[人形浄瑠璃巡り#2]露天神
[「曾根崎心中」と新興メディア社会]
([Puppet Joruri 2] Tsuyu-tenjin, Osaka)

−− 2004.10.21 エルニーニョ深沢(ElNino Fukazawa)
2005.11.06 改訂

 ■はじめに − 露天神社の予備知識

人形浄瑠璃のマスコット。 [人形浄瑠璃巡り]シリーズの第1作では「人形浄瑠璃の神々」が居られる事を紹介し合わせて参拝しましたが、この第2作では関西以外の方も訪ね易い所縁の地をご紹介します。
大阪は「キタの繁華街」、曽根崎の「お初天神通り商店街」のアーケード南端に位置する露天神社(つゆのてんじんしゃ)大阪市北区曽根崎2丁目) −「の」が入るのが正式ですが省く場合も有り、略称:露天神(つゆてんじん)、通称:お初天神、別名:曽根崎天神− は今はビルに囲まれた小ぢんまりとした境内ですが、しかし活気が有り神社に纏わる2つの因縁話に依って”知る人ぞ知る”存在です。まあ、つまりは”知らない人は全く知らない”のですが、実はその因縁話の内の1つが人形浄瑠璃に大変関係が深いのです。

 しかし、物事を説明するには順序というものが在り、先ずは境内をちょいと覗いて様子を知り予備知識を得てから因縁話に入るとしましょう(写真は04年10月22日に撮りました)。左下が現在の露天神社の南向きの拝殿と境内風景で、背後(=北側)に大きなビルが写って居ますので周囲の環境がお解りでしょう。次は当社の創建ですが、それは少々複雑なので後回しにし、ここでは可なり古いとだけ言って、仰(のっ)けから順序を覆す身勝手さですが、祭神は主祭神が少彦名大神(※1)と大己貴大神(※1−1) −この二柱は対で祀られることが多い− 、配神が菅原道真です。
写真1:露天神社の拝殿と境内風景。 拝殿手前の注連柱には

 右側:定醫薬禁厭(※2)
    医薬と禁厭(まじない)の法
     を定むる

 左側:人咸蒙恩頼(※2−1)
    人は悉く「みたまのふゆ」
     を蒙る


と主祭神の少彦名大神の神徳が刻まれて居ますが、『日本書紀』神代紀上の原文に少彦名命について同様の文言「則定其禁厭之法」「百姓至今咸蒙恩頼」が見えます(△1のp450)。
 序でに言えば注連柱の奥、拝殿の右側(=東側)手前に「左近の桜」(※3)、左側(=西側)手前に「右近の橘」(※3−1)が見えて居ます。えっ、左右が逆だと?、いいえ逆では無いのです。神様は拝殿の奥の本殿の中 −本殿はこの角度からは見えません− に居りますので、神様から見て左側が「左近」、右側が「右近」なのです。京都市の左京区と右京区が一見逆なのと同じ理由です。境内摂社としては水天宮金刀比羅宮が拝殿右側に、開運稲荷社が左側に祀られて居ます。
 これで大体の事を理解出来ましたので、当社に纏わる因縁話をご紹介し人形浄瑠璃巡りと洒落込みましょう。

 ■露天神社の2つの因縁話

 時代順に<第1の因縁話>は、菅原道真が大宰府に配流される旅の途中、即ち昌泰4(901)年の早春にここで次の歌を詠んだとされている話です。

  露と散る 涙は袖に 朽ちにけり 都のことを 思ひ出づれば

写真2:境内の「露の井」。写真2−1:「露の井」の立て札。 この歌を当社の名称由来とするのが通説ですが、異説に境内に「露の井」という名水が湧く井戸が在ったとか、梅雨(つゆ)の頃に境内の井戸から水が湧いたので「梅雨天神」とかが在ります。右が現にその「露の井」の跡の写真で、立て札には

  渡邊七名水
    神泉 露の井


と書かれて居ます。「露の井」が先に在ったから道真がここで「露と散る」の歌を詠んだとも解釈出来ます(→その理由は後述)。

写真3:「曽根崎 お初天神」の幟。 しかし当社及び曽根崎の名を最も高らしめて居るのは何と言っても近松門左衛門(※4)の『曾根崎心中』(※4−1)で、実際に当社境内で心中を遂げたお初徳兵衛という実在の男女を主人公にして居ます。これが<第2の因縁話>です。以後、「お初天神」という通称の方が通りの良い名前に成りました。右の写真が「曽根崎 お初天神」と染め抜いた当社の幟です。
写真3−1:お初・徳兵衛の青銅像。 境内西側にはお初・徳兵衛の青銅像が在り、台座側面には『曾根崎心中』の最後の一節

  貴賎群集の回向(えこう)の種
  未来成仏を疑ひなき
  恋の手本となりにけり


が刻まれて居ます(△2のp49)。
 近松は『曾根崎心中』−「道行」(※4−2)の冒頭では徳兵衛が「...星の妹背の天の川。梅田の橋を鵲の橋と契りていつまでも、われとそなたは女夫星(めをとぼし)。」と語り心中を美化して居ます(△2のp43)。歌謡曲のタイトルでは無いですが二人は若いのです。心中を誓い合った後でお初が「こな様も廿五歳の厄の年(※5)、わしも十九の厄年とて。」と言う件(くだり)が出て来て、少し現実が影を差します(△2のp44〜45)。心中物では「道行」の場面は不可欠です。
 現在の二人の像は安らかな表情ですが、心中決行の場面はドエライでっせ、迫力有りまっせ!

 作中では、当社境内に辿り着いた二人は先ず松と棕櫚の連理の木(※6)を見付け「結び松」(※6−1)をし最後の誓いを立てた後に帯で体を連理の木に確りと結び付けて、徳兵衛が脇差を取り出しお初の喉を突くのです(△2のp37の図を参照されたし)。そして

  突くとはすれど切先は。あなたへ外れ こなたへ逸れ 二三度ひらめく剣の刃。あっとばかりに喉笛に。ぐっと通るが「南無阿弥陀。南無阿弥陀南無阿弥陀仏」と。くり通し くり通す腕先も。弱るを見れば 両手を延べ。断末魔の四苦八苦。あはれと 言ふも余り有り。
  「我とても遅れふか 息は一度に引取らん」と。剃刀取って 喉に突立て。柄も折れよ 刃も砕けとゑぐり。くりくり目もくるめき。苦しむ息も暁の 知死期(※7)につれて絶果てたり。


という血生臭い場面を経て悲願を成就します(△2のp48〜49)。台座の最期の一節はこの後に続く文言です。
 お初・徳兵衛の比翼塚は曽根崎には無く八尾市の徳宝山大通寺(融通念仏宗) −元は教興寺(真言律宗)塔頭の大通院− に在ります。その訳は「お初」は河内国教興寺村(現大阪府八尾市教興寺)の出身だからで、二人の死を不憫に感じた当時の教興寺の住職・浄厳和尚が墓を建て弔ったものです。

 「お初の墓」については補遺ページで扱います。「補遺ページ」は▼下をクリック▼してご覧下さい。
  [人形浄瑠璃巡り#2]露天神|補遺([Puppet Joruri 2] Tsuyu-tenjin, SUP.)

 尚、「補遺ページ」に於いて最下行の蛙(カエル)のアイコン(the icon of Frog)をクリックすれば、ここに復帰します。{「補遺ページ」へのリンクは05年2月17日の追加}

                (-_*)/

 ■『曾根崎心中』の演劇史的意義

 (1)『曾根崎心中』はヴェリズモ浄瑠璃

 近松門左衛門の『曾根崎心中』は実際に起こった心中事件を基に作られて居ます。即ち「作者近松が聞いたというのは、その年(筆者注:元禄16年)4月7日夜、大坂梅田曾根崎天神の森であった心中の咄(はなし)なのだが(『摂陽奇観』)、それについては、翌宝永元年刊の『心中大鑑』に伝えがある。」と在ります(△2のp376)。
 つまり、内本町橋詰の醤油屋「平野屋」の手代徳兵衛(←彼は主人忠右衛門の甥)と堂嶋新地新茶屋町の女郎屋「天満屋」の遊女お初が、元禄16(1703)年4月7日夜にこの曾根崎天神の森で心中した事件を下敷に、当時京都に住んで坂田藤十郎の歌舞伎を書いて居た門左衛門が噂を聞き付け浄瑠璃に仕立てたものです。こういう”実話物”の手法はヨーロッパでも流行した時期が有り、19世紀末に実際に起こった事件を基にしたヴェリズモ・オペラ(※8、※8−1)がそれですが、門左衛門はヨーロッパに先駆ける事150年以上も前にそれを遣って退けました。ヴェリズモ浄瑠璃 −これは私の造語で、真実主義に基づき「実際に起こった事件を脚色して台本を仕立てた浄瑠璃」を指します− の誕生です。
 尚、門左衛門がヴェリズモに手を染めたのは『曾根崎心中』が最初では無く元禄15(1702)年の『道中評判仇討』で、この作は「亀山の仇討」(※9)として話題を攫(さら)った実話を基にして居ます。

    ◆「上質のヴェリズモ浄瑠璃」の前提条件

 ヴェリズモのキーポイントの第1低俗に堕さない事です。”実話物”はネタがスキャンダラスなものが多く”キワモノ(際物)”(※10)で一歩間違えると興味本位な低俗性に堕する危険性を多分に孕んで居るのです。この低俗性の見本は現在の実話物週刊誌や昼のワイドショーTV番組で明らかでしょう。
 キーポイントの第2は評判に成った心中事件の話の粗筋を観客は瓦版(※11) −当時は瓦版の呼び名は無く絵草子(=絵入り一枚摺り号外)(※11−1)と呼んだ様ですが、【脚注】の様に「絵草子」という語は雑多で広い概念を持つので当ページでは「瓦版」で統一しますが、この瓦版という新興報道メディアが顧客拡大の為に心中を好んで採り上げた(←心中を書けば売れたから)のです(△3のp22〜31)− や口コミ(旧来型メディア)で大筋は知っているという事です。即ち推理小説の様に意外な犯人とかドンデン返しとか「話の筋」の面白さの構築では無く、観客の興味は最初から「それにしても何故心中せねば為らなかったのか?」という一点に絞られて居るという事です。
 キーポイントの第3素早い台本作り(=筆の速さです。「人の噂も七十五日」と言われる様にモタモタしてたら人々の事件に対する熱は冷め、或いは別の心中事件が起これば人々の関心は新事件の方に移るので客足が鈍るのは必定です。更に複数の座元が在って題材が競合した場合には早い方に客を奪われて仕舞いますので”早い者勝ち”で、それ故に”実話物”は低俗な作品に堕し易いのです。
 以上のキーポイントで挙げた3つの条件、即ち品位を保ち、「何故心中?」に応え、素早く書き上げる、をバランスを取り乍らクリアして初めて「上質のヴェリズモ浄瑠璃」と言うことが出来る訳です。

                (*_@)

 (2)『曾根崎心中』で見せた近松門左衛門の筆力

 先ず、実際の事件に於いては「何故心中?」に応える論理が弱いのです。即ち心中事件の直前に徳兵衛は主人の忠右衛門の養女と2貫目の敷金付きで縁組した上で平野屋の江戸店を任される事が決まり、お初も豊後の客に身請けされる事に成って居たのです(△2のp377)。普通ならこれは願っても無い話で寧ろ「目出度し目出度し」なのですが、お初に入れ込んでいた徳兵衛はこの縁談を断ったので怒った忠右衛門から郷里の義母が持ち帰った敷金の返還を求められたのです。元々この縁談は遊女通いして居た徳兵衛をお初から引き離し商売に身を入れさせる為に忠右衛門が案出したもので、徳兵衛はそれが気に入らなかったのかも知れません。その敷金も義母からほぼ取り戻していたと言いますから、それを返し平野屋を飛び出せば良い訳です。或いはお初と駆け落ちし大坂を離れその金を元手に生活を遣り直す手も有りなのです、但し遊女をシャバに連れ出すのは命懸けの行為ですが。かと言って『ロミオとジュリエット』の様に純愛物に仕立てる訳にも行きません。何故ならば、遊女と客は「初めに媾合(まぐわ)い有りき」純愛では無いからです。
 以上の様に事実の筋だけでは論理が弱く、その儘作品化すれば徳兵衛のバランスを失した”女好き”しか浮かんで来ず下手をすると三流週刊誌並みの異常心理とかの興味本位な方向に行って仕舞います。そこで門左衛門は、油屋九平次という敵役を仮構し心中に至る論理の弱さを補強しました。つまり実際の心中事件というノンフィクション(実話)の上にフィクション(虚構)を重ね、「男の面目」「女の哀しさ」「義理と人情」を浮かび上がらせ、これらの”板挟み”の状況を創出して観客を納得させる方向に転換を図ったのです。徳兵衛が九平次に貸した銀の返却を迫り逆に偽の証文を騙(かた)ったと言われ返り討ちにされた際に

  「この徳兵衛が正直の心の底の涼しさは 三日を過ぎず大坂中へ申訳はして見せふ」

と言わしめ(△2のp30〜31)、死んで「男の証を立てる」という方向へ筋を持って行きますが、この言葉の裏には心中が当時の社会で既に流行し心中すれば瓦版などで派手に書き立てられるという時代背景(=新興メディア社会)が既に在ったからだ(→後で詳述)と私は見て居ます。
 そして門左衛門の筆は速かったのです。上述の如く心中は4月7日夜でした。彼はこの事件を舞台に掛ける事を思い立つや否や僅か20日位で台本を書き上げ、太夫の浄瑠璃語り、三味線の節付け、人形の振り付け、宣伝用の幟、などなど諸々の準備作業を全て含め丁度1ヶ月後の5月7日に道頓堀の竹本座で初演(※12)に漕ぎ着けて居るのです。そして大当たり(=大ヒット)し借金で苦しんで居た座元の竹本義太夫(※12−1)はこの一作で借金を帳消しにしたと伝えられて居ます。
 ヒットした理由は、門左衛門が「見せ場」「聴かせ所」(←観客の立場からは「見所」「聴き所」)を作ったからです。元より人形浄瑠璃は舞台では「太夫の語り、三味線弾き、人形遣い」で演じられ作家は台本迄で舞台には上がらないのです。興行としての成功は台本の良し悪しだけでは無く総合芸術ですから「見せ場」「聴かせ所」を上手く台本に仕組むのが台本作家の腕の見せ所なのです。『曾根崎心中』の「聴かせ所」として【参考文献】△2から解る事は、全編に亘るリズム感と機知に富んだ七五調の台詞で、更に初演の太夫や三味線弾き(→後出)が上手く聞かせたのでしょう。
 「見せ場」としては前述の大詰めの場面もそうですが、それ以上にお初に促されて徳兵衛が心中の決意を伝える場面です。以下に手に汗握る心中合意の場面をご紹介します。場面は、九平次が天満屋に来て、お初の座る縁の下に徳兵衛が居るとも知らずに、徳兵衛の悪口を論(あげつら)いこれで徳兵衛の「一分(いちぶん)は廃った」(※13)とお初に言い捨てた直後です(△2のp35〜38)。

  はつは涙にくれながら「さのみ利根に言はぬもの。徳様の御こと 幾年馴染み 心根を明かし明かせし仲なるが。それはそれはいとしぼげに微塵訳は悪うなし。頼もしだてが身のひしで 騙されさんしたものなれ共。証拠なければ理も立たず。此の上は徳様も死なねばならぬ品成るが 死ぬる覚悟が聞きたい」と独言に準へて。足で問へば 打ちうなづき。足首取って喉笛撫で。自害するとぞ知らせける。「其の筈其の筈。いつまで生きても同じこと。死んで恥をすゝがいでは」と言へば 九平次ぎょっとして。「おはつは何を言はるゝぞ。」...(中略)...「そこな九平次のどうずりめ。阿呆口たゝいて 人が聞いても不審が立つ。どうで徳様一所に死ぬる わしも一所に死ぬるぞやいの」と。

 敵役の前で姿を現すことが出来ない徳兵衛がお初の足首を取って自分の喉笛を撫で「一緒に死ぬ覚悟」を伝える場面は正に「互に物は言はね共。肝と肝とに応えつゝ湿り」(△2のp38)であり、人形遣いは高等技術を要し最大の「見せ場」です。門左衛門はこの意表を突くアイデアで最大の「見せ場」を作り観客の関心をこの場面に誘導し、ここでも心中に至る論理の弱さから眼を逸らさせたと言えます。
 こうして町人の”板挟み”的世界 −前述の「男の面目」「女の哀しさ」「義理と人情」− を生き生きと描いたが故に『曾根崎心中』は新興町人層の共感を呼んで大いにヒットし、旧来の時代物(=武士が主役の歴史物、※14)や低俗な世話物(=町人が主役で当世風、※14−1)とは一線を画した世話物浄瑠璃の新境地を開拓し得たの訳です。それは又、商人・町人階級の台頭という時代の動向と見事に合致して居り、彼は「時代の空気」を読み取る時代感覚「上質のヴェリズモ浄瑠璃」の前提条件をクリアする為に”巧みに妥協”する現実的なバランス感覚の持ち主だと言えます。心中事件というスキャンダル「恋の手本」に昇華する為に「心中の象徴化」を企てた手腕はヒットメーカーに特有の時代感覚とバランス感覚の賜です。
 ところで皆さん、元禄期の人形は未だ”一人遣い”、今日の様な「三人遣い」では無いのです。「三人遣い」が考案されたのは門左衛門死後の享保の停滞期(後述)です。

 (3)豪華な顔触れの上演者たち

 以上の様に『曾根崎心中』は時代を画する画期的作品に成ったのですが、この画期性を高めた別の要素も見逃せません。それは初演の豪華な演者たちです(△2のp11)。

    浄瑠璃語り:竹本筑後掾 (=義太夫)
    人形お初 :辰松八郎兵衛(※15)
    人形徳兵衛:吉田三郎兵衛
    三味線弾き:竹沢権右衛門(初世、※16)

 中でも近松門左衛門・竹本筑後掾・竹沢権右衛門は生国魂神社境内の浄瑠璃神社に祀られて居る「人形浄瑠璃の神様」なのです。生国魂神社と言えば、『曾根崎心中』は生国魂神社前の出茶屋でお初と徳兵衛が出会う場面から開始し、更にこの神社周辺では幾つも心中事件が起き上方芸能及び心中と縁が深い神社です。
 女形人形(※15−1)の辰松八郎兵衛はこの初演で口上を述べて居ますが、それに拠れば『曾根崎心中』は人形浄瑠璃の初演に先立ち歌舞伎で上演されて居ます。この御仁は独立志向で竹本座と豊竹座(後出)を渡り歩き享保初期に江戸に下り辰松座を開設し、その髷(まげ)が「辰松風」(※15−2)として一世を風靡する程の美男子でした。吉田三郎兵衛は【脚注】に無いですが「三人遣い」を考案した初世吉田文三郎の父です。因みに、オペラや芝居と同じく世話物浄瑠璃も女形人形が主役で人気の分かれ目に成ります。以後、義太夫+権右衛門・辰松八郎兵衛・門左衛門の人気トリオ −これは私の主張する「浄瑠璃語り+三味線、人形遣い、劇作家」の三位一体論に期せずして合致して居ます− で竹本座は次々とヒット作を上演し絶頂期を創出しますので『曾根崎心中』が画期を成したと言えるのです。
 こうして門左衛門は『曾根崎心中』に依ってヴェリズモ”心中作家”の第一人者に成ったのです

 ■「心中」考 − 心中ブームとメディアとしての人形浄瑠璃

 (1)太平元禄の”倒錯”と新興メディア社会が齎した心中ブーム

 上方(=京大坂)での心中(しんじゅう、「情死」のこと)の流行は江戸幕府が安定期に入り町人向けの読み物や芝居が盛んに成った貞享(=1684年)頃から兆しが興り元禄8〜享保7年(1695〜1722年)が流行期です。近世の安定社会を背景に台頭した町人文化が上方を中心に花開いた”太平の時代”元禄時代(1688〜1704年)で、徳川綱吉(※17)が治世した時代に重なります。綱吉は「生類憐みの令」(※17−1)で犬公方と呼ばれた御仁 −綱吉は戌年生まれ!− なので皆さんも良くご存知と思いますが、綱吉の過剰な動物愛護の”倒錯”した精神(※18)と心中の流行とは無縁では無い、と思えます。つまり、前述した様に「何故心中?」「何故死ぬの?」という論理が弱いのに死を選ぶ心理というのは畢竟”倒錯”である、というのが私の見解です。そして元禄時代と言った時に多分皆さんが真っ先に思い浮かべるのは赤穂四十七士の吉良邸討ち入り(元禄15年12月14日)ですが、思えばあの討ち入りも”倒錯”です。今あんな事件を起こしたらマスメディアを始め世論はテロだと叫んで四十七士を非難して居た筈ですが、当時の人々は判官贔屓からかテロルに喝采を送ったのです。そこには仇討(敵討)という行為が美化されているという事に注意して下さい。赤穂浪士事件については
  歴史の横漏れ(Spill sideways from history)

で詳しく論じて居ますので、そちらを参照して下さい。{このリンクは05年3月24日に追加}
 つまり綱吉治世期に重なる天和・貞享・元禄・宝永年間(1681〜1710年)は価値観の”倒錯の時代”なのです。そして四十七士の討ち入り決行が元禄15年12月14日お初・徳兵衛の心中決行がその僅か5ヶ月後の元禄16年4月7日だったという事実を押さえて置く必要が有ります。

 以上の時代的世相を踏まえた上で、次に心中という”倒錯”が何時頃如何にして流行りブームに成ったのかを考察します。貞享2(1685)年に刊行された井原西鶴の『好色二代男』巻八(※19)にその頃大坂で心中した遊女の名を「久代屋の紅井。紙屋の雲井。京屋の初之丞。天王寺屋の高松。和泉屋の喜内。伏見やの久米之介。住吉屋、初世。小倉屋の右京。拍屋の佐保野。やまとやの市之丞。新屋のゆきえ。丹波屋の瀬川。野間屋の春弥。」と列挙して何れも新町で起きたと記し、更に雲井は太夫(=最上位の遊女)だが他は「はし女良」(※20)と言い放って居ます(△4のp281〜284)。この中で天和3(1683)年5月17日に起きた大和屋市之丞・長右衛門の心中が本邦初のヴェリズモ歌舞伎に脚色されて大坂の3座で上演され、門左衛門も市之丞の心中からと記して居ますので、天和3(1683)年を流行の始めと見做すことが出来そうです。ところで西鶴は『二代男』の同じ箇所で、私が言う所の「心中の論理の弱さ」「義理にあらず。情にあらす。皆不自由より、無常にもとづき。是非のさしつめにて。かくはなれり。」と喝破して居る点は流石に鋭い眼力と感心させられました(△4のp284)。過去では無い同時代を正確に捉えるのは非常に難しい事なのです。
 そして西鶴没後の元禄8(1695)『三勝半七』(※21)のヴェリズモ物は初世岩井半四郎座(※21−2)で連日大入りの150日間連続興行の大当たりと在り(△3のp22)、この頃には心中が起きると大衆は芝居での再現を期待する様に”条件付け”(※22)された事が解ります。心中をする人間の心理というのは現代でも同様で、誰かが心中しそれが大きく報道され更に「死を賭した恋」が瓦版や文学・演劇というメディアに依って誇大表現されたり「恋の手本」などと美化されると必ず追随者や模倣者が出て来るもので、例えば現代でも三原山や浅間山などの噴火口に飛び込む心中が流行った時期が在りましたが、これは連鎖反応です。以下、連鎖反応の跡を作品で見て行きましょう。

  『市之丞長右衛門』(大坂3座) 天和 3(1683)
  『三勝半七』(岩井半四郎座)  元禄 8(1695)
  『石掛心中』(嵐座)      元禄12(1699)←「心中」が外題に
  『心中茶屋咄』(京の山下座)    同上

 ここから門左衛門の浄瑠璃です(以下は全て竹本座で上演)。

  近松『曾根崎心中』       元禄16(1703)
  近松『心中二枚絵草紙』     宝永 3(1706)
  近松『心中重井筒』       宝永 4(1707)
  近松『心中刃は氷の朔日』    宝永 6(1709)
  近松『心中万年草』       宝永 7(1710)
  近松『今宮心中』        正徳 1(1711)
  近松『生玉心中』        正徳 5(1715)
  近松『心中天網島』       享保 5(1720)
  近松『心中宵庚申』       享保 7(1722)

 私は門左衛門は心中マニア(別ページで論述)に成ったと思って居ますが、人々が心中物を欲して居ると感じるや否や次々とそれを書いてヒットさせますが、ここに前述した時代感覚バランス感覚を見て取ることが出来ます。
 門左衛門のヒットに刺激され同年に豊竹若太夫(※12−2) −彼も神様の一人− が竹本座から独立し豊竹座(※12−3)を開設、早速堺の井戸飛び込み心中(お初・久兵衛、△3のp30)のヴェリズモ『心中泪の玉井』を当てます。そして宝永4(1707)年に豊竹座の座付作者に就いた紀海音も以下の心中物を書きます(全て豊竹座で上演)。

  若太夫『心中泪の玉井』     元禄16(1703)
  海音『お染久松袂の白しぼり』  宝永 7(1710)
  海音『なんば橋心中』        同上
  海音『今宮心中丸腰連理松』   正徳 1(1711) 『今宮心中』と同じ題材
  海音『心中二つ腹帯』      享保 7(1722) 『心中宵庚申』と同じ題材

 こうして竹本座(※12)と豊竹座(※12−3)が競って心中物を手掛け時には同一の題材で競合すると一層拍車が掛かり、作品と現実の両面で心中が流行し1703年〜20年(=宝永・正徳・享保前期)の心中ブームを現出したのですが、その背後にはスキャンダル好きで移り気新興メディア社会が成長しつつ在り門左衛門はメディア社会を的確に捉え上手く乗ったと言えます。この様に心中物がヒットするから心中者が後を断たない、心中者が次々と出現するからヴェリズモ心中物が益々ヒットするという作品と現実の相乗効果が生まれ、心中御法度令を何度出してもブームは収まりませんでした。何しろ江戸時代の二大文豪の西鶴と門左衛門が心中に大きな興味を示して居る訳ですから「況んや余人をや」なのです。
 以上の様に、この時期の人形浄瑠璃は瓦版と共に心中を拡散するメディアの役割を果たした(△3のp32)訳で、こうして人形浄瑠璃史上最高の絶頂期(第1期黄金時代=竹豊時代)が訪れましたが『曾根崎心中』はその端緒を開いた記念すべき作品です。

    ++++ 現代を先取りして居た新興メディア社会 ++++
 まぁ、世は太平だったのです。「無用の長物」と化した武士の刀を大義名分を付けて振り回せるのは敵討仇討であり、庶民が有名人に成れるのは心中だ、という訳です。そして”無責任な大衆”ヴェリズモ物の芝居に殺到する姿は、現代の我々がテレビの報ずる”事件の現場”に見入るのと全く同じです。即ち「他人の不幸は実は面白いというマスメディア社会のホンネ(本音)が既に現出して居る事は注目すべき点です。尤もメディアや、それを享受する我々大衆はその事を隠して居ますが。
 そして城中に”閉じ込められ”の将軍様が犬公方(※17)に成った姿は、現代の”引き籠もり”がペットにしか救いを見出せないのと同じです。すると我々は江戸時代から全然進歩して無いという事ですかな?!...(>o<)。
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 (2)享保の心中撲滅と「三人遣い」の開発

 この様な状況に業を煮やした将軍吉宗(※17−2) −彼は元々から後に「享保の改革」と呼ばれる緊縮財政と風俗の取り締まりを進めて居た− は享保8(1723)年2月20日に遂に”心中撲滅”に乗り出し、手兵の大岡忠相(※17−3)に法令を作成させて心中者には一段と厳しい刑罰 −”見せしめ”の為に心中者は犬に食われる迄死体を放置したり未遂者も発覚すれば死罪など− を科すと同時に心中物の出版・上演の禁止を断行しました。やあ、遂にあの「大岡裁き」の忠相が出て来て仕舞いましたね。彼は法令の中で「心中」を「相対死(あいたいじに)」(※23)に改めさせ、以後「心中」の語の使用を禁止しました(△3のp43)。江戸幕府は儒教の「忠」(※24)を武家社会の支配原理としましたが、下記の様に「心中」は「忠」に逆するという訳です。

         ┌逆   儒教の「忠」
         ↓      ↓
              
              

 作家や興行主はこれで「万事休す」です。これで「心中」の語を外題に入れた過去の出版物も禁止の対象に成りました。老齢の門左衛門はこれで遣る気を失くしたのか、禁止令翌年の享保9(1724)年に呆気無く72歳の生涯を閉じたのです(→辞世はこちら)。
 門左衛門亡き後、吉宗の締め付け政策に因って心中ブームと共に第1期黄金時代も終焉し、人形浄瑠璃は享保の停滞期に入ります。しかし、この停滞期に閑に成った人形師たちが工夫を凝らし今日の「三人遣い」を編み出した事は既に総論の「人形浄瑠璃「文楽」の成り立ち」の中で詳述した通りです。
    {この章は05年1月3日に追加し、更に2月17日に加筆修正}

 ■露天神社の創建と歴史

 (1)創建の謂れ

 当社の「露 天神社 由緒略記」の説明板(左の写真)は「社伝によれば、創建は壱千百有余年を遡り、文徳天皇の御代、嘉祥三年(850年)に定め給いし「難波八十島祭」の旧蹟にも数えられ、「住吉住地曽祢神」を祀ると伝えられる。往地此の地は曽根洲と称する孤島にて、曽根洲、後の曽根崎の地名はこの御神名より起こる。
 平安期、渡辺十郎源契来りて入植せしより、渡辺氏一族を始め移植の民次第に増し、曽根崎村へと発展し、当社も産土神「曽根崎天神」として尊崇された。現在も梅田、曽根崎地区の鎮守として信仰を集めている。」
と記して居ます。この説明板は後出の正面鳥居脇の説明板です。

 ここで須牟地住地住道(読みは「すむち/すむじ」)とは住吉津から喜連に通ずる古道を指しその沿道に祀られたのが須牟地神(=住地住道神で、須牟地神は「道の神」の性格を持つ神です(△5のp95)。これを踏まえた上で「由緒略記」が言ってる事をより詳細に見て行けば、この地が大阪湾に浮かぶ小島の一つであった古代に「住吉住地(=須牟地)曽根神」を祀ったのを起源とし「難波八十島祭」旧跡の一社(※25)であったと伝え、八十島祭を定めた嘉祥3(850)年に遡れるとして居ますが、延長5(927)年に撰進された「延喜式神名帳」(※26、※26−1)に記載は在りませんので、そこ迄遡れるかは疑問です(→後で私見を述べます)。

 八十島祭の詳細については既に▼下のページ▼で
  生国魂神社と上方芸能(Ikutama shrine and entertainments, Osaka)

述べて居ます。ここではそのコピーを抜き出して置きます。

−−−−▼▼▼(「生国魂神社と上方芸能」からのコピー)
 「八十島」(※25−1)ですが、現在の大阪市中心部は古代には海だったのですね。為に古代の大坂は難波江とか難波潟と呼ばれ時代と共に徐々に海退が進み少しずつ陸地が形成されて来た事は史実です。その様な陸地形成の過渡期に、この地は「洲(す)」(※27)を形成し「曽根洲(そねす)」と呼ばれたのが地名の起源です。そもそも地名の「そね」 −文字は曽根・曽祢などを当てる− (※27−1)自体に海水中の岩礁の意味が有り(△6のp74)、「洲(す)」とは水流に運ばれた土砂が堆積して水面上に現れた場所を指す語で、その洲や小島が数多く点在した状態を「八十島」と呼んだのです、八十(やそ)は数字の80では無く「数が多い」という意味です。八十島祭の【脚注】※25に在る「国土の生成を謝し」とは、点在する「八十島」の「地固め」をし島々を連ねる祭と解釈出来ます。現代大阪の地図を見て下さい、大阪の地が「洲(す)/八十島」と呼ばれ段々堆積して形成された事が判ると思います。
−−−−▲▲▲

 ここからが私の推察ですが、先ず<第1の解釈>です。最初私は露天神社の古代祭神「住吉須牟地(住地)曽根神」を「住吉神」「須牟地神」「曽根神」と解釈してみました。「住吉神」とは住吉大社の主祭神の底筒男命・中筒男命・表筒男命のことで住吉三神と言われる海神で特に「航海の神」です。「須牟地神(=住地神/住道神)」を祀る神社は実際に住道に存在します(←中臣須牟地神社神須牟地神社須牟地曽祢神社)、しかも式内社(※26−1)です(△5のp94、△7のp425)。残る「曽根神」は【脚注】※27−1の意味の海中の岩礁時代からの呼び名に由来する地元の守り神という解釈です。即ち古代に洲(す)であった軟弱な地盤を「地固め」し島々を連ねる為に八十島神から「航海の神」の住吉神と「道の神」の須牟地神を勧請し、それに地元の「そねの神」、即ち岩礁とか洲の曽根神を合祀したのが起源であろうと。

 次に<第2の解釈>です。ところが別の目的で摂津国の式内社一覧を見て居たら住吉郡にその名もピタリの須牟地曽祢神社という式内社が存在し、少し調べてみると須牟地曽祢命を祀って居たのです。「曽祢」と「曽根」は同じ(※27−1)で「須牟地命」=「道の神」も同じです。この神社は江戸時代には勝手明神と呼ばれ明治期に火災に遭い堺の金岡神社(堺市金岡町)に合祀され一旦は消滅しましたが、その後地元の氏子の尽力で旧地とされる堺市蔵前町に須牟地曽根神社の名で復活して居ます。こちらを採ると当社の古代祭神「住吉須牟地曽根神」とは住吉郡の「須牟地曽根神」のことに成り、須牟地曽祢命を須牟地曽祢神社から勧請したことに成ります。この場合も「道の神」の神威で八十島を「地固め」する目的は同じです。しかし大きく異なるのは、須牟地曽根神社の須牟地曽祢命は物部氏系の古代豪族の曾禰連(そねのむらじ)の祖神で、饒速日命の六世孫の伊香我色雄命(いかがしこおのみこと、△8のp59)の後裔とされ、現在堺市以南に点在する曽根/曽祢の地名はこの曾禰氏居住地の名残ですが、<第2の解釈>に従えばこの曾禰連の支族が今の曽根崎の地にやって来て曾禰氏の祖神を祀ったことに成るのです。
 未だ未だ解らない事が有りますが取り敢えずはこんな所です。冒頭で当社の創建は少々複雑 −少々所か大分複雑− と言った理由が、これでお解り戴けたと思います。
 尚、須牟地の神について、この程纏めましたので是非ご覧下さい。
  初歩的な神道の神々(The gods of rudimentary Shinto)
    {この節は04年11月23日に追加、その後05年11月6日に<第2の解釈>を加筆し再編集}

 (2)「菅公の天神」としての歴史は浅い

 創建の謂れは兎も角、八十島神を祀った甲斐有って当地が地続きの「曽根崎」に成ったのは南北朝時代(1336〜92年)の頃の様で、「崎」としたのは地続きの土地の先端(※27−2)だったからでしょう。そして、この時期に摂津渡辺党渡辺薫らの一族が当地に移り住み農業地を開墾して曽根崎村を起こした(△9)のが始まりの様です。露天神社の宮司は代々渡辺氏が務めて居るので露天神社の実際の創建はこの時期という可能性が浮かび上がって来ます。
 そして、この曽根崎の渡辺氏の後裔が大坂夏の陣の迸(とばっち)りで焼けた当社を元和8(1622)年に再建した際に初めて道真を配祀しましたので、当社が道真を祀った所謂「天神(てんじん)さん」の仲間入りした以後の歴史は浅いのです。そう成ると当社は大阪市の御幸森天神宮服部天神宮や京都の五条天神宮と同じく元々は道真と無縁な天神(てんしん、「天の神」の意)を祀った神社であった可能性が高く、実はそういう神社の主祭神として多いのが少彦名神で、ここに名を挙げた神社は全て少彦名が主祭神です。又、当社の祭礼日の何れもが道真に因縁の深い25日では無い点からも当社と菅公の縁は薄いと見るべきです。従って当社の名称由来も「露の井」が先に在ったからと考えるのが素直な解釈です。

 しかし兎に角、道真配祀から100年足らずの『曾根崎心中』では「天神(てんじん)の森で死なんと 手を引きて梅田(むめだ)」と、すっかり菅公の天神(てんじん、※28)として定着して居ます。現在、全国で1万社を超え数が多い天神(てんじん)さんの受容は早いという訳です。
    {この節は04年12月28日に追加、05年2月17日に加筆修正}

 (3)摂津名所図会に描かれた露天神社

図1:『摂津名所図会』の露天神社。 お初・徳兵衛の心中事件から90年位後の1790年代に刊行された『摂津名所図会』(※29)の曾根崎露天神の図(右の図、△10のp24〜25、△10−1のp460〜461)です。「総じて此辺を俗に北の新地堂島新地というて、宝永5年の開地なり。常に賑しく、夕暮より両側には軒の懸行燈かゞやかして、紅顔雪肌の輩ゆきゝして、楼上には琴曲絲絃の音麗しく、芝居あり、射場あり。」と新興の花町の賑わいが書かれて居ますが、近松の『曾根崎心中』には触れて居ません(△10−1のp458)。
 当時の神域は570坪(=1880u)だったそうです(△10のp25)から当時から小ぢんまりとした神社ですが、周囲にビルなど無いので開放感が有ります。境内は南と西に鳥居が在り「露の井」も在ります。今と異なってる点は、本殿西側(今の開運稲荷辺り)に観音堂が在り「お初天神通り商店街」の辺りは菅公所縁の梅林でした。そして境内に松は所々に在りますが『曾根崎心中』で重要な役割を担った棕櫚の木は見当たりません。図には道真の「露」の歌に引っ掛けて次の歌が添えられて居ます。

  露とても あだにやは見る 長月の 菊の千とせを 過ぐと思へば

 今から約200年前の露天神社を偲んでみました。

 ■戦災の試練と戦後の「お初天神通り商店街」の形成

 (1)太った伏臥牛

 以上で当社の歴史が解りましたので、再び境内を徘徊してみましょう。
写真4:梅田新道側から見た西門。 徘徊し過ぎて境内の外に出て仕舞いましたが、左が西門の外から境内を撮ったもので、西門は車の往来が激しい梅田新道に面して居ます。門柱には
  露 天神社
と「露」と「天神社」を離して刻印して在りますが、これは読みが「露の天神社」だからでしょう。
写真4−1:太った伏臥牛。 この西門近くには伏臥牛が居ます(右の写真)。牛は菅公の神使なので菅公を祭神とする天神さん −前述の如く当社がそれに加わったのは遅かったのですが− には必ず居るものですが、しかし、ここの牛は賽銭箱を前に置いて踏ん反り返って居ます。流石は”都会の牛”です。私は既に本殿に賽銭しましたので、ここではせずに牛に「菅公にお下がりを貰え」と言って遣りました、アッハッハ!
 この牛は賽銭をちと食い過ぎて腹が出て太り気味の様子ですから、この位言うのも偶には宜しいのです。

 (2)猿田彦神

 露天神社には氏子からの奉納物などを展示している所が在って、一瞬天狗かと思いましたが実は猿田彦神(※30)でした(左の写真、右が顔部の拡大)。ガラス窓なのでストロボが光って居ます。「奉納」と書いて在り、人間がこの衣装と面を被って祭礼時に神楽を舞うのでしょう。
 ところで猿田彦は記紀の神話に登場する神で神々の道案内役を務めた神ですが、【脚注】※30に在る如く多元的な性格を備え、「猿」のイメージからか後世に俳優とか衢(ちまた)の神とか道祖神とか、そして鼻が非常に長いこと(拡大写真を見よ)から天狗にも擬されて居て、中々謎の多い神様です。
 三重県伊勢市に猿田彦神社を本宮とし、三重県鈴鹿市の椿大神社にも祀られて居ます。

 (3)お初天神通り商店街

写真5:現在の「お初天神通り商店街」アーケードの北側入り口。 露天神社の本殿は何度も火災に遭って居ますが、最後は第二次大戦末期の戦火で今の「お初天神通り商店街」も西側の一部を除き焼失しました。敗戦直後あちこちで闇市が立つ中、当社境内にも飲食店のバラックが立ち並び、これらの店が戦後の天神通り復興の礎に成りました。戦後10年間位の復興期間を過ぎた1955年頃から超高度成長の時代が訪れ日本は発展期に入りました。当社も1957年本殿の再建を果たし、その勢いに乗って天神通りの商店街も「すずらん通り」→「曽根崎センター街」(1957年)→「お初天神通り商店街」(86年)と幾度か名称を改め乍ら発展して来ました。
 右が現在の「お初天神通り商店街」アーケードの北側入り口です。入口上部に浄瑠璃『曾根崎心中』の主人公「お初」の女形人形が大きく描かれて居ます。大阪の表玄関でありビジネス街である梅田駅(JRは大阪駅)に近接して居るという立地条件の良さから、昼もご覧の様に賑わい夜は誘蛾灯の様に”蛾紳士”たちを吸い寄せ、日本全体の成長以上に急成長したのがこの商店街だと私は捉えて居ます。
    {この節は04年11月23日に追加}

 ■結び − 最後に正面鳥居

 人間というのは可笑しな動物で、行き難い所に在るものは有り難く感じますが行き易い場所とか普段傍を通って居る様な場所には、例えそこに重要なものや有り難きものが在っても気付かずに居ます。だから私は「旅は身近な所から」と常日頃言ってる訳です。
 ここキタの露天神社も私は普段飲んだ暮れて傍を行き来してる所為で、ここを改めて参拝するなどという事は殆ど有りません。第一ここの正門(正面鳥居)から入った事などは数える程しか無いのです。その理由は冒頭に記した様に当社の社殿は南向き南側の門が正面鳥居なのですが、繁華街の「お初天神通り商店街」が境内の北に在る為に偶に入る時は決まって北側の狭い裏門を潜って入ります。まあ、偶に寄るだけでも”善い心懸け”であるとは言えますが。
写真e−1:露天神社の正面鳥居脇の社名石柱。写真e:露天神社の正面鳥居。 私と同様に酒気を帯びて当社周辺を頻繁に徘徊してる御仁は非常に多く、しかも正面鳥居を知らない方も数多いと推察されますので、最後に”鼬(いたち)の最後っ屁”の様では有りますが、当社の正面鳥居の写真を掲載します(右の写真)。この鳥居の左側に「創建の謂れ」で既に参照している「由緒略記」の説明板が、茶色にちらと見えて居ます。
 この鳥居もビルの谷間に在ることがお解り戴けるでしょう。鳥居右側の石柱には西門と同じく「露」と「天神社」を離して刻印して在ります。
 皆さんも偶にはこの正面鳥居からお入り下さい。

 尚、[人形浄瑠璃巡り]シリーズの他画面への切り換えは最下行のページ・セレクタで行って下さい。(Please switch the page by page selector of the last-line.)

φ−− おしまい −−ψ

【脚注】
※1:少彦名神(すくなびこなのかみ)は、日本神話で高皇産霊神(たかみむすびのかみ)(古事記では神産巣日神(かみむすびのかみ))の子。体が小さくて敏捷、忍耐力に富み、大国主命と協力して国土の経営に当り、医薬・禁厭(まじない)などの法を創めたと言う。
※1−1:大己貴神/大穴牟遅神/大汝神(おおなむちのかみ)とは、大国主命の別名。大名持神(おおなもちのかみ)とも。

※2:禁厭(きんえん)とは、呪(まじな)いをして悪事・災難を防ぐこと。
※2−1:恩頼・恩賚(みたまのふゆ)とは、天神、又は天皇の恩恵・加護・威力を尊んで言う語。神代紀上「百姓(おおむたから)今に至るまでに咸(ことごとく)に―を蒙れり」。

※3:「左近の桜」は、平安時代以降、紫宸殿の南階下の東方に植えられた山桜。儀式の時、左近衛府の官人がその側に列したから言う。南殿(なでん)の桜。平治物語「―、右近の橘を七八度まで追ひまはして」。←→右近の橘。
※3−1:「右近の橘」は、平安時代以降、紫宸殿の南階下の西方に植えた橘。儀式の時、右近衛府の官人がその側に列したから言う。←→左近の桜。

※4:近松門左衛門(ちかまつもんざえもん)は、江戸中期の浄瑠璃・歌舞伎脚本作者(1653〜1724)。本名、杉森信盛。平安堂・巣林子(そうりんし)などと号。越前の人。歌舞伎では坂田藤十郎と、浄瑠璃では竹本義太夫と提携。竹本座の座付作者狂言本二十数編、浄瑠璃百数十曲を作り、義理人情の葛藤を題材に人の心の美しさを描いた。作「出世景清」「国性爺合戦」「曾根崎心中」「心中天網島」「女殺油地獄」「けいせい仏の原」など。
※4−1:曾根崎心中(そねざきしんじゅう)は、浄瑠璃の一。近松門左衛門作の世話物。元禄16年(1703)4月、大坂内本町の醤油屋平野屋の手代徳兵衛と北の新地の天満屋の遊女お初とが曾根崎天神の森で情死した事件を脚色、翌月初演。世話浄瑠璃最初の作品
※4−2:道行(みちゆき)とは、この場合、浄瑠璃や歌舞伎狂言の中の舞踊に依る旅行場面。主に相愛の男女が連れ立つ場面が多く、「駆け落ち」の意にも使う。

※5:厄年(やくどし)とは、[1].unlucky age。陰陽道で、人の一生の内、厄に遭う恐れが多いから忌み慎まねば為らないとする年。数え年で男は25・42・61歳女は19・33・37歳などと言う。特に男の42歳女の33歳大厄(たいやく)と言い、その前後の年も前厄(まえやく)・後厄(あとやく)と言って恐れ慎む風が有った。厄回り。年忌(としいみ)。宇津保物語楼上下「左大殿の―におはするとて」。
 [2].unlucky year。転じて、一般に災難の多い年。
<出典:一部「学研新世紀ビジュアル百科辞典」より>

※6:連理(れんり)とは、[1].1本の木の幹や枝が他の木の幹や枝と連なって木理が通じて居ること。「―の枝」。
 [2].夫婦、又は男女の深い契りの譬え。
※6−1:結び松(むすびまつ)とは、願を掛けたり誓いを立てたりした印(しるし)に、松の小枝を結ぶこと。又、その松。万葉集2「磐代の野中に立てる―心も解けず古おもほゆ」。

※7:知死期(ちしご)とは、陰陽道で月の出入りと潮の干満の時刻から予知される、人の死ぬ時刻。死期。死に際。

※8:ヴェリズモ(verismo[伊])は、フランスの自然主義に刺激されて、19世紀末葉、イタリアで興った写実主義文学運動。代表者ヴェルガ。真実主義
※8−1:ヴェリズモ・オペラ(verismo opera[伊])は、ヴェリズモ主義(=真実主義)に基づき実際に起こった事件を脚色して台本を仕立てたオペラのことで、主に19世紀末のイタリアで流行。マスカーニ作曲の『カヴァレリア・ルスティカーナ』レオンカヴァルロ作曲の『道化師』が代表作で、この2作は構成も単純で適時性と好奇心満足を兼ね備えた内容です。

※9:亀山の仇討(かめやまのあだうち)は、元禄14年(1701)5月、伊勢国亀山城下で、石井半蔵・源蔵兄弟が父兄の仇赤堀源五右衛門を28年目に討った仇討。「元禄曾我」の名で世の評判と成り劇化された。

※10:際物(きわもの)とは、[1].seasonal articles。入用の季節の間際に売り出す品物。その時を失すれば無用・無価値と成る。正月の門松や3月の雛人形などの類。季節物。
 [2].ephemeral articles。転じて、一時的な流行を宛て込んで売り出す品物。
 [3].sensational work。当時の世上の事件・流行に取材、時好に投じようとした脚本・小説・映画などを指す。

※11:瓦版(かわらばん)は、粘土に文字・絵画などを彫刻して瓦の様に焼いたものを原版として一枚摺りにした粗末な印刷物。江戸時代、事件の急報に用いた。実際は木版のものが多い。但し「瓦版」の名は江戸末期のもので、それ以前は絵草子など。
※11−1:絵草子/絵草紙/絵双紙(えぞうし)とは、(絵入りであるから言う)
 [1].草双紙、即ち赤本・青本・黒本・黄表紙・合巻の類。広く絵本・絵入本・錦絵(にしきえ)をも言う。
 [2].江戸時代に珍しい事件を絵入りで速報した小冊子で、江戸末期以後の瓦版
<出典:一部「学研新世紀ビジュアル百科辞典」より>

※12:竹本座(たけもとざ)は、大坂道頓堀戎橋南詰に在った操座。1684年(貞享1)頃、竹本義太夫の創立。近松の浄瑠璃を上演して大成功を収め、豊竹座と対立して全盛を極めたが、1767年(明和4)廃座。
※12−1:竹本義太夫(たけもとぎだゆう)は、江戸初期の浄瑠璃太夫(1651〜1714)。義太夫節の開祖。本名、五郎兵衛。摂津天王寺村の人。初め井上播磨掾の弟子清水(きよみず)理兵衛に学び、清水理太夫と名のり、1684年(貞享1)竹本義太夫と改名、大坂道頓堀に竹本座を設けて「操り浄瑠璃」を興行。近松門左衛門の作を語って操り人形浄瑠璃を大成。98年(元禄11)受領して竹本筑後掾藤原博教と成る。
※12−2:豊竹若太夫(とよたけわかたゆう)は、江戸中期の義太夫節の太夫(1681〜1764)。初世は、大坂の人。初名、竹本采女(うねめ)。竹本義太夫の門に入り、1703年(元禄16)豊竹座を創立。31年(享保16)越前少掾を受領。東風(ひがしふう)の開祖
※12−3:豊竹座(とよたけざ)は、大坂道頓堀に在った操座(あやつりざ)。1703年(元禄16)豊竹若太夫(竹本義太夫の門弟采女(うねめ))の創立。竹本座と対立したが、65年(明和2)閉座。

※13:一分(いちぶん)とは、(「一身の分限」の意)一身の面目、又は職責。浄、鑓の権三重帷子「乗せもせぬ運賃取つては―立たぬ」。

※14:時代物(じだいもの)とは、文学・演劇・映画などで、江戸時代及びそれ以前の、特に武将の軍記などに取材したものの総称。←→世話物。
※14−1:世話物(せわもの)とは、浄瑠璃・歌舞伎・小説・講談などで、当代の世態・風俗・人情を背景とし、当代の出来事に取材したもの。特に江戸時代の町人社会に取材したもの。世話。←→時代物。

※15:辰松八郎兵衛(たつまつはちろうべえ)は、江戸中期の人形遣い(?〜1734)。竹本座開設当初から女形人形の名人。1703年(元禄16)「曾根崎心中」のお初を演じて好評。享保(1716〜1736)初年、江戸に下り辰松座の櫓を堺町の半太夫座で揚げた。彼が結った髷(まげ)の形は辰松風と言われた。
※15−1:女形人形(おやまにんぎょう)とは、[1].少女の形に造った人形。
 [2].1650年(慶安3)頃、人形遣いの小山次郎三郎が江戸の操り人形芝居で巧みに使った遊女の人形が最初で、辰松八郎兵衛などに受け継がれた。又、女形の人形。おやま(女形/お山)。
※15−2:辰松風(たつまつふう)とは、享保の頃、辰松八郎兵衛の結い始めた男子の髪型。元結で髷(まげ)の根を高く巻き上げて結ったもの。これに倣った島田髷を辰松島田と言った。

※16:竹沢権右衛門(たけざわごんえもん)は、5世迄。初世(16??〜17??)は竹本義太夫の相三味線として初期の義太夫節の発展に寄与、義太夫死後に豊竹座の三味線方。<出典:一部「日本史人物辞典」(山川出版社)より>

※17:徳川綱吉(とくがわつなよし)は、徳川第5代将軍(1646〜1709、在職1680〜1709)。家光の4男。母は桂昌院。幼名徳松。上州館林城主から宗家を継ぐ。越後の高田騒動を親裁し、譜代大名・旗本・代官の綱紀を粛正、又、学を好み、湯島に聖堂を建立し、後世、天和の治と称されるが、次第に柳沢吉保らの側近政治の弊害が現れ、特に「生類憐みの令」は人民を苦しめ、犬公方(いぬくぼう)と渾名された。常憲院と諡す。
 補足すると、綱吉は戌年生まれです。
※17−1:生類憐みの令(しょうるいあわれみのれい)は、徳川5代将軍綱吉の発布した動物愛護の命令。僧隆光の言に拠り、魚鳥を食料として飼養することを禁じ、畜類、特に犬を愛護させた。極端に走った為に人民を苦しめ、綱吉は犬公方(いぬくぼう)と呼ばれた。1709年(宝永6)廃止。
※17−2:徳川吉宗(とくがわよしむね)は、徳川第8代将軍(1684〜1751、在職1716〜1745)。紀州2代藩主徳川光貞の4男。初名、頼方。紀州藩主と成り、将軍位を継いで享保の改革を行なった。米将軍と呼ばれる。有徳院と諡す。
※17−3:大岡忠相(おおおかただすけ)は、江戸中期の町奉行(1677〜1751)。8代将軍徳川吉宗に用いられて裁断公正、名判官と称せられた。越前守に任じられ大名の列に入り、三河国を治めた。寺社奉行時代の「大岡忠相日記」は、吉宗の頃の幕閣運営の実態を示す好史料。尚、「大岡政談」として有名な名判官振りは、殆どが後代の作り話。<出典:一部「学研新世紀ビジュアル百科辞典」より>

※18:倒錯(とうさく)とは、[1].inversion。上下を転倒すること。逆に成ること。
 [2].perversion。本能や感情の異常及び人格の異常に因って、社会的規範に反する行動を示すこと。「性的―」。

※19:井原西鶴(いはらさいかく)は、江戸前期の浮世草子作者・俳人(1642〜1693)。本名、平山藤五。大坂の人。西山宗因の門に入って談林風を学び、矢数俳諧で一昼夜2万3千5百句の記録を立て、オランダ西鶴と異名された。師の没後、浮世草子を作る。作品は良く雅俗語を折衷、物語の伝統を破って、性欲・物欲に支配されて行く人間性を生き生きと見せ、元禄前後の享楽世界を描いた好色物、義理堅い武士気質を写した武家物、町人の経済生活を描いた町人物などに特色が有る。作「好色一代男」「好色一代女」「好色五人女」「武道伝来記」「日本永代蔵」「世間胸算用」「西鶴諸国ばなし」「本朝二十不孝」「西鶴織留」、俳諧に「大句数」「西鶴大矢数」など。

※20:端女郎(はしじょろう/はしたじょろう)とは、江戸時代の公娼で、下級の遊女。見世女郎。局女郎(つぼねじょろう)。端(はし)。

※21:三勝半七(さんかつはんしち)は、1695年(元禄8)大坂千日前で心中した大和国五条新町の赤根屋半七と島の内の垢擦り女美濃屋三勝。この心中事件は浄瑠璃や歌舞伎などの題材となり、浄瑠璃の「艶容女舞衣」が最も有名。
※21−1:艶容女舞衣(はですがたおんなまいぎぬ)は、浄瑠璃の一。竹本三郎兵衛他合作の世話物。1772年(安永1)初演。「酒屋の段」が有名。後に歌舞伎化。
※21−2:岩井半四郎(いわいはんしろう)は、歌舞伎俳優。屋号大和屋。
 (初代)大坂で座元を務めた立役の名手(1652〜1699)。

※22:条件付け(じょうけんづけ、conditioning)とは、或る事象が本来は関係の無い生理的反応を引き起こす様に操作すること。古典的条件付け(条件反射道具的条件付けとが在る。

※23:相対死(あいたいじに/あいたいし)とは、心中(しんじゅう)のこと。江戸幕府は吉宗の時に「心中」の語を禁じた

※24:忠(ちゅう)とは、[1].fidelity。偽りの無い心。真心を以て尽くすこと。忠実。誠。まめやか。「忠誠・忠告」。
 [2].loyalty。儒教の中心道徳の一つで、中国では禄を貰って君主に仕える臣が君主に対して専心尽くすこと。日本の武士道では、従者が主君に対して負う義務。忠義。忠君

※25:八十島祭(やそしままつり)とは、大嘗祭の翌年、吉日を選び、勅使を摂津の難波に遣わし、住吉神・大依羅神(おおよさみのかみ)・海神・垂水神(たるみのかみ)・住道神(すむじのかみ)などを祀って、国土の生成を謝し、治世の安泰を祈る儀式。嘉祥3年(850)〜元仁1(1224)迄行われた。八十島神祭。
※25−1:八十島(やそしま)とは、[1].多くの島。万葉集20「又更に―すぎて別れか行かむ」。
 [2].八十島祭の略。台記「―、大納言典侍出京」。

※26:延喜式(えんぎしき)とは、弘仁式・貞観式の後を承けて編修された律令の施行細則。平安初期の禁中の年中儀式や制度などの事を漢文で記す。50巻。905年(延喜5)藤原時平・紀長谷雄・三善清行らが勅を受け、時平の没後、忠平が業を継ぎ、927年(延長5)撰進。967年(康保4)施行。
※26−1:神名帳(しんめいちょう/じんみょうちょう)とは、神祇の名称を記した帳簿。特に延喜式巻9・巻10の神名式を言い、毎年祈年祭(としごいのまつり)の幣帛に与る宮中・京中・五畿七道の神社3132座を国郡別に登載する。この延喜式神名帳に登載された神社を式内社、それ以外を式外社と言う。

※27:洲/州(す、sand bar)とは、水流に運ばれた土砂が堆積して、河川・湖海の水面上に現れた所。砂洲(さす)。
※27−1:「そね」とは、多く曽根/曽祢/曾禰などの字を当てる。
 [1].(畝(うね)、尾根(おね)から)低く長く続いた高まり尾根状の地形。又、海中の暗礁をも言う。
 [2].(石根(いそね)の略)石混じりの痩せ地。埆(そね)。〈新撰字鏡5〉。
※27−2:崎/碕(さき)とは、((さき)の意)[1].cape。陸地が海や湖に突き出た先端。岬(みさき)。
 [2].spur。山が突き出た先端。万葉集20「丘の―い廻(た)むるごとに」。

※28:菅公(かんこう)は、菅原道真の敬称。

※29:摂津名所図会(せっつめいしょずえ)は、秋里籬島著、竹原信繁他画に依り寛政8〜10(1796〜98)年に発刊された。
 補足すると、他に近畿地方の名所図会としては図会本の先駆けを為した「都名所図会」を始め、「拾遺都名所図会」「大和名所図会」「和泉名所図会」「河内名所図会」などが在る。

※30:猿田彦(さるたひこ)は、(古くはサルダビコ)日本神話で、瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)降臨の際、先頭に立って道案内し、後に伊勢国五十鈴川上に鎮座したという神。容貌魁偉で鼻長7咫(あた)(←天狗の原形の説有り)、身長7尺余と伝える。俳優衢(ちまた)の神とも言う。中世に至り、庚申の日にこの神を祀り、又、道祖神と結び付けた。

    (以上出典は主に広辞苑です)

【参考文献】
△1:『日本書紀(一)』(坂本太郎・家永三郎・井上光貞・大野晋校注、岩波文庫)。

△2:『曾根崎心中・冥途の飛脚』(近松門左衛門作、祐田善雄校注、岩波文庫)。

△3:『かわら版物語』(小野秀雄著、雄山閣)。

△4:『好色二代男』(井原西鶴作、横山重校訂、岩波文庫)。

△5:『日本の神々 神社と聖地3』(谷川健一編、白水社)。

△6:『歴史読本特別増刊 日本「歴史地名」総覧』(新人物往来社編・発行)。

△7:『別冊歴史読本 日本「神社」総覧』(新人物往来社編・発行)。

△8:『日本の神様[読み解き]事典』(川口謙二編著、柏書房)。

△9:Webサイト「露天神社(お初天神)」(お初天神通り商店街会編)。

△10:『上方風俗 大阪の名所図会を読む』(宗政五十緒編、東京堂出版)。
△10−1:『摂津名所図会 上巻』(秋里籬島著、原田幹校訂、古典籍刊行会)。

●関連リンク
参照ページ(Reference-Page):現代大阪の地図▼
地図−日本・淀川、桜之宮と大阪城
(Map of Yodo-river, Sakuranomiya, and Osaka castle, Osaka -Japan-)

補遺ページ(Supplement):「お初の墓」について▼
[人形浄瑠璃巡り#2]露天神|補遺([Puppet Joruri 2] Tsuyu-tenjin, SUP.)
補完ページ(Complementary):人形浄瑠璃「文楽」成立過程の考察▼
人形浄瑠璃「文楽」の成り立ち(The BUNRAKU is Japanese puppet show)
補完ページ(Complementary):赤穂浪士事件も
元禄の”倒錯の時代”に起きている▼
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初歩的な神道の神々(The gods of rudimentary Shinto)
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