阪堺電車沿線の風景-浜寺編
[阪堺電車沿線の風景・その3]
(Along the Hankai-Line, Hamadera)

-- 2003.12.05 エルニーニョ深沢(ElNino Fukazawa)
2014.09.27 改訂

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 ■東湊から浜寺駅前迄 - 浜寺リゾート・コース(※1)

 ★このページは<阪堺電車沿線の風景・その2>堺編の続きです。ここから海の香り漂う浜寺に入ります。

 未だ未だ行きまっせ。引き続き阪堺電軌阪堺線に沿って東湊から終点・浜寺駅前迄、石津漁港や別荘地として賑わった浜寺の海岸通りの風景を見て行きましょう。更に「+α」の旅も待って居ますので、お・楽・し・み・に!
 → 阪堺電車沿線の石津の地図を見る(Open the map)!

 (1)石津の浜と最古の戎神

 阪堺電車は御陵前駅を過ぎると専用軌道に入り、以後はずっと専用軌道を走ります。東湊駅から駅間隔が長く成り次が石津駅です。地名は浜寺石津町と成り、ここからもう浜寺地区です。この辺りには小さな畑やラブホテルが散見されますが、明治末から大正初期に掛けては海岸近くは水捌けが良過ぎた為に耕作用井戸水を汲み上げる風車が林立して回り、長閑な風景だったそうです(△1のp108)。
写真1-0:石津太神社。
 石津駅の北西に、右の写真の石津太神社(いわつたじんじゃ、浜寺石津町中4丁)が在ります。社の由緒書に拠れば、第5代孝昭天皇7年の創建で和泉大鳥郡24座の式内社で我が国最古の戎神社(※2)とされて居ます。
 御祭神は蛭子命八重事代主命(この2神が戎神)、天穂日命(石津速及の祖神、※3)、建御名方富命(諏訪森の諏訪神を合祀)です。
 往時の境域は8町四方(1町=約109mなので約23万坪)と大変広く、神仏混淆の七堂伽藍舞楽殿楼門などが在り、白雉3(652)年には孝徳天皇が行幸されたという古い歴史が在りましたが、元和元(1615)年の大坂夏の陣の兵火で焼失しました。写真の鳥居には「寛永十九年壬午八月吉日」と刻まれて居て、1642年の再建です。社殿もこの頃の再建の様です。北本殿(一間社流造)と南本殿(一間社春日造)は堺市有形文化財に指定されて居ます。


写真1-0-2:「やっさいほっさい祭」の火渡りの場面。 蛭子命が旧暦の11月14日に海から石津の浜に流れ着いた際、村人たちが108束の藁で篝火を焚いて体を温め奉仕したという故事に因み、12月14日夜の火産祭は戎神が火の上を渡る場面を再現した火渡りの神事で、その掛け声から「やっさいほっさい祭」と呼ばれ泉州の奇祭として有名です。この祭は江戸中期(=社殿が再建された頃)に始まったもので、右の写真は2人の胴持ちと1人の足持ちが蛭子命を抱え乍ら「やっさいほっさい」(←「やっさもっさ」に似る、※4)と掛け声を掛けて火渡りをして居る場面です(03年12月14日撮影)。
 境内には蛭子命が漂着した時に腰掛けたという「戎神之御腰掛石」五色の神石を社殿の前に埋めたという伝承も有り、この辺りの地名起源(諏訪森や石津)の神を祀ることからも中々重要な神社です。石津川上流には神石市之町という地名も残って居ます。
 尚、大阪の戎神社はこちら堺戎はこちらを参照して下さい。

    ++++ 蛭子伝説と戎神 ++++
 戎神は「恵比須顔」という言葉が在る様に、何時もにこにこして居て民衆に最も親しまれて居る神さんですが、そもそもは蛭子伝説に発祥します(※2-1)。蛭子伝説とは『古事記』(※2-2)の国産み神話に於いて、伊弉諾(いざなぎ)・伊弉冉(いざなみ)の第3子で在り乍ら脚が立たないので”蛭の様な子”として海に流された(△2のp20)、という記述に由来し、そこから蛭子が漂着したとする伝説が日本各地に生まれます。従って元々は海神であり、中世以降戎神として七福神の一つに組み込まれ鯛を釣る姿から大漁、やがて商売繁盛の神に転化して行きます。又、親から捨てられた不遇な生い立ちから同様の境遇の人々から尊崇され、人形(元々は足が無い)を操り漂泊生活する傀儡師(くぐつし)の一団が戎神社に拠り所を見出し戎舁きと呼ばれたりして、何と無く”弱い者の庇護者”というイメージが有りますが、この様に奥の深い面も備えた神さんなのです。
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写真1-2:北畠顕家の供養塔。
写真1-1:石津川の鯉。 石津太神社の少し南には石津川が流れて居て、川を覗くと左の写真の様な体長30cm位の鯉が何匹も泳いで居るのが見えます、これは太陽橋から撮ったものです。
 嘗てこの近辺は綿作が盛んで晒木綿の工場が多くここで機織られた木綿を石津川で晒したそうです。又、古代この地は四国から石材の集積地「石津」の地名由来だそうです(△1のp109)。
 太陽橋の北詰には季節に依っては大漁旗や幟が立ったりして、漁港の雰囲気が感じられます。

 そして太陽橋の南詰には、南朝の為に高師直軍と戦い、延元3(1338)年にこの地で花と散った北畠顕家の供養塔(右の写真、浜寺石津町中5丁)が在ります。顕家の墓は大阪編で見て来た阿倍野区の北畠公園に在ります。
 

 (2)石津漁港と石津神社

写真1-3:「石津漁港」と書いてある道路標識。 私はここから石津川の左岸沿いに海迄行って来ます。石津は今でも現役の漁港です(→「参考資料」を参照)。
 左が「石津漁港」と書いて在る湾岸線の道路標識です。この道路を渡ってレジャー用の船が繋留されて居る所を更に奥に進むと石津漁港(浜寺石津町西5丁)に出ます。
 そう言えば嘗てこの辺りは「茅渟(ちぬ)の海」(※5)と呼ばれクロダイが豊富に獲れて居たんですね、私は漁港で網を一生懸命修繕して居る漁師たちの姿を見て、こんな歌が在ったのを思い出しました。『万葉集』巻6-999の

  血沼廻(ちぬみ)より 雨ぞ降り来る
   四極(しはつ)の白水郎(あま)
    網手綱乾(ほ)せり ぬれあへむかも        
守部王


です(△3)。下の写真が漁港の風景です、背後に見える船が漁船です(大きなタンクも見えて居ますが)。
写真1-4:石津漁港で網を繕う漁師たち。 昭和35(1960)年頃迄は地引き網で操業して居たそうですが翌年から始まった臨海工業地帯の建設で廃止、今は投げ網漁でスズキ、イワシ、コノシロなどが獲れるそうです。因みに大阪府下には12の現役漁港が在ります。写真1-5:石津川左岸にあった巻き上げ機。

 石津漁港からの帰りに左の写真の錆びた巻き上げ機の様な物(高さ60cm位)が石津川左岸堤防の上に据え付けられて居るのを見付けました。何ですかねえ?、大きなギアが付いて居ます。この写真の右に写っている川が石津川赤い鉄橋の上を南海本線の電車が通過して居ます。
写真1-6:石津神社。
 石津駅から東に700m位行くと国道26号沿いに右の石津神社(石津町1丁)が在ります。境内の説明板に拠ると御祭神は八重事代主命(戎神)、大己貴命、天穂日命(※3)で、創建は第5代孝昭天皇7年8月10日の勅願に依る日本最古の戎神と在り、先程の石津太神社とほぼ同じ事が書いて在ります。?、...で違いはと言うと、天穂日命の14世孫で出雲の野見宿禰(※3-1)が垂仁天皇の御前で当麻蹶速を打ち負かし蹶速の領地を賜わり当社の神主に任じられ、その後孝謙天皇が天平勝宝元(749)年に当社に行幸し藤原の姓と従3位大納言を賜わったと在り、境内社として野見宿禰神社、天満宮が在ります。ま、野見宿禰は天穂日命を祖神とする土師氏(※3-2)の祖であり菅原道真はその後裔ですから頷けます、土師氏については後で大鳥神社の節で又述べます。
 石津太神社は社領が広かった神社ですから、元は石津太神社と同じだったと思えます。

 (3)諏訪森周辺

 阪堺電車に戻り石津川を渡り暫く行くと船尾駅、と言うより諏訪森と言った方が判り易いでしょう、直ぐ西には南海本線の諏訪ノ森駅が在ります。
 → 阪堺電車沿線の浜寺の地図を見る(Open the map)!

 元は諏訪神社が在ったのですが明治の終わりに石津太神社に合祀され廃社されました。この辺り -浜寺諏訪森町中・東、浜寺船尾町西辺り- から嘗ての別荘風の屋敷が散見される様に成ります。浜寺の名称は南北朝時代に海岸近くに建てられた大雄寺(たいゆうじ)を「浜の寺」と呼んだことが始まりですが、この辺りにも大雄寺を建てた三光国師(=孤峰覚明、※6)に因んだ三光川など、「三光」と付く地名が残って居ます(大雄寺は後で訪ねる南海の伽羅橋駅付近(高石市の羽衣・高師浜辺り)に在りました)。
 浜寺地区は嘗て関西では「西の芦屋か南の浜寺か」と謳われ、”水着で海水浴”というモダン・ハイカラ・リッチな海浜別荘地として有名でした。別荘を持てる階級は当然「お金持ち」でしたので、老舗にしろ成金にしろ、例え”モダンで無くともハイカラで無くとも、よしんば「いけずう」(※7)であっても、そのリッチさだけ”で充分に憧れとヤッカミの的だったのは今と少しも変・わ・り・ま・せ・ん!
 そんな情景を物語る様に、諏訪森界隈には左下の白壁土蔵の純和風屋敷や、右下の写真の様な雑木林を残す一画も在ります。私はここが諏訪神社が在った所ではと思います。
写真2-1:諏訪森の白壁土蔵の純和風屋敷。写真2-2:諏訪森の雑木林。
写真2-3:諏訪森の瀟洒な洋風の邸宅。
 左は瀟洒な洋風の邸宅です。洋風建築と和風の松の木や生け垣が調和して居ます。
 下は南海本線の諏訪ノ森駅舎(大正10(1921)年築)のステンドグラスです。
写真2-4:南海の諏訪ノ森駅舎のステンドグラス。
 南海本線では、この駅や次の浜寺公園駅や高師浜駅に当時としてはモダンな、今から見ればレトロ(※1-1)な駅舎が続き、如何にも懐かしの別荘地という面影を残して居ます。
 尚、ここから東に行き国道26号の東には四ツ池遺跡(浜寺船尾町西5丁) -縄文遺跡と弥生遺跡が重層して居る集落の跡で竪穴式住居や高倉や排水溝跡や土器類などが発掘されて居る- が在り、古代から人々が住み着いた土地です。

 (4)浜寺駅前駅の周辺

 船尾駅を過ぎると電車は南海本線と交差して浜側に入り、長かった阪堺線も終点・浜寺駅前駅に着きます。
写真3-1:阪堺電車の終点・浜寺駅前駅。
 左が終着駅で待機して居る我がチンチン電車です、行き先が「えびす町」と読めますね。電車の手前の道路のこちら側、つまり私が今立っている所がもう浜寺公園入口です。そしてこの駅は南海本線の浜寺公園駅とも近いのです、左下の写真をご覧下さい。
写真3-2:辰野金吾設計の南海・浜寺公園駅。 左が東京駅や日銀本店を設計した、あの辰野金吾(※8)の設計に成る南海電鉄の浜寺公園駅です(明治40(1907)年築)。ハーフティンバー様式(※9)と呼ばれる童話の世界から抜け出して来た様な駅舎は、関西切ってのリゾート地だった浜寺の往時を偲ばせるに充分な意匠です。駅舎中央の4本の柱は辰野の師ジョサイア・コンドル(※10)が鹿鳴館に採用したインド・イスラム様式のモチーフを継承するものです。
写真3-3:阪堺・浜寺駅前駅と南海・浜寺公園駅を繋ぐ通路。
 そして右の写真が阪堺電車の駅(左端)と今見た南海本線の駅(正面奥)とを結ぶ通路で、両側にはおだんご屋や定食屋が並んで心和む情緒が有ります。
 正面奥の赤い屋根のモダンな駅舎が何故か下町的雰囲気の中に溶け込んで居て、この洋風と和風の奇妙な融合は私お気に入りの風景の一つです。
 

 (5)浜寺公園 - 「高師の浜の松」と「世のあだ波」

写真4-1:浜寺公園の松林。
 では浜寺公園の中に入りましょう。この公園は堺市と高石市に跨って居ます(堺市浜寺公園町と高石市羽衣公園丁)。
 先ず浜寺公園と言えば何と言っても公園に群生する松林です(左の写真)。今の堺市浜寺諏訪森西辺りから高石市高師浜町に掛けて、ここ浜寺の海岸は古くから高師の浜と呼ばれて居ました。
 『万葉集』巻1-66(△3)に

  大伴の 高師の濱の 松が根を
    まくらに宿(ぬ)れど 家ししのはゆ     
置始東人


 『古今集』巻17-915に

  沖つ波 たかしの浜の 浜松の
    名にこそ君を 待ちわたりつれ       
紀つらゆき


と在ります。特に有名なのが『小倉百人一首』72番歌

  音に聞く 高師の浜の あだ波は
    かけじや袖の ぬれもこそすれ       
祐子内親王家紀伊


(←この歌碑は後で訪れる高石神社境内に在ります)で、古来から歌に詠まれた「白砂青松(はくしゃせいしょう)」の名所でした(△4のp84)。

写真4-2:浜寺公園の大久保利通惜松碑。 浜寺公園の松にはこんな逸話が在ります。明治政府発足直後、新制度で食み出した”困窮士族”を救済するという士族授産の名目で、この松林を伐採して売却しようという動きが堺県に起こり、明治6(1873)年にここを訪れた時の内務卿・大久保利通がこれを中止させたと言うのです。その時の利通の気持ちを、上の祐子内親王家紀伊の歌に掛けて歌った利通の惜松碑(右上の写真)が公園内に在り

  おとにきく 高師の浜の はま松も
    世のあだ波は のがれざりけり       
利通


と刻まれて居ます。その甲斐有って伐採計画は中止され、同1873年の太政官令に拠り日本最初の公園として整備されたという訳です。


写真4-2-a:浜寺公園の鳳凰松。

 現在、浜寺公園内にはご覧の様に見事な松林が残り、「日本の名松100選」にも指定されて居ます。惜松碑近くには鳳凰松と呼ばれる松も在ります(右の写真)。

写真4-3:浜寺水路と新浜寺大橋。 左はその「白砂青松」を僅かに偲ばせる園内の一番海寄りの所です。現在は白いコンクリートの堤防に成って居ますが、潮の香りはします。写真で、正面に見えるのが湾岸4号線の新浜寺大橋です。大変大きな橋で、石津辺りから既に見えて居ました。堤防の左に海の様に見えるのは、海では無く浜寺水路で幅は200m近く有ります。水路では夏は何処かの大学のボート部の連中が練習したり、飛魚が撥ねたりしますが、水路の向こう側は高石市の臨海工業地帯です。私は夏は良くここへ来ます、何と言っても明るい陽光が有りますから。

 ほんの半世紀前(=1960年頃)迄はこのコンクリートが白い砂浜で、浜寺水路が遠浅の海岸で大海原と連なり、最盛期は海水浴や潮干狩りの客が一夏で100万人も押し寄せ賑わっていたのです、たった50年前迄は。海水浴場と同年の明治39(1906)年に開校された浜寺水練学校は多くの水泳選手を輩出しその名を全国に轟かせました。今残っているのは堤防の右に少し写っている公園の松林のみです。臨海工業地帯の重厚長大産業は今や競争力を失い喘いで居ます。万葉時代からの景勝地を「世のあだ波」が押し潰して仕舞いましたが、それ以上の「富」を産んだのでしょうか?、昭和には”明治の元勲”に匹敵する大物は居なかったということですね!

写真4-4:浜寺公園のミニ蒸気機関車。写真4-5:浜寺公園のハクセキレイ。 左が園内に在る交通公園で、ご覧の様にミニ蒸気機関車 -形だけで実際にはディーゼル・エンジンで動く- が走り、休日には親子連れで賑わいます。園内には他にプールテニスコート野球場ばら庭園などが在ります。
 右上は公園内に居たハクセキレイです。気を付けて見れば野鳥やトンボも居るものです。

 (6)浜寺と与謝野晶子 - 白萩(晶子)と白百合(登美子)

 ここにも御多分に洩れず、惜松碑の少し北に与謝野晶子の歌碑が在りますが、詰まらない歌なので無視、アッハッハ、私の唯我独尊、独断と偏見です。それよりも、堺編で指摘して置いた、晶子と鉄幹の恋愛成就に決定的だった浜寺での出会いについてお話しましょう。堺編の晶子の話はこちらです。
 明治33(1900)年8月4日、来阪した与謝野鉄幹と大阪で歴史的対面を果たした晶子は、8月6日に「関西青年文学会堺支部」が鉄幹を歓迎して開いた「浜寺での歌会」に参加しました。この時は鉄幹に想いを寄せるもう一人の女性・山川登美子も参加して居ます(△4のp72~100)。
 その後、岡山に寄った鉄幹は帰京途中15日に晶子を呼び出し、ここ浜寺で”2人だけで”会ったのです。その戯れは晶子にとって「夢の如き再会」であり、「縁(えにし)の神」のお導きに思えたことでしょう。1900年8月15日は晶子にとって「運命の日」に成ったのです。この時の気持ちを詠んだのが、『みだれ髪』の次の一首です(△5のp43、△4のp103)。

  松かげに またも相見る 君とわれ
    ゑにしの神を にくしとおぼすな      
晶子


 折角浜寺に晶子の歌碑を建てるなら、この歌にして欲しかったですね!

 ところで鉄幹はこの頃、晶子を「白萩」、登美子を「白百合」と名付けて居ましたが、歌でめきめき腕を上げる2人の才媛をどの様な気持ちで見詰めていたのでしょうか(←鉄幹は両手に花で「上手く遣りやがったな」という感じですね!)。最初は晶子と登美子は同年代の歌仲間でありました。晶子は登美子を訪ねてこんな歌を詠んで居ます(△5のp67)。

  人の世ぞ 何をなげくと つよく云えど
    君も少女子(おとめご) われも少女子(おとめご)  
晶子


 しかし、鉄幹という師を挟み2人は直ぐに恋のライバルに成りました。『みだれ髪』の中の「白百合」の章はそんな晶子の登美子や鉄幹に対する嫉妬を赤裸々に歌った歌が載って居ますので、その辺りに興味有る方は是非「白百合」の章をご覧遊ばせ!
 その中から白萩の君・晶子が白百合の君・登美子を詠んだ歌をご紹介しましょう(△5のp25)。

  おもひおもふ 今のこころに 分ち分かず
    君やしら萩 われやしら百合        
晶子


 これは「えっ、貴女が白萩で私が白百合でしたっけ?」とわざと逆を言い、晶子の気持ちが微妙に揺れて居るのが解ります。そして1900年11月5日、鉄幹は京都に来て晶子と登美子を呼び3人で永観堂の紅葉見物をして居ます。その時登美子は故郷の若狭で一族の青年との結婚話が決まったことを鉄幹に告げ、次の歌

  それとなく 紅き花みな 友にゆづり
    そむきて泣きて 忘れ草つむ        
登美子


を残して翌6日に故郷に去ってって行くのです(△5のp121~122、△4のp171、△6のp91~92)。若狭の青年は「忘れ草」にされて仕舞いましたが美しくも哀しい、しかし心の内は熱い恋物語でした。

 [ちょっと一言]方向指示(次) 白百合の君・登美子は2年後に夫と死別後上京し鉄幹・晶子ら「明星」同人と再会して居ます。1905年には晶子・増田雅子との合同歌集『恋衣』を刊行しますが、間も無く肝臓を病み、1909(明治42)年に療養先の京都で草葉の露と成りました(享年29歳)(△6のp219~220)。

写真4-6:旧浜寺公園派出所。 左は公園の中央入口脇のレトロな交番・旧大阪府堺南警察署浜寺公園派出所(昭和7(1932)年築)で、今は使われず無人です。屋根が神社の様な形で、建物部分が洋風です。
写真4-7:浜寺駅前駅に出入りする阪堺電車。 そして右が浜寺駅前駅に入って来るチンチン電車と出て行くチンチン電車が擦れ違う場面です。
 さあ、これで浜寺公園とも我が阪堺チンチン電車ともお別れです。さらば、チン電!!

 (7)大鳥神社

 さて、浜寺公園を後にし大きな屋敷が建つ大阪高石線の道を東に向かうと和泉国一の宮・大鳥神社(又は大鳥大社、※11)(鳳北町1丁)が在ります。5万㎡の境内は広大でJR阪和線鳳駅から数分です。
写真5-0:大鳥神社の紋。写真5-1:大鳥神社の鳥居。 左が神社の紋、右の写真が西の大鳥居です。御祭神は日本武尊(※11-1) -境内には尊の像が在る- と大鳥連祖神(おおとりのむらじのみおやのかみ)で、延喜式神名帳の明神大社です。
 社名の大鳥やこの辺りの地名の鳳は、一つは【脚注】に記した日本武の白鳥化成伝説(※11-2)、もう一つは昔白鳥が飛来して一夜にして種々の樹木が茂り「千種の森」に成り境内に成ったというもので、何れも社の起源と伝えられて居ますが、元々は古代の豪族・大鳥氏が大鳥連の祖神を奉ったのが始まりと考えられます。大鳥連祖神は天種子命(※12)であるとも天児屋根命の後裔(※12-1)とも言われる神で、「千種の森」の話は天種子命から来ているのでしょう。天児屋根命と言えば中臣氏即ち藤原氏の祖神です。
写真5-2:大鳥神社の本殿。

 左が「千種の森」の中で古式を伝える大鳥造りの本殿ですが、現社殿は明治時代の再建です。嘗ては大鳥五社と言われて居た時代も有ったそうで、それは爾波比(にはひ)、鍬靱(くわゆき)、浜、井瀬と合わせて呼ばれた名称で、今はこれらは境内摂社・大鳥美波比神社に合祀されて居ます。
 


写真5-3:平清盛・重盛父子の神馬献呈の歌碑。
 境内には平治元(1159)年熊野詣の途次祈願し和歌と神馬を献じたという平清盛・重盛父子の歌碑(右の写真)が在り、この社の大宮司を務めた富岡鉄斎(※13)の筆で下記の清盛の歌が刻まれて居ます。

    かよいこぞよ 帰りはてなば
     飛びかけり 育み立てよ
      大鳥の神
                    平清盛


    ◆関東の「おおとり神社」と「酉の市」と土師氏
       - 和泉の大鳥神社は無関係

 ここで少し関東の「おおとり神社」について記します。関東の「おおとり神社」 -大鳥/大鷲/鷲などと書く- は日本武尊を祭神とすることから中世には武士の信仰を集めた神社ですが、江戸時代に成り商売の神に転じて行きました。関西ではそれ程では無いですが、関東では11月の酉の日の「酉の市」(※14)が江戸時代後半から非常に盛んに成り庶民は商売繁盛・家内安全を祈願します。
 関東の「おおとり神社」の祭神は大鳥大明神とも呼ばれ、元来穀物の神とされて居るのです。それは日本の稲作は「大鳥(=鶴・鷲・白鳥など)が稲穂をくわえて来て落とした」ことに始まったとする穂落し伝説(△7のp283)が在るからです。その穀神が江戸・東京の庶民の間で商売繁盛の神に転化したのです、最初は水商売の人々から広まって行った様です。そういう訳で関東の「酉の市」に売られる縁起物の熊手には必ず稲穂が付いているんですね。尚、「酉の市」については
  浅草、もう一つの風景(Another scene of Asakusa, Tokyo)

をお読み下さい。

 ところで、関西の人は「酉の市」って関西の十日戎とそっくりやんけ?!、とお思いに為るのではないでしょうか。そうです、関西では新年1月の十日戎が盛んな反面「酉の市」は行われません。逆に関東では11月の「酉の市」が盛んです。しかし、どちらも商売繁盛の神様で、どうやら庶民より神社の方が一枚上手の様です。
 そして「日本最古の戎神」がここから遠く無い、先程見て来た石津太神社に祀られて居るんですね、何か不思議な取り合わせです。
 関東の「お酉様」と言われる神社は、埼玉県の鷲宮神社の様に古くは「土師宮(はじのみや)」と言われ、土師器(※3-3)や埴輪(※3-4)を造る土師氏に関係が深いのですが、これに付いては別のページで考察を載せる予定ですので暫くお待ち下さい。
 「関東の土師氏」についてのページがやっと出来上がりました(←「暫く」が10年以上掛かった!)ので、▼下▼にリンクを張ります。実は和泉国一の宮(=堺市鳳北町)の大鳥神社が全国の「おおとり神社」 -大鳥/大鷲/鷲などと書いて「おおとり」と読む- の総本社ですが、「酉の市」土師氏には無関係なのです。その問題については▼下▼で論じて居ます。{このリンクは2014年9月27日に追加}
  「おおとり神社」と土師氏(Otori shrine and Haji-clan)

              ◇◆◇◆◇

 和泉の大鳥神社から東に3.3km程のニサンザイ古墳の少し南に土師町という地名が在るということと、土師姓の始めは「相撲(角力)の祖」にして埴輪制度を作った野見宿禰(※3-1)だということを指摘するに留めます。その野見宿禰が領地を貰い神主を務めたという伝承を持つのが先程の石津神社なのです。

    ◆大鳥神社と行基、そして花摘祭

 大鳥神社は和泉国一の宮ですから当然ここは旧和泉国ですが、ここはもう河内国の国境にも近い所で、河内国にも大鳥郡が在りました。そこで生まれたのが百済系の高志氏出身の行基(※15)で、現在の家原寺近くです。道路や橋を造り、寺社を造営し、行基図という地図を作ったり、行基焼という焼き物を焼いたりして民衆を教化した人で、百済の先進技術を応用した訳です。そう言えば石津川の上流には百済川が在ります。堺編で行基の名を挙げて置きましたが、この人も今の堺の人です。そして行基は聖武天皇の勅願に依って神宮寺として大鳥神社境内に勧学院神鳳寺を建立しましたが明治の神仏分離政策に拠り廃寺と成りました。地名の「鳳」はこの寺に因んで居るそうです。
写真5-4:花摘祭の稚児行列。
 4月13日花摘祭は平安時代から続く可憐な祭で、野の花を摘み神に献じる神事です。左の写真が、稚児行列が神社参道の神馬像の前を通過し右手の本殿に向かう所です(04年4月13日撮影)。
 左の写真で緑色の装束を着た5人の花摘女(はなつみめ)が今日の主役です。

 本殿到着後は花摘女が籠に入れた花を神主に献じる献花の儀が行われます(左の写真)。
 右が本殿の階段の下で、緊張した表情で次の順番を待つ花摘女です。
 又、菖蒲園には10万本ものの菖蒲が在るそうで、毎年6月には一般公開されます。

 さて、ここ迄「私の庭」です。阪堺電車も終点迄来て居ますし、「私の庭」パトロール記のこのページは本来ならここで終わるのが妥当なのですが、折角ここ迄来た序でにもう少し足を伸ばしてみることにします。で、何処迄行くの?、と問われれば「高師の浜」が尽きる所迄、です。

 ■「私の庭」から食み出して - 浜寺リゾート・コースは未だ続く

 大鳥神社から浜寺公園迄戻り、しかしもう公園には入らず公園沿いの海岸通りを南に進みます。すると間も無く高石市に入ります。「たかいし」は高師の浜の「たかし」に由来して居ます。更に「高師」の由来は?、...その為に「高師の浜」が尽きる所迄行くのです。ここからは「+α」の旅です。

 (1)羽衣伝説の地

 高石市羽衣に入ると一段と別荘的雰囲気が増し、瀟洒な邸宅を所々に目にします。大体は洋風建築が多いのですが、中には白壁の土蔵を備え庭に松を配した純日本調の古風な家も在ります。左下の写真がそれで、浜寺公園(羽衣公園丁)近くに在る和風の屋敷です、庭の松の枝振りが実に好いですね。
写真6-2:浜寺カトリック教会。 そして右が浜寺カトリック教会(高石市羽衣2丁目)、この教会の庭にはマリア像も在ります。
写真6-1:羽衣の和風屋敷。
 何一つ不自由無く、上の写真の様な家に住み『源氏物語』などを繙いて、日曜日には教会でミサを歌い、そして夏には松林が連なる海辺で静かに海水浴を楽しむ、という自分の姿を想像してみて下さい。一部の人々の贅沢ではありましたが確実にそういう生活スタイルが存在して居たのです。時代的には大正ロマンの頃がピークだったのでしょう。その後日本は世界大戦に突き進み戦後この辺りは駐留米軍に13年間接収されました、流石に米軍は良い所に眼を付けますね。しかし米軍に払い下げられた直後、海浜は潰され石油コンビナートが出現したという訳です。明治の「世のあだ波」は防ぎましたが、昭和の「世のあだ波」 -それは世界大戦でも無く米軍でも無く、「高度経済成長」という拝金主義を盲信した”日本人自らの手”に依る自殺行為- に飲み込まれて仕舞ったのです。で、又問いますが、それ程の見返りが有ったんでっか?!

 そして羽衣、そうです、ここはあの羽衣伝説の残る地(※16)なのです。これは世界的に分布する白鳥処女説話(※16-1)の変形の一つと考えられて居ます。そして羽衣を纏った天女は決まって美しい松原に降臨するのが、日本各地の羽衣伝説に共通して居ます。それだけ「高師の浜の松」は美しかった証拠で、ダテに古(いにしえ)から歌に歌われた訳では無いのです。
 左下が南海本線羽衣駅の直ぐ東の風見鶏と時計が有る建物、この建物の1階は喫茶店です。
 そして南海本線の羽衣駅の北東直ぐ近くにはJR羽衣線の東羽衣駅が在るのですが、この支線は鳳駅からたった1駅のピストン運行をして居ます。何で?、と言えばこれが驚きです。この駅は元は阪和浜寺駅と言って、昭和4(1929)年開通時は天王寺駅と直通、ノンストップの急行が海水浴客を乗せて走った完璧なリゾート線だったのです。その後昭和19(1944)年に阪和浜寺駅を東羽衣駅に浜寺支線を羽衣線に改称し、戦後浜寺地区が米軍に接収されてからは物資輸送中心のピストン線に成り、以後それが固定化したという訳です。
写真6-3:南海・羽衣駅近くの風見鶏のある建物。写真6-4:羽衣浜神社。 更に海岸通りを進むと羽衣浜神社(羽衣5丁目)が在ります(右の写真)。社の由緒書に拠ると、御祭神は両道入姫皇女(ふたじいりひめのみこと)で、創祀は文武天皇の慶雲3(706)年の式内社です。神社の幕には「守」という字が染め抜かれて居ます。
写真6-5:羽衣浜神社のロゴマーク。 境内手水舎の井戸水は古くから霊泉として近郷近在から拝戴されて来たそうで、境内には井戸守稲荷大明神を奉る井戸守稲荷社が在ります。右は神社裏の倉庫に描かれて居た十六花弁菊花紋と羽衣のロゴマークです。

 (2)南海の伽羅橋駅 - 「浜の寺」大雄寺跡

 羽衣浜神社から南へ300m位行くと南海高師浜線の伽羅橋駅(きゃらばしえき)という小さな駅が在ります(左下の写真)。この駅の駅前広場が伽羅橋公園(羽衣5丁目)で、公園と呼ぶには余りにも狭いので地元の人にも公園名は知られて居ませんが、そこに「大雄寺跡」の石碑(右下の写真)と「大雄寺由緒」と書いた説明板が在ります。
写真7-1:南海高師浜線の伽羅橋駅。写真7-2:「大雄寺跡」の石碑。
 私がわざわざ見に来たのはこれです、この「大雄寺跡」の石碑こそ「浜寺」の地名起源に成った大雄寺のことを現地に於いて記して居る唯一の手掛かりなのです。
 南北朝の正平年間(1346~1367年)に南朝の後村上天皇の勅願に依り三光国師(※6)が建立したのが、七堂伽藍を備え京の南禅寺にも比べられたという大雄寺で、南朝方の拠点として北朝方の家原寺(堺市家原寺町1丁)と対峙して居ました。その頃吉野の日雄寺を「山の寺」、高師の浜に在る大雄寺を「浜の寺」と呼び習わしたのが「浜寺」の地名の起こりです。その後大雄寺は応仁の乱で焼失して仕舞いましたが、江戸時代の古地図や昭和30(1955)年の発掘調査で、伽羅橋遺跡(高師浜1丁目付近)から平安後期~室町初期(1150~1350年)の瓦や南宋末(1200~79)と思われる青磁皿破片などが発見され、この付近に嘗て大雄寺が在ったことが証明されました。そして江戸時代の古文献に拠ると、伽羅橋は千貫橋とも言われ、大雄寺門前を流れる芦田川上の紀州街道に架けられた橋だったそうで、一説に拠るとこの橋板が伽羅(※17)と呼ばれる香木で出来ていて銭千貫に値した、とも言われて居ます(△1のp231)。
 現在、慶応元(1865)年製の橋を、臨海部の高砂公園に移築保存して居て、芦田川には海岸通りに同名称の新しい橋が存在します。

 (3)南海の高師浜駅

 左下が南海高師浜線の終点・高師浜駅舎です。この駅は大正8(1919)年に建てられたもので、やはりステンドグラスが嵌め込まれて居ます。南海高師浜線は先程の南海本線の羽衣駅から出ている支線で、羽衣駅の次が伽羅橋駅、その次がここです。たった2駅間を2輌編成の電車がピストン運行して居ます。こういうの”盲腸線”と言うらしいのですが、こういう場末な支線、私好きですね。この駅の近くにも瀟洒な洋館が建って居ます。
 そして駅に着いたら駅前の石畳の広場にニャンコ達が居ましたね(右下の写真)、手前が母猫の三毛で、駅の売店で餌を貰って居ます。子猫は茶トラとその後ろの黒と、写って居ない白ブチの3匹でしたが、親子全く色が違います。これ本当の親子なんですかねえ?、でも母猫は子猫の面倒を良く見て居ました。ニャーオ(←これは猫への挨拶です)。
写真8-1:南海・高師浜駅舎。写真8-2:南海・高師浜駅広場のノラ猫。
写真8-3:南海・高師浜駅広場の「浜寺俘虜収容所」の写真。
 ところで、この駅前広場には「浜寺俘虜(捕虜)収容所跡」の立て札が立って居ました。右の写真がその立て札のタイトル部と収容所風景の写真を抜き出したものです。それに拠ると1904年に始まった日露戦争で、当時の高石村の人口が3,500人の所へ28,000人(=村人口の8倍)ものロシア人俘虜を収容したと在ります。1906年迄には全員ロシアへ送還したらしいですが、今日の高師浜2・4丁目、千代田2・4・6丁目辺りの整然とした区画はその時の名残だそうです。
 フーム、そう言えばこの「千代田」なんて言う町名も怪しいですね。日本が満州を支配統治した時も千代田区を作りましたから、ここの千代田に軍部の収容所管理の司令部でも在ったのでしょう、多分。これは又思わぬことを知りました。実は「大坂編」の天下茶屋にもロシア人俘虜収容所が在りました。{天下茶屋の俘虜収容所の記事は05年6月28日に追加}
 そして今、私は或る動機から徳島県板東のドイツ人俘虜収容所の話を書いて居ますが、その初稿が出来上がりましたのでリンクを張ります。この2作は非常に力(りき)が入ってますゾ!
  板東のドイツ人俘虜たち(The German captives in Bando, Tokushima)
  日本に於けるベートーヴェンの第九(Beethoven's Symphony No.9 in Japan)

 俘虜は戦争に因って生じます。以後二度と再び戦争をしない決意とその決意を実行する不断の努力が必要です。{このリンクは05年12月9日に追加}

 (4)高石神社

 この高師浜駅の東側に高石神社(高師浜4丁目、左下の写真)が在ります。白雉元(650)年創建とも言われる式内社で、古くは天神社と言われて居たそうですが、現在の御祭神は少彦名神天照皇大御神熊野坐三社で、今の社殿は寛永12(1635)年の再建です。『和泉名所図会』に「高志の祖・王仁を祀る」と記されて居る”曰く有り気”な神社です。そもそも高師浜の「高師」はこの「高志(こし)」に由来して居る訳で、先程の行基をも含め、百済系の高志氏がこの地を開拓して住んで居たと考えられます。そして

  高志(こし)氏 → 高師(こし→たかし)の浜 → 高石(たかいし)市

と変容して居るのです。
 又この近くからは羽衣海岸遺跡(古墳中期)、羽衣砂丘遺跡(弥生後期~奈良前期)などが発見され、「高師の浜」は少なくとも弥生時代から人々が暮らし、渡来系の人々も古くから住み着いて居た地域なのです。

写真9-1:高石神社。写真9-2:高石神社境内の祐子内親王家紀伊の『小倉百人一首』歌の歌碑。 神社境内には浜寺公園で既に紹介した、祐子内親王家紀伊の『小倉百人一首』72番歌を刻んだ歌碑が在ります(右の写真)。高さ2m位の大きな碑ですが、苔むして居て従三位富小路貞直の筆跡は読み難く成って居ます。
 彼女が詠んだ「あだ波」に因み、仇浪橋という橋が浜寺公園の最南端の羽衣4丁目に架かって居ます。

 これでどうやら、「高師の浜」が尽きる所迄来た様です、もう思い残すことは有りません。以上で私の「阪堺電車沿線+α」の旅を終わることにしましょう。

 ■結び - <その1>大阪編・<その2>堺編・<その3>浜寺編
         の全編の纏め


写真e:ハイビスカスの花。 右の写真は浜寺カトリック教会に咲いていたハイビスカスの花(※18)ですが、仏桑華(ぶっそうげ、※18-1)から改良した園芸品種を言うそうです。中国雲南地方で良く見掛けました。
 さて、どうでしたか、大阪編・堺編・浜寺編とご覧に為って。大阪市と堺市を結ぶチンチン電車スゴイでしょ?!、今回は「私の庭」から少し足を伸ばしましたが、浜寺公園・大鳥神社迄が「私の庭」ですので、以後宜しく!
 阪堺電車沿線風景を載せている他のWebサイトは数多く在りますが、ハイソでおしゃれな所だけを上撫でしたりヨイショするだけの”毒にも薬にも成らない物”ばかりです(御免為さい!)。ローソな地帯や飛田新地や堺市の政策迄突っ込んで載せているのは、恐らくこのページだけです。従ってこのページは毒にも薬にも成りますので、皆さんで良く処方箋を練って下さい。
 しかし、これが現実です。阪堺電車は帝塚山ハイソ・コースと釜ヶ崎ローソ・コースの両方を突き抜け、これに堺の寺町・職人町やレトロな浜寺の別荘地が加わるからこそ面白いのです。そして興を冷まして居るのが臨海工業地帯です。私はそこを”押し広げ”ただけですが、古墳時代の胎動や自由都市の息吹や懐かしい大正ロマンの香り、そして現在の生活の喜怒哀楽や愚かしさ、などが肌で感じられたと思います。

  ハイソも人間、ローソも人間、切腹もロマンもゼニもスケベも、
    そして戦争も、...皆人間


なのです。
 東京にも都電荒川線が在りますが、これ程の歴史の厚みは有りませんね。昔南海ホークスの監督をして居た鶴岡一人氏が吼えた「グラウンドに銭が落ちている」という言葉が私は好きです、何よりも大阪気質を感じるからです。「旅は身近な所から」、大阪や関西はこちらが気が付けば価値有るものが身の回りに転がって居ます。皆さんも自分のグラウンドを見詰め直して下さい、屹度何かが見付かりますよ!
 これで全編の終了です。そこで私から一首

  音にきく 高師の浜の 白砂は
    世のあだ波に 掻き消されけり        
月海


 白い砂浜と青い海が失われたのは残念ではありますが、明治の元勲の御蔭で松林だけは浜寺公園として残りました。過去の過ちを肝に銘じ、残る松林だけは大切な財産として守って行く必要が有る、今そんな想いで一杯です。
 この連作の最後迄お読み戴き、どうも有り難う御座いました。

                m(_=_)m

 尚、[阪堺電車沿線の風景]シリーズの他画面への切り換えは最下行のページ・セレクタで行って下さい。(Please switch the page by page selector of the last-line.)

 ◆◆◆参考資料 - 現在の大阪府下の漁港

 2003年末現在の大阪府下には以下の12の漁港が在ります。

 所在市町    漁港名          漁港種別
  堺市    堺(出島)漁港        第1種
        石津漁港           第1種
  高石市   高石漁港           第1種
  岸和田市  岸和田漁港          第2種
  泉佐野市  佐野漁港           第2種
  田尻町   田尻漁港           第1種
  泉南市   岡田漁港           第1種
  阪南市   西鳥取漁港          第1種
        下荘(しもしょう)漁港    第1種
  岬町    淡輪(たんのわ)漁港     第1種
        深日(ふけ)漁港       第1種
        小島漁港           第1種

 第1種漁港:その利用範囲が地元の漁業を主とするもの。
 第2種漁港:第1種漁港より利用範囲は広いが、全国的な利用では無いもの。
  <出典:大阪府の公式サイト中の「空から見た大阪の漁港」より>

φ-- おしまい --ψ

【脚注】
※1:リゾート・コース(resort course)とは、私の造語で、別荘地・避暑地コース。モダン・ハイカラ・リッチがキーワードです。往時のモダン・ハイカラ・リッチを今の私たちはレトロ(retrospective)と呼びます。
※1-1:レトロ(retro[仏])は、復古調懐古的。或る時代の様式を真似た様(さま)。又、それを好むこと。「―なインテリア」「―趣味」。

※2:恵比須/恵比寿/夷/戎/蛭子(えびす)とは、夷と同源。七福神の一。元は兵庫県西宮神社の祭神の蛭子命(ひるこのみこと)。海上・漁業の神、又、商売繁昌の神として信仰される。風折烏帽子(かざおりえぼし)を被り、鯛を釣り上げる姿に描く。3歳迄足が立たなかったと伝えられ、歪んだ形や不正常な様の形容に用い、又、福の神に肖(あやか)ることを願って或る語に冠し用いたとも言う。
※2-1:蛭子(ひるこ)とは、日本神話で、伊弉諾(いざなぎ)・伊弉冉(いざなみ)2神の間に最初に生れた子。3歳に成っても脚が立たず、流し捨てられたと伝える。又、天照大神の別名「大日孁命・大日霊命(おおひるめのみこと)」に対して、「日る子」の意で、男性の太陽神が存在したものとも言う。中世以後、これを恵比須として尊崇。蛭の子(ひるのこ)。古事記上「子(みこ)―を生みたまひき」。
※2-2:古事記(こじき)は、現存する日本最古の歴史書。3巻。稗田阿礼が天武天皇の勅で誦習した帝紀及び先代の旧辞を、太安万侶が元明天皇の勅に依り撰録して712年(和銅5)献上。上巻は天地開闢から鵜葺草葺不合命(うがやふきあえずのみこと)迄、中巻は神武天皇から応神天皇迄、下巻は仁徳天皇から推古天皇迄の記事を収め、神話・伝説と多数の歌謡とを含み乍ら、天皇を中心とする日本の統一の由来を物語る。ふることぶみ。

※3:天穂日命(あまのほひのみこと)は、日本神話で、素戔嗚尊と天照大神の誓約(うけい)の際に生れた子。天孫降臨に先立ち、出雲国に降り、大国主命祭祀の祭主と成る。出雲国造らの祖とする。千家氏(=出雲大社の宮司)はその子孫と言う。又、その子が天夷鳥命(あまのひなどりのみこと)で、武蔵国造や近江国造などの祖とされる。
※3-1:野見宿禰(のみのすくね)は、天穂日命の子孫。日本書紀に、出雲の勇士(いさみびと)で、垂仁天皇の命に拠り当麻蹶速(たいまのけはや)と相撲(角力)を取って勝ち、朝廷に仕えたと在り、又、皇后・日葉酢媛の葬儀の時、殉死に替えて埴輪の制を案出土師臣(はじのおみ)の姓(かばね)を与えられたと言う。
※3-2:土師部(はじべ、はにしべ)は古代、大和朝廷に土師器を貢納した品部。北九州から関東地方迄各地に分布。埴輪の製作葬儀にも従事。
 土師氏は、天穂日命を祖とし埴輪の制を作った野見宿禰が「相撲(角力)の祖」と成り土師姓を賜わったことに始まる。土師氏からは菅原氏(道真など)、大江氏(広元など)が出て文章道(もんじょうどう)の名家に成る。菅原氏からは高辻氏、五条氏(代々相撲の司家)、清岡氏、桑原氏、前田氏(利家など)が派生。大江氏(初めは大枝と書いた)からは秋篠氏、中原氏、毛利氏(元就など)、長井氏、上田氏、北大路氏などが派生して居る。
※3-3:土師器(はじき)は、弥生土器の系譜に繋がる、古墳時代以降の素焼の赤褐色の土器。文様は少なく、実用的で、煮炊きや食器に用いるものが多い。
※3-4:埴輪(はにわ)は、古墳の上や周囲に立て並べた土製品。円筒埴輪形象埴輪とが在り、後者は人物・動物・器具・家屋などを象(かたど)ったもの。前者は筒形のもので、弥生土器の祭祀用の器台から発展したとされる。垂仁紀「其の土物(はに)を始めて日葉酢媛命の墓に立つ。仍りて是の土物を号(なづ)けて埴輪と謂ふ」

※4:「やっさもっさ」とは、(労働の際の掛け声から)大勢寄って集(たか)っての取り込み。どさくさ。大騒ぎ。揉め事。浄、新版歌祭文「さつきの―取りのぼしたか頭痛もする」。「取り込みがあって―する」。

※5:茅渟(ちぬ)は、クロダイの異称。関西以西で言う。茅渟鯛。又、大阪府南部の和泉国に当たる地域の古称でもある。血沼。千沼。千渟。智努。

※6:孤峰覚明(こほうかくみょう)は、鎌倉後期~南北朝期の禅僧(1271~1361.5.24)。諱は覚明、字は孤峰。陸奥国会津の平氏の出身。国済国師とも。17歳で出家、延暦寺で受戒、8年間天台宗を学び後紀伊国興国寺で無本覚心に師事。1311(応長元)年に元に渡り帰朝後鎌倉の建長寺、能登国永光寺に参じ、出雲国宇賀荘で雲樹寺を開創。伯耆国の船上山に在った後醍醐天皇に招かれ勅問に答えた。正平年間(1346~67年)に南朝の後村上天皇の勅願に依り高師浜に大雄寺を建立。<出典:「日本史人物辞典」(山川出版社)>

※7:「いけず」とは、(「行けず」の意から、主に関西の方言)[1].強情なこと。意地の悪いこと。又、そういう人。いかず。
 [2].悪者(わるもの)。成らず者。浄、夏祭浪花鑑「今も今とて―達がわつぱさつぱ」。
 補足すると、関西では「いけずう」とか「いけずー」の様に、語尾にアクセントを付け伸ばす。

※8:辰野金吾(たつのきんご)は、建築家(1854~1919)。佐賀県生れ。東大教授。日本銀行本店東京駅などを設計。

※9:ハーフティンバー(half timber)とは、(半木造の意)骨組が木造で、土台・柱・斜材・梁などを組み合わせた軸組の間に、煉瓦・石などを充填する建築構造。

※10:コンドル(Josiah Conder)は、イギリスの建築家(1852~1920)。1877年(明治10)工部大学校教師として来日。東京帝室博物館・鹿鳴館・ニコライ堂などを設計・建築。東京で没。日本の近代建築に多大な影響を及ぼす。

※11:大鳥神社(おおとりじんじゃ)は、大阪府堺市鳳北町に在る元官幣大社。祭神は大鳥連祖神日本武尊。和泉国一の宮。社名は日本武尊が、死後大鳥と成って飛び去ったという神話に基づく。<出典:一部「学研新世紀ビジュアル百科辞典」より>
※11-1:日本武尊/倭建命(やまとたけるのみこと)は、古代伝説上の英雄。景行天皇の皇子で、本名は小碓命(おうすのみこと)。別名、日本童男(やまとおぐな)。大碓命は双子の兄。天皇の命を奉じて熊襲(くまそ)を討ち、後に東国を鎮定。往途、駿河で草薙剣(くさなぎのつるぎ) -三種の神器の一つの天叢雲剣(あまのむらくものつるぎ)の別名- に依って野火の難を払い、走水(はしりみず)の海では妃弟橘媛(おとたちばなひめ)の犠牲に依って海上の難を免れた。帰途、近江伊吹山の神を征そうとして病を得、伊勢の能褒野(のぼの)で没したと言う。没後、白鳥化成伝説が在る。
※11-2:日本武の白鳥化成伝説(やまとたけるのはくちょうかせいでんせつ)とは、日本武が伊勢の能褒野で没した後、その屍が八尋白智鳥(やひろしろちどり=大きな白鳥)と化し御陵を出て大和国琴引原河内国古市を経て最後に和泉国大野里に留ったという伝説。

※12:天種子命(あまのたねこのみこと)は、日本神話で、天児屋根命の孫(一説に子)。神武天皇の即位に天つ神の寿詞(よごと)を奏し、後に祭祀を司ったと言う。中臣氏の祖
※12-1:天児屋根命(あまのこやねのみこと)は、日本神話で、興台産霊(こごとむすひこ)の子。天岩屋戸の前で、祝詞を奏して天照大神の出現を祈り、後に天孫に従って降った五部神(いつとものおのかみ)の一で、その子孫は代々大和朝廷の祭祀を司ったと言う。中臣藤原氏の祖神とする。
※12-2:五部神/五伴緒神(いつとものおのかみ)とは、日本神話で天孫である瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)に従ってこの国に降った五神天児屋根命(あまのこやねのみこと)・太玉命(ふとたまのみこと)・天鈿女命(あまのうずめのみこと)・石凝姥命(いしこりどめのみこと)・玉祖命(たまのおやのみこと)の総称。

※13:富岡鉄斎(とみおかてっさい)は、南画家(1836~1924)。名は百錬。京都生れ。幼少の頃、大田垣蓮月に預けられ、国学を大国隆正に学び、又、儒学・詩文・仏典を修め、維新後、石上神宮・大鳥神社の宮司と成る。大和絵から南画に進み、高逸な画風で新生面を開いた。

※14:酉の市(とりのいち、rooster bazaar)は、11月の酉の日に関東の大鷲神社鷲神社大鳥神社(何れも読みは「おおとりじんじゃ」、関東には多い)で行われる祭。初酉の日を一の酉と言い、順次に二の酉・三の酉と呼ぶ。特に東京下谷(今の台東区千束)の鷲神社の祭は名高く、縁起物の熊手などを売る露店で浅草辺迄賑わう。三の酉迄有る年は火災が多いという俗信も有る。お酉様。酉のまち。季語は冬。

※15:行基(ぎょうき)は、奈良時代の僧(668~749)。河内国大鳥郡の人。道昭に師事。畿内を中心に諸国を巡り、民衆教化や造寺、池堤設置・橋梁架設等の社会事業を行い、行基菩薩と称された。初め僧尼令違反で禁圧されたが、大仏造営の勧進に起用され、大僧正位を授けられる。
 行基図:行基が作ったと言われる最初の日本地図。現物は存在せず、江戸初期迄の日本全図の総称と成った。
 行基葺:屋根の葺き方の一。本葺(ほんぶき)に於いて、丸瓦の一端が他端より細く、後の瓦の太い方で、前の瓦の細い方を覆う様に順々に重ねて葺いたもの。奈良の元興寺極楽坊の屋根など。
 行基焼:(行基が創めたものと言う)和泉国大鳥郡陶荘(すえのしょう)(大阪府堺市)で作ったと伝える素焼で鼠色の須恵器。又、広く粗雑な須恵器全般の称。

※16:羽衣伝説(はごろもでんせつ)とは、天女が水浴中に羽衣を盗まれて天に帰れず人妻と成って暮す内、羽衣を探し出して昇天するという伝説。駿河国三保松原(有度浜)、近江国伊香小江(いかごのおえ)、丹後国比治山などに在るものの他、全国に類似のものが多い。
※16-1:白鳥処女説話(はくちょうしょじょせつわ)とは、世界的に分布する説話の一。白鳥などの動物が若い女性の形で現れ、人間の男性がその衣を奪って強制的に妻とするが、女性は衣を取り返し、動物に復帰して飛び去るもの。日本の羽衣伝説はその一

※17:伽羅(きゃら、agallochum)は、多伽羅(tagara[梵])の略。香木の種類。沈香の最上の種類。日本では最も珍重された。
※17-1:沈香(じんこう、eaglewood, agalloch)は、ジンチョウゲ科の常緑高木。又、それから採取した天然香料。熱帯アジアに産し、高さ約10m。木質堅く、水に沈むのでと言う。花は白色。土中に埋め、又は自然に腐敗させて香料を得、光沢有る黒色の優良品を伽羅と言う。材は高級調度品にも用いる。沈水香。沈。

※18:ハイビスカス(hibiscus)は、アオイ科フヨウ属の熱帯性常緑低木で、ブッソウゲ(仏桑華)などを親として観賞用に改良された園芸品種群の総称。現在では3000以上の品種が在り、大部分はハワイで作出された。花の基本形は5枚の花弁、長く突き出た雌蕊(めしべ)、それを取り巻く雄蕊筒である。高さ2~5m。熱帯を代表する花として世界の暖地で広く栽培され、ハワイの州花、マレーシアの国花。ヒビスクス。<出典:一部「学研新世紀ビジュアル百科辞典」より>
※18-1:仏桑華/仏桑花、扶桑華/扶桑花(ぶっそうげ、China rose)は、アオイ科の常緑低木。中国南部の原産。高さ約1~3m。夏から秋に、大形で紅色、又は白色のムクゲに似た一日花を付ける。雌蕊(めしべ)は長く、その周囲に多数の雄蕊が合体。扶桑仏桑。園芸品種がハイビスカス。季語は夏。<出典:一部「学研新世紀ビジュアル百科辞典」より>

    (以上、出典は主に広辞苑です)

【参考文献】
△1:『南海本線歴史散歩』(中井一水著、鷹書房)。

△2:『古事記』(倉野憲司校注、岩波文庫)。

△3:『万葉集(上)』(佐佐木信綱編、岩波文庫)。

△4:『君も雛罌粟われも雛罌粟(上) 与謝野鉄幹・晶子夫妻の生涯』(渡辺淳一著、文春文庫)。タイトルの雛罌粟は「こくりこ」と読みます。「ひなげし」のこと。漢名は虞美人草。

△5:『みだれ髪』(與謝野晶子著、角川文庫)。

△6:『山川登美子 「明星」の歌人』(竹西寛子著、講談社)。

△7:『日本の神様[読み解き]事典』(川口謙二編著、柏書房)。

●関連リンク
参照ページ(Reference-Page):阪堺電車沿線の石津や浜寺の地図▼
地図-日本・阪堺地区(Map of Hankai area, Osaka -Japan-)
参照ページ(Reference-Page):「相撲(角力)の祖」について▼
資料-日本の相撲の歴史と仕来たり(History and custom of Sumo in Japan)
参照ページ(Reference-Page):日本の旧暦の各月と季節▼
資料-「太陽・月と暦」早解り(Quick guide to 'Sun, Moon, and CALENDAR')
参照ページ(Reference-Page):『小倉百人一首』72番歌▼
資料-小倉百人一首(The Ogura Anthology of 100 Poems by 100 Poets)
補完ページ(Complementary):関東の土師氏▼
「おおとり神社」と土師氏(Otori shrine and Haji-clan)
傀儡師と戎舁きについて▼
人形浄瑠璃「文楽」の成り立ち(The BUNRAKU is Japanese puppet show)
「私の庭」について▼
ここが「私の庭」だ!(Here is the territory of Me !)
辰野金吾設計の東京駅▼
恥ずかしや深谷の”東京ステンショ”
(Shameful Fukaya station, Fukaya, Saitama)

「酉の市」について▼
浅草、もう一つの風景(Another scene of Asakusa, Tokyo)
関東の「酉の市」と土師氏の関係について▼
客観主義のエルニーニョ的転回(ElNino-like change of objectivism)
他にも在る廃線に成った”盲腸線”▼
[人形浄瑠璃巡り#3]大阪市西成([Puppet Joruri 3] Nishinari, Osaka)
四国板東のドイツ人俘虜収容所について▼
板東のドイツ人俘虜たち(The German captives in Bando, Tokushima)
日本に於けるベートーヴェンの第九(Beethoven's Symphony No.9 in Japan)
中国雲南省で良く見たハイビスカス▼
2002年・雲南タイ族民家宿泊記(Homestay at Dai's-house, China, 2002)
当サイトは「毒にも薬にも成る」ことを宣言▼
エルニーニョの打っ棄り的相撲論議(ElNino's throw away Sumo discussion)
当サイトでの”押し広げ”の意味▼
性本位制エーロ導入案(ERO monetary system with the 'Sex Standard')


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