歴史の横漏れ
[横漏れ、イヤね!]
(Spill sideways from history)

-- 2005.03.24 エルニーニョ深沢(ElNino Fukazawa)
2013.11.22 改訂

 ■はじめに - 横漏れ、イヤね!

 昔、生理用品のテレビCMで「横漏れ、イヤね!」なんて言うフレーズが流されましたが、私は歴史にも”横漏れ”が有ると時々思ったりして居ます。実は「歴史の横漏れ」という語は私の造語ですが、この語を思い付いた時の話は「後・の・お・楽・し・み」とします。
 私が言う所の「歴史の横漏れ」とは何か?、どの様な現象を指すのか?、言葉でズバリと定義付ける事は中々難しいので、先ず私が考える「歴史の横漏れ」のサンプル(事例)を述べ、その後で「歴史の横漏れ」の[定義が可能であれば]定義を試みましょう
 「歴史の横漏れ」として次の<3つの事例>を取り上げ、最後に「考察と総括」を試みたいと思います。私は”敢えて”遣るのが好きなのですが、その結果本ページは私独自の見解で埋め尽くされて居ますので、宜しく!!

    ●項目目次(Item-menu)
 ■「歴史の横漏れ」の事例1 - 赤穂浪士の寺坂吉右衛門とシンパの萱野三平
  ■■番外編 - 三河吉良の吉良家墓所と東条城跡
 ■「歴史の横漏れ」の事例2 - 真珠湾奇襲で捕虜に成り軍神から漏れた酒巻和男
 ■「歴史の横漏れ」の事例3 - 堺事件の十一烈士と助命九士

 ■各事例の「考察と総括」
 (1)事例1の赤穂浪士の「考察と総括」
 (2)事例2の酒巻和男の「考察と総括」
 (3)事例3の堺事件の”境”の「考察と総括」

 ■「歴史の横漏れ」の事例1 - 赤穂浪士の寺坂吉右衛門と
                   シンパの萱野三平

 (1)切腹しなかった寺坂吉右衛門だが四十七士に名を連ねる

 皆さんが良くご存知の話として「忠臣蔵」(※1、※1-1)で有名な赤穂浪士をサンプルに採り上げてみます。
 「忠臣蔵」というのは、元禄14(1701)年3月14日、江戸城松の廊下で播磨国赤穂藩主浅野内匠頭(※1-2~※1-3)が前々から嫌な奴と思っていた吉良上野介(※2~※2-1、※3)に遂に”切れて”刃傷に及び、内匠頭は即日切腹、赤穂藩は改易(※4)に成りました。これに対し、家老の大石内蔵助(※1-4)以下四十七士が元禄15(1702)年12月14日(←内匠頭の月命日)に吉良邸に討ち入り主君の敵討を果たし、全員 -実は1名を除いて- 切腹をしたという内容です。右が播州赤穂の大石内蔵助(良雄)邸長屋門(※5)です(06年1月18日に撮影)。
 寺坂吉右衛門(※1-5)は赤穂浪士 -兵庫県赤穂の人は赤穂義士(※1-6)と呼びます- 、即ち四十七士の一人です。彼は1665(寛文5)年に浅野家家臣で船方役人の寺坂吉左衛門の子 -紛らわしいですが父が、本人がです- として赤穂に生まれました。そして8歳の時に吉田兼亮の家で奉公します。彼の身分は足軽(※6、※6-1)で、つまり普段は雑役を熟(こな)し戦時には歩兵として駆り出される武士の中で最も身分の低い者です。故に大石内蔵助は秘密裡の討ち入りを血判状を交わし同志としましたが、足軽の吉右衛門は呼ばれて居ません。しかし吉右衛門の熱意に負け同志としました。
 討ち入りを果たした赤穂浪士一行は泉岳寺(曹洞宗、※1-7)に引き上げましたが、そこに吉右衛門の姿は無かった、つまり”消えた”のです。先ほど実は1名を除いてと記したのは吉右衛門のことで、切腹したのは四十六士なのです。
 犬公方(→後で詳述)と呼ばれた第5代将軍徳川綱吉(※7)は漸く元禄16(1703)年2月4日赤穂浪士全員の切腹を決定し、それ迄は4大名家預かりの状態 -4大名家(※6-2)とは細川家・松平家・毛利家・水野家- でした。
 一方、吉右衛門は最後は江戸麻布の山内豊清(主膳)に仕えて居り、1747(延享4)年迄生き(享年82)、麻布の曹渓寺(臨済宗妙心寺派) -吉右衛門は一時この寺の寺男をして居ました- に葬られました(戒名は節岩了貞信士)。又、後に泉岳寺の義士墓所に供養墓が建てられて居ます(戒名は遂道退身信士)。

 逃亡説(←討ち入り前か、後かの2説在り)、内蔵助から密命を受けた密命説、足軽で切腹させたら世間体が悪い説、など諸説在ります。最近は吉右衛門の”その後”が可なり解明され、彼は非常に律儀に今迄通り仕えて居ること、赤穂浪士が切腹前に浅野長広が居る広島へ行っていること(←状況説明以外は有り得ません)など、やはり内蔵助は1人だけは自由に動ける内部の者が必要だったのです。内蔵助は彼を「軽輩者」と呼び、元奉公先の吉田兼亮が「不届き者」呼ばわりするのも、彼の討ち入り参加への「お上の咎め」が一切無かった事と符合します。更に討ち入りの時、彼は裏門警備が担当で抜け出すのに都合が良く、これら全ては内蔵助の作戦であると私は考えます。
 しかし寺坂吉右衛門も運命に翻弄された一人です。彼の場合、四十七士に入って居るから良いですが、もし四十七士から漏れていたなら完全に「歴史の横漏れ」と言えます。
 尚、大石内蔵助(良雄)と長男の良金堀部弥兵衛と養子の堀部安兵衛の様に、赤穂浪士の中には親子や兄弟で参加し切腹している者が居ます。

 ところで赤穂(※1-8)と言えば塩田、嘗ては塩を瀬戸内方面に「沖売り」し内地には「岡売り」して居ました。私は写真を撮りに来た日に赤穂城の近くで塩味饅頭を買って帰り、後で食いましたが「土産物に旨い物無し」ですな!
    {この節は06年1月24日に写真を追加}

 (2)自刃した赤穂浪士シンパの萱野三平だが四十八士とは成らず

 或る意味で、寺坂吉右衛門よりも次に述べる萱野三平(※8)の方が「歴史の横漏れ」度が高いと言えるかも知れません。大阪府箕面3丁目に萱野三平屋敷長屋門(※5)が在り随分と立派な屋敷ですが、実は萱野氏は源氏の出で、摂津国萱野村(現:箕面市萱野)に領地を持つ豪族 -地名を姓としている事でお解りでしょう- で、江戸時代に成り美濃国出身の旗本(※6-3)の大島氏に仕え、その所領である椋橋(くらはし)荘(現:豊中市大島町)の代官を勤めた家柄です。
 三平が13歳の時、父の主人・大島出羽守の推挙を受けて赤穂藩主浅野長矩(内匠頭)に仕えました。右が播州赤穂城跡です(06年1月18日に撮影)。
 しかし江戸城内刃傷事件を起こした彼の主君内匠頭は即日切腹と成りました、こういうのを青天の霹靂と言うんでしょうな。彼は直ぐ早籠を赤穂に飛ばし第1報を伝えたのですが、その途次萱野村を通った時に偶然実母の葬儀に出会(くわ)しますが彼は顧みずに赤穂に直行しました。そして赤穂に於いて大石内蔵助の同志に成ったのです。何と主君思いの心懸けか!
 幕府に赤穂城を明け渡した後、萱野村に戻った三平は父の重利から大島家への仕官を強く勧められ -実は大島家と吉良家は徳川紀州家の線で繋がりが在る- 主君への忠義と板挟みに成りますが反吉良の行動は許されませんでした。遂に彼は元禄15(1702)年1月14日(←主君内匠頭の月命日)を自分の最期の日と定め、大石良雄宛に遺書を書き実家で自刃(享年27歳)しました。これは討ち入りの日よりも略11ヶ月早く志を示した事に成ります。しかし萱野三平は飽く迄も赤穂浪士四十七士のシンパ(※9)であって、四十七士が四十八士には成りませんでした。
 現在長屋門が在る実家に辞世の句碑(←彼は俳人でもあった)

    晴れゆくや 日頃心の 花曇り
                    涓泉(けんせん)


が在ります。泉岳寺にも供養碑が建てられて居ます。

 萱野三平は早速早野勘平(※8-1)のモデルとして『仮名手本忠臣蔵』(※1-1、1748年初演)に採り上げられます。日本人は判官贔屓敵討物好きで、御負けにヴェリズモ浄瑠璃(※10) -これも私の造語です- ですから『仮名手本忠臣蔵』は当初から大ヒットしました。今日でも『仮名手本忠臣蔵』の人気は断トツです。私が子供時代は12月に成ると毎年「忠臣蔵」の映画を遣り、他に楽しみも少なかったので子供でも筋(ストーリー)を暗記する程見ました。堀部安兵衛など人気が有りましたね。
 寺坂吉右衛門や萱野三平には謎の部分が有って”赤穂浪士贔屓”からするとそれだけ脚色の自由度が大きいのです。作家や脚色家はこういう人物をしばしば自分の思いを託して登場させますので、早野勘平を登場させた『仮名手本忠臣蔵』作者の並木宗輔・2世竹田出雲(※1-1)の狙いも”まんまと当たった”と言えます。
    {この節は06年1月24日に写真を追加}

  ■■番外編 - 三河吉良の吉良家墓所と東条城跡


 忠臣蔵や赤穂浪士の話は世間に贔屓筋(=赤穂浪士ファン)が沢山居りますが、三河吉良を地元以外で訪れた事が有る人は滅多に居ませんので、ここに番外編を組み少し詳しく述べる事にします。やはり吉良上野介義央を載せるには赤穂浪士の話が出た所で特集するのが良かろう、という考えからです。
 もう一つ断って置かねば為りませんが、三河吉良に行ったからと言って私は吉良派では有りません。しかし赤穂浪士派でも有りません。私は中立です。私は歴史の真実(或いは真相)を少しでも知りたいだけです。しかし、その為には世間に埋もれた側(この場合は吉良側)の歴史を掘り起こさねば為りません。そういう意味では「文化の地下水脈」に光を当てる事と、その底辺に於いて「共通の考え方」が有るのです。それは「当サイトのコンセプト」でも謳って在ります。
 先ず右に三河吉良の地図を載せます。赤点(・)で大まかな位置を示して在りますので適宜参照して下さい。

  〈1〉三河吉良と吉良氏

 吉良氏は清和源氏足利氏の諸流の一つで、足利義兼の三男義氏三河吉良荘地頭職を与えられ、その子長氏が吉良に住み吉良氏を称したのに始まり、子孫は同荘西条・東条に分かれましたが西条吉良は東条に吸収され、東条吉良は徳川氏に属して高家(→後で詳述)(※3)と吉良荘を安堵されました。同族には三河の今川氏一色氏斯波氏が、分流には奥州吉良氏や武蔵国世田谷の蒔田氏などが在ります(※2-1、△1のp150、296~297)。吉良義央氏の系図は

       ┌─吉良義継--------奥州吉良氏や蒔田氏     東西吉良の争い
       │              ┌尊義─----─義藤(東条吉良)
  足利義氏─┴─吉良長氏┬満氏─貞義─満義┴満貞─俊氏─義尚─義元─義尭┐
             今川国氏─------─今川義元          │
                                      │
       ┌─────────────────────────────-┘
       └─義安─義定─義弥─義冬─義央─義周
         └───────┬───────┘
            この6代の墓を華蔵寺が管理

です(△1-1のp203)。
 義周(よしちか)は義央の長男・上杉綱憲の子で本来は「義央の孫」ですが、これを上杉家から吉良家に戻し「義央の子」として養子縁組して吉良家を継ぎましたが若干21歳で病没、ここに吉良家は断絶しました。

 三河吉良 -現在の愛知県幡豆郡吉良町(直ぐ隣には一色氏の幡豆郡一色町も在る)- は吉良上野介義央の郷里で、吉良上野介義央の墓(※2)や東条城跡が在ります。吉良上野介と言うと皆さん忠臣蔵では”悪の権化”の様に考えて居る方が非常に多いですが、私は兎に角、桜咲く09年4月10日(金)に愛知県幡豆郡吉良町を初めて訪ねました。
 三河吉良に行くには第1にJR蒲郡駅から名鉄蒲郡線に乗り換え終点の吉良吉田駅で下車、第2は名鉄新安城駅(←JR安城駅と名鉄安城駅は少し離れている)で名鉄西尾線に乗り換え上横須賀駅で下車、の2つのルートが在ります。車で行く方は御勝手に!
 私は第1のルートで行きました。左が名鉄蒲郡線で、殆ど単線区間で所々に対向列車が擦れ違う複線区間が在ります。列車はワンマンカーで、のんびりと海を眺めて行きました。

 右が吉良吉田駅で、既にここに着いたのが午後1時頃でした。この駅の近くでは無料のレンタサイクルが数台有りますので私はそれを利用しました。こうなれば「水を得た魚」、私も勝手に彼方此方寄り道し乍ら行きました。しかし、ここはメインの街道からは外れどう見ても辺境で、しかも一般世間では上野介は”悪もん”で通っているので態々(わざわざ)ここを訪ねる人も無く一日中誰にも会わずに回りました。

 ちょっと話の寄り道をすると、以前は知立から名鉄三河線もこの吉良吉田駅迄来て居ましたが昇降客が極端に少ない為に碧南駅~吉良吉田駅間は廃線に成りました。その中に三河一色駅の隣の松木島駅が在ったのですが、ここが幡豆郡一色町(→地図を参照)電気ブランで知られた神谷伝兵衛の故郷です。名鉄三河線は元は三河鉄道(1914~1941年)で、その後名鉄と合併して名鉄三河線が出来ました。伝兵衛は三河鉄道の経営にもタッチし1916年社長に就任し、婿養子の2代目伝兵衛も社長に就任し莫大な資金を継ぎ込んで居ます。その頃、今の松木島駅は「神谷駅」に成りました。実を言うと私は電気ブランのファンなのです!

                (-_*)

 話を吉良上野介に戻します。以下に説明する順番は巡った順番と凡そ逆に成って居ます。巡った順番は、そこに着いた時刻を記して在りますので参考にして下さい。

  〈2〉吉良家菩提寺の華蔵寺

 上野介義央墓所は最後の方に訪ねたのですが、説明の順番としてはやはりここが最初です(ここへ来たのが15:45頃です)。左下が吉良家菩提寺の華蔵寺(けぞうじ)の山門(山号:片岡山、臨済宗妙心寺派)です。後で調べると、この辺は西尾市と幡豆郡の”境”で、ここの住所は愛知県西尾市花蔵寺町です(←華蔵寺が”花”蔵寺町に成って居ます)。この寺は上野介の曽祖父義定が吉良家を再興した江戸初期に建立され、義安~義央~義央の養子の義周(←上の系図を参照)の6代の墓が在ります。山号の片岡山も南側に在った吉良家岡山陣屋から採ったものです(←幡豆郡吉良町大字岡山という地名に残って居ます)。赤い自転車が見えて居ますが、これがこの日借りたレンタサイクル(無料)です。
 中央下が吉良義央の墓で(←何と彫ってるのか読めませんが)新しい花が差して在りました。「吉良家墓所の墓石案内図」には義央の戒名は「霊性寺殿実山相公大居士」元禄15(1702年)12月15日元禄事件(←吉良家ではこう呼ぶらしい)で赤穂浪士の襲撃で死去と在り、襲われたのは12月14日ですが命日は翌日に成って居ます(享年61歳)が、その訳は後で説明します。義央の妻富子は上杉定勝の娘で上杉家との結び付きの強さを物語って居ます。写真の墓の右には「吉良義央公之墓」と陰刻した石柱が、左には説明板が在ります。後方の建物は「吉良氏影堂」で、義央が元禄3年50歳の時の木像その他が安置されて居ます。
 右下は家紋の五三桐です、吉良町のマンホール蓋から採りました、フッフッフ!


 左はと夕日を浴びる華蔵寺の本堂です。とても立派な菩提寺で、説明板も簡潔的確で良く解る様に成って居ますし、第一清掃が行き届いて居ます。
 帰り掛けに、本堂へ行く石段 -本堂や墓地はこの石段か両脇の坂道を登ります- で1人のお婆さんが草取りをしているのに出会いました。そうです、この寺を管理する為にはお婆さんの様な人が必ず居る筈です。

 実は義央の墓は先ず江戸で造られました。東京都中野区上高田の萬昌院功運寺(山号:龍寶山、曹洞宗)です。この寺は1948年萬昌寺功運寺という別々の寺が合併して出来ましたが、萬昌寺の開基が今川長得(←1574年創建と伝える)吉良家と今川家は同族という関係からです。
 義央の首は泉岳寺の浅野長矩の墓前に捧げられた後、箱に詰め翌日 -これが命日が翌日に成っている理由- 泉岳寺の僧2人が江戸の吉良邸に返し家老の左右田孫兵衛と斉藤宮内が受け取りました。この時の連署の受取書が泉岳寺に残されて居ます。吉良邸では首と胴体を縫い合わせた後で萬昌寺(←当時は市ヶ谷に在った)に葬りました(←戒名は華蔵寺と同じ、と言うよりも華蔵寺が萬昌寺に合わせたのです)。その後、郷里の華蔵寺にも墓が造られたという訳です、分骨したかどうかは定かでは有りません。

  〈3〉東条城跡 - 東西吉良の争いと高家吉良氏の誕生

 左の写真が東条城跡(幡豆郡吉良町大字瀬戸)の遠景です。華蔵寺を出た時刻が16:05で、ここへ来たのが16:14です。
 主櫓(物見櫓)が見えて居ますね。ここは今では古城公園として整備され、ご覧の様にこの日はが見事に咲いて居ました。

    ++++ 東条吉良氏から高家吉良氏へ ++++
 鎌倉時代の貞応元(1222)年頃、前述の如く足利義氏三河吉良荘地頭職と成り、その三男義継吉良荘東条を譲られ東条吉良の祖と成ります。この系列から奥州吉良氏関東の蒔田氏が出て居ます。
 室町時代に応仁の乱1467~77年)で義藤(=東条吉良)は山名宗前に与し、細川勝元に着いた義貞(=西条吉良)と同族で敵味方に分かれ、ここに東西吉良の争いが始まります。以後両家は約1世紀に亘り争いますが、1530年頃に両家は東条吉良の持広が西条吉良の義安を養嗣子にして漸く同族抗争に終止符を打ちました(←東条が西条を吸収)。因みに、西条吉良は西尾城(西尾市錦城町)を拠点として居ました。
 時は戦国時代に移ると弱肉強食で鷹は餌を狙います。松平元康(=後の徳川家康) -家康こそ三河の鷹にして天下人- は織田信長と組み桶狭間の戦吉良氏と同族の今川義元を討つ(1560年)と、透かさず東条城に目を付け永禄4(1561)年に東条城を攻め吉良義昭を降伏させ東条吉良は滅亡します。この時、善明堤の戦い藤波畷の戦いが起きて居ますが、後者の戦いで家康は吉良家家老の富永忠元永禄4(1561)年9月3日に討ち取った本多広孝を大いに褒めて論功に忠元の所領を与えました。広孝は忠元の勇名を惜しみ藤波畷にを築き供養したそうです。吉良義昭が降伏したのも家老の忠元が死に戦意を失った為です。右の写真が「藤波畷古戦場」の標識で撮影時刻は16:14、上の遠景写真を撮った所と然程離れて居ません。
 同年、落城後の東条城には松平家(=家康の親戚筋)の家忠が入り東条松平氏が誕生しますが、天正9(1581)年に家忠に男子が無く没すると、家康の四男忠吉を後嗣にするも忠吉(清洲城主)が慶長12(1607)年に没すると後嗣無く東条松平氏は断絶しました。
 一方、天下人に成った家康は吉良義定を旗本に取り立て吉良荘を安堵し、その子の義弥の時に高家筆頭の家格を与え、ここに高家吉良氏が誕生しました(→高家については後で詳述)。
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 しかし、家康という人は恐ろしいですね。東条吉良を完全に滅亡させる事も出来た訳ですが、それをせずに僅か一筋だけを残し、その一筋を自分の思うが如く操縦し使い切る訳です。吉良としては一旦滅亡されかけたので家康には逆らえないのです。「狸親父」と評された家康の人間操縦術の老獪さには舌を巻きます!!

 東条城跡に来ました、ここに着いたのが16:18です。華蔵寺を出る時が16:05だったので、華蔵寺から東南へ自転車で写真を撮り乍ら13分の所(約2km位か)に在ります。
  
 左上の写真で左側に見えるのが主櫓、右側に見えるのが虎口 -城郭の専門用語で、城の出入口の事ですが敵が入れない様に曲がりくねって居て入って来る敵を攻撃出来る構造に成って居ます- で、主郭は今は芝生の広場に成って居て公園機能を果たして居ます。私が立っている所が三の丸です。
 右上の写真が「古城公園(東条城跡)の説明板」の「古城公園案内図」です。典型的な中世の城で、それも三河のローカルな立地を反映して簡単な造りに見えます。説明板に拠ると、東条城は中世に吉良荘の東側を治めた東条吉良氏の居城でしたが、家康に攻められ落城、その後は上述の如く松平氏が支配しましたが東条松平氏の断絶よりも早く、天正3(1575)年東条城は廃城に成りました。又、城の東南の沼田が先程の藤波畷と呼ばれ矢崎川と炭焼川が自然の堀の役目をして居ました。

 ここで一旦吉良氏から離れ、特集「番外編のその又番外」に移ります。

    ◆◆番外編のその又番外・その1 - 吉良仁吉

 源徳寺(山号:信道山、真言宗、幡豆郡吉良町大字上横須賀)という寺には吉良仁吉の墓(右の写真、※11)が在りました(この寺に来たのが14:50頃)。この寺は吉良家と関係が有り、鐘楼と山門は吉良義冬(義央の父、系図参照)の寄進に依るもの(←しかし戦災で焼失)で、庫裏は岡山陣屋から移築したものだそうです。
 吉良仁吉は私の幼少の頃に広沢虎蔵(※11-1)か誰かの浪花節(=浪曲)で聞いて居たので吉良仁吉の名は覚えて居ました。確か荒神山の喧嘩で命を落とすのです。三河国吉良横須賀の生まれですが本名は太田姓なので吉良家とは無関係です。
 因みに、侠客(※11-2)の場合は「何処其処の誰それ」という呼び方をします。例えば、

    何処其処  の  誰それ      通 称
    清水湊   の  次郎長  →  清水の次郎長
    遠州森   の  石松   →  森の石松
    三河吉良  の  仁吉   →  吉良の仁吉

の様に成る訳です。いやぁ、それにしても懐かしい!
 墓石には「南無阿弥陀仏」と彫られ、右側に立っている標識には

    任侠
    吉良仁吉之墓
        清水次郎長建之


と書いて在りますので、この墓は次郎長が建てたのです。墓には花が添えられて在りました。ここもが綺麗ですね。
 上の写真で左側の奥には説明板が見えますので以下の記述はそれから。仁吉の祖父は江戸の武士でしたが没落し三河吉良迄流れて来て源徳寺の寺男に成りました。仁吉は体が大きく身長6尺弱(180cm)、体重24貫(96kg)で草相撲の大関とか。任侠の博徒には相応しからず横笛が上手く、無口で「だんまり地蔵」の渾名を頂戴。その草相撲で喧嘩に成り寺津の間之助の世話に為って侠客の道に入り、清水次郎長の下で3年間厄介に為り、吉良に帰って西三河で縄張を張りました。その時26歳。
 慶応2(1866)年に伊勢の神戸(かんべ)長吉が、桑名の穴太(あのう)徳次郎鈴鹿の荒神山の縄張を奪われた為に助勢を請うたのですが、3ヶ月前に嫁にしたキクは何と穴太徳の養女だったのです。すると仁吉は嫁を離縁し長吉に加勢します。清水一家からも大政・小政他が加勢し荒神山の喧嘩には勝ちますが、仁吉は命を落とします。拳銃で撃たれた様です。慶応2(1866)年4月8日、享年28。この墓は1867年の仁吉の一周忌に次郎長が仁吉を偲んで建てました
 鈴鹿の荒神山観音寺には2代目広沢虎蔵(※11-1)が後から建てた吉良仁吉碑が在るそうです。そう、虎蔵の2代目は滅茶滅茶浪花節が上手かったのです。私は子供の頃に浪花節(浪曲)や講談などをラジオで良く聞いたものです。私は2代目のCDを持ってますが残念乍ら吉良仁吉では無く「森の石松」でした。



 いやぁ、それにしても「義理と人情」ですね。墓地には碑が在りました(左の写真)。それには

    時世時節は変ろとままよ
     吉良の仁吉は男じゃないか
    おれも生きたや仁吉のように
     義理と人情のこの世界


と書いて在りますが、これは歌謡曲『人生劇場』(佐藤惣之助作詞)の一節『人生劇場』は次の尾崎士郎(※12)の代表作です。

 [ちょっと一言]方向指示(次) 森の石松の墓「侠客石松之墓」)が天竜浜名湖鉄道の遠州森駅から2~3km北へ行った大洞院(曹洞宗総持寺派)(静岡県周智郡森町橘)に清水次郎長翁碑と共に在ります。この寺は庭園が有る大変立派な寺院です。私は06年8月29日にここを訪れ石松の墓を拝みましたが、1950年頃から石松の墓の石を持って居ると勝負運が付くと言われ出し年々墓が削られ、今の墓は3代目だそうです、いやはや!

    ◆◆番外編のその又番外・その2 - 尾崎士郎

 源徳寺から八王子神社を跨いで直ぐの所に在る福泉寺(浄土宗西山深草派、幡豆郡吉良町大字上横須賀八王子)には「尾崎士郎之墓」(※12、左下の写真)が在りました、戒名は文光院殿士山豪雄大居士(ここに来たのが15:20頃です)。と思いきや尾崎士郎誕生地も直ぐ近くに在りました(中央下の写真)。写真の左の方に立っている標識を拡大したのが右下の写真で「尾崎士郎先生誕生地」と彫られて居ます。


 と思いきや、更に又直ぐの所に

    メガネ 宝飾 時計  尾崎

と書いた「尾崎トケイ店」が在りました(右の2枚の写真)。これは尾崎士郎の実家か親戚なんでしょうか(??)。尾崎士郎記念館(幡豆郡吉良町萩原)は少し離れた羽利神社の方に在ります。
 尾崎士郎と言えば『人生劇場』ですね。しかし私は尾崎士郎は全く読んで無いですが『人生劇場』という歌謡曲(佐藤惣之助作詞、古賀政男作曲、1938年)は良く知ってます、確か村田英雄が歌って居ました。村田英雄も浪花節上がりです。♪やると思えばどこまでやるさ♪...、実はこの歌は戦前の歌で初代の歌手は楠木繁夫ですが戦後生まれの私は初代は知りません。この曲の歌詞の一節が吉良仁吉の墓所に在ったのです。
 ところで、この曲は3拍子なんです。日本人は3拍子の曲は非常に少ないのですが古賀政男には3拍子の曲が多いのです。何故か?、それについては
  古賀メロディーの秘密(Secret in Koga melody)

をお読み下さい。
 という事で、「番外編のその又番外」の主題は「義理と人情」という事に落ち着きました。考えて見れば、幕末というのはサムライの建前(タテマエ)が錆び付き、「義理」が新たな庶民のタテマエに成りました。これに対し「人情」という心の機微が義理と拮抗する様に成ったのです。それは最早サムライの世の中では無いという事です。非常に面・白・か・っ・た!!

                (^o^)/

  〈4〉赤い駮馬(まだらめ)

 さて、「番外編のその又番外」から「番外編」に戻って来ました。
 吉良義央は黄金堤に依る治水事業や、眼を患った妻富子の回復祈願の為の富好新田などで吉良町ではそれなりに慕われて居る様です。
 私は最後に華蔵寺方面を振り返りました。左の2枚の写真で小高い山の様に見える所に華蔵寺が在ります(←嘗ては岡山陣屋も在りました)。
 吉良吉田~上横須賀迄は写真の様な広い道路が貫通して居ますが、写真の様に訪れる人も無くだだっ広い感じですが、ここを自転車で走るのは気持ちが良いです。この写真を撮ったのが16:45頃です。
 吉良町には「赤馬」と言う郷土玩具が在るそうで、これは義央が赤馬に乗って領内を視察した事に因む物です。上の写真がその赤馬だと思われます。しかも「赤い斑(まだら)」に成って居ます、即ち「赤い駮馬(まだらめ)」です(左の拡大写真)。そして地図で見ると先程の東条城跡の在った瀬戸の東南1km位の所に駮馬(まだらめ)という地名が在るのです。
 そこでインターネットで検索したら「郷土玩具 吉良の赤馬」(△2)というサイトに「吉良の赤馬は、吉良上野介義央公が赤馬に乗って領内を巡視したという、その姿を領内駮馬村の清兵衛木彫りにして作り、子供たちに与えたのが始まりという。その後、木屑で作るようになり、天保年間に至り柳右衛門に相伝する。続く清助、伊太郎が世に広めた。田中清一(5代目)の時、郷土玩具として全国的にも注目されるようになった。」と在りました。300年に及ぶ技を今は8代目を井上裕美さんが継いで居る様です。

 この後、私は吉良吉田駅近くでレンタサイクルを返し再び名鉄蒲郡線(吉良吉田駅に着いたのが17:15頃)で帰りました。私は何の予備知識も無しに -つまり事前には勉強せずに- 吉良町に来ましたが、帰ってから事後に大いに勉強させて貰いました。華蔵寺、萬昌院功運寺、東条城跡、東西吉良の争い、高家吉良氏、吉良仁吉、尾崎士郎、赤馬、駮馬など非常に多くの事を吉良町に来た事に依り学びました。吉良町に来なかったなら殆ど知らない世界です。吉良吉田の南はもう海(=渥美湾)で三河国定公園です。今では吉良町は辺境と言うべき立地です。海沿いには吉良温泉みかわ温泉が在り、一色町には養鰻場も在ります。矢作古川は漁業が盛んです。
 皆さんも是非一度吉良町に来て見て下さい!!
    {この「番外編の章」は09年6月3日に追加しましたが、その後平成の大合併(住所は肥大化)2011年3月31日を以て幡豆郡は消滅し、それ以前の町は全て西尾市に編入されました。しかし記事は09年に書いた儘にして在ります。幡豆郡を西尾市に読み替えて下さい。この注記は2011年4月3日に更新しました。}

 ■「歴史の横漏れ」の事例2 - 真珠湾奇襲で捕虜に成り
                   軍神から漏れた酒巻和男

 太平洋戦争(※13~※13-2)が日本の真珠湾攻撃(※13-3)を切っ掛けに開戦したことは皆さん良くご存知でしょう。1941(昭和16)年10月に発足した東条英機内閣の対米英開戦は、昭和天皇臨席の12月1日の御前会議での正式決定事項で、日本時間の1941年12月8日未明、大日本帝国海軍 -日本は1946年11月3日の「日本国憲法」公布迄は「大日本帝国憲法」に基づき「大日本帝国」と称して居ました- はアメリカ海軍基地が在るハワイの真珠湾を奇襲攻撃、帝国陸軍もマレー半島に上陸し、ここに太平洋戦争の火蓋が切って落とされました。

 ここに酒巻和男という、やはり運命に翻弄された男が居ます(右は写真のスキャン)。1918年徳島県阿波生まれで1940年に広島県江田島(※14)の海軍兵学校(略称:海兵)(※14-1)を卒業しました。日本軍は真珠湾内に奇襲攻撃を行なう為に空からの攻撃と共に、海中から「特殊潜航艇」(乗員2人)(※15) -小型の潜水艦- を5艇(合計乗員10名)出しました。潜航艇の戦果は戦艦アリゾナへの命中弾1発のみでした。
 酒巻少尉は稲垣清二等兵曹と乗り込みましたが、アメリカ海軍の駆逐艦の攻撃や羅針儀の故障などに因り潜航艇が座礁して仕舞います。そこで潜航艇に時限爆弾を仕掛け稲垣と共に脱出しますが漂流中に稲垣兵曹とは逸(はぐ)れ(←稲垣はその後行方不明)、自身も失神状態で海岸に漂着して居た所を米軍に発見され大東亜戦争(※13-1)での日本人捕虜第一号と成りました。

 [ちょっと一言]方向指示(次) 大日本帝国は太平洋戦争を国民に大東亜戦争と呼ばせました。それは大東亜共栄圏(※13-2)のイデオロギー(※13-4)に基づいて居ます。

 当時は「恥を知る者は強し。常に郷党家門の面目を思ひ、愈々奮励して其の期待に答ふべし。生きて虜囚の辱を受けず、死して罪禍の汚名を残すこと勿れ」という戦陣訓が金科玉条でしたから、「虜囚の辱」を晒した酒巻和男及び家族は「非国民」(※13-5)と呼ばれました。その翌42(昭和17)年3月6日には九軍神が大本営(※13-6)から発表され、即ち5艇の潜航艇の酒巻以外の乗員は全員が戦死(又は行方不明)しに列せられましたが、酒巻だけが九軍神から”横漏れ”したのです(△3のp192)。この時、ご丁寧にも九軍神の写真は潜航艇の乗員全員で撮った写真から酒巻だけが削除されて居ました。大本営は酒巻が捕虜に成った事を秘匿し公表しませんでした。これは正に隠蔽で酒巻和男は一旦は歴史から抹殺されたのです。
 因みに、九軍神は

                 海兵出身者
    岩佐直治   中佐     65期    隊長
    横山正治   少佐
    古野繁実   少佐     67期
    広尾彰    大尉     68期
    佐々木直吉  特務少尉
    横山薫範   特務少尉   67期
    上田定    兵曹長
    片山義雄   兵曹長
    稲垣清    兵曹長

で、階級は2階級特進です(△3のp192)。

 ところで、△3(=『江田島教育』)の著者の豊田穣海軍兵学校で酒巻和雄と同期(68期)だったのです(△3のp192)。この幸運から我々は酒巻和雄の捕虜の状況を或る程度知ることが出来ますので、次に『江田島教育』から引用します(△3のp194~196)。

 「しかし、人間の運命は計り知れぬ。それからほぼ一年後の十八年四月、私はソロモン方面反攻のい号作戦に参加し、乗機を撃墜され、一週間南海を漂流した後、ニュージーランドの哨戒艇に捕えられ、米軍の捕虜収容所に送られた。どうしても自決することが出来ず、ガダルカナルの収容所に着いた時、私はひょっとしたら酒巻に会うかも知れぬ、と思った。
 海に堕ちてから一年後に、私はシカゴの北にあるウィスコンシン州のマッコイ収容所で、酒巻に会うことが出来た

        ...<中略>...

 その後、二人は収容所内の当直将校として苦労を共にした。テキサスの収容所で敗戦を聞いたが、ここの収容所長は、酒巻が真珠湾攻撃を行ったときの警備隊長で、責任を問われて少佐から大尉に降格されていたので、酒巻を目の仇にして、彼は何度もアイスボックスといわれるサソリのいる独房にいれられた。私も軍国主義者とみなされ、サソリの独房に放り込まれた。
 戦争は終わり、捕虜たちが最も恐れていた軍法会議もなく、私たちは昭和二十一年一月三日神奈川県浦賀に復員した。酒巻は徳島県の川田という故郷に帰り、私は岐阜県の穂積という郷里に帰って、名古屋の中日新聞の社会部に勤めた。二十一年の年末に、社会部のデスクが私を呼んで言った。
 「間もなく十二月八日の開戦記念日が来る。君は捕虜第一号の酒巻と親しいそうだが、一度徳島に行って、彼の戦闘記録を取材してくれんか」
 私は承知して、満員の汽車にゆられて徳島に向かった。酒巻はすでに結婚していた。同じ名字の酒巻家に養子に行っていたのである。奥さんの父は、広島控訴院(今の高裁)判事、弟は広島一中の五年生のとき、共に原爆であと形もなくやられた。そこで、生還した酒巻を養子に迎えたのである。」

 豊田穣も捕虜経験者だったとは知らなかったですね。
 そして酒巻の奥さんの家族も原爆の被害者なのですね、言葉が有りません。尚、『フリー百科事典ウィキペディア(Wikipedia)』に拠ると、68期生は昭和13(1938)年入校、昭和15(1940)年8月7日卒業、288名と在り、酒巻は海軍兵学校卒業の翌年に特殊潜航艇に配備され真珠湾奇襲に失敗した訳です。因みに軍での最終階級は豊田穣が中尉酒巻和男は少尉です。
 酒巻は初めハワイの捕虜収容所に入れられ、その後豊田が記す様に米本土の収容所に移ります。『フリー百科事典ウィキペディア(Wikipedia)』に拠ると、酒巻も豊田同様に自決を試みた事が在った様ですが思い留まり、収容所では通訳を務め、敗戦後(←私は終戦という言葉は使いません、理由は後で説明)の1946年1月3日浦賀に復員しました。酒巻にとっては復員時が戦後のスタートです。その後、酒巻は豊田穣の仲介でトヨタ自動車工業に入り(←因みに豊田穣はトヨタ自動車の豊田一族とは無関係)、1969年には通訳の経験から英語力が買われトヨタ・ド・ブラジルの社長に成り、1999年愛知県豊田市で人生を全うし81歳で死去しました。合掌。

                (-_-)
                _A_

 酒巻本人も『捕虜第一號』(1949年)という本を出している様ですが、酒巻の事を記録した記事が無かったら(←大本営や軍は酒巻のことを秘匿した)彼は歴史から完全に抹殺されて居たでしょう。九軍神(←本来、十軍神で在る筈の)が発表された時、酒巻の同期生は酒巻が捕虜に成った事を悟り、「血の気の多い同期生の中には、「酒巻の奴、自決してくれんかなあ。このまま生きていられては、クラスの恥だ。」と慨嘆する者もいた。」と記されて居ます(△3のp194)。しかし「運命の気紛れ」「歴史の横漏れ」とが微妙に拮抗する中で、一旦は抹殺された酒巻の歴史が、こうして甦ったのです。
    {この章は05年9月14日に一部加筆し最終更新}

 ■「歴史の横漏れ」の事例3 - 堺事件の十一烈士と助命九士

 (1)「歴史の横漏れ」という概念が生まれた切っ掛け

 私が堺事件(※16)の事を知ったのは2003年に堺の妙国寺(日蓮宗)(→地図)を訪れ、「土佐藩十一烈士之英霊」の石碑が在る事を知った時でした。その時の事は
  阪堺電車沿線の風景-堺編(Along the Hankai-Line, Sakai)

に記して居ますので参照して下さい。ここに、その中の文を引用すると、

 「事の真相は徳川幕府最後の年の慶応4年(1868年は明治元年でもある)、堺に上陸したフランス人水兵たちが日本の女性を揶揄して騒ぎに成った所へ、当時堺の警備を担当して居た土佐藩士が駆け付け口論の挙句フランス人11人を殺害したことから事は外交問題に発展、責任を取らされた土佐藩士20名がここ妙国寺境内で切腹する事に成りました。土佐藩士たちは腹を切り勇敢にも内臓をフランス人目掛けて投げ付けたので、フランス側は度肝を抜かれて11人が切腹した所で中断し退散して仕舞ったという、侍魂溢れる事件でした。右が境内墓地に在る「土佐藩十一烈士之英霊」と刻まれた墓碑11烈士の氏名です(03年6月1日に撮影)。
 ところで土佐藩士20名の内、切腹が中断された為に十一烈士に名を残すことが出来なかった9名のその後はどうなったのでしょうか?、私は寧ろこの方に興味が有りますね!


というものです。ここに引用した様に、既にこの時から私は助命九士に非常(或いは異常)に興味を抱いて居たのです。

    ++++ 「歴史の横漏れ」という概念は土佐藩十一烈士から ++++
 前掲の記事を書いた時私は思わず、これは「歴史の横漏れ」(←私の造語です)だ!!、と声を発して仕舞いました。何故なら、一度は同じ運命を辿る筈だった20名が「運命の気紛れ」から、土佐藩十一烈士(←こちらは堺事件として歴史に残った)と助命九士(←こちらは歴史から漏れた)に二分されて仕舞ったからです。私の「歴史の横漏れ」という概念はこの時生まれたばかりか、本稿を書く切っ掛けに成ったのです。因みに堺事件で「烈士」と言った場合は切腹した十一烈士を指します。
 私は皆さんの関心とは逆に”烈士では無い人たち”に非常に興味を抱きましたので「土佐藩の助命九士」を少しずつ調べました。が、これは質・量共に中々大変な作業で直ぐには出来ませんでした。調べてる途中で、堺事件に関しては大岡昇平の労作(△4)が在る事を知り、先ずそれを読みこの労作を手掛かりとする事にしました。これは非常に役立ち、又作業のスピードアップにも成りました。とは言え、前掲の「阪堺電車沿線の風景-堺編」を書いたのが03年12月5日で、今回の「歴史の横漏れ」をテーマにした当論考に纏めたのが05年3月24日ですから、調べるのに約1年4ヶ月掛かって居ます。そして「歴史の横漏れ」という概念が解り易い様な<3つの事例>を採り上げる事にしました。即ち、

  事例1:赤穂浪士の寺坂吉右衛門とシンパの萱野三平
  事例2:真珠湾奇襲で捕虜に成り軍神から漏れた酒巻和男
  事例3:堺事件の十一烈士と助命九士

です。当ページはこの方針に沿って作成されて居ます。
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 (2)堺事件 - 土佐藩十一烈士として歴史に残る

 さぁ、それでは先ず堺事件とはどういう事件だったのか、を見て行きましょう。事件は慶応4(1868)年2月15日 -太陽暦では1868年3月8日- に起きましたが、以下全て和暦(陰暦)を使用します。尚、上の引用文の中で「慶応4年(1868年は明治元年でもある)」と言ってますが、この年は9月8日迄が慶応4年で、9月8日は同時に明治元年に成ります。
 大岡は「さて事件は、二月十五日(陽暦三月八日)旗艦ヴェニス号ロア少将兵庫副領事ヴィヨーが、外国事務掛二名、通訳一名、内国事務掛役人一名と共に紀州街道を下って、大和川にかかった大和橋に到り、土佐藩兵に追い返されることにはじまるのだが、事件の中心は同日夕刻、港内の旭茶屋前で、フランス水兵十六名が殺傷されたことにあるので、あまり詳細な記録はない。」(△4のp134)と記してますが、「ヴェニス号坐乗の司令官ロアはデュプレックス号に、堺と大坂の河口の探検と必要な測量をすることを命じました。」と在る様に、この軍艦デュプレックス号(艦長:デュ・プチ=トアール)が堺港に停泊中に水兵が上陸し夕方問題を起こしたのです(△4のp142)。
 そこで森鴎外の小説『堺事件』(大正3(1914)年)(△4-1のp562)を引用しましょう。「すぐに出張して見ると、水兵は別にこれと云ふ廉立つた暴行をしてはゐない。併し神社佛閣の無遠慮に立ち入る。人家に上がり込む。女子を捉へて揶揄(からか)ふ。開港場でない堺の町人は、外國人に慣れぬので、驚き懼(おそ)れて逃げ迷ひ、戸を閉ぢて家に籠るものが多い。両隊長(←六番隊長と八番隊長:筆者注)は諭して舟へ返さうと思つたが、通辯がゐない。手眞似で歸れと云つても、一人も聴かない。そこで隊長が陣所へ引き立ていと命じた。兵卒が手近にゐた水兵を捉へて縄を掛けようとした。水兵は波止場をさして逃げ出した。...<中略>...両隊長は兵卒を率ゐ追ひかけた。...<中略>...両隊長が咄嗟の間に決心して「撃て」と號令した。...<中略>...六人ばかりの水兵はばらばらと倒れた。負傷して水に落ちたものもある。」と在ります(△4-1のp398)。この様にして発砲に至りましたが、実はこの描写には鴎外の誇張が有り「水兵が逃げる途中で隊旗を奪って逃げ鳶職の梅吉が追い駆け鳶口を脳天に打ち下ろす」描写が含まれて居ますが、大岡は「健脚の鳶の者梅吉が追い付き取返したなど、手柄神話が付加えられる。」と記して居ます(△4のp181)。
 鴎外の種本(ネタ本)は、大岡に拠ると『泉州堺列挙始末』(佐々木甲象著) -発行人は高知市、箕浦清四郎、山崎惣次、土居盛義、明治26(1893)年11月21日発行- だという事です(△4のp134)。この本の発行人には切腹した六番隊長の蓑浦猪之吉の親族の箕浦清四郎助命組の土居八之助(盛義)自身が名を連ねて居る大変貴重なものです。

 大岡は「フランス側死者の姓名はみな記録されている。」(△4のp213)と書いている様に、以下の11名が発砲で死亡した水兵の名前です(△4のp214~215)。2月18日(陽暦3月11日)に日本から引き渡された7名に遺骸と共に、死亡した仏水兵11名は駐日仏公使レオン・ロッシュ(※17)、駐日英公使ハリー・パークス(※17-1)などの立会いの下に神戸居留地外人墓地で埋葬されました(△4のp211~212)。

    シャルル・P・アンドレ・M・ギヨン  第一級見習士官  享年22歳
    ガブリエル・マリ・ルムール     第一級一等水兵    28
    ヴィクトル・グリュナンヴェルジェ  機関運転手      24
    オーギュスト・ルイ・ランジュネ   三等水兵       22
    ラザル・マルク・ボベス       三等水兵       22
    ピエール・マリ・モデスト      二等水兵       27
    アルセーヌ・フロミロン・ユメ    三等水兵       23
    ジャン・マチュラン・ヌアール    三等水兵       22
    ジャック・ラヴィ          三等水兵       22
          (慶応4年2月15日(1868年3月8日)に堺で死亡)

    ヴァンサン・ブラール        三等水兵       20
    フランソア・デジレ・コンデット   水兵希望       23
                  (前日に受けた傷が元で16日堺で死亡)

 これに対し、日本側は切腹した11名(=土佐藩十一烈士)の他、フランス側の切腹中止命令で助命された者(9名)、土佐稲荷の籤引きで切腹予定者から除外された者(9名)を載せます(△4のp236~237、p290~295)。これは「運命の気紛れ」が土佐藩士の「その後」を決定的に振り分けて居る好例だからです。

  土佐藩十一烈士(切腹)
    1 蓑浦猪之吉           六番隊長     享年25歳
    2 西村佐平次           八番隊長       24
    3 池上弥三吉           六番隊子頭      38
    4 大石基吉            八番隊子頭      35
    5 杉本広五郎           六番隊兵士      34
    6 勝賀瀬三六            //        28
    7 山本鉄助             //        28
    8 森本茂吉             //        39
    9 北代健助             //        36
   10 稲田貫之丞            //        28
   11 柳瀬常七             //        26
                 (慶応4年2月23日、堺の妙国寺で処刑)

  切腹中止(助命)
   12 橋詰愛平             //

  助命
   13 岡崎栄兵衛            //
   14 川谷銀太郎            //
   15 武内民五郎           八番隊兵士
   16 横田辰五郎            //
   17 土居八之助            //
   18 垣内徳太郎            //
   19 武内弥三郎            //
   20 金田時治             //

  土佐稲荷の籤引きで切腹予定者から外れた兵士
   21 岡崎多四郎           六番隊
   22 水野万之助            //
   23 岸田甚平             //
   24 門田鷹太郎            //
   25 楠瀬保次郎            //
   26 栄田次右衛門          八番隊
   27 中城惇五郎            //
   28 横田静治郎            //
   29 田丸勇六郎            //

 それに対する日本側の対応を決めたのは”日本独自の発想”からでは無く、日本側は元々”日本独自の発想”など持ち合わせて居らず全てフランスの「仰せの通り」にする旨を、病身の土佐藩主山内容堂「遺憾に意」として2月18日に仏側に伝えて居ました(△4のp221)。仏・英・米・伊・普など欧米は”数の論理”で徒党を組み、日本1国では最早太刀打ち出来ず、これは歴然とした国力の差なのです(→後で又触れます)。
 そして翌2月19日(陽暦3月12日)に駐日仏公使ロッシュ(※17)が大坂沖に停泊の旗艦ヴェニス号艦上で、外国事務総督の前宇和島藩主伊達宗城(※18)に手渡した「五ヶ条の賠償請求書」が元に成って居ます。五ヶ条の重要な部分を抜粋して提示します(△4のp219~220)。

  第一ヶ条:...<中略>...仏人ヲ殺害セシ者残ラズ、此書面京師ヘ届キシ後三日ノ内、...<中略>...仏国海軍兵隊ノ眼前ニ於テ、首ヲ打斬候事
  第二ヶ条:...<中略>...十五万ドル...<中略>...是ヲ仏国政府ヘ相納ムベキ事
  第三ヶ条:...<中略>...朝廷ノ外国事務第一等ノ執政タル人、仏国兵隊ノ指導官ヘ其政府ヨリノ詫辞ヲ申入ルル為メ、ウヱヌス(←ヴェニス号:筆者中)船中ニ申スベキ事
  第四ヶ条:土佐侯自分ウヱヌス(←ヴェニス号:筆者中)船中ニ来リ、堺表ニ於テ自国人仏人ニ対シ暴行ニ及ビシ事、...<中略>...趣ヲ自分申述ラレ候事、...<中略>...
  第五ヶ条:以来土佐之者、兵器ヲ帯ビ、外国人ノ為メ開タル港ヲ通行シ、又ハ爰(ココ)ニ滞留スル事ヲ厳シク禁ズル事


 第一ヶ条から処刑執行日付が2月23日に成った事が解ります。第二ヶ条は賠償金は15万ドルです。第三ヶ条は伊達宗城に政府の正式の詫び状を持ってヴェニス号に謝りに来い、第四ヶ条は山内容堂にヴェニス号に来て自ら弁明せよ、第五ヶ条は以後は土佐藩の者は外国人に開かれた港を武器を携えてウロチョロするな、と高圧的に言ってる訳です。

 土佐藩は忠実に第一ヶ条を履行するべく「発砲したのは誰か?」と問うと全員73人中29人処刑候補者が現れたのです。そこで伊達宗城と後藤象二郎(←土佐藩士)は処刑者は20名と予め決め(△4のp227)、土佐稲荷の籤引きで決める事にし22日に執り行われました(△4のp254)。神の御前で運命を決めれば、それは神の意志であり、どんな結果が出ようとも”お互い恨みっこ無し”という事です。これで21~29番の人は、この事件そのものから無関係とされたのです。

    ◆土佐稲荷神社

 ここで土佐稲荷神社(大阪市西区北堀江4)について簡単に記して置きます。先ず、この度写真を撮りましたので、それを追加します(写真は全て2011年8月7日に撮影)。上段が左下から本殿本殿上の鬼瓦の三菱のマーク、次の2つが日本郵舩仲間の灯籠、下段は左下が写真でははっきりしませんが「岩崎家舊邸址」の碑、右下が境内摂社の磐居社で扁額の「磐居大神」が見えます。

 土佐稲荷神社の主祭神は宇迦御魂神です。創建は定かで無いですが土佐藩蔵屋敷に隣接する地に神社が在ったのを、土佐藩第6代藩主の山内豊隆が明和7(1770)年に京都の伏見稲荷から稲荷神(=宇迦御魂神)を勧請し土佐稲荷とし土佐蔵屋敷の守護神としました。明治の廃藩置県後は三菱の創業者岩崎弥太郎(←彼も土佐藩士)がこの地を取得、以後は”三菱”色が濃い神社と成りました。境内摂社には磐居大神を祀る磐居社が在り、名前からして磐座(いわくら)と関係が有りそうで、又「磐」は「岩崎」の「岩」を表して居る様でもありますが、詳細は不明です。
 私はこの様に”三菱”色が濃いので今迄写真を撮りませんでしたが、今回写真を入れることにしました。
 ここは大阪市立中央図書館の裏手に在り江戸時代から桜の名所として知られて居ましたが、第二次大戦で社殿その他を略全焼し、戦後再び桜を植樹して桜の名所は復活して居ます。私が主宰する【ブラボー、クラシック音楽!】という会は2007~2010年迄土佐稲荷の近くで開催してましたので、桜の季節には有志で土佐稲荷公園で花見をしました、今と成っては良い思い出です。
    {この土佐稲荷の段は2011年8月26日に写真を追加し、文も更新ました。}

 さて、日本側即ち土佐藩士は慶応4年2月23日堺の妙国寺(日蓮宗)で処刑が行われました。右が国指定天然記念物の夜泣き蘇鉄と妙国寺(堺市材木町東4丁)です(写真は03年6月1日の撮影)。尚、妙国寺には色々纏わる話が多いのですが、それは前掲のページをお読み下さい。

                (-_*)

 日本側は賠償請求の第一ヶ条「仏国海軍兵隊ノ眼前ニ於テ、首ヲ打斬候事」を忠実に履行しようとして居る事が判ります。打首ではなく切腹に成ったのは、文化の違いです。
 フランス側立会人はこの日の仏国全権代表の正副代表、デュプレックス号艦長デュ・プチ=トアールと護衛兵20人です(△4のp281の妙国寺の図)。
 上の切腹予定者20名は全て介錯人も決まって居り、切腹した人は辞世の歌が在りますが省略します。知りたい人は【参考文献】△4のp290~295を直接参照して下さい。
 切腹の儀式「午後七ツ頃(午後4時)より始まった。」と在ります(△4のp308)。上の1~20番は1人ずつ切腹して行きますが、切腹した者たちは自分の腹からを引っ張り出し、それをフランス人に向けて投げ付けました。これにはフランス側は度肝を抜かれ11名が切腹を終え12番目が切腹に取り掛かろうとした時、艦長デュ・プチ=トアールが突然切腹の中止を宣い後の者は助命する様に外国事務局判事五代才助(友厚)に伝えたのです。艦長は気持ち悪くこれ以上耐えられなく成ったのでしょう、フランス人はこんな”儀式”を見るのは初めてですから。
 フランス側の死者が11名だったので、日本側が丁度11名切腹をした所で中止にしたのは、死者の数を合わせたという説も有りますが、真相は不明です。しかし駐日英公使パークスの部下のアーネスト・サトウ(※17-2、右の写真) -彼はパークスの事をハリー卿を呼ぶ- は「腹切はいやな見世物ではなく、きわめて上品な礼儀正しい一つの儀式で、...<中略>...はるかに厳粛なものだ。...<中略>...堺で起こった土佐藩士の事件についていうと、これは従来例がなかったほど公正に刑罰が科せられたものであった。...<中略>...しかし、死刑を宣告された二十名中十一名の処刑がすんだとき、艦長のデュ・プチ=トアールが執行中止の必要があると判決したのは、実に遺憾であった。なぜなら、二十人はみな同罪であるから、殺されたフランス人が十一人だからとて、これと一対一の生命を要求するのは、正義よりもむしろ復讐を好むもののように受取られるからである。」暗に数合わせと言っています(△5のp166)。尚、サトウは堺事件の切腹は見て居らず、神戸事件(→後出)の切腹の儀式を見て上述の如く堺事件に言及している訳です(△5のp163~165)が、これは極めて真っ当な意見でサトウは切腹を日本の文化の一つとして捉えて居る点で特筆すべきです。

 ところで、この時期の日本は内憂外患、問題山積、目まぐるしく色々な事が起こって居り、慶応2年12月25日孝明天皇が崩御(←暗殺説も在る)、慶応3年1月9日睦仁親王(後の明治天皇)が践祚、同年7月には「ええじゃないか」が東海地方で起こり翌年には近畿地方や信州地方に広がり(△4のp20~21)、慶応3年10月14日には大政奉還で第15代将軍徳川慶喜が政権を朝廷に返上 -これで徳川の約260年の幕藩体制は完全に終焉- すると同時に薩長両藩に倒幕の密命が下され、同年11月15日には坂本竜馬(龍馬)が中岡慎太郎と共に暗殺(←二人共土佐藩士)され、同年12月9日には王政復古が大号令され、慶応4年1月3日には戊辰戦争の鳥羽・伏見の戦いが行われ(←戊辰戦争は翌年迄続く)、同年1月11日には神戸事件(※16-1)が、そして同年2月15日堺事件が、同年2月30日パークス襲撃事件が勃発し(△4のp13)、そして慶応4年9月8日明治と改元します。慶応から明治へ年号が変わる時期は世の中の一大変革期でした。この中で特に神戸事件が堺事件と似て居ますので、興味有る方は【参考文献】△4の「神戸事件」の章を参照して下さい。

 [ちょっと一言]方向指示(次) 大政奉還直後の慶応3(1867)年11月15日に起きた坂本竜馬の近江屋での暗殺事件は色々と不可解の部分が有り、前出のアーネスト・サトウ「この私が長崎で知った土佐の才谷梅太郎(訳注:坂本竜馬の変名)は、数日前京都の宿で三名の姓氏不詳の徒に暗殺された」”奇妙な事”を言って居るのです(△5のp86)。この事件はこの時点では犯人の氏名や数は一切解って無いのですが、にも拘らずサトウは犯人の数は3人だとポロリと言って仕舞って居ます。私は前からこの言葉が気になって居たのですが、実は維新後に明らかに成りますが刺客は見廻組 (※19)の今井信郎の口述から見廻組の7人(そして実際に3人が斬り込んだ)という説が有力で、今井はこの件で明治5(1872)年に禁固刑を受けて居ます(△6のp211~213)。
 もう一つ、サトウは重要な事を言って居ます。「旗本の間に、秘密の回状がまわった。それは、慶喜を責むるに前将軍家茂の毒殺をもってし、誠忠の士は慶喜の命に抗して江戸近郊向島に集合せよという檄文であった。」という箇所です(△5のp82)が、サトウはこの様な重要機密に接して居たという事です。そしてロッシュの仏国が幕府(=旧体制)を支援したのに対し、パークス-サトウの英国は薩長(=新体制)を支援しアームストロング砲 -初め米国の南北戦争に利用されその”御古”が戊辰戦争に使われた- を売り込んで新体制を勝利に導きました。
 竜馬暗殺のポロリもそうですが、サトウは新体制の機密に積極的に関与して居り、幕末の情報戦争はスパイ小説宛(さなが)らです。


 ところで、堺の地元の町人は妙国寺対面の宝珠院に葬られた十一烈士の墓を「御残念様」と言って拝み、助命組の空の瓶を「御命運様」と言って瓶に入り運に肖ろうとしたそうです。町人からすれば切腹するよりも命が助かる方が有り難い訳です(△4のp331)。

 (3)歴史の横漏れ - 土佐藩の助命九士の「その後」

 しかし、私は「十一烈士に名を残すことが出来なかった9名のその後」を追究してこのページの稿を起こしましたので、ここからが本章の私の本題です。それは上の番号が12~20番の人のその後の人生 -それは多分に運命的です- が問題なのです。中でも土佐藩士の橋詰愛平は12番目の切腹予定者だったので、切腹が中止に成り助命組に振り分けられて仕舞った -即ち土佐藩十一烈士から漏れた- のですから、正に「運命の気紛れ」に翻弄されたと言う他有りません。サトウの言葉を借りれば「二十人はみな同罪」なのに切腹を途中で中止した為に、その結果に於いてもの凄い不平等が生まれたのです。皆さんが普通考える堺事件は前節の話であって、これから私が述べる話は正に「歴史の横漏れ」に因って表舞台から抹殺された事実にもう一度光を当てる試みです。それは「当サイトのコンセプトについて」でも謳って居る通り「文化の地下水脈」に光を当てる事と同等なのです。
 さて、堺事件は慶応4年2月24日にロッシュと伊達宗城との間で文書交換をして形の上では”一件落着”と成りました。25日に助命九士は取り敢えず芸肥二藩に御預けに成り、それぞれ駕籠で両家に行きました。即ち、六番隊士の橋詰愛平・岡崎栄兵衛・川谷銀太郎の3名が安芸広島藩の浅野家(※1-3)に、八番隊士の武内民五郎・横田辰五郎・土居八之助・垣内徳太郎・武内弥三郎・金田時治の6名が肥後藩の細川家にです(△4のp327)。ところで、この両家は事例1の赤穂浪士の事件に関係が大有りで浅野家は苗字から解る通り赤穂浅野家の本家、細川家は赤穂浪士を預かった4大名家の一つです。ここで、12番目に腹を切る予定だった橋詰愛平(←彼は六番隊士)は切腹が中止に成って戻って来ると、控えて居た八番隊士から「臆したか」とか「切腹の法を知らぬのか」の罵声を浴びせられました。六番隊士と八番隊士は仲間であるがライバルでも在ったのです。橋詰愛平は御預けに成ってからも何度か精神惑乱を呈し自殺を図りました(△4のp328)。
 3月1日に朝廷御沙汰が出て故郷に帰る事に成りました。九士は2日夜には両家から別れの宴が持たれ、14日に土佐藩邸前の長堀から船に乗り込み17日早朝には土佐に着き、そこからは駕籠で大手門前の南会所に着くと「類族御預けの言渡し」(しかし外出は為らず)が有り、又しても取り敢えずの処置で謹慎中なのです(△4のp345~346)。


 そして切腹の日から略3ヶ月経った慶応4年5月20日に漸く明日21日四ツ(午前10時)に出頭命令が在り、出て見ると「朝廷御沙汰を以て、扶持切米召放たれ、渡川限り西へ流罪仰付けられ候事。」という内容でした。要するに、渡川の西 -渡川(わたりがわ)とは四万十川(※20)の下流のことで、幡多郡入田(にゅうた)村、今の高知県中村市入田- へ”島流し”です(△4のp351~356)。左の写真が最後に清流と謳われる四万十川(2011年7月25日、予土線の土佐大正駅付近で撮影)です。
 「配所への出立の日は記録されていない。」と在ります(△4のp355)が、恐らく5月21日に即立ったものと思われます。九士は流刑には納得出来ぬと言い張りましたが目付の者の顔を立てて怒りを抑え、その代わり前例の無い袴着帯刀姿で配所へ向かいましたが、一同蟄居で体が疲れていた為に足痛を起こし土佐郡朝倉村からは駕籠に変えました(△4-1のp416)。入田村の庄屋宇賀祐之進の取り計らいで8人を空家に合宿させ、横田辰五郎は西へ3里隔たった有岡村の法華宗真静寺が俗縁が有るので引き取り、九士は十一烈士の法要をその真静寺で行いました。九士は村民に文武を教えました(←士分とは”そういう事”をする慣わし)。しかし九士は相変わらず蟄居・謹慎中でした。夏の8月に川谷・横田・土居の3人が発熱し、9月4日川谷銀太郎は四万十の地で病死しました(享年26)。川谷は村人と相撲を取った話が伝えられ「墓は入田村の一つの谷の奥にあり、路傍に道標石がある。」と在ります(△4のp361)。
 慶応4年9月8日「詔シテ明治ト改元シ、一世一元ノ制ヲ定ム。」と改元が宣せられ、続いて恩赦を実施する文が続きます(△4のp378)。八士(←1人没)には明治元年11月17日に漸く目付方より沙汰が有りました。生き残つた八人は、川谷の墓に別を告げて入田村を出立し、二十七日高知に着いた。即時に目附役場に出ると、各通の書面を以て、「御即位御祝式に被當、思召帰任御免之上、兵士某亡に被仰付、以前之年数被継遺之」と云う申渡があつた。これは八月二十七日にあつた明治天皇の即位のため、八人のものが特赦を受けたので、兵士とは並の兵卒である。士分取扱の沙汰は終に無かつた。」と鴎外の『堺事件』は記します(△4-1のp417)。

 こうして助命九士(途中で1名死亡)は慶応4年5月21日~同年11月20日頃迄入田村で流刑の生活を送りました(△4のp356)。恩赦八名は「足軽の身分と四石二人扶持」を2年余りは得ていた様です(△4のp387)。
 左が高知城(2011年7月25日に撮影)、右が高知護国神社(高知市吸江(ぎゅうこう))に明治29(1896)年に建てられた烈士殉難碑(2011年7月23日に撮影) -堺事件で「烈士」と言った場合は切腹した十一烈士を指す- で裏に谷干城(←土佐藩士、明治の貴族院議員)の碑文が刻まれて居ます。助命九士はここでも「歴史の横漏れ」を甘受せねば為りません。
    {この節の写真は2011年8月3日に追加し、文章も最終更新。}

    ◆助命九士の「その後」

 さて、助命九士 -四万十に蟄居中に亡くなった川谷と恩赦八名- の「その後」は『泉州堺列挙始末』に拠れば、

  川谷銀太郎    :慶応4年9月4日に蟄居先で恩赦が出る前に発熱し病死。墓は入田村に在る。
  金田時治     :歩兵隊に組み入れられ城下南の練兵に従事しましたが明治元年12月20日練兵場にて吐血し、間も無く死亡(肺結核)。
  武内民五郎    :歩兵隊に入り軍曹に成って東京府の属官と成るも、官金500円が紛失し責任を取り自殺しましたが、何とその3日後に真犯人を捕縛。早まった!
  橋詰愛平     :彼は何度も自殺を図り自分の数奇な運命を呪いましたが明治22年の秋吐血し死亡(肺結核)。
  岡崎栄兵衛    :彼も明治22年の秋吐血し死亡(肺結核)。
  横田静治郎(正輝):現時(=明治26年)土佐郡潮江村に住み70歳を超え起居不如意ですが、世の中の人が堺事件を誤解しているとして『泉州堺土藩攘夷実記』を出版、『泉州堺列挙始末』は本書を参考にして居ます。
  垣内徳太郎(義行):現時46歳。長岡郡西野地村に住む。彼も『泉州堺事件実録』を記しましたが、これは残って居ないそうです。
  武内弥三郎(栄久):現時49歳。高知に住み諸名流と交わり、自由民権の立志社社員と成り代言業で身を立て、その後宮崎県に移り同県組合代言会の副会頭を務めました。
  土居八之助(盛義):高知県中島町に住み現時73歳。明治25年、著述家佐々木甲象に『泉州堺列挙始末』を書かせたのが彼で、彼はこの書物の発行人の一人


というものです(△4のp386~387)。
 やはり夏場に四万十で蟄居する事は当時は大変な事であった様で、川谷始め金田・橋詰・岡崎が肺結核で死んでいます、この当時は肺結核が日本全国に蔓延して居ましたから。一方、武内弥三郎の様に代言業で成功した人も居れば、武内民五郎の早まった自殺は惜しまれます。そして横田・垣内・土居の3名は堺事件が歴史に埋没して行く中で、特に助命九士の思いを後世に残そうと、それぞれが手記を出版したりしました。そして『泉州堺列挙始末』(佐々木甲象著)森鴎外の小説『堺事件』のネタ本として活用され一定の役割を果たしたと思われます。
 フーム、色々有ったのですね。土佐藩十一烈士からは個々の人間の内面は見えませんが、助命九士からは其々の内面の葛藤が読み取れます。最初に「私は寧ろこの方に興味が有りますね!」と言った意味がこれでお解り戴けたと思います。これは完全に裏面史(※21)で表の世界には出て来ません。

                (-_-)

    ◆「助命九士の取材」編集後記

 最後に1つだけ助命九士の取材で残念だった事が在りますので、それについて一言。それは高知県中村市入田(にゅうた)に行けなかった事です。否、行く予定を組んで居たのです。2011年7月23日~27日迄の旅程を組み25、26日は中村市に泊まる様に宿も予約して居たのですが、天候が急変し25日から雨に成りしかも荒れる見通しなので急遽予約をキャンセルし私は25日に帰阪しました。勿論、行く前は天気予報では1週間位は持ちそうでしたが、そこは水物です。夏のこの時期は天候が変わり易い事は知って居ましたので、まぁ仕方無い次に行けば良いや、と思い直した訳です。地図で見ると入田は土佐くろしお鉄道の中村駅から直線距離で5km弱位四万十川を遡上した所に在りますので、楽では無いとは思いますが最悪タクシーを使ったら行けると思って居たのです。
 ところが2011年12月2日に私が脳出血で倒れて仕舞い、2013年3月19日からは沖縄(那覇市)に永住しましたので、もう入田に行く事は有りません。入田は助命九士が”島流し”にされた所 -言わば助命九士のが籠もった所- なので入田とはどんな所か見て置きたかったですし、道標石が在るという川谷銀太郎の墓所にも行ってみたかったのですが、返す返すも残念です。
 でも2011年7月23日~25日の旅の成果は、この章の(3)節に反映されて居ます。又、土佐(=高知県)須崎の鍋焼きラーメンやカワウソ(獺)、愛媛県宇和島の闘牛、土佐の闘犬なども、全部この旅の成果です。詳しくは▼下▼からご覧下さい。
  日本、珍にして奇なる光景#2(The RARE and STRANGE scene 2, Japan)
    {この節は2013年11月22日に追加}

 ■各事例の「考察と総括」 - 倒錯の時代

 今迄見て来た事例を、もう少し深く突っ込み、或いは別の角度から考察してみたいと思います。そして私成りの事例の再評価を試みたいと思います、言わば総括です。

 (1)事例1の赤穂浪士の「考察と総括」

 事例1の説明では世間一般に広まっている(=受け入れられている)説を紹介しましたが、これとは全く異なる説も在ります。

  [1].討ち入りはテロ行為である、しかし仇討が美化された。
  [2].浅野長矩は吉良家の高家世襲に反感を抱いていた。
  [3].吉良上野介が旗本であるのに対し浅野長矩は大名であった。
  [4].長矩は短気で暗愚である。
  [5].討ち入りが正当化されて仕舞ったので歴史が50年は遅れた

 先ず[1]は、客観的に見て間違い無く討ち入りはテロ(※22~※22-2)です、しかも吉良上野介義央一人を倒すのに47人で攻め入った訳ですから。これは今世紀に入りテロ行為が世界中で日常化して居ますので、皆さんもニュースなどでお解りでしょう。もし討ち入りが今行われたら皆さん支持しますか?
 しかし当時、仇討(敵討)が持て囃される風潮が在り赤穂浪士も仇討の典型として美化されました。又、建前(タテマエ)社会の中のサムライの生き方が世間の同情を集めた部分も在ります。しかし幕末~明治初期に成ると「番外編のその又番外」で見た様にサムライの建前(タテマエ)は古臭く成りました。
 [2]は高家(※3)の問題です。吉良家(※2-1)は高家、それも上席の肝煎(きもいり)(※3-1)です。それ故に勅使接待役の浅野長矩は有職故実や仕来たり(※3-2)に明るい吉良上野介(←高家は有職故実のプロ)に教えを請うたのですが、それに対し吉良はぞんざいに扱ったというものです。私は赤穂浪士問題の中心はここに在ると思って居ますが、難しい話はカットされ一般には知られて無いのです。
 [3]は素人に解り易いですね。吉良は高家と言えど知行が4千2百石旗本(※6-3)に過ぎず、対する浅野は知行が5万3千石も有る大名(※6-2)だったので、吉良がこれを妬んだというものです。
 [4]長矩暗愚説は吉良支持派(←非常に少数派ですが)に多い意見で、長矩は播州赤穂の「田舎大名」だという訳です。私も1つだけ思う事は、赤穂の塩(※1-8)は莫大な利益を上げて居たにも拘わらず、浅野長矩は何故早まったのか?、という疑問が残りますね。やはり短気説が有力です。
 [5]の歴史が50年は遅れた(←100年と言う人も居る)という説は主に歴史学者で、彼等はその為に開国が遅れたと主張します。これは所謂「歴史のタラ、レバ」に属する非常に難問ですが、その後の開国論議や開国プロセスや会津戦争などを見ると、この意見は当たっている様に私には思えます。この問題は後で又扱います

 ところで事例1の元禄時代は実は”倒錯の時代”(※7-1)なのです。その事については既に▼下▼で詳しく論じて居ます。
  [人形浄瑠璃巡り#2]露天神([Puppet Joruri 2] Tsuyu-tenjin, Osaka)

 その中から、関連部分をここに纏めます。特に時系列に注意して見て下さい。

  ・浅野内匠頭の刃傷事件及び切腹   元禄14(1701)年 3月14日
   赤穂浪士四十七士の討ち入り決行  元禄15(1702)年12月14日
   赤穂浪士全員の切腹        元禄16(1703)年 2月 4日
  ・お初・徳兵衛の心中事件      元禄16( // )年 4月 7日
    (近松門左衛門はこの心中から
     『曾根崎心中』(※10-1)の着想を得る、
     これ以降大坂では心中ブームが起きる)
  ・近松がヴェリズモ浄瑠璃『曾根崎心中』を
    大坂道頓堀竹本座で初演     元禄16( // )年 5月 7日
  ・この時代の御上のトップが「生類憐みの令」で犬公方と呼ばれた徳川綱吉(※7)で、その過剰な動物愛護の”倒錯”した精神の持ち主です。綱吉の将軍への在職期間は延宝8(1680)~宝永6(1709)年で、その中に元禄時代(1688年9月30日~1704年3月13日)を完全に含みます。


 つまり元禄後期の同時期に赤穂浪士事件は江戸で起き、一方『曾根崎心中』の心中事件が大坂で起き、両事件共に大衆に大いに受けたのです。そしてその風潮を助長したのが犬公方綱吉でした。
 戦後も昭和元禄(※23)などと言われた時期が在り、それは1967年頃に言われた流行語で伊弉諾景気(※23-1)を言い表し、所謂高度成長(※23-2)した日本を若干の揶揄を込めて言った言葉です。
 一方、元禄時代は戦国時代を終え近世の安定社会に入って略100年を経過し、大衆の中心に躍り出た町人文化(←元禄の頃は上方文化が中心)が花開いた”太平安楽”の時代を言うのです。町人たちは刺激を求めて居たのです、でも高家などと言う複雑な事は解りません。斯くして表面的・皮相的・倒錯的で”単純なストーリー”の町人の刺激要求に見事に応えたのが『忠臣蔵』であり『曾根崎心中』であり、犬公方様であった訳です。心中ブーム倒錯した世相の表れです。実は”倒錯の時代”が各事例を貫くキーワード(keyword)なのです。
 尚、江戸時代に上方文化(=関西の文化)が力を持ったのは元禄時代迄で、以降は全て江戸生まれの江戸文化に成ります。

 (2)事例2の酒巻和男の「考察と総括」

 この後、日本人がどういう運命を辿ったかは皆さん、もうお解りですね。ここで真珠湾攻撃から敗戦迄を俯瞰して見ましょう。因みに大日本帝国時代は皇紀(=紀元前660年を元年とする呼び方)(※24)に基づき、丁度戦争が始まる1940年が皇紀2600年に相当する所から使われました。

  1940(昭和15)年:皇紀2600年 → 零式
    41(昭和16)年: // 2601年 → 一式
       12月 8日:真珠湾攻撃太平洋戦争開戦
               酒巻和男は特殊潜航艇(計10名)で奇襲
                → 酒巻は捕虜第一号に(日本では非国民)→─┐
    42(昭和17)年: // 2602年 → 二式
        3月 6日:大本営は九軍神を発表
               (酒巻以外の特殊潜航艇乗員全員をに列した)
  ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
    45(昭和20)年: // 2605年 → 五式
        8月 6日:広島に原爆を浴びる
        8月 9日:長崎に原爆を浴びる
        8月15日:2発の原爆敗戦(=無条件降伏)(※24-1)
               大日本帝国解体
    46(昭和21)年:酒巻和男、日本に復員 ←────────────┘

 零戦はゼロ式戦闘機のことですが、ゼロ式(=零式)は1940年に開発されたという事が解る訳です。しかし、これは明らかに倒錯です。皇紀2600年も、九軍神も、非国民も、大東亜共栄圏も、全て倒錯した幻影でした。軍国主義の下でサムライ精神は確かに高揚しましたが、歴史的にはサムライは江戸時代で終わって居ますので時代錯誤以外の何物でも有りません。「虜囚の辱」大和魂サムライ精神の美化に他為りません。つまり太平洋戦争末期は完璧に”倒錯の時代”なのです。

 [ちょっと一言]方向指示(次) 皇紀とは記紀の神話を真に受けたもので、しかも紀元前660年というと縄文時代の後期に相当するので如何にこの考え方が馬鹿馬鹿しいものかは明白ですが、それが平然と行われて居た所に”倒錯の時代”の恐ろしさが有ります。

 しかし、怖いですね~ェ。それ迄正常な判断をしていた人々が、こうも簡単に倒錯した世界に嵌まり込み、2発の原爆を浴びる迄は夢遊病者の如く盲目的に成って仕舞う。いや~ぁ、恐ろしいですね。そして戦後のスタートも無条件降伏ですから完全敗北の筈ですが日本政府は敗戦と言わずに終戦と言い換え、故に私は終戦という言葉は使わないと言った訳です。更に戦後日本が曖昧な態度を取った為に2発の原爆を誰が落としたのか、アメリカが落としたという事実があやふやにされ、北朝鮮が落としたと思い込んで居るみたいです。
 正に太平洋戦争(=大東亜戦争) -世界史では第二次世界大戦の一部- は最初から全く呆れる狂気の沙汰でした。今ではアメリカは真珠湾攻撃も事前に情報をキャッチして居たとするのが定説です。
 戦後日本は「鬼畜米英」から日米安保体制に180度舵を切った事は、皆さんの方が良くご存じですが、これはルース・ベネディクト女史(※25)が言う様に当時のアメリカ人には理解不能な事でした(△7のp199)。

 [ちょっと一言]方向指示(次) 文化人類学者ルース・ベネディクトは『菊と刀』に於いて、アメリカ人とは異なる日本の「文化の型(cultural pattern)」の特徴を明らかにし(△7のp135~137)、それを戦後日本の統治政策に活かす為に発表されました。この本は未だ戦時中の1944年6月に戦時情報局から委嘱されて戦後の1946年に出版されました(△7のp1、7、368)。しかし、未だ戦争が終わって無い段階で早くも敵国の戦後処理についての研究を開始するアメリカという国の”凄さ・異常さ・怖さ”を感じますね。
 因みに日本で『菊と刀』の翻訳本が出た時には彼女は日本通と見做されましたが、彼女は日本文化の専門家でもなく日本に来たことも有りません。

    {この節は05年9月14日に追加}

 (3)事例3の堺事件の”境”の「考察と総括」

 先ず、今迄敢えて伏せて置きましたが、この事件は攘夷の事件(※26)です。文久2(1862)年の生麦事件(→薩英戦争にエスカレート)や既に紹介した神戸事件、堺事件、パークス襲撃事件は攘夷の事件です。大岡昇平の労作が『堺港攘夷始末』と命名されて居ることからも明らかです。しかし、このページではそれが主題では無いので伏せていた訳です。それと日本では尊皇攘夷と言う言葉の方が一般的なので「尊王」と「攘夷」が混同される嫌いが在りますが、「尊王」と「攘夷」は全く異なった概念ですので宜しく!
 ここでは寧ろ、排外主義的な攘夷が何故この時期、即ち幕末~改元直後に”もて囃された”のか、について考察します。この時期は、やはり”倒錯の時代”なのです。歴史の表層が目まぐるしく変わり、しかも欧米列強が日本を”餌”にしようとしてましたから、単純な所で「外国人は怪(け)しからん」と遣れば日本人の一定程度の支持は得られたのです。しかしそれは時代錯誤でした。それは明治新政府がドイツやイギリスの”御雇い外国人”の力を借りて欧化教育に走った事を思い出せば明らか、即ち攘夷では無いのです。この時は最早排外主義的な攘夷は通用しないという事は彼等も感づいていたと思います。何故なら徳川慶喜は既に大政奉還で”只の人”であり、横浜とか神戸を開港した後進むべき道は国際化だという事は明白だからです。それにも拘わらず攘夷を美化しようとした、とすれば歴史の逆行です。

 では何故(なにゆえ)に時代錯誤をして仕舞ったのか?、という問題に移ります。先ず第1は最早古いサムライ精神 -サムライの世は幕末が最後!- に虚勢を張ってしがみ付いた事です。
 しかし第2として、事例1の考察で提示した

  [5].討ち入りが正当化されて仕舞ったので歴史が50年は遅れた

という命題を思い出して欲しいのです。これは「歴史のタラ、レバ」に属しますが私は幕末~改元直後の時代錯誤はやはり命題[5]が大きく関係していたと考えて居ます。もし討ち入りが正当化されていなければ、国際問題についてもっと合理的な立脚点に立ち、欧米は最早一国では無く仏・英・米・伊・普などが連合するのだ -フリーメーソン的連合体(※27)- という事に気が付いて、そういうパワー(国力)とタフに交渉することが或いは出来たのでは、と思います。

 [ちょっと一言]方向指示(次) フランス革命(1789~99年)以降、歴史の表舞台にフリーメーソンが踊り出て世界を牛耳る様に成り、フランスやアメリカはフリーメーソンの申し子です。彼等は「自由・平等」や「博愛」や「世界主義」などの標語を掲げ、一国では無く複数の国が連合するのが常で、「連合国」はその典型です。彼等は一国独裁では無くこれらの標語で結ばれた連合体である事を強調します。これに対しファシズム国家は嘗てのナチや大日本帝国や現代のイラクの様に一国主義で連合国と戦い敗れました。そして「連合体」を組む遣り方は既に幕末には完成して居るという事を正確に読み、時代錯誤では無くタフな交渉が必要だったのです。

 しかし私が堺事件で一番興味が有ったのは十一烈士と助命九士の”境”、即ち切腹が12番目に予定されていて「運命の気紛れ」で助命九士に振り分けられた橋詰愛平の人生ですので、攘夷や時代錯誤についてはここ迄とします。
 橋詰が安芸広島藩の浅野家に御預けに成ってから何度か自殺を図った事は既に記しましたが、実は駕籠が浅野・細川両家に向けて出発しようとした時、即ち慶応4年2月25日の朝にも「突然橋詰はふぐり(※28)を握りしめ、舌を噛んで自殺を図った。...<中略>...橋詰愛平はその前後にも、精神惑乱の状を呈した。彼は前の切腹士の遺骸が運ばれて来るのを見た唯一の生残りであるから、無理もない。仲間より疑われたのが、よほど口惜しかったと見える。」と在ります(△4のp328)。彼の「その後」の人生は苦しかったであろうと想像出来ます。彼は癒されること無く血を吐いて亡くなりました。私は言葉が有りません...合掌!!

                (-_-)
                _A_

 ■結び - 物事が美化される時は危険の兆候

 (1)<3つの事例>と倒錯との関係を図解

 どうでしたか?、私独自の見解が随所に在ったと思います。今回は期せずして、

  赤穂浪士の寺坂吉右衛門とシンパの萱野三平
  真珠湾奇襲で捕虜に成り軍神から漏れた酒巻和男
  堺事件の十一烈士と助命九士

というサムライ(SAMURAI)の運命を扱う事に成りました。それも「運命の気紛れ」によって人生が大きく狂わされた人々の、歴史の表舞台から抹殺された”裏”の歴史 -そこに「歴史の横漏れ」が在る- を敢えて追ってみました。私は”敢えて”遣るのが好きなのです。
 皆さん、それにしても「横漏れ、イヤね!」、ブワッハッハッハッハ!!

 以上で各事例のキーワードが”倒錯の時代”という事も解って戴けたと思いますが、最後に図解して置きます、それはこういう事なのです(▼下の図▼)。

      元禄       幕末~明治初め    第二次大戦      ?
     ←1701年→      ←1668年→     ←1945年→     x年
      __         __        __       _
     / \  167年   / \  77年  / │    __/
  __/   \_____/   \____/  \__/▲  
                                  │
     <事例1>       <事例3>      <事例2>   │
     赤穂浪士      土佐十一烈士     酒巻和男   現在 未来
                と助命九士

 ずっと倒錯してた訳では無く、倒錯或る時代の或る事件を切っ掛けに表れて来るのです。では、どういう時代、どんな事件が起こったら倒錯が始まるのか?、それは非常に難しい問題です。社会学者にこの問題を解いて欲しいですね。しかし倒錯に陥る速度は速やく、皆が倒錯に気付いた時は「時既に遅し」で、その前に食い止めなくては為らないという事を肝に銘ずるべきです。

 (2)「歴史の横漏れ」の定義 - 一応の帰着点

 ところで、歴史を概観して”横漏れ”したか、して無いかは、多分に主観的であるという事は否めません。そんな中で敢えて「歴史の横漏れ」を定義すれば、


    「歴史の横漏れ」とは

      「運命の気紛れ」の僅かな気紛れの差で、
        「或る人の歴史」抹殺される事

と成るでしょう。これが冒頭で述べた「「歴史の横漏れ」の[定義が可能であれば]定義を試みましょう。」の解答ですが、これは飽く迄も私の辿り着いた答と言うか一応の帰着点です。皆さんが歴史を考察したり感じたりする場合、私とは別の捉え方や考え方が在るでしょう。「歴史の横漏れ」は裏面史の一部を成していると思います。

 (3)倒錯の回路に嵌まり易い日本人は呉々も御用心を!

 現実に戻って日本人は又再び倒錯の回路に引き込まれるのでは?、と私は密かに危惧して居ます。何故倒錯の回路に嵌まり込むのか?、と言うと日本人は糞真面目過ぎるんです、四角四面ですね遊びが無いですね。野暮なんです、粋(いき)とか洒落が無いですね。今は世の中が”だらけ”て居ますが、又再び日本が国家主義的(※29)に成ったら、例えば九軍神が復活したら日本人は倒錯の回路にズルズル嵌まり込みます、皇紀が復活したら末期的です。日本は幕末~明治初期の教訓を第二次大戦に生かせず、同じ過ちを繰り返して居ます、その間僅か77年です(▲上の図▲を参照)。もう戦後から60年以上が経ちました。そろそろ戦後を生きて迎えた人々は少なく成りました、戦後って何??、です。
 周りを見回すと、時代錯誤に陥り倒錯の回路に嵌まり込んで行こうとする気運がちらほら頭を擡(もた)げて居る様に思えます。戦後の価値感は大分戦前的な価値感に逆戻りして居ます。あの戦争に至った過程を直視しなくては為りません。もしも、それを否定し、仮にも美化する様な事は在っては為らないのです、原爆を2発浴びている訳ですから。しかし私にはその様なものが再び美化され始めて居る様に思えます。物事が美化される時は危険の兆候ですので、呉々も御用心を!!
 まぁ、簡単に言うと私は日本人を信用して無いという事ですかねぇ、だから私はエトランジェ(etranger、異邦人)と呼ばれるのでしょうな、ワッハッハッハッハ!!
 しかし「歴史から学ぶ」とは、口で言う程易しい事では無いですゾ!!
    {この章は05年9月14日に最終更新}

φ-- おしまい --ψ

【脚注】
※1:忠臣蔵(ちゅうしんぐら)は、[1].赤穂四十七士の敵討を主題とする浄瑠璃・歌舞伎狂言の総称。
 [2].「仮名手本忠臣蔵」の略称。
※1-1:仮名手本忠臣蔵(かなでほんちゅうしんぐら)は、浄瑠璃の一。並木宗輔・2世竹田出雲他の合作の時代物。1748年(寛延1)竹本座初演。赤穂四十七士敵討の顛末を、時代を室町期に取り、高師直を塩谷判官の臣大星由良之助らが討つことに脚色したもの。「忠臣蔵」と略称。全11段より成る。義士劇中の代表作。後に歌舞伎化。
※1-2:浅野長矩(あさのながのり)/浅野内匠頭(あさのたくみのかみ)は、江戸中期の播州赤穂城主(1667~1701)。内匠頭と通称。父長友の遺領5万3千石余を継いだ大名だが、元禄14年(1701)3月14日勅使接待役と成り、江戸城殿中で吉良義央を傷付け、即日切腹、城地を没収。<出典:一部「日本史人物辞典」(山川出版社)より>
※1-3:浅野(あさの)は、清和源氏。頼光の子孫が美濃国土岐郡浅野に住して氏とした。後、尾張に住し、長勝・長政は織田・豊臣氏に臣事。長晟(ながあきら)の代から安芸広島藩主赤穂浅野家はその分家
※1-4:大石良雄(おおいしよしお/よしたか)/大石内蔵助(―くらのすけ)は、(良雄は正しくはヨシタカと読む)江戸中期、赤穂浅野家の家老。赤穂浪士の頭領(1659~1703.2.4)。通称、内蔵助。兵学を山鹿素行に、漢学を伊藤仁斎に学んだと言う。元禄14年(1701)3月、主君長矩(ながのり)が吉良義央を刃傷の為切腹・改易の処分を受けるや、同志と共に翌年12月14日夜吉良邸に仇を報じ16年の2月4日切腹
※1-5:寺坂吉右衛門(てらさかきちえもん)は、赤穂浪士の一(1665~1747)。名は信行。浅野長矩の臣吉田忠左衛門組下足軽。吉良邸討入後、幕府に自首したが罪を問われなかった。又、門前逃亡説も在る。「忠臣蔵」では寺岡平右衛門。
※1-6:義士(ぎし)は、[1].節義を固く守る人物。義人。
 [2].特に、赤穂義士を指す。「―の討入り」。
※1-7:泉岳寺(せんがくじ)は、東京都港区高輪に在る曹洞宗の寺。1612年(慶長17)徳川家康の命に依り外桜田に創建。開山は門庵宗関。1641年(寛永18)現在の地に移転したと言う。浅野長矩(ながのり)及び赤穂義士の墓所
※1-8:赤穂(あこう)は、兵庫県南西部の市。旧称、仮屋又は加里屋。赤穂城は1615年(元和1)池田政綱の築城。後、浅野長直入城、孫長矩(ながのり)の時に除封。嘗ては瀬戸内海沿岸最大の製塩地。人口5万2千。

※2:吉良義央(きらよしなか)/吉良上野介(きらこうずけのすけ)は、(義央はヨシヒサとも)江戸中期の旗本(4200石)で高家(こうけ)肝煎(1641~1702)。上野介と称。1701年(元禄14)勅使接待役浅野長矩(←長矩は即日切腹を辱め、江戸城殿中で刃傷せられ、僅かに死を免れたが、長矩の遺臣大石良雄らに殺された。
※2-1:吉良(きら)は、姓氏の一。足利氏の支族。足利長氏が三河国吉良荘を領したのに始まり、一時、西条吉良と東条吉良に分れた。高家吉良氏はその後裔。他に奥州吉良(世田谷吉良)が在り、貞家は奥州管領として活動。

※3:高家(こうけ)とは、江戸幕府の職名。幕府の儀式・典礼、朝廷への使節、伊勢神宮・日光東照宮への代参、勅使の接待、朝廷との間の諸礼を司った家。室町時代以来の名家、大沢/武田/畠山/大友/吉良など26家が世襲奥高家とも言い、官位を持たないのを表高家と言う。
※3-1:肝煎(きもいり)とは、この場合、江戸時代の高家(こうけ)の上席
※3-2:有職故実(ゆうそくこじつ)とは、朝廷や武家の礼式・典故・官職・法令などに関する古来の仕来たりや決まり

※4:改易(かいえき)とは、(改め易(か)える意)
 [1].官職を辞めさせて他の人に代らせること。罷免。御成敗式目「早くかの職を―せしむべし」。
 [2].所領や家禄・屋敷を没収すること。江戸時代の刑では蟄居(ちっきょ)より重く、切腹より軽い

※5:長屋門(ながやもん)は、江戸時代の武家屋敷などで、長屋の一部に門を開いたもの。

※6:足軽(あしがる)は、[1].歩行が軽快なこと。太平記22「―に出立つ時もあり」。
 [2].(足軽く疾走する者の意)平常は雑役に従い、戦時は歩卒と成る者。戦国時代には弓・鉄砲の訓練を受け、部隊を編制した。江戸時代には武士の最下位を成した。雑兵(ぞうひょう)。徒同心(かちどうしん)。平家物語4「―共四五百人先立て」。三河物語「―計(ばかり)出して戦いけるに」。
※6-1:歩卒(ほそつ)とは、徒歩の兵卒。歩兵。〈色葉字類抄〉。
※6-2:大名(だいみょう)は、江戸時代、将軍直参で知行1万石以上の者。諸侯
※6-3:旗本(はたもと)は、江戸時代、将軍直属の家臣の内、知行高が1万石未満の直参で御目見(おめみえ)以上の格式の有った者。御目見以下を御家人(ごけにん)と言う。折たく柴の記下「―につかうまつる堀田・赤井の人々」。

※7:徳川綱吉(とくがわつなよし)は、徳川第5代将軍(1646~1709、在職1680~1709)。家光の4男。母は桂昌院。幼名徳松。上州館林城主から宗家を継ぐ。越後の高田騒動を親裁し、譜代大名・旗本・代官の綱紀を粛正、又、学を好み、湯島に聖堂を建立し、後世、天和の治と称されるが、次第に柳沢吉保らの側近政治の弊害が現れ、特に「生類憐みの令」は人民を苦しめ、犬公方(いぬくぼう)と渾名された。常憲院と諡す。
※7-1:倒錯(とうさく)とは、[1].inversion。上下を転倒すること。逆に成ること。
 [2].perversion。本能や感情の異常及び人格の異常に因って、社会的規範に反する行動を示すこと。「性的―」。

※8:萱野三平(かやのさんぺい)は、赤穂藩主浅野長矩の側近(1675~1702.1.14)。名は重実。父が仕えていた大島家の推挙に依り、長矩に中小姓として仕え、長矩の江戸城内刃傷事件の報を国元に伝えた。大石良雄らと行動を共にしようとしたが、大島家(←吉良家と近しい)への仕官を勧める父に許されず、板挟みに成り長矩の月命日に自刃した。俳人としても知られる。俳号は涓泉(けんせん)。<出典:「日本史人物辞典」(山川出版社)>
※8-1:早野勘平(はやのかんぺい)は、「仮名手本忠臣蔵」中の人物。赤穂浪士の一人萱野三平に擬す。お軽の夫で、誤って舅(しゅうと)を殺したと思い、自害する。

※9:シンパ(しんぱ)は、シンパサイザーの略。
※9-1:シンパサイザー(sympathizer)とは、同情者。共鳴者。特に、共産主義運動に直接には参加しないが支持援助する人。シンパ
※9-2:シンパシー(sympathy)は、同情。共感。共鳴。

※10:ヴェリズモ(verismo[伊])は、フランスの自然主義に刺激されて、19世紀末葉、イタリアで興った写実主義文学運動。代表者ヴェルガ。真実主義
※10-1:曾根崎心中(そねざきしんじゅう)は、浄瑠璃の一。近松門左衛門作の世話物。元禄16年(1703)4月、大坂内本町の醤油屋平野屋の手代徳兵衛と北の新地の天満屋の遊女お初とが曾根崎天神の森で情死した事件を脚色、翌月初演。世話浄瑠璃最初の作品

※11:吉良仁吉(きらのにきち)は、幕末期の博徒(1839~66)。本名太田仁吉、綿商人の子。三河国吉良横須賀生まれ。博徒間の抗争から荒神山の争いで命を落とした。義理に殉じた人物として講談浪曲芝居などに採り上げられた。<出典:「日本史人物辞典」(山川出版社)>
※11-1:広沢虎造(ひろさわとらぞう)は、(2代)浪曲家(1899~1964)。本名、山田信一。東京生れ。「清水次郎長伝」中の「森の石松」で人気。
※11-2:侠客(きょうかく)は、強きを挫き弱きを助けることを建前とする人。江戸の町奴(まちやっこ)に起源。多くは賭博・喧嘩渡世などを事とし、親分子分の関係で結ばれている。任侠の徒。男伊達(おとこだて)。

※12:尾崎士郎(おざきしろう)は、小説家(1898~1964)。愛知県吉良町上横須賀生れ。早大中退。国士的情熱と強い正義感に依る人生探求で新生面を開いた。作「人生劇場」「篝火」「天皇機関説」など。

※13:太平洋戦争(たいへいようせんそう)とは、第二次世界大戦の内、主として東南アジア・太平洋方面に於ける日本とアメリカ・イギリス・オランダ・中国等の連合国軍との戦争。十五年戦争の第3段階で、中国戦線をも含む。日中戦争の長期化と日本の南方進出が連合国との摩擦を深め、種々外交交渉が続けられたが、1941年12月8日、日本のハワイ真珠湾攻撃に因って開戦。戦争初期、日本軍は優勢であったが、42年後半から連合軍が反攻に転じ、ミッドウェー・ガダルカナル・サイパン・硫黄島・沖縄本島等に於いて日本軍は致命的打撃を受け、本土空襲、原子爆弾投下、ソ連参戦に及び、45年8月14日連合国のポツダム宣言を受諾、9月2日無条件降伏文書に調印。戦争中日本では大東亜戦争と公称。中国や東南アジアなどアジア諸国を戦域に含む戦争であったことから、アジア太平洋戦争とも称。
※13-1:大東亜戦争(だいとうあせんそう)は、大東亜共栄圏のイデオロギーに基づく、太平洋戦争の日本側での当時の公称。
※13-2:大東亜共栄圏(だいとうあきょうえいけん)とは、太平洋戦争期に日本が掲げたアジア支配正当化の為のスローガン。欧米勢力を排除して、日本を盟主とする満州・中国及び東南アジア諸民族の共存共栄を説く。1940年、外相松岡洋右の談話に由来。
※13-3:真珠湾/パール・ハーバー(しんじゅわん、Pearl Harbor)とは、ハワイ、オアフ島南岸のアメリカ海軍根拠地。1941年12月7日(日本では8日未明)日本海軍が奇襲、太平洋戦争が勃発
※13-4:イデオロギー(Ideologie[独])とは、[1].史的唯物論に於いて、上部構造を構成するもの全て。観念体系。意識形態。→イデオローグ(ideologue[仏])。
 [2].現存する社会秩序の存在を正当化する支配層の考え方
 [3].特定の政治的立場に立つ考え方
<出典:「学研新世紀ビジュアル百科辞典」>
※13-5:非国民(ひこくみん、unpatriotic person)とは、国民としての義務を守らない者、国家を裏切る様な行為をする者。国家意思の遂行に協力しない者。特に第二次世界大戦中の日本で、戦争体制に協力しないと見做された者に対する非難の語として用いられた。「―呼ばわり」。<出典:一部「学研新世紀ビジュアル百科辞典」より>
※13-6:大本営(だいほんえい)とは、戦時、又は事変の際に設置された、天皇に直属する最高の統帥機関1893年(明治26)に制定。第二次大戦後廃止。

※14:江田島(えたじま)は、広島県呉市の西方、広島湾に在る島。西能美島・東能美島と地峡で接続する。元海軍兵学校の所在地。面積30㎢。
※14-1:海軍兵学校(かいぐんへいがっこう)は、海軍兵科将校と成すべき生徒を教育し、又、海軍兵曹長に対し兵科士官の素養に必要な教育を施した学校。1876年(明治9)海軍兵学寮を改称。東京築地、後、広島県江田島に移る。略称、海兵

※15:特殊潜航艇(とくしゅせんこうてい)とは、日本海軍が考案・使用した小型潜航艇。全長24m。魚雷2門乗員2名。潜水艦又は母艦から発進。真珠湾、シドニー、ディエゴスアレス(現アンツィラナナ)攻撃に参加した。<出典:一部「学研新世紀ビジュアル百科辞典」より>

※16:堺事件(さかいじけん)は、慶応4(1868)年2月15日、土佐藩の堺警備兵が海岸測量中のフランス兵士を攻撃し、死者11人の被害を与えた事件。維新政府はフランスの要求に従い賠償金を支払い、土佐藩士に切腹を命じ、土佐藩士11名が堺の妙国寺で切腹した。森鴎外に同名の小説が在る。
 補足すると、実際には堺に入港したフランス軍艦デュプレックス号の水兵が上陸し日本女性をからかい侮辱したことに原因が在り、この報せを聴いて駆け付けた土佐藩兵がフランス人に発砲したものです。
※16-1:神戸事件(こうべじけん)とは、慶応4年(1868)1月11日、備前藩兵が神戸で上陸中の外国兵と衝突した事件。維新政府は外国使臣に謝罪すると共に責任者を処罰した。備前事件とも。

※17:ロッシュ(Leon Roches)は、フランスの外交官(1809~1901)。1864年(元治1)駐日公使として来日。日仏貿易に努力。イギリスに対抗して幕府への支援を積極的に行う。68年(明治1)退任、帰国。
※17-1:パークス(Harry Smith Parkes)は、イギリスの外交官(1828~1885)。上海領事を経て1865年(慶応1)駐日公使。フランス公使ロッシュと対立して薩長を支援
※17-2:アーネスト・サトウ(Ernest Mason Satow)は、イギリスの外交官(1843~1929)。1862年8月、横浜に到着し通訳官を経て日本語書記官に。倒幕勢力から情報を入手し駐日公使パークスの対日外交に寄与。83(明治16)年離日。95(明治28)年7月、駐日公使として3度目の来日、日英同盟の推進に尽力。1900年、駐清公使に転任。著書「一外交官の見た明治維新」。<出典:「日本史人物辞典」(山川出版社)>

※18:伊達宗城(だてむねなり)は、伊予宇和島藩主(1818~1892)。賢君として知られたが、安政の大獄で隠居を命じられる。後、復活、国事に活動。67(慶応3)年、王政復古で議定に就任、以後、外国事務総督などを歴任。71年(明治4)欽差大使として清国に使し、日清修好条規を締結。<出典:一部「日本史人物辞典」(山川出版社)より>

※19:見廻組(みまわりぐみ)は、幕末、京都守護の為に組織された幕府の警備隊。新撰組と並んで京都守護職松平容保(かたもり)に付属。隊士は主として旗本の子弟から成り、反幕府勢力の鎮圧に当った。

※20:四万十川(しまんとがわ)は、高知県西部を流れ、中村市を経て土佐湾に注ぐ川。長さ196km。上流部は松葉川、下流部は渡川(わたりがわ)とも称し、清流として知られる。

※21:裏面史(りめんし、inside history)は、外部に現れない事情や内情、裏話などを叙述した歴史。<出典:一部「学研新世紀ビジュアル百科辞典」より>

※22:テロは、テロルテロリズムの略。「―行為」。
※22-1:テロル(Terror[独])は、(恐怖の意)有らゆる暴力手段に訴えて政治的敵対者を威嚇すること。テロ。「白色―」。
※22-2:テロリズム(terrorism)は、[1].政治目的の為に、暴力、或いはその脅威に訴える傾向。又、その行為。暴力主義。テロ
 [2].恐怖政治

※23:昭和元禄(しょうわげんろく)とは、1967年の中流社会を、町人文化が興隆した江戸時代の元禄年間(1688~1704)に擬えて呼んだ言葉。
※23-1:伊弉諾景気(いざなぎけいき)とは、1965年から70年に掛けて5年近く続いた好景気。神武景気や岩戸景気を上回る好況という意味を込めて名付けられた。
※23-2:高度成長(こうどせいちょう)は、急激な経済成長。特に1955~73年の時期の日本経済を言う。「―政策」。

※24:皇紀(こうき)とは、日本の紀元を、日本書紀に記す神武天皇即位の年(西暦紀元前660年に当る)を元年として1872年(明治5)に定めたもの。大日本帝国は1940年が皇紀2600年に相当するとした。
※24-1:無条件降伏(むじょうけんこうふく、unconditional surrender)は、[1].一切の軍事力を放棄して無条件に敵の支配下に入ること。
 [2].相手国から出された降伏条件を無条件で受け入れること。ポツダム宣言受諾に依る日本の無条件降伏は[2]に当たる。<出典:「学研新世紀ビジュアル百科辞典」>

※25:ルース・ベネディクト(Ruth Benedict)は、アメリカの女性文化人類学者(1887~1948)。コロンビア大学教授。文化とパーソナリティー研究の基礎を築く。主著「文化の型」の他、日本文化の研究書「菊と刀」など。

※26:攘夷(じょうい、exclusion of foreigners)とは、(夷(えびす)を攘(はら)う意)外夷を打ち払い、外夷との交流を拒むこと。「尊王―」。<出典:一部「学研新世紀ビジュアル百科辞典」より>
※26-1:攘夷論(じょういろん)は、幕末に台頭した、外国を排撃し鎖国を主張する議論。儒教の中華思想に由来し、尊王論と合流した尊王攘夷論として大きな力を振るった。

※27:フリーメーソン(Freemason)/フリーメーソンリー(Freemasonry)は、直訳すると「自由な石工」。アメリカ/ヨーロッパを中心にして世界中に組織を持つ慈善・親睦団体。起源には諸説有るが、18世紀初頭ロンドンから広まる。貴族・上層市民・知識人・芸術家などが主な会員で、理神論に基づく参入儀礼や徒弟・職人・親方の三階級組織がその特色。普遍的な人類共同体の完成を目指す。モーツァルトの歌劇「魔笛」などで知られる。フリーメイソン。
 補足すると、「広辞苑」では「慈善・親睦団体」と成って居ますが「現代用語の基礎知識(1999年版)」に在る様に、表向きの単なる「慈善・親睦団体」では無くやはり世界的秘密結社と言えます。起源はローマ時代(一説にはイスラエルの王ソロモンの神殿を築いた)の「石工組合」に在るとされて居ます。18世紀にはやはり秘密結社の薔薇十字団の会員が多数参加し、フランス革命アメリカ建国の原動力に成って居ます。

※28:「ふぐり」とは、(膨らみが有って垂れているものをフクロ・フクリと言ったのであろう、漢字では「陰嚢」を当てる)
 [1].睾丸陰嚢(いんのう)。〈和名抄3〉。
 [2].「まつふぐり」の略。まつかさ。
 [3].(「錘」と書く。形が陰嚢に似るから言う)秤の錘(おもり)。分銅。

※29:国家主義(こっかしゅぎ、nationalism)とは、ナショナリズムの訳語(民族主義・国家主義・国粋主義など)の一。人間社会の中で国家を第一義的に考え、その権威と意思とに絶対の優位を認める立場。全体主義的な傾向を持ち、偏狭な民族主義・国粋主義と結び付き易い。

    (以上、出典は主に広辞苑です)

【参考文献】
△1:『日本史小百科 家系』(豊田武著、東京堂出版)。
△1-1:別冊歴史読本・事典シリーズ 日本姓氏家系総覧』(新人物往来社編・発行)。

△2:「みかわこまち」公式サイトの「郷土玩具 吉良の赤馬」。

△3:『江田島教育』(豊田穣著、集英社文庫)。

△4:『堺港攘夷始末』(大岡昇平著、中公文庫)。
△4-1:『日本文学全集5 森鴎外集』(森鴎外著、新潮社)。「堺事件」はp397~417。

△5:『一外交官の見た明治維新(下)』(アーネスト・サトウ著、坂田精一訳、岩波文庫)。

△6:『維新暗殺秘録』(平尾道雄著、河出文庫)。

△7:『定訳 菊と刀』(ルース・ベネディクト著、長谷川松治訳、現代教養文庫)。

●関連リンク
参照ページ(Reference-Page):「文化の地下水脈」や
”敢えて”するのが好きな私▼
当サイトのコンセプトについて(The Concept of this site)
参照ページ(Reference-Page):大阪堺の妙国寺の地図▼
地図-日本・阪堺地区(Map of Hankai area, Osaka -Japan-)
補完ページ(Complementary):「歴史の横漏れ」に光を当てる事は、
「文化の地下水脈」に光を当てる事と「共通の考え方」が有る▼
酔っ払いの会話(Chat of drunkards)
補完ページ(Complementary):「歴史の横漏れ」という語を
初めて使ったページは堺事件に於いて▼
阪堺電車沿線の風景-堺編(Along the Hankai-Line, Sakai)
補完ページ(Complementary):物事が美化される時は危険の兆候、
国家主義などについて▼
理性と感性の数学的考察(Mathematics of Reason and Sense)
補完ページ(Complementary):ヴェリズモ浄瑠璃や
元禄時代は”倒錯の時代”と指摘▼
[人形浄瑠璃巡り#2]露天神([Puppet Joruri 2] Tsuyu-tenjin, Osaka)
「横漏れ、イヤね!」の議論▼
エロレタリアート白色革命(White revolution by the eroletariat)
『仮名手本忠臣蔵』作者の並木宗輔・2世竹田出雲について▼
人形浄瑠璃「文楽」の成り立ち(The BUNRAKU is Japanese puppet show)
辺境とは▼
2003年・磐座サミットin山添(Iwakura summit in Yamazoe, Nara, 2003)
神谷バーの賑わい▼
浅草、もう一つの風景(Another scene of Asakusa, Tokyo)
吉良家家紋をデザインに組み込んでいる吉良町のマンホール蓋
(私は電気ブランのファン)▼
ちょっと気になるマンホール蓋(Slightly anxious MANHOLE COVER)
古賀政男には3拍子の曲が多い▼
古賀メロディーの秘密(Secret in Koga melody)
平成の大合併(住所は肥大化)とは▼
2006年・井川線あぷとラインの旅
(Ikawa Abt-line, Oi-river Railway, 2006)

真珠湾攻撃の日、帝国陸軍が上陸したマレー半島の地に戦争博物館が在る▼
まどかの2001年シンガポール・マレーシアの旅
(Travel of Singapore and Malaysia, 2001, Madoka)

い号(イ号)潜水艦、孝明天皇暗殺説、知られざる日本の幕末▼
風船爆弾は雅(みやび)な兵器(Balloon bomb is the elegant arms)
「ええじゃないか」について▼
2009年・年頭所感-聖牛に肖ろう
(Share happiness of Holy Ox, 2009 beginning)

脳出血や沖縄に永住のこと▼
2013年・那覇空港を遊ぶ(Play the Naha Airport, Okinawa, 2013)
倒錯から目が覚めたのは2発の原爆
(他に高知県須崎の鍋焼きラーメンやカワウソ(獺)、
愛媛県宇和島の闘牛、土佐の闘犬なども)▼
日本、珍にして奇なる光景#2(The RARE and STRANGE scene 2, Japan)
昭和元禄や戦中の「鬼畜米英」や戦後の状況▼
戦後日本の世相史(Shallow history of Japan after World War II)
フリーメーソンとフランス革命▼
ナポレオン戦争に関わる音楽(Music related to the Napoleonic Wars)
私がエトランジェ(異邦人)と言われる訳▼
プ・リャンスオに蛇酒を捧ぐ(Snake liquor to Pu Liangsuo, China)
10年4月の【ブラボー、クラシック音楽!】の花見▼
ブラボー、クラシック音楽!-活動履歴(Log of 'Bravo, CLASSIC MUSIC !')


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