2002年・三江のトン族を訪ねて
[2002年雲南桃源旅行・解脱編#2
(Dong zu of Sanjiang, China, 2002)

-- 2003.07.04 エルニーニョ深沢(ElNino Fukazawa)
2005.03.24 改訂

※注意:このページは写真が多く、読込みに時間が掛かります。
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 ■はじめに - 三江という所

 2002年雲南桃源旅行の続きとして、私は「雲南桃源倶楽部」の小池さん、松岡さんと”脱雲南”を目指し10月28日(月)の夕方、広西チワン族自治区の三江トン族自治県に向かいました。三江県は広西チワン族自治区の最北部、桂林の北西に位置する山間地で、北に湖南省、西に貴州省と接する”省境”の地です。ここには鼓楼や美しい橋の建築職人・トン族が多く住み、私たちの目的も彼等の建築群を見ることでした。

 私たちは小雨降る中、桂林から普通の路線バス(テレビ&エアコン付きで市内のバスよりはデラックス)に乗って国道321号を走り、天平山の峠を越えて行きました。途中三江県の斗江鎮でバスのタイヤがパンクして(右の写真)、桂林から約3時間の予定が4時間に成りましたが何とか三江県の県庁・古宜鎮に辿り着きました。それにしても路線バスは安い!、1人52元(約800円)です。
 尚、地図や「2002年雲南桃源旅行の後半(解脱編)」の旅程は▼下▼からどうぞ。
  地図-中国・桂林地方(Map of Guilin region, -China-)
  2002年・”脱雲南”桃源紀行(Escape from Yunnan, China, 2002)

 ここでは当ページで扱う部分の旅程のみを次に抜き出して置きます。「C」とはグループ構成で小池・松岡・私(=桃源倶楽部「食み出しトリオ」)の事です。

        ...<前半略>...
                 <宿泊>
 10/28(月) 広州 → 桂林  三江・風雨橋迎賓館  C-->「解脱編#2」の旅
   29(火) 三江→龍勝  → 桂林・興開賓館    C-->「解脱編#1」の旅
        ...<後半略>...


 今回は又「タフな心」を養う旅でもあります。

 ■三江県の古宜鎮 - 02年10月28日


写真0:三江古宜鎮の尋江に架かる橋。 初めて訪れた三江の街(=古宜鎮)は、中央を川幅200m位の尋江が南北に流れる鄙びた街、という印象でした。どんよりとした雨模様の中、私たちはバス・ターミナルでバスを降り、右の写真(小池さん撮影)の尋江に架かる三江大橋を渡り、先ずは対岸で”安い”宿を探すことにしました、リュックを担いで居るのが私です。
写真1-1:三江古宜鎮の宿泊ホテル前の様子。
 左の写真が対岸の古宜鎮の街の様子です。通りの右に「風雨橋迎賓館」と書いて在る赤い看板の建物が私たちが泊まったホテルです。

 左の写真はホテルのカウンターで、背後にホテル名に成っている風雨橋の模型が在ります。
写真1-2:古宜鎮「風雨橋迎賓館」の従業員。 赤い制服のトン族出身の2人の従業員は親切に鼓楼の在る村の様子などを教えて呉れました。彼女たちと色々と交渉の結果、ここのホテル代は

  120[元/3人](約1800[円/3人]
    =600[円/人])

に成りました。これは飽く迄交渉の結果ですよ、黙っていたらこの倍は掛かりまっせ。「”安い”宿を探す」とはつまり「宿を”安くさせる”」ことだったのです。「エジプトはナイルの賜」という格言が在りますが

  格言:「中国での価格は交渉力の賜」

なのです(※1)。因みに、この姉ちゃんたちを「中国名花集」に登録しました。{このリンクは05年3月24日に追加}

 中国語~?、解らん解らん、全て筆談と電卓(※2)。私たちは「タフな心」を養いに中国に来ているのですよ、アッハッハ。

 小雨が降り出し寒く成った夜は外の飯屋で、この辺りの名物の「火鍋」料理で温まって休み、翌日の風雨橋と鼓楼見物に備えました(右の写真)。御飯が見えてますがチャーハン(炒飯)です。旨かった、温まった!
 

 ■トン族について

 私はトン族(侗族、Dong zu)「鼓楼」(※3)については何かの本で読んで、一度はトン族の村を訪れたいと前から思って居ましたが、こんなに早く機会が来るとは思っても居ませんでした。それと言うのも現在55と言われて居る中国の少数民族の中でも、トン族は可なり独特の文化を持つ希少な民族の様に思えるからです。トン族の特徴と私がトン族について興味を抱いて居る点を列挙すると次の様に成ります(△1のp544他)。

 トン族(侗族)は貴州省と湖南省、広西チワン族自治区の省境に分布し、その人口は約250万人、タイ・ガタイ語族のカム・スイ語群に属する -中国ではチワン・トン語派、トン・スイ族に属すとされる- タイ族の支族です。古代百越の一つ「駱越」の後裔と言われ、漢族との接触が長かった為に独自の文字は持たず漢語を使用して居ます。
 ・木組みだけで作る鼓楼楼閣付き橋などの見事な建築
 ・民家は杭上家屋(=高床式家屋)(※4)
 ・日本にも「歌垣」(※5、※5-1)として伝わっている
    「行歌坐月」という習俗を今に残す
 ・大歌、小歌、叙事歌、礼俗歌などの歌謡が発達し、定期的に「歌会」が開催される
 ・ハーモニー感覚が発達し、歌は多声の合唱形式で唄われる
 ・結婚後も子供が生まれる迄は妻は実家で生活する「不落夫家」制
 ・水稲耕作油茶(※6)や林業に長じ、稲田で魚を養う
 ・モチ米文化(糯米)(※7)を有し、
    馴鮨や漬物などの発酵食品(※7-1、※7-2)を常食する
 ・精霊を信仰し、村落には女性の祖先神「薩丙」を祀る場所を有する


 [ちょっと一言]方向指示(次) 1.歌垣の習俗は日本でも万葉時代には存在して居ましたが、その後早くに廃れて仕舞いました。『万葉集』巻9-1757~59(△2のp884~885)を参照。
 2.歌を合唱形式の多声(=ポリフォニー)で唄うのはトン族だけで無くミャオ族ネパールから台湾の原住民、又、ニューギニアの原住民(△3のp245)などで可なり一般的ですが、日本や朝鮮は単声(=モノフォニー)です(△4のp86~89)。
 3.桂林を含む広西チワン族自治区も茶の産地で、雲南大葉種を原料とする緑茶が主体で、銘柄としては西山茶凌雲白毛茶桂林毛尖茶などが知られて居ます。
 4.薩丙は薩歳とも呼ばれ、トン族の”聖なる王母”としての始祖母であり且つ最高守護神で、薩丙を祀る祠を薩殿(或いは堂薩)と呼びます。薩殿は白石を円形に積み上げた白石堆の神壇の上に「半開きの黒紙傘」に置き、壇上の周囲に12又は24個の小白石堆又は椿の小木を等間隔に配置し、神壇の上には網状の剪紙を掛けたものです。薩殿は廟内安置と露天の場合が有り、前者の神壇は直径=1m位、後者は直径=3m位で、高さは直径の半分位です。薩丙の管理の為に登壇することを”登薩”と呼び、この役目は老女が行います。ケルン(cairn)の様な積石信仰黄道十二宮二十四節気の様な暦法(或いは方位)に関わる信仰を基底に、一つの小宇宙を象徴して居る様に思えますが、それにしても「半開きの黒紙傘」は謎です。


 タイ族(泰族/傣族)がモチ米文化 -中国国内に居るタイ族を傣族と書く- なのでタイ族の支族であるトン族のモチ好きは頷けます。そして日本人に未発達なハーモニー以外は、何れも古代の日本人と共通の生活様式が感じられ、特に歌垣や「油茶」として”茶を食べる”文化や発酵食品などはアジアの照葉樹林文化(※8~※8-2) -照葉樹林文化圏の図を参照- に根差したもので、興味が尽きません。

 ■三江県の風雨橋と鼓楼 - 02年10月29日

 (1)程陽風雨橋

 10月29日(火)、朝から雨がしとしと降り寒い1日でした。私たちは昨日のホテルの姉ちゃんにタクシーを呼んで貰い、遣って来たトン族の若い運ちゃんに「程陽風雨橋と馬胖鼓楼と龍勝の棚田巡り」でチャーターする旨を伝え早速値段交渉です。値段交渉は松岡さん、向こうも中々タフで最初は500元と言っていたのですが、結局3人で350元(約5500円)+昼飯に値切って決まり。因みに中国の旅では「値切るのが鉄則」と書いて在り、更に「値切りに値切って」と書いて在ります(△5のp297、△5-1のp344)。さあ決まれば出発です!

 先ず風雨橋に行く様に運ちゃんに言い、古宜鎮のホテルからほぼ北に向かい約1時間(約25km)で着きました。ここは三江トン族自治県程陽郷馬安寨、尋江の支流・林渓河に5層の楼閣を5つ備えた美しい外観の程陽風雨橋が架かって居ます(下の写真)。1916年建造で幅3.6m、長さ78m、手前の石の階段を上って橋を渡ります、但し有料(5[元/人])です。ご覧の様に水稲が黄色に実って居ます。
写真2:程陽風雨橋。

 ご覧の様に、石積みの橋脚の上に楼閣を備え楼閣間を屋根付きの橋廊で繋げた構造の橋をこの地方では「風雨橋」と呼びます。又、風雨橋や鼓楼に於ける楼閣の層数は必ず奇数にするのが建築上の決まり事です。更に秘められた特徴は釘を1本も使わず全て嵌め込み式の木組構造で、三江地方の建築材は地元の三江産の杉(=広葉杉、※9)が使われます。

 左下が橋廊内の通路の様子です(小池さん撮影)。通路の所々では土産物を売っていて、その中では竹製の(※10)という楽器に私は興味を引かれました。笙には後で再びお目に掛かる事に成ります。
 右下は風雨橋の楼閣内部の天井を見上げたものです。天井から人形の様な物が吊り下げられて居るのは、何かの御守りかお呪(まじな)いでしょうか?
写真2-1:程陽風雨橋の橋廊内の通路。写真3:程陽風雨橋の楼閣内部。

 左下は風雨橋の上からの眺めです。林渓河の向こうに収穫前の田圃が広がり、この辺りでは少し立派な民家が見えて居ます。実に長閑(のどか)な風景です。
写真4-1:程陽風雨橋からの眺め。
 トン族はこの様に川の流域に村落を作り、流域低地に水田を開墾し、低山斜面に、高い山にはなどを植え、を飼い水田でを養殖し、釘無しの家を自前で建て発酵食品地酒を造り、ほぼ”自給自足的生活”を営んで居ます。

 ここ馬安は非常に田舎染みた場所で、私たち以外に見物客は数名 -平日で肌寒かった所為も有りますが- で売り子の数の方が多かったのです。しかし、ここは未だマシで、後で更に寂しいド田舎が登場します。

 橋を渡ると、田舎染みたとは言えやはり観光地。地元のガイドらしき姉ちゃんが、案内するから付いて来い、と言って居ます(中国語は解りませんが身振りで判ります)ので、この際付いて行くことにしました...。
写真4-2:小川の水車。写真5:鼓楼民族旅館の看板。
 するとどうやら先程橋の上から見た少し立派な民家の方へ向かって居ます。田圃の脇の小川に水車が回ってる傍を通り(左上の写真)、暫くすると細い上り坂に成り坂の途中に右上の写真の案内板(=看板)に出くわしました。「鼓楼民族旅館」と書いて在り、その下には英語で”Drum-tower National Hotel”と書いて在ります。案内板右の板敷きの通路を入って行くと民族旅館に行ける様です。橋の上から見えた「少し立派な民家」は多分この民族旅館です、位置からして。
 私たちは旅館には寄らずその儘進み集落に入りました。右下の写真がトン族の集落の”普通の民家”の佇まいです。
写真6:トン族の高床式民家。
 ご覧の様に石積みした土台の上に、「一見3階建ての様に見える家」がトン族の民家の特徴ですが、1階の様に見える竹で覆って在る部分は実は高床(※4)(=日本家屋の「縁の下」に相当)、従って実際は2階建て(=床上部分が2階)なのです。
 
同じ高床住居に住むタイ族(※7)も「一見2階建てに見える1階建て」(=床上部分が1階の高床文化なので、床上部分が2階のトン族はタイ族よりも「1階分勝ってる」のです。流石は建築職人です。

 (2)馬安鼓楼

 姉ちゃんが「鼓楼が在るよ」と言うので、右上の写真の様な民家の間の道を尚も坂を登って行くと、遂に鼓楼が現れました(左下の写真)。7層ですが近くで見ると”意外に小さい”感じで、高さは目測で10m位、天辺に瓢箪の意匠の相輪が載って居ます。正面入口の上には「馬安鼓楼」と書かれて居ました。
 右下が鼓楼内部の木組みを見上げたものです。皆さん、赤い太鼓が吊るされて居るのに注目して下さい!

 そうです、これが鼓楼(Drum-tower)(※3)の名の由来です。少し専門的に成りますが、トン族の村は、父系の小家族同士が1箇所に集合して形成する一種の氏族集団・「房族」 -同姓の場合が多い- の集合体で、鼓楼は「房族」毎に1つ存在します。ですから鼓楼は各房族の寄合所的役割を担い、房族の長老や有力者たちはこの鼓楼に集まり会議をし取り決めをします。そして太鼓は村や房族の集会や催しを知らせる情報伝達手段だったのです。鼓楼とは元々は寺院建築を言いますが、トン族の場合は以上の様な意味で使われます。

 しかし、鼓楼は単に会議や催しだけに使われるのでは無く、昼間は人々が仕事の合間に四方山話で情報交換する場でもあり、日本の公民館より余程日常的に親しまれて居ます。
写真7:7層の馬安鼓楼。写真8:鼓楼の内部の赤い太鼓と木組みの様子。
 この後ガイドの姉ちゃんは私たちを自分の家に誘ったので、私たちは大人しく付いて行きました。と言ってもヘンな事は連想しないで下さいね、以下の様に”健全な”行動です。

    ◆程陽村馬安のガイドの姉ちゃんの家で

 彼女の家の1階(高床の上)では一家全員で遅い朝食をして居る所でした(左下の写真:赤い服を着たのが彼女です)。そしたら家の人が私たちに朝食を勧めます。鶏肉の炒め物や豚肉入りのスープや青菜の炒め物etc(右下の写真)。「結構エエモン食ってるやんけ」、これが率直な感想です。そしてテーブルの上にお猪口が並んで居ますね、その猪口に酒を注いで呉れました、朝から。酒はテーブル最前列に在る箸が載って「おたま」が入っている大きな丼に入って居ます。
写真9-1:ガイドの姉ちゃんの家。写真9-2:私たちに勧めてくれた朝食。
写真9-3:トン族村を訪れた私たち3人。
 それで、ガイドの作戦と知りつつ、その酒を飲みました。右の写真は、右から松岡さん、小池さん、そして酒を飲んで居る私です。この酒は日本の清酒の様な味の酒(※11、→後で詳述)で、中国で一般的な強い焼酎(※12)とは明らかに違い美味でした(←しかし中国には「清酒は無い」とするのが一般的解釈です)。
 そしてこの酒のアテに食べた発酵させた漬物(右上の写真の酒の丼の奥の皿に盛られたもの) -白いのが大根で唐辛子(※13)で赤いのが白菜- がこれ又キムチ(※13-1)よりさっぱりした味で大変旨かったのでした。これが前述の発酵食品の一つでキムチに唐辛子を使う以前はこの様な発酵漬物でした。

 [ちょっと一言]方向指示(次) 韓国人は「唐辛子キムチは一体不可分で故に非常に古くから在る」と信じ込んで居ますが、そんな事は無く、南米原産の唐辛子が世界に齎されたのはコロンブス以降で朝鮮半島には大体1750頃に伝わり大衆的にキムチに使われたのは1800年以降です。これは世界的にも共通でハンガリーのパプリカ、メキシコのタバスコ・ソース、日本のラー油など唐辛子文化は高々200年の歴史しか無いのです(△6のp80~81)。「では唐辛子を使う前は辛味成分どうしてたの?」と言うと朝鮮半島では蓼(たで)生姜(しょうが)山椒などを使って居たのです(△6-1のp11~13)。その唐辛子以前の味を彷彿とさせるのがトン族の発酵漬物です。


写真10:ガイドの姉ちゃんの家の片隅の機織機。
 右の写真が窓際に置かれて居た木製の機織り機(はたおりき)です。

 ところでこの2枚の写真で気付くのは、背後の板張りの壁です。ガイドに聞いたらこの家のご主人も大工で、この家も壁も自分で作ったそうです。そう言えばこの家の高床の下には材木が置いて在りました。そう、大工はトン族の天職なのです!

 こうして私たちはご馳走に為ったので、ガイドに駄賃200元を奮発して村を後にしました。

 [ちょっと一言]方向指示(次) 大工を天職とするトン族には、家に男子が誕生すると杉の苗を植え、男子が成長し結婚する時にこの杉の木を切り新居を建てる、という習わしが伝わって居ます。

                (-_@)

 下はガイドの家からの帰りに先程の反対側の岸から撮った程陽風雨橋です。中央3つの楼閣には瓢箪の意匠の相輪が載り、中央の楼閣の屋根が六角形なのが判ります。
写真11:再び程陽風雨橋。

 (3)少し戻り八江を経て馬胖へ

  (3)-1.焦柳鉄路

 次はこの地方最大の鼓楼・馬胖鼓楼に行くのですが、車は元来た道を戻りました。あれ?、と思ったので地図を見ると(皆さんも地図を見て(Open the map again)!)、馬胖の方が更に北に在るのですが、横に抜ける道が無く黄排という二股分岐点迄戻るという訳です。風雨橋と馬胖鼓楼の2ヶ所を見るにはやはりタクシーのチャーターが正解でした。
写真12:焦柳鉄路の貨物列車。
 黄排の二股を過ぎ、もう一方の枝道を馬胖に向かって暫く走って行くと、「ムッ?、頭の上を列車が通っている~う!」、私は運ちゃんに”Stop!!”(この運ちゃん、生意気に英語が得意なのです)と声を掛け、撮ったのが右の写真。これは焦柳鉄路の貨物列車です、日本の貨物列車の3倍位長かったですよ。この鉄道はこれから時々お目に掛かります。
 

  (3)-2.八江郷

 やがて比較的大きな村の市場を通過しました。八江郷です。「三江、八江、...フーム、日本の三戸(さんのへ)、八戸(はちのへ)みたいやな」と思いつつ、走る車の中からパチリ。下の2枚がそれです。右下の写真のじっとこちらを見詰めている男達の前に在るのは竹細工の籠です。トン族の人々は笙や民家で見て来た様に、竹を随所に利用して居ます。
写真13:八江の市場の女性。写真14:八江の市場の男たち。

 暫く進むと車の左手に石製の眼鏡橋(左下の写真) -日本の九州地方に多く在る形- が見えました、この川は尋江のもう一つの支流・八斗河で、ここは八江郷八斗寨です(→後で帰路に八斗鼓楼に寄る)。又暫く行くと右下の写真の光景に出くわしました、これ何だか解りますか?
 田圃の畦に石の橋脚を立て、その上に長方形断面の石管を渡して居ます。どうやら水道管を渡す「水道橋」の様です。日本にも「水道橋」とか「水道道(すいどうみち)」と呼ばれる橋や道路が在りますが、あれと同じです。
 しかし八江を過ぎると俄然道は悪く成り、雨で道路は泥濘(ぬかる)んで車は大揺れです。右下の写真の道路、轍(わだち)の跡に雨水が溜まり光って居ます。
写真15:眼鏡橋。写真16:石製の水道管。

写真17:トン族の漆黒の集落。 前方の小山を越えるとやがて進行方向の左側の八斗河の向こうに漆黒の集落が見えて来ました(左の写真)。ここでも手前の流域は田圃です。
 この集落の背後の小高い小山には先程の焦柳鉄路が通り、村人たちが線路の上を農作物を乗せた天秤担いで歩いて居ました(被写体が遠かったので写真は撮らず)、線路を歩いた方が近道なのです。

 (4)馬胖鼓楼

 然う斯うして居ると、運ちゃんは集落の所で車を降りて地元の人に何やら訊いて居る風...。その様子からここが馬胖村なのですが、運ちゃんは馬胖鼓楼が何処に在るか知・ら・な・いのだ -乗る時は確かに「知ってる、乗れ、乗れ!」とジェスチャーで言って居た- 、と解りました。しかしはっきり言ってここは寂しいド田舎です、程陽風雨橋みたいにガイドも居ないし第一私たち以外の見物客など皆無です、ホンマに在るのかいな?!

 [ちょっと一言]方向指示(次) 運転手が場所を知らないのに知ってる振りをするトラブルは中国では日常茶飯事です。広いとは言え陸続きで多数の異民族や外国と身近に鬩(せめ)ぎ合っている彼等は”過当競争社会”を生き延びる為に、決して「知りません」「御免為さい」(或いは「済みません」)を言いません。中国人の大多数は農耕民族ですが、この性格は攻撃的な狩猟民族たるアングロサクソンと共通して居ます。中国での主流民族である漢民族も農耕民族ですが、同じ農耕民族の日本人と感性が何故こうも違うのか?
 それは日本が周囲を海に囲まれた「羊水国家」であるのに対し、中国は殆どが陸続きの「無境界国家」(=ボーダーレス国家)である、という地政学に起因して居ると考えられますが、この議論の詳細は既に
  「肉を食らう」ということ(Carnivorous life)
で述べてますので、そちらに譲ります。


写真18-1:馬胖の風景。 運ちゃんは戻って来て、先程から車の左手を流れて居た川(=八斗河)を渡れ、と言って右の写真の橋迄先導して行きました。えっ、ここを渡るの~??
 上流の方には”叩いて渡れる”石橋のアーチが見えて居ますが大分遠くです。目の前の橋は川の中の石に板切れを渡しただけの”あぶない橋”です、あ~ぁ!
 仕方無く言われた通り、しかし半信半疑で私たちは”あぶない橋”を渡りました。右の写真は小池さんが撮影したもので、橋を渡っているのが私です。

 暫く行くと畑にが居たのでパチリ(左下の写真)。ところが帰国してから良くこの写真を見ると、写真の左上に鼓楼の一部が写って居ました、屹度この馬に縁が有ったのです。
鼓楼の一部
 ↓
写真18-2:畑で草を食む馬。写真18-3:村の公衆トイレ。 又暫く行くと道の途中に自然の香りのトイレが在ったので、取り敢えずションベン休憩(右下の写真)をはいパチリ!
 やあ、松岡さんが今ションベンをしてますが、これは映倫ならぬ「Web倫」スレスレですねえ。又、小池さんももう我慢出来ないという表情です。誰かから”猥褻物チン列”と言われたら直ぐに”チン謝”しますよ、ウワッハッハッハッハ!!
 ところで、何故馬の写真を載せたかと言うと、帰国後地図を見ると先程の馬安やここ馬胖もそうですが、この地方には馬湾・馬哨・馬坪・玉馬など「馬」が付く地名が多いのが気に掛かったからです。

 さて、スッキリした私たちは石段を登って集落の中に入って行きました(左下の写真)が、私は登り口に在った「道の神」(※14)或いは門神(※14-1) -中国の道教(※14-2)にも「道の神」とか門神が居て日本の神道の基層を成して居ます(△7のp58、p265)- を祀った様なが気になりますね(写真の右下方)。この石は単に置かれているのでは無くコンクリートで固められていて上方の凹んだ所に赤い物が何かの呪(まじな)いの様に置かれて居ます。場所も結界を成している所でトン族は自然物を崇拝する原始宗教(アニミズム)を信奉しているので、そうした土俗信仰を表すものでしょう。
写真19:馬胖のトン族集落の間を抜ける焦柳鉄路の貨物列車。
 するとピーッ、ガタゴトガタゴト...、民家の向こうの土手の上を焦柳鉄路の貨物列車が走って居ます(右の写真)。地元の人が線路の上を歩く位、偶にしか通らない列車に今日はこれで2度目の遭遇です。
写真20:トン族の村人と大きな笙(楽器)。
 石段を登り詰めると村人たちの集会所が在りタバコを吸ったり世間話をして居たのです(左の写真)。
写真20a:桂林で買った小さな笙。 しかし私が驚いたのは、右の方に無造作に積み上げて在るのは全て竹製の笙(※10)です。それも1m以上の大きいヤツで、吹くとボーッという低音が響きます(先程の程陽風雨橋の土産屋のは精々50cm位でした)。
 トン族はこの笙を自分たちの楽器として折に触れて演奏し、又、土産物として売っているのです。私は後に桂林で35cm位の笙を1つ買って帰りました。右の写真がそれです。{私が買った笙の写真は03年8月14日に追加}

 [ちょっと一言]方向指示(次) 笙はリードが1つの単簧楽器でクラリネットと同属ですが、雅楽などで聴く笙の音は独特です。笙もトン族だけで無く照葉樹林文化の諸民族(※8)で日常的に演奏され、雲南からラオス辺りが起源ではないかとも言われて居て、同時に幾つもの音を鳴らす「合竹の法」合唱の発達との関連を指摘する学者も居ます(△4-1のp157~159)。
 又、ヨーロッパのリード・オルガンはこの笙からヒントを得て生まれ、ドビュッシーは笙のハーモニーから新しい音構成のインスピレーションを得たことを特筆して置きます。

 こうして私たちが集落の中をぶらついて居る間に運ちゃんは鼓楼への道順を聞き出して、その案内で小高い丘上のコンクリートの広場に建つ馬胖鼓楼(下の写真)にやっと辿り付くことが出来ました(ホンマに在った!)。ここは三江トン族自治県馬胖郷です。
写真21-1:馬胖鼓楼。

 右が広西チワン族自治区で最大の鼓楼で、1920年築、ご覧の様に9層で高さは約13m。これも目の前で見ると写真で想像して居たよりも”意外に小さい”という印象です。
写真21-2:馬胖鼓楼内部の木組み。

 そして右の写真が鼓楼内部の木組みです。これも三江産の杉を使い、釘を1本も使わず全て木組みで構築したもので、圧巻です。梁には何やら緑色や橙色の文様が描かれて居ましたが、この写真では判別出来ません。又嘗て巨大な太鼓が吊るされて居たそうですが、今は有りません。
 

    ◆清酒を醸造か

写真22-1:煙を吐く堂の柱の文字。 ところで気になったのは鼓楼と同じ広場の朦朦(もうもう)と煙を立ち上らせている”意味在り気”な堂(左下の写真)でした。
写真22:馬胖鼓楼と同じ敷地内の煙を吐く堂。 この堂の窓の右側の柱上部の白い部分には黒字で「××浄酒?生×」と書いて在る様に見えます(右の写真)。「?」の字は「成」か「戍」か「式」か、或いは中国簡体文字の「龍」の様にも見えます。
 もし「浄酒」が正しいとすれば、日本にも古代に浄酒(すみざけ)の語が在ります。それは清酒(すみざけ)と同じ意味で使われて居た様でが現在の日本酒の清酒(せいしゅ、※11)とは造り方が異なり、醸造学的には濁酒系の酒(※11-1、※11-2)だそうです(△8のp242)。これが馬安のガイドの家で飲んだ清酒の様な味の酒なのでしょうか?
 馬安のガイドの家では発酵させた漬物も食べました。上述の様に日本酒も米を発酵させて作ります。トン族は内陸部の貴州省やこの広西チワン族自治区の山間地に住み大工を天職として生活してますが、この地方の気候は涼しく清酒や漬物の発酵が可能で、事実トン族は発酵が得意なので清酒製造は充分に可能だと思えますが、先程飲んだ酒が清酒かどうか未確認です。{「浄酒」についての考察は03年7月20日に追加}

 [ちょっと一言]方向指示(次) トン族特有の地酒に、アルコール度数の低い蒸留酒(=焼酎)や甘酒が在る様です。製造過程から言って甘酒が有れば清酒が有っても可笑しく無いのです。

 私はガイドの家で飲んだ清酒[の様な酒]の味とトン族の発酵文化から、トン族には清酒が有るのではないか(←中国の一般論では「無い」とされて居る)、と強く思い始めて居ます。

                (-_*)

 (5)帰路での八斗鼓楼

 私たちはこれで馬胖鼓楼を後にし、元来た泥んこ道を引き返しました。来る前は馬胖で昼飯でも、と考えていたのですが全然無し。もう12時を疾っくに回って居ましたが古宜鎮に引き返して昼食です。
写真23:7層の八斗鼓楼と集落の様子。
 馬胖から20分位走った頃(と言っても泥んこ道なのでそんなに進んで無い)、往路では気付かなかったのですが、丘を登り右に折れた所で突然前方右手に鼓楼が出現、そこで又もや運ちゃんに”Stop!!”と言って車を降りました。
 帰国後調べたらここは八江郷八斗寨、右が車道から見た7層の八斗鼓楼と集落で、トン族の典型的な村落の風景です。この近くには八斗河が流れ風雨橋も在りました。

 (6)トン族の村の印象

 私は僅か1日でしたが、憧れのトン族の村を訪ねることが出来満足して居ます。トン族に対する私の印象を一言で語ると「黒」或いは「漆黒」です。上の写真の様に民家も鼓楼も、屋根瓦や板壁が、墨の様に沈んだ色をして居ます。女性の服装も非常に地味で「黒に近い濃紺」です、多分藍染めなのでしょう。
 集落は川の流域部の山の中腹の様な所に在り、平地は田畑に開墾されて居ます。それと鼓楼の実物を目の前で見るとその大きさは、本の写真などから想像してたよりは”小さい”ですね、これは日本の室生寺の実物を初めて見た時の感覚と同じです。今日はずっと雨模様で右の写真の様に泥んこ道を走りましたが「風雨橋」には相応しかったかも知れません。
 次は三江の奥地を抜けて貴州省黔東南ミャオ族トン族自治州のトン族の村を訪れてみたいですね、そして是非木組みで建築して居る場面を見たいですね、更に彼等の合唱音楽を聴き、さっぱりした漬物清酒の様な味の酒を”たらふく”飲みた~い!

 古宜鎮に戻り着いたのは14時過ぎでした。急いで昼食(→後出) -この小学5、6年生のお嬢ちゃんが食べているのと同じ定食、中川保さんが良く言ってた”三元飯”です- を私たちとタクシーの運ちゃんで食べました。ここはスープが付いてる、上等、上等!
 この子は「中国名花集」に登録しました。{このリンクは05年3月24日に追加}

 [ちょっと一言]方向指示(次) ”三元飯”とは雲南桃源倶楽部の中川保さんが付けた名称。所謂定食御数は3品が基本野菜・日本で言う漬物で、スープは付いたり付かなかったり。御数は定食として決まってるのもあれば自分で選べる場合も在ります。兎に角、手っ取り早く素早く食えて料金は3~5元と安いのです。もっと安いのをお望みの方には”ぶっかけ飯”というのが在ります。これは文字通り御数が2、3品御飯に掛かっているもので2~3元です。
 

 ■龍勝県の棚田

 15時前龍勝棚田(※15)を見る為に再び同じタクシーに乗り込みました。昨日バスで来た国道321号を龍勝各族自治県の県庁・龍勝鎮を通過し和平郷迄戻り、そこから枝道(と言っても新しい舗装道路)に入ります。枝道に入ると直ぐ綴れ折りの登り坂に成り、登るに連れ霧が濃く成り視界が利きません。15分位登ると山の上の展望台に着きました、もう16時過ぎです。
 この雨と霧と寒さにも拘わらず、駐車場には車が沢山止まり観光客が100人位は居たでしょうか、更に茶店の中にも可なり居ました。馬胖鼓楼とは大違いでこちらは”観光地”として大いに整備されて居ます、馬胖は中国人から見ても不便な辺境の様です。しかし、あの泥んこ道がここの様に舗装されたら忽ち観光地化する様な気がしますが。
 ここが中国語で龍脊梯田風光 -中国では棚田を梯田と呼び、従って日本語に訳すと龍脊棚田風景地区- の中心街の筈ですが...、しかし展望台は丸で”雲の中”の様で全く見えません。私たちは今日中に桂林に行かねば為らない(←龍勝鎮~桂林はバスで約2時間半)ので諦めて直ぐに引き返しました。頂上から2、3分位下った頃、前方の霧が一瞬薄れ下界が見えたので、又々運ちゃんに”Stop!!”、やっと下の写真を撮ることが出来ました。これが展望台を少し下った道路からの龍勝各族自治県和平郷の龍脊棚田の景観です。県名の「各族」とは文字通りトン(侗)、チワン(壮)ヤオ(瑶)ミャオ(苗)などの「各少数民族の居住区」の意味で、この棚田付近の住人はヤオ族とチワン族です。龍脊棚田の開墾は元代(1271~1368年)に始まり清朝初期(17世紀前半頃)に現在の形に成ったと伝えられて居ますが、この様に大規模な棚田の開墾はヤオ族の一大特徴です。中国の山間地では小規模の棚田は有り触れた光景で車窓から良く見掛けます。
写真24:ヤオ族が作った龍勝の龍脊棚田。
 実際は霧のベールでもっと霞んで居たのですが、この写真はコントラストを大分上げて在ります。車が走り出すと再び深い霧に包まれましたので、この景観を見れたのは幸運でした、やはり「普段の行い」が大事ですね!!

 ■結び - 「メンタル・タフネス」の実践

 02年10月29日の夕方、龍勝の棚田の写真を撮って直ぐにタクシーに乗り込み(16:40頃)、龍勝鎮のバス停に着いたのが17:10頃。降り際に松岡さんがタクシーの運ちゃんに「桂林迄100元で行くか?」と訊いたら運ちゃんムッとして”No”。そりゃそうでっせ、バスでも47[元/人]=141[元/3人]でっせ。運ちゃん”引っ掛け”には乗りませんでした。ま、ダメで元々、私たちは「タフな心」を養いに来ているのですから、アッハッハ!
 これで今日1日乗ったタクシーとはお別れです。

 ところが桂林往きのバスは今出たばかりで私たちはバス亭で1時間待たされました、...(>v<)。
 右の写真は龍勝鎮のバス停で桂林往きのバスを小池さんが17:30頃に撮ったものです。私たちは18:10発の最終便の快速バスに乗り19:50頃桂林に着きました。「桂林←→龍勝」と札に在り、電光表示板に「直達快班」と表示されて居ます、要するに快速バスです。
 普通バス(15[元/人])は3時間掛かると書いて在ります(△5-1のp251)が、快速バス(47[元/人])はその約半分の1時間40分でした。

 私たちは「安バス、安宿、安飯」に”投資”して居ます。と言うのは「安バス、安宿、安飯」の旅では、現地の人々の”生(なま)”の姿に接することが出来、打々発止の掛け合いが有り、色々な経験を積むことが出来ます。そしてこの経験が次の旅行に生きて来るのです。高級ホテルで高いモン食っても旅上手には成れません!
 そこで格言で始まったこのページの最後を再び格言で締め括りましょう。

  格言:「経験は銭では買えず」

 明日は愈々「桂林の漓江下り」です。では、桂林で又お会いしましょう!!

            (-_*) (^o^) (^O^) (-_@) (@_@)/~~

 尚、[2002年雲南桃源旅行・解脱編]シリーズの他画面への切り換えは最下行のページ・セレクタで行って下さい。(Please switch the page by page selector of the last-line.)

♪♪♪ おしまい ♪♪♪

【脚注】
※1:私の格言集を「エルニーニョ語録(Also sprach ElNino)」と呼びます。
 因みに”also sprach”は何故かドイツ語です、何故でしょう、ムッフッフ。

※2:中国での値段交渉には筆談用のメモ帳と日本のカード型電卓は必携品。中国の電卓は未だ”あきまへん”。試しに現地で買った電卓は、1週間も経たない内にテンキーの一部が入力不調に成りました(2002年の話)。その内良く成るでしょう。

※3:鼓楼(ころう/くろう)は、寺院で時を報ずる太鼓を懸けた楼。鐘楼と相対して講堂の左右に建てた。今は多く楼門の上に懸ける。

※4:高床(たかゆか)は、地面に柱を立て、高く張った床。弥生時代には倉庫にこの床が多く、この形式の建物を高床式と呼ぶ。日本では伊勢神宮や出雲大社などに、海外では東南アジアに広く見られタイ族の建築などが典型的。<出典:一部「学研新世紀ビジュアル百科辞典」より>

※5:歌垣(うたがき)とは、[1].上代、男女が山や市などに集まって互いに歌を詠み交わし舞踏して遊んだ行事。一種の求婚方式で性的解放が行われた。嬥歌(かがい)。古事記下「―に立ちて...美人の手を取りき」。
 [2].男女相唱和する一種の歌舞。宮廷に入り踏歌を合流して儀式化する。続日本紀30「男女二百三十人―に供奉す。...男女相並び、行を分ちて徐ろに進む。歌ひて曰く」。
※5-1:嬥歌(かがい)とは、(一説に、男女が互いに歌を「懸け合う」事が語源と言う)上代、東国で、「歌垣(うたがき)」の事。万葉集9「嬥歌は東の俗語に―と曰ふ」。

※6:油茶(ゆちゃ)とは、茶碗に糯米製の米花や落花生の油炒めを入れ、これに緑茶を油で炒めた後煮出し塩味を加えた汁を注いだ茶粥に似た食べ物。薬味として葱や生姜を加えたりする。
※6-1:茶粥(ちゃがゆ)は、茶の煎じ汁、又は茶袋を入れて炊いた粥。入れ茶粥。

※7:トン族は、タイ族(泰族/傣族)の支族。タイ・チワン・ヤオ・ミャオ族などと共通してモチ米文化民族で、その為に糯米(もちごめ)を栽培します。特にトン族は粟や米のモチを機会有る毎に食べ、又、稲田で養殖した鮒(ふな)などを発酵させた酢魚という馴鮨(又は熟鮨)を保存食にして居ます。日本の鮒鮨も馴鮨の一種です。
※7-1:馴鮨/熟鮨(なれずし)とは、塩漬にした魚の腹に飯を詰め、又は魚と飯とを交互に重ね重石(おもし)で圧し、良く熟(な)れさせた鮨。魚介類と飯などを発酵させて、自然の酸味で食べる。近江の鮒鮨吉野の釣瓶鮨(つるべずし)などが有名。腐れ鮨(くされずし)。
※7-2:発酵/醗酵(はっこう、fermentation)は、この場合、一般に、酵母細菌などの微生物が、有機化合物を分解してアルコール・有機酸・炭酸ガスなどを生ずる過程。本態は酵素反応。醤油味噌、更にビタミン抗生物質などはこの作用を利用して製造する。狭義には、糖質が微生物に依って酸素の関与無しに分解する現象を、又広義には、これと化学的に同じ反応過程である生体の代謝(解糖系など)、及び微生物に依る物質生産を指す。

※8:照葉樹林文化(しょうようじゅりんぶんか、laurel forest culture)とは、ヒマラヤ中腹から東南アジア北部・南西中国・江南の山地を経て西日本に至る、照葉樹林地帯に共通する雑穀栽培農耕・焼畑などの文化要素が特色付ける文化で、栽培植物学者の中尾佐助が提唱。
※8-1:照葉樹林(しょうようじゅりん、laurel forest)とは、亜熱帯から暖温帯に掛けて見られる常緑広葉樹を主とする樹林。一般に、葉は深緑色で革質・無毛、表面にクチクラ層が発達し光沢が有るので、こう名付ける。西南日本、アジアの東南部、北アメリカのフロリダ半島、南アメリカの中部などに見られる。常緑広葉樹林。
※8-2:常緑広葉樹(じょうりょくこうようじゅ、evergreen broadleaf tree)とは、一年中緑色をして居る広葉樹。シイ(椎)/カシ(樫)/クスノキ(樟・楠)/アオキ(青木)/サカキ(榊/賢木)/ツバキ(椿)/チャ(茶)/コーヒー(珈琲)/月桂樹/ニッケイ(肉桂)/ビンロウ(檳榔)/オリーブ/ヒイラギ(柊・疼木)など。葉の表面に光沢が有るものを照葉樹とも言う。

※9:広葉杉(こうようざん)とは、スギ科の常緑高木。中国南部原産。高さ30m、周囲3mに達する。樹皮は赭褐色でスギに似る。葉は枝の両側に並ぶ。花は単性、雌雄同株で4月頃開き、後に球果を結ぶ。材は微黄白色で、建築材・パルプ原料として用いる。オランダモミ。リュウキュウスギ。漢名、沙木。

※10:笙(しょう)は、雅楽の管楽器の一。奈良時代に中国から伝来。木製椀型の壺の周縁に長短17本の竹管を環状に立て、内2本は無音、他の15本それぞれの管の外側又は内側に指孔、管の脚端に金属製の(した:リードのこと)が有る。壺に付いた吹口から吹き、又は吸って鳴らす。単音で奏する一本吹の法(催馬楽(さいばら)や朗詠の伴奏などに用いる)と、6音又は5音ずつ同時に鳴らす合竹(あいたけ)の法(唐楽の楽曲に用いる)とが在る。笙の笛。鳳笙。そうのふえ。そう。

※11:清酒(せいしゅ、sake)は、[1].日本の代表的な醸造酒。蒸した白米に麹(こうじ)・水・酒母を加え発酵させて醪(もろみ)を造り、これを搾り濾過して製する。淡黄色で特有の香味が有る。日本酒
 [2].澄んだ純良な酒。すみざけ。←→濁酒。
※11-1:濁酒(だくしゅ、unrefined sake)は、日本酒の1種。発酵後、醪(もろみ)を搾らないもの。麹(こうじ)や米が混じって白濁している。にごりざけ。どぶろく。白馬(しろうま)。←→清酒。
※11-2:濁醪・濁酒(どぶろく)は、粕(かす)を漉し取らない日本酒。濁り酒。醪酒(もろみざけ)。濁酒(だくしゅ)。白馬(しろうま)。

※12:焼酎(しょうちゅう)は、蒸留酒の一種。日本酒製造の際の醪(もろみ)又は酒粕を蒸留したもの。又は米/麦/粟/黍(きび)/稗(ひえ)/玉蜀黍(とうもろこし)/甘藷(=サツマイモ)/馬鈴薯(=ジャガイモ)/糖蜜などを原料として造り、水で薄めたもの。飲料とし、又、各種の酒類製造の原料に用いる。季語は夏。〈日葡〉。

※13:唐辛子/唐芥子/蕃椒(とうがらし、red pepper)は、ナス科の一年草。熱帯アメリカ原産とされる。果菜として世界で広く栽培、日本には16世紀頃に渡来。夏、白色の小五弁花を付ける。果実は未熟の間は濃緑色、熟すると赤く成る。多くの栽培品種が在り、辛味種は、果皮・種子に刺激性の辛味を有し、乾燥して香辛料とする。極辛種をタカノツメ(鷹の爪)と呼ぶ。甘味種(ピーマンシシトウガラシなど)は食用観賞用(五色唐辛子など)も在る。南蛮辛子南蛮。季語は実が秋、花は夏。<出典:一部「学研新世紀ビジュアル百科辞典」より>
※13-1:沈菜(キムチ、[朝鮮語]kimchi)朝鮮の漬け物。塩漬にした野菜に、ニンニク・ショウガ・トウガラシ・塩辛などを合せて漬け込み、発酵させる。

※14:道の神(みちのかみ)は、道路・旅行の安全を司る神障の神/塞の神(さえのかみ)。道祖神。万葉集17「―たち幣(まい)はせむ」。
※14-1:門の神(かどのかみ)/門神(もんしん)は、門を守護する神。天岩戸別神。門守。
※14-2:道教(どうきょう、Taoism)は、中国漢民族の伝統宗教。黄帝老子を教祖と仰ぐ。古来のアニミズムや巫術(=シャーマニズム)や老荘道家の流れを汲み、これに陰陽五行説神仙思想などを加味して、不老長生の術を求め、符呪・祈祷などを行う。後漢末の五斗米道(天師道)に始まり、北魏の寇謙之(こうけんし)に依って改革され、仏教の教理を取り入れて次第に成長。唐代には宮廷の特別の保護を受けて全盛。金代には王重陽が全真教を始めて旧教を改革、旧来の道教は正一教として江南で行われた。民間宗教として現在迄広く行われる。

※15:棚田(たなだ、rice terrace)は、急な傾斜地を耕して階段状に作った田。膳棚田(ぜんだなた)。特に各段の田が狭く多数密集してるものを千枚田と言う。

    (以上、出典は主に広辞苑です)

【参考文献】
△1:『縮刷版 文化人類学事典』(石川栄吉・梅棹忠夫・大林太良・蒲生正男・佐々木高明・祖父江孝男編、弘文堂)。

△2:『万葉集(上)』(佐佐木信綱編、岩波文庫)。

△3:『さらば文明人』(西丸震哉著、角川文庫)。

△4:『「音楽」以前』(藤井知昭著、NHKブックス)。
△4-1:『音楽からみた日本人』(小島美子著、NHKライブラリー)。

△5:『地球の歩き方104 雲南・四川・貴州と少数民族 1999~2000年版』(「地球の歩き方」編集室、ダイヤモンド社)。
△5-1:『地球の歩き方D05 広州・桂林と華南 2002~2003年版』(「地球の歩き方」編集室、ダイヤモンド社)。

△6:『唐辛子遍路』(ハウス食品マーケティング室著、ハウス食品)。
△6-1:『朝鮮半島の食と酒 儒教文化が育んだ民族の伝統』(鄭大聲著、中公新書)。

△7:『道教の神々』(窪徳忠著、講談社学術文庫)。

△8:『たべもの日本史総覧』(新人物往来社編・発行)。

●関連リンク
参照ページ(Reference-Page):桂林地方(桂林・三江・龍勝)の地図▼
地図-中国・桂林地方(Map of Guilin region, -China-)
参照ページ(Reference-Page):中国の少数民族、特に侗族について▼
資料-中国の55の少数民族(Chinese 55 ETHNIC MINORITIES)
参照ページ(Reference-Page):黄道十二宮について▼
資料-天文用語集(Glossary of Astronomy)
参照ページ(Reference-Page):二十四節気について▼
資料-「太陽・月と暦」早解り(Quick guide to 'Sun, Moon, and CALENDAR')
参照ページ(Reference-Page):照葉樹林文化圏の図▼
資料-照葉樹林文化とフォッサマグナ
(Laurel forest culture and Fossa Magna)

補完ページ(Complementary):タイ族のモチ米文化や高床文化▼
2002年・雲南タイ族民家宿泊記(Homestay at Dai's-house, China, 2002)
横顔(Profile):「雲南桃源倶楽部」について▼
雲南桃源倶楽部(Yunnan is Shangri-La)
三江のホテルの従業員や桂林の火鍋屋の娘▼
中国名花集-花の写真館(Chinese Flowers)
油茶と似た日本の”茶を食べる”文化▼
2006年・金谷急ぎ旅(Kanaya hurryingly, Oi-river Railway, 2006)
農耕民族や狩猟民族について▼
民族占い(Comparative Ethnologic approach)
羊水国家について▼
温故知新について(Discover something new in the past)
農耕民族同士の漢民族と日本人の考え方の違いについて▼
「肉を食らう」ということ(Carnivorous life)
中国で有り触れた小規模な棚田▼
2002年・パーリャン小学校視察の旅
(Report of Paliang's primary school, China, 2002)

日本の棚田▼
2004年・出雲大神宮の御蔭山(Mikage-yama, Kyoto, 2004)
トン族やヤオ族については「中国の少数民族」からどうぞ▼
外部サイトへ一発リンク!(External links '1-PATSU !')


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