§.人形浄瑠璃「文楽」の成り立ち
「文楽」03年世界無形遺産に登録]
(The BUNRAKU is Japanese puppet show)

−− 2003.11.26 エルニーニョ深沢(ElNino Fukazawa)
2007.06.20 改訂

 ■はじめに − ユネスコの「人類の口承及び無形遺産の傑作」とは
 03年11月7日のニュースで、日本の人形浄瑠璃「文楽」(※1、※1−1、※2)がユネスコの「人類の口承及び無形遺産の傑作」(以後、世界無形遺産と呼ぶ)に指定されたことを知りました。
 ユネスコに依る世界無形遺産の指定登録は2年に1回(同一年には1[件/国])行われ2001年に始まり、今回が2回目です。ユネスコは既に世界遺産の指定登録も行っていて、その「自然遺産」と「文化遺産」は日本でもすっかり浸透し今や過熱気味に成って居ますが、これは有形即ち形に見えるものが対象で必ず何処かの地域という形で不動産を指定します。それに対し世界無形遺産は目に見えない”無形の”文化 −貴重な価値を有する民俗芸能や習俗や祭礼など− が対象で、言わば日本の重要無形文化財の世界版です。第1回目は19件で日本からは能楽が指定登録され、今年の第2回が28件で日本から人形浄瑠璃が指定登録された訳です。
 尚、末尾に「人形浄瑠璃関連の略年表」を付しましたので参照して下さい。

 ■見識を示したユネスコの指定
 無形遺産と言うと日本人の多くは真っ先に歌舞伎を思い浮かべるでしょう。しかしユネスコが歌舞伎では無く能→人形浄瑠璃という順で指定した所に、海外の方が日本文化を正当に理解し評価して居るんだな、と私は思いました。私が正当と言うのは歴史的重要性という観点からの評価で、進取性と奥深さであり他の芸能に及ぼした波及性であり固有性であり洗練です。
 「侘(わび)、寂(さび)」は能楽に於いて世阿弥が、茶の利休より160年、俳句の芭蕉より280年も前に到達した美意識の極致で、その後の茶道や俳句や茶器を通じて陶芸に迄浸透して行きました。そういう意味で最初に能楽を指定して居ることに高度な見識を感じます。能はこの世ともあの世とも付かない幽玄の世界をテーマにし、人形浄瑠璃は当世の人間の「義理と人情」や心の機微をテーマにします。能面は終始表情を変えませんが、操り人形は口を開けたり眉を動かしたりして表情豊かです。人形浄瑠璃の当世の題材と筋立てはやがて歌舞伎に受け継がれて、大道具・小道具を配しより大衆化して行きます。ですから2番目に人形浄瑠璃を指定して居る所にこれ又、見識を感じる訳です。
 今回は朝鮮民族の基底に在る情念を唱い上げるパンソリ(※3)も指定されて居る様で、日本人の「怨(えん、おん)」(※4)に対し、朝鮮民族の「恨(はん)」(※4−1)ということで面白い対照だと思います。

 ■文楽と人形浄瑠璃
 さて今回の世界無形遺産への指定ニュースでは「文楽」(※2)と書かれて居ました。「文楽」という名称は【脚注】に記した様に人形浄瑠璃を上演した「文楽座」(※2−1)に由来した呼び方で、大正時代(約1910年)頃から「文楽」=「人形浄瑠璃」と成りました(→後で詳述)が、本来は人形浄瑠璃と呼ぶべきです。
 人形浄瑠璃は文字通り操り人形と浄瑠璃と言われる音曲 −元々は全く異なる背景の中で発展して来た2つの芸能− の融合に依って生まれた音楽劇です。そこで先ず浄瑠璃からその歩みを振り返ってみましょう。その作業はその儘日本の音楽の発展史を辿ることと同等だということが後でお解り戴けると思います。

 ■浄瑠璃 − 語りと三味線
 浄瑠璃は2つの要素から成ります。1つが声楽で、もう1つが器楽です。そして我が国の声楽は「謡い物」(※5)と「語り物」(※5−1)に分類され、前者はメロディーとリズムが重視され、後者は語られる物語(ストーリー)に重点が置かれて居ます。後者の代表が、琵琶法師(※6)と呼ばれる盲僧 −琵琶法師は盲僧が始めたので盲法師(※6−1)とも呼ばれた− が琵琶(※6−2)を伴奏に語る『平家物語』 −これは特に「平曲」(※7)と呼ばれた− で、時代が下ると他の軍記物語の『太平記』なども語られる様に成り、やがてそこから浄瑠璃が派生します。
 室町中期(15世紀末)に御伽草子に材を得た『浄瑠璃十二段草子』(※8) −小野お通(※8−1)が作者とする俗説が在るが作者は不詳− が琵琶法師に依って寺社で語られ大流行し、これが切っ掛けでこの様な「語り物」が「浄瑠璃節」と呼ばれる様に成り、今日言う所の「浄瑠璃」の名称起源であり浄瑠璃の発祥とされ当初は「浄瑠璃」という語は『浄瑠璃十二段草子』[を語る事]を指しましたが、今では『十二段草子』は古浄瑠璃(※1−4)という範疇に分類されて居ます(△1のp114、△2のp4〜106)。又、それ迄の語りが武士を主人公にした軍記物語、所謂「時代物」であったのに対し、『十二段草子』は東北へ追われて行く義経を語る「時代物」ではありますが、同時に浄瑠璃姫(※8−2)の悲恋という庶民の風俗・人情を取り混ぜた後世の「世話物」の先駆である事は注目点です。
 尚、「浄瑠璃」とは元々は仏教用語で【脚注】※1の[1]に在る様に「清浄・透明な瑠璃(青色の宝石)」、転じて「瑠璃の様に清浄な美しさ」を表しますが、それは中世の御伽草子が仏教説話だったからです。
 その後永禄の頃(1560年代)に琉球から伝来した三線(※9)を改造した三味線(※9−1)を沢住検校(※10)が伴奏に使う様に成り音楽性を一段と飛躍させて、現在の語りと三味線に依る浄瑠璃の原型が出来上がります。現在の文楽座の三味線弾きに竹沢、鶴沢、豊沢など「沢」の一字が付けられて居るのは「沢住」に因んで居るのです(△1のp114)。これ以後「浄瑠璃語り(声楽)と三味線(器楽)の音曲」を「浄瑠璃」と呼ぶ様に成り、浄瑠璃の語り手を浄瑠璃太夫と呼びます。

 ■傀儡師の操り人形
 一方、浄瑠璃の人形芝居は傀儡師(くぐつし)(※11、※11−1)とか木偶(でく)(※11−2)と呼ばれる漂泊の人々が、人形回しを見世物にして”どさ廻り”したことから始まります。傀儡(くぐつ)は同じ字で「かいらい」とも読みます、そう、傀儡(かいらい)政権などという使い方ですね、操り人形という意味です。木偶(でく)は「木偶の棒」などと「役立たず」の意味で使われ、元々は木彫りの人形のことです。
 傀儡師は家族や集団で一座を成し、既に奈良時代頃から人形を携帯し漂白して居た −一般には平安時代からとするのが定説の様です(※11−1)が、奈良時代に既に存在して居たことをこの章で示します− らしく、平安時代の文献にはしばしば出て来ます。鎌倉時代(約1200年)頃から寺社の境内などに定着し、人形回しや人形芝居をして居ました。発生の経緯や生活実態など不明な部分が多いのですが、1142年の大江匡房の『傀儡子記』(※12)に拠れば、傀儡師は人形回しだけで生計を立てていたのでは無いらしく、男は採取生活に近い活動もして居り女は厚化粧をし淫らな歌を歌い遊女の様だと在り(△3のp200〜201)、「傀儡女(くぐつめ)」(※11)という言葉が生じて居ます。この記述は丸でジプシー(※13) −ヨーロッパに於ける遊芸漂白の民− の生活そっくりで実に驚嘆させられます。
 約1000年頃に書かれた清少納言の『枕草子』第80段には
  心地よげなるもの 卯杖のことぶき。御神楽の人長(にんぢやう)
  神楽の振幡(ふりはた)とか持たる者。御霊会の馬の長。
  池の蓮、村雨にあひたる。傀儡(くぐつ)のこととり。


という一節が在ります(△4のp100)。「こととり」は事執り、即ち一座の長のことです。
 ところで『万葉集』巻3−293には
  潮干の 三津の海女(あま)の くぐつ持ち
    玉藻刈るらむ いざ行きて見む        角麻呂


という歌が載って居ます(△5のp123)。この歌の「くぐつ」とは莎草(くぐ、※11−3)という繊維性植物で編んだ網袋「裹」(※11−4)のことで、藻又は貝などを入れるのに用いるものです。どうも傀儡(くぐつ)の語源はこの辺りに在るのではと私は思って居ます。つまり莎草(くぐ)で編んだ網袋「裹(くぐつ)」を首から胸に掛けて中に操り人形を入れて漂泊して居たのではないか、ということですね。同類の草からは蓑(みの)・筵(むしろ)も作れる様で、これは”漂泊”には都合が好いのです。上の歌で「いざ行きて見む」は「さあ、行って見ましょう」という風に操り人形を「見る」ことを期待して居る表現です。【脚注】※11−1に、後年「胸に箱を掛けてその中から木偶人形を取り出し」と在るのは網袋が箱に替わっただけで一緒です。
 この歌が傀儡師を指すとすれば、奈良時代から(それ以前は未詳)という事に成ります。

 ■人形と浄瑠璃の融合
 そして文禄から慶長年間(1592〜1614年)頃に引田重太夫率いる西宮神社の夷舁き(※14)という人形回しの集団が沢住検校の門人・目貫屋長三郎率いる浄瑠璃語りと三味線を伴奏に『十二段草子』を四条河原で上演したのが人形と浄瑠璃の最初の共演と言われ、これが「操り浄瑠璃」(※1−2)或いは「操り芝居」(※1−3)と呼ばれ人形浄瑠璃の始まりです。人形芝居と浄瑠璃の融合は画期的で、以後操り浄瑠璃は庶民の間で人気を高め寺社の境内などで盛んに催される様に成りました(△1のp114)。
 又、寛永年間(1624〜1643年)には江戸に説経節(※15)が流行し、説経節の伴奏で糸操り人形も催されて居たことが記されて居ます。尚、説経節は後に衰微しますが、説経祭文(※15−1)から江戸末期に浪花節(※15−2)が生まれます
 さて、この頃の操り人形は足が無く、その足に相当する裾の部分から操り師が両手を突っ込み操作して居ました。人形1つを1人の人間が操る方式(=一人遣いで、これを両手突っ込み式と言います。従ってこの頃の人形の動きは上半身と両手と能面の様な顔が主体で、口とか眼とか眉や五指など細部の動きは有りませんでした。演じる際は屏風の様な衝立を立てて背景とし、操り師は衝立の前で人形を上に持ち上げ乍ら上半身全体の動きを演じていた訳です。
 貞享(1684年)頃に成って漸く操り方式の改良が試みられ、大坂で山本飛騨掾が片手で操る手妻人形(※16)を開発して人気を得ました。これは一部ゼンマイを使い動きを自動化したものです。これを機に徐々に操り方式に改良が加えられて行きます、元禄12(1699)年には初めてが付けられました。

 ■江戸浄瑠璃
 戦乱の世が治まり江戸時代に成ると、それ迄京都を中心に発展して来た浄瑠璃が拡張期を迎えます。特に江戸の武士や富裕な新興町人階級の間で音曲の浄瑠璃節が新しい語り物として受け入れられ、中でも杉山丹後掾(※17)と薩摩浄雲(※18)が寛永年間(1624〜44年)に京から江戸に下り江戸浄瑠璃の開祖と成って以後、特に音曲のみの浄瑠璃節が”習い事”として歓迎され幾つもの流派が誕生し大変隆盛に成りました。
 例えば、繊細な曲風(軟派)の丹後節を創始した杉山丹後掾からは江戸半太夫(半太夫節)や十寸見河東(河東節)など、剛健(硬派)な薩摩節(=浄雲節)を創始した薩摩浄雲からは薩摩外記太夫(外記節)や大薩摩主膳太夫(大薩摩節)や井上播磨掾(播磨節)などが派生し、そこから更に幾つもの流派が形成されて行きました。これらの流派の枝の中からやがて大輪の花が咲く事に成りますが、それは次章でお話しましょう。
 尚、「掾」の字は「掾号」と言い、江戸時代以後、主として浄瑠璃太夫の芸名に国名と共に与えられた称で、大掾・掾・少掾の3階級が在ります。

 ■竹本義太夫の登場 − 人形浄瑠璃全盛時代の幕開け
 前述の様に寛永(1624年)頃から江戸でも浄瑠璃が盛んに成り多数の流派が形成され、町中に浄瑠璃の「お師匠さん」が次々に出現して行きました。大坂では両手突っ込み式の操り浄瑠璃の人気が益々高まり、人々は寺社などの間に合わせの舞台では無く常設の芝居小屋を欲し始めました。
 そんな中で、貞亨(じょうきょう)元(1684)年に竹本義太夫(※19)が道頓堀に竹本座(※19−1)を開設し地歩を固めたことは、人形浄瑠璃を語る上で一大エポックであり、全盛時代の幕開けと成りました。竹本義太夫は江戸浄瑠璃の薩摩浄雲の枝から咲いた花です。義太夫前後の師弟関係と創始した節及びその後の音曲の発展・変化を記すと凡そ下図の様に成ります。

        <江戸時代の浄瑠璃の分派と系譜>

 薩摩浄雲→ 虎屋源太夫→ 井上播磨掾→ 清水理兵衛→ 竹本義太夫
 <薩摩節> <金平>風  <播磨節>        ┌<義太夫節>┐
                ↓          ↓      ↓
    山本土佐之橡    和泉太夫父子     宮小太夫一中 宮古路薗八
                         (都一中)
     <土佐節> + <金平浄瑠璃>  →  <一中節>  <宮薗節>
                           ↓
                         宮古路豊後掾
                         <豊後節>
                           ↓
                <常磐津節、富本節、清元節、新内節>

 この系統図を見れば義太夫の浄瑠璃、即ち義太夫節(※19−2)が当時の一つの到達点であり、以後義太夫節から様々に枝分かれして行くことが理解出来るでしょう。そしてこれ以降義太夫節は浄瑠璃の代名詞と成り、義太夫節以前の浄瑠璃を古浄瑠璃(※1−4)と呼ぶ様に成ります。

 ■竹本義太夫と近松門左衛門の提携 − 人形浄瑠璃の第1期黄金時代
 そして画期的な事が近松門左衛門(※20)との提携です。貞亨元(1684)年の竹本座の旗揚げに門左衛門の『世継曽我』を採り上げ、その2年後に彼の『出世景清』で古浄瑠璃と一線を画した竹本義太夫は門左衛門を座付作者として迎えます。この頃は世の中が安定し時代の主役に町人が台頭して来た時期と重なります。門左衛門はそんな時代の空気を敏感に感じ取り、それ迄の「軍記物」、「時代物」中心の伝統の中に、町人の「義理と人情」や時代風俗を活写した「世話物」の世界を確立させて行きます。
 そしてあの忠臣蔵の討ち入り翌年の元禄16(1703)年、実際の事件に題材を採った「世話物」の『曾根崎心中』(※20−1)が大ヒットと成り竹本座の借金を返済し「義太夫・門左衛門時代」のピークを迎えるのです。そして『曾根崎心中』に刺激されて新しい動きが起こりました。同年に義太夫の弟子の竹本采女(うねめ)改め豊竹若太夫(※21、※21−1)が血気に逸(はや)り独立するも失敗し竹本座に”出戻り”し、長年の借金を返済した義太夫は太夫職に専念する為に宝永2(1705)年に座元を初世竹田出雲(※22の[1]) −彼は「竹田絡繰」(※23)として人気を博した初世竹田近江の子で絡繰の名人− に譲ります。そして宝永4(1707)年に豊竹若太夫辰松八郎兵衛(※24)を引き連れ竹本座を脱退し再び道頓堀に豊竹座(※21−2)を再興し、座付作者に紀海音(※25)を引き入れ派手な舞台で竹本座に対抗し両座互いに競い合う「竹豊時代(ちくほうじだい)」を築きました。
 但し留意すべきは、この頃の人形は漸く足は付きましたが、1人の操り師が操作するもので、顔や指などの動きは有りませんでした。人形に「動き」が加えられるのは後述の様に、門左衛門死後のことなのです。
 元禄時代は室町時代から醸成された文化の芽が、町人階級の支持を得て上方に於いて一気に開花した時代で、上方文化のピークです。歌舞伎が人気を上げて来たのもこの頃で、江戸の初代及び2代目・市川団十郎の「荒事」(※26)に対し、大坂の初代・坂田藤十郎は近松門左衛門作の「和事」(※26−1)を演じ、互いに競い合い人気を盛り上げました。
 この様に1703年(『曾根崎心中』)〜22年(心中物の禁止(→後出))の第1期黄金時代(=義太夫・門左衛門時代、竹豊時代)は互いに芸を競った結果でした。振り返れば第1期黄金時代こそが人形浄瑠璃史上最高の絶頂期で、以後この時代を超えることは有りませんでした(→後述)。

 ■人形の改良と「三人遣い」の考案
 しかし吉宗の「享保の改革」の時代(1716〜45年)に入ると、政治・経済・文化の全てに於いて緊縮され、1723年の心中物の出版・上演の禁止令、翌24年の近松門左衛門の逝去と重なり全盛を極めた人形浄瑠璃は停滞期に入ります。
 [ちょっと一言]方向指示(次) 江戸期の”改革”時代は全て緊縮政策文化は停滞を余儀無くされて居ます。これと同じ現象は後の松平定信の「寛政の改革」(1787年〜93年)でも見られ、それ以前の田沼時代に歌麿写楽など全盛を迎えた浮世絵がやはり停滞します。写楽など消えた儘二度と姿を現しませんでした。

 しかし又、興行的に停滞したこの享保時代に人形に改良を加え、今日の所謂「文楽」の人形遣いの原型が形作られて居る事実を見逃しては為りません。人形をより表情豊かにする為に顔や手の動きが工夫され改良が加えられて行きました。享保12(1727)年に豊竹座の『摂津国長柄人柱』で初めてを開閉し、五指を動かし、を瞬きする工夫が試みられ、享保15(1730)年に豊竹座の『楠正成軍法実録』での動く仕掛けをし、享保18(1733)に竹本座の『車還合戦桜』で指先の動く工夫が実演されます。これで能面の様な顔から人間の様に(或いはそれ以上に)リアルに表情を変える人形が出来上がり、ここに表情のリアリズムが完成します。
 しかし1人の操り師でこれら全ての動きを表現するには限界が有り、遂に翌年の亨保19(1734)年に竹本座の初世吉田文三郎(※27)が手妻人形の片手操法を取り入れ、胴と顔・左手・足の操作を3人で分担して1つの人形を動かすという画期的な「三人遣い」(※28)を考案し初世竹田出雲の『蘆屋道満大内鑑』で初演しました。{このリンクは07年6月20日に追加}
 
3人で操ると為るとそれ迄の人形では小さ過ぎるので、2年後には人形を倍の大きさにし、舞台もほぼ現在に近い形が出来上がり、ここに現在の人形と舞台の原型が完成したのです。こうして見ると享保の緊縮時代は興行的には停滞しましたが人形の改良期でもあったのです。

 ■リアルな動きの「三大時代物」 − 第2期黄金時代と衰退
 緊縮が緩和されるのを待っていたかの様に享保の時代が終わると、竹本座は元豊竹座の並木宗輔(※29)・2世竹田出雲(※22の[2])・三好松洛らに合作で「時代物」を作らせ、これが次々と大ヒットし、ここに第2期黄金時代(=「三人遣い」と三大時代物の時代)を迎えます。延享3(1746)年『菅原伝授手習鑑』(※30)、延享4(1747)年)『義経千本桜』(※30−1)、寛延元(1748)年)『仮名手本忠臣蔵』(※30−2)がそれで、この三大ヒット作は纏めて「三大時代物」と呼ばれます。特に『仮名手本忠臣蔵』は実際に起こった大事件に題材を採っているヴェリズモ浄瑠璃(※30−3) −これは私の造語で本来はオペラの用語です− と言うべきもので、やはり実際に起こった心中事件を脚色した『曾根崎心中』に連なるものです。
 しかし表情のリアリズム(=生々しい写実性)に於いては人形は人間そのものには敵いません。人々は人形よりも直接的でダイナミックな役者芝居を求めました。この3本は歌舞伎の台本に書き直され、歌舞伎に於いて一層爆発的な人気を博したのです。この3本は現在でも最も上演回数の多い歌舞伎の演目です。歌舞伎に移植された「三大時代物」の成功が、皮肉にも歌舞伎を定着させ操り浄瑠璃の人気凋落を結果し、遂に明和4(1767)年に”浄瑠璃の殿堂”竹本座は廃座に追い込まれて仕舞い、第2期黄金時代は第1期には及びませんでした。
 時代は操り浄瑠璃から歌舞伎の時代への移行期だったと言えます。第2期黄金時代のリアリズムは人形浄瑠璃が自ら全盛時代の幕を閉じる仇花だったのです。その歌舞伎も”普段着”的で一層リアルなテレビに食われて仕舞っている今日の状況を見る時、この事実は教訓的です。
 1734年に考案された「三人遣い」に依って第2期黄金時代を迎えましたが、しかし「三人遣い」には当初より批判も有りました。▼下▼の[ちょっと一言]をご覧下さい。
 [ちょっと一言]方向指示(次) 『奈良柴』原盛和著、明和4(1767)年刊)という書に「人形もめったに身振りこまかに、人のごとくにつかふを上手とせず、體をくづさず、能の如くにきっとつかふに習ひ有りて、少しのつかひ方に数年心を盡し、少しばかりのおもひ入れ、ちやりのきりやうにも、種々むづかしきつかいかた、扇のさしやう、拍子のふみやう迄、朝暮心を盡すといへども、名ある人形の上手にはおよばず、今は人形一つに三四人取り付き、人のはたらく如くにするは、たがひにおもひあひたる名人なり。」と言って居ます(△1のp120〜121)。つまり昔(=一人遣いの時代)は人の動きそのもののリアル(=写実的)な動きでは無い所に名人芸が在ったが、今は「人形一つに三四人取り付き」、即ち三人遣いでは人の動きの物真似に堕している、と言って居るのです。人形浄瑠璃が歌舞伎に食われた事実を見る時、この指摘は名言だと思います。

 ■近世以降の人形浄瑠璃と文楽座の創設
 18世紀後半の凋落以降約1世紀の間、操り浄瑠璃は再び寺社の境内等を転々として何とか命脈を保って居ましたが、18世紀末に淡路出身の初代・植村文楽軒(※2−2)が大坂道頓堀高津新地に小さな小屋を立て再び盛り返しの気運を見せます。19世紀に入り2代目は難波神社の境内に「稲荷の芝居」を出したり近隣をあちこち移動しますが、3代目・植村文楽軒が文明開化間も無い明治5(1872)年に外国人居留地近くに整備された松島新地に進出し初めて「文楽座」(※2−1)を名乗ります(←因みに戦前迄は「芝居と遊郭は1セット」が常識)。この気運に乗じ明治17(1884)年には彦六座が開設され嘗ての「竹豊時代」の様に文楽座と競い合い人気を高め黄金時代に次ぐ復興時代(=文楽座・彦六座の時代)を迎えましたが、明治26(1893)年の彦六座解散以後は文楽座1座のみと成りました。3代目・植村文楽軒の中興黄金時代には遠く及びませんでしたが、大正時代(約1910年)頃から「文楽」が人形浄瑠璃を指す言葉に成ったことは既に述べた通りです。

 ところで女義太夫(娘義太夫)と夏目漱石(※31、※31−1)、浄瑠璃と夫婦善哉 −織田作之助の小説や法善寺横丁の店− などの面白い話が有りますが、それは「補遺ページ」で扱います。「補遺ページ」は▼下をクリック▼してご覧下さい。{「補遺ページ」へのリンクは06年4月7日に追加}
  人形浄瑠璃「文楽」の成り立ち|補遺(The BUNRAKU is Japanese puppet show, SUP.)
 尚、「補遺ページ」に於いて最下行の蛙(カエル)のアイコン(the icon of Frog)をクリックすれば、ここに復帰します。
                (-_*)/

 貴方(貴女)も蛙(カエル)のアイコンをクリックしましたか?、この「カエル」「帰る」に引っ掛けてあるのです、ブワッハッハッハ!!

 ■文楽座の後継 − 国立文楽劇場
 その後文楽座は大正15(1926)年に焼失し昭和5(1930)年に四ッ橋に再建されました。その後の歩みは【脚注】※2−1に記した通りです。戦後は昭和30(1955)年に人形浄瑠璃が国の重要無形文化財に指定され、昭和38(1963)年に文楽協会が運営を引き継いで今日に至って居ます。
写真1:国立文楽劇場。 そして大阪府・大阪市・関西財界の要望で昭和59(1984)年に大阪千日前に黒川紀章設計の国立文楽劇場(大阪市中央区日本橋1−12−10)が文楽座の役割を継承すべく、特殊法人国立劇場の4番目(東京以外では初)の劇場として開設されました。左がその国立文楽劇場の写真で、世界無形遺産指定のニュースの翌日(03年11月8日)に撮影したものです。
 建物は地上5階・地下2階で、主な施設は
  専用劇場(客席数753)
  小ホール(客席数159)
  展示室、図書室、研修室
です。人形浄瑠璃の専用劇場として年4回の定期公演の他、上方に所縁の深い歌舞伎や舞踊・邦楽・民俗芸能などの伝統芸能も上演、資料の収集や展示、図書室の公開、公開講座なども開催して居ます。
写真2:国立文楽劇場前での正月の鏡割りの様子。
 国立文楽劇場では毎年正月3日に玄関前で人形に依る鏡開きが行われるのも地元の年中行事の一つです(右の写真{05年1月3日に追加})。鏡開きされた御酒はここに集まった地元の人たちに振舞われます。
 因みに、ここは「私の庭」の中心 −家から徒歩10分の距離− に在りますので、以後宜しく!
 

 ■私の考察と主張 − 人形浄瑠璃の新しい”三位一体”論
 この論考を書く為に私は色々な書物を読んだりWeb検索をしたりしましたが、必ずと言って良い程出て来る言葉が人形浄瑠璃は「浄瑠璃語りと三味線と人形遣いの”三位一体”の賜」(※32)という表現です。これは浄瑠璃や日本の伝統芸能の碩学が付けた言葉で、私の様な者がこれに異を唱えるのは誠に僭越なのですが、私は以下の様に主張します。それは

  エルニーニョの新たな三位一体説の提唱:
   人形浄瑠璃の三位一体=音曲(浄瑠璃語り+三味線)+人形遣い劇作家


ということです。つまり浄瑠璃語りと三味線は音曲(=人形芝居の伴奏)ということで1つに括れる訳で、音曲(浄瑠璃語りと三味線)と人形遣いの二者合体に台本書き(=優れた戯曲を書ける劇作家)を加えようということです。事実、人形浄瑠璃の最大のエポックは近松門左衛門という優れた劇作家の登場で為し遂げられたのです(第1期黄金時代)。第2期黄金時代の「三大時代物」でも並木宗輔2世竹田出雲らの劇作家が居たればこそなのです。
 中世の琵琶法師時代は、例えば『太平記』の小島法師(※6−3、異説も在る)の様に、語り役が筋書を造ったと考えられる物も無くは無いです。しかし『平家物語』も琵琶法師が語る以前に物語は出来上がって居ましたし、『十二段草子』も筋は御伽草子から採って来て居ます。特に近世以降は台本書きと語り役とはスッパリと分離して、門左衛門の様な「専門の書き手」を必要として居ます。
 眼を西洋に転じて見ましょう。西洋のオペラも「作曲家(台本も含む)とオーケストラと歌手(兼俳優)」という、やはり”三位一体”で構成されて居ます。音曲(浄瑠璃語り+三味線)はオペラの歌とオーケストラに対応し(オペラの上演では更に「指揮者」という纏め役が居て全体を統括しますが)、人形遣いが登場人物の演技に対応し、劇作家が作曲家に対応する、ということです。
 こう見て来ると、元々人形浄瑠璃を”創作して居た時代”は概念的には「書き手」を加えた三位一体だった筈で、”三位一体”という言葉は【脚注】に在る様に元々はキリスト教の言葉で近世には一般には使われて無かったのですが、この言葉が日本に定着した明治後期頃には人形浄瑠璃が「古典」という名の元に化石化し新作が作られず”演じるだけの時代”に入っていたので現在の「書き手」無しの三位一体説が根付いたのだと推察出来ます。
 それ故に私は「書き手」を加えた三位一体説を強く主張するものです。特に今後、義太夫・門左衛門時代の絶頂時代をもう一度復興させようとしたら、新しい浄瑠璃作家が新作を発表することが不可欠だと思います。新作が或る程度支持を得ることに依って初めて古典に光が当たり古典が見直されるのです、今はそういう時代です。歌舞伎は野田秀樹に台本書かせたりして、既に数年前から取り組んで居ますよ!
 人形浄瑠璃も世界無形遺産への登録を契機に是非新作にも取り組んで戴きたいと思って居ます。

 ■結び − 自国の文化を語れる人
 以上、「人形浄瑠璃の成り立ち」について”私の視点”で考えた見解を述べて来ましたが、如何でしたか?
 私が「浄瑠璃の歩みを振り返ることは日本の音楽の発展史を辿ることと同等だ」と言った訳がお解り戴けたのでは、と思って居ます。そして「能楽の次に人形浄瑠璃を指定したユネスコが日本の文化について”日本人以上に”高い見識を持っている」と言った意味も。そして又「人形浄瑠璃という伝統芸が発生から発展・完成、その後の衰退も含めて上方の文化である」ことも。

 【脚注】が大変多く成って仕舞いましたが、読み飛ばして下さい。しかし、このページを【脚注】無しで本文だけ読んですらすら理解出来る方は、日本の芸能史に対して相当な知識を持っている方です。逆に言えばそれ程日本の伝統芸能というものが私たちの日常から遠いものに成って仕舞ったということです、明治維新から僅か150年足らずで。
 明治以降の”西洋カブレ”の教育に依って日本人は完全に自分の拠って立つ「立脚点」を見失いました。西洋文明を咀嚼(そしゃく)して消化し乍ら摂取するのは大いに大切な事ですが、カブレて鵜呑み・丸呑みして追随して居るだけでは行けません。気が付いたら「西洋人の方が日本文化の本質を良く理解して居る」というのが現状です。それだけでは無く「日本を語れる日本人」が絶滅し掛かっていることを、私は大変危惧して居ます。
 今、「観光立国」を宣言した国の国民が、世界無形遺産に指定された自国の人形浄瑠璃をどれだけ語れるでしょうか?

 この論考の初稿を掲載してからほぼ1年経ちました。そこで愈々[人形浄瑠璃巡り]シリーズを「日本再発見の旅」のコーナーに連載します。先ずは第1作
  [人形浄瑠璃巡り#1]浄瑠璃神社([Puppet Joruri 1] Joruri shrine, Osaka)
からご覧下さい。{[人形浄瑠璃巡り]シリーズの第1作へのリンクは04年12月28日に追加}
 このページを最後までお読み戴いた皆さん、誠に有難う御座いました。篤く御礼申し上げます。[人形浄瑠璃巡り]シリーズも宜しく!
              m(_~_)m (-_@)/~~~

 人形浄瑠璃関連の略年表

 ┌→149×年:琵琶法師『浄瑠璃十二段草子』「浄瑠璃」誕生
 古       その後、琵琶の伴奏で京坂の寺社を回り上演
 浄 156×年:琉球の三線を改良した三味線を伴奏に使い音曲が進化
 瑠   9×年:傀儡師の操り人形芝居と融合し「人形浄瑠璃」が誕生
 璃       この頃は一人遣いの両手突っ込み式の操作(足無し)
 | 1624  杉山丹後掾薩摩浄雲、江戸浄瑠璃の開祖と成る
 └→ 〜44年:江戸の武士や富裕町人階級に浄瑠璃語りが広まる(=拡張期

        ▲▲▲  「古浄瑠璃」   ▲▲▲
        ▼▼▼現代に連なる「浄瑠璃」▼▼▼

 ┌→1684年:竹本義太夫が道頓堀に竹本座を開設
 |       この頃近松門左衛門と提携全盛時代開幕
 |       又、この頃から心中が流行し芝居で上演される
 |   99年:初めて人形にを付ける
 | 1703年:近松『曾根崎心中』第1期黄金時代→1722年迄
 |       豊竹若太夫豊竹座「竹豊時代」に→史上最高の絶頂期
 |   05年:初世竹田出雲が竹本座を継ぐ。この頃から心中ブーム
 |   14年:竹本義太夫没
 全   16年:享保の改革(=緊縮)で興行的停滞期に入る(=人形改良期
 盛   23年:心中物の出版・上演の禁止→心中ブームと第1期黄金時代終焉
 時   24年:近松門左衛門没
 代   27年:人形のを開き、五指を動かす
 |   30〜 人形の指先を動かす
 |   33年:  →表情のリアリズム完成
 |   34年:吉田文三郎が人形の「三人遣い」(1人形=3人)を考案
 |   36年:人形の大きさ2倍にし今日の人形と舞台の原型を完成
 |   45年:享保時代の終了
 |   46年:2世竹田出雲の三大時代物第2期黄金時代
 └→1750年:歌舞伎に人気を奪われ、第2期黄金時代及び全盛時代終了
     67年:竹本座閉鎖、以後再び寺社を回る
   1872年:3代目・植村文楽軒、大阪松島に文楽座を開設で復興時代
   1900年:この頃、女義太夫(娘義太夫)「どうする連」が流行る
     10年:この頃から文楽が人形浄瑠璃の代名詞に成る
     55年:国の重要無形文化財に指定される
     84年:国立文楽劇場が大阪千日前に完成
   2003年:能楽に続き、世界無形遺産に登録される

−−− 完 −−−

【脚注】
※1:浄瑠璃(じょうるり、Joruri)は、
 [1].〔仏〕清浄(しょうじょう)・透明の瑠璃。薬師如来の浄土の名で、汚れなく澄み切った青色の宝石。法華経序品「―の中に」。
 [2].三味線伴奏の語り物音楽の一。室町末期に始まり、初めは無伴奏(時に琵琶や扇拍子)で語られた「浄瑠璃姫物語」が広まり、他の物語を同じ様式で語るものをも浄瑠璃と呼ぶに至る。江戸時代の直前、三味線が伴奏楽器として定着し、同じ頃に人形芝居と、後には歌舞伎とも結合して、江戸初期以降、上方でも江戸でも庶民的娯楽として大いに流行する。多くの浄瑠璃太夫 −浄瑠璃を語る人(浄瑠璃語り)− が輩出し、発声・曲節・三味線が多様化し、初期には金平節・播磨節・嘉太夫節などの古浄瑠璃が盛行、義太夫節・半太夫節・河東節・大薩摩節・一中節・豊後節・宮薗節(薗八節)・常磐津節・富本節・清元節新内節など、江戸後期迄に数十種の流派が次々に派生した。中でも元禄時代、竹本義太夫近松門左衛門らに依る人形浄瑠璃の義太夫節が代表的存在と成り、浄瑠璃の称は義太夫節の異名とも成っている。
<出典:一部「学研新世紀ビジュアル百科辞典」より>
※1−1:人形浄瑠璃(にんぎょうじょうるり、Japanese puppet show [with Joruri])は、浄瑠璃・三味線に合わせて曲中人物に扮装した人形を操る日本固有の人形劇近松門左衛門・竹本義太夫の出現以後、独自の劇形式を完成。一時は歌舞伎劇を圧倒。竹本・豊竹2座対立時代(竹豊時代)で絶頂に達したが、宝暦年間(1751〜1764)以後は歌舞伎に取って代わられ、竹本座・豊竹座の閉鎖で危機を迎えた。その後、明治期に文楽座が興り義太夫節と共に復興、今は「文楽」という語で代表される。
※1−2:操り浄瑠璃(あやつりじょうるり)は、[1].三味線を伴奏に浄瑠璃を語るのに合せて、手遣いの人形を操る演劇。傀儡(くぐつ)と浄瑠璃との結合に依って江戸初期慶長の末頃に成立。操り。操り狂言。
 [2].操り芝居で語る浄瑠璃。
※1−3:操り芝居(あやつりしばい)は、[1].操人形を使う芝居。人形劇。
 [2].操り浄瑠璃のこと。
※1−4:古浄瑠璃(こじょうるり)とは、義太夫節成立以前、寛永(1624〜1644)〜貞享(1684〜1688)頃に現れた数十種の浄瑠璃各派(薩摩節・金平節・肥前節・近江節・播磨節・嘉太夫節・文弥節など)の総称。多くは一代限りで衰退し、何れも江戸中期以降は伝承されない。

※2:文楽(ぶんらく、Bunraku)は、文楽座の略。又、操り人形浄瑠璃芝居の称。大正初年、この系統の芝居が文楽座のみに成ったことに因る名称。
※2−1:文楽座(ぶんらくざ)は、操人形の座。18世紀末に淡路出身の素人浄瑠璃語りの初代・植村文楽軒が大坂道頓堀高津新地に創設。後に転々としたが、1872年(明治5)3代・文楽軒の時に松島に移り文楽座と称し、1909年(明治42)松竹合名会社の経営と成り、56年道頓堀に新築移転。63年文楽協会が運営を引き継ぎ、朝日座と改称。84年国立文楽劇場発足に因り閉座。
※2−2:植村文楽軒(うえむらぶんらくけん)は、幕末〜明治の人形浄瑠璃芝居の経営者。6代迄。初代(1751〜1810)は本名、道具屋与兵衛。淡路より大坂に進出。3代(1813〜1887、系譜では4代)が中興の祖。本名、正井大蔵。文楽翁。1872年(明治5)文楽座を名乗り、全盛時代を導く。

※3:パンソリ(pansori)とは、朝鮮の民俗芸能の一。演者が一人で、歌・台詞・振りを交じえ乍ら、太鼓の伴奏で長編の物語を演唱するもの。演目に「春香歌」「沈清(シンセイ)歌」など。唱劇。劇歌。

※4:怨(えん、おん)は、(呉音はオン)怨むこと。「怨嗟・私怨・怨念・怨霊」など。
※4−1:恨(はん、han[朝鮮語])は、(朝鮮語)韓国民衆の被抑圧の歴史が培った苦難・孤立・絶望の集合的感情。同時に、課せられた不当な仕打ち、不正義への奥深い正当な怒りの感情。

※5:謡い物・歌い物(うたいもの)とは、声楽の種目の内、歌詞の意味内容よりも旋律など音楽としての面白味を重視する傾向の強いもの。語り物に比べて、歌詞は短編で叙情的・韻文的傾向が強く、歌唱には装飾の多い節回しを多用する。雅楽の声楽曲の他、箏曲・地歌・長唄・端唄・うた沢(歌沢・哥沢)・小唄など。←→語り物。
※5−1:語り物(かたりもの)とは、声楽の種目流派の内、旋律など音楽としての面白味よりも歌詞の意味内容の伝達を第一義的に重視する傾向の強いもの。歌い物に比べて、歌詞は長編で叙事的・散文的傾向が強く、歌唱のメリスマは少なく、言葉の部分で旋律が規定されない部分が多い。平曲(平家琵琶)・謡曲・浄瑠璃・薩摩琵琶・筑前琵琶・浪花節などがこれに属する。←→謡い物(歌い物)。
※5−2:メリスマ(melisma[ラ])とは、〔音〕(ギリシャ語で旋律の意)声楽曲の旋律様式の一種。歌詞の1音節に多数の音符が対応し、装飾の多い節回しのもの。本来グレゴリオ聖歌に言うが、同種のものはアジアの独唱歌(追分節など)にも多く見られる。

※6:琵琶法師(びわほうし)とは、琵琶を弾ずる法師。平安時代から巷間の盲僧で琵琶を弾ずる者が在った。鎌倉時代、平家物語を琵琶に合せて語り始め、大成して平曲と成った。尚、九州の盲僧琵琶(荒神琵琶)は古い盲僧の流れで、琵琶を弾いて地神経(じしんきょう)を読誦し、余興に物語を歌って歩く。これから薩摩琵琶筑前琵琶が生れた。徒然草「―の物語を聞かむとて、琵琶を召し寄せたるに」。
※6−1:盲法師(めくらほうし)とは、(琵琶法師は元々盲僧に依って始められたが)盲人の琵琶法師
※6−2:琵琶(びわ)は、中国・朝鮮・日本の弦楽器の一。木製の胴の上部に短い頸が有り、4弦(又は5弦)。胴は茄子形で平たく、長さは60〜106cm。日本では主に(ばち)、朝鮮・中国などでは義甲又は爪で弾く。起源はペルシャ/アラビアとされ、インド→西域→中国を経て、奈良時代に日本に伝来。時代・用法・形状その他に依って楽琵琶(がくびわ)・盲僧琵琶・平家琵琶・薩摩琵琶・筑前琵琶などが在る。四つの緒(よつのお)。胡琴。ヨーロッパに伝わったものはリュートギターに成った。
 補足すると、ここに記して在る様に撥を使うのは日本だけで、中国では今でも爪で掻き鳴らす奏法です。
※6−3:小島法師(こじまほうし)とは、洞院公定日次記(とういんきんさだひなみき)の記載に依って太平記の作者に擬せられる南北朝時代の人物。(?〜1374)。

※7:平曲(へいきょく)とは、日本中世の語り物の一。平家物語を曲節を付けて琵琶の伴奏で語るもの。元は普通「平家」と呼ばれた。鎌倉時代、盲人生仏の語り出したのに始まると言うが、声明(しょうみょう)との関係が深い。鎌倉末期に一方(いちかた)・八坂(やさか)の2流に分れ、室町時代、前者は妙観・師堂・戸島・源照の4派に、後者は城聞(妙聞)・大山の2派と成り、江戸時代には八坂系が衰え、一方系の前田流・波多野流が対立した。現在は前田流のみ。分派の過程で曲節は発達し、白声(しらごえ)・クドキ・指声(さしごえ)・ヒロイ・初重・中音・三重などの曲節型が固定した。謡曲・浄瑠璃節などの源流と成る。平家琵琶

※8:十二段草子(じゅうにだんぞうし)は、(十二段から成ることから)古浄瑠璃・御伽草子。作者不詳(←俗説では小野お通とも)。牛若丸と浄瑠璃姫との恋物語を脚色したもの。元は読物として書かれたが、曲節を付して語り物として流行。室町中期以後の作と思われる。浄瑠璃十二段草子。浄瑠璃姫物語。浄瑠璃御前物語。
※8−1:小野お通(おののおつう)は、歴代美濃に住した小野正秀の女(むすめ)(1568 〜1631?)とされるが、異説も有る。於通・阿通(おつう)とも。文芸・糸竹の技に長じた。浄瑠璃「十二段草子」の作者と伝える(←江戸時代の「色道大鏡」などで小野お通の作とされた)が、現在では改作者かと推定されて居る。<出典:一部「学研新世紀ビジュアル百科辞典」、「日本史人物辞典」(山川出版社)より>
※8−2:浄瑠璃姫(じょうるりひめ)は、義経伝説中の人物。三河国矢矧宿(やはぎしゅく)の長者の女(薬師瑠璃光如来の申し子)。牛若丸奥州下りに情交を結んだと伝える。「十二段草子」に脚色されて有名。語り物「浄瑠璃」の名称の起源。

※9:三線(さんしん)は、沖縄・奄美の弦楽器の一。形は三味線とほぼ同じで、やや小さい。胴に蛇皮(じゃび)を張ることから、本土では蛇皮線とも俗称する。撥(ばち)を用いず、大きな指形の義甲を人差指に嵌めて弾く。さむしる。
※9−1:三味線(しゃみせん)は、日本の弦楽器の一。棹(さお)は長さ3尺2寸(約97cm)前後のものが標準的で、花梨(かりん)・樫・紅木(こうき)・紫檀などを用いる。胴は少し膨らみの有る四角形、桑・鉄刀木(たがやさん)・花梨で作り、両面に猫(又は犬)の皮を張る。棹の下端部は胴を貫き、先端の中子先に根緒を掛ける。上部は乳袋(ちぶくら)を経て上駒(かみごま)に至り、その頭部に海老尾(えびお)を設ける。三弦で、一の糸は太くて調低く、三の糸は細くて調高く、二の糸はその中間。胴皮と糸との間に駒(こま)を挿み、左手指先で棹上の勘所(かんどころ)で弦を押さえて音高を決め、右手に持った撥(ばち)で鳴らす。棹の太さに依って太棹・中棹・細棹の別が言われるが差異は大きく、駒や撥の種類に依って音色や音量に可なりの相違が生ずる。起源については諸説有るが、祖型は中国の三弦とされ、永禄(1558〜1570)年間に琉球から泉州堺に伝来した蛇皮を張った三線を改造し、琵琶法師が演奏したと言う。本調子・二上り・三下りなどの調弦法が在り、音調が異なる。三弦。さみせん。
 補足すると、起源の三弦や三線が撥を使わないのに、日本で三味線に撥を使うのは、撥を使って琵琶を弾いた琵琶法師がこれを最初に弾いた為です。

※10:沢住検校(さわずみけんぎょう)は、室町末期・江戸初期の琵琶法師(15??〜16??)。沢角とも。堺の人。京都に住む。初めて小歌・浄瑠璃に三味線を合わせて弾き、広く世に行われた。門下に目貫屋長三郎薩摩浄雲ら。現在の浄瑠璃三味線弾きに鶴沢・豊沢・竹沢など「沢」の一字が付けられて居るのは「沢住」に由来すると言う。
 尚、検校(けんぎょう)とは、盲官の位の一。
※10−1:盲官(もうかん)とは、琵琶・管弦、及び按摩・鍼治などを業とした盲人に与えられた官位の総称。上位から検校(けんぎょう)・勾当(こうとう)・座頭(ざとう)・衆分(しゅぶん)の4位が在り、総検校などがこれを統轄し、朝廷では久我家(こがけ)に司らせた。1871年(明治4)太政官布告に拠り廃止。<出典:一部「学研新世紀ビジュアル百科辞典」より>

※11:傀儡(くぐつ)は、[1].歌に合わせて舞わせる操り人形。又、それを操る芸人。でく。手傀儡。かいらい。
 [2].(傀儡の女たちが売色もしたことから)遊女。遊び女。浮かれ女。傀儡女
※11−1:傀儡師(くぐつし、かいらいし)は、一般には傀儡を操る芸人。傀儡回し。特に江戸時代、胸に箱を掛けてその中から木偶人形(でくにんぎょう)を取り出し舞わせた大道芸人。正月の祝儀として門付けをすることが多かった。起源は平安時代に遡る。人形遣い。傀儡回し。
※11−2:木偶(でく)とは、[1].木彫りの人形。木偶人。
 [2].操り人形。
 [3].物の役に立たない人。木偶坊(でくのぼう)。
※11−3:莎草は
 「くぐ」
と読んで、磚子苗・莎草。カヤツリグサ科の多年草。西日本から台湾・中国南部に分布。茎は緑色で3稜、高さ30〜50cm。茎頂に多数の花穂を散形に付け、長い苞葉が有る。イヌクグ。
 「ささめ」と読んで、チガヤに似た野草。編んで蓑(みの)・筵(むしろ)などに作る。笹の実(ささのみ)。
 「かやつりぐさ」と読んで、蚊屋吊草・莎草。カヤツリグサ科の一年草。路傍に普通の雑草。高さ約30cm。根生葉は狭長。初夏、茎頂に3葉を出し、黄褐色の穂を生ずる。子供が茎を裂いて蚊屋を吊る形にするから名付ける。
※11−4:裹(くぐつ)とは、[1].莎草(くぐ)で編んだ袋。藻、又は貝などを入れるのに用いる。万葉集3「塩干(しおい)の三津の海女の―持ち玉藻刈るらむいざ行きて見む」。
 [2].糸などで編んだ網袋。宇津保物語国譲下「絹綾を糸の―に入れて」。

※12:大江匡房(おおえのまさふさ)は、平安後期の貴族・学者(1041〜1111)。匡衡の曾孫。江帥(ごうのそち)と称。後冷泉以下五朝に仕え、正二位権中納言。又、白河院司として別当を兼ねた。著「江家次第」「本朝神仙伝」「続本朝往生伝」「遊女記」「傀儡子記」など。その談話を録した「江談抄」が在る。

※13:ジプシー(Gypsy)とは、(「エジプトから来た人」に由来する英語の他称で、彼等自身は「人」を表すロム(Rom)の複数形ロマ(Roma)を自称)
 [1].インド北西部が発祥の地と言われ、6〜7世紀から移動し始めて、今日ではヨーロッパ諸国/西アジア/北アフリカ/アメリカ合衆国に広く分布する民族。言語はインド・イラン語系のロマニ語を主体とする。移動生活を続けるジプシーは、動物の曲芸・占い術・手工芸品製作・音楽などの独特な伝統を維持する。
 [2].転じて、放浪生活をする人々。
<出典:一部「学研新世紀ビジュアル百科辞典」より>

※14:夷舁き/恵比須舁き(えびすかき)とは、傀儡師の一。兵庫県西宮から出た人形遣い。元は恵比須が鯛を釣る真似をし、正月に豊漁を予祝したもの。恵比寿回し。

※15:説経節(せっきょうぶし)は、中世末から近世に行われた語り物の一。仏教の説経から発し、和讃・講式・平曲などの影響も受ける。(ささら)を用い、大道芸・門付芸として発達。門説経(かどせっきょう)・歌説経などの形態も在った。やがて胡弓・三味線をも取り入れ、操り人形芝居とも提携して興行化。全盛期は万治・寛文頃で、宝永・正徳頃から義太夫節に圧倒されて衰微するが、後に浪花節を派生。説経浄瑠璃。説経。
※15−1:説経祭文(せっきょうさいもん)は、説経節が山伏の祭文 −神前で奏する中国風の祝詞、告祭文− と結び付いたもの。近世初頭に流行。
※15−2:浪花節(なにわぶし)は、多く軍書・講釈・物語・演劇・文芸作品を材料とし、節調を加えた語り物。三味線の伴奏で独演する。元は説経祭文から転化したもので、初めは、浮かれ節・ちょぼくれ・ちょんがれ節などと呼ばれた。江戸末期に大坂から始まり、浪花伊助を祖と伝えるが、盛んに成ったのは明治以後で、桃中軒雲右衛門の功が大きい。浪曲
※15−3:簓(ささら)は、日本の民俗楽器の一。20cm程の竹の先を細かく割って束ねたもの。田楽・説経・歌祭文や田植囃子などで、簓子(ささらこ)と摺り合わせたり、2本の簓を打ち合わせて調子を取ったりする。すりざさら。簓竹。
※15−4:簓子(ささらこ)とは、田楽などで簓を擦るのに用いる細い棒で、竹や木に鋸歯状の刻み目を付けたもの。ささらのこ。

※16:手妻人形(てづまにんぎょう)は、元禄(1688〜1704)以前に大坂の人形遣い山本飛騨掾が片手を人形の背部の衣裳の裂目から差し入れ、胴体内のぜんまい仕掛で動かした人形。

※17:杉山丹後掾(すぎやまたんごのじょう)は、江戸前期の浄瑠璃太夫(生没年未詳)。京都の人。名は七郎左衛門。滝野検校に付いて浄瑠璃を習得、慶長末江戸に下り、操り芝居を起し、1652年(承応1)京都に帰り、受領して天下一丹後掾藤原清澄と称す。軟派の旗頭で硬派の薩摩浄雲と並び、江戸浄瑠璃を代表。その曲風は子の江戸肥前掾に継承。

※18:薩摩浄雲(さつまじょううん)は、江戸前期の浄瑠璃太夫(生没年未詳)。堺(一説に京都又は紀州)の人。初名、熊村小平太、そして虎屋次郎右衛門とも伝えられ、後に薩摩太夫と改め、剃髪して浄雲と称した。寛永(1624〜1644)の頃江戸に下り、操り芝居を興行、杉山丹後掾と並んで、江戸浄瑠璃の開祖とされる。

※19:竹本義太夫(たけもとぎだゆう)は、江戸初期の浄瑠璃太夫(1651〜1714)。義太夫節の開祖。本名、五郎兵衛。摂津天王寺村の人。初め井上播磨掾の弟子清水(きよみず)理兵衛に学び、清水理太夫と名のり、1684年(貞享1)竹本義太夫と改名、大坂道頓堀に竹本座を設けて「操り浄瑠璃」を興行。近松門左衛門の作を語って操り人形浄瑠璃を大成。98年(元禄11)受領して竹本筑後掾藤原博教と成る。
※19−1:竹本座(たけもとざ)は、大坂道頓堀戎橋南詰に在った操座。1684年(貞享1)頃、竹本義太夫の創立。近松の浄瑠璃を上演して大成功を収め、豊竹座と対立して全盛を極めたが、1767年(明和4)廃座。
※19−2:義太夫節(ぎだゆうぶし)は、浄瑠璃の流派の一。貞享(1684〜1688)頃、大坂の竹本義太夫が人形浄瑠璃として創始。豪放な播磨節、繊細な嘉太夫節その他先行の各種音曲の長所を摂取。作者の近松門左衛門、三味線の竹沢権右衛門、人形遣いの辰松八郎兵衛などの協力も加わって元禄(1688〜1704)頃から大流行し、各種浄瑠璃の代表的存在と成る。義太(ぎだ)。

※20:近松門左衛門(ちかまつもんざえもん)は、江戸中期の浄瑠璃・歌舞伎脚本作者(1653〜1724)。本名、杉森信盛。平安堂・巣林子(そうりんし)などと号。越前の人。歌舞伎では坂田藤十郎と、浄瑠璃では竹本義太夫と提携。竹本座の座付作者狂言本二十数編、浄瑠璃百数十曲を作り、義理人情の葛藤を題材に人の心の美しさを描いた。作「出世景清」「国性爺合戦」「曾根崎心中」「心中天網島」「女殺油地獄」「けいせい仏の原」など。
 補足すると、誕生地は不詳な点が多く「広辞苑」では越前説を採用してますが、最近の研究では長州説も有力な様です。
※20−1:曾根崎心中(そねざきしんじゅう)は、浄瑠璃の一。近松門左衛門作の世話物。元禄16年(1703)4月、大坂内本町の醤油屋平野屋の手代徳兵衛と北の新地の天満屋の遊女お初とが曾根崎天神の森で情死した事件を脚色、翌月初演。世話浄瑠璃最初の作品
 補足すると、現在大阪曽根崎の繁華街に在る露天神の通称の「お初天神」はこの浄瑠璃の主人公の名が由来です。

※21:豊竹若太夫(とよたけわかたゆう)は、江戸中期の義太夫節の太夫(1681〜1764)。初世は、大坂の人。初名、竹本采女(うねめ)。竹本義太夫の門に入り、1703年(元禄16)豊竹座を創立。31年(享保16)越前少掾を受領。東風(ひがしふう)の開祖
※21−1:東風(ひがしふう)とは、大坂道頓堀の東寄りに在った豊竹座の曲風・語り口。派手で音楽的表現に優れる。これに対し西風(にしふう)とは道頓堀の西寄りに在った竹本座の曲風・語り口。地味で劇的な写実性に優れる。
※21−2:豊竹座(とよたけざ)は、大坂道頓堀に在った操座(あやつりざ)。1703年(元禄16)豊竹若太夫(竹本義太夫の門弟采女(うねめ))の創立。竹本座と対立したが、65年(明和2)閉座。

※22:竹田出雲(たけだいずも)は、浄瑠璃作者。
 [1].(初世)竹本座の座元で作者を兼ねた(?〜1747)。初世竹田近江の子で俳号は奚疑(けいぎ)。宝永2(1705)年から座元として竹本義太夫近松門左衛門の協力体制を強化し竹本座の基盤を築く。作「蘆屋道満大内鑑」など。<出典:一部「学研新世紀ビジュアル百科辞典」より>
 [2].(2世)初世の子、名は清定(1691〜1756)。座元と作者とを兼ね、人形芝居の最盛期を画した。「菅原伝授手習鑑」「義経千本桜」「仮名手本忠臣蔵」などは一代の名作。

※23:竹田絡繰(たけだからくり)は、江戸初期に初世竹田近江が大坂で始めた絡繰(からくり)の人形芝居。「竹田の芝居」とも呼ばれ、その芸は明治初年迄大衆娯楽の見世物として広く親しまれた。又、その精巧な技術は人形浄瑠璃や歌舞伎にも盛んに用いられた。現在も竹田人形座として活躍。
※23−1:絡繰人形(からくりにんぎょう)は、糸や発条(ぜんまい)などの仕掛けで、動く様に造った人形。絡繰(からくり)。

※24:辰松八郎兵衛(たつまつはちろうべえ)は、江戸中期の人形遣い(?〜1734)。竹本座開設当初から女形人形の名人。1703年(元禄16)「曾根崎心中」のお初を演じて好評。享保(1716〜1736)初年、江戸に下り辰松座の櫓を堺町の半太夫座で揚げた。彼が結った髷(まげ)の形は辰松風と言われた。

※25:紀海音(きのかいおん)は、江戸中期の浄瑠璃作者(1663〜1742)。大坂の人。通称、鯛屋善八。別号は貞峩・契因など。僧や医師を経て豊竹座の座付作者として、義理を主題とする理知的な作風で竹本座の近松門左衛門に対抗。作「椀久末松山」「お染久松袂の白しぼり」「八百屋お七」「心中二つ腹帯」など。俳諧集「橋波志羅(はしばしら)」、狂歌集「戎の鯛」の著作も在る。

※26:荒事(あらごと)とは、歌舞伎劇で、怪力勇猛の武人とか超人的な鬼神などに依る荒々しく誇張した演出様式。又、その狂言。初代市川団十郎の創出で、江戸歌舞伎の特色と成った。←→和事。
※26−1:和事(わごと)とは、歌舞伎劇で、男女の恋愛・情事の演出様式。又、その場面。更に男性役が女性的な柔らかみの有る台詞で恋愛描写をする演技。元禄時代(1688〜1704)に関西の名優坂田藤十郎が完成したと言われ、江戸の勇壮な荒事に対し上方歌舞伎の伝統芸と成って居る。←→荒事。<出典:一部「学研新世紀ビジュアル百科辞典」より>
※26−2:実事(じつごと)とは、歌舞伎劇で、分別の有る人物が身近な事件を写実的に演ずること。「荒事」に対する語で、「仮名手本忠臣蔵」の由良之助など。<出典:一部「学研新世紀ビジュアル百科辞典」より>

※27:吉田文三郎(よしだぶんざぶろう)は、人形浄瑠璃の人形遣い。江戸中後期に3世を数える。初世(?〜1760)は竹本座の人形遣い・吉田三郎兵衛の子で大坂生まれ。1717(享保2)年初舞台。竹本座の人形遣いの中心として三人遣いや種々の新演出を生み出し、浄瑠璃作者としても吉田冠子(かんし)の名で15作に名を連ねる。59(宝暦9)年座元の竹田近江と衝突して退座、旗揚げ準備中に病没。<出典:「日本史人物辞典」(山川出版社)>

※28:三人遣い(さんにんづかい)は、人形浄瑠璃で、人形を主遣い(おもづかい)・左遣い足遣いの三人で動かすこと。1734年(享保19)竹本座の「蘆屋道満大内鑑」で始まったと言う。

※29:並木宗輔(なみきそうすけ)は、浄瑠璃作者(1695〜1751)。並木の系祖。号は千柳。元は備後三原の僧侶。西沢一風の門人。豊竹座・竹本座の為に執筆し、2世竹田出雲らとの合作が多い。「菅原伝授手習鑑」「義経千本桜」「仮名手本忠臣蔵」「源平布引滝」「一谷嫩軍記(いちのたにふたばぐんき)」などの傑作が在り、名人形遣い初世吉田文三郎と提携して操芝居の最盛期を現出。

※30:菅原伝授手習鑑(すがわらでんじゅてならいかがみ)は、浄瑠璃の一。並木宗輔・2世竹田出雲らの合作の時代物。1746年(延享3)初演。菅原道真の筑紫への配流、旧臣武部源蔵と白太夫の三つ子の兄弟梅王・松王・桜丸夫妻が菅公の世継(よつぎ)菅秀才を擁護する苦衷を脚色。「車引の段」「寺子屋の段」が名高い。後に歌舞伎化。
※30−1:義経千本桜(よしつねせんぼんざくら)は、浄瑠璃の一。並木宗輔・2世竹田出雲他の合作の時代物。1747年(延享4)竹本座初演。義経伝説と平家没落の哀史とに取材。義経と静御前との愛に、平家の落人知盛・維盛・教経を主要人物としてあしらい、佐藤忠信をも絡ませる。歌舞伎にも入り、「渡海屋」「鮓屋」「狐忠信」などの段は有名。
※30−2:仮名手本忠臣蔵(かなでほんちゅうしんぐら)は、浄瑠璃の一。並木宗輔・2世竹田出雲他の合作の時代物。1748年(寛延1)竹本座初演。赤穂四十七士敵討の顛末を、時代を室町期に取り、高師直を塩谷判官の臣大星由良之助らが討つことに脚色したもの。「忠臣蔵」と略称。全11段より成る。義士劇中の代表作。後に歌舞伎化。
※30−3:ヴェリズモ(verismo[伊])は、フランスの自然主義に刺激されて、19世紀末葉、イタリアで興った写実主義文学運動。代表者ヴェルガ。真実主義

※31:女義太夫(おんなぎだゆう)は、女の語る義太夫節。又、女の義太夫語り。通常は太夫1名、三味線1名。特に年若い女の語る義太夫を娘義太夫と言った。天保(1830〜1844)年間より流行し、明治後半期に最全盛を謳われ、若い男たちに「どうする、どうする」と持て囃された。大正12(1923)年関東大震災で流行は衰退。竹本綾之助/豊竹呂昇らが知られる。女義太、女義。→どうする連
※31−1:どうする連(どうするれん)とは、女芸人を贔屓(ひいき)にして足繁く通う連中の称。明治時代、東京で娘義太夫を聞きに通う連中が、節回しの良い所で、「どうする、どうする」と叫んだのに起る。

※32:三位一体(さんみいったい)は、元来キリスト教の用語で、創造主としての父なる神と、贖罪者キリストとして世に現れた子なる神(=キリスト)と、信仰経験に顕示された聖霊なる神とが、唯一なる神の三つの位格(ペルソナ)であるとする説(The Trinity)。この3者に優劣の差別は無い。

    (以上、出典は主に広辞苑です)

【参考文献】
△1:『カラーブックス 人形劇入門』(南江治郎著、保育社)。

△2:『新日本古典文学大系90 古浄瑠璃 説話集』(信多純一・阪口弘之校注、岩波書店)。

△3:『人物叢書 大江匡房』(川口久雄著、日本歴史学会編、吉川弘文館)。

△4:『枕草子』(池田亀鑑校訂、岩波文庫)。

△5:『万葉集(上)』(佐佐木信綱編、岩波文庫)。

●関連リンク
補遺ページ(Supplement):女義太夫と漱石、浄瑠璃と夫婦善哉などの話▼
人形浄瑠璃「文楽」の成り立ち|補遺
(The BUNRAKU is Japanese puppet show, SUP.)

補完ページ(Complementary):人形浄瑠璃所縁の地を訪ねる旅▼
[人形浄瑠璃巡り#1]浄瑠璃神社([Puppet Joruri 1] Joruri shrine, Osaka)
[人形浄瑠璃巡り#2]露天神([Puppet Joruri 2] Tsuyu-tenjin, Osaka)
[人形浄瑠璃巡り#3]大阪市西成([Puppet Joruri 3] Nishinari, Osaka)
[人形浄瑠璃巡り#4]和泉市信太の森
([Puppet Joruri 4] Forest in Shinoda, Izumi)

ユネスコの世界遺産に対する私の見解▼
世界遺産登録で本当に遺跡や文化が守られるのか?(World heritage)
「語り物」芸能の原点『平家物語』▼
都島の鵺と摂津渡辺党(Nue of Miyakojima and Watanabe family, Osaka)
長柄橋の人柱伝説▼
私の淀川(My Yodo-river, Osaka)
文楽座を開設した松島新地▼
浪速八百八橋(808 bridges of Naniwa, Osaka)
「私の庭」について▼
ここが「私の庭」だ!(Here is the territory of Me !)
観光立国って何?▼
日本の観光立国行動計画とは(The VISIT JAPAN program)
ユネスコの世界無形遺産や世界遺産について▼
外部サイトへ一発リンク!(External links '1-PATSU !')


総合目次に戻ります。Go to Main-menu 上位画面に戻ります。Back to Category-menu