ぶらり浅草
[浅草見て歩る記・その1]
(Drift in and trip out Asakusa, Tokyo)

-- 2003.05.04 エルニーニョ深沢(ElNino Fukazawa)
2005.11.21 改訂

 ■はじめに - 下町の香り、浅草

 今回は何時も観光客で賑わって居る浅草寺(せんそうじ)界隈を、飽く迄も私独自の視点からご案内しましょう。
 → 地図を見る方はココをクリック(Open the map)!
写真1:雷門。
 「宵越しのカネは持たねえ」江戸っ子がこよなく愛した歓楽の中心・浅草、それは私が大変好きな町でもあります。私は東京方面の用事で宿泊する時は大抵浅草にします。何故か?、それはやはり日本的な、ここにしか無い固有の雰囲気です。ここに来ると今でも”江戸の香り、下町の香り”が感じられ、外国には無い日本的風景に浸ることが出来、心が落ち着きます。
 それでは”ぶらり”と浅草見物を始めましょう。スタートは何と言っても、大提灯がぶら下がる雷門(正式名:風雷神門、右の写真)からです(名称由来や雷門秘話は後述します)。番地の上でもここが台東区浅草1丁目なのです。
 それでは皆さんもご一緒に雷門を潜(くぐ)って、さあさ、どうぞ浅草へ!

 ■雷門から浅草寺、伝法院

 雷門を潜ると浅草寺の境内です。先ずは人混みを掻き分け仲見世通り(浅草1丁目)を真っ直ぐ進みます。
写真2:浅草寺宝蔵門。写真3:宝蔵門の大わらじ。
 仲見世を抜け浅草寺幼稚園を横目に見て暫く進むと、左上の写真の様に「浅草寺」の額が掛かった宝蔵門(浅草2丁目)に来ます。1964年再建の門のこちら側は両側に仁王像が在るので別称は仁王門、向こう側には右上の写真の様な大草鞋(わらじ)が飾って在ります。
写真4:浅草寺(せんそうじ)。 宝蔵門を潜ると完全な寺域で、直ぐに右の様に浅草寺の本堂(=観音堂、浅草2丁目)が見え、線香の香りが漂って来ます。
 この写真では小さく写って居ますが、本堂前の中央には大きな香壇が在り、何時も沢山の線香が焚かれ、お年寄りはその煙を体に扇ぎ寄せて居ます。これが冒頭で述べた”江戸の香り、下町の香り”の正体だったのかも知れませんね、ムッフッフ!

 浅草寺は雷門の扁額に在った様に山号は金龍山聖観音宗の本山です。大戦前迄は専ら観音堂と呼ばれて居て、御本尊は1寸8分(=約5.5cm)の観音像(※1)です(詳細は後述)。旧観音堂は観音様の慈悲も御利益も届かず1945年3月の米軍に依る東京大空襲で灰燼に帰し、58年に現在の本堂が建てられました。建物を復して名を復さなかった所を見ると、御本尊の観音像も戦災に遭ったのかも知れません、尤もそれ以前から無いという説や噂も有りますが(後述)
写真5:浅草の案内板。

 この浅草寺本堂の手前の左手には浅草七福神(※2)を説明した立て札が立って居て(右下の写真)、それには下の様に書いて在ります。

  浅草寺   :大黒天
  浅草神社  :恵比須神
  待乳山聖天 :毘沙門天
  今戸神社  :福禄寿
  橋場不動尊 :布袋尊
  石浜神社  :寿老神
  吉原神社  :弁財天
  鷲神社   :寿老人
  矢先稲荷神社:福禄寿



 そして下が七福神立て札の西に在る五重塔(浅草2丁目)で、この周りでは観光客たちが記念写真を撮って居ます。空襲以前は仁王門の東側に在りましたが、1973年の再建時に仁王門西側に移されました。
写真6:五重塔。

 ざっと見物した所で、この辺で浅草寺と浅草神社の由緒について『江戸名所図会』(※3、△1)を参考に触れて置きましょう。

    ++++ 浅草寺・浅草神社の由緒と三社祭 ++++
 推古天皇36(628)年3月18日土師中知(はじのなかとも) -一説に土師真土知(はじのまつち)とも- が家来の檜前浜成・武成(ひのくまのはまなり・たけなり)の兄弟を従え、何時も通り宮戸川(=隅田川のこと)に漁に出たら、何度網を投げても魚が掛からず小さな1寸8分(=約5.5cm)の観音像が掛かるので、何かの兆しと思い駒形からこれを引き上げ中知の自宅に取り敢えず草堂を設けて安置しました。開基は勝海上人とされ、大化元(645)年の上人東行の折に崩れ掛けたお堂を再営し、奇異の霊告を得て観音像は秘仏とされました。観音堂建立は平公雅(たいらのきんまさ)で、天慶5(942)年に観音像を御本尊とする観音堂を他の堂宇と共にこの地に造営したのが浅草寺伽藍の始まりで、同時に観音像を引き上げた地に駒形堂を造営しました。観音堂の文献上の初出は『吾妻鏡』治承4(1180)年で、源頼朝が平家追討を祈願し田地を寄進したと在り、頼朝の鎌倉幕府成立以後は観音霊場として更に名声を高め、坂東三十三所観音の第13番札所(※1-1、※1-2)に指定されて居ます。
 江戸時代に入ると幕府の御膝元として寺領500石を賜り大小の諸堂宇が増築された上に徳川家の祈願所とも成り、更に元禄年間(1688~1704年)には徳川家の菩提所である天台宗・寛永寺の末寺に成りますが、既述の様に1950年に独立し聖観音宗を立てました。その間江戸っ子の尊崇益々篤く、境内には浄瑠璃や見世物や物売りの小屋(中でも楊枝売りが有名)が立ち並び大いに賑わいました。この大道商人が仲見世の起こりであり、或いは香具師(やし)の発祥かも知れません。
 ところで、土師中知は埴輪を製作する土師氏(※4)で、出雲出身の土師氏は隅田川流域や更に遡上した荒川と利根川に挟まれた北関東の両毛地方に”広く濃く”足跡を残して居ます。

 一方、浅草神社は土師中知の子が観音の夢告に拠り、観音像を授かった主従3柱(=土師中知、檜前浜成・武成)を祀り三社権現社としたのが始まりとされて居ますが、実際の神社の創建は鎌倉時代であろうと考えられて居ます。と言うのは、そもそも権現とは仏・菩薩が衆生を救う為に種々の姿を取って権(かり)に現れる存在で、神仏混淆を説く本地垂迹説(※5)の所産である権現思想が広まるのは平安・鎌倉以降だからです。前述の如く頼朝の観音堂への平家追討祈願が満願成就したので、観音堂の艮(うしとら)の方角 -北東で、鬼門とされる- に護法神(△1のp241)として3柱を祀った、と考えるのが自然です。
 その後、慶安2(1649)年に3代将軍・家光の寄進で権現造りの現社殿が新築され三社祭が盛んに成り、明治の神仏分離で現在の社名に改変されました。浅草神社の祭神は三社権現(土師中知命・檜前浜成命・檜前武成命)恵比須神東照大権現(=徳川家康、浅草東照宮焼失の為合祀)で、神紋は「葵と三つ網」(※6)です。

 以上の様に浅草寺と浅草神社は一心同体、共に観音像を授かった18日を縁日とし浅草寺の「歳の市」(12月18日)と浅草神社の三社祭(5月18日)が双璧です。特に三社祭は有名でその歴史も古く、一説には正和元(1312)年の船祭に発するとも言われ、江戸期には大江戸三大祭の一つとして旧暦3月18日(=観音像示現の日)に隔年催されて居ました。半被(はっぴ)を着た勇み肌の若者に依る神輿渡御は江戸一の荒っぽい祭で、拍板舞(びんざさらまい)が奉納され木遣(※7)、芸妓の手古舞(※7-1)、江戸里神楽なども披露されます。三社祭は今でも東京三大祭(※8)の一つで、三社祭が過ぎると東京の夏の幕開けです。
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    ++++ 浅草寺境内の由緒有る建築と雷門秘話 ++++
 1865(慶応元)年の幕末の大火で雷門を焼失し、幾多の大火や関東大震災を免れた観音堂や五重塔も1945年の東京大空襲の戦禍で失い、”本物の江戸っ子”が住んで居た江戸時代の由緒有る建築は伝法院二天門(=旧東照宮の随身門)と浅草神社社殿を残すのみです。
写真6-2:雷門大提灯金具の「松下電器」の記載。 ところで今では浅草の代名詞の様に言われる雷門は、長らく再建されず明治以降段々と”偽者っぽく成った江戸っ子”にも「名のみで実無し」と揶揄されて来ましたが、焼失から約100年後の1960年に関西人の松下幸之助(※9)の寄付に依り漸く再建されたものです。その切っ掛けは、何でも幸之助がどの医者に診て貰っても治らなかった足の痛みが浅草寺の観音様に祈願したら治ったとかで、これぞ観音様の御利益という訳です。雷門の大提灯の下の金具には「松下電器」と記されて居ます(右上の写真、05年8月15日撮影)。再建時の意匠は二天門を参考にして居ます。
 雷門は浅草寺の総門で、境内の外から見て門の右側に風神像(※10)、左側に雷神像(※10-1)が配置され、それ故に正式名称を風雷神門と言います。
  {この部分の記述は、雷門再建秘話を「浅草、もう一つの風景」から移し、写真を追加して05年11月21日に再編集しました。}
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 この松下幸之助のエピソードの如く、有り難き1寸8分の観音像は古くから秘仏として非公開ですが、『江戸名所図会』にも「世に伝へいふ、御長一寸八分と。しかれども古より秘仏にして輒(たやす)く宝帳をかかげざれば、その実を知りがたし。」と記されて居る(△1のp225)如く、御本尊の観音像は疾っくの昔から存在しない、という説が一方では有力ですが如何でしょうか、ムッフッフ!
                (-_@)

 再び仲見世通りに引き返します。この仲見世通りは平日でも観光客が一杯で、中でも目に付くのが下の左右の写真の様に外国人と修学旅行生です。まあ、修学旅行は或る程度”お仕着せ”ですが、左下の写真の様な気軽な服装で自発的に訪れて来る外国人が浅草の「何」に惹かれて遣って来るのか、ここに日本人が真に大切にすべき事の答えが在る、と私は確信して居ます。
 右下は仲見世に並ぶ土産物店の一つ、浅草名物・雷粔籹(かみなりおこし)の店です。
写真7:五重塔近くで外国人観光客と修学旅行生。写真8:浅草名物の雷おこしの店。

 帰路は衣類の露天が並ぶ伝法院通りへ入ります。浅草寺の本坊・伝法院(浅草2丁目)の門は閉まって居ましたが隣の水子地蔵尊の門は開いて居ました。ここは仲見世の混雑がウソみたいに静まり返って居ます。そんな中で水子地蔵は優しい表情を浮かべて立って居ました(左下の写真)。水子地蔵には誰が手向けたのか新しい花が飾られて居ました、とても良い光景です、人の心が伝わって来ます。こういう何気無い光景の中に、下町の心意気が滲み出て居ます。
写真9:伝法院横の水子地蔵。 ふと見ると水子地蔵の奥に池が見えます(下の写真)。私は暫し時を忘れて「人の心」に思いを馳せて居ましたが...、これが小堀遠州の手に成る庭園の心字池でした。
写真10:伝法院の心字池。
 

 ■浅草の温故知新 - 浅草歓楽街は吉原移転から

 ここで今日の浅草を理解する為に浅草の”故(ふる)きを温(たず)ね”てみましょう。特に浅草が如何なる経緯で歓楽街化したか、に焦点を当てて考えてみます。えっ、歓楽って何や?、などと言う貴方(貴女)はカマトトですよ。歓楽とは、昔も今も「飲む、打つ、買う」でっせ!
 えっ、カマトト(※11)って何?、それは【脚注】を見て下さい...(>o<)

 (1)浅草歓楽街化の3つの波

 大昔の浅草は浅草寺の門前町で、それなりに参詣者は絶えませんでしたが、古くは「坂東」と称されたこの近辺は未だ未だ田舎で、「都」の名を冠した水鳥を見て京の人々が涙を流した様な鄙びた所でした。そんな浅草が人々の”銭と欲”を飲み込む歓楽の坩堝に変貌したのは江戸時代中期からです。
 その<第1波>が浅草寺の少し北への新吉原(現在の台東区千束3、4丁目)の移転です。これは俗に振袖火事と呼ばれた明暦の大火(1657年)で、吉原の旧地(現在の中央区日本橋、京橋)が焼失した為です。何しろ吉原は大江戸を代表する公許遊郭でしたから、これはインパクト大でした。
 続く<第2波>は浅草寺北東の猿若町(現在の台東区浅草6丁目)への芝居小屋の移転と集中です。これは天保の改革(1841~43年)で、各所に散在して居た芝居小屋及び周辺の風俗を一括管理・規制する為の一極集中でした。吉原移転から約180年後のことです。
 こうした旧体制の地均しの後に到来した文明開化の<第3波>が、浅草への起点としての国鉄上野駅の開業(1883年)と凌雲閣(俗称:十二階、※12)の建造(1890年)です。1923年の関東大震災で煉瓦造りの凌雲閣は倒壊しましたが、昭和に入り更に我が国初の地下鉄・銀座線(1927年)と東武鉄道の乗り入れ(1931年)と続き、名ばかりで実体が無い雷門近くに百貨店を備えたターミナル駅が出現し、群がる群衆をより直接的に飲み込める様に成りました。


 以上の様に歓楽の浅草は「買う」の新吉原から始まったのです。尚、現在では「吉原」と言えば明暦以後の新吉原を指し、旧地は「元吉原」と呼ぶのが通例です。

 (2)現在の歓楽の中心 - 浅草六区

 では浅草六区(現・浅草1、2丁目の西部分)が今日の様に歓楽街の中心に成ったのは何時からか?、について次に述べましょう。尚、「六区」の呼称については「参考資料」を参照して下さい。

 結論から言えば浅草六区が歓楽の中心地に成った契機は、前述の凌雲閣が六区の北端に出現した1890(明治23)年です。凌雲閣は元々はこの年に開催された第3回内国勧業博覧会(本会場は上野公園)の呼び物の一つとして建造され、我が国最初の電動式エレベーターを備えて居ました。このエレベーターが当時としては”興行”であり、飛行機に乗るなど及ぶべくも無い庶民にとって唯一高い所から下界を鳥瞰する装置であり、現在の遊覧飛行に匹敵するものでした。凌雲閣はそれ自体で”興行”的な遊覧塔だったのです。(△2の「塔の思想(抄)」)。
 そして同時に六区の南端にはパノラマ館(※13)が併設され、公園の瓢箪池に隣接して居ることからも人々が六区に集中し、その人々を当て込んで演芸や芝居や映画(当初はサイレントの活動写真)などの常設小屋が立ち並ぶ様に成った、という訳です。


 (3)大正以降の浅草の変貌

 しかし大正末期の関東大震災(1923年)に因り、近代帝都の象徴である十二階(凌雲閣)が倒壊し、住む家を無くした罹災民が方々から浮浪者として浅草寺境内や瓢箪池の周りに集まり、浅草 -のみならず東京全体- は再生を余儀無くされました。十二階の下は魔窟と言われ私娼の棲み家でしたが、彼女等は川向こうの「玉の井」などに移り新たな風物詩に成りました。そこで「浅草の温故知新」の最後に、大正以降の浅草や吉原の変貌を私独自の視点から、裁断してみましょう。

    ++++ エルニーニョの浅草ストーリー(現代編) ++++
 <「買う」の吉原>は、文明開化以後も所謂「赤線地帯」として存続しましたが、売春防止法に拠り昭和33(1958)年限りで姿を消し、今では黒服のお兄さんが取り仕切るソープランド中心の”単なる風俗街”と成って仕舞い、昔日の面影は全く有りません。
 <「飲む、打つ」の浅草>は、十二階のエレベーター江川一座の玉乗浅草オペラ(※14)で一世を風靡しましたが関東大震災で御破算、レビュー(※15)などのモダン演芸や活動写真や軽演劇を中心に再出発をしました。『伊豆の踊子』で名を成した川端康成(※16)は昭和初期には浅草桜木町に住み、水族館の2階でレビューを演ずるという奇抜なカジノ・フォーリー(casino folly)に入り浸って浅草を描写し(△2の「紅団のあのころ」)、玉木座ではサトウハチローや菊田一夫が活躍し、常磐座の「笑の王国」では古川緑波(ロッパ)が頭角を現し松竹座のエノケン(※17)と張り合い、木馬亭東洋劇場などが浪曲や大衆芝居のメッカであり、戦後は浅草国際劇場が歌謡曲の殿堂に成り、フランス座では渥美清や八波むと志やコント55号などコメディアンたちが修行を積み、浅草ロック座では無名時代の作家や芸人たちがストリップの幕引きをして日銭稼ぎをして居ました。
 しかし1953年に本放送開始されたテレビの普及と共に、若者の関心は浅草から次第に新宿や六本木・原宿へと移って行き、国際劇場は潰されホテルに成り(但し国際通りという道路名は残る)、中央競馬会の高層ビルが十二階に取って代わりました。それは或る時期から日本の”近代化”が「カッコ好さ」志向に転換したことを意味しますが、浅草は近代化の波から取り残された”年寄り臭い”町に成って仕舞いました。この転換の分水嶺が東京オリンピックの1964年である(=「1964年分水嶺説」)、と私は考えて居ます。
 そして日本はアメリカの後ろ姿を見つつ”近代化”の道を突っ走りましたが、1990年代初頭のバブル崩壊に遭遇してみると、結局日本人は”近代化”という物質文明の形骸と引き換えに、何か「大切なもの」を失って行ったのです。その喪失感の中で改めて足元を見詰め直すと、”年寄り臭い”浅草に「進歩と富の権化」であるアメリカ人を始めガイジンさんが大勢訪れて居る -日本人が見捨てた町にガイジンさんが来ている- ということに漸く東京の人も気付き始めました。そして地元商店会などが中心に成り雷門周辺を整備することから浅草の「町興し」が始まったという訳です。
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 [ちょっと一言]方向指示(次) 川端康成と浅草との関係は深く、1923年の関東大震災で中途崩壊した十二階(凌雲閣)を工兵隊が爆砕した時には本郷から態々野次馬見物に行った程で、昭和初期(1930年頃)には浅草に住み、震災と世界恐慌でルンペン・プロレタリアート(※18、※18-1)の溜まり場と化した浅草を小説『浅草紅団』として新聞に連載しました。
 この小説は浅草の底辺の生態を不良集団「紅団」の一少女の運命的哀しみに投影させたもので、「新感覚」を標榜したアンチ・リアリズムの川端にしては珍しくリアルな作風です。この中で川端は

  「浅草の浮浪人が、食べ物屋の残り物をもらって生きていることを諸君は知っている。けれども、細民や労働者が浮浪人のところへ、そのもらい集め──つまり残り物のまた残り物を、一飯二銭三銭で買いに来ることを知っているか。」

と記して居ます(△3のp51)。


 では日本人が失った「大切なもの」とは何だったのか?、これに対する私の考えは「温故知新について」に於いて既に述べて居ますので、是非このページをご覧下さい。

 ■ちょっとレトロな浅草六区

 それでは現在の浅草の歓楽街・六区に繰り出してみましょう。下が浅草六区の中心に在る六芸神の彫像と六区の地図で、浅草華やかなりし頃の往年のスターの顔が見えます。誰だか判りますか?
写真11:浅草六区の案内板。
 正解は写真の左から
  唄神(うたいがみ):モデル=東海林太郎
  奏神(かなでがみ):モデル=田谷力三
  話神(はなしがみ):モデル=古今亭志ん生
  戯神(おどけがみ):モデル=大道芸
  演神(えんじがみ):モデル=エノケン(榎本健一)
  踊神(おどりがみ):モデル=水ノ江滝子
なのだそうです。あのエノケンが神様なんですね。

 [ちょっと一言]方向指示(次) 浅草を語る上でエノケンは欠かせない存在で、浅草オペラのコーラス部からスタートし、震災後は第2期のカジノ・フォーリーの座長として活躍して「喜劇王」と呼ばれ、往年の浅草の「顔」でした。


写真12:浅草六区の通り。
 右が六区のメインストリート、上の案内板では六区ブロードウェーと称して居ます。左手の大勝館の前に幟(のぼり)が何本も立って居るのが如何にもレトロ(※19)です。
 大勝館は1908年に活動写真の常設館として開館し映画史にその名を残しましたが、その後芝居小屋やボウリング場に成るなど紆余曲折を経て1975年に閉鎖、01年大晦日に大衆芝居の小屋として再開しました。
写真13:演芸場。

 左が浅草演芸ホールです。嘗ての芝居小屋・東洋劇場「戦後日本の分水嶺」の1964年に演芸場として再スタート、漫才や漫談やボードビルなどの大衆芸能を今でも遣って居ます。ここに来るとテレビ・マスコミが見向きもしなく成った芸人達の”芸”を生(なま)で見られます。
写真14:六区の由緒正しきストリップ小屋-ロック座。 そして左が浅草ロック座(ROCKZA)の入口です。「ロック」は勿論「六区」に由来します。
 今は昔程の勢いは有りませんが、敗戦直後の1947年の開業以来の老舗で、永井荷風が楽屋の常連で井上ひさしや渥美清などが幕引きをして居たという、日本で最も由緒正しきストリップ小屋と申せましょう。日劇ミュージックホールフランス座などの往年のストリップ小屋が閉鎖した中で今も頑張って居ます。
 入口には踊子の写真も出て居ます。踊子は「伊豆の踊子」だけではありませんよ、「浅草の踊子」もどうぞご賞味有れ!
 ストリップに興味有る方や見たい方の為に「浅草ロック座」公式サイト(ネット割引有り)浅草ストリップ情報のサイトにリンクを張って在りますので、最下行の関連リンクの、既に知る人ぞ知る”一発リンク”からお入り下さい!!!

 [ちょっと一言]方向指示(次) 私がロック座で鑑賞した印象では、ショーは普通ですが音楽が騒々しい感じでしたね。これが時代の所為なのか、はた又自身の歳の所為なのか...。

 左下が六区ブロードウェーで観光客を乗せて案内する人力車です。浅草が町興しに取り組み出してから目に付く様に成りました、これに乗ればレトロな雰囲気が倍化するという訳です。
写真15:観光客を乗せる人力車。
 明治~昭和初期に掛けて浅草には下層民や職人が多く住み着きましたが、その職業を見ると浅草公園を寝座とする無職の浮浪者(=ホームレス)、手に職を持つ者では露天を営む香具師(やし)や刺青(=入れ墨)を彫る彫師や賭場を張る博奕打や人力車を引く車夫たちが代表でした。
 車夫については1895(明治28)年の記事に「自己所有の車を引く者1251人、賃貸の車を引く者5503人」という統計が載って居ます(△2の「浅草の底辺」)。

 

 ■庶民が住む町・浅草

 現在の浅草は相変わらず外来客を飲み込む歓楽街ではありますが又、下町っ子が多く住んで居る”生活の匂い”のする町でもあります。幾筋かの商店街(浅草1丁目)が仲見世と交差し、そこでは日常品も含め色々な品々を売る店が並んで居ます。そんな中でやはり土地の者で無い私はここでしか手に入らない物を買いますね。写真17:調合して売る唐辛子屋。
写真16:焼き売りの煎餅屋。 左が焼き売りの煎餅屋さんです、私はここで焼き立ての醤油煎餅を買って食い乍ら浅草の町を歩きますよ。

 右は客の注文に応じその場で調合して呉れる有名な唐辛子屋さんです。ここで買った小さな瓢箪形の容器に入ったマイ唐辛子を、野毛の焼鳥屋で徐(おもむろ)に懐から取り出して振り掛けたら、店の大将や客が目を丸くしてましたよ、アッハッハ!!
 

 ■鳩ポッポの歌碑


 浅草寺の本堂西の広場には東くめ作詞、滝廉太郎作曲の幼稚園唱歌『鳩ポッポ』の歌碑と譜碑が在ります(右の写真、中段の左側が譜碑、右側が歌碑)。この歌は明治34(1901)年に発表されて居ます(△4のp89)。


      鳩ぽっぽ

    鳩ぽっぽ 鳩ぽっぽ
    ポッポポッポと 飛んで来い
    お寺の屋根から 下(お)りて来い
    豆をやるから みなたべよ
    たべてもすぐに かえらずに
    ポッポポッポと 鳴いて遊べ

 ご覧の様に、実際に鳩が沢山この碑の周りに集まって居ます。
 この曲は30秒位で歌い終わって仕舞います。東(ひがし)くめは、「東音出身で滝より2級上、当時東京府立第一高女教諭。明治33年夫東基吉教授が奉職中の東京女高師附属幼稚園の為に滝と協力して共益商社版『幼稚園唱歌』を編集した。」と在ります(△4のp89)。東・滝のコンビは、組曲『四季』の夏の「納涼」、中学唱歌『四季の瀧』、童謡『ひばりはうたひ』『菊』『お正月』『さよなら』などを作って居ます(△5)。
 滝廉太郎はこの歌を発表した2年後(1903年)に亡くなり僅か23年の生涯でした。上の歌詞は東くめが浅草寺境内で鳩と戯れる子供たちを見て作った、と下段の説明に在ります。説明の最後には「昭和三十七年十一月三日  浅草寺 恭順識」と在り、昭和37(1962)年にこの碑が建てられました。東くめはその時未だ存命で85歳(1877~1969年)でした。

                (*_@)

 ■結び - 浅草はやはり日本の風景

 浅草の見方、楽しみ方は人それぞれですが、私は余り誰某が何処其処ですき焼を食ったとか天麩羅がどうの、ということで店に入ったりするのは趣味が合いませんね。それよりも私の場合、浅草に来ると何故か心が和み、浅草を歩いて居ると何時の間にか子供に返って居るのです、今は無くなって仕舞った木製の独楽(こま)や羽子板などを売って居たりしてね。
 そういう意味で下の鯉幟(こいのぼり)の写真をご覧下さい。これも今都会では殆ど見られなく成って仕舞った光景の一つです。これも本堂西の広場で03年4月22日に撮ったものですが、快晴の空にデッカイ鯉幟が泳いで居て浅草っ子の心意気を感じました。
写真e:浅草寺脇の広場の鯉幟。

 本文中にも書きましたが、現在の浅草は平日でも人出が多く外国人観光客が目に付きます。浅草の何が庶民や外国人をこんなに惹き付けるのか?、浅草の魅力を分析してみることは日本のこれからの町作りを考える時大切です。私が「日本の「旅」論」で提唱した様に、日本を外国人が見て面白い国にする為のヒントが、浅草には有る様な気がします。そう言えば次の様な幕末の志士の句が在りましたね。

    おもしろき こともなき世を おもしろく
                        高杉晋作 辞世


 この辞世の句に、勤皇の志士たちのマドンナ・望東尼(※20)は

    住みなすものは 心なりけり

と、下の句を続けたそうです。
 このページを[浅草見て歩る記]シリーズの<その1>として、続編を掲載して行きます。次は夜の風景や周辺をご紹介しましょう。

 尚、[浅草見て歩る記]シリーズの他画面への切り換えは最下行のページ・セレクタで行って下さい。(Please switch the page by page selector of the last-line.)

 ◆◆◆参考資料 - 浅草六区と明治時代の浅草の区割り

 浅草六区とは、東京府制時代の明治22(1989)年に東京市15区の区割りをした浅草区時代の呼び名で、区を更に細分化して浅草公園一区~七区と呼んだ。現在の台東区は旧下谷区と浅草区が合併して誕生。
 浅草区時代の地図を見ると浅草公園の区割りは凡そ下の通りで、当時は興行33館中の殆どが六区に集中して居た。

  一区:観音堂(現浅草寺本堂)、浅草神社、五重塔
  二区:仁王門から仲見世迄
  三区:伝法院
  四区:水族館と浅草公園(瓢箪池)←水族館も公園も現在は無し
     瓢箪池は1951年に埋め立て。
  五区:観音堂の北と花屋敷
  六区:浅草公園の西の興行街(六区の北に凌雲閣が在った)
  七区:仲見世(当時は雷門無し)、浅草区役所(現浅草公会堂)

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【脚注】
※1:観世音菩薩(かんぜおんぼさつ)は、(梵語 Avalokitesvara 観察する事に自在な者の意)「妙法蓮華経」普門品(観音経)などに説かれる菩薩。大慈大悲で衆生を済度する事を本願とし、勢至菩薩と共に阿弥陀如来の脇侍。衆生の求めに応じて種々に姿を変えるとされ、三十三身が最も有名。又、六観音・三十三観音など、多くの変化観音が現れた。その住所は南海の補陀洛山とされ、中国では普陀山、日本では那智山を当てる。観音。観世音。光世音。観自在。施無畏者。
※1-1:坂東三十三所とは、坂東(=現在の関東地方)にある33ヵ所の観音の寺堂。
※1-2:三十三所とは、〔仏〕観世音を安置した33ヵ所の霊場。観世音の三十三身に基づく。各霊場に御詠歌(巡礼歌)が在り、巡礼する者は必ずこれを唱える。坂東三十三所・秩父三十三所・江戸三十三所なども在るが、一般に西国三十三所を指す。三十三観音。三十三番札所。

※2:七柱の福徳の神。大黒天蛭子(えびす)・毘沙門天弁財天福禄寿寿老人布袋(ほてい)。宝船。

※3:地誌。斎藤幸雄編、子の幸孝補修、長谷川雪旦画。7巻20冊。1829年(文政12)自序、1834~36年(天保5~7)孫の幸成(月岑)刊。北斗七星の位置に配当して江戸の神社・仏閣・名所・旧跡を7巻に分け、絵を加えて説明。

※4:土師部(はじべ、はにしべ)は古代、大和朝廷に土師器を貢納した品部。北九州から関東地方迄各地に分布。埴輪の製作葬儀にも従事。
 土師氏は、天穂日命を祖とし埴輪の制を作った野見宿禰が「相撲(角力)の祖」と成り土師姓を賜わったことに始まる。土師氏からは菅原氏(道真など)、大江氏(広元など)が出て文章道(もんじょうどう)の名家に成る。菅原氏からは高辻氏、五条氏(代々相撲の司家)、清岡氏、桑原氏、前田氏(利家など)が派生。大江氏(初めは大枝と書いた)からは秋篠氏、中原氏、毛利氏(元就など)、長井氏、上田氏、北大路氏などが派生して居る。
※4-1:天穂日命(あまのほひのみこと)は、日本神話で、素戔嗚尊と天照大神の誓約(うけい)の際に生れた子。天孫降臨に先立ち、出雲国に降り、大国主命祭祀の祭主と成る。出雲国造らの祖とする。千家氏(=出雲大社の宮司)はその子孫と言う。

※5:ほんじすいじゃくせつ。日本の神は本地である仏・菩薩が衆生救済の為に姿を変えて迹(あと)を垂れたものだとする、「仏主神従」の神仏同体説。奈良時代に始まり平安時代に広まり、鎌倉時代に神仏習合を支える理論として体系が完成、明治初期の神仏分離に因り衰えた。<出典:一部「学研新世紀ビジュアル百科辞典」より>

※6:「葵」は徳川家、「三つ網」は観音像を掬い上げた網に因む。

※7:木遣とは重い材木などを、音頭を取り掛声を掛けて送り運ぶこと。又、その人。木遣の時に歌う一種の俗謡を木遣歌或いは単に木遣と言う。祭礼の山車をひく時や祝儀などにも歌う。木遣節。木遣口説。
※7-1:(「梃前(てこまえ)」の当て字と言う)。江戸時代の祭礼の余興に出た舞。元は氏子の娘が扮したが、後には芸妓が、男髷に右肌ぬぎで、伊勢袴・手甲・脚絆・足袋・草鞋(わらじ)を着け、花笠を背に掛け、鉄棒(かなぼう)を左に突き、右に牡丹の花を描いた黒骨の扇を持って扇ぎ乍ら木遣(きやり)を歌って神輿(みこし)の先駆をする。現在も神田祭などで見られる。

※8:日枝神社の山王祭、神田神社の神田祭、浅草神社の三社祭が東京三大祭です。

※9:実業家(1894~1989)。和歌山県生れ。1918年(大正7)電気器具の製作所を創業(後に松下電器産業株式会社に発展)。

※10:風神(god of the wind, Zephyros)とは、風を司る神。日本では一般に、雷神と対を成して、裸形で風袋を担ぎ天空を馳ける鬼体に表す。風布。風伯。「―雷神」。
※10-1:雷神(god of thunder, Thor)とは、雷電を起す神。鬼の様な姿をして虎の皮の褌(ふんどし)を纏い、太鼓を輪形に連ねて負い、手に桴(ばち)を持つ。中国で天帝の属神とされ、日本では北野天神の眷属神ともされ、雨を降らす農耕神でもある。日本では風神と対を成すことが多い。光の神。雷公。雷師。鳴神(なるかみ)。季語は夏。北野天神縁起「もろもろの―鬼類はみなわが従類となつて」。

※11:蒲魚(かまとと)とは、(語源は蒲鉾(かまぼこ)を「これは魚(とと)か」と聞くことからと言う)解って居る癖に解らない振りをすること。何も知らない様な顔をして上品振り、又、無邪気らしく振る舞うこと。又、その人。

※12:凌雲閣は東京都台東区浅草公園(現、台東区浅草2丁目13)に在った12階の煉瓦造の建物。1890年(明治23)の建造。高さ50m。1923年(大正12)の関東大震災に倒壊し、撤去。俗称、十二階

※13:panorama。[1].円形又は六角・八角の建物の中央を観客席にし、周囲の壁面全体に風景や物体などを配置し実物の様に見せる装置
 1789年イギリスのロバート・バーカー(R.Barker,1739~1806)が制作したのが最初。我が国では1890年(明治23)に横浜の商人・神戸三九郎が浅草公園奥山に日本パノラマ館を建設したのが最初。映画などの発達に因り衰退。回転画。「―の様な夜景」。<出典:「学研新世紀ビジュアル百科辞典」>
 [2]. [1]から転じて、全景や広い眺望。一望の下に収められた景色。「―がひろがる」。

※14:大正中期、浅草の興行街で上演され評判と成ったオペラ/オペレッタ/ミュージカル的音楽劇の俗称。「天国と地獄」「ボッカチオ」(「ボッカッチョ」とも)など。清水金太郎・原信子・田谷力三らが活躍。関東大震災で凋落

※15:revue[仏]。踊りと歌とを中心にコントを組み合わせ、多彩な演出と豪華な装置とを伴うショー。元パリで、毎年12月に1年間の出来事を急激に場面を転換させ乍ら諷刺的に演じた一種の喜劇。第一次大戦後各国に流行。

※16:川端康成は、昭和の小説家(1899~1972)。大阪市生れ。東大卒。横光利一らと新感覚派運動を展開。やがて独自の美的世界を築き、女性を描くことに優れる。作「伊豆の踊子」「雪国」「千羽鶴」「山の音」など。自殺。文化勲章・ノーベル賞

※17:本名は榎本健一、喜劇俳優(1904~1970)。東京生れ。愛称、エノケン。昭和初期より浅草で活躍、舞台と映画とで喜劇界に一世を風靡。当り役「法界坊」など。

※18:ルンペン(Lumpen[独])とは、(「襤褸(ぼろ)」の意)浮浪者乞食
 補足すると、家の無い浮浪者を「ルンペン」と呼び始めたのが昭和初期頃で、現在では1980年頃から普及した「ホームレス(homeless)」が一般的。
※18-1:ルンペン・プロレタリアート(Lumpen Proletariat[独])とは、資本主義社会の最下層に位置する浮浪的な極貧層。資本主義経済の下での相対的過剰人口の一形態で、労働災害・疾病・失業などに因り労働意欲を喪失して、労働者階級から脱落し極貧化した層。浮浪無産階級。<出典:一部「学研新世紀ビジュアル百科辞典」より>

※19:retro[仏]。復古調懐古的。或る時代の様式を真似た様(さま)。又、それを好むこと。「―なインテリア」「―趣味」。

※20:野村望東尼(のむらぼうとうに)は、幕末の歌人・勤王家(1806~1867)。本名、もと。福岡藩士野村貞貫の後妻。夫に死別後、剃髪。和歌を大隈言道に学び、家集「向陵集」が在る。高杉晋作・平野国臣・西郷隆盛と交友、庇護し、藩に因り姫島に流罪

    (以上、出典は主に広辞苑です)

【参考文献】
△1:『新訂 江戸名所図会5』(斎藤月岑校刊、市古夏生・鈴木健一校訂、ちくま学芸文庫)。

△2:『土地の記憶 浅草』(山田太一編、岩波現代文庫)。

△3:『浅草紅団/浅草祭』(川端康成著、講談社文芸文庫)。

△4:『日本唱歌集』(堀内敬三・井上武士編、岩波文庫)。

△5:CD『日本の声楽・コンポーザーシリーズ7 瀧廉太郎』(畑中良輔解説)。

●関連リンク
参照ページ(Reference-Page):浅草の地図▼
地図-日本・東京都(Map of the Metropolis, Tokyo -Japan-)
参照ページ(Reference-Page):関東大震災について▼
資料-地震の用語集(Glossary of Earthquake)
補完ページ(Complementary):「1964年分水嶺説」の論拠▼
(赤線や売春防止法についても言及)
戦後日本の世相史(Shallow history of Japan after World War II)
関東の土師氏について▼
客観主義のエルニーニョ的転回(ElNino-like change of objectivism)
土師氏が関東に”濃く”足跡を残して居る所▼
前玉神社と「さきたま古墳群」(Sakitama shrine and tumuli, Gyoda, Saitama)
歓楽街に於ける「飲む、打つ、買う」の法則や野毛の焼鳥屋▼
[横浜物語#2]野毛([Yokohama story 2] Noge)
鯉幟の生産地▼
2004年・鯉幟の町-加須市(Kazo and carp streamer, Saitama, 2004)
「1964年分水嶺説」を裏付ける他の事実▼
[人形浄瑠璃巡り#3]大阪市西成([Puppet Joruri 3] Nishinari, Osaka)
懐かしの「純喫茶」(Nostalgic 'Pure coffee shop')
豊後竹田の滝廉太郎と「荒城の月」▼
2003年・豊後岡城の「荒城の月」
(Moon over the ruined Oka castle, Oita, 2003)

日本人が失った「大切なもの」、日本を面白い国にする提言▼
温故知新について(Discover something new in the past)
「浅草ロック座」公式サイト、浅草ストリップ情報のサイト▼
外部サイトへ一発リンク!(External links '1-PATSU !')


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