2002年・桂林の興坪
[2002年雲南桃源旅行・解脱編#4
(Xingping of Guilin, China, 2002)

-- 2003.11.26 エルニーニョ深沢(ElNino Fukazawa)
2015.06.12 改訂

※注意:このページは写真が多く、読込みに時間が掛かります。
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 ■はじめに - 興坪の旅程

 ★このページは「2002年・桂林の漓江下り」(=解脱編#3)の続きです。ここから興坪に入ります。

 当ページは初め「漓江下り」と「興坪」を一緒にして居ましたが、2015年6月12日に前半部分を「2002年・桂林の漓江下り」というタイトルで独立させ、これを[解脱編#3]に、「2002年・桂林の興坪」を[解脱編#4]にしましたので、宜しく!!
 そういう経緯で「解脱編#3」と「解脱編#4」は関連性が強いのです。
    {この記事は2015年6月12日に追加}

 地図や「2002年雲南桃源旅行の後半(解脱編)」の旅程は▼下▼からどうぞ。
  地図-中国・桂林地方(Map of Guilin region, -China-)
  2002年・”脱雲南”桃源紀行(Escape from Yunnan, China, 2002)

 ここでは当ページで扱う部分の旅程のみを次に抜き出して置きます。「C」とはグループ構成で小池・松岡・私(=桃源倶楽部「食み出しトリオ」)の事です。

        ...<前半略>...
                 <宿泊>
 10/30(水)  午前      漓江下り       C-->「解脱編#3」の旅
        午後      興坪・興坪旅館    C-->「解脱編#4」の旅  *当ページ
   31(木) 興坪→陽朔    陽朔・陽朔大地酒店  C-->「解脱編#1」の旅
        ...<後半略>...

 ここは広西壮(チワン)族自治区の桂林市です。我々は漓江下りを14:00頃に終え、取り敢えずは昼飯を漓江下りの船着場の陽朔(Yangshuo)の屋台で食べました。陽朔見物は明日にし、今日2002年10月30日は何と、漓江下りの途中で通過する小漁村・興坪(Xingping)に宿泊します(△1のp247)、でも宿の予約はして無いです。興坪にしようと言ったのは松岡さんで、勿論私も大賛成です。この日の午後は天候は曇りです(←午前中、即ち漓江下りは少し雨も降って居ました)。桂林に憧れて訪れる日本人は数多いですが、興坪に宿泊する”物好き”な日本人は滅多に居ませんゾ!

 ■興坪1日目

 興坪往きの路線バスを探して居たら、目の前を「興坪」という札を掲げた路線バスが通り過ぎようとして居たので、思わず両手を広げ"Stop, stop!"と声を掛けたら、バスは止まって呉れました。今は15:00位です。
写真5:陽朔から興坪行きのバスに乗った地元のねえちゃん。 で、乗り込んだら左のギャル達 -漢族では無いですがチワン族(?)か- が迎えて呉れました。彼女たち兎に角、良く笑いましたね。「オラたちここの田舎っぺでな、芋作って陽朔に売りに来てるダ、ほんで興坪着く前にオラたちは降りるけんど、興坪は終点迄行ったらエエだ。」と教えて呉れました(ホンマかいな?!)。この「笑い上戸」は「中国名花集」に登録しました。{このリンクは05年3月24日に追加}
 という訳で陽朔からバスで約1時間20分桂林市陽朔県興坪鎮に着きました。宿を興坪旅館(→後出)に決め、荷物を置いて私たちは夕暮れ時の散歩に出ました。興坪は漓江の漁村です、少し歩くと漓江に出ます(「漓江下り」の遊覧船はここを通過して陽朔に着きます)。

 [ちょっと一言]方向指示(次) ホテルと言うか旅館は、バス停から直ぐのメインストリートに面して数軒在ります。他に泊まり客も居ないので予約無しで直ぐ泊まれました。1泊の宿泊料金は
  80[元/3人]=27[元/人]=約430[円/人]
で、めちゃ安い!


 流石(さすが)は山水画の名所16:30頃に漓江の港に出ると地元の中学生達が漓江の奇岩風景(=カルスト地形)を写生して居ましたので思わずパチリ(下の写真)。
写真6:興坪の船着場で風景を写生する中学生。
 私は漓江を写生する生徒が後ろから写されて居るこの写真が気に入って居ます。この写真で岸壁に繋留されて居る船は、向こう岸 -中洲が見えて居ます- との間を往復して居る渡し舟です。渡し舟に乗って学校に通っている生徒も居ます。
 欧米系の外人が2人(=男女)居て中洲或いは向こう岸の写真を撮って居ます、黄色いジャンパーを着ている人は中国人のガイドです。

写真7-1:興坪の路地裏風景。
 陽朔は「漓江下り」の船着場として、土産物屋やカフェ、そして中国人や外国人の圧倒的な数の観光客が溢れ返って居ましたが、ここ興坪は訪れる人も希で、それだけに目に入る光景は「人々の普段の生活」そのものです。何しろ興坪で降りたバスの乗客の中で”観光客”は私たちだけでした。右の写真はそんな路地の一つです。
 興坪は観光客に阿(おもね)る事は全く有りません

 大きな市場も在りません、地元の人々がその日のオカズのネタを買う為の小さなお店が何軒か在るだけです。左下がお店に並んで居た食材です(小池さん撮影)。血豆腐豆腐、そして野菜が少しずつ在りますね。生きたブタを1匹売っている所も在りました(右下の写真)。
写真7-2:売られている食材。写真7-3:売られている生きた豚。

    ◆葬儀に出会(くわ)す

 散歩の途中で人々が「赤い被り物」を被って集まって居ます(下の3枚の写真)。これは後で判ったのですがお葬式です。
写真x1:葬式の様子。写真x2-1:葬式に参会する人の赤い被り物。写真x2-2:葬式に参会する人の赤い被り物。

 右の、日本で言ったら神社の様な囲いの中にも「赤い被り物」をした人々が10数名見えます。


 上のお葬式会場から5分位路地の中へ歩いて行くと人々が集まって居ました(左下の写真)。彼等は先程のお葬式会場で既にお焼香を済ませて来た、亡くなられた人の縁者達でしょう。これから夕食をする様子です。それにしても、この葬儀は大変な人数です。
写真x4:葬式参会者に出される夕食の材料。 料理の具が皿に盛られて並んで居ました(右下の写真)。左の青野菜が載っているのが豚肉をスライスしたもの、右の赤いニンジンが載っているのが鶏肉です。何れも肉は未だ生(なま)です。
写真x3:葬式に参会後、集まる人々。

                ◇◆◇◆◇


写真8:メインストリートを家路に着く牛や人。 私たちもお腹が空いて来たので旅館の在るメインストリートへ帰ります。村の人々も水牛や牛や犬を連れて家路に着いて居ます(左の写真)。
 右下はこの通りに面する小学校です。
写真9:メインストリート沿いの小学校。
 ご覧の様に何処へ行っても背景に奇岩が見えるのがここ興坪の特徴です。

 左下の写真もメインストリートの続きで、中学生が自転車に乗って帰って来て居ます(←この中学校には明日行く事に成ります)。
 私たちの旅館もこの通りに在ります(右下の写真、小池さん撮影)。
写真10-1:メインストリートを自転車で帰宅する中学生。
  興坪旅館   翠苑私寓
   ↓      ↓

 この旅館はちょっと変わっていて、写真の様に同じ作りで連続してますが経営者は別々で、奥の赤い看板に白字で「興坪旅館」と書いて在るのが私たちの泊まる旅館で、手前の壁に旅館名が在る方は「翠苑私寓」という別の旅館です。

写真10-2:子供相手の屋台。
 ここを真っ直ぐ行くと、散歩の最初に行った中学生が絵を描いていた渡し舟の港に出ます。


 通りには学校帰りの子供達相手の屋台も出て居ます(右の写真)。小学生が3、4人居ます。食べ物はトウモロコシとか串刺しなどが在ります。兎に角ここは長閑(のどか)で心が和みます。
 

 ところで、晩飯の10分位前ですが、我々の飯屋の傍に道路に面した店に「どう見てもドブネズミにしか見えない鼠」を檻に入れて売っているのを見たので、写真を撮ろうとしたのですが店のオッチャンに追っ払われました。中国ではドブネズミは食用にする地域が在ります、▼下▼を参照。当ページは「有りの儘」に伝えるのがモットーです。
  中国のヘビーなお食事-”食狗蛇蠍的!”(Chinese heavy meal)

    ◆晩飯は鶏鍋と雑炊 - 塞翁の「希望の星」現る

    
写真11:北山塞翁の希望の星。 時刻は17:30頃。さて愈々晩飯、昨日は寒かったのに鶏鍋にしなかった失敗をしたので、この日は生きたを1羽注文鶏鍋(※1)です。我々が鶏鍋を煮ていると左の女の子が現れました。この店の主人の娘です。見た所4、5歳です。壮族(チワン族)でしょうか?
 私が日本語の旅行案内書(△1)を見乍ら鍋を煮込んで居たら、本を覗きに来たので貸して遣ると、珍しい物でも見る様に見て居ましたので、パチリしたものです。実際珍しかったでしょう、日本語なんて。
 ところで彼女が高校生位に成り「日本に留学したい」なんて言い出さないとも限りません、そうなると北山塞翁の「希望の星」です。この子は「中国名花集」に登録しました。{このリンクは05年3月24日に追加}
写真12:鶏鍋雑炊を食べている私たち。
 野菜と豆腐をうすい塩味で煮込んで出来上がり。鍋を煮ていると店の主人が丼に鶏の血と黄色い植物油を入れたのを持って来て「血飲むか?、油入れるか?」と訊いて来ましたが、両方共”No!”と断りました。この鶏鍋、めちゃ旨かったですね。油を入れなかったので日本の鶏鍋みたいに”あっさり”と出来上がり。
 危うく鶏鍋を撮るのを忘れて居ましたが小池さんが撮影しました(右の写真)。左が松岡さん、それと私です。ご覧の様に、もう少ししか残って居ません。今18:00頃です。

 最後は鶏鍋の残り汁にご飯玉子ネギ(葱)塩を少々を入れて雑炊にして食べました(右の写真)。18:10頃です。
 何処でもそうですが、我々が雑炊を作ると中国人は珍しがって必ず見に来ます。右の写真の下部に玉子の殻が写って居ますが、中国人は生玉子を5、6個入れるのが珍しいみたいです。更に味を締める為に入れるですが、丼に山盛り持って来ました、何を考えて居るのか(???)。
 雑炊の味は最高でした!!
 

 ■興坪2日目

 翌10月31日の朝7:00頃、朝食前に散歩をすることにしました。この日も曇りです。
写真13:興坪の船着場で朝太極拳をする人々。
 先ずは川岸へ。遣って居ました、太極拳(※2)です。中国人にしたら、丁度日本人のラジオ体操と同じです(右の写真)。
 この写真の左側に繋留されて居るのが投網漁船、その奥に橋が見えます。私たちはその橋を渡ってみることにしました。
写真14:興坪の船着場の朝の風景。
 橋の上から眺めた朝の漁港の風景が右の写真です。ここは入江に成っていて水面は静寂そのものです。
 私は随分前に行った日本の西伊豆の妻良を連想させられました。
 橋を渡るとやがてポンカン畑(※3)が在りました(左下の写真)。そして中学生がぞろぞろ行く方へ付いて行くと、奇岩を背に中学校が在りました(右下の写真)、門に「朝板山中学」と書いて在ります。
写真15:栽培されていたポンカン。写真16:興坪の中学校。

 中学校からの帰りに、先程の橋の上から旅館の在る陸の方を写したのが下の写真です。小池さん(左側)と松岡さん(右側)が橋の上を歩いて居ます。これも長閑な風景です。
写真17:興坪の村の風景。


    ◆昨日の葬儀の続きに出会う

 散歩から戻り作夕葬式の人々が食事に集まっていた場所を通ると、上に「白鷺の様な鳥の姿の飾り」を付けた、日本の「神輿(みこし)の様な物」(左下の写真)が置いて在りました。その白い鳥飾りを拡大したのが右下の写真です。何だろう?、と思って居ましたが後で解りました。
写真x5:野辺の送りに担がれる「神輿の様な物」。写真x5-1:「神輿の様な物」の上の白い鳥。

 私たちは地元の人々が食べている店に入り8:00頃朝食をした後、旅館で荷造りして停車中の陽朔往き路線バスに乗り込みました。見ると昨日と同じ車掌さん(女性)でした。バスは9:00出発です。
 その時、バスの外で爆竹が一斉に弾ける音が聞こえたので外を見ると、鳴らして居るのは昨日の葬式の連中「葬式の続き」を遣り始めた訳です。朦朦(もうもう)と爆竹の煙が立ち込めて居ます。
 葬式と関係無いバスはやがて揺れ乍ら走り出しました。私は走るバスの中から「葬式の続き」を振り返ると見えたのです(左下の写真)。今仮に「赤い被り物」を被ったグループ(=第1グループ)手前のグループ(=第2グループ)と名前を付けると、第1グループでは「神輿の様な物」が人々に担がれ「白鷺の様な鳥」が空へ舞い上がる様に揺られて居る光景(中央下の写真)が写り、第2グループの神輿では「奠」(※4~※4-2)と書いた布を身に付けた人が居ます(右下の写真)。どうやら死者が食べる米を冥界(※5)に持って行く様です。こういうのは中国の民間宗教、即ち道教なのでしょう。

白鷺の様な鳥
 │                      白鷺の様な鳥 「奠」と書いた
 ↓第1グループ      第2グループ      の拡大    布の拡大
┌───┴───┐   ┌───┴────┐     ↓      ↓
写真x6:死者を送る人々が鳴らす爆竹。
                      ↑
                 この天秤を担いでいる人は通行人

 ところで「奠」という字は乞巧奠(=七夕の祭事)に使われて居ます。乞巧奠については▼下▼をご覧下さい。
  冷泉家時雨亭文庫(Reizei Shigure-tei library)

 やはりあの「神輿の様な物」は死者を黄泉の国(※5-1)に送り出す為の物だったのです。私も合掌!

                (-_-)
                _A_


写真18:田園の桂林。



 9:00に発車したバスは朝もやの田園風景の中を暫く走ります。この辺りでは奇岩は漓江を離れた陸地の中迄続いて居ます。所々にたくさん実を付けた柿の木が見えました。
 左の写真は走るバスの中から撮ったもので、稲の刈り入れをして居る家族です、漓江の桂林に対し田園の桂林です。ミレー(※6)が描く農村風景の様に飽く迄静かです。さらば、興坪!!
 

 ■結び - 「死者を送る鳥」、そしてSARSを乗り越えて

 案の定、興坪では日本人に会いませんでした。私はそういう所が好きですねえ。

    ◆「死者を送る鳥」という概念の普遍性

 私は葬儀で見た「神輿の様な物」「白鷺の様な鳥の姿の飾り」死者を送る為に皆に担がれていた光景が忘れられません。私が興味を惹かれるのは、鷺や白鳥や鶴や鷲など、大きな鳥は人が死んで冥界(※5)に行く時に「死者を送る鳥」として日本の伝説や民話などにしばしば登場する事です。逆に言えば、人は誰かに送って貰わないと恐ろしくて異界(※5-2)になど行けないのです。その時に鳥がイメージされるのは「鳥の飛翔力」です。人は自分が死ぬ時に成って初めて自分の無力さに気が付き、この世とあの世の境界をいとも容易(たやす)く飛び越えて仕舞う「鳥の飛翔力」に縋(すが)るのです。
 古代エジプトでも「肉体は死んでも、霊魂のバァと、故人の性格や生命力が集まったものであるカァとは死者とともに生き続けるものと信じられていた。バァは、人頭をもった鳥の姿で表わされるように、飛んで肉体をはなれ、墓の外へ出て行ったりしてカァのために供物を運ぶ役目だった。」と在ります(△2のp120~121)。
 古代バビロニアの物語には「使者はタカのような爪をもち、巨鳥が冥界まで魂を護送するという古代思想に対応している。」と在り(△2-1のp67)、更に「イスチャリで発見された多数の土焼小板は、羽毛を身につけた上、足にをつけて表されており、これはバビロニアの地下界の主ネルガルの表現であろうと推定されている。」と書かれて居り「死者の魂はしばしばの形をとる」と言って居ます(△2-1のp67~68)。「死者を送る鳥」という概念は世界的に普遍性が有るのかも知れません!
 興坪の葬儀でも、死者が食べる米を供物として捧げて居ました、それが「奠」の意味だった訳です。そして「白鷺の様な鳥」が死者を送りました。因みに、京都の鳥辺野(※5-3)は平安時代の火葬場でしたが「死者を送る鳥」のイメージが籠められて居ます。

    ◆03年はSARSで「漓江下り」は全面ストップ

 03年は皆さんもご存知の通り、冬から春に掛けてSARS(中国では非典型肺炎と呼びます)が大流行し、”数珠繋ぎ”の「漓江下り」遊覧船が全面ストップし1艘も運航しなく成りました。この旅行記はSARSが落ち着く迄暫く待ちました。書き終えた今(=04年1月10日)は下火に成って「漓江下り」も少しは復旧して居る様ですが、観光客の足は未だ遠退いた儘です。桂林市や陽朔は観光客で持っている街なのでその打撃たるや大変なものでしょう。
 その点、興坪は元々観光客が見向きもしなかった所、否々、観光客に阿(おもね)らない地域なので、却ってヘッチャラだと思って居ます。私はこういう地に足の着いた芯の強さが好きです。{この節はSARSの流行を見定める為に04年1月10日に追加}

 尚、[2002年雲南桃源旅行・解脱編]シリーズの他画面への切り換えは最下行のページ・セレクタで行って下さい。(Please switch the page by page selector of the last-line.)

♪♪♪ おしまい ♪♪♪

【脚注】
※1:鍋料理を中国では「火鍋」と言います。この鶏鍋の料金が80[元/3人]で、ホテル1泊代と同じだったので、「高いやんけ」と言い乍ら食いました、アッハッハ。

※2:太極拳(たいきょくけん)は、中国の拳法の一。陰陽変化の理に則ったもの。ゆるやかに円を描く動作が主。陳式・楊式などの派が在る。現代でも身体鍛錬・精神修養の為に盛行。

※3:ポンカン(椪柑・凸柑)は、(ポンはインド西部の地名 Poona に依る)台湾・中国南部に産するミカン類の代表的品種。原産地はインド。日本では鹿児島県などで生産。花は白色、果実は冬に熟し、大形で扁球形又は球形。果皮は厚く、橙黄色。果肉は柔軟で、香気高く甘味が多い。

※4:奠(くま)は、「くましね」に同じ。
※4-1:「奠」は、読みは〔音〕テン、デン。〔訓〕まつる、さだめる。
 〔意味〕は、[1].酒食を供えて祀る。そなえ物。「釈奠(せきてん)、香奠(こうでん)、奉奠、乞巧奠(きっこうでん)」。
 [2].(尊いものの)位置を定める。安置する。「奠都」。
※4-2:奠稲/糈米(くましね)とは、神仏に奉る洗い清めた米。奠(くま)。かしよね。洗い米(あらいよね)。お洗米。お供米。俊忠集「きねがとるその―に思ふことみつてふ数を頼むばかりぞ」。

※5:冥界(めいかい、Hades)は、この場合、冥途。黄泉路(よみじ)。あの世。「―をさまよう魂」。
※5-1:黄泉(よみ、land of the dead, Hades)は、(ヤミ(闇)の転か。ヤマ(山)の転とも言う)死後、魂が行くという所。死者が住むと信じられた国。黄泉国(よみのくに/よもつくに)。黄泉(こうせん)。冥土。九泉(きゅうせん)。万葉集9「ししくしろ―に待たむと」。
※5-2:異界(いかい、the other world, evil spirit world)とは、日常とは異なる世界。物の怪(け)や霊の住む領域。
※5-3:鳥辺野/鳥部野(とりべの)とは、京都市東山区の清水寺から西大谷に通ずる辺。平安時代の火葬場。鳥辺山。鳥部山。

※6:ミレー(Jean Francois Millet)は、フランスのバルビゾン派を代表する画家(1814~1875)。バルビゾンに住み農民の友としてその生活を描いた。作「春」「落穂拾い」「晩鐘」「種をまく人」など。

    (以上、出典は主に広辞苑です)

【参考文献】
△1:『地球の歩き方D05 広州・桂林と華南 2002~2003年版』(「地球の歩き方」編集室、ダイヤモンド社)。

△2:『古代エジプト文明の謎』(吉村作治監修、光文社文庫)。
△2-1:『世界最古の物語 <バビロニア・ハッティ・カナアン>』(H.ガスター著、矢島文夫訳、現代教養文庫)。

●関連リンク
参照ページ(Reference-Page):カルスト地形や桂林の興坪の地図▼
地図-中国・桂林地方(Map of Guilin region, -China-)
参照ページ(Reference-Page):中国の少数民族▼
資料-中国の55の少数民族(Chinese 55 ETHNIC MINORITIES)
補完ページ(Complementary):03年春に大流行したSARS▼
2003年・新型肺炎SARSとは?!(The SARS, new pneumonia, 2003)
横顔(Profile):北山塞翁と「雲南桃源倶楽部」について▼
雲南桃源倶楽部(Yunnan is Shangri-La)
興坪往きのバスの「笑い上戸」や鶏鍋屋の娘▼
中国名花集-花の写真館(Chinese Flowers)
ネズミ食の話▼
中国のヘビーなお食事-”食狗蛇蠍的!”(Chinese heavy meal)
乞巧奠(七夕の祭事)について▼
冷泉家時雨亭文庫(Reizei Shigure-tei library)
中国の少数民族について▼
外部サイトへ一発リンク!(External links '1-PATSU !')


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          3:桂林の漓江下り(Lijiang)|4:桂林の興坪(Xingping)|

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