[人形浄瑠璃巡り#2]露天神|補遺
[「曾根崎心中」お初の墓]
([Puppet Joruri 2] Tsuyu-tenjin, SUP.)

−− 2005.02.17 エルニーニョ深沢(ElNino Fukazawa)
2010.02.20 改訂

 ■お初の墓について

 ★このページは本論(Main-issue)
  [人形浄瑠璃巡り#2]露天神([Puppet Joruri 2] Tsuyu-tenjin, Osaka)
補遺ページ(Supplement-Page)です。


 本論に於いて、私は

 お初・徳兵衛の比翼塚は曽根崎には無く八尾市の徳宝山大通寺(融通念仏宗) −元は教興寺(真言律宗)塔頭の大通院− に在ります。その訳は「お初」は河内国教興寺村(現大阪府八尾市教興寺)の出身だからで、二人の死を不憫に感じた当時の教興寺の住職・浄厳和尚が墓を建て弔ったものです。

と記しましたが、当補遺ページでは「お初の墓」について考えてみます。

 ■お初の墓・その1 − 大阪府八尾市教興寺の大通寺

 (1)大通寺に「お初の墓」を造った経緯

 近松門左衛門(※1)のヒット作『曾根崎心中』(※1−1) −これが如何にヒットしたかは本論をお読み下さい− は、実際に大坂曽根崎の露天神社(通称:お初天神、別名:曽根崎天神、現住所:大阪市北区曽根崎2丁目)境内で心中を遂げたお初徳兵衛という実在の男女を主人公にして居ます。
 近松門左衛門の『曾根崎心中』については、本論の「『曾根崎心中』の演劇史的意義」の章に記した通りです。即ち

 内本町橋詰の醤油屋「平野屋」の手代徳兵衛(←彼は主人忠右衛門の甥)と堂嶋新地新茶屋町の女郎屋「天満屋」の遊女お初が、元禄16(1703)年4月7日夜にこの曾根崎天神の森で心中した事件を下敷に、当時京都に住んで坂田藤十郎の歌舞伎を書いて居た門左衛門が噂を聞き付け浄瑠璃に仕立てたものです。

と記しました。つまり、オペラ風に言えばヴェリズモ浄瑠璃(※2、※2−1)なのです。これが通説です。
 今は一応通説に沿って話を進めます。そして問題にするのは「お初の墓」です。徳兵衛も主人公ですが、浄瑠璃では徳兵衛は遊び人でどうしようも無い奴で、やはり観客の同情を買っているのは「お初」です。
 お初・徳兵衛の比翼塚徳宝山大通寺(融通念仏宗、大阪市八尾市教興寺)に在ります。住所が教興寺に成って居ますが、これは大通寺は嘗て教興寺の塔頭寺院(※3)だったからです。今も教興寺は在り、両寺は100m位しか離れて居ません。何故「お初の墓」が大通寺に在るかと言えば、「お初」は河内国教興寺村の出身だからです。

    ◆教興寺の由緒

 宗派:真言律宗、山号:獅子吼山、住所:大阪府八尾市教興寺7。寺伝に拠れば、聖徳太子物部守屋の討伐を祈願する為に秦河勝に命じ588年に建立した寺です。しかし寺は中世には荒れ果て、文永6〜7年(1269〜70年)奈良西大寺の叡尊(※4)が河内布教に際し復興しました。又、叡尊は蒙古襲来の際に敵国降伏の祈祷をしばしば朝廷より命じられ、教興寺でも祈祷して居ます。その後、戦国時代には戦火に巻き込まれ伽藍を焼失し、再度荒廃しました。
 貞享年間(1684〜87年)に2度目の再興をしたのが、お初・徳兵衛の比翼塚を造り弔ったとされる浄巌(※4−1)です。浄厳と親交の在った近松門左衛門は暫く寺に寄宿して居たと伝えられて居ます。

    ◆大通寺の由緒

 宗派:融通念仏宗、山号:徳宝山、住所:大阪府八尾市教興寺7。聖徳太子物部守屋との戦いの際し当寺にその戦勝を祈願したと伝わって居ますが、これは教興寺の由緒の借り物でしょう。当寺は教興寺の塔頭寺院でしたから。寺は中世には戦火に遭うなど荒廃して居ましたが、元禄年間(1688〜1704年)融通念仏宗の寺として大通上人により再興され、寺名も大通寺と改め徳宝山の山号を受けました。その後1927年(昭和2年)の奥丹後の震災に因り本堂が傾きましたが仮本堂を再建し、戦後に現在の形に再興しました。
 伝説では「お初」と徳兵衛の2人を不憫に思った教興寺の住職・浄厳和尚は碑を建てて手厚く回向したそうです。この話を教興寺に滞在中に浄厳和尚から聞いた近松門左衛門は早速『曾根崎心中』を書き大坂竹本座で上演した、という話が伝わって居ます。境内には『曾根崎心中』の主人公のお初・徳兵衛の比翼塚(或いは供養墓夫婦塚縁繋ぎの墓)が在ります。

 (2)異説を紹介した新聞記事を私に教えた人

 私に2004年9月12日の「大阪日日新聞」の記事のコピーを呉れ、実際のお初・徳兵衛は心中なんかして居ない説が在る事を教えて呉れたのは太田照政氏です(右下の写真)。ちょっと、この人の事を書きます。

 この人は曽根崎2丁目北町会会長を務めた人で「曽根崎」に拘泥っているのです。例えばJRの北新地駅が出来る当時、太田さんは「北新地曽根崎駅」にするべきだ、と言って関係者に訴えて居ました。又、佐賀県鳥栖市にも曽根崎町が存在する事を私に教えて呉れましたので、私は09年に鳥栖市曽根崎町に行って来ました(09年3月28日と29日)。

 又、好奇心旺盛な人で、「物外館友の会」の中心的人物で、私が主宰する「ブラボー、クラシック音楽!」とか純喫茶探偵団で「純喫茶」を見付けたりしました。極め付きは東京秋葉原のメイド喫茶を視察に行きました(07年3月19日)。そして自分ではタレント業でテレビ・コマーシャルに出演したり司会業を遣ったりと、兎に角”超多忙な閑人”なのです!!
 そしてハム無線(=アマチュア無線)を遣っていて今でも”JA3AZP”というアドレスを持って居ます。彼は私の良き友人、良き先輩です。
    {この節は2010年2月20日に一部追加し、最終更新}

 (3)異説の検討 − お初・徳兵衛は若死にと病死

 掻い摘んで異説の内容を記せば、「木綿問屋の養子・徳兵衛と恋仲に成った「お初」は教興寺村の宗二の娘で、父宗二の病気の為に村に帰って来た二人は教興寺の浄巌和尚に相談して居ます。浄巌和尚の計らいで徳兵衛は教興寺の寺男(※5)として勤め、「お初」が曾根崎の遊郭の年季奉公を終えた後、教興寺村で二人は祝言を挙げました。二人は幸せな日々を送りました。しかし、間も無く徳兵衛が病死し、その後を追う様に「お初」も若死にしました。不憫に思った浄巌和尚は石碑を建てて手厚く回向しました。石碑は夫婦塚とか縁繋ぎの墓と呼ばれ、縁結びに御利益が有るとされ参拝者が絶えなかったそうです。
 この噂を浄巌和尚と親しくしていた近松門左衛門が教興寺を訪ねた際に聞き付け、早速心中話に脚色『曾根崎心中』に纏め上げ、空前のヒットに成りました。」
というのが大通寺に伝わる伝承で、これが「大阪日日新聞」の記事の要約です。

 この伝承に拠れば、お初・徳兵衛は心中なんかして居ないので、『曾根崎心中』の心中話は近松門左衛門の脚色という事に成り、ここが通説と大きく異なる点です。

    ◆通説と異説の違い

 ここでもう一度、通説異説の違いに注目し、論点を▼下▼に整理してみます。

        <図式:通説と異説の違い>

  通説  近松は元禄16(1703)年4月7日夜
        曾根崎天神の心中事件を元に、『曾根崎心中』を書き進める
                ||
            ヴェリズモ浄瑠璃

  異説  父宗二の病気の為に村に帰って来たお初・徳兵衛は
        教興寺の僧・浄巌に相談
 → 浄巌の計らいで宗二は教興寺の寺男
      お初が曾根崎の遊郭の年季奉公を明けた後にお初・徳兵衛は結婚
      お初・徳兵衛は若死にと病死 → 二人の死初演時より5年位前
      不憫に思った浄巌が石碑を建てて弔った(石碑建立に半年は掛かる)
      石碑は縁結びに御利益が有るとされ参拝者で賑わう(2、3年は掛かる)
      近松はその噂を親交の在る浄巌から聞き付け、
        『曾根崎心中』を全面的に心中話に脚色(それが何時かは不明)

  通説・異説共通
      元禄16年5月7日に道頓堀の竹本座で初演

 通説については本論で論じて居ますので、説明は省略します。ここでは異説について論じたいと思います。
 先ず第1点に時間的問題が有ります。上の図式を見れば明らかですが、お初・徳兵衛の死初演時より5年位前、即ち元禄10年頃と考えられます。
 第2点近松が『曾根崎心中』を全面的に心中話に脚色することに成り、ここが通説と大きく異なる点です。通説ではヴェリズモ浄瑠璃ですから、実際に起こった事件(=お初・徳兵衛の心中)を脚色して台本を仕立てるのです。ところが異説では二人は若死にと病死ですから心中話は全面的に近松の創作・脚色に成ります。尤も大の近松ファンには、『曾根崎心中』は近松の全面的な創作・脚色だったと考える方が楽しいかも知れませんね。
 第3点は、ここが私が問題視して居る点なのですが、父宗二の病気の為に村に帰って来たお初・徳兵衛は教興寺の僧・浄巌に相談を持ち掛けて居ます。何の相談か、と言えば二人の将来の相談、経済の相談でしょう。その結果、徳兵衛は教興寺の寺男、即ち雑役係に成り、経済面で一歩前進したと言えます。
 しかし皆さん、こういう問題をに相談しますかねえ?、もし相談するなら「お初」の父・宗二と浄巌が何らかの関係が在った、と考えるべきですが不明です。
 ところで、浄巌(※4−1)は広辞苑に載る程の高僧で、特に悉曇(しったん)(※4−2)というインドの音声に関する学問をし「悉曇三密鈔」という著書も在る大変な学僧で、門下生には契沖などが居ます。この様な高僧・学僧と宗二との繋がりは皆無でしょう、私はそう思います。
 お初・徳兵衛の墓が故郷の村の寺に造られた事自体大変な事なのです。この当時は庶民の墓など造られなかった事も多いし、もし造られても2、3代で取り壊されたり、村の橋の工事に墓石が利用されたり、草に埋もれて判らなく成ったりしました。そう考えると、二人の比翼塚が寺に残って居るという事は、二人が異常な死に方をしたからこそだ、と考える方が自然です。
 第4点は、お初が曾根崎の遊郭の年季奉公、つまり遊女であった事ですね。今の所これだけは拭い去れない様ですね。若い女性が遊女に身を落とすという事は、家の借金か、或いはお初本人の若気の至りなのか、何らかの原因が在った筈です。

 という事で私は異説は支持出来ません。まぁ、何時の世でも物事を美しく考える人は居るもので地元贔屓がそうさせたのでしょう。後50〜100年位したら「お初」は遊女では無く堅気の商売をしていたかも知れませんよ、アッハッハッハ!!。
 尚、比翼塚の舟形に枠取りされた面には「南無阿弥陀仏」の6文字が刻まれて居ます。

 (4)当時の社会事情

 これは全て本論で述べて居る事の繰り返しですが、当時の社会事情として次の3点を挙げて置きます。私は通説異説を検討する場合も、この3点が大切なキーワードを成すと考えるからです。
 先ず<第1>は、当時の大坂の心中事情です。当時の大坂は異常な程、心中が流行って居たのです。井原西鶴は『好色二代男』巻八(貞享2(1685)年刊)にその頃大坂で心中した遊女の名を挙げて居ます(△1のp281〜284)。残念乍ら『曾根崎心中』が書かれた元禄16(1703)年の18年前なのが悔やまれます。しかし西鶴は『二代男』の同じ箇所で、「心中の論理の弱さ」「義理にあらず。情にあらす。皆不自由より、無常にもとづき。是非のさしつめにて。かくはなれり。」と喝破して居る点は流石です(△1のp284)。
 <第2>は、『曾根崎心中』が書かれた元禄時代は、後から考えれば「倒錯の時代」だったのです。この時代は徳川綱吉が治世した時代ですが、綱吉は「生類憐みの令」で犬公方と呼ばれた御仁なのです。加えて赤穂四十七士の吉良邸討ち入り(元禄15年12月14日、それは『曾根崎心中』初演の約半年前)も”倒錯”です。今あんな事件を起こしたらマスメディアを始め世論はテロだと叫んで四十七士を非難して居た筈ですが、当時の人々は判官贔屓からかテロルに喝采を送ったのです。そこには仇討(敵討)という行為が美化されているという事に注意して下さい。
 <第3>は、大坂(=上方)の文化元禄で終わりを告げるのです。後は全て江戸が中心に成ります。
 読者の方々が本論を良く読まれる事を期待します。

 ■お初の墓・その2 − 大阪市中央区中寺の久成寺

 大阪市のど真ん中の久成寺(宗派:本門法華宗、住所:大阪市中央区中寺2−1−41)に於いて「お初の墓」を偶然発見して仕舞いました。と言うのは、ここは私が住んでいる所(中央区瓦屋町2)から5分位で来れるのです。今日(=2010年2月20日)も中寺 −この辺りには中寺とか下寺という町名が在り何れも寺が矢鱈に多い地域なのです− を朝食後に散歩していて、偶然久成寺門前に「曾根崎心中 お初墓所」と刻印された石柱を見付けたからです。私も近松の『曾根崎心中』の事をHP(=ホームページ)に書いてます(即ち、本論のこと)ので、これは見過ごす訳には行きません。私はカメラを取りに家に戻り再びここに来て撮ったのが、これからご紹介する写真です。

 先ず左が久成寺の山門です。

 左が久成寺と書かれた表札、右が「お初墓所」の石柱です。
      ↑        ↑
     表札     お初墓所の石柱


 中に入ると境内墓地の一画に「お初の墓」が在りました(右の写真)。正面に「妙法 妙力信女と在り、お初の戒名は妙力信女です。
 右側面には
  「元禄十六年四月七日寂
   曽根崎心中お初之墓」

と陰刻されて居ます。元禄16年は1703年です。
 私は墓も新しいし、お初の人気に肖(あやか)って居る様にも見えましたが...(-v-)。

 こちらは通説を採用して居ます、即ちお初・徳兵衛は心中死です。久成寺に「お初の墓」が造られた訳は、お初が天満屋の遊女、そして天満屋が久成寺の檀家であった為として居ます。墓は明治の動乱期に”所在不明”に成ったので、2002年がお初の300回忌に当たる事から当寺の住職が再建したそうです。フムフム、一応理屈は合いますね。上の2箇所の「斜体字の部分」が合理性が有れば、の話ですが。
 当寺には天満屋の遊女某がお初を慕って墓前で自殺を図ったが住職に助けられたという伝承も伝わって居るそうです。
 因みに、当寺は大相撲大阪場所(春場所、3月場所)の高砂部屋の宿舎に成って居ます。

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    {この章は2010年2月20日に追加}

φ−− 以上 −−ψ

【脚注】
※1:近松門左衛門(ちかまつもんざえもん)は、江戸中期の浄瑠璃・歌舞伎脚本作者(1653〜1724)。本名、杉森信盛。平安堂・巣林子(そうりんし)などと号。越前の人。歌舞伎では坂田藤十郎と、浄瑠璃では竹本義太夫と提携。竹本座の座付作者狂言本二十数編、浄瑠璃百数十曲を作り、義理人情の葛藤を題材に人の心の美しさを描いた。作「出世景清」「国性爺合戦」「曾根崎心中」「心中天網島」「女殺油地獄」「けいせい仏の原」など。
※1−1:曾根崎心中(そねざきしんじゅう)は、浄瑠璃の一。近松門左衛門作の世話物。元禄16年(1703)4月、大坂内本町の醤油屋平野屋の手代徳兵衛と北の新地の天満屋の遊女お初とが曾根崎天神の森で情死した事件を脚色、翌月初演。世話浄瑠璃最初の作品

※2:ヴェリズモ(verismo[伊])は、フランスの自然主義に刺激されて、19世紀末葉、イタリアで興った写実主義文学運動。代表者ヴェルガ。真実主義
※2−1:ヴェリズモ・オペラ(verismo opera[伊])は、ヴェリズモ主義(=真実主義)に基づき実際に起こった事件を脚色して台本を仕立てたオペラのことで、主に19世紀末のイタリアで流行。マスカーニ作曲の『カヴァレリア・ルスティカーナ』レオンカヴァルロ作曲の『道化師』が代表作で、この2作は構成も単純で適時性と好奇心満足を兼ね備えた内容です。

※3:塔頭/塔中(たっちゅう)とは、(唐音)[1].禅宗で、高僧の塔が在る所。又、その塔を司る僧。
 [2].転じて、一山内に在る小寺院。大寺に所属する別坊。寺中(じちゅう)。子院。脇寺。

※4:叡尊/睿尊(えいぞん)は、鎌倉中期、真言律宗の開祖(1201〜1290)。字は思円。大和の人。初め東密を学び、後、律学に志して西大寺を復興。ここを本拠として畿内・東国に持戒・殺生禁断を説いて回り名望を集めた。自伝「感身学正記」。諡号は興正菩薩。
※4−1:浄厳(じょうごん)は、江戸中期の僧(1639〜1702)。真言宗新安祥寺流の開祖。字は覚彦。河内の人。如法真言律を唱えて戒律と真言教法を復興し、積極的に布教を行い河内の教興寺を再興した。一方、悉曇(しったん)研究にも足跡を残す。徳川綱吉の帰依を受け江戸に霊雲寺を建立。門下に契沖ら。著「悉曇三密鈔」など。
※4−2:悉曇(しったん)とは、(梵語 siddham、成就/吉祥の意)梵字の字母。転じて、インドの音声に関する学問を言う。広くは摩多(また)(母音)体文(たいもん)(子音)とを総称し、音節と同義。狭くは摩多の12韻のみを指す。中国では隋代に初めて悉曇の称が在り、日本には天平(729〜749)年間に南インドから伝わる。法隆寺の古貝葉(こばいよう)の文字は字体が優れて有名。元慶(877〜885)年間の安然の著に「悉曇蔵」が在る。五十音図の配列には悉曇の影響が顕著。→梵字。

※5:寺男(てらおとこ、sexton)は、寺で雑役をする下男。

    (以上出典は主に広辞苑です)

【参考文献】
△1:『好色二代男』(井原西鶴作、横山重校訂、岩波文庫)。

●関連リンク
参照ページ(Reference-Page):聖徳太子関連について▼
資料−聖徳太子の事績(Achievement of Prince Shotoku)


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