-- 2004.05.04 エルニーニョ深沢(ElNino Fukazawa)
2005.02.25 改訂
2004年4月19日(月)の午前中に埼玉県加須市を訪れました。何の為?、と言うと武蔵忍城遺構の北谷門が總願寺黒門として残って居るとのことなのです。その経緯については武蔵忍城をご覧下さい。
ところが加須市に行ってみると、總願寺は立派な寺で町には江戸時代からの落ち着いた風情が有り、しかも日本一の鯉幟(こいのぼり)の生産地なのです。前回も偶然の切っ掛けから雛人形や五月人形の生産地・埼玉県岩槻市を取り上げましたが、五月人形と来れば鯉幟という連鎖反応で、今回は埼玉県加須市をご案内します。しかし、ホンマに埼玉県はオモロイものが埋もれてまっせ!
埼玉には地元の人にも他県の人にも忘れられた「良き町」が人知れず埋もれて居ます、ここ加須市などその最たるものでしょう。私は関西人ですが、例えば東京や埼玉在住でこの加須市を名前だけでも知って居る人が何人居るでしょうか?、しかもその名前は「加須」と書いて「かぞ」と読むのです。その由来については後述するとして、加須市は埼玉県北東部の市で、特産は鯉幟・剣道具・柔道着などで、人口7万弱の小さな市です。又、何故か「手打ちうどん」の町でもあります。
それでは先ず、当初の目的地の總願寺に行きましょう。
尚、04年4月19日撮影の加須市の原画が壊れて仕舞い、当ページの写真の原画は在りません。このページに貼り付けてある写真だけが、こうして見れます。原画破壊ついては詳細に検討して在りますので、▼下▼を
初歩的な神道の神々(The gods of rudimentary Shinto)
ご覧下さい。{このリンクは04年12月18日と05年2月25日に追加}
(1)總願寺(総願寺)
私は浅草から東武伊勢崎線に乗り加須駅で降り、タクシーで通称・不動ヶ岡不動尊と呼ばれる總願寺(加須市不動岡2丁目)に向かいました。
總願寺は真言宗智山派で、右が江戸末期の山門です。扁額には「玉嶹山」と山号が書かれて居て、ご覧の様に朱の色も鮮やかで左右に仁王像を配した見事な仁王門です。
境内に入ると中は結構広く、しかも綺麗に掃き清められて居て厳かな雰囲気が有ります。ウーム、これは思って居た以上に立派な寺です。
境内奥には庭園も整備されて居て桃やツツジを始め季節の花々が咲いて居ました。
右の2枚が境内の庭園に咲いていた花々です。
總願寺境内に在る加須市の説明板「不動ヶ岡不動尊總願寺の由来」に拠ると、仁和2(886)年秋、光孝天皇が重病に臥されて居た時、円珍(=智証大師、※1)が不動明王に病気平癒を祈願したら忽ち全快されたので、天皇は不動明王像を大師に刻ませ守護仏として宮中に安置しました。或る時宮中の役人が明王の宝剣を盗もうとしたので、堂主は明王を背負い故郷の吉見領(※2、※2-1)に仮堂を建て安置して居ましたが、長暦3(1319)年に洪水に遭いこの地に流れ着いたのを、里人たちが奉り岡村という地名を不動ヶ岡としました。その後元和2(1616)年、高野山の總願上人(又は総願上人)がこの地を訪れた際、不動明王の霊験を称えて開山と成り總願寺を建立し不動明王像を安置したのが始まりとのこと。
左下が不動堂です。天保年間(1830~1843年)に建てられた加須市屈指の大規模な木造建築で、北埼玉の神社仏閣を数多く手掛けている羽生市川俣の三村正利の作です。この中に前述の智証大師作とされる不動明王像と倶利迦羅不動剣(※3)が納められて居ます。
右下は梵鐘と朱塗りの櫓です。これも中々見応えが有ります。
左が加須市に来た切っ掛けの黒門です。総欅(けやき)造りの一枚板の門で、忍城の北谷門を移築したものです。移築の経緯の詳細は「2003年・「忍の浮城」-武蔵忍城」をご覧下さい。
右が境内で何故か?、飼って居た孔雀の番(つがい)の雄です。
總願寺は関東三大不動尊の一つ -他の2つは、高幡不動尊(東京都日野市)と成田不動尊(千葉県成田市)- として北関東の信仰を集めている名刹とのことですが、今回初めて訪れてそれは充分肯けました。
總願寺の祭として、2月節分の赤鬼・青鬼・黒鬼が松明や剣や棍棒を持って不動堂の回廊を駆け巡る「鬼追い豆撒き式」や9月28日の「日渡り式」などが有名です。
(2)龍蔵寺
總願寺を出たら小雨が振って来ました。私は不動岡高校の前を通り、浄土宗の龍蔵寺(加須市大門町18番地)に行きます。寺創建には白龍伝説が関わって居ます。文和4(1355)年、布教の為この地を訪れた教蔵上人が、村人を困らせていた百丈(=約300m)も有る大白龍を退治し頭を埋め、白龍の霊を鎮める為「白龍と教蔵上人」から一字を取って龍蔵寺を建立したそうです。
左下が山門で、これも大変見事な仁王門です。そして右が教蔵上人が白龍の頭を埋めた跡に植えたと伝えられる樹齢約650年、高さ20mの大銀杏です。境内には白龍が水を飲んだとされる龍水井戸もあります。
左下が龍蔵寺本堂の部分です。本堂は天保6(1835)年の建造で、加須市の代表的木造建築の一つで、作者は總願寺不動堂を建てた三村正利です。堂内には県の文化財に指定されて居る木造の阿弥陀如来像が安置されて居ます。この像は親鸞上人の高弟・性信上人の門弟が勧進し、慈恩寺の仏師に依り造られた旨の墨書が像内にあり、国の重要美術品です。
又、徳川幕府から22石の寺領を保護され、3代将軍・家光から14代将軍・家茂(いえもち)迄の9通の御朱印状が保管されて居るそうです。右の写真が境内の説明板に在る、慶安2(1649)年に家光から与えられた御朱印状の内容です。当時「朱印」は将軍家のみが使用出来たもので、実際の書状では「○に家光」と書かれた部分が朱色だった、という訳です。
この説明板を2色刷りにして、その部分を上の様に朱色にして欲しかったですね、オッホッホ!
(3)鯉幟(こいのぼり)産業
「加須市」公式サイト(△1)に拠ると、加須の鯉幟は明治の初め、提灯や傘の職人が副業として始めたもので、当時は雛人形なども手掛け、季節の際の物を扱うという意味で”際物屋”(※4)と呼ばれる店で造って居ました。それが鯉幟の専門店に成ったのは、大正12(1923)年の関東大震災の後、東京近郊の際物屋が激減し浅草橋の問屋が加須の際物屋に仕入れに来てその品の良さに感心し、注文が殺到する様に成ってからだそうです。第二次世界大戦前には、生産量日本一に成りましたが、戦後の高度成長期に入ると職人が減り、鯉幟の殆どは、化学繊維のプリント物に成りました。
木綿と顔料だけを使って、職人さんが刷毛で描いて行くもので、12の色彩を縦横に使い、裁断・縫製から始まり、筋描き、目入れ、口輪付け迄18もの工程を費やします。
左下がそんな中で100年の伝統を受け継ぎ、手描き鯉幟を今でも生産して居る製造問屋の老舗・橋本弥喜智商店です。看板には「伝統工芸品 天皇陛下 献上鯉のぼり 五月人形」と書いてあります。
右下が原田人形店前の鯉幟です。
鯉幟は5月5日の「端午の節句」(後述)に揚げますが、加須市では毎年5月の連休中にジャンボ鯉幟を利根川河川敷で揚げるのが大きな行事の一つです。
埼玉県岩槻市が節句人形の生産地、私が住んでる近くの大阪松屋町は人形の問屋街(←私は殆ど毎日その問屋街を通って居ます)なので、これで人形の生産地、鯉幟の生産地、それらを販売する問屋街の三つ揃いの完成です。
(4)会の川と徒歩橋(かちばし)
私は町の佇まいを見乍ら歩いて駅に帰りました。途中に幅5m位の会の川(あいのかわ、旧利根川)に江戸時代の徒歩橋跡(加須市土手1丁目)と伝えられる石橋が架かって居る所が在ります。左下の写真がそれで、昭和初期の建造です。
ところで「徒歩」は「かち」と読みます。「かち」は「徒歩」又は「徒」と書き、元来「乗り物に乗らないで歩く」という意味で、江戸時代にはこの橋が龍蔵寺の参道の起点に当たり、龍蔵寺は先程見て来た様に御朱印で寺領を保護された寺なので、この橋の手前で馬を降り歩いて渡らねば為らなかったことからこの名が付いて居ます。因みに龍蔵寺はこの橋の西400m位の所に位置して居ます。
右下の写真は徒歩橋近くの手造り豆腐を売る酒屋さんで、古風な所が加須らしい感じです。
しかし会の川が汚いのが残念です。加須は元々は会の川右岸の自然堤防上に発展した農村で、川は町の中心を北から南へと流れて居て、会の川こそ加須のシンボルだと思うからです。私は会の川がもう少し綺麗だったら、川に沿って歩いてみようかと思って居たのですが、止めました...(>_<)。
(5)千方神社(ちかたじんじゃ)
加須駅の近くには千方神社(加須市中央2丁目)が在ります。創建時期は不明ですが、ここには百足退治で知られる、あの藤原秀郷(※5)の六男の鎮守府将軍修理太夫・千方を祀って居ます。左が神社の鳥居から境内を撮ったものです。
境内は殺風景ですが、目ぼしい物としては一つだの石敢当(右の写真、※6)という高さ1.2m位の魔除けの石が在ります。この石の中央に「石敢當」と刻んで在るのですが、風化して彫りが浅く成っていて写真では字は読めません。この石の傍には市教育委員会の説明板が在り、それに拠ると文化14(1817)年に在郷の守護神として建てられ1954年迄近くの鉄鋼所裏に在ったものを、同年ここに移したと在ります。石敢当は道教(=中国の民間信仰)の風習(△2のp58)で九州・沖縄地方には多いのですが、関東地方では非常に珍しい物で「思わぬ発見」でした。一説に拠ると「石敢当」とは中国の力士の名前とかで、それとの関係の有無は知りませんが町中を歩いて居る時、しばしば「力士」という名の地酒の看板を目にしました。
後で調べると「力士」は北埼玉郡騎西町騎西(きさい)の(株)釜屋の酒であることが判りました。騎西町は加須駅の南西3km位の所なので納得です。尚、騎西(きさい)という地名は私部(きさいちべ)という部民の末裔の拠点だったことに由来し(△3)、関西の交野市に在る「私市(きさいち)」「私部(きさいべ)」に通じます。
(6)うどん好きの町
加須は又、大変な「うどん食文化」の町としてこの近在では知られて居ます。これは関東では”ちょっとケッタイ”なので、ここで少し「うどん」のルーツを辿ってみましょう。
++++ うどん学事始 ++++
漢字で「饂飩」と書きます。日本の「うどん」のルーツは遣唐使僧たちが唐から持ち帰った唐菓子の索餅(さくべい、素麺系)(△4の106~115)、餺飥(はくたく、うどん系)、餛飩(こんとん、餃子やワンタン系)であろう、という中国起源説が現在有力です。広辞苑に拠ると
・索餅(さくべい)とは、小麦粉と米の粉とを練って、縄の形に捻じって油で揚げたもの。旧暦7月7日に瘧(おこり)除けの呪(まじな)いとして内膳司から禁中に奉り、節会(※7)の時には晴れの御膳に供した。麦縄(むぎなわ)。
・餺飥(はくたく)とは、うどん粉を水で練って切ったもの。ほうとう。
・ほうとう(餺飥)は、(ハクタクの音便)生の饂飩(うどん)とカボチャなどの野菜を味噌で煮込んだ料理。山梨県(旧甲斐国)の名物。古くは唐菓子の一種。
・餛飩(こんとん)とは、刻んだ肉を小麦粉に包んで蒸したもの。平安時代、宮中の節会などに供せられた。又、餡(あん)を包んだ小麦団子を煮たもの。
です。
即ち「うどん」のルーツは餺飥(はくたく)です。そして空海(=弘法大師、※1-1)が唐から製法を持ち帰り地元の貧しい民を救ったという話が在り、空海は讃岐の人なので讃岐うどんの発祥として伝えられて居ます。室町時代には「うどん」の原型の様なものが出来上がり、戦国期には武田信玄の「ほうとう鍋」などに利用され、江戸時代前期の1642年に「諸国飢饉のため、百姓の常食米を禁じ、うどん、そば、まんじゅう、豆腐の商売を禁止す(徳川禁令考)。」(△4-1のp346)という江戸の文章が在りますので、1700年頃迄には讃岐の琴平、江戸、京、大坂など全国に「うどん屋」が出現していたと考えられます。
面白いのは室町時代から「うどんニて大酒これあり。」とか「うどんにて大飲に及ぶ」という文章に出会(くわ)す事で、「饂飩(うどん)を肴にして酒を飲む習慣」が風流人には有った事が解ります(△4のp154)。
初期の饂飩は味噌仕立ての汁 -これは「ほうとう」の影響か- で(△4のp155)、しかも「付け麺」でした。ところが江戸中期以降は江戸では饂飩よりも蕎麦が主流と成り、汁(しる)も味噌から醤油と鰹だしに成り、更にその後で「掛け饂飩」「掛け蕎麦」が登場します。この好みは関西の「鍋焼き饂飩」(掛け:熱い)、東京の「ざる蕎麦」(付け:冷たい)として今日でも生きて居るばかりか、人間の性格をも支配している感が在ります。
否々、関西や関東ばかりでは有りません。饂飩の前身とも言える「ほうとう」は名古屋の「味噌煮込み饂飩」を彷彿とさせます、それに名古屋には棊子麺(きしめん)も有りますゾ!!
{この記述は元は【脚注】に在ったものを、04年12月18日に「うどん学事始」として本文に移し更に更新しました。}
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右が町中のうどん屋さんの看板です。赤い字で「手」と染め出して「手打ち」を表して居ます。加須の饂飩は江戸時代中期に、前述の總願寺の門前で参拝客を持て成したのが始まりと言われて居て、現在30軒以上もの店が味を競って居ます。食べ方は水洗いした冷たい手打ち饂飩に、あっさり味の冷たい汁(つゆ)で食べます。これを「盛り饂飩」 -「盛り蕎麦」の饂飩版- と言います。変種としてゴマ味噌風味や茄子南蛮などが有ります。勿論温かい鍋焼き饂飩などもあります。
関東のうどん文化圏は東村山・加須・上州水沢・桐生・館林などで、何れも原料と成る良質の小麦が生産される為、とされて居ます。
ところで先程の總願寺は真言宗、真言宗は空海が開祖、空海は讃岐(現香川県)の人 -總願寺創建に深く関わった智証大師(円珍)も讃岐の人で空海の親戚筋(※1)- 、という訳で總願寺門前の加須初のうどん屋が讃岐の人だったりすると讃岐うどんと直結しますゾ!!
(7)地名「加須(かぞ)」の由来
最後に【参考文献】△3や東武鉄道発行の案内書『みちしるべ』(△5)に拠ると「加須(かぞ)」の由来は
[1].地内の光明寺の開基者・加須内蔵丞長高の姓「加須(かす)」を採った。
[2].地内に神増寺の「神増(かぞう)」が変化。
[3].新田加増地の「加増(かぞう)」の意で、「加増」の地名は古文書にも見られる。
[4].河の州「河州(かす)」が変化。
と、幾つかあります。この地は古くは[3]の説を裏付ける様に「加増」と書かれて居たのが、元禄年間(1688~1704年)に現在の「加須」に変更されたらしく、[3]が有力ですね。私は加須とうどんの事を考え乍ら手打ちうどんを食べて、加須の町を後にしました。
(1)鯉幟の風景
鯉幟を製造する加須市を訪ねた後は締め括りに鯉幟が泳ぐ勇姿をお目に掛け、その後で「端午の節句」について触れて置きましょう。
左は03年4月22日、浅草寺境内の鯉幟。
下は04年4月20日、JR飯田線の下川合駅近く(静岡県)の川に掛かる鯉幟の川渡しを列車の車窓から撮ったものです。
鯉幟の川渡しは、川の両岸に綱を渡しそれに沢山の鯉幟を吊るして恰も鯉幟が川を並んで泳いで居る様にしたもので、これを流れに沿って幾重にも重ねて渡す地方も在ります。数10mも有る川幅一杯に鯉幟が幾重も重なり泳ぐ様は壮観です。
左下は04年4月24日、京都保津峡に掛かる鯉幟の川渡しです。
右は04年5月2日、奈良の若草山を背景にした民家の鯉幟です。
上の何れの鯉幟たちも元気に泳いで居ますね。40年前頃は町中でも庭に柱を立て鯉幟を揚げる家が可なり有りましたが、町中の一戸建ての家は段々と無くなり高層住宅(=団地やマンション)化したのに伴ない鯉幟を揚げる家は少なく成りました。同時に部屋に五月人形を飾る習慣も、都会では急速に廃れました、...そして同時に都会に住む人々の心も荒廃しました、これが日本の「高度成長」の現実です。
(2)「端午の節句」と鯉幟の起源
「端午の節句」(※8)は5月5日ですが、旧暦の5月は五月晴(※9)に成ったり五月雨(=今の梅雨)(※9-1)が降ったりの天候不安定な季節で、昔はこういう時節には厄病に罹り易いとされ、この季節に盛りを迎える菖蒲(※10)の葉から出る強い香りが「邪気を祓う」と信じられ、菖蒲湯に入ったりしました。又「菖蒲」は「尚武」に通ずるとして、武家時代に男子の節句に欠かせないものと成りました。そう言えば「桃の節句」の桃も「邪気を祓う」ことに由来して居ましたね。「桃の節句」については▼下▼を参照して下さい。
大阪城の桃の花(Peach blossoms of Osaka castle)
この様に節句は旧暦でこそ本当の意味を持つ、と私は常々思って居ます。
さて新暦の5月5日ですが、今年(04年)は期せずして5月5日が旧暦3月17日の立夏に当たります。立夏と言えば
夏も近づく八十八夜...
という唱歌『茶摘』の「八十八夜」はこの立夏の頃を指します。
ところで、03年11月から04年に掛けて日本でも鯉ヘルペスが大流行しました。感染したコイ(※11)が居ると接触や水を介して他のコイに感染します。感染源としては輸入コイ媒介説や餌媒介説など幾つかの可能性が挙げられて居ますが、日本のコイの最初の感染ルートは未解明です。こうなったら菖蒲に鯉ヘルペスの厄祓いもお願いしたいですね、アッハッハッハ!!
平静に戻りまして、鯉幟の起源(=ルーツ)は、鯉が黄河に在る竜門の急流を遡って竜と成る、という中国の「鯉の滝登り」伝説が基に成って居ます。これが人の立身出世と重ねられ、一家を支える男子の成長を祝う「端午の節句」と結び付いたと考えられます。しかし、ホンマに鯉が滝なんか登るんでしょうかねえ、結構汚い川や池などに居ますから。
序でに言うと、日本では「端午の節句」に粽(※12)や柏餅(※12-1)を食べる習慣が有りますが原料は両方共にモチ米(=糯米)です。節供(せちく、※8-1)と言って節句には決まった食べ物が付き物ですが、「端午の節句」にモチ米を原料にした食料を食べる習慣は【脚注】※12に拠れば中国起源で、汨羅江(※12-2)に投身した楚の屈原(※12-3)の忌日が5月5日なので、彼の姉が弟を弔う為に5月5日に餅を汨羅江に投げ入れ竜神を祀ったのに始まるのだそうです。しかし、モチ米を主食しするモチ米文化の人々は日常的に粽を食べて居ます。
フーム、「うどん」だけでは無く「端午の節句」の鯉幟や粽も中国から伝来したんですねえ。ところで、
柱の傷はおととしの五月五日の背比べ...
という歌に在る通り、これも家庭で鯉幟を揚げていた時代には子供の年毎の成長の証として、家の柱に釘などで頭の高さを刻印して居ましたね、...旧き佳き時代は遠く成りにけり、を実感します。
{この節は04年5月25日に追加、04年6月12日に最終更新}
既に”偶然知った「人形の町」”として埼玉県岩槻市を取り上げましたが、忍城から總願寺を媒介して今回は”偶然知った「鯉幟の町」”埼玉県加須市も特集しました。その總願寺は又、加須のうどんの起源に関係大有りで、しかも讃岐うどんを直輸入した可能性が濃厚です。更には「端午の節句」に粽を食べる起源を考える切っ掛けにも成りました。
加須には鯉幟やうどん屋だけで無く、創業××年という老舗の店が散見されます。ということは昔から代々この町に住み続けている人々が多く、それが「××が丘」などという安易な名前の新興都市には無い”落ち着き”を醸し出して居るのでしょう。東武伊勢崎線で浅草迄1時間、充分通勤圏内です。「温故知新の心」でこういう町を大切にして欲しいですね。願わくば、会の川を綺麗にして本物の鯉が泳ぐ流れを取り戻して戴ければ、と思う次第です。
この様な所が関東の観光スポットからスコンと抜け落ち、ということは関東近在の人の脳味噌からもスコンと抜け落ち埼玉県が見向きもされない現象を、私は埼玉県の「”呑み込まれ感(=埋没感)”」とか「観光の”穴(=ブラックホール)”」と表現して居るのですが、その訳がこれでお解り戴けたことでしょう。埼玉の人はこの加須の様な町にもっと眼を向けて欲しいですね。
次は、埼玉県は「彩の国」なんかでは無い、前玉(さきたま)だあ~!、と叫びつつ、未だ未だ経廻って歩きまっせ、埼玉県を。
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尚、[埼玉を”押し広げ”る旅]シリーズの他画面への切り換えは最下行のページ・セレクタで行って下さい。(Please switch the page by page selector of the last-line.)
【脚注】
※1:円珍(えんちん)は、天台宗寺門派の祖(814~891)。天台座主。讃岐の人。母は空海の姪。比叡山の義真に師事し、853~858年(仁寿3~天安2)入唐し密教を学ぶ。帰国後園城寺(おんじょうじ、三井寺とも)を再興。法華教学に対する台密の優位を主張し、その門下は良源の出現迄天台の主流を為した。著「法華論記」「大日経指帰」など。諡号は智証大師。
※1-1:空海(くうかい)は、平安初期の僧(774~835)。我が国真言宗の開祖。讃岐の人。灌頂号は遍照金剛。初め大学で学び、後に仏門に入り四国で修行、804年(延暦23)入唐して恵果(けいか)に学び、806年(大同1)帰朝。京都の東寺・高野山金剛峯寺の経営に努めた他、宮中真言院や後七日御修法の設営に依って真言密教を国家仏教として定着させた。又、身分を問わない学校として綜芸種智院(しゅげいしゅちいん)を設立。詩文に長じ、又、三筆の一。著「三教指帰」「性霊集」「文鏡秘府論」「十住心論」「篆隷万象名義」など。諡号は弘法大師。
※2:吉見領(よしみりょう)は、現在の埼玉県比企郡吉見町で加須市から直線距離で16km位南西に位置し、秩父山麓寄りで荒川本流や支流の滑川・市野川などが流れて居り、吉見百穴が在ります。
※2-1:吉見百穴/吉見の百穴(よしみひゃっけつ/よしみのひゃっけつ)とは、埼玉県比企郡吉見町に在る古墳時代後期~末期(6~7世紀)の横穴古墳群。松山城址北方丘陵の西斜面に230余個現存。墳墓の底部には天然記念物のヒカリゴケが自生。
※3:倶利迦羅(くりから)は、倶利迦羅竜王の略。倶利迦羅竜王は不動明王の変化身で竜王の一種。形像は、磐石の上に立って剣に巻き付いた黒竜が剣を呑む姿を示し、火焔に覆われる。不動明王の持物の利剣と羂索(けんさく)とを合したもの、又その種子(しゅじ)の形と言う。倶利迦羅明王。倶利迦羅不動。
※4:際物(きわもの)とは、[1].seasonal articles。入用の季節の間際に売り出す品物。その時を失すれば無用・無価値と成る。正月の門松や3月の雛人形などの類。季節物。
[2].ephemeral articles。転じて、一時的な流行を宛て込んで売り出す品物。
[3].sensational work。当時の世上の事件・流行に取材、時好に投じようとした脚本・小説・映画などを指す。
※5:藤原秀郷(ふじわらのひでさと)は、平安中期の下野の豪族。(生没年未詳:890頃~950頃か)。左大臣魚名の子孫と言われる。田原(俵)藤太とも。下野掾・押領使。940年(天慶3)平将門の乱を平らげ、功に依って鎮守府将軍。弓術に秀で、百足(むかで)退治などの伝説が多い。
※6:石敢當/石敢当(せきかんとう/いしがんとう)とは、沖縄や九州南部で、道路の突き当たりや門・橋などに、「石敢當(当)」の3字を刻して建てて在る石碑。中国伝来の民俗で、悪魔除けの一種。
※7:節会(せちえ)は、古代の朝廷で節日その他公事(くじ)の有る日に行われた宴会。この日、天皇が出御して酒食を群臣に賜った。元日・白馬(あおうま)・踏歌(とうか)・端午(たんご)・重陽(ちょうよう)・豊明(とよあかり)・任大臣(にんだいじん)など。せち。
※8:端午の節句(たんごのせっく、Boys' Festival on the fifth of May)は、(「端」は初めの意。元は中国で月の初めの午の日、後に「午」は音通などに因り「五」に転訛)五節句の一つで5月5日の節句。古来、邪気を祓う為菖蒲(しょうぶ)や蓬(よもぎ)を軒に挿し、粽(ちまき)や柏餅を食べる。菖蒲と尚武の音通も有って、近世以降は男子の節句とされ、甲冑・武者人形などを飾り、庭前に幟旗や鯉幟(こいのぼり)を立てて男子の成長を祝う。第二次大戦後は「こどもの日」として国民の祝日の一。あやめの節句。重五(ちょうご)。端陽。
※8-1:節供(せちく)とは、節日に供する供御(くご)。元日の膳、正月15日(上元)の粥、3月3日(上巳)の草餅、5月5日(端午)の粽(ちまき)、7月7日(七夕)の索餅(さくべい)、10月初の亥の日の亥子餅(いのこもち)の類。せく。御節(おせち)。節事(せちごと)。
※9:五月晴(さつきばれ)は、[1].fine weather between periods of early summer rain。五月雨(さみだれ)の晴れ間。梅雨の晴れ間。
[2].beautiful weather in May。5月の空の晴れ渡ること。
※9-1:五月雨(さみだれ、early summer rain, rainy season)は、(サはサツキ(五月)のサに同じ、ミダレは水垂(みだれ)の意という)
[1].陰暦5月頃に降る長雨。又、その時期。梅雨(ばいう、つゆ)。さつきあめ。季語は夏。古今和歌集夏「―に物思ひをれば」。奥の細道「―をあつめて早し最上川」。
[2].([1]の様に)途切れ勝ちに繰り返すこと。「―式」「―スト」。
※10:菖蒲(しょうぶ、sweet flag)は、サトイモ科の多年生草本。根茎は水底の泥中に横たわり、葉は長剣状で30cm余。初夏、花茎の中程に黄緑色の小花を棒状に密生。葉は芳香が有り、端午の節句に菖蒲湯とする。根茎を乾して「菖蒲根」と呼び健胃薬とする。古くは「あやめ」と呼んだが、アヤメ科のアヤメ/ハナショウブの類とは葉の形が似るだけで、全くの別種。葺草。軒菖蒲。漢名、白菖。
※11:鯉(こい、carp)は、コイ科の淡水産の硬骨魚。側線鱗が36枚有ると言うので六六魚(りくりくぎょ)とも呼ぶが、実際には31~38枚程の変異が見られる。2対の口髭が有り、急な流れの無い泥底の川や池を好む。日本では食用・観賞用として珍重され、又、立身出世の象徴とされる。変種に錦鯉やドイツから輸入した革鯉などが在る。鯉魚。
※12:粽(ちまき)は、(古く茅(ちがや)の葉で巻いたから言う)端午の節句に食べる糯米粉・粳米粉・葛粉などで作った餅。長円錐形に固めて笹や真菰(まこも)などの葉で巻き、藺草(いぐさ)で縛って蒸したもの。中国では汨羅(ベキラ)に投身した屈原の忌日が5月5日なので、その姉が弟を弔う為に、当日餅を江に投じて虬竜(きゅうりょう)を祀ったのに始まると言う。伊勢物語「人のもとよりかざり―おこせたりする返事に」。
※12-1:柏餅(かしわもち)は、円形扁平状のしんこ餅の上に餡(あん)を乗せ、二つに折る様に包み、カシワ(柏)の葉で包んだもの。5月5日の節句の供物とする。季語は夏。
※12-2:汨羅江(べきらこう、Miluo Jiang)は、中国湖南省の北東部の川。湘江に注ぐ。楚の屈原の投身に因って名高い。汨水。
※12-3:屈原(くつげん)は、中国、戦国時代の楚の政治家・詩人(343~277)。名は平、字は原。又、名を正則、字を霊均とも言う。楚の王族に生れ、王の側近として活躍したが妬まれて失脚、湘江の辺(ほとり)をさ迷よい、遂に汨羅(ベキラ)に投身。楚の歌謡を本とした韻文様式の楚辞を創始し、憂国の情を以て歌う自伝的叙事詩「離騒」や「天問」などを残しした。<出典:一部「学研新世紀ビジュアル百科辞典」より>
(以上出典は主に広辞苑です)
【参考文献】
△1:「埼玉県加須市」公式サイト。
△2:『道教の神々』(窪徳忠著、講談社学術文庫)。
△3:『日本地名ルーツ辞典』(池田末則・丹羽基二監修、創拓社)。
△4:『文化麺類学ことはじめ』(石毛直道著、講談社文庫)。
△4-1:『たべもの日本史総覧』(新人物往来社編・発行)。
△5:『東武本線ハイキング&ウォーキングガイド みちしるべ』(東武鉄道営業企画課編・発行)。埼玉・栃木・群馬方面の案内書としてお薦め。
●関連リンク
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資料-地震の用語集(Glossary of Earthquake)
@参照ページ(Reference-Page):日本の旧暦と季節について▼
資料-「太陽・月と暦」早解り(Quick guide to 'Sun, Moon, and CALENDAR')
@参照ページ(Reference-Page):感染症や免疫関連の用語集▼
資料-最近流行した感染症(Recent infectious disease)
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