−− 2005.06.23 エルニーニョ深沢(ElNino Fukazawa)
2013.10.21 改訂
■はじめに − 古賀メロディーに多い3拍子の謎
古関裕而の音楽を説明するのに、古賀政男(※1)(←古賀メロディーと俗に言われます)の音楽と対比させて説明したのですが、[ちょっと一言]の中で次の様に述べました。「余談ですが、私が解明した古賀メロディーの秘密を指摘して置きましょう。日本に於いては3拍子の曲は元々は無く明治以降の洋楽導入に因るもので、従って日本人は3拍子を作るのも歌うのもヘタだと言われて居ます。ところが『影を慕いて』、『人生の並木路』、『悲しい酒』、『人生劇場』、『男の純情』、『新妻鏡』(△1)など、古賀メロディーで良く親しまれて居る曲は何れも3拍子なのです、勿論『ゲイシャワルツ』は3拍子のワルツですが。」と。
そして【脚注】として「私は古賀メロディーに隠された3拍子には、韓国・朝鮮の民謡や歌謡の3拍子の影響が有ると思って居ます。「アリランの歌」に見られる様に朝鮮族の民謡や歌謡には3拍子の曲が意外と多いのです。古賀政男は福岡の生まれで、ここは玄海灘に面して居て古代より半島の影響が大きい所なのです。」と推測を述べました。
後で言いますが、日本は江戸時代迄は殆ど3拍子系は無かったのに古賀メロディーには3拍子系 −特にアリラン型3拍子系(→後出)− が異常に多いのですが、それは何に由来するのか?、という点から「古賀メロディーの秘密」に迫ってみたいと思います。
■古賀政男の生地を訪ねて解った事
そしてこの程、2008年4月8日(火)の午前中に水郷柳川を訪ねた後、午後から福岡県大川市大字三丸844番地(旧:三潴(みつま)郡田口村)の古賀政男記念館・生家を訪ねました。ここも記念館として色々な物が展示されて居て面白いですし色々と参考に成りました。柳川から自転車で30分位で、最寄りの鉄道は無いので車で行くか、私の様にレンタサイクル(柳川か佐賀市で借りる)で行くしか有りません。こちらには古賀という地名も在り近くの墓には古賀という苗字が多いのです。この時現地で「おや、もしかして!」と或る閃きを感じた事を覚えて居ます。
下が▼生家の地図▼です。
地図−日本・柳川/大川/佐賀(Map of Yanagawa, Okawa and Saga, Fukuoka and Saga -Japan-)
又、巻末には「古賀政男の略年譜」を用意してますので、これも適宜参照して下さい。
地図を見ると先ず三丸は「みつまる」と読む様です。柳川/大川/佐賀の広域地図では「三ツ丸」と成って居るからです。そして私が或る閃きを感じた通り大川市には「北古賀」「鬼古賀」「中古賀」が有り、旧住所が三潴郡田口村 −今は田口村は無い− ですが生家の近くに田口小学校 −古賀政男は田口尋常小学校に入学して居ます− が在ります。これは劉姓古賀氏(→後出)です。
更に佐賀郡川副町には「東古賀」「西古賀」が在ります。これは狛姓古賀氏(→後出)か?。
何れにしても、大氏族の古賀氏族がこの辺りに居住していた事を物語って居ます。
{この章は08年4月17日に追加}
■考察1 − 「古賀」という姓
私は帰阪してから早速「古賀」という姓 −地名では無く姓− を調べてみました。そしたら何と「朝鮮半島系の帰化氏族」の中に次の記述が在るのです。即ち「このほか北九州で帰化人に関係ある姓が古賀氏である。古賀氏は大族で、その七割は今日北九州で占めるといわれる。主なものに、肥前の狛姓古賀氏、筑後に劉姓古賀氏がある。劉姓は漢の高祖の末といわれ、甲斐国に住み、のち筑後国三潴(みつま)郡古賀村に移って古賀氏を称した。」と(△2のp23)。
これです。この記述を私は探し求めて居たのです。古賀政男は旧住所で三潴郡田口村(古賀村では無いですが)で、上の記述からすれば
古賀政男は劉姓古賀氏に間違い無い
と思われます、これは推測ですが。劉姓古賀氏は漢の高祖の末裔という事で劉邦の姓を採って居る訳ですが、彼等の出自を「漢の高祖」迄遡るのは無理が有りやはり朝鮮半島系でしょう。
狛姓の肥前国は略今の佐賀県、劉姓の筑後国は今の福岡県の南部、即ち大川市がこれに該当します。更に「いっぱんにコガ(久我・古賀・古河)は空閑の地(※2)の意味で、開発可能の土地をいう。」と在り(△2のp46)、「大姓の古賀は帰化人の裔といわれる。空閑(こが)もその一族であろう。」と在ります(△2のp66)。そして古賀(古閑)氏の条に「前項の久我(くが)やこの古賀・古閑、あるいは古河(こが)などをコガというのは、もと未墾地を意味し、空閑(くが)も同じである。北九州一帯にひろがる古賀氏は、肥前の狛姓古賀と筑後の劉姓古賀とがある。肥後玉名郡の古閑氏、鹿本郡の古閑氏はともに劉姓古賀から分れた。」と在ります(△2のp300)。
別の文献を当たってみましょう。△2−1のp357には「コガは未墾地で、古賀・古河・空閑・久我・甲賀などと当て、地名・姓氏になる。古賀氏は九州に多い。筑後国三潴郡発祥は大蔵姓原田氏族、肥前発祥は狛姓とされる。なお肥前国空閑より起った空閑氏は清和源氏武田氏族。」と在り、大体最初の文献と同じです。
又、△2−2のp345には「九州には「古賀」「古閑」と書いて「コガ」と呼ぶ地名がいたるところに見られる。大川市の「古賀」「中古賀」「北古賀」「鬼古賀」、柳川市・三潴郡の「古賀」等。この「古賀」は、未開の荒地を意味する「空閑(くが)」が「古賀」と転じたものであるという。また熊本県下には「古閑」という地名が多く、八代平野には「明暦古閑」「寛文古閑」「安永古閑」「宝暦古閑」などがみられるが、「コガ」はもともと海であったところが、「陸=クガ」となったところで、「クガ」が「コガ」に転じたとする説もある。」と在ります。
以上を整理すると以下の様に成ります。
[1].古賀姓は北九州に多い(7割を占める)。
[2].筑後国三潴(みつま)郡(現:大川市)に定着した古賀氏は、
元々は劉姓古賀氏と言われる朝鮮半島系帰化氏族の末裔である。
[3].劉姓古賀氏は筑後国三潴郡に来る前に、甲斐国に住んで居た。
[4].読み「コガ」には「未墾の地」という意味が在る。
この中では何と言っても[2]が凄い発見です。[1]は事実なので、[3]の甲斐国を少し検証しましょう。実は甲斐国(現:山梨県)は非常に朝鮮半島系帰化人と関係が深いのです。山梨県には北巨摩郡・中巨摩郡・南巨摩郡(古くは巨麻郡)が在りますが、朝鮮半島は668年の高句麗滅亡以後(※3)、遺民や亡命者が我が国を頼って海を渡り、中でも『続日本紀』の霊亀2(716)年5月の条(元正天皇)には、「駿河・甲斐・相模・上総・下総・常陸・下野の7国の高麗人1799人を武蔵国に遷し、高麗郡(こまのこおり)を置く。」と記されて居て(△3のp62〜63)、この年に武蔵国高麗郡が新設されて居ます。甲斐の巨摩郡(こまのこおり)も高句麗系亡命者たちを受け入れる為の郡なのです。ところで狛姓は「高句麗人のことを、日本では高麗人と呼んだのだが、また彼らのうちの指揮者や伴造になったものが、高麗(こま)・狛(こま)という氏を称した。」と在る様に明らかに高句麗系です(△2のp22)。劉姓古賀氏も甲斐国[の巨摩郡]に暫く住んだという事でやはり高句麗系と見做せます。つまり狛姓古賀氏も劉姓古賀氏も高句麗系という事です。
[4]へ行く前に、旧住所の三潴(みつま)郡の「潴」の原意を調べてみました。漢字源に拠ると「潴」は「瀦」の異体字で、意味は「水の集まり留まった所。貯水池。」で、「貯」と同系と在ります。そう言えば柳川からレンタサイクルで行きましたが、そんな感じがします。劉姓古賀氏がここに定着する以前は「未墾の地」だったのでしょう。そういう所に土地を与えて亡命者の末裔を住まわせる、そして開墾させる、日本の朝廷もタダで土地は与えないのだ、と思いました。ここで大川市の地図を見て下さい。空閑の地/未墾の地だった三潴郡は又、旧国名の時代から”境の地”なのです。即ち辺境です。これは差別では無く、事実です。当サイトのコンセプトをご覧下さい。
当サイトのコンセプトについて(The Concept of this site)
それ迄地名からのみ調べて居たのですが姓から調べたら呆気無い程簡単に探している答えが得られ、兎に角、古賀氏は大氏族なのです。これも古賀政男の生地を訪ねたから「発想の転換」が出来た訳ですね。
{この章は08年4月17日に追加}
■日本には殆ど無かった3拍子
江戸時代以前の日本の音楽には、雅楽から俗楽(※4、※4−1)、更に広義の邦楽(※4−2)迄を見渡しても、3拍子系は無い様です。ここで3拍子系と言う訳は、3/4とか6/8とか色々在るからで、3拍子系と言った場合それらを全部ひっくるめて居ます。民族音楽学者の小泉文夫(※5)も「三拍で一小節になる三拍子は、日本の音楽には極めて少ない。民謡に一部それに近いものがあったり、天台声明の「定曲」にいくらかの例を見たり、俗曲の『都々逸』にその要素が見られる程度である。こうした拍節の面から見ると、日本音楽に「強拍」「弱拍」の対応が稀薄なことと、三拍子系や、三分割のリズムがないことは、特に注目すべき特徴である。」と述べて居ます(△4のp342)。
日本の童歌(わらべうた)の楽譜を見ても2/4、4/4拍子が圧倒的に多く(△5のp18〜265)、採譜してる中で唯一の例外は『ベーベーの草』(ベーベーとは山羊のこと)という沖縄国頭地方の歌が3/4です(△5のp121)。沖縄地方には本土に無いリズムが在るのかも知れません。民謡でも同様で、採譜してる中には3拍子(三拍子)系は有りません(△5−1のp16〜398)。
近代日本の明治に成ると「音楽取調掛(おんがくとりしらべがかり)」(※6)という物々しい名前の機関を作り、近代日本に相応しい「音楽の指針」を示して尋常小学校唱歌集を通じて広く遍く指針を広めて行こう、としました。と言っても最初は”御雇い外国人”メーソン(L.W.Mason、1828〜1896年)に頼りましたが(△5−2のp241)。だから3拍子というと外国の歌っぽく成るのですが、それを逆手に外国の民謡とか歌に歌詞を付ける方法が採られ、そうして生まれた3拍子系が『船子』(△5−2のp24)、『庭の千草』(△5−2のp25、明治17年)、『野なかの薔薇』(△5−2のp136、明治42年)、『ローレライ』(△5−2のp138、明治42年)、『七里ヶ浜の哀歌』(又は『真白き富士の根』)(△5−2のp140、明治43年)などです。
そんな中で日本人が作曲したと思われて居た3拍子系の『あおげば尊し』(△5−2のp21、明治17年) −皆さんも一度は歌った事が在ると思います− ですが、実はこの曲は『フリー百科事典ウィキペディア(Wikipedia)』に拠ると、"Song for the Close of School" という曲が原曲である事が2011年に解ったらしいです。作曲者をH.N.D.、作詞者をT.H.ブロスナンと言い、1871(明治4)年に米国で出版された楽譜に載って居るそうです。米国と成れば臭いのは「音楽取調掛」の伊沢修二(※6−1)ですね。{この『あおげば尊し』の記事は2013年10月21日に修正と更新}
『二宮尊徳』(△5−2のp110、明治35年)、『美しき天然』(△5−2のp126、明治33年頃)は別ページ[アリラン型3拍子系の歌#2]で詳しく論ずる事とし、『妙義山』『青葉の笛』(△5−2のp130〜131、明治39年)などが在りますが、明治時代は3拍子系は未だ未だ極めて少数でした。
ところが大正時代に成ると3拍子系が急に増えるのです。『早春賦』(△5−2のp195、大正2年)、『海』(松原遠く)(△5−2のp197、大正2年)、『冬景色』(△5−2のp198、大正2年)、『朧月夜』(△5−2のp202、大正3年)、『故郷(ふるさと)』(△5−2のp203、大正3年)、『四季の雨』(△5−2のp204、大正3年)、『夜の梅』(△5−2のp205、大正3年)、『浜辺の歌』(△5−2のp207、大正7年)などです。童謡でも『赤とんぼ』(△5−3のp75、大正10年)などが代表です。この頃に成って漸く作曲家が育って来たと居えます。岡野貞一の様にクリスチャンで讃美歌から西洋のメロディーとリズムを習得し『故郷』や『朧月夜』に結実します。更に山田耕筰の様に本格的にクラシック音楽を究めた作曲家が『赤とんぼ』や北原白秋の詩に名曲を残して居ます。それともう一つ、それは浅草オペラ(※7)です。若干軽薄な大正デモクラシー(※7−1)と3拍子が結びつき『恋はやさし(野辺の花よ)』や『ベアトリ姉ちゃん』(何れもズッペの『ボッカッチョ』より)などのオペレッタが大衆歌として爆発的にヒットし、ハイカラ(※8)な3拍子は尻軽なモボ・モガ(※8−1〜※8−4)の闊歩そのものでした。一言で言えば”当世風”だったのです。
昭和期〜今の時代は、こうして3拍子系のリズムにすっかり慣らされました。音楽は大衆化したのです。
以上を纏めると、日本の音楽の拍子は次の様に言う事が出来ます。
[1].近代以前(=江戸時代以前)は3拍子系は殆ど無い。
[2].明治初期に「音楽取調掛」を創り、先ず外国の曲を移入した。
→ 明治時代は3拍子系は未だ未だ極めて少数。
[3].大正期に3拍子系が急増した。
[1].音楽指導者にキリスト教と讃美歌の影響。
[2].クラシック音楽を究めた作曲家が唱歌や童謡を作曲。
[3].浅草オペラの影響(軽薄な大正デモクラシーと3拍子系が”当世風”)。
→ 3拍子系が大衆歌としてヒット、後の歌謡曲の流行の基。
[4].昭和期〜今の時代は新規には何も無い。
→ 音楽が大衆化し、3拍子系も違和感が無くなった。
■考察2 − 日本人はどういう時に3拍子と感じるか?
ところで、どういう時に3拍子と感じるのでしょうか?
私の経験から言えば3拍子系を「3拍子と感じるか?」は、ヨーロッパの様に3/4拍子だったら最初休んで3拍目(弱拍(※9))から入る、6/8拍子だったら6拍目(弱拍)から入ると3拍子を感じます、と言うより「3拍子を意識」します。つまりアウフタクト(※10)で溜めを作って弱拍から入るので日本人は音楽が大衆化した今でもこれが苦手です。逆に1拍目(強拍(※9−1))から入れば3拍子を意識する(=3拍子を感じる)こと無く入れる訳です。つまり「入り」が肝腎なのです。6/8拍子も「2拍子系と3拍子系の取り方が在る」のです(△6のp122)が、これも私の経験からですが、6拍目(弱拍)から入ると2/6×3の3拍子系と感じ、1拍目(強拍)から入ると3/6×2の2拍子系と感じることが多いと思います。
「要するに、本来ワルツは、日本の学校で教わるような「強・弱・弱」というギクシャクした動きではなく、大きな円形の流れの中で、連続したうねりとして演奏されなくてはならない。」のです(△6のp154)が、弱拍から入ると、どうしても日本人は「3拍子を意識」して仕舞うのです。
そこでアウフタクトの在る曲(弱拍から入り3拍子系と感じる)をヨーロッパ型3拍子系(←このタイプはヨーロッパに多い)、アウフタクト無しに1拍目(強拍)から入る曲(3拍子系と感じない)を韓国・朝鮮の有名な『アリランの歌』(※11)が典型なのでアリラン型3拍子系(←このタイプがアジアに多いか不詳の為にアジア型とするのを避けました)と名付ける事にします。すると以下の様に分類出来ます。
ヨーロッパ型3拍子系:アウフタクト有り。弱拍から入る。
→ 3拍子を感じる(=意識する)
『庭の千草』『ローレライ』『七里ヶ浜の哀歌』『あおげば尊し』
『早春賦』『二宮尊徳』『朧月夜』『四季の雨』『夜の梅』『浜辺の歌』
アリラン型3拍子系:アウフタクト無し。強拍から入る。
→ 3拍子を感じない(=意識しない)
朝鮮民謡『アリラン』『トラジ』が典型
『船子』『野なかの薔薇』『美しき天然』『妙義山』
『青葉の笛』『海』(松原遠く)、『冬景色』『故郷』『赤とんぼ』
これは可なり実態に合っていると思えます。朝鮮には『トラジ』(※11−1)という有名な民謡が在りますが、やはりアリラン型3拍子です。
小泉文夫も「日本音楽の基本の拍節は二拍子である」と言ってます(△4のp339)が、日本人の様に何でも”2拍子”と感じて仕舞うのは宴会などで手拍子で調子を取ったら何でも”2拍子”に成って仕舞うのです。3拍子系の『故郷』『赤とんぼ』や更には『ローレライ』だって手拍子で歌う事が可能です。日本人にはそういう生活習慣(病)が在るんですね。逆に3拍子感覚が育たなかったとも言えます。
◆古賀メロディーにアリラン型3拍子系が多い理由
− 劉姓古賀氏の血筋
「日本の音楽には、伝統的に四拍子(二拍子系)の曲が多い。...<中略>...一方、朝鮮には圧倒的に三拍子系の曲が多い。...<中略>...朝鮮民謡のこの特色は際立っている。」と在ります(△6のp122)。そこで冒頭をもう一度読み返して下さい。【参考文献】△1から3拍子系の曲を拾うと『ゲイシャワルツ』『新妻鏡』『青春日記』『影を慕いて』『人生劇場』『男の純情』『人生の並木路』『あゝそれなのに』『悲しい酒』です。これはここに載って居る31曲中の9曲で29%を占めます。しかもアウフタクトの在るヨーロッパ型3拍子系の曲は『新妻鏡』『あゝそれなのに』のみで、後は全部アウフタクトの無いアリラン型3拍子系 −即ち1拍目から入る形− なのです(アリラン型は22.6%)。日本人は古賀のこれらの歌が3拍子系であるとは意識せずに(=3拍子系とは感じずに)歌って居るのです、何故ならば1拍目から入るからです。
古賀メロディーが韓国・朝鮮に多いアリラン型3拍子系を多く含む答えは既に出て居ます。古賀政男が劉姓古賀氏だからです。古賀政男は7歳で父が死亡(=1910年)すると間も無く一家は田口村を離れ朝鮮半島(=1912年)に渡り、最初は仁川に後に京城(今のソウル)で暮らしました。古賀政男が劉姓古賀氏からどう派生したかは詳(つまび)らかでは有りませんが、長い歴史の間で劉姓古賀氏の高句麗(=韓国・朝鮮)の血は薄まったと思いますが、その血が一人の天才を生むべき時に凝集されて現れる事は遺伝学では時々見られる現象です。そうして生まれた天才古賀政男がアリラン型3拍子系の曲を誰よりも多く作曲したのです。この事が如何に特異な事かは「『中山晋平作曲目録』(※1−1)に収められた全作品のうち、三拍子の曲は、「歌謡」で僅かに1.5%、「童謡」で4%、「地方新民謡」はゼロだった。」の記述を見れば明らかです(△6のp123)。即ち
古賀政男にアリラン型3拍子系が多いのは劉姓古賀氏の血筋
なのです。
{この節の記述は08年4月17日に追加}
■朝鮮音楽の私論(試論)
(1)アリラン型3拍子系
アリラン型3拍子系は日本人よりも朝鮮族の方が自分たちの音楽と感じるのかも知れません、何故なら日本人は明治以前には殆ど3拍子系の音楽は無かったからです。そういう意味で、別ページに纏めた
「[アリラン型3拍子系の歌#2]−不思議な運命を背負った「美しき天然」」
を是非読んで下さい。一応「[アリラン型3拍子系の歌#2]の結論を記すと
[1].『美しき天然』は「考察2」で提示した様にアリラン型3拍子系で、
佐世保で生まれた。
[2].死刑囚の替え歌で日本中にヒット。(←「或る猟奇事件」が切っ掛け)
[3].『美しき天然』は中央アジアに強制移住させられた朝鮮族に
今も歌い継がれている。
(←アリラン型3拍子系の為に朝鮮族は朝鮮民謡と思って居た)
と成ります。
本稿で特に重要な結論は[3]で、朝鮮族が古来からの朝鮮民謡と思い込んで歌い継いで居た、という点です。何故そう思ったのか?、『美しき天然』はアリラン型3拍子系の曲だからです。朝鮮族はアリラン型3拍子系の曲に非常に親近感を感じる様です。
{この節は08年4月27日に追加}
(2)古賀政男の朝鮮渡航より、もっと「濃い」何かを求めて
古賀一家が朝鮮に渡るのは父親の死後の1912(大正元)年ですが、この時期は「略年譜」にも記しましたが中々政治的には難しい時期で、直前の1910年に韓国併合条約が結ばれ韓国が日本の植民地に成る時期です。尤も逆に一攫千金のチャンスは有ったのでしょう。京城の学校を卒業すると政男は帰国し、暫くマンドリンを贈って呉れた四兄の店(=大阪)で働きますが、音楽を諦め切れずギターとマンドリンを持って東京へ行き明治大学の予科に入学し明大マンドリン倶楽部を創設します。そして自作の詞を付けた『影を慕いて』を学生時代の明大マンドリン倶楽部演奏会にて発表します。『影を慕いて』には色々なエピソードが纏わり付いて居ますが、古賀政男は自殺を考えたことも在るとか。『影を慕いて』はそうした葛藤が歌われて居ます。後は「略年譜」に記した通りです。
古賀政男が1912〜1921年迄の多感な時期を朝鮮で過ごし、朝鮮音楽の影響を受けたことは確かです。團伊玖磨 −歌劇『夕鶴』や歌曲『花の街』や童謡『ぞうさん』で知られた作曲者、血盟団事件で暗殺された團琢磨の孫− は「最初の五、六年だけに限ってみても、次のようなヒット曲が目白押しです。
「丘を越えて」(島田芳文詞、昭和6年)
「影を慕いて」(自作詞、昭和6年) 3/4,アリラン型3拍子
「二人は若い」(玉川映二詞、昭和10年)
「東京ラプソディー」(門田ゆたか詞、昭和11年)
「ああそれなのに」(星野貞志詞、昭和11年) 6/8
「人生の並木町」(佐藤惣之助詞、昭和12年) 3/4,アリラン型3拍子
「人生劇場」(佐藤惣之助詞、昭和13年) 3/4,アリラン型3拍子
この昭和初年、流行歌の王道は、中山晋平から古賀政男へと受け継がれました。しかし、音楽的には両者は対照的です。中山晋平は、たびたび指摘してきたように、線が太く健康的な、いわば「昼」の人。これに対し、古賀政男は暗く頽廃的な、いわば「夜」の人でした。しかし、古賀を支えたものは、朝鮮(仁川)で育った子どものころ聞きおぼえた朝鮮の旋律と、筑後川下流の大川市出身という九州人の血で、これらが巧みに二つの柱となっていることを聴き取ることができます。」と語って居て(△7のp303〜304)、やはり1912〜21年の朝鮮音楽の影響の事を挙げて居ます。しかし本人も「朝鮮の旋律」と言って居る様に、旋律、即ちメロディーが主体として朝鮮音楽云々と語られて居る訳です。
私は古賀メロディーは寧ろ3拍子に特徴が有る、と大分前から −1990年代の中頃から− 思い始めて居ました。事実、團伊玖磨が「ヒット曲が目白押し」と言う様に、7曲中3曲がアリラン型3拍子であり、6/8拍子も3拍子系と考えれば半分以上に成る訳です。これは明治以前は3拍子は殆ど無かった、明治以後でも中山晋平では極めて少ない事実を照らし合わせれば、古賀政男の3拍子の多さは際立って居ます。そこに私は単に若い頃の朝鮮渡航で朝鮮音楽の影響を受けた以上に、もっと「濃い」何かが有るのでは、と考える様に成りました。それが既に述べた様に劉姓古賀氏の血筋という事だったのです。
この論考を書き始めたのは古関裕而を書いてから大分後の2005年6月23日ですが、古賀政男の若かりし時に朝鮮渡航で朝鮮音楽の影響有りと書く事は出来ますが、それだと何か御座なりな感じで、何も私が書かなくても既に沢山他の人がそういう視点から書いてる訳です。しかも何か自分でも違和感が有ったので、もっと「濃い」何かが出て来ないならば意味が無いと思う様に成り、この論考は途中迄で「ボツ」に成る運命でした。それを救って呉れたのが2008年4月8日(火)の古賀政男記念館・生家を訪ねた事で、正に「瓢箪から駒」(※12)が出たのです。それで08年4月17日〜27日に一気に書き進みました。
(3)古賀メロディーの秘密とは
そういう訳で「考察2」は私の”唯我独尊的推理”で、私の経験のみから導き出したものです。そもそも古賀政男について劉姓古賀氏を持ち出して居る他の文献はネット検索しても有りませんが、この事は不可思議です。ネットでは本質的議論を欠いた儘で日本的だとか韓国的だと言い合って、中には差別的発言さえ有りますが全く不毛です(差別については当サイトのコンセプトをご覧下さい)。
もっと「濃い」何か、とは韓国・朝鮮音楽の魂(たましい)と呼んでも良いものです。古賀メロディーには韓国・朝鮮の音楽が、渡航したから影響有りとかでは無く、もっと”本源的”に潜んで居るのです。それは何度も言いますが劉姓古賀氏の血筋という誰も展開して無かった議論に基づいて居ます。その事は処女作『影を慕いて』がアリラン型3拍子であることが何よりの証です。古賀メロディーは日本の演歌ファンの需要とレコード会社のニーズを調和させ乍ら、段々と”日本化”して行ったのです。即ち、もっと「濃い」何かを段々と薄めて行って『柔』に行き着きました。しかし『悲しい酒』は再びアリラン型3拍子です。この様に古賀メロディーも揺れて居るのです。これが私の考える「古賀メロディーの秘密」です。
{この節は08年4月17日に追加、08年4月27日に最終更新}
■音楽書が避けて居る「拍子」や「拍節」の由来の説明
私は3拍子を中心に話を進めたのですが、日本の音楽書は「四七抜き音階」即ち「音階」の話は良く書いてますが、どの音楽書を引っ張って来ても「拍子」や「拍節」の由来については[日本の]音楽学者は殆ど触れて居ません。「三拍子系や、三分割のリズムがないことは、特に注目すべき特徴である。」と書いてる小泉先生も、それは何故か?、という疑問には答えて居ません。又「一方、朝鮮には圧倒的に三拍子系の曲が多い。...<中略>...朝鮮民謡のこの特色は際立っている。」と書いてる藍川氏 −この人は東京芸大出で自らソプラノ歌手としてCD多数を出している才女です− も、それは何故か?、については触れて居ません。他の音楽書も同様です。
ところで藍川氏は前出の「うねり」論に続いて「しかし、農耕民族の宿命と言うべきか...<中略>...ワルツやポルカといった舞曲はもっとも不得手な音楽といってよい。」と言ってます(△6のp154)が、これを素直に解釈すれば「ワルツやポルカといった舞曲は騎馬民族が得意」と言って居る様にも取れますが。じゃあ、朝鮮族はどうか?、朝鮮族も色々な騎馬民族や農耕民族の血が混ざって居りますが今は完全に農耕化して居ます。アリラン型3拍子が多く在る朝鮮族を騎馬民族論から説明するのは難しい。モンゴル族は典型的な遊牧騎馬民族 −今では殆ど定住騎馬民族− ですが、私がモンゴルのCDを聴く限り3拍子の曲は有りません。しかし音階は「四七抜き長音階」の曲が多く日本の曲と殆ど一緒です。
又、東欧に多い変拍子も有りますが、これは日本の「わらべうた」でも散見されます(△5のp38、56、119、127など)。
兎に角、今の所「拍子」や「拍節」の由来については、[日本の]音楽書は意識的に避けて居る、或いは惚けて説明しない、というのが現状の様です。
{この章は08年4月27日に追加}
■結び − 『うちの女房にゃ髭がある』の思い出
私が小学校低学年の時、古賀政男の『うちの女房にゃ髭がある』という曲をラジオで聴いて「何て変な曲だろう」と最初は思いましたが、性に目覚めつつあった私は「ちょっとイヤラシイ」と解釈して、繰り返し部分のみを採って次の様な”替え歌”を作り、昼休みに学校で歌ったら悪ガキ共に受けて仕舞ったのです。ちょっと披露すると
パピプペ パピプペ パピプペポ ┐
うちの女房にゃ 髭がある │何回も
ぁ、何処に? │ 繰り返す
ぁ、其処に? ┘
というものです。これだけを延々と遣る訳です。
女性の場合「髭(ヒゲ)」と言っても、普通は無いですから、「ぁ、何処に?」と言われて想像するのは唯一つ、”アンダー・ヘア”に行き着く訳です。悪ガキ共は「ぁ、其処に?」で相手の体の一部を掴みに行くという”振り付け”を付けて踊ったもんです。ところが担任の先生の知るところと成り、職員室に呼ばれ行き成り「ビシーッ、バシーッ」ですよ。
今調べて見ると、1936年に『うちの女房にゃ髭がある』(詞:星野貞志、歌:杉狂児・美ち奴)に出てるんですね、私はてっきり戦後の歌と思ってました。因みに、星野貞志はサトウハチロー(※13)の変名です。この曲は普通は古賀政男の代表曲からは洩れて仕舞うんですが私の「略年譜」には入れて置きました。これはエルニーニョお薦めの”隠れた名曲(迷曲)”です。
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古賀政男の略年譜(Career of Masao Koga):1904〜1978
1904(明治37)年:11月18日、福岡県大川市大字三丸(旧:三潴郡田口村)に
父・喜太郎(瀬戸物商)、母・セツの五男として誕生。
本名は正夫。
(生地が三潴郡古賀村に近く古賀政男は劉姓古賀氏の末裔)
1909(明治42)年:安重根、ハルビン駅で伊藤博文を射殺。
1910(明治43)年:父・喜太郎永眠。
韓国併合条約が結ばれ植民地化。以後、朝鮮と呼ぶ。
(以前は大韓帝国)
1911(明治44)年:田口尋常小学校に入学。
1912(大正元)年:8月、母・姉・弟と供に長兄・福太郎(金物商)を頼り、
朝鮮の仁川へ渡る。同時に仁川公立尋常高等小学校へ。
この頃、従兄弟から大正琴(※14、※14−1)を貰う。
1917(大正 6)年:京城(現:ソウル)に移る。京城善隣商業学校に入学。
この頃、大阪在住の四兄・久次郎からマンドリンを贈られる。
→ 音楽家への道を志す。
政男が1912〜1921年の多感な時期を朝鮮で過ごし、
朝鮮音楽の影響を受けた。
1922(大正11)年:大阪の四兄の店で働く。
1923(大正12)年:明大予科入学。直ちに明大マンドリン倶楽部を創設。
1926(大正15)年:明治大学商学部に進学。
1928(昭和 3)年:この年古賀は東北で自殺を図ったとされる。その中で生まれた
のがアリラン型3拍子の『影を慕いて』(自作の詞)。
第13回明大マンドリン倶楽部演奏会にて処女作『影を慕いて』
を発表し好評を博す。この日、佐藤千夜子特別出演。
1931(昭和 6)年:日本コロムビアレコードと契約。
『影を慕いて』(詞:古賀政男、歌:藤山一郎)
『酒は涙か溜息か』(詞:高橋掬太郎、歌:藤山一郎)
『丘を越えて』(詞:島田芳文、歌:藤山一郎)
1933(昭和 8)年:『サーカスの唄』(詞:西条八十、歌:松平晃)
1934(昭和 9)年:テイチクレコードに移籍。文芸部を結成。
1935(昭和10)年:『二人は若い』(詞:玉川映二、歌:ディック・ミネ、星玲子)
『緑の地平線』(詞:佐藤惣之助、歌:楠木繁夫)
1936(昭和11)年:『東京ラプソディ』(詞:門田ゆたか、歌:藤山一郎)
『男の純情』(詞:佐藤惣之助、歌:藤山一郎)
『あゝそれなのに』(詞:星野貞志、歌:美ち奴)
『うちの女房にゃ髭がある』(←エルニーニョのお薦め)
(詞:星野貞志、歌:杉狂児、美ち奴)
1937(昭和12)年:『人生の並木路』(詞:佐藤惣之助、歌:ディック・ミネ)
1938(昭和13)年:『人生劇場』(詞:佐藤惣之助、歌:楠木繁夫)
外務省音楽親善使節として渡米、一年間に亘り
ハワイや南北アメリカを視察旅行。
1940(昭和15)年:第二次世界大戦始まる。
『誰か故郷を想わざる』(詞:西条八十、歌:霧島昇)
『目ン無い千鳥』(詞:サトウハチロー、
歌:霧島昇、ミス・コロムビア)
1945(昭和20)年:第二次世界大戦終結。日本は広島・長崎に被爆し無条件降伏。
朝鮮独立。
1946(昭和21)年:『悲しき竹笛』(詞:西条八十、歌:奈良光枝、近江俊郎)
1948(昭和23)年:南に大韓民国、北に朝鮮民主主義人民共和国が成立。
『湯の町エレジー』(詞:野村俊夫、歌:近江俊郎)
1949(昭和24)年:『トンコ節』(詞:西条八十、歌:久保幸江、加藤雅夫)
1950(昭和25)年:朝鮮戦争が勃発。「南北分断」が固定化。
1952(昭和27)年:『ゲイシャ・ワルツ』(詞:西条八十、歌:神楽坂はん子)
1955(昭和30)年:『りんどう峠』(詞:西条八十、歌:島倉千代子)
1958(昭和33)年:『無法松の一生』(詞:吉野夫二郎、歌:村田英雄)
1963(昭和38)年:『東京五輪音頭』(詞:宮田隆、歌:三波春夫、他)
1964(昭和39)年:東京オリンピックを開催。
『柔』(詞:関沢新一、歌:美空ひばり)
1965(昭和40)年:『柔』が日本レコード大賞受賞。
1966(昭和41)年:『悲しい酒』(詞:石本美由紀、歌:美空ひばり)
1974(昭和49)年:『浜昼顔』(詞:寺山修司、歌:五木ひろし)
1975(昭和50)年:勲三等瑞宝章受賞
1978(昭和53)年:7月25日永眠(享年73才)
同日、従四位に叙せられ銀杯を下賜され、国民栄誉賞受賞。
同日明大より名誉博士号を贈られる。
同年9月、故郷・大川市より名誉市民の称号を受ける。
※玉川映二/星野貞志は、何れもサトウハチローの変名です。
{この略年譜は08年4月27日に最終更新}
【脚注】
※1:古賀政男(こがまさお)は、作曲家(1904〜1978)。福岡県生れ。「酒は涙か溜息か」「影を慕いて」「人生の並木路」「うちの女房にゃ髭がある」「人生劇場」「湯の町エレジー」「哀しい酒」「柔」など多くの歌謡曲を作曲。哀調を帯びた古賀メロディーで知られる。1978年国民栄誉賞。又、明治大学マンドリン倶楽部を超一流の学生バンドに育てたことでも知られる。
※1−1:中山晋平(なかやましんぺい)は、作曲家(1887〜1952)。長野県生れ。東京音楽学校卒。「カチューシャの唄」の他「東京行進曲」「波浮の港」などの流行歌、「証城寺の狸囃子」などの童謡作曲で大衆に親しまれた。
※2:空閑地(くうかんち)とは、[1].空地。
[2].荘園制下の免租地。
[3].未だ農耕をして居ない農耕可能な土地。空閑(こか)。
※3:高句麗・高勾麗(こうくり、Koguryo)は、古代朝鮮の国名(0頃〜668)。三国の一。紀元前後、ツングース系の朱蒙の建国と言う。中国東北地方の南東部から朝鮮北部に渡り、4〜5世紀広開土王・長寿王の時に全盛。都は209年より集安の丸都城、427年以来平壌。唐の高宗に滅ぼされた。中国東北部に移された高句麗の遺民は後に渤海国を建てた。故都集安や平壌に壁画古墳を残し、遼寧省や集安に古代山城を残す。高麗(こま)。<出典:一部「学研新世紀ビジュアル百科辞典」より>
※4:俗楽(ぞくがく)とは、雅楽などに対して、俗世間に行われる音楽。三絃楽・箏曲・俗謡の類。
※4−1:俗謡(ぞくよう)とは、民間の流行歌(はやりうた)。小唄・流行歌の類。俗曲。民謡。
※4−2:邦楽(ほうがく)は、[1].広義には、日本の伝統音楽全体を指す称。和楽。国楽。←→洋楽。
[2].狭義には、江戸時代に発生した、三味線・箏(そう)・尺八・琵琶などを用いる音楽。近世邦楽。雅楽・能楽・声明・民謡などは含めない。
※5:小泉文夫(こいずみふみお)は、民族音楽学者(1927〜1983)。東京芸大教授。五十数ヵ国に及ぶ民族音楽の調査・比較研究を行い、音楽人類学の理論的基礎を構築。
※6:音楽取調掛(おんがくとりしらべがかり)とは、日本最初の官立音楽研究・調査機関。1879(明治12)年文部省内に伊沢修二を長として設置。教科書作成・教員養成などを行う。87(明治20)年東京音楽学校に改編。
※6−1:伊沢修二(いざわしゅうじ)は、(姓はイサワと読む)近代日本教育の開拓者(1851〜1917)。信州高遠の人。アメリカ留学後、体育・音楽教育に貢献。文部省編輯局長。音楽取調掛の長として「紀元節」「来(きた)れや来れ」など多くの唱歌を作曲。国家教育社を結成、台湾での教育政策にも携わり、晩年には吃音矯正に尽力。<出典:一部「学研新世紀ビジュアル百科辞典」より>
※7:浅草オペラ(あさくさ―)は、大正中期、浅草の興行街で上演され評判と成ったオペラ/オペレッタ/ミュージカル的音楽劇の俗称。「天国と地獄」「ボッカチオ」(「ボッカッチョ」とも)など。清水金太郎・原信子・田谷力三らが活躍。関東大震災で凋落。
※7−1:大正デモクラシー(たいしょう―)は、大正期(1912〜25年)に顕著と成った民主主義(デモクラシー)的・自由主義的風潮のこと。憲政擁護運動、普通選挙運動、或いは吉野作造の民本主義や一連の自由主義・社会主義の思想の昂揚等が有り、従来の諸制度・諸思想の改革が試みられた。第一次世界大戦の反動が見られる。
※8:ハイカラ(high collar)は、(丈の高い襟の意)西洋風を気取ったり、流行を追ったりすること。又、その人。皮肉って「灰殻」を当てる。←→蛮カラ。
※8−1:モボとは、(昭和初期の造語)モダン・ボーイの略。←→モガ。
※8−2:モダン・ボーイ(modern boy)は、当世風の男性。昭和初期、多くは軽侮の意を込めて用いた。モボ。←→モダン・ガール。
※8−3:モガとは、(昭和初期の造語)モダン・ガールの略。←→モボ。
※8−4:モダン・ガール(modern girl)は、当世風の女性。昭和初期、多くは軽侮の意を込めて用いた。モガ。←→モダン・ボーイ。
※9:弱拍(じゃくはく)は、〔音〕拍節上アクセントを持たない拍。2拍子では強―弱、3拍子では強―弱―弱、4拍子では強―弱―中強―弱と成る。←→強拍。
※9−1:強拍(きょうはく)は、〔音〕拍節上アクセントを有する拍。通常、小節線の後の第1拍がこれに当り、例えば4分の4拍子では各拍は強―弱―中強―弱と成る。下拍。ダウン・ビート。←→弱拍。
※10:アウフタクト(Auftakt[独])とは、〔音〕楽曲が第1拍以外の拍から始まること。又、特に旋律や楽句の冒頭で、強拍の直前の音符、又は音符群。弱起。弱拍。上拍。アップ・ビート。<出典:一部「学研新世紀ビジュアル百科辞典」より>
※11:アリラン(Arirang)は、朝鮮の民謡。「アリラン、アリラン、アラリヨ」などの句を含むもので、各地に多くの種類が在る。アリランは一説に伝説上の峠の名と言う。昭和初年以来日本でも流行。
※11−1:トラジ(Toraji)は、(朝鮮語で桔梗の花の意)朝鮮の代表的な民謡。アリランと共に3拍子のリズムを持つ。
※12:瓢箪から駒が出る(ひょうたんからこまがでる)は、[1].意外な所から意外な物の現れることの譬え。ふざけ半分の事柄が事実として実現して仕舞うことなどに言う。
[2].道理の上から、在る筈の無いことの譬え。
※13:サトウハチローは、本名佐藤八郎。昭和時代の詩人(1903〜1973)。父は紅緑(こうろく)。東京生まれ。感覚的な叙情詩から出発、童謡・流行歌の作詞やユーモア小説に移った。詩集「爪色の雨」「おかあさん」、童謡集「叱られ坊主」。別名が多く、陸奥速男/山野三郎/玉川映二/星野貞志/清水操六/並木せんざ、などがある。作家の佐藤愛子は異母妹。<出典:「学研新世紀ビジュアル百科辞典」>
※14:大正琴(たいしょうごと)は、二弦琴の一種。木製中空の胴に2本の金属弦を張って同音に調弦し、ピアノの様に半音間隔に設けた鍵盤を左指で押え右手の義甲で弾き奏するもの。大正初め、森田伍郎が発明したもので、金属的な音色を持つ。その後弦数が増え、現在は通常5弦。<出典:一部「学研新世紀ビジュアル百科辞典」より>
※14−1:二弦琴/二絃琴(にげんきん)は、2弦を張った琴(きん)の総称。日本には、八雲琴(やくもごと)及び藤舎蘆船(とうしゃろせん)が八雲琴を改良して創始した東流二弦琴の他、大正琴などが在る。
(以上、出典は主に広辞苑です)
【参考文献】
△1:『古賀政男大正琴愛奏曲集』(古賀政男編著、全音楽譜出版社)。古賀政男は大正琴が得意で、その普及に功績が有った。
△2:『日本史小百科 家系』(豊田武著、東京堂出版)。
△2−1:『姓氏苗字事典』(丸山浩一著、金園社)。
△2−2:『歴史読本特別増刊 日本「歴史地名」総覧』(新人物往来社編・発行)。
△3:『日本の神々 神社と聖地11』(谷川健一編、白水社)。
△4:『日本の音 世界のなかの日本音楽』(小泉文夫著、平凡社)。
△5:『わらべうた −日本の伝承童謡−』(町田嘉章・浅野建二編、岩波文庫)。
△5−1:『日本民謡集』(町田嘉章・浅野建二編、岩波文庫)。
△5−2:『日本唱歌集』(堀内敬三・井上武士編、岩波文庫)。
△5−3:『日本童謡集』(与田凖一編集、岩波文庫)。
△6:『「演歌」のススメ』(藍川由美著、文春新書)。
△7:『私の日本音楽史 異文化との出会い』(團伊玖磨著、NHKライブラリー)。
●関連リンク
@参照ページ(Reference-Page):当サイトのコンセプト▼
当サイトのコンセプトについて(The Concept of this site)
@参照ページ(Reference-Page):福岡県大川市大字三丸
(古賀政男記念館・生家)の地図▼
地図−日本・柳川/大川/佐賀
(Map of Yanagawa, Okawa and Saga, Fukuoka and Saga -Japan-)
@参照ページ(Reference-Page):日本の「四七抜き音階」について▼
資料−音楽学の用語集(Glossary of Musicology)
@参照ページ(Reference-Page):モンゴル族について▼
資料−中国の55の少数民族(Chinese 55 ETHNIC MINORITIES)
@補完ページ(Complementary):古関裕而と古賀政男の音楽を対比▼
古関裕而音楽の幅広さ(The variety of composition by Yuji Koseki)
古賀政男記念館(生家)は柳川から自転車で30分▼
関西学院グリークラブと柳河風俗詩
(Kwansei Gakuin Glee Club and Yanagawa poetry)
日本にも関係深い高句麗▼
中国の新少数民族か?、ラ族(裸族)
(Is a new minority of China ?, 'Luo zu')
”境の地”について▼
2003年・磐座サミットin山添(Iwakura summit in Yamazoe, Nara, 2003)
農耕民族や騎馬民族について▼
民族占い(Comparative Ethnologic approach)