川で限られ、南に播磨灘を望む台地状の地域です。この地域の開発が進んだのは近世以降で、古代では未だ未だ未開の地でした。現在も兵庫県加古郡には稲美町という地名が在り稲美町には印南の地名が在ります。
私は万葉歌のモニュメントから少し離れて明石海峡に突き出て居る灯台の在る突堤に出てみました。下の写真がそれで、背景はやはり明石海峡大橋と淡路島です。ここが江井ヶ島港で一番海に突き出た所です。
この突堤には魚釣りを楽しむ人が三々五々集まって居ました。釣り人はお互い顔見知りらしく冗談や悪態を突き乍ら、のんびり楽しんで居る様でした。
左の写真は釣り人が魚を釣り上げたところです。この日は数人の人が釣って居ましたが、時々こうして掛かります。
明石の海と言うとタイや蛸が有名ですね。
右の写真が江井ヶ島港の漁船です。ご覧の様に小さな漁船が午後の港に並んで居て、長閑な風景です。
私はここでエイの昔話をひょっとして知ってる人は居ないかなと思い「何かエイの話を知りませんか?」と地元の”漁業を生業(なりわい)としているお爺さん”に尋ねたら、脇から小母さんが「ここはエエとこじゃろが」だと!!
話が噛み合って無いのですが、これで良いのです。江井ヶ島港はエエとこでっせ!!
そして左の写真は漁港から200m位西の海岸で撮った逆光のウミウ(海鵜)(※11、※11-1)です。鵜はペリカン目なんですねえ、知らなかった!
宇治川とか長良川とかの鵜飼が有名ですが、川だからカワウ(川鵜)だとばかり思って居ましたが、豈図らんや鵜飼の鵜はウミウ(海鵜)なんですと、更に知りませんでした!!
ウミウはこの様な岩礁に巣を作って生活し、ここにも数羽居りました。これも長閑な風景です。
魚住城の跡が在るとのことで、探しましたが時間も日没が迫って居て探すのに苦戦しました。やっと見付けることが出来ましたが大変狭い、家1軒分の空き地という感じでした(下の写真)。
前には説明板(兵庫県教育委員会)が立って居ます。魚住城は南北朝(14世紀中頃)に赤松氏一族(※12)の魚住長範に依って魚住町中尾に築かれました。
戦国時代に入ると天正6(1578)年に三木合戦(今の兵庫県三木市)が勃発し織田氏と別所氏が対立し、織田軍の総指揮を羽柴秀吉が執り、別所氏 -別所氏も赤松氏一族- を毛利氏や同族の魚住氏が支援しましたが、三木城に篭城した別所氏は遂に敗れます。秀吉が採った三木城の兵糧攻めは「三木の干殺し(みきのほしごろし)」と呼ばれて居ますが、毛利勢は別所氏を東播磨の海からのルートで突き崩そうとした訳です。
三木合戦に赤松氏の同族支援で参戦した魚住氏は「負組」に与(くみ)した結果に終わり、秀吉は天正8(1580)年に三木城の廃城と共に魚住城も廃城にしました。この合戦で魚住氏は「下剋上果たせず」に終わりました。兵庫県三木市には「別所町××」という地名が多数残って居ますが、ここが嘗ての別所氏の勢力範囲です。
平成10(1998)年の発掘調査に依り魚住城の掘割の一部が見付かり、ここが遺構の跡と判ったとの事です。天正6(1578)年に魚住頼治は毛利軍が三木城へ兵糧を運ぶ基地として「西嶋の丘」に柵を巡らし新たに城を構えて居り、ここがその跡地と見做されて居ます。
江井ヶ島港の地元でもエイの伝説を知っている人は最早居ませんでした、ましてや「エイと痔」の話などは何処にも転がって居ませんでしたね。無理も無いのです、「鱝向嶋(えいがしま)」と呼ばれた時代を行基の時代迄遡れば1200年以上の時の隔たりが在るのです。
人間にとって記憶の風化 -それを忘却と呼び慣らして居ますが- は必要なのです。悠久な時間の淘汰です。それに打ち勝って事実を風化させない為には文字に留める事です、今の時代は。過去には口承が在り”言い伝え”が存在しました。「鱝向嶋」は正に口承に依る伝承ですが、口承は伝播過程での変容を避けられません。もう一度言いましょう、記憶は風化するものなのです。もし記憶が風化しなかったら人間は発狂して仕舞うでしょう。
名寸隅(なきすみ)という古名を飲み込んで仕舞った明石海峡の海が、やがて阪神淡路大震災の記憶をも少しずつ忘却の海の中に沈殿させて行くでしょう。そして残るのはただ明石海峡の海、それが海の包容力なのです。それで良いのだ、と私は思います。
地元の人々の暮らしの中に海が在り、海の風景と共に暮らしが在ります。海と向き合う海辺の暮らしは一見単調に見えますが忍耐力を必要としそうです。でも何億回と寄せては返す波の如く、海辺の暮らしの「変わらない部分」に豊かな時が刻まれている様にも思えます。
左の写真は江井ヶ島港から西南の瀬戸内海を望んだ眺めです。17時を少し回った時刻ですが10月28日とも成ると日が落ちるのが早いという印象です。
そして江井ヶ島港を去るに当たって私は一首詠みました。これは島の「今は昔」の今昔物語に他為りません。因みに、月海とは雅号です。
エイ躍る 古き謂れは 忘れられ
今は名のみの 江井ヶ島(えいがしま)かな
月海
明石というと日本の中央標準時の子午線(東経135度)が街中を通っていることで知られて居ますが、今回はそれとは全く無関係な話題でした。ここ江井ヶ島は観光と言えるものは何も有りませんしマスメディアが放映してる様なグルメ店などは1軒も在りませんが、もし貴方(又は貴女)が観光地を避けて静かに自分だけの「何か」を発見したいなら、江井ヶ島港に一度来て見て下さい。ひょっとして貴方(又は貴女)なりの「何か」を見付けられるかも知れません。
帰りは午前中来た道を通って山陽電鉄「江井ヶ島駅」に引き返しましたが、最後に撮った写真が右の写真です。撮った所は装飾道路で午前中に装飾の具合を撮った辺りで地上4~5mの電線に止まって居ました。この鳥は一体何でしょう?、目で見た特徴は嘴の上の前頭部の冠羽とオレンジ色の目ですが、私はこの鳥は初めて見る鳥です。
そこでこの鳥を調べて貰ったら -冒頭に書いた様な理由で回復過程に在る現在は余り時間か自由では無いのです- 『フリー百科事典ウィキペディア(Wikipedia)』に在りました。名前はハッカチョウ(八哥鳥)/ハハチョウ(哥哥鳥)と言い、スズメ目ムクドリ科の鳥です(△2のp587)。原産地は中国南部・台湾~インドシナ半島に掛けてで、日本では与那国島などの南西諸島を除いては居なかった鳥ですが、御多分に漏れず近年は”人為的”にこれらの種が日本に定着化して、もう本州の中南部で確認されて居ます。体長は25cm位、食性は雑食です。中国では人に良く懐き、特に人語(※13)を真似るので人気が有るそうです。
それで私が今迄見た事が無い鳥だった理由が解りました、でもこの時は鳴きませんでした。それにしても私は何故かこの鳥がずっと気になって居たのです、1年越しで。今と成ってはハッカチョウ(八哥鳥)も江井ヶ島港の良き思い出の一つです。
江井ヶ島港の事を書くのに当初はもう1~2回位訪問してからと思って居たのですが、冒頭に書いた様な理由でそれが果たせず1日だけの一期一会の印象記(※14)に成って仕舞いました。しかし、それもこれも運命と考えて居ます。エイ伝説を追ってここ迄来て遣って来ましたが私にとって江井ヶ島港はエエとこでした。
[エイを追え]シリーズは前編「赤エイの御利益」と、この後編「江井ヶ島」で終わります。江井ヶ島の皆さん、有難う御座いました!
{この章のハッカチョウの記事は2012年11月22日に追加}
尚、[エイを追え]シリーズの他画面への切り換えは最下行のページ・セレクタで行って下さい。(Please switch the page by page selector of the last-line.)
【脚注】
※1:脳出血(のうしゅっけつ、cerebral hemorrhage)とは、脳の血管が破綻して出血し、脳組織の圧迫・破壊を来す疾患。高血圧・動脈硬化に因るものが最も多い。発作的に起り、頭痛・意識消失・悪心・嘔吐・痙攣などを来し、出血部位に依り種々の神経症状を呈する。予後は出血の部位・大きさに依り異なるが、しばしば半身不随などの後遺症を残す。脳溢血。→脳卒中。
※2:行基(ぎょうき)は、奈良時代の僧(668~749)。河内国大鳥郡の人。道昭に師事。畿内を中心に諸国を巡り、民衆教化や造寺、池堤設置・橋梁架設等の社会事業を行い、行基菩薩と称された。初め僧尼令違反で禁圧されたが、大仏造営の勧進に起用され、大僧正位を授けられる。
※2-1:聖武天皇(しょうむてんのう)は、奈良中期の天皇(701~756、在位724~749)。文武天皇の第1皇子。名は首(おびと)。光明皇后と共に仏教を信じ、全国に国分寺・国分尼寺、奈良に東大寺を建て、大仏を安置した。
※3:摂播五泊/五泊(せつはりごはく/ごはく)とは、奈良時代から鎌倉中期に掛けて、瀬戸内海を航行して難波に入る船舶が、播磨以東に於いて碇泊した5ヵ所の港。檉生泊(むろうのとまり)(室津)/韓泊(からのとまり)(姫路市的形)/魚住泊(明石)/大輪田泊(兵庫)/河尻泊(淀川川尻)の総称。ごとまり。
※3-1:大輪田の泊(おおわだのとまり)とは、古代・中世、摂津の和田岬の北側に在った港。五泊の一。平安時代末期、平清盛が宋との貿易の為に整備。現在の神戸港の前身。輪田泊。後、兵庫島・兵庫津と称す。<出典:一部「学研新世紀ビジュアル百科辞典」より>
※4:地蔵菩薩(じぞうぼさつ、Jizo, guardian deity of children、Ksitigarbha[梵])は、釈尊の入滅後、弥勒仏の出生する迄の間、無仏の世界に住して六道の衆生を教化/救済するという菩薩。像は、胎蔵界曼荼羅地蔵院の主尊は菩薩形に表されるが、一般には比丘形で左手に宝珠、右手に錫杖(しゃくじょう)を持つ形が流布。中国では唐代、日本では平安時代より盛んに尊信される。子安地蔵/六地蔵/延命地蔵/勝軍地蔵なども在る。地蔵。地蔵尊。
※4-1:地蔵盆(じぞうぼん)とは、京都で8月(古くは旧暦7月)23・24日の地蔵菩薩の縁日に行う会式(えしき)。各地にも、この日、児童が石地蔵に香花を供えて祀る風習が在る。地蔵会。
※5:位牌(いはい)は、死者の俗名や戒名を記した木の札。太平記35「卓の上に立たりける―の裏に」。
※6:明石海峡(あかしかいきょう)は、大阪湾と播磨灘とを分つ、淡路島北方の海峡。幅約4km。1998年、明石海峡大橋が開通。明石大門(おおと)。明石の瀬戸。明石の門(と)。
※6-1:明石海峡大橋(あかしかいきょうおおはし)は、明石海峡を跨いで神戸市垂水区と淡路島を結ぶ、世界最長の吊橋。全長3910m、2本の主塔間の長さ1991m、幅30m。本州四国連絡橋の神戸~鳴門ルートの一部。1998年完成。<出典:「学研新世紀ビジュアル百科辞典」>
※7:阪神淡路大震災(はんしんあわじだいしんさい)は、1995年1月17日の兵庫県南部地震に因る災害。兵庫・大阪・京都の1県2府が被災し、死者6千3百人、負傷者4万3千人、全半壊家屋20万9千。又、神戸市内で阪神高速道路の高架橋やビルが倒壊。2011年3月11日の東日本大震災が起こる迄、戦後最大の災害と成る。
※7-1:兵庫県南部地震(ひょうごけんなんぶじしん)は、通称を阪神淡路大震災。1995年1月17日午前5時46分に淡路島北端を震源として発生した地震。マグニチュード7.2。地震の原因は淡路島から六甲山系へ延びる活断層に因る。
※8:東北地方太平洋沖地震(とうほくちほうたいへいようおきじしん)は、2011年3月11日14時46分に、三陸沖を震源として発生した、モーメント・マグニチュード9.0(マグニチュード8.4)、最大震度7の巨大地震。ここを震源とする地震は津波を伴うが、北海道~関東地方に掛けて10mの大津波で死者・行方不明者約1万9000人。又、地震と津波で東京電力福島原発で放射能漏れが生じ、原子力行政の数々の未解決の問題を後に残した。我が国の観測史上最大の震災(東日本大震災)。
※9:漁業協同組合(ぎょぎょうきょどうくみあい)は、1948年の水産業協同組合法の認める協同組合の一。一定地区内の漁民を組合員とし、漁民に必要な物資の供給、共同施設の利用、漁獲物の加工・販売、信用事業などを行う。漁業の自営も出来、漁業権の享有主体とも成る。
※10:藻塩(もしお)とは、[1].海草に潮水を注ぎ掛けて塩分を多く含ませ、これを焼いて水に溶かし、その上澄みを釜で煮詰めて製した塩。万葉集6「夕なぎに―焼きつつ」。
[2].[1]を製する為に汲む潮水。
※10-1:海人/蜑/海女(あま)は、(「あまびと(海人)」の略か)
[1].fisherman。海で魚や貝を獲り、藻塩などを焼くことを業とする者。漁夫。古事記下「鮪(しび)突く―よ」。
[2].(「海女」と書く)woman diver。海に入って貝/海藻などを獲る女性。季語は春。「真珠取りの―」。
※11:海鵜(うみう、Temminck's cormorant)は、ウの一種。鵜飼に用いる。全長85cm。海岸の崖や岩礁に巣を作って繁殖し、外海の魚類を捕食する。渡り鳥でシベリア/日本/中国の沿岸に分布。山口県壁島の渡来地は天然記念物。<出典:「学研新世紀ビジュアル百科辞典」>
※11-1:鵜(う、cormorant)は、ペリカン目ウ科の水鳥の総称。頸は細長く全身黒色。海岸・湖沼付近に群棲し、巧みに潜水して魚を捕食する。世界中に約30種、日本にはウミウ・カワウ・ヒメウ・チシマウガラスの4種が生息。鵜飼に用いるのはウミウ。季語は夏。万葉集19「―八つ潜(かず)けて」。<出典:一部「学研新世紀ビジュアル百科辞典」より>
※12:赤松氏(あかまつし)は、姓氏の一。播磨の豪族。鎌倉時代佐用荘を本拠として興り、南北朝時代以降同国守護。室町幕府四職家(ししきけ)の一。
※13:人語(じんご)とは、[1].人間の言語。日葡辞書「ワウム(鸚鵡)ジンゴヲマナブニニタリ」。
[2].人の話し声。「山中―を聞かず」。
※14:一期一会(いちごいちえ)とは、(茶会の心得から。利休の弟子・宗二の「山上宗二記」に「一期に一度の会」と見える)生涯に唯一度目見えること。一生に一度限りであること。「―の縁」。
(以上、出典は主に広辞苑です)
【参考文献】
△1:『万葉集(上)』(佐佐木信綱編、岩波文庫)。
△2:『山渓ハンディ図鑑7 日本の野鳥』(叶内拓哉・安部直哉・上田秀雄著、山と渓谷社)。
●関連リンク
@参照ページ(Reference-Page):与那国島の地図▼
地図-日本・南西諸島と沖縄
(Map of South-West Islands and Okinawa -Japan-)
@参照ページ(Reference-Page):地震について▼
資料-地震の用語集(Glossary of Earthquake)
脳出血後の初仕事(ページの改造)▼
大阪天満宮の天神祭船渡御
(The Tenjin boating-festival of Tenmangu, Osaka)
行基について▼
阪堺電車沿線の風景-浜寺編(Along the Hankai-Line, Hamadera)
大阪の地蔵盆▼
阪堺電車沿線の風景-大阪編(Along the Hankai-Line, Osaka)
ノラ猫百態▼
ノラ猫狂詩曲(What's new PUSSYCATS ?, Japan)
月海は雅号▼
エルニーニョ深沢とは何者か?!(Who am I ?)
種が”人為的”に日本に定着化している例(アカボシゴマダラ)▼
日本、珍にして奇なる光景(The RARE and STRANGE scene, Japan)