資料−聖徳太子の事績
(Achievement of Prince Shotoku)

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 ■聖徳太子(Prince Shotoku)

 聖徳太子は用明天皇の皇子(574〜622)。母は穴穂部間人皇后(あなほべのはしひとのきさき)。本名は厩戸皇子(うまやどのみこ、イエス・キリストと同じく馬小屋で生まれた伝説を有する→後で詳述)で、別称の豊聡耳命(とよとみみのみこと、一度に10人の訴えを聞き分けたことから)と合わせ、救世主的・超人的イメージが被せられて居る。他に法大王・上宮太子とも称される。
 内外の学問に通じ、深く仏教に帰依したとされる。推古天皇の即位と共に皇太子と成り、摂政として政治を行い飛鳥時代(※1)を築いた。冠位十二階十七条憲法を制定、遣隋使を派遣、更に仏教興隆に力を尽し、法隆寺四天王寺など多くの寺院を建立、三経義疏(さんぎょうぎしょ)を著し、国史を編纂したと伝える。

 (1)聖徳太子と蘇我氏

     ┌安閑天皇──息長真手王──広姫
     │              │
継体天皇─┼宣化天皇──石姫      │
     │       │      │
     │       ├─────敏達天皇
     │       │      │
     └──────欽明天皇┐   │
             │  │   │
    ▼・・・     │  │   │    ・・・▼
  <蘇我氏系>     │  │   │    <蘇我氏系>
             │  │   │
             │  │   ├──────菟道貝蛸皇女
             │  │   │       │
             │ ┌┘ ┌推古天皇     │
             ├─┼──┤         │
             │ └┐ └用明天皇     │
             │  │   │       │
             │  │   ├──────聖徳太子
             │  │   │       │
           ┌堅塩媛 │ ┌穴穂部間人皇女  │
           │    │ │         │
           │    ├─┼穴穂部皇子    │
      蘇我稲目─┼小姉君─┘ │         ├─山背大兄王
           │      └崇峻天皇     │
           │        │       │
           │      ┌河上娘      │
           │      │         │
           │      ├────────刀自古郎女
           │      │
           └馬子────┼────────法提郎女
                  │
                  └蝦夷──────入鹿

*注:取り消し線 ○○○○ は蘇我氏に殺された人物。

 上の系図が示す様に、聖徳太子は完璧に蘇我氏系の人物です。

 蘇我氏は、古代の有力豪族。祖は武内宿禰と言われ、大和国高市郡蘇我を本拠とする。7世紀末から嫡流は石川朝臣と称した。

 武内宿禰(たけのうちのすくね)は、大和朝廷の初期に活躍したという記紀伝承上の人物。孝元天皇の曾孫(一説に孫)で、景行・成務・仲哀・応神・仁徳の5朝に仕え、偉功が有ったと言う。その子孫と称するものに葛城・巨勢・平群(へぐり)・紀・蘇我の諸氏が在る。

 稲目の代に天皇家の外戚に成り物部尾輿と対立し仏教受容を主張馬子の代に守屋率いる物部氏を滅亡させ穴穂部皇子を殺し、更に崇峻天皇を暗殺して同族の推古天皇と聖徳太子を表に立てて実質的な「蘇我政権」を確立します。逆に言うと、聖徳太子は馬子がお膳立てした”血塗られた王座”に座った人なのです。蝦夷は天皇の様に自分の墓を陵(みささぎ)と呼ばせ入鹿に紫冠を授けたりし、入鹿は専横を極め最早無用と成った聖徳太子の威光を消す為、太子の子・山背大兄王を死滅させます。

 山背大兄王(やましろのおおえのおう)は、聖徳太子の子( 〜643)。母は蘇我馬子の女。皇位継承の有力候補だったが、蘇我蝦夷は王を退け、舒明天皇を立てた。643年蘇我入鹿の兵に攻められ、斑鳩寺で一族と共にに自殺

 (2)聖徳太子と秦氏

 秦氏(はたし/はたうじ)は、(古くはハダ)姓氏の一。古代の渡来系の氏族。応神天皇の時に来朝した弓月君の子孫と称するが、確かでは無い。5世紀後半頃より、伴造(とものみやつこ)として多数の秦部(はたべ)を管理し、養蚕機織の技術で織物の生産などに携わった。

 弓月君(ゆづきのきみ)は、秦氏の祖とされる伝説上の人物。秦の始皇帝の子孫で、百済に移住して居た秦人(はたひと)・漢人(あやひと)から成る127県の民を率いて応神朝に来朝し、養蚕機織などの技術を伝えたと言う。融通王

 秦河勝(はたのかわかつ)は、飛鳥時代の山背国の豪族で厩戸皇子(聖徳太子)の側近(6世紀後半〜7世紀中期)。用明2(586)年に物部守屋征討の際、軍政人として活躍。推古11(603)年に太子所有の仏像を授かり、葛野郡(現、京都市太秦)に蜂岡寺(今の広隆寺)を建立(←「日本書紀」、但し「広隆寺縁起」は同寺建立を壬午歳(622年)とする)。推古18(610)年に新羅・任那使入京の際、導者を務めた。皇極3(644)年に富士川の邉で常世神信仰 −この時は野蚕(絹以外の糸)の幼虫− が流行すると、首謀者の大生部多(おおうべのおお)を討った(←養蚕を推進管理する秦氏は野蚕の流行は断じて看過出来なかった)。

 秦酒公(はたのさけのきみ)は、半伝説的人物で雄略天皇に仕え、太秦(うずまさ)の姓を与えられたとされ、その姓が今も地名として残る。秦造酒とも。<出典:一部「日本史人物辞典」(山川出版社)より>

 太子は渡来系の秦河勝をブレーンとして登用し河勝率いる秦氏の財力・技術・文化面での強力な補佐と支援を得ました。京都太秦の広隆寺(※2)は秦氏の氏寺で、山背大兄王は幼少時に秦氏の領地太秦 −京都の旧国名は山城国(山背国)− で育ちその名が付いたとの説も在ります。

  ◆秦氏とキリスト教

 秦氏は我が国に養蚕・機織の技術を齎した −それに関係深い七夕の星祭(←星祭は多分に道教的)も齎した− 事が良く知られて居ますが、雅楽の祖能楽の祖(←能楽は申楽から発展)と言われ日本の芸能の根幹にも深く関わって居ます。のみ為らず日本にキリスト教を最初に伝えたのも秦氏である、とする説が根強く在ります。ここで言うキリスト教とはネストリウス派(中国・日本では景教と呼ぶ、※3)を指します。

 景教(けいきょう)は、(「光り輝く教え」の意)ネストリウス派キリスト教の中国での呼称。唐代(618〜907)に中国に伝わり、唐朝が保護した為に隆盛、唐末に至って殆ど滅亡。後に又モンゴル民族の興隆と共に興ったが、元と共に衰滅。

 唐の徳宗皇帝(※3−1)は781年に景教の由来や教義の大略を漢字とシリア文字で記した有名な「大秦景教流行中国碑」を長安の大秦寺 −大秦寺は中国での景教寺院の名称(※3−2)− に建てて居ますが、ネストリウス追放の431年から厩戸皇子誕生の574年には約140年の時間差が有りますので、景教が日本に伝わった可能性は否定出来ません。更には「厩戸」の名称は太子を西欧の救世主に同化させる為の記紀発行者の”後世の作為” −寧ろその可能性が大− と見做せば、700年初頭と成り時間差は約270年に広がりますので景教伝播の可能性は益々増大し、その場合は遣隋使(→後述)及び初期遣唐使の学僧も伝播人の可能性が出て来ます。
 何れにしても厩戸皇子という名称はキリスト誕生伝説に基づくもの、と私は考えて居ます。

 ■冠位十二階(Twelve offices and ranks)

 冠位の最初のもの。603年に聖徳太子・蘇我馬子らが制定した冠に拠る位階。冠名は儒教の徳目(※4)を参考にして徳・仁・礼・信・義・智とし、各々を大・小に分けて12階とした。各冠は色(紫・青・赤・黄・白・黒)とその濃淡で区別、功労に依って昇進。蘇我氏は皇室と共に授ける側に居た。

       ┌─ 大: 第1階
    徳 ─┤
       └─ 小: 第2階


       ┌─ 大: 第3階
    仁 ─┤
       └─ 小: 第4階


       ┌─ 大: 第5階
    礼 ─┤
       └─ 小: 第6階


       ┌─ 大: 第7階
    信 ─┤
       └─ 小: 第8階


       ┌─ 大: 第9階
    義 ─┤
       └─ 小:第10階


       ┌─ 大:第11階
    智 ─┤
       └─ 小:第12階

 因みに、儒教は一説に拠れば応神天皇の時代に伝来した(※4−1)とされて居ます。又、上の「徳」を除く位階名は順序は異なりますが、儒教で言う五常(※4−2)の「仁・義・礼・智・信」から採った事が解ります。
 この冠位十二階は教科書的には、多くの場合「門閥主義を排除し個人の功績を重視する為」と説明されて居ますが、前述の様に蘇我氏が冠位を授ける側に在り実際にその後、蘇我氏が天皇家との外戚関係を保ち、稲目→馬子→蝦夷→入鹿、と「蘇我体制」を継続させた歴史的事実を見ると、必ずしもその様な線に沿って運用されたのでは無い、と思われます。

 ■十七条憲法(Constitution of Article 17)

 604年、聖徳太子制定の17ヵ条の条令。群臣に垂示した訓戒で、和の精神を基とし、儒・仏の思想を調和し、君臣の道及び諸人の則るべき道徳を示したもの。憲法十七条

  一に曰く、なるを以て貴しとし、忤(さか)ふることなきを宗とせよ。
  二に曰く、篤く三宝を敬へ。三宝とは仏・法・僧なり。
  三に曰く、詔を承りては必ず謹め。
  四に曰く、群卿百寮、を以て本とせよ。
  五に曰く、餐を絶ち欲することを棄てて明かに訴訟を弁(さだ)めよ。
  六に曰く、悪を懲し善を勧むるは、古の良き典なり。是を以て人の善を匿(かく)すことなく、悪を見ては必ず匡(ただ)せ。
  七に曰く、人各(おのおの)任有り。掌ること濫れざるべし。
  八に曰く、群卿百寮、早く朝(まい)りて晏(おそ)く退でよ。
  九に曰く、は是れ義の本なり。事毎に信有るべし。
  十に曰く、忿を絶ち瞋を棄てて、人の違ふことを怒らざれ。
  十一に曰く、功過を明かに察(み)て、賞し罰ふること必ず当てよ。
  十二に曰く、国司・国造、百姓に斂(おさめと)らざれ。国に二の君非ず。民に両の主無し。
  十三に曰く、諸の官に任せる者、同じく職掌を知れ。
  十四に曰く、群臣百寮、嫉み妬むこと有ること勿れ。
  十五に曰く、私を背きて公に向(ゆ)くは、是れ臣が道なり。
  十六に曰く、民を使ふに時を以てするは、古の良き典なり。
  十七に曰く、夫れ事独り断(さだ)むべからず。必ず衆と論(あげつら)ふべし。

 憲法と名が付いて居ますが、法治主義に基づいたものでは無く道徳的訓戒 −そもそも儒祖の孔子が唱えたのが徳治主義(※5)− であり、今の社是社訓と同等な内容です。特に
 第1条は、皆仲良くせよ。
 第4条は、礼儀正しくせよ。
 第8条は、朝早く出社し遅く帰れ。
 第12条は、臣は二君に仕えず。
 第15条は、滅私奉公こそ臣民の道なり。
 第17条は、独断では無く周りと議論して決めよ。
などと成り、社員の訓戒に該当します。
 冠位十二階もそうでしたが聖徳太子には儒教の影響が色濃く窺え、諡号の「聖徳」(※6)という語も多分に儒教的です。

 ■遣隋使(Japanese envoy to Sui Dynasty China)

 大和朝廷から隋へ派遣された使節。日本側の記録では推古天皇時代の607年・608年に小野妹子(おののいもこ)ら、614年に犬上御田鍬(いぬかみのみたすき)らと計3回だが、中国側の記録では600年にも派遣されて居る。

 隋との対等外交を主張した根拠とされる有名な「日出ずる処の天子...」は、この時の隋の皇帝・煬帝(ようだい)に送った国書に記されたもので、後に日本人が日本国のことを「日出ずる国」と自称する元にも成りました。『隋書』倭国伝の大業3(607)年の記述には下の様に記されて居ます。

 新羅・百済、皆倭を以て大国にして珍物多しとなし、並びにこれを敬仰し、恒(つね)に通使・往来す。
 大業三年、その王多利思比孤(たりしひこ)、使を遣わして朝貢す。使者いわく、「聞く、海西の菩薩天子、重ねて仏法を興すと。故に遣わして朝拝せしめ、兼ねて沙門数十人、来って仏法を学ぶ」と。その国書にいわく、「日出ずる処の天子、書を日没する処の天子に致す、恙(つつが)なきや、云云」と。
帝、これを覧(み)て悦ばず、鴻臚卿にいっていわく、「蛮夷の書、無礼なる者あり、復た以て聞するなかれ」と。

 遣隋使派遣に当たっては、単に大陸の先進文化や仏教の摂取だけで無く、朝鮮半島で目覚ましく台頭して来た新羅を牽制する意味も有りました。そして限定的乍らも隋と対等を主張する必要も有りました。この「日出ずる処の天子...云々」は対等外交の気概の表れですが、隋の不興を買ったのも事実です。
 隋が唐に成ってからも遣唐使として継続、630年の犬上御田鍬らを最初とし10数回に亘って派遣し、唐末の戦乱の為894(寛平6)年の菅原道真の提議を入れて廃止される迄続きました。

 ■仏教興隆政策(Buddhism rise plan)

 (1)仏教興隆の詔

 594(推古2)年、太子が仏教奨励の為に発した詔で、自らも仏教に帰依したと伝えられる。

 (2)法隆寺の建立

 奈良県生駒郡斑鳩(いかるが)町に在る聖徳宗の総本山。南都七大寺の一。元は法相宗。607年聖徳太子の開基創建と伝える。670年に焼失し、8世紀初め迄に漸次再建。現存する世界最古の木造建築物で飛鳥様式の金堂・五重塔を中心とする西院と、天平様式の夢殿を中心とする東院とに分れる。金堂の釈迦三尊・薬師如来・四天王、夢殿の救世(くせ)観音、百済観音などの諸仏像、玉虫厨子・橘夫人厨子などを始め各時代に亘り遺宝が多い。1949年金堂の内部・壁画は失火に因り損壊したが復元。法隆寺学問寺。斑鳩寺。鵤寺(いかるがでら)。

 (3)四天王寺の建立

 大阪市天王寺区に在る和宗の総本山。山号は荒陵山(こうりょうさん)。聖徳太子の建立と伝え、623年頃迄に成立。奈良時代には五大寺に次ぐ地位に在り、平安時代には極楽の東門とされて信仰を集めた。伽藍配置は塔・金堂・講堂を中心線上に並べた、四天王寺式と称する古制を示す。堂宇は幾度も焼失したが、第二次世界大戦後、飛鳥様式に復原建造。扇面法華経冊子(せんめんほけきょうさっし)などを所蔵。荒陵寺(あらはかじ)。難波寺。御津寺。堀江寺。天王寺。

 (4)三経義疏(さんぎょうぎしょ)

 三経義疏は聖徳太子の著と伝える、法華・維摩・勝鬘の三経の注釈書の総称。
 法華経は正法華経・妙法蓮華経・添品妙法蓮華経を言う。一般に、妙法蓮華経の略称。
 維摩経は大乗経典の一。鳩摩羅什(クマラジュウ)訳(3巻)の他に、呉の支謙訳、唐の玄奘訳が現存。在家の長者維摩が偏狭な仏弟子を啓発し、般若の空観に依って不可思議な解脱の境涯を得、一切万法を悉く不二の一法に帰することを、優れた戯曲的手法を以て説いたもの。維摩詰経。維摩詰所説経。浄名経。
 勝鬘経は大乗仏典の一。劉宋の求那跋陀羅(グナバツダラ)の訳。1巻。勝鬘夫人を語り手とし、一乗思想・如来蔵思想などを説く代表的な大乗経典。詳しくは「勝鬘師子吼一乗大方便方広経」。

 聖徳太子の仏教への帰依という話を考える時、今日の太子信仰的な立場から一歩離れて、蘇我氏系の太子が崇仏派の蘇我氏からどれだけ自立的に主体的に仏教に関わったのか、を冷静に考える視点が必要です。

 ■国史の編纂(Compilation of Japanese history)

 聖徳太子が蘇我馬子と共に620年頃迄に撰修したと伝えられ、『天皇記』『国記』『臣連伴造国造百八十部并公民等本記』から成り、我が国最初の国史編纂書。
 『天皇記』は歴代天皇の系譜を記したものと伝えられる。620年、聖徳太子・蘇我馬子らの撰。蘇我蝦夷が自邸に火を放った際、焼失したと伝える。
 『国記』は聖徳太子らが編集したという国史の書。今は伝わらない。

 この頃から日本は国家意識が指導者の間で高まりを見せた様で、「天皇」や「日本」という言葉が初めて登場します。
 何れにしても、この時期に国の「正史」たる歴史書を編纂したということは、蘇我馬子や蘇我氏系の太子らが蘇我氏の揺るぎ無い勝利 −歴史的勝利− を強く確信したからに他なりません。しかしその確信は時期尚早でした。太子の子の山背大兄王は643年に蘇我入鹿に法隆寺で自害させられ、その入鹿は645(大化元)年の乙巳(いつし)の変(又は大化改新のクーデター)で中大兄皇子(後の天智天皇)と中臣鎌子(後の藤原鎌足)に宮中の大極殿で殺され、蘇我本宗家は滅亡します。

【脚注】
※1:飛鳥時代(あすかじだい)は、奈良盆地南部の飛鳥地方を都とした推古朝(聖徳太子が摂政)前後の時代。元は美術史の時代区分で、推古朝を中心に仏教渡来から平城遷都迄広く含めたが、今では政治史や文化史でも6世紀末から7世紀前半迄とするのが普通。この時代は仏教美術を中心とした優れた飛鳥文化が開花した。取り分け寺院建築では法隆寺の西院伽藍が優れ日本独自の工夫が為されて居る他に、柱はギリシャ風のエンタシスに似、欄干の卍崩し文様などは中国北魏の雲崗石窟の様式を伝えて居る。仏像彫刻では法隆寺の釈迦三尊像・百済観音像、広隆寺の弥勒菩薩像などを生んだ。推古時代。<出典:一部「学研新世紀ビジュアル百科辞典」より>

※2:広隆寺(こうりゅうじ)は、京都市右京区太秦に在る真言宗の寺。603年秦河勝聖徳太子から授かった仏像を祀る為に建立したと伝える。飛鳥時代の仏像(特に弥勒菩薩半跏思惟像)以下貴重な文化財が多く、又その牛祭は有名。蜂岡寺太秦寺。秦公寺。葛野寺。

※3:ネストリウス(Nestorius)は、ビザンティン帝国コンスタンティノープルの主教(?〜451?)。キリストの神性と人性の一致を否定した為、431年のエフェソス公会議で異端とされ追放された。その追放を承服出来ない人々がネストリウス派を形成し、同派はペルシャからインド・中国に広まり、中国では景教と呼ばれた。
※3−1:徳宗(とくそう)は、唐の第9代の帝(742〜805、在位779〜805)。中国税制史上の一大変革とされる両税法を断行。一方、節度使の横暴と宦官の跋扈を招いた。
※3−2:大秦寺(たいしんじ)は、中国、唐代のキリスト教ネストリウス派(景教)の寺院の名称。この宗派の発生地が大秦国である事を知り、745年波斯寺(はしじ)を改称。長安などに建てられた。
 補足すると、大秦はローマ、波斯はペルシャ。景教はペルシャ人に依って中国に伝えられたので、中国人は初めはペルシャの宗教と思って居たのです。

※4:儒教(じゅきょう、Confucianism, the teaching of Confucius)は、孔子を祖とする教学。儒学の教え。孔子に始まり孟子荀子を経て発展した社会・国家・個人などに関する倫理・政治思想。人間が常に守るべき5つの道(五常) −仁・義・礼・智・信− に依って社会秩序を作ろうとする。BC136年漢の武帝の時、董仲舒(とうちゅうじょ)の献策で正統教学に定められ、以後中国の支配層の指導原理家父長制支配の原理と成った。仏教と共に日本にも社会的・思想的に大きな影響を与え、日本の封建道徳の基礎と成った。四書・五経を経典とする。「―道徳」。→儒学。<出典:一部「学研新世紀ビジュアル百科辞典」より>
 補足すると、儒教は「教」の字が付きますが宗教では無く、倫理や徳育を説いて居るという意味で「礼儀やマナーの教え」と解することが出来ます。
※4−1:儒学(じゅがく、Confucianism)とは、孔子に始まる中国古来の政治・道徳の学。諸子百家の一。後漢に五経などの経典が権威を持ち儒家が重用されるに及んで、他から抜きん出た。六朝・隋・唐代には経典の解釈学は進んだ反面、哲理面で老荘の学や仏教に一時遅れを取ったが、宋代に宋学が興り、特に朱子学に依る集大成を見て以後は、清末迄中国思想の主座を占め続けた。その間、朱子学が体制教学化する一方、明代中葉以降、王陽明[の陽明学]を始め朱子学の批判・修正を通じて多くの儒家に依る学理上の革新が続き、清末の共和思想にも及ぶなど、思想史上、見るべきものが在る。日本には応神天皇の時に「論語」が伝来したと称せられるが、社会一般に及んだのは江戸時代以降。
※4−2:五常(ごじょう)とは、儒教で、人の常に守るべき五つの道徳
 [1].[白虎通情性]仁・義・礼・智・信
 [2].[孟子文公上]君臣の、父子の、夫婦の、長幼の、朋友の。→五倫
 [3].[書経舜典、伝]父は、母は、兄は、弟は、子は
※4−3:五倫(ごりん)とは、[孟子文公上]儒教で、人として守るべき五つの道。君臣の、父子の、夫婦の、長幼の、朋友のを言う。

※5:徳治主義(とくちしゅぎ)とは、道徳、又は仁に基づいて政治を行う考え方。有徳の君主・為政者が徳を以て人民を教化し、仁政を施すべきであるとする。孔子に始まり、儒教の基本思想と成る。←→法治主義。

※6:聖徳(せいとく、holy morality)とは、[1].優れた知徳。
 [2].天子の徳。

    (以上、出典は主に広辞苑です)


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