2002年・雲南タイ族民家宿泊記
[2002年雲南桃源旅行・真髄編
(Homestay at Dai's-house, China, 2002)

-- 2003.02.20 エルニーニョ深沢(ElNino Fukazawa)
2003.08.14 改訂

※注意:このページは写真が多く、読込みに時間が掛かります。
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 ■はじめに - ”雲南桃源旅行の真髄”を究める心

 02年10月19日からの2週間「雲南桃源倶楽部」の旅の前半は予(かね)てからの北山先生の希望で、10月22、23日の僅か2日間ですが、雲南省西双版納タイ族自治州(州都:景洪市(允景洪鎮))でタイ族の民家に”体験宿泊”し彼等と寝食を共にし交流を深めました。因みに中国のタイ族は漢字で「傣族」と人偏を付けて表記します。
 尚、2002年の暮れに私が「雲南桃源倶楽部」のホームページ(=HP)を出す際に原稿を見せたら、御本人は「愚公亭塞翁」(※1、※1-1)と自称して居り、私にもご自分の事を「愚公亭塞翁」又は「塞翁」と呼んで呉れとの仰せが有ったので、以来私は北山先生の事を「塞翁」と呼ばせて貰って居ます。ところで「塞」とは北方の砦(とりで)(※1)の事なので、山」という姓は塞翁に相応しいと北山塞翁は思ったに違い有りません!

 雲南桃源倶楽部結成の趣旨に『「雲南」をロマンの里、ユートピア(桃源郷)として、或いはこの地を日本人の源郷と考える人達に、さらなる夢を与える集いにしたいと考えます。「雲南」には、中国で最も多くの少数民族がそれぞれの伝統を守って生活しており、雲南を旅して彼等の生活と文化に接する事が出来ます。』と在る通り、これぞ正に「雲南桃源旅行」 -塞翁が案内する旅- の目指す所であります。
 「敵を知り、己を知れば、百戦危うからず」と言いますが、雲南の少数民族の一つであるタイ族の生活を体験してみることは、単なる観光とは異なり、自分自身のルーツに立ち返りそこから謙虚に世界を見直すという、これこそが少数民族地域の旅の真髄を究める「心(こころ)」です。正に北山塞翁が泣いて喜ぶ旅なのです。
 今回体験宿泊(=ホームステイ(homestay))する所は2001年3月に桃源倶楽部の中川・松岡両氏が調査で訪れた所で、
  嘎洒(ガサ)鎮曼弄楓村の玉さん一家

です。中川さんの報告に拠ると、この家はタイ式高床式住居(※2)の農家で、幾つか比較した中ではトイレも清潔で体験宿泊には一番良いと在ります。又、車で40分位の所に温泉も在るとのことです。費用は三食付きで100[元/1人1日](≒1500円)だそうです。実は嘎洒鎮には西双版納空港(→後出)が在ります。

 それではロマンの旅・真髄編の開幕です。普段行けない所なので、成るべく写真を沢山載せますので、アルバムを見る様な気持ちでご覧下さい。尚、掲載写真には小池さんの撮影した写真も使わせて貰って居ます。又、西双版納(シーサンパンナ)の謂れや地図は▼下▼を参照して下さい。
  地図-中国・西双版納(Map of Xishuangbanna, -China-)

 ■「2002年雲南桃源旅行」の全旅程

 その前に2002年の雲南桃源旅行(第4次旅行)のグループ構成と全旅程を簡単に記します。今回の旅行は幾つかのグループ別の行動の組み合わせで成り立って居ます。尚、1999年3月28日(日)から在ったJAS(日本エアシステム)の関空~昆明直行便(週2便:日と水)02年の夏で無くなりました。

 (1)グループ構成

 グループ構成は以下の様に成ります。

  A.北山塞翁(桃源倶楽部会長)
  B.中川夫妻(桃源倶楽部)
  C.小池、松岡、私(桃源倶楽部「食み出しトリオ」)
  D.唐華英さん(上海人)
  E.山村グループ(山村、小渕夫妻) - 旅の道連れ


です。山村グループは10月21日、景洪へ行く飛行機の中で偶然知り合い、タイ族民家へ一緒に行く事に成りました。

 (2)全旅程

                 <宿泊>
 10/19(土) 関空 → 広州  華南農業大学招待所  A,B,C
   20(日) 広州 → 昆明  銀天大酒店      A,B,C    飛行機が約4時間遅れる
   21(月) 昆明 → 景洪  版納賓館と桃源ハウス A,B,C,
   22(火)          タイ族民家      A,C,-->「真髄編」の旅
                景洪市のホテル    B
   23(水)          タイ族民家      A,C,-->「真髄編」の旅
                景洪市のホテル    B
   24(木) <景洪市民病院>  版納賓館と桃源ハウス A,B,C,     <景洪市民病院>はC
                           Aの「番外編」裁判
       <景洪ナイト・フィーバー>                      <景洪NF>は私
   25(金) 景洪 → 昆明  銀天大酒店      A,B,C,
           <滇池>                          <滇池>は塞翁と私
                           と別れる
   26(土) 昆明滞在                B-->*:中川夫妻は別行動
       <昆明の「清真」通り>          C
       昆明 → 広州  華南農業大学招待所  A,C,
   27(日)                     Aは帰国、も帰郷
                天翔大酒店      C
   28(月) 広州 → 桂林  三江・風雨橋迎賓館  C-->「解脱編#2」の旅
   29(火) 三江→龍勝  → 桂林・興開賓館    C-->「解脱編#1」の旅
   30(水)  午前      漓江下り       C-->「解脱編#3」の旅
        午後      興坪・興坪旅館    C-->「解脱編#4」の旅
   31(木) 興坪→陽朔    陽朔・陽朔大地酒店  C-->「解脱編#1」の旅
 11/ 1(金) 桂林 → 広州  沙面・省外事辨招待所 C-->「解脱編#1」の旅
   2(土)          流花賓館       B,C<---合流-- *
   3(日) 広州 → 関空  帰国         B,C

    {03年8月14日に「解脱編」の完成に合わせ記事を最終更新しました。}

 ■10月21日の夜(前夜祭)

 21日の午前中は昆明の市場を見物し、私は狗肉のスープを食べて来たるべき民家宿泊に備え、景洪行きの飛行機に乗り込みました。

 皆さん、その飛行機から降り立ったのが北山塞翁です(右の写真)。
 この飛行機の中で偶然山村さん率いるEグループと巡り合い、「インターネットで桃源倶楽部のことも知っているので、是非タイ族民家に同行させて呉れ」と言うので、この日から行動を共にする事に成りました。下の中段の写真の左端が山村さんです。

 Dグループ(1人ですが)の唐華英さん(下の上段の写真の右端)も空港で合流し総勢10人と成りました。そして宿舎の版納賓館 -当時の西双版納の定宿- にチェックインした後、[2002年雲南桃源旅行・番外編]の主人公のプ・リャンスオ(浦良鎖)、桃源ハウスの住人ヘ・チャンリ(賀長利)、通訳の李文革君の案内で外に繰り出し、皆で前祝いをしました。
 右から唐さん、小池さん、プ・リャンスオ、松岡さん、そして写真を跨いで中川さん夫妻です。
 盛り上がってますね。
 ところでプ・リャンスオは何飲んでるの?、えっ、コーラ(??)...(>_<)。


 左から山村さん、小渕夫妻です。山村グループとはお互いに自己紹介をしました。彼女等は川崎から来られたそうです。前祝いの乾杯で明日から仲良く遣れるというものです。
 背景には外の夜景も見えて居ます。この3枚の写真は20:20頃撮りました。
 

 プ・リャンスオは20:45頃席を外しましたが21:00頃にプ・リャンスオの奥さんを連れて戻って来たので、プ・リャンスオ夫妻を交えて撮ったのが下の写真です(←この写真を撮ったのは小池さんです、21:00頃)。

 右から北山塞翁、唐さん、夫妻、松岡さんです。
 ?、何か変だぞ、??。上段の写真と右の写真を比べて下さい。僅か15分位の間にプ・リャンスオはグレイのチェックの”よれよれ”のシャツ(上段の写真を見よ!)からブルーの”しゃん”としたシャツに着替えて居ます、これは魂消た!

 この日は塞翁と松岡さんは桃源ハウスに泊まります。塞翁は久し振りに自分のマンションに泊まるのです、嬉しいでしょうね。しかし、この夜桃源ハウスでは予期して無かった事が持ち上がるのです。それについては[2002年雲南桃源旅行・番外編]に纏めて在りますので「番外編」を是非ご覧下さい!!

 ■10月22日(第1日目)


小池さんの写真3:プ・リャンスオが案内したタイ族の村長の家。 さて22日の朝、プ・リャンスオは版納賓館からマイクロバスと公安の車(=パトカー)を1台借り自分で運転して来たのには驚きました。プ・リャンスオ、貴方は一体何者?
 プ・リャンスオにはこういう時に働く”子分”が居ます。それで嘎洒鎮の村長の家(左の写真)に我々を案内しましたが、ここは目的の楓村の家では無かったのです。ま、プ・リャンスオの思惑が有ったのでしょう。プ・リャンスオとパトカーはここで帰り、以後は通訳の李君が同行します。
 ところで左の家は高床が特徴で、一見2階建てに見えますが床上の住居部分は1階だけの平屋です。高床は目測で1.7m位でしょうか。
写真1:村の建て替え計画地図。
 しかし、この村長中々商売上手で娘2人にお茶を淹れさせ、何とか我々を引き留めようとするので、取り敢えずはここで休憩することにし、近所の寺を案内して貰ったり、村の現状を色々と話して貰いました。
 それに拠ると、一昔前迄は高床でブタや鶏の飼っていたが、ここは30数戸の集落で庭先が汚れるので最近では高床でブタは飼って無く、村の各家も古く成っているので近々区画整理をして家々を近代的な建物(=レンガ造り)に建て替える計画だ、と言って地図(右上の写真)を広げて説明して呉れました。伝統的な高床式住居は段々無くなって行く趨勢に在ります。
写真1-1:ヒメキトンボ。
 そう言えば、余談ですが私が初めて景洪市を訪れた1999年、市内を輪タク(←2人乗りの座席を自転車を漕いで運ぶ)が走っていて、珍しかったので良く乗り回したものでしたが、これも今は走って居ません。年々近代化して行って居ます。
 私はお茶を戴いた後、家の周りの南国的な花やトンボを撮影したりしました。右は多分ヒメキトンボです、ほぼ実物大。
 

 左下は如何にも南国的なハイビスカスの花です(←「中国名花集」参照)。
 右下がこの辺りで良く栽培して居るポン柑(※3)です。
写真3:ポン柑。

 左下は地鶏(※4)です、旨そうですね、ゴックン!
 この辺りでは良く鶏と犬を飼っていてブタは見掛けませんでした、さっき村長さんの言った通りです。
 右下の写真が村の寺です。タイ族仏教(小乗仏教上座部仏教(※5、※5-1)の信仰が厚く、村には必ずが在ります
写真4:地鶏。写真4-1:村の寺。

 左下が村長自慢の娘さん姉妹(手前が姉)で我々を寺に案内して呉れました。
 右下は寺の庭に鮮やかに咲いて居たヘリコニア・ロストラタです。バショウ科ヘリコニア属で熱帯地方の植物です。詳しくは「中国名花集」をご覧下さい。
写真5:村長自慢の娘さん。写真6:鮮やかな植物。


    ◆垣間見せる仏教以前の土着の信仰

写真7:寺の入口のお供え物。写真8:木組みの依代(よりしろ)のようなもの。 寺の入口にはお供え物が在り(左の写真)、仏教以前の土着の信仰を垣間見せている様です。
 ところで供え物の中に(ちまき、※7)が見えます。粽と言うと日本では「端午の節句」の食べ物と思われて居ますが、タイ族は粽を日常食(後述)にして居ます。
 又、右の写真は寺に入って仏像(左下の写真)の傍に在った、木を組み合わせた何かのお呪いか或いは日本の神の依代(よりしろ)(※8)の様な仏教以前の土着の信仰を思わせるものが在ります。
 先程の寺の入口のお供え物(左上の写真)などもそうですね。供え物は村の入口や出口(所謂、村の結界)、或いは村の中心とされる所にも有り、彼等の信仰の原点を垣間見せて居ます。


写真9:仏像。 寺の中には金色に輝く仏像(左の写真)が安置され天井から帯状の布が沢山ぶら下がって居ます。何処かエキゾティックですね。
 右下の写真は寺に隣接する墓地で、仏塔と犬小屋の様な格好をした墓が見えます。因みにこの辺りは土葬です。
写真10:墓地。

 [ちょっと一言]方向指示(次) 土葬は私(私は戦後生まれ)の田舎(山梨)で経験して居ます。私が小学校3年頃に田舎の本家のお爺さんが亡くなり私の家族も横浜から葬儀に駆け付けました。雨がじとじと降る中を山の中の狭い道を3、40分も歩いて行きました。墓に着いたら既に2m位の穴が掘ってあり遺体を棺桶に入れた後、皆でスコップに1杯ずつ土を掛け埋葬しました。何しろ本家のお爺さんですから参列者も多かったのです。私はスコップが重く誰かに手伝って貰いました。帰りの山道で高校生位の親戚に「土葬すると人魂(ひとだま)(※9、※9-1)が出るずら。見たいか?」と言われ、ぞっとしましたが、又同時に「人魂を見てみたい」とも思いました。しかし私は人魂もUFOも見た事が有りません。御蔭で私は無神論者に成りました。あの当時の記憶は段々薄らいで行きますが、この日の事ははっきり覚えて居ます。

                (*_@)



 寺から帰る途中に小さな竹林が在りました。筍(たけのこ)を取った様な跡が有りました。
 右はタマリンド(※10)で、砂糖と共に清涼飲料やシャーベット、ジャム、酒にも利用されます。ヒンドゥー教や仏教では聖木として扱われ家具などの材料として使われる他、街路樹としても利用されます。雲南省では良くタマリンドの街路樹を見掛けます。

 村長とその娘さんは左下の写真の様に再びお茶を淹れて呉れました。そして村長曰く「もう昼食の準備をして仕舞った」と言うので、到頭ここで昼食をご馳走に為る事に成り(中々商売上手です)、村長の家の隣の家(村の会計さん)に上がったら、右下の写真の様にお婆さんが糸を紡いで居ました。しかし、この糸車(※11、※11-1)はスゴイ!
写真11:私たちを接待する村長と娘さん。写真12:糸を紡ぐお婆さん。
小池さんの写4:昼食のオカズ。
 そして右が昼食のオカズ。大きいフナの様な焼き魚、ウリ、ナタネの茎の炒め物、カボチャの葉のスープなどです。ウリは何も味付けは無く、辛くて酸っぱい物(←後で山村さんが解説して居る竹の子味噌です)をミソの様に付けて食べます。これは酒(焼酎)のアテにグー。どうやら『地球の歩き方』でスパイスと称しているのがこれです(△1のp113)。日本と同じ様にこれらのオカズでご飯を食べました。

                (^o^)


写真13:バイクタクシーの運転手に早替わりした村長の娘さん。 さて、すっかりご馳走に為った後、前述の様にここが本来の目的地では無いので、我々は隣村へ移動すると言ったのです。ところが、ここの村長さん「ナニワの商人(あきんど)も顔負け」の商売上手ですね、もう夕食と宿泊の準備もして仕舞ったと言うではありませんか、「かなわんなあ、もう」、負けました、仕方無く我々はここと、当初目的の玉さん一家に分宿することにしました。そして中川夫妻、我々食み出しトリオ、塞翁、そして李君が移動する事に成りました。
 移動はバイクタクシーです。村長に呼んで貰ったら忽ち5、6人が集まり、何と村長の娘さん(姉)も運転手に早替わりです(左の写真)、後ろに乗っているのは塞翁です!
 「中国名花集」にも載って居ます。

写真14:嗄酒(ガサ)地区の目的の民家。 こうして、この日の夕方に椰子の木の生る嘎洒鎮曼弄楓村の玉さん一家に着きました(左の写真の家、写っているのは通訳の李君)。李君は律儀に我々が着くのを待って居たのです。
 門の有る立派な家です。2年前に調査に訪れた中川さんに確認して貰い、確かにここだとのことです。中川さんは2年前に撮った玉さん一家の写真を手渡したりしました。


 ところで、これも高床式住居(※2)です。左上の写真で家の下部が黒く成っている部分が高床なのです、約1.8m位有ります。
 それを解り易くする為に高床の内部から写したのが右の写真で、使用人が外で薪割りしてる所を撮りました。昔は高床の下でブタや鶏を飼って居ましたが、この地方ではブタは飼うのを止めたと先程の村長さんが言って居ました。
 


写真15:バイクタクシーでホテルに帰る中川夫妻。
 中川さんは役目を終えバイクタクシーで、奥さんと一緒にホテルに帰りました(右の写真)。又、塞翁も元の村に引き返して行きましたので、この日こちらに泊まるのは我々「食み出しトリオ」と通訳の李君、あちらの家に泊まるのが塞翁、唐さん、そして山村グループです。
 

    ◆西双版納(シーサンパンナ)の田園風景

 ここ嘎洒鎮曼弄楓村は景洪市の南側に回り込んだ所に在り、この家の近くの田圃からは下の写真の様に景洪市の市街地と市のシンボルの西双版納大橋が小さく見えて居ます(下の写真と拡大写真)。実は現在、景洪には古くから在る景洪大橋(△2のp72)と99年に出来た西双版納大橋の2つの大きな橋が在ります。因みに塞翁が雲南に居られた頃は大橋は景洪大橋のみで代わりに吊橋竹橋が在りました(△2のp82~83)。
 この田園風景は好いですね、稲穂が撓(たわわ)に実っていて豊かな風景だと思います。西双版納の春の水田の目に滲みる様な緑色も印象的でしたが、この風景も忘れられません。西双版納(シーサンパンナ)の謂れに在る「西双版納」の語源がタイ語の「田の在る12の村」という話が充分に納得出来ます。兎に角、西双版納の田園風景はとても印象的です。
                 西双版納大橋→拡大
                   ↓
写真16:嗄酒(ガサ)地区の田園風景。遠くに景洪市が見える。

 ここは熱帯湿潤気候地帯なのです。10月後半とは言え、気候は日本の真夏の様で、しかも非常に湿度が高く海抜が低い(=海抜500m位)ので「蒸し暑い」のです。ですから上の田圃の写真だけ見ると日本の秋の様に見えて仕舞うのですが、気候は真夏。写真を撮りにここ迄10分位外に出ただけで、陽光に照らされもう汗だくでした。→実はこのページの背景画はこの田園風景なのです。


 この田圃の畦道を通って行くと、街迄バイクで20分位だそうです、直線距離では街と近いのです。右がこの家の裏に在る畔道で、近所の子供たちが集まって遊んで居ます。この田圃にも日本の赤トンボやムギワラトンボ(=シオカラトンボの♀)に似たトンボ(→後出)が飛んで居ました。
 ところで嘎洒鎮には空港が在ると「はじめに」に書きましたが、この民家が在る曼弄楓村からは飛行機の音は聞こえず、田舎ののんびりした雰囲気その儘です。

 それぞれ散歩とか昼寝とかで時を過ごし夕食、と言っても特別な料理では無く彼等が何時も食べて居る、言わば「普段着の」食事です、それが我々の望む所でもありました。
小池さんの写真5:夕食。写真18:左からご主人夫婦と村長。
 食事は2階(←実は1階。1.8m位の高床(※2)なので2階の様な感じがして仕舞います。)の居間で家の人と一緒に戴きます。左上の写真の様にオカズは野菜が中心。糖尿病でお悩みの方はこういう所で暮らすと良いですよ!
 右上の写真ですが、左からこの家のご主人奥さん、そしてこの村の村長さんです。

 [ちょっと一言]方向指示(次) 戦後間も無い頃の木造建築は殆ど「縁の下」(※2-1)が在りました。私の家も戦後直後に建てたと聞いて居ますが、縁側(※2-2)というのが在りその下が「縁の下」で、私の家の縁側は高さが60cm位 -日本建築なので2尺か(1尺は30.3cm)- 有り縁側の上がり口には高さ30cm位の踏石が在りました。実はこの「縁の下」が高床建築の名残なのです(日本の戦後建築の高床はタイ族の高床より大分低いですが)。子供の頃良く覚えているのは、毎日「縁の下」に潜って遊んだ事、又「縁の下」でを飼い玉子を産ませて食べた事、又縁側で近所の子供たちと将棋を指して遊んだ事です。この鶏を飼ってた事などタイ族が高床で鶏や豚を飼うのと全く同じです。今では地ベタと10cm位の段差の”低床建築”ばかりで「縁の下」の在る家など田舎の古い農家に行かないと見られません。「縁の下」を知らない子供たちには「縁の下の力持ち」(※2-3)という言葉が虚しく響きます

 食後地酒(タイの焼酎)を飲み乍ら、タイ族では伝統的に「婿入り婚」(日本も昔はそうだった)で、ここのご主人もそうだ、という話をして呉れました。つまり母系性家族制度なのです。

 [ちょっと一言]方向指示(次) 今の日本人はこういう伝統的な事に無知で生半可にテレビなどに洗脳されて、日本やアジアは男尊女卑だと思い込まされて形式的な男女平等観を振り翳す人が多いので、困ったものです。タイ族では伝統的に女が家と土地と血筋を守り、男は労働力として他人の家に入るのです。しかし家では男(=婿)が”主人”であり、女(=家の主)は男を立てる訳です。この日も奥さんがタイ式に我々に酒を注いで呉れましたが、タイ族の女性は客を持て成す時は膝を着いてしなやかに酌をし自分は決して飲まない、と話して呉れました。こういう伝統は決して男尊女卑でも無ければ女尊男卑でも無いのです、昔からの積み重ねであり、これこそが無形の文化遺産なのだ、と私は思って居ます。

 尚、タイ族の支族のトン族(侗族)も同系統の民族ですので参考に成ると思います。トン族については
  2002年・三江のトン族を訪ねて(Dong zu of Sanjiang, China, 2002)

をご覧下さい。

                (*_@)

 食後も酒を飲み乍ら色々な話を聴きました。この村は約130戸、450人位の人口だそうです。この村でももう高床でブタは飼って無いとのことです。
 ご主人は2001年に共産党に入党したそうです。多分村の役員か何かに成る準備でしょう。この家の娘さんは2人共大学を出ているそうで、そんな家はこの村でここだけなのだそうです。家も門が有って近所の中では立派です、玉さん一家はこの村の名士なのかも知れません。そしてエライさんに成る為には、共産党に入党する必要が有るのです。

 さて、この居間の奥が寝室なのですが、寝室の中には決して他人を入れないという話です。又、この家にも長寿のお爺さんとお婆さんが居るのですが、寝室の一番奥の一番静かな所にはお爺さんとお婆さんが寝て、真ん中がご主人と奥さん、そして居間の出入口に一番近い所が子供たちだそうで、間仕切りなど無いそうです。
 はて、困った。酒の勢いも手伝って、我々「食み出しトリオ」はここで本領を発揮!
 つまりその、筒抜けの寝室でご主人夫婦は如何にして所謂一つの「夫婦の営み」をイタすのか?、その際子供たちに気付かれないのか?、という大問題に斬り込んだのですが、この肝心な所で通訳の李君が通訳拒否(←彼は若干堅物です)の態度を示し、結局ウヤムヤ(ご主人はニヤニヤ)、宿題を残す結果と成りました!
 という様な訳で夜も更け寝ることにします。我々の寝床は同じ居間に布団を並べて雑魚寝(ざこね)です。左下が蒲団を敷く前で、扇風機蚊帳(かや)(※12)が見えて居ます。右下がその寝床の前でご主人夫婦を囲んで撮ったものです、何っ、布団が見えない?、そうです、バックのピンク色をしたのが蚊帳(かや)で、布団はその中。懐かしいですねえ、日本と遠く離れて居ても、文化の繋がりが有るんだな、と実感しました。えっ、蚊帳を知らない?、お父さんかお母さんに聞いて下さい。

 扇風機 蚊帳
  ↓   ↓
小池さんの写真6:蒲団を敷く前。小池さんの写真6-1:我々の寝床。蚊帳が吊ってあります。
 夜も日本の夏と同じ様に蒸し暑かったですね、実際には蚊は居ませんでしたが、何しろ南方の蚊はマラリア(※6~※6-2)を媒介する種が居ますから、気を付けないと行けません。
 それではお休み為さ~い、ア~ァ。

                (~_~)...

 ■10月23日(第2日目)

 さて第2日目の朝ですが、安眠を妨害するヤツが居ました、それは地鶏(前出)ですね。これが朝早く未だ暗い内から鳴き出し、1羽が鳴くともうダメ、後は近所中の鶏がコケコッコーと遣り出して眠って居られません。仕方無く暗い内から起き出したらこの家のご主人がゴムの樹液採りに出掛ける所でした。未だ4時前です。そう、こちらの生活習慣ではこれが正しいのです!
小池さんの写真7:トイレ。 こんなに早く起きても遣る事が無いので、取り敢えずトイレに行きました、懐中電灯を持って。右がトイレの写真。♂用と♀用ではありません。♂も♀も共通、右側がトイレで穴が空いて居るだけの便器(勿論跨いでしゃがむ式)が1つ在るだけで、脇に水の入ったバケツと柄杓が置いて在って、用を足した後、柄杓で水を流す方式で、言わば手動式水洗トイレという訳です。左側は井戸で水が無くなったら左側の所のポンプ式井戸からバケツに水を汲むのです。紙は自分で持参。
 あ、そうそう、実はトイレの中に紙を容器に入れて在るんですが、私は持参した紙(=ポケットティッシュ)が少なかったので、思わずこれを拝借しようとしたら、ウヘッ、これ使用済みの紙ではありませんか、暗いから判りませんよね、危ない所でした。そして新たな疑問が湧いて来たのです。アレッ?、私は使用した紙は便器の中に捨て固形物と一緒に流して仕舞ったのですが、現地の人は流さずこの容器に捨てているのですね、そうか、このトイレの肥(こえ)はじわじわと溜池に流れ出し...、そうですね、環境を汚染しない為なんですね。
 もう一つ、ここのトイレの入口には布で中が隠せる様に成っていて、入口にこの布が掛かっていたら使用中と、外からも判る仕掛けです。が、もうここ迄来たらしませんよ、そんなメンドウな事、女性陣はどうだか知りませんが!

 ところで昼間食べたあのフナみたいな魚は、その溜池みたいな所(右の写真)に泳いで居て

       → <人>
     ↑     ↓
    川や池 ← トイレ


という「人と魚とトイレの仲良しサイクル」が”非常に近場”で完結して居る様です...。ウーッ、これ以上考えると便器に落ちそう!
 

 然う斯うして居る内に夜も明けて来て朝食と成りました。朝食は至って質素。どうやら朝はバナナが主体の様で、バナナそのまんまのやつと、バナナの入った薄焼きパン(インドのナンの様なもの)がメイン、後は若干の野菜等でした。私はこの薄焼きパンが甘くて口に合わなかったので奥さんに -雲南名物の米線(ビーセン)(※13)- を作って貰い食べました。
写真19:ゴム樹液の集配所。 朝食の後、散歩して居たらゴムの樹液の集配所に出くわしました。左の写真のバケツに入って白く見えるのが樹液です。青年(少年?)の後ろに楕円形に見えるのがタンクローリーです。昨日バイクタクシーに乗ってこちらに来る時、やけにタンクローリー車(と言っても日本のとは違い、焼き玉エンジンでポンポンポンと鳴らして走るあれです)と擦れ違うので、何かな?、と思っていた疑問がこれで解決しました。昨夜の「大問題」は未解決ですが、アッハッハ。
 昨夜のご主人の話では、この辺りでは食べる物は殆どが自給自足(つまりお金が要らない)で、殆ど唯一の換金作物がゴムだそうです。ここの家のご主人もゴム山を持っていて朝早く(4時前)からゴム山に出掛けて行きます。ゴムは即日お金に換金されるそうで、1バレル何ぼかは知りませんが、ご主人で年間4万元(この頃のレートで1万円=630元位ですから、約63万円)と仰って居ました。皆さんこの数字良く覚えて置いて下さいね。
 ところで、隣村分宿組の昨夜から今朝に掛けての様子が判りましたので、それをここに挿入することにしましょう。この日隣村に分宿したのは塞翁、唐さん、そして山村グループです、以下は山村さん(ペンネームはミドリコ)の報告です。

    ◆10月22日夕方~23日朝までの分宿組の様子
       (ミドリコさんの日記より)

 【10月22日夕食】
 椅子も竹テーブルも竹ジュータンも竹垣根も竹台所用品も竹、かまどは木をもやしトイレは村に一つ、共有。トイレの後に池が...トイレと池はきってもきれぬなかでした。
 夕食準備、することもなく見ている、野菜は畑からとってきたもの、なす・きゅうり・とまと・たけのこ・いんげん...。魚は村の養殖池から、まさか、村の共同便所に直結の池からのものではないと思うけど。にわとりは庭をかけずりまわっているものが、正真正銘の産直で、生きたまま台所に、これからつぶすという、う~~ん、思いきって見ることに。頚動脈を切って、失血死、血は茶碗の中に、死んだはずのにわとりは竹籠の中に、ヤレヤレ。卒倒することなくみとどけた。と、おもったら、籠の中で断末魔のバタバタ、一目散に退散。この鶏のスープ、鶏の味が濃厚にでていてすこぶる美味。香菜(※6-3)ともピッタリの相性、でもいけません、一番上ににわとりの頭が、白目をつぶって鎮座してます。これを客人にと勧められたら一大事、先手必勝で書記さんにお薦めする。まだこりずにかき回すと、黒々とした鶏の足がレンゲに乗ってしまった。もう、止めにした、鶏を食べようとするのは。(←あの、すいません、エルニーニョです、ちょっと割り込ませて貰いますが、そちらの食事の方が断然よかったですね、羨ましい!、鶏スープ飲みたい!!
 夜は、この二役に書記夫婦も参集、村の三役(村長・会計・書記)が一同にかいしての歓迎の夕食となる。この書記さん、酔うほどに、今夜の料理はうまくないと、辛くないからうまくない、としきりにのたまう。いつもはもっと辛いそうだ。試しに、かれらがつけて食べている辛味調味料を舐めて見たが、辛いのなんの、味がぜんぜんわからないほど。炒菜数種・豚肉・鶏肉スープ三種と、食べきれないほどの料理が、テーブルに盛り上げられている。料理にも「たけのこ」は重要な一角をしめている。スープといわず、炒菜はあたりまえ、珍しいのは、ゆでた野菜や生のきゅうりをつけてたべる調味料、日本で言うならさしづめ金山寺味噌、新鮮な筍をすりおろし、塩を振って五日間放置、日中30℃を超す真夏日、5日もたてば醗酵して くる。これに香菜をどっさり入れて出来上がり、名前は不明だが。わたしはかってに竹の子味噌と命名、ビールのあてに、生きゅうりにこれをつけながらいただくのもなかなかおつなもの。夜9時になると村の広場で、タイ式盆踊り、裸電球一つの明かりの下、村の女の人2、30人が 踊ってくれる。タイ族の衣装で、昼間着ていたのとはちがいあでやか、裸電球のあかりでも充分に華やかさがつたわってくる。しきりに輪にはいれと誘われる。わたしのもっとも不得意分野の「歌舞音曲」、ここまで来たらそんな寝言はいってられません。重いカメラバッグを肩から提げながら、二巡・三巡、毎回手振り、足つき、腰の振り、が変わるきわめてややこしい踊り。わたしはインドネシア人でもインド人でもないんだぞ!、とぼやきつつも、相方の困ったような顔、後の女のこの笑いころげんばかりのようすを見つつ、わたしも笑いをさそわれていた。夜は、高床式の二階(←実は1階)で、おやすみなさい。涼しい薄いふとんをかけて休む。午後の蒸し暑さをすっかり忘れさせてくれる。

 【10月23日朝】
 隣村に移動、トラクターに乗って。ガタガタ道、チベットのギャンツェで乗ったトラクターを思い出す。高山病の頭痛をかかえて、トラクターは揺れるたびに頭を締め付けられんばかり。
 ギャーギャー騒ぎながら乗っていた途中、地平線に景洪の街並みが見渡せる。着いたところは昨日の村より規模が大きそう。村の入口に、数人の商いながら市がある。家の造りは高床式で同じだが、ここではトイレ・シャワールームが庭の片隅にある。

 ということで、我々は散歩をして時間を潰し、昨夜隣村に分宿した人たちの到着を待ち、10時半頃到着と相成りました。ところでミドリコさんの話に出て来る筍はあの竹林で取ったものなのでしょうか?...。

写真20:子供たちに風船をプレゼントする北山塞翁。 昼休みに近所の子供たちが帰って来たので、塞翁は早速日本から持参のジェット風船を実演し子供たちにプレゼントしました(右の写真)。ジェット風船とは阪神タイガース・ファンが「六甲颪」を歌って飛ばすアレです。塞翁は子供には何時もジェット風船を配って居ましたね、雲南桃源旅行には日本から色々な色を取り揃え100~200個位持って行きました。私は今回の桃源旅行で塞翁とホテルで同室に成って塞翁の荷物を整理しましたので良く知ってます。
 因みに雲南では、ここだけで無く、小学校の児童は昼食を食べに帰宅するのです。そして昼食後再び学校に行きます。


写真21:この辺りに多いトンボ。
 午後はそれぞれ昼寝をしたり散歩をしたり、私は又トンボの写真を撮る為に散歩に出掛け、その成果が有りました。左は西双版納で最もポピュラーなトンボで名前はハラボソトンボ(腹細蜻蛉)です(ほぼ実物大)。

 尚、ここで撮影したトンボは「私の昆虫アルバム・外国編」というページに別に纏めて在りますので、トンボに興味が有る方はそちらを参照して下さい、私が何故トンボに拘泥るのかも解りますよ!

 さて第1日目の章でも述べたのですが、こちらは大変蒸し暑く、特に昼はじっとして居ても汗が出て来ますので、もう全員汗だく、体はベトベト状態です。シャワーを浴びたかったら、先程のトイレの隣の井戸からバケツに水を汲んで頭から被るしか無いので、誰も水浴びもして居ません。そこでバイクタクシーで30分位の嘎洒鎮中心街の温泉に出掛けることにしました。温泉に行く途中、飛行機の音が近くでしたのでそちらを見ると着陸態勢に入っている旅客機が真上を通過して行きました、ここは西双版納空港が近いのです!
 下がその温泉で、「成人二元、兒童一元」(大人2元、子供1元)と書いて在りました。日本の様にスッ裸には成りません。これは女湯ですゾ、\(^O^)/。
写真22:嗄酒鎮の温泉場の女湯。


写真23:嗄酒鎮の温泉場の男湯。
 左が男湯。我々「食み出しトリオ」がパンツを穿いた儘入っている所を塞翁に撮って貰ったものです。気持ちよさそうでしょ、ところがこれ、見ると入るは大違い!
 湯温は丁度好いのですが、こちらの人は湯舟の回りで体を洗い下着の洗濯をします、別にするのは一向に構わないのですが。その洗った汚水をこの湯舟に流し込むんですワ、これどういう神経してるんでしょうかね、ったく。ま、しかし、これが現地体験の真髄ですから、腹を括りましたね、人間諦めが肝心ですゾ!
 ま、何だ彼んだ有りましたが、入ってる時は気持ち悪かったんですが、出たらさっぱりしましたね、やっぱ!

写真24:台所。 温泉場から無事バイクタクシーで帰ったら奥さんと長女が夕食の仕度をして居ました。右の写真がこの家の台所。こちらを向いて居るのが奥さんで、後ろ向きなのが長女です。このお嬢さんは景洪市のテレビ局のタイ語放送のキャスターです。何時も夜バイクで出掛け朝の8時頃帰宅します。奥さんの後ろに大きな電気冷蔵庫が見えるでしょ、ここにはカラーテレビも在ります。電話も在り、意外と電化されてます。
 電気冷蔵庫が村の全ての家に在る訳では無いのですが、電化の勢いは急速で、文明の波は津波の如くです。だって街が目に見える所に在るんですからねえ、無理も有りません。この辺りの子供が大きく成る頃は皆家で農業をし乍ら、街にサラリーマンしに通う様に成ると思います。これって日本の滋賀県辺りと同じってことですね。

写真25:夕食。 ところで、こう遣ってドンドン電化して行ってるんですが、風呂が無いんですよね、銭湯も無い。さっきみたいに温泉に入るのも近場の人だけで、我々みたいに出掛けて行く人は居ませんね。10月後半でこれだけ蒸し暑いのに、一つはここの人は汗を掻かないですね、そして二つ目には風呂に入らない。私は事有る毎に「文化の固有性」について言及して居ますが、こう見て来ると日本人の風呂好きは、可なり日本人固有の文化ではないかと思えて来ます。
 さて、愈々夕食、野菜中心で大体昨日と同じ(右上の写真)。好いんですよ、普段着の生活を体験しに来たんですから!


写真26:皆の食事風景。


 その後、分宿組が合流して来て、この日の夜はとっても賑やかに成りました(右の写真)。
写真27:地酒で乾杯。
 食事中もビールや地酒(=強い焼酎)を飲みましたが、私は食事が終わって更に地酒に専念しました(他の日本人が余り飲まなかったので)。
 左の写真はこの家のご主人と塞翁が中国式の乾杯、つまり焼酎を小さな猪口に注ぎ、お互いに一気に飲み干し、空いたら又注ぎ飲み干す...というタフな儀式です。先生大丈夫かな、と覗き込んで居るのが唐さんです。
 唐さんは上海人でシャイですから、この人、最初は中々食べ物を口にしませんでした(昨日の昼食のこと)。
 この後この乾杯のオハチがこちらに回って来たので、私は一気に飲まず、ご主人に「チビチビ、チビチビ」と日本語で言って、チビチビ遣りました。
 その後、この家のご主人は色々な生活用具を持ち出して、ジェスチャーで実演して見せて呉れました。左下は餅を搗く臼と杵です。実はタイ族はモチ米文化(糯米)で、粽(※7)などにして日常的にモチ米を食べるのです。この臼と杵は昔の日本にも在りました。
 右下がこの家のお婆さん塞翁です。
写真28:臼と杵。写真29:お婆さんが臼と杵で餅搗きの仕草。


写真30;魚を採る道具を調整するご主人。写真31:魚を入れる籠。

 左が川魚を採る竹製の捕獲網と採れた魚を入れる竹籠を用意するご主人。



 右はその竹籠を担ぐ小池さん。
写真32:魚を採るジェスチュアをするご主人。
 左が竹製の捕獲網で川魚を採るジェスチャーを実演して呉れる奥さんで、この夜はタイ族の人々の生活を知る大変好い機会でした。
 

 さてこの夜の最後はタイ族の女性が着るドレスを出して来て、山村さん(左下)と唐さん(右下)が着てみました。山村さんは少し苦しそうですね、唐さんは昔京劇に所属したことが有るらしく科(しな)を作りポーズを決めて居て、それを奥さんが陰から見て居ます。
写真33:民族服を試着する山村さん。写真34:民族服を試着する唐さん。
 ということで、とても楽しい一夜でした。又、この日は女性が居たので昨夜の宿題はお預け、アッハッハ。

        (~o~)

 さて、寝る前に会計の話。我々の滞在費は100[元/1人1日]です。これは中川さんが以前調査に来た時の値段です。一万円=630元として1元=15.9円=約16円とすると、例えば私は2泊で200元=3200円で、「安いやないか」と為るのですが、それは為替格差の所為なのです。この家の2日間の収入は
  1日目=4人=400元
  2日目=9人=900元
で、計1300元です。
 ところで先程この家の現金収入は年間で4万元と書きました。ということは
  40000/1300=30.8=約30倍
です。つまり、この家は我々に「普段着の持て成し」を2日間しただけで、何と年収の1/30を、特別の労働をせずに得るのです。ここが外国旅行の難しい所ですね、日本人から見たら非常に安い金額が、現地の人から見たらベラボーなのです。初めに行った村の村長が何とかして我々を引き留めた訳が、これでお解り戴けたでしょう。
 貴方(貴女)がもしここの現地の人だったらどうします?、鶏の鳴く声と共に飛び起きて、でかいバケツ担いで山の中にゴムの樹液採りに行くのがアホらしく思えて来ませんか?
 私はケチで言っているのでは無く、我々のちょっとした行動が、現地の価格破壊を起こし、皆が先祖代々続けて来た家業のゴム栽培を止めて仕舞い、皆観光客相手の専業民宿に成って仕舞う、という事態が起こる可能性は充分有るのです。事実、日本の農村・漁村はそう遣って本来の家業を放棄して来たのです。
 ですから、私や、桃源倶楽部の少なくとも一緒に旅行して居るメンバーは、こういう為替格差の大きい地域では日本円では無く、現地の通貨を基準に考える様にして居ます。
 因って我々の会計担当の松岡さんは、日本人から見たら非常に安い金額ですが、値段交渉では甘い顔をせずにシビアに交渉しました。この辺に関し、良いアイデアや経験をお持ちの方は、このサイトのメールか掲示板でご連絡下さい。

                ¥¥¥

 ■10月24日 - 出発の朝

 2日間の思い出を胸に出発です。10月24日の朝食後、この家のお婆さんを中心に全員でテラスに出て記念撮影。小池さんが撮りました(撮影時刻は8:40頃、日本と中国は1時間の時差が在るので現地時刻は7:40頃です)。
 もう写真に写っている人は判りますね。後列左端がテレビ局から朝帰りしたばかりの長女(昨日の写真では後ろ向きだった人)ですが中々の美人です。長女は「中国名花集」に載ってます。
 ご主人はもう仕事(=ゴムの樹液採り)に出掛けて、ここには居ません。
   小池さんの写真8:出発の朝、全員で記念撮影。

 高床式の木造住宅で蚊帳を吊って寝る、私が子供時代もあれ程高くは無いですが高床式の家で蚊帳を吊って寝たので非常に懐かしかったですね。雲南のタイ族は文化の基層部分が日本と同じで外国なのに外国という感じが余り無く、自分がエトランジェ(異邦人)という事を意識せずに過ごせました、これって不思議な体験です。
 この家のご主人は8:00前に仕事から帰り、別れ際に私に大きな声で「チビチビ、チビチビ」と言って呉れました。玉さんご一家の皆さん、どうも有り難う!!

                m(_~_)m

 2日間の滞在でしたが非常に貴重な体験で面白かったですね。この後私たちはプ・リャンスオが手配した車で8:00過ぎに玉さんの家を後にして、一旦版納賓館に戻り荷物を置いて少し休み9:00頃市場に行きました。そして10:30頃プ・リャンスオの自宅に寄った後、11:00頃に其々のグループ毎に出発しました。
 即ち、桃源倶楽部の面々は庄洪路のプ・リャンスオの店に寄り、景洪市民病院に行きました。山村グループは西双版納を更にさ迷う旅を続けるそうです。

                (^o^)/

 ■結び - 解脱の前に真髄を究めよ

 諸般の事情からこのページの作成が遅れましたが、本編と既に公開して居る[2002年雲南桃源旅行・番外編]も是非お読み下さい。
 10月24日は「番外編」も含めて色々な事が起こります。私エルニーニョはこの日は一人で深夜の街を探検し面白いモノを発見しました。興味有る方は▼下▼をお読み下さい。
  2002年の景洪ナイト・フィーバー(Jinghong night fever, China, 2002)

 この後、私を含めた桃源倶楽部「食み出しトリオ」は”脱雲南”を目指し、更に「解脱の旅」を続けます。その旅の様子は既に
  2002年・”脱雲南”桃源紀行[2002年雲南桃源旅行・解脱編#1]

に纏めて在りますので、そちらをご覧下さい。但し、解脱編の中で「解脱雲南即知雲南」を説きましたが、「解脱の旅」はこのページで述べた雲南の真髄(=奥義)を究めた上で初めて達成可能と為る彼岸の境地です。この奥義を究めずして行き成り彼岸に飛び立とうとするのは外道(げどう)です。奥義を究めずして真の心の安住は在り得ませんよ!

 尚、[2002年雲南桃源旅行]シリーズの他画面への切り換えは最下行のページ・セレクタで行って下さい。(Please switch the page by page selector of the last-line.)

♪♪♪ おしまい ♪♪♪

【脚注】
※1:塞翁(さいおう)とは、(「塞」は北方の砦(とりで))辺境の砦(とりで)に住む翁。北の翁。→塞翁が馬。
※1-1:塞翁が馬(さいおうがうま)とは、[淮南子人間訓]塞翁の馬が逃げたが、北方の駿馬を率いて戻って来た。喜んでその馬に乗った息子は落馬して足を折ったが、為に戦士と成らず命長らえたという故事。人生は吉凶・禍福が予測出来ないことの譬え。塞翁失馬。

※1:高床(たかゆか)は、地面に柱を立て、高く張った床。弥生時代には倉庫にこの床が多く、この形式の建物を高床式と呼ぶ。日本では伊勢神宮や出雲大社などに、海外では東南アジアに広く見られタイ族の建築などが典型的。<出典:一部「学研新世紀ビジュアル百科辞典」より>
※2-1:縁の下(えんのした、inframarginality)は、縁側の床下。
※2-2:縁側/椽側(えんがわ、veranda, porch)は、日本家屋で、座敷の外側に沿う細長い板敷。縁(えん)。
※2-3:「縁の下の力持ち」とは、人の為に努力/苦労しても、認められない事。転じて、人に知られないが、陰で努力/苦労する事。又、その人。縁の下の舞。

※3:ポンカン(椪柑・凸柑)は、(ポンはインド西部の地名 Poona に依る)台湾・中国南部に産するミカン類の代表的品種。原産地はインド。日本では鹿児島県などで生産。花は白色、果実は冬に熟し、大形で扁球形又は球形。果皮は厚く、橙黄色。果肉は柔軟で、香気高く甘味が多い。

※4:地鳥/地鶏(じどり)は、[1].その土地の産の鳥。内地産の鳥。世間胸算用3「―の鴨」。
 [2].(「地鶏」とも書く)古くから各地で飼われている鶏の在来種。

※5:小乗[仏教](しょうじょう[ぶっきょう]、hinayana[梵])とは、〔仏〕(劣った乗物の意)衆生済度を忘れて自己の解脱だけを求める声聞や縁覚の立場を、大乗の立場から批判的に名付けたもの。←→大乗[仏教]
※5-1:上座部[仏教](じょうざぶ[ぶっきょう]、Theravada[パーリ語])とは、〔仏〕部派仏教の一派。仏滅後百年頃、仏教教団は保守的な上座部進歩的な大衆部に根本分裂し、後上座部は更に説一切有部(せついっさいうぶ)など多くの部派に分裂した。東南アジアに伝わる仏教(南伝仏教)はこの上座部の流れに属する。
 補足すると、上座部仏教とは即ち小乗仏教のことであるが、小乗とは大乗の立場から批判的に言ったものなので、上座部仏教と呼んだ方が良い。

※6:マラリア(malaria)は、ハマダラカの媒介するマラリア原虫の血球内寄生に因る伝染病。赤血球内で増殖・分裂して血球を破壊する時期に発熱。隔日に高熱を発する三日熱、最初の発作から2日平温が有って4日目に高熱を発する四日熱、及び不規則な熱帯熱(悪性マラリア)に分れる。瘧(おこり)。黒水熱。
※6-1:ハマダラカ(羽斑蚊・翅斑蚊、anopheles)は、ハエ目カ科ハマダラカ亜科の総称。翅に黒斑が有り、物に止まる時は後脚と腹部とを上げて体を斜めにする。はマラリア・バンクロフト糸状虫などを媒介する。アノフェレス(anopheles)。
※6-2:マラリア原虫(malaria protozoan)は、コクシジウム目の胞子虫(ほうしちゅう)類。マラリアの病原体。4種在ってそれぞれ起す症状が異なる。何れもハマダラカに因って伝染される。プラスモディウム。
※6-3:香菜/シャンツァイ/コリアンダー/コエンドロ(こうさい、xiangcai[中国], coriander, coentro[葡])は、セリ科の一年草。南ヨーロッパ原産の香味料/薬用植物。高さ30~60cm。茎・葉ともに特異な香気 -マラリアを媒介するハマダラカ(翅斑蚊)が嫌うと言う- が有り、カレー粉/クッキーなどに加える。葉は細裂した羽状複葉で、互生。夏、小白花を複散形花序に付ける。果実は小円形で、香味料、又は健胃/去痰(きょたん)薬。漢名、胡荽(こすい)。

※7:粽(ちまき)は、(古く(ちがや)の葉で巻いたから言う)端午の節句に食べる糯米粉・粳米粉・葛粉などで作った餅。長円錐形に固めて笹や真菰(まこも)などの葉で巻き、藺草(いぐさ)で縛って蒸したもの。中国では汨羅(ベキラ)に投身した屈原の忌日が5月5日なので、その姉が弟を弔う為に、当日餅を江に投じて虬竜(きゅうりょう)を祀ったのに始まると言う。伊勢物語「人のもとよりかざり―おこせたりする返事に」。

※8:依代・憑代(よりしろ)とは、神霊が招き寄せられて乗り移るもの。樹木・岩石・人形などの有体物で、これを神霊の代りとして祭る。形代(かたしろ)。

※9:人魂(ひとだま)は、[1].spirit of a dead person, will-o'-the-wisp, elf-fire。夜間に空中を浮遊する青白い火の玉。古来、死人の体から離れた魂と言われる。鬼火。万葉集16「―のさ青なる君がただ独り」。
 [2].流星の俗称。
※9-1:鬼火(おにび)とは、[1].火山などで、硫黄の燃える炎。伊豆風土記逸文「山岸の窟(いわや)の中に火焔(ほのお)隆(さか)りに発(おこ)りて…いたく燐(おにび)烈(ひか)る」。
 [2].will-o'-the-wisp, elf-fire。湿地に小雨の降る闇夜などに燃え出て、空中に浮遊する青火。燐化水素の燃焼との説が在るが、不明。陰火。幽霊火。狐火。火の玉。
 [3].出棺の時の門火(かどび)。

※10:タマリンド(tamarinde[蘭]、答満林度)は、マメ科の高木。中央アフリカ原産の薬用植物。実を清涼飲料・緩下剤に用いる。若い莢(さや)は食用。朝鮮藻玉(もだま)。

※11:糸車(いとぐるま、spinning wheel)は、繭・綿などから糸を紡ぎ出し、又、それを縒り合わせるのに用いる車。竹の紡錘(つむ)とから成る。紡ぎ車/紡車(ぼうしゃ)/糸繰車(いとくりぐるま)/糸縒車(いとよりぐるま)/糸取車とも。
※11-1:錘/紡錘(つむ)とは、[1].糸巻などの心棒。
 [2].糸を紡ぐ機械の付属具。太い針状の鉄棒で、これに管を差し込んで回転させ、撚(より)を掛け乍ら糸を巻くもの。緒巻(おまき)。

※12:蚊屋/蚊帳(かや)とは、蚊を防ぐ為に吊り下げて寝床を蔽うもの。麻布/絽(ろ)/木綿などで作る。かちょう。季語は夏。

※13:ビーフン(米粉)/ビーセン(米線)は、(福建南部・台湾での発音)粳米(うるちまい)を原料とした麺の一種。主に台湾・中国南部で食する。雲南地方ではビーセン(米線)と言う。

    (以上、出典は主に広辞苑です)

【参考文献】
△1:『地球の歩き方104 雲南・四川・貴州と少数民族 1999~2000年版』(「地球の歩き方」編集室、ダイヤモンド社)。

△2:『西双版納 -悠々ロングステイのすすめ-』(北山昌夫編著、三一書房)。

●関連リンク
参照ページ(Reference-Page):西双版納の謂れと地図▼
地図-中国・西双版納(Map of Xishuangbanna, -China-)
参照ページ(Reference-Page):中国の少数民族▼
資料-中国の55の少数民族(Chinese 55 ETHNIC MINORITIES)
補完ページ(Complementary):2002年”脱雲南”の旅▼
参照ページ(Reference-Page):「六甲おろし」の歌詞と由緒▼
エルニーニョの「六甲おろし(六甲颪)」(The Rokko-Oroshi)
2002年・”脱雲南”桃源紀行(Escape from Yunnan, China, 2002)
補完ページ(Complementary):タイ族の支族のトン族▼
2002年・三江のトン族を訪ねて(Dong zu of Sanjiang, China, 2002)
横顔(Profile):「雲南桃源倶楽部」について▼
雲南桃源倶楽部(Yunnan is Shangri-La)
昆明の狗肉スープや「人と魚とトイレの仲良しサイクル」▼
中国のヘビーなお食事-”食狗蛇蠍的!”(Chinese heavy meal)
嘎洒(ガサ)鎮曼弄楓村タイ族村で撮影したトンボについて▼
私の昆虫アルバム・外国編(My INSECTS album in foreign country)
西双版納の「野に咲く花」と「浮世の花」、バイクタクシーに乗る塞翁、
体験宿泊した玉さん一家の長女▼
中国名花集-花の写真館(Chinese Flowers)
粽(ちまき)を食べる日本の「端午の節句」について▼
2004年・鯉幟の町-加須市(Kazo and carp streamer, Saitama, 2004)
「神の依代」などの仏教以前の土着の信仰▼
2002年・パーリャン小学校視察の旅
(Report of Paliang's primary school, China, 2002)

ミドリコさん(=山村さん)が寄稿された旅行記▼
ミドリコの2000年・チベット旅日記
(Travel diary of Tibet by Midoriko, China, 2000)

「文化の固有性」について▼
世界遺産登録で本当に遺跡や文化が守られるのか?(World heritage)
2002年10月24日の景洪市の夜景▼
2002年の景洪ナイト・フィーバー(Jinghong night fever, China, 2002)
「雲南桃源倶楽部」(中川さんのサイト)や中国の少数民族について▼
外部サイトへ一発リンク!(External links '1-PATSU !')


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