-- 2007.03.07 エルニーニョ深沢(ElNino Fukazawa)
2008.04.27 改訂
■はじめに - アリラン型3拍子系とは
3拍子系には大きく2種類在って、それを便宜的にヨーロッパ型3拍子系/アリラン型3拍子系と名前を付けて定義してみました。それを「[アリラン型3拍子系の歌#1]-古賀メロディーの秘密」から引用したのが次の文です。
「アウフタクトの在る曲(弱拍(※1)から入り3拍子系と感じる)をヨーロッパ型3拍子系(←このタイプはヨーロッパに多い)、アウフタクト無しに1拍目(強拍(※1-1))から入る曲(3拍子系と感じない)を韓国・朝鮮の有名な『アリランの歌』(※2)が典型なのでアリラン型3拍子系と名付ける事にします。すると以下の様に分類出来ます。
ヨーロッパ型3拍子系:アウフタクト(※1-2)有り。弱拍から入る。
→ 3拍子を感じる(=意識する)
『庭の千草』『ローレライ』『七里ヶ浜の哀歌』『あおげば尊し』
『早春賦』『二宮尊徳』『朧月夜』『四季の雨』『夜の梅』『浜辺の歌』
アリラン型3拍子系:アウフタクト無し。強拍から入る。
→ 3拍子を感じない(=意識しない)
朝鮮民謡『アリラン』『トラジ』が典型
『船子』『野なかの薔薇』『美しき天然』『妙義山』
『青葉の笛』『海』(松原遠く)、『冬景色』『故郷』『赤とんぼ』
これは可なり実態に合っていると思えます。朝鮮には『トラジ』(※2-1)という有名な民謡が在りますが、やはりアリラン型3拍子です。」と。
この[アリラン型3拍子系の歌#2]では『美(うるわ)しき天然』という曲を扱いますが、これもアリラン型3拍子系の曲です。このタイプは韓国・朝鮮に非常に多いのです。何故、韓国・朝鮮に非常に多いのかは良く解りませんが。反対に日本は江戸時代迄は殆ど3拍子系は存在してません。日本と隣の韓国・朝鮮でこれ程違いがはっきりして居るのも珍しい現象です。しかし乍らこの問題をこれ以上追究はしません、追究しても答えが出ないからです。
このページでは『美しき天然』(又は『天然の美』)が”不思議な運命を背負っていた”という話をします。そしてそれが「[アリラン型3拍子系の歌#1]-古賀メロディーの秘密」にも関係が有るのです。[アリラン型3拍子系の歌]シリーズは、それぞれ独立して居ますが[#1]と[#2]とは言わば「兄弟の関係」に在ります。本ページ[#2]を理解すると[#1]の理解が更に深まるでしょう。
■佐世保で生まれた元歌
明治33(1900)年頃に武島羽衣(※3)作詞、田中穂積作曲で『美しき天然』(又は『天然の美』)(△9-2のp126)が作られました。武島羽衣は有名人で「春のうららの隅田川...」という『花』(滝廉太郎作曲)の作詞者として知られて居ますが、作曲者は無名なので△9-2から紹介して置きます。「作曲者田中穂積(1855~1905)は当時、佐世保海兵団海軍軍楽隊長。佐世保に女学校が新設された時(明治33年ごろ)校長の依頼で作曲した。歌詞は詩集から採った由。海軍軍楽隊内で愛唱されて東京にも伝えられ、作曲者が死んでまもなく楽譜が一枚譜で発売されてから全国の女学校に普及し一般男女学生の愛唱歌となった。明治39年、恋愛のために殺人を犯した野口男三郎の裁判があった時、その件を歌う演歌「ああ世は夢か幻か・・・」にこの曲が使われてから大いに流行した。」と在ります(△9-2のp127)。現在、佐世保市展海峰には田中穂積の銅像が建って居ます。
『美しき天然』の歌詞は▼以下▼の通りです。楽譜を見ると同じ旋律を2度繰り返す様に成っていますので注意して下さい。
『美しき天然』 歌詞:武島羽衣
1.空にさへづる鳥の声 ┐
峯より落つる滝の音 │1つの旋律
大波小波鞺鞳(たうたふ)と │
響き絶えせぬ海の音 ┘
聞けや人々面白き ┐
此の天然の音楽を │1つの旋律
調べ自在に弾き給ふ │ (2番の様に聴こえる)
神の御手の尊しや ┘
2.春は桜のあや衣 ┐
秋は紅葉の唐錦(からにしき) │以下同様
夏は涼しき月の絹 │
冬は真白き雪の布 ┘
見よや人々美しき
この天然の織物を
手際見事に織りたまふ
神のたくみの尊しや
3.うす墨ひける四方(よも)の山
くれなゐ匂ふ横がすみ
海辺はるかにうち続く
青松白砂(せいしょうはくしゃ)の美しさ
見よや人々たぐひなき
この天然のうつしゑを
筆も及ばずかきたまふ
神の力の尊しや
4.朝(あした)に起る雲の殿
夕べにかかる虹の橋
晴れたる空を見渡せば
青天井に似たるかな
仰げ人々珍らしき
この天然の建築を
かく広大にたてたまふ
神の御業の尊しや
■死刑囚の替え歌で日本中にヒット - 新聞で話題に成った「或る猟奇事件」
『美しき天然』は実際、作曲者には申し訳有りませんが『美しき天然』の説明に在った様に、本歌よりもこの「替え歌」で一躍日本中にヒットしたのです。では、その替え歌とは?
『夜半の追憶』(男三郎の歌) 歌詞:野口男三郎
(『美しき天然』の替え歌)
1.ああ世は夢か幻か
獄舎に独り思い寝の
夢より醒めて見廻せば
あたりは静かに夜は更けて
2.月影淡く窓に射す
ああこの月の澄む影は
露いとしげき青山に
静かに眠る兄君の
3.その墳墓(おくつき)照らすらん
また世を忍び夜を
終夜(よもすがら)泣き明かす
愛しき妻の袂にも
4.---- 未だ未だ歌詞は続く ----
替え歌『夜半の追憶』は明治末~大正時代にサーカスやチンドン屋(※4)に「客の呼び込み用の曲」 -こういう曲や楽隊を「ジンタ」(※4-1)と言ってました- として使われ一世を風靡しました。私も子供の頃にチンドン屋のテーマ曲として覚えて居ました、何故ならこの曲はどのチンドン屋も必ず演奏したからです。今日でも『美しき天然』のメロディーはチンドン屋のCD(△1、△1-1)に必ず入って居ます。
では何故替え歌がそんなに歌われたのか?、それは或る猟奇殺人事件が当時唯一の大衆メディアである新聞で大きく採り上げられ話題に成って居たからです。何時の時代も大衆は無責任であり無見識なのです。大衆に良識など有りません。面白いからメディアを見る訳です。それは今も全く同じです。話はこうです。
◆猟奇殺人事件の概要
猟奇殺人事件とは、1902(明治35)年3月27日午後10時過ぎに東京府麹町区下2番町(現:千代田区2番町)で河合荘亮(当時11歳)という少年が、臀部の肉が削ぎ取られ両眼を抉(えぐ)られて殺されて居た事件です。死因は窒息死と言いますから殺した後肉を切り取ったのです。この事件は麹町警察署が捜査に当たりましたが捜査は難航しました。
しかし事件は意外な展開を見せます。3年後の1905(明治38)年5月25日、やはり麹町区の薬剤商・都築富五郎(23)の遺体が豊多摩郡代々幡村代々木の山林で発見されました。当初は首吊り自殺と思われましたが、富五郎が野口男三郎なる人物から土地売買の儲け話を持ち掛けられ前日に350円もの大金を銀行から引き出して居たことが解ったのです。俄然男三郎が「黒」として浮上しました。この頃迄には男三郎は詐欺師の常套手段の「嘘」が上手く成り「満州軍司令部から通訳官に任命された」と嘘を吐き、奪った350円から軍服やサーベルを買い今正に知人に見送られて満州にタカ飛びしようとして居た所を、5月28日午後6時に麹町区飯田町(現飯田橋)停車場で逮捕されました。尚、男三郎はこの時ストリキニーネを持っていたそうです。
そして彼の供述から先の猟奇殺人事件の「意外な事実」が明らかに成ったのです。武林男三郎は大阪市西区の出身で桃山英学院で学んだ後、上京して理学博士の石川千代松宅に寄宿し東京外国語大学露語科に通って居ました。その線から高名な漢詩人・野口寧斎の知遇を得て野口家に出入りする様に成り、やがて寧斎の妹ソエとデキて仕舞い子まで儲けます。寧斎は癩病(※5) -当時は不治の病とされ、今はハンセン病(※5-1、※5-2)として治療が可能- だったのです。それで男三郎は野口姓に成り寧斎の義弟と成った訳です。麹町警察署は「人肉が癩病に良い」という迷信が民間信仰に在る事に注目し3年前の事件をもう一度洗い直すと、明治35年3月28日、即ち少年が殺害された翌日に男三郎が京橋区南金六町の瀬戸物屋で焜炉と鍋を購入していた事、その晩に同区木挽町にて舟を借りていた事を突き止めたのです。厳しく追及した結果、男三郎は少年殺しを認めたのです。調べに対し「翌朝、人肉と木炭を持って家を出、途中で焜炉と鍋を買い、晩に成るのを待って舟で御浜御殿から一丁ほど離れた海の沖で人肉を塩水で2時間程じっくりと煮た。焜炉と鍋は海中に棄て、赤坂で鶏のスープ一合を購入して帰宅し、寧斎のソエには人肉スープを飲まし自分は鶏スープを飲んだ。」と白状したのです。
警察は尚も余罪を追及しました。それは350円強盗殺人事件の少し前の明治37年5月12日の野口寧斎 -遺産分与の件で男三郎は寧斎に不満を抱き半年前から家を出ていた- の死に方が不自然として、これも男三郎が窒息死させた、としました。序でに言えばソエといちゃいちゃしてる頃、東京外語大で落第し退学に成ったのですが、この頃から詐欺師の才能を発揮し卒業証書偽造事件を起こして居ます。
男三郎は上記の3つの殺人事件の容疑者とされ、『美しき天然』の説明に在った様に1906(明治39)年から公判が開かれましたが、人肉スープ事件と義兄(野口寧斎)殺しは証拠不十分 -拷問が在ったとされる- で無罪に成り、結局350円強盗殺人事件のみが有罪と成り、しかし死刑が確定し1908(明治41)年7月2日死刑が執行されました(享年28)。
これが猟奇殺人事件(=人肉スープ事件)の概要です。1906(明治39)年からの公判に依り3つの事件が新聞で報道されるや、やはり世間の耳目を惹いたのは人肉スープ事件で、この事件は上記の通り証拠不十分で無罪に成ったのですが、大衆心理は「野口男三郎=人肉スープ事件」と短絡し、事件は幾つかの亜流小説を生みました。当時の人々にとって男三郎の猟奇的事件は「余り大きな声では言えないけれど興味が尽きない犯罪」だったのです。「ああ世は夢か幻か」の詩は男三郎が獄中で作ったと言われ、この詩は演歌師(※6)に依り『美しき天然』の替え歌として歌われて一世を風靡しました。それは明治39年~大正半ば(1906年~1920年)のことです。多分、浅草辺りからヒットしたのでしょう。
それから間に第二次世界大戦を挟み、戦後世代の私が子供の頃には先程も言った通り『美しき天然』のメロディーは相変わらずチンドン屋のテーマ曲でした。しかしこの頃には人肉スープ事件も男三郎もすっかり忘れ去られて居ました。今ではチンドン屋を知らない人が殆どですね。
これが『美しき天然』の不思議な運命の一つですが、しかしアリラン型3拍子の話は出て来ませんでした。次の話がアリラン型3拍子に関係有るのです。
■中央アジアの朝鮮族に今も歌い継がれている『美しき天然』
『美しき天然』もアリラン型3拍子(3/4拍子)の曲で、日本人が作曲した最初のワルツとも言われて居ます。しかし不思議な運命を背負った『美しき天然』は遥か中央アジアに於いて朝鮮族を結び付ける絆として歌われ続けて居たのです、アリラン型3拍子の為に!
◆スターリンに翻弄されたコリョサラム
1900年頃作曲された『美しき天然』が『故国山川』という名で中央アジアで暮らすコリョサラム(高麗人)に歌い継がれて居るのです。20世紀初め日本の植民地政策を逃れ、朝鮮からロシア沿海州(※7~※7-2)に移住した朝鮮族の子孫です。その数40万人。彼等は歴史の”気紛れ”から、スターリン(※8、※8-1)に依り1937年頃(=大粛清の年)に4000kmも西の中央アジアのウズベキスタン/カザフスタン/タジキスタンなどに強制移住させられました。しかしコリョサラムの人たちは異国の地で根を下ろし灌漑施設を作り稲作を成功させて逞しく生きて来ました。そしてソ連崩壊の後には、彼等の一部は南ロシアのロストフに移り住んで居ます。そして彼等はスターリンに強制移住させられる以前から歌っていた『故国山川』を朝鮮民謡と思って、今も歌って居ると言うのです。
どうしてか?、朝鮮には3拍子の曲が多く、しかも1拍目から入るアリラン型3拍子系が多いので、てっきりこれを自分たち古来からの朝鮮民謡と信じて疑わなかったのです。
アリラン型3拍子系は日本人よりも朝鮮族の方が自分たちの音楽と感じるのかも知れません、何故なら日本人は明治以前には殆ど3拍子系の音楽は無かったからです。
{この章は08年4月27日に追加}
■結び - 不思議な運命
佐世保で生まれた『美しき天然』は、全国的にヒットしたのは『夜半の追憶』という替え歌の方で、やがて全国のサーカスやチンドン屋で使われ定着しました。一方、アリラン型3拍子系をして居る為、日本人よりも朝鮮族の方が自分たちの音楽と感じる様で、それが中央アジアに強制移住させられた朝鮮族の絆として歌い継がれて居た、という話でした。
それでは、この辺で失礼させて戴きます。
尚、[アリラン型3拍子系の歌]シリーズの他画面への切り換えは最下行のページ・セレクタで行って下さい。(Please switch the page by page selector of the last-line.)
【脚注】
※1:弱拍(じゃくはく)は、〔音〕拍節上アクセントを持たない拍。2拍子では強―弱、3拍子では強―弱―弱、4拍子では強―弱―中強―弱と成る。←→強拍。
※1-1:強拍(きょうはく)は、〔音〕拍節上アクセントを有する拍。通常、小節線の後の第1拍がこれに当り、例えば4分の4拍子では各拍は強―弱―中強―弱と成る。下拍。ダウン・ビート。←→弱拍。
※1-2:アウフタクト(Auftakt[独])とは、〔音〕楽曲が第1拍以外の拍から始まること。又、特に旋律や楽句の冒頭で、強拍の直前の音符、又は音符群。弱起。弱拍。上拍。アップ・ビート。<出典:一部「学研新世紀ビジュアル百科辞典」より>
※2:アリラン(Arirang)は、朝鮮の民謡。「アリラン、アリラン、アラリヨ」などの句を含むもので、各地に多くの種類が在る。アリランは一説に伝説上の峠の名と言う。昭和初年以来日本でも流行。
※2-1:トラジ(Toraji)は、(朝鮮語で桔梗の花の意)朝鮮の代表的な民謡。アリランと共に3拍子のリズムを持つ。
※3:武島羽衣(たけしまはごろも)は、歌人・詩人(1872~1967)。名は又次郎。東京生れ。東大卒。塩井雨江・大町桂月らと共に大学派の詩人・美文家として知名。歌人として御歌所寄人(よりゅうど)を務め、詩人としては擬古派的で「美しき天然」(又は「天然の美」)、「花」などを作詞。共著「美文韻文花紅葉」など。<出典:一部「学研新世紀ビジュアル百科辞典」より>
※4:ちんどん屋/チンドン屋(―や)は、人目に付き易い服装をし、太鼓・三味線・鉦(かね)・らっぱ・クラリネットなどを鳴らし乍ら、大道で広告・宣伝をする人。関西では「東西屋」「広目屋(ひろめや)」と言う。
※4-1:じんた/ジンタとは、明治末~大正の頃、サーカス・無声映画の伴奏や客寄せや広告宣伝などに、通俗的な楽曲を演奏した小人数の吹奏楽隊とその吹奏楽の俗称。「ジンタカタッタ」と聞こえた事からと言われる。<出典:一部「学研新世紀ビジュアル百科辞典」より>
※5:癩病(らいびょう、lepra[ラ])は、ハンセン病に同じ。源平盛衰記44「身に―を受けて」。
※5-1:ハンセン病/ハンセン氏病(―びょう、Hansen's disease)は、(癩菌の発見者、ノルウェーのG.A.ハンセン(Hansen)、1841~1912に因む)癩菌に因って起る慢性の感染症。癩腫型と類結核型の2病型が在る。癩腫型癩は結節癩とも言い、顔面や四肢に褐色の結節(癩腫)を生じ、眉毛が抜けて頭毛も少なく成り、結節が崩れて特異な顔貌を呈する。皮膚の他、粘膜/神経をも侵す。類結核型は斑紋癩/神経癩とも言い、皮膚に赤色斑を生じ知覚麻痺を伴う。潜伏期は数年から20年。乳児期に感染を受け、数年以上を経てから発病することが多い。病変部、殊に鼻腔内潰瘍からの分泌物に癩菌が多い。主として家族内感染。遺伝病では無い。プロミンなど新薬の出現に依り完治が可能に成り、1996年に「らい予防法」は廃止された。癩病。癩。レプラ(lepra[ラ])。<出典:一部「学研新世紀ビジュアル百科辞典」より>
補足すると、日本で差別的な癩病を、1953年に全患協が「ハンセン氏病」に改め、更に1983年に「ハンセン病」に改めた。だが国民的に認知されたのは「らい予防法」が廃止された1996年。
※5-2:プロミン(promin)とは、サルファ剤に属するスルホン酸基をもつ化学療法剤。ハンセン病に有効。
※6:演歌師/艶歌師(えんかし)とは、街頭でヴァイオリンに合わせて演歌を歌い乍ら歌本を売る事を業とした者。
※7:沿海州(えんかいしゅう)は、プリモルスキーの訳名。
※7-1:プリモルスキー(Primorskii)は、ロシア、シベリアの南東端、黒竜江(アムール川)/ウスリー川/日本海に囲まれた地方。1860年北京条約[2]に依りロシア領と成る。中心都市ウラジヴォストーク。沿海地方。沿海州。
※7-2:北京条約(ペキンじょうやく)は、
[1].1860年イギリス・フランス両国と清国との間に結ばれた、天津開港及びイギリスへの九竜割譲などに関する条約。
[2].1860年ロシア・清国間に結ばれた沿海州専有に関する条約。
[3].1898年ロシア・清国間の旅順・大連租借、及び東清鉄道建設に関する条約。
※8:スターリン(Iosif Vissarionovich Stalin)は、(Stalin は「鋼鉄の人」の意。本名 Dzhugashvili)ソ連の政治家(1879~1953)。グルジアのゴリ生れ。神学校に入学後、革命運動に入り、十月革命後は民族人民委員。1922年以来共産党書記長。レーニン没後、トロツキー/ブハーリンらを退け、1国社会主義の強行建設を推進。36年新憲法を制定、37年には大量粛清を行なって個人独裁を樹立。人民委員会議長(首相)として対独抗戦を指導。死後、専制支配をフルシチョフらが批判。著「レーニン主義の基礎」など。
※8-1:スターリン主義(―しゅぎ、Stalinism)とは、スターリンの思想と実践の総体。又、その具体化として1929~53年にソ連で形成された独裁体制を指す語。初めトロツキー派が用いた。
(以上、出典は主に広辞苑です)
【参考文献】
△1:CD『楽しいチンドン むかしのうた』(アダチ宣伝社、なぎら健壱解説)。
△1-1:CD『日本の大道芸 チンドン屋』(布目英一解説)。
●関連リンク
『美しき天然』の作詞をした武島羽衣は
滝廉太郎作曲の『花』の作詞者でもある▼
浅草、もう一つの風景(Another scene of Asakusa, Tokyo)
替え歌がヒットした中心地と目される浅草▼
ぶらり浅草(Drift in and trip out Asakusa, Tokyo)