資料-中国の55の少数民族
(Chinese 55 ETHNIC MINORITIES)

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 ■はじめに - 唯一絶対多数民族と55の少数民族
   (Only one majority and the other 55 ethnic minorities)

 中国には55の少数民族が居り、それを全人口の約92.9%を占める漢族が支配する形で国が成り立って居ます。1995年頃の統計に依れば、中国国内に漢民族が約12億人で、中国の少数民族の合計が約9200万人です。何れにしても、55の民族を全部合わせても人口比で7%程なのです。それ故に少数民族なのです。
 このページでは漢族及び全ての少数民族を記します。【参考文献】△1より基本的内容を概ね採り、それに私が【参考文献】△2などを参考に可なり修正・補足し、漢族は全部私が作りました。又、民族の並び順は【参考文献】△3に従いました。
 尚、各民族の説明でタイトルは

    25. タイ族、ダイ族(Dai ethnic minority group)
      <傣族(Dai zu)>

の様に2段に成って居ますが、上が国際的名称下が中国国内での呼称です。

 中華人民共和国は1959年頃から少数民族に対し同化政策を押し進めました、漢族の人々はこれを”社会主義の民主的改革”と呼んで居ます。
 先ず、遊牧民族に対しては定住化政策を採り、20世紀の半ば迄狩猟・漁労をし原始的な生活を送って来た民族には農業化近代化を断行しました。又、原始宗教、特にシャーマンに依る病気・悪霊・死霊などの除去は、その民俗的価値を尊重しつつも、徐々に止めさせました。
 又、ミャンマー/タイ/ラオス国境の金三角地帯(ゴールデン・トライアングル)では1980年頃迄麻薬組織が幅を利かし、関係3国の少数民族の一部は阿片栽培をさせられて居ました(△4のp15)。その中には中国雲南の少数民族の同胞たちが居ます。金三角の麻薬王クン・サー(坤沙)が1996年ミャンマー軍事政権に降伏した為この地域は開放されました。これを受けて3国政府は「ケシ栽培と焼畑を止めさせ、周辺のインフラを整備し、山岳民族の生活向上と教育を普及」というスローガンを掲げ、この地帯は生まれ変わりました(クン・サーは2007年に死去)。しかし少数民族と国境という問題は依然として残された儘です。
 もう一つ、これは政策も在りますが文明の問題です。今では少数民族も携帯電話が普及して居ます。山間部では水力発電ダム高速道路が作られ、辺境地域に於いては風力発電太陽光発電を急速に進めて居り、20世紀前半迄原始的生活を営んで居た人々が21世紀はエコの最先端、という事が実際起きて居るのです。

 ■漢族(Han race is Chinese only one majority)

  ●唯一絶対多数民族(1民族)の詳細(Detail of only one majority)

     0. 漢族、漢民族(Han race)
      <漢族(Han zu)>

 総人口は約13億人(一説に拠ると14億ともそれ以上とも言われて居る)である。漢族は中華人民共和国(中国)/中華民国(台湾)/シンガポールで大多数を占める民族で、人類の約20%を占める世界最大の民族集団と言う事が出来る。この他に東南アジアやアメリカ大陸などに在住する華僑華人が居る。その内、中国国内が約12億人(これも実際には統計を上回るとされて居る)で、中国の少数民族の合計が約9200万人なので、漢族は人口比率で[今の統計に従えば]約92.9%を占める事に成り、何れにしても漢族が中国の唯一絶対多数民族である事は微動だにしない。しかし中華人民共和国では法規上規定された少数民族以外の人々は皆漢族に属することに成って居り、漢族という積極的な民族規定は存在しないのも事実である。
 漢語(中国語)はシナ・チベット語族である。文字は「文字の国」を自負する漢字である。
 伝説上、漢族の起源とされている夏王朝は洛陽に在ったとされているが、夏王朝に所縁の会稽山は淮河下流・長江下流に在り、夏人の竜信仰から見て彼等は中国大陸東南方のの出身と考えられる。次の殷から歴史時代に入るが、殷王朝を打ち建てたのは東北地方の狩猟民であり、周王朝はチベット系の遊牧民と考えられ、蒙古族の元王朝、満族(満州族)の清王朝など、漢族の政治史は古代以来北方民族の侵略の歴史である。漢族はこれら異民族を四神に擬えて「蛮」「夷」「夷」「狄」と呼んだが、異民族と黄河中下流域(=「中原」)の覇を競い、互いに接触し混合して形成されたと言える。だから漢族の人が好んで使う「中原地方に発する」(華夏)というのは幻想である。それを言うなら客家こそ該当者である。四大文明の1つが黄河文明なので憧れからであろうか。
 つまり漢族とはそれ自体が多民族(=雑種)なのである。その証拠に漢語は東と西、北と南では互いに意思疎通が不可能な程に差異の大きな方言集団なのだが、それは寧ろ当然なのである。大雑把に言うと、華北ではモンゴル語系の影響が強く、華南では南アジアのモン・クメール語系の影響が強い。又、江蘇省の呉語、福建省の閩語、広東省の粤語、更に福建・広東・江西に散在する客家が使う客家語など、地方に依って全く異なる方言が存在する。漢族は父系の家族集団 -「宗族」と言う- が基本で、農耕民族の典型である。水稲は南で、北は小麦/トウモロコシ/豆類など。豆腐脳 -苦汁(にがり)を加える前の豆腐に肉野菜の汁を掛けた物- は絶品(但し屋台御用達)。新疆ウイグル自治区にも在った。
 宗教では今日色々在るが、やはり道教こそ漢族から生まれた宗教で、後には非常に政治結社化した時代も在ったが、原初的には自然崇拝・呪術崇拝のアニミズムが元である(道教は日本の神道の底辺を成している)。これに殷時代の甲骨文字で名高い卜占から発達した易経が在り、易者の人気は今尚高い。日本にも伝わった節句は今も大変盛んであるが、例えば重陽(9月9日)という考え方に易経が反映して居る。儒教も漢族から生まれたが、これはどちらかと言えば道徳規範・徳育である。仏教は外来(=インド)だが、今日仏教を真剣に考えているのは僧侶だけである。これは日本と同じで、葬式など日常不可欠なものという考えである。これは私見だが漢族の宗教観=(道教+易経+拝金主義)/3である。漢族は徹底して現世利益(その点ではユダヤと同じ)であり、来世を信じ輪廻転生を信じ中有を重んじるチベット族の宗教観の対極である。
 漢族の四大発明は羅針盤/手漉き紙/木版印刷/火薬である。

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 ■55の少数民族(Fifty-five ethnic minority groups)

  ●少数民族の目次(Item-menu of minorities)
    - アイウエオ順 → シーケンス番号に変換

 目次ではアイウエオ順に並んだ読みから、実際に民族を説明しているシーケンス番号(1~55)に変換します。勿論、ホームページでは直接リンクして居ます。

     アイウエオ順       →    シーケンス番号

   アチャン族           <阿昌族(Achang zu)>       35
   イ族、イー族          <彝族(Yi zu)>          26
   ウイグル族           <維吾爾族(Weiwuer zu)>      9
   ウズベク族           <烏孜別克族(Wuzibieke zu)     12
   エヴェンキ族、オウンク族    <鄂温克族(Ewenke zu)>       5
    (嘗てのツングース族)
   オロチョン族          <鄂倫春族(Elunchun zu)>      4
   フイ族、ホイ族、回族      <回族(Hui zu)>          8
   カオシャン族、高砂族      <高山族(Gaoshan zu)>       54
   カザフ族(烏孫の後裔)     <哈薩克族(Hasake zu)>      14
   キルギス族           <柯爾克孜族(Keerkezi zu)>    13
   コーラオ族(僚の後裔)     <仡佬族(Gelao zu)>        46
   サラ族             <撒拉族(Sala zu)>        18
   シェ族             <畲族(She zu)>          52
   シボ族(鮮卑の後裔)      <錫伯族(Xibo zu)>        17
   シュイ族(駱越の後裔)     <水族(Shui zu)>         45
   ジン族、ベトナム族、旧称は越族 <京族(Jing zu)>         50
   タイ族、ダイ族         <傣族(Dai zu)>          25
   タジク族            <塔吉克族(Tajike zu)>      10
   タタール族、韃靼族       <塔塔爾族(Tataer zu)>      11
   ダフール族           <達斡爾族(Dawoer zu)>       7
   チノー族、ジノー族、ジーヌオ族 <基諾族(Jinuo zu)>        39
   チベット族、西蔵族       <蔵族(Zang zu)>         22
   チャン族(古代「羌」の後裔)  <羌族(Qiang zu)>         42
   朝鮮族             <朝鮮族(Chaoxian zu)>       3
   チワン族            <壮族(Zhuang zu)>        47
   チンポー族、チンプオ族     <景頗族(Jingpo zu)>       33
   トゥチャ族           <土家族(Tujia zu)>        48
   トゥ族、トウ族(吐谷渾の後裔) <土族(Tu zu)>          19
   トーアン族           <徳昂族(Deang zu)>        38
   トゥーロン族、トールン族    <独龍族(Dulong zu)>       37
   トンシャン族          <東郷族(Dongxiang zu)>      20
   トン族             <侗族(Dong zu)>         43
   ナシ族、ナーシー族       <納西族(Naxi zu)>        40
   ヌー族             <怒族(Nu zu)>          28
   パオアン族(保安回とも)    <保安族(Baoan zu)>        16
   ハニ族             <哈尼族(Hani zu)>        29
   プイ族             <布依族(Buyi zu)>        44
   プーラン族           <布朗族(Bulang zu)>       34
   プミ族             <普米族(Pumi zu)>        36
   ペー族、白族          <白族(Bai zu)>          27
   ホーチョ族、ホジェン族、魚皮族 <赫哲族(Hezhe zu)>        6
   マオナン族           <毛南族(Maonan zu)>       51
   満州族(粛慎の後裔)      <満族(Man zu)>          2
   ミャオ族            <苗族(Miao zu)>         41
   メンパ族            <門巴族(Menba zu)>        23
   ムーラオ族           <仫佬族(Mulao zu)>        53
   モンゴル族、蒙古族       <蒙古族(Menggu zu)>        1
   ヤオ族             <瑶族(Yao zu)>          49
   ユイグー族(鉄勒の後裔)    <裕固族(Yugu zu)>        21
   ラフ族             <拉祜族(Lahu zu)>        32
   リス族、リースー族(烏蛮の後裔)<傈僳族(Lisu zu)>        31
   リ族、リー族          <黎族(Li zu)>          55
   ローバ族            <珞巴族(Luoba zu)>        24
   ロシア族、オロス族、オロシャ族 <俄羅斯族(Eluosi zu)>      15
   ワ族、ワー族          <佤族(Wa zu)>          30

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  ●55の少数民族の詳細(Details of 55 minorities)

   ◆内蒙古地方

     1. モンゴル族、蒙古族(Mongol ethnic minority group)
      <蒙古族(Menggu zu)>

 人口は約480万人
 主に内蒙古自治区新疆/青海/甘粛/黒竜江/吉林/遼寧などの省・自治区の蒙古族自治州・県に集中して居り、その他は寧夏回族自治区/河北/四川/雲南/北京などの地区に居住して居る。
 蒙古語を使い、この言葉はアルタイ語系蒙古語派に属する。中国の蒙古語は、内蒙古/バルコ・ブリアト/オイラートという3種類の方言があり、蒙古文字が使われて居る。
 13世紀初めに回鶻(←ウイグル族の前身)の文字を元に創られた蒙古文字は何回かの改革を経て今日の蒙古文字と成って居る。
 蒙古という呼称は最初は唐代に使われたもので、その時の蒙古に於ける多数の集落の中の1部落の呼称である。この部落の発祥の地はアルグン川の東岸一帯で、その後次第に西へ移ることに成り、各部落の間で人・家畜と財産を略奪しあい、絶え間ない部落間の戦争が展開される様に成った。1206年にテムジンが蒙古の大汗に推戴され、号をジンギスカーン(成吉思汗)とし蒙古国を建国し、それ以後中国北部には初めて強大でしかも安定的に発展をとげる民族、即ち蒙古族が現れた。ジンギスカーンは蒙古族の各部落を統一し、中国を統一し、元朝を築き、その後又大規模な軍事行動を通じて、その領域を拡大した。元代から、蒙古族の人たちは中国の政治・軍事・経済・科学技術・天文暦算・文化芸術・医学などの各面で大きな貢献をした。又、蒙古相撲/馬頭琴/ホーミーは名高い。
 蒙古族の生業は伝統的に馬/羊/牛/山羊/駱駝の「五蓄」遊牧民族である。その為、草原にゲル -漢語ではパオ(包)- と言うフェルト製のテントに住むが、最近は中国政府の定住化政策が定着して煉瓦の家が普及している。中でも主食はで、毛・乳(ミルクやチーズ)・肉を取る。羊の放牧には必ず羊100頭位に山羊を1~2頭混ぜると、羊はパニックを起こさない蓄糞は燃料に使われる。又、蒙古族は馬との関わりも深く競馬も盛んで競馬場も在る。そして馬乳酒は極致である。
 草原では風力発電太陽光発電が普及してる地域も在る。
 蒙古族の人たちの大多数はチベット仏教(ラマ教)を信仰している。嘗てチベットは元に支配された事が在るが、支配された民族の宗教に支配した側の民族が染まる特異な例である。
 現在、中国国内の他に独立国のモンゴル国が在る。

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   ◆東北地方

     2. 満州族(粛慎の後裔)(Manchurian ethnic minority group)
      <満族(Man zu)>

 人口は約982万人
 満州族は全国各地に分布し、その中でも遼寧省が最も多い。
 満州語はアルタイ語系満州・ツングース語派満州語分支に属する。南・北2種類の方言がある。漢民族と共に生活し密接に触れ合って居る為、今の満州族は漢語を使う様に成り、極少数の辺鄙な満州族が集まって居住している村などで少数の年寄りが満州語を使っている。
 16世紀末モンゴル語を基礎として満州語を創った。
 満州族は長い歴史を持つ民族で、その祖先は2000年前の粛慎迄遡ることが出来、その子孫たちは「挹婁」「勿吉」などと呼ばれて居た。満州族の人々はずっと長白山以北の黒竜江の中・下流、ウスリー川流域の広大な地域で生活していた。「黒水」は満州族の直系の祖先で、その後女真へと発展をとげた。12世紀に金王朝を創建した。1583年、ヌルハチが女真族の各派を統一し八旗制度を創設し、満州語を作り、1635年に民族の呼称を「満州」とした。八旗制度は政治・軍事・生産という3つの面の職能を持ち、満州族社会の根本的な制度と成った。1636年皇太極が帝と成り、国号をと改称した。1644年、清の軍隊が山海関の内側に入り、清の王朝は中国の統一中央集権の最後の封建王朝に成った。
 1911年の辛亥革命で清が倒されて以後、満州族と称されている。満州族は中国の統一・国土の開拓・経済・文化の発展に大きく寄与した。
 満州族の食べる焼き餃子が戦後日本に入って来たが、満州族の餃子は日本の様にワンパターンでは無い。200種類位在り皮の厚さも5段階位在る。厚皮の餃子は御飯が要らない。因みに1人前で20個位在る。尚、中国では餃子と言えば水餃子・蒸し餃子を指し焼き餃子が無い所が殆ど。又、驢肉(ロバ肉)は軽くて旨い。
 元々満州族の人たちは嘗て多くの神を祭るシャーマニズムを信奉狩猟が主であったが、次第に漢族に同化して行き、今では農業が主と成りシャーマニズム信仰はもう残って居ない

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     3. 朝鮮族(Korean ethnic minority group)
      <朝鮮族(Chaoxian zu)>

 人口は約192万人
 朝鮮族は主に吉林省に分布し、その次は黒竜江省/遼寧省で、内蒙古自治区に分散して居住している人たちも居る。吉林省延辺朝鮮族自治州は最大の集中的居住地区である。
 大多数の朝鮮族の人たちは朝鮮語と朝鮮の文字を使用し、朝鮮語はアルタイ語系(未だ定説では無い)に属し、6つの方言が在る。
 朝鮮文字は朝鮮の李朝世宗の主宰の下で、1444年に創出された表音文字ハングルで、1446年に「訓民正音」の名で公布された。
 朝鮮族は中国の少数民族の中でも教育レベルが比較的高く、経済の発展が比較的速く、人々の物質的生活も比較的良い民族である。中国の朝鮮族の人々は、主に19世紀中葉に朝鮮半島から続々と移住して来たのである。1910年に、日本帝国主義が朝鮮を併呑した後、帝国主義の残酷な抑圧と搾取に堪えられなく成った朝鮮の人たちの多くが中国の東北地区へ移住し、1918年までに36万余人に達した。この人たちは東北地区に定住し、次第に中国の少数民族の一つに成った
 朝鮮族の人々は寒い北方での水稲の栽培に長じ、産出される米は純白で、栄養が豊富である。延辺朝鮮族自治州は「中国北部の水稲の里」と讃えられている。今のキムチは16世紀以降の料理 -南米原産のトウガラシはコロンブス以降- で、それ以前は辛味は蓼(たで)・ニンニク・生姜である。冷麺も旨いがザラメの砂糖は好き好き。長白山森林地帯の特産物である朝鮮にんじんテンの毛皮シカの角は 「東北の三宝」と言われる。老人を敬い、幼きを大事にする事は朝鮮族の人々の美徳である。
 朝鮮族の人々の間では宗教を信仰する人は少なく、極少数の人たちが仏教キリスト教(一部はカトリック)を信仰している。
 現在、朝鮮族は大韓民国(韓国)朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)を作って居る。因みに、韓国ではキリスト教徒が25%と非常に多い。

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     4. オロチョン族(Orochon ethnic minority group)
      <鄂倫春族(Elunchun zu)>

 人口は約7000人
 内蒙古自治区と黒竜江省の接する所にある大小興安嶺、特に内蒙古自治区フルンベル盟オロチョン族自治旗に住んでいる。
 オロチョン族の言葉を使用し、この言葉はアルタイ語系満州・ツングース語派ツングース語に属する。
 この民族は文字を持って居らず、公用文字は漢字
 「オロチョン」とは彼等の自称で「トナカイを飼育している人たち」という意味である。この呼称は清朝初期の史料の中に記録が残っている。オロチョン族の人々は長期に亘って狩猟の生活を主とし、採集と魚を獲ることを補助的なものとして来た。殆どの男子が優れた騎手と百発百中の射手であり、色々な野獣の習性と生態の法則を良く知り、豊富な狩猟の経験を持ち、20世紀40年代頃迄は未だ原始共同体の残存を保つ狩猟民族であった。獲物は部族の内部で平均的に割り当て、一部の原始社会の共同消費と平均割当の習慣を保存し、老人・虚弱者・負傷者・身障者は1人前の分配に与るだけでは無く、更に少し多く貰えることに成っていた。家族毎にテントに住み、獲物は食肉用に野生トナカイ(飼育用にも使う)・大鹿・ノロ(麕)・ヘラジカ・猪・熊などで、毛皮用にテン・リス・キツネなどである。
 新中国成立後、オロチョン族の人たちは一挙に社会主義に入ることに成った。今では定住の生活を実現し、狩猟に別れを告げ、森林と野生動物の保護者と成っている。オロチョン族の人々は頭の回転が速く、手も器用で、シラカバの木の皮を利用して美しい手芸品 -衣服/靴/籠/桶/箱など- を作り、カバノキの皮を張った小さくて精巧なもある。これらの物には美しい図案が施され、小さくて精巧で丈夫で、そして精致で上品である。
 オロチョン族の人々はシャーマニズムを信奉し、自然界の事物を崇拝し、万物には魂が在ると信じている。祖先崇拝が盛んに行われている。
 彼等の同胞はロシア連邦にも居る。

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     5. エヴェンキ族、オウンク族(嘗てのツングース族)
       (Evenki ethnic minority group)
      <鄂温克族(Ewenke zu)>

 人口は約2万6000人
 エヴェンキ(オウンク)族は主に内蒙古自治区フルンベル盟のエヴェンキ自治旗と周辺の一部の旗(地方の県に相当)、黒竜江省の訥河県/漠河県などに住んでいる。
 エヴェンキ族の言葉はアルタイ語系満州・ツングース語派ツングース語に属する。海拉爾・陳巴爾虎・敖魯古雅の3つの方言がある。
 エヴェンキ族は自民族の文字を持たず、放牧地区での公用文字はモンゴル文字で、農業地区と山岳地帯での公用文字は漢字である。
 エヴェンキは自らの呼称であり、「大きな山林の中に住む人々」という意味である。歴史上異郷に住んでいたエヴェンキ族の人々は嘗てそれぞれ「索倫」「ツングース」「ヤクート」などと呼ばれ、1957年にこの民族の願いに基づいて、統一した民族の名称はエヴェンキと成った。
 エヴェンキ族の人々の祖先は元々バイカル湖以東と黒龍江上流の山林の中で暮らし、漁業・狩猟に従事し、トナカイを飼育していた。以後、東へと発展し、現在、エヴェンキ族の人口は少ないが、分布はより広いものと成り、蒙古族/ダフール族/漢族/オロチョン族などの民族の人々と一緒に大興安嶺西側の緩やかな斜面と草原地区で共に暮らしている。新中国成立以前、オルグナ左旗に住む少数のエヴェンキ族の人々は依然として原始社会末期の父系氏族社会の段階にあり、原生林の中で生活し、お粗末なテント(撮羅子)の中に住み、定住しては居なかった。そしてトナカイを飼育していた為、しばしば「トナカイを飼い馴らしている人」と称され、共同で狩猟を行い、物を均等に割り当てる原始社会の生活をしていた。獲物は食肉用に野生トナカイ(飼育用にも使う)・大鹿・ノロ(麕)・熊などで、毛皮用にテン・リス・キツネなどである。土器は無く、器はとか木の皮を使う。
 新中国成立後、エヴェンキ族の新しい住宅区が建てられ始め、定住して放牧を行う様に成り、水草を追って暮らす状態を徹底的に変えた。
 以前、エヴェンキ族の人々の多くはシャーマニズムを信奉して来た。牧畜民は同時にチベット仏教(ラマ教)を信奉している。これは蒙古族の影響である。
 彼等の同胞はロシア連邦にも居る。

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     6. ホーチョ族、ホジェン族、魚皮族(Hezhe ethnic minority group)
      <赫哲族(Hezhe zu)>

 人口は約4200人
 主に黒竜江省の同江県/饒河県/撫遠県に集中して居住している。少数は付近の県の村に散在している。
 ホジェン(ホーチョ)語を使用し、この言語はアルタイ語系満州・ツングース語派満州語分支に属している。奇楞と赫真という2つの方言がある。今では50、60代以上の人たちだけがホジェン語を話すことが出来、漢語を使う様に成っている。
 ホジェン族は自民族の文字を持たず漢字を使っている。
 ホジェン族は中国の長い歴史を持つ民族の一つで、その祖先は早くから黒龍江/松花江/ウスリー川という3つの河の流域で暮らして来た。ホジェン族の人たちは以前から魚の皮 -サケ・マスの皮- で作られた服を着(魚皮衣服)、犬を連れていた為「魚皮部」「使犬部」と呼ばれた。明の時代にはホジェン族は女真の一分支であった。清の始め頃から「黒斤」「黒其」「赫真」「奇楞」「赫哲」などの呼称で文献の中に記載されている。
 新中国成立後、ホジェン(赫哲)と呼ばれた。20世紀の初め、ホジェン族社会の発展は未だ原始社会の末期父系氏族の段階にあり、木を削り、革を裂き、縄を結ぶ遣り方で物事を記録していた。日本帝国主義が中国を侵略した時、ホジェン族/オロチョン族などの少数民族に対し野蛮な統治 -人種絶滅政策- を実行し、ホジェン族の人口を激減させた。抗日戦争の終結前に絶滅の瀬戸際に追いやられる事に成った。新中国が成立した時は僅か300余人しか残って居なかった。
 新中国成立後、ホジェン族の人々は新しい人生のスタートを切った。長年漁業に携わり豊かな漁業の経験を蓄積している。同時に、農業・養殖業などの多角経営を展開することに成った為、生活は豊かに成っている。彼等は魚の生食(彼等が獲るのは淡水系の魚)を行う数少ない民族(日本人など)であり、嘗ては調味料など無かったが今では調味料を使う様に成った。サケ・マスの他にキャビアを採る為にチョウザメも獲る。
 ホジェン族は以前からシャーマニズムを信奉し、万物に魂が在ると信じを崇拝して居たが、今ではシャーマニズムを信奉しない様に成った。
 彼等の同胞はロシア連邦にも居る。ロシアでは現在はナナイ(Nanai)と呼ばれ、嘗てはゴルディ(Goldi)と呼ばれた。

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     7. ダフール族(Dawoer ethnic minority group)
      <達斡爾族(Dawoer zu)>

 人口は約121万人
 ダフール族は主に内蒙古自治区モリダワ・ダフール族自治旗と近くの旗県、黒竜江省チチハル市郊外地区と近くの県に集中しており、少数の人たちが新疆ウイグル自治区ターチョン県に居住している。
 ダフール族の人々はダフール語を使用し、ダフール語はアルタイ語系蒙古語派に属し、ブトハ(布特哈)とチチハルの2つの方言がある。ダフール族の言葉は語彙が豊かで、漁業・牧畜・狩猟・農耕を表すものが多く、その中には漢語/満州族語/エヴェンキ語から吸収した語彙も在る。少数の人たちは満州族語/蒙古語/カザフ語に通じている。
 ダフール族には自民族の文字が無く、主に漢字を使用している。
 ダフール族は中国の北部地区の悠久な歴史と農耕文化を持つ民族である。ダフールは「耕すもの」の意味で、これはダフール族の人たちの自称で、元代の末明代の初めに現れた呼称である。清代の康煕初年頃に、「打虎児」の訳名が現れ、後に「達胡爾」「達虎里」「達呼爾」と訳される様に成った。
 新中国成立後、この民族の人たちの願いに依って、統一してダフールと定められた。研究に依ると、ダフール族は遼国スキタイ族の子孫だとされる。清代にはダフール族は八旗制度(満州の戸籍制)に編入され、辺境の要衝を守る為徴用され、新疆へ出征した事さえ在る。その為に東北地区の他、新疆のターチョンにも未だ数千人のダフール族の人がいる。中国の歴史の中で、ダフール族の人たちは他の民族の人々と共に中国の北部辺境地帯の開発に努め、祖国の領土を守り、帝制ロシアの侵入に抵抗する上で不朽の業績が在る。ダフール族の人たちはホッケー(曲棍球)が好きで、モリダワダフール族自治旗は「ホッケーの里」と讃えられている。
 ダフール族はシャーマニズムを信仰し、シャーマニズムは自然崇拝、トーテム崇拝、祖先崇拝を含めた原始宗教であり、少数の人たちはチベット仏教(ラマ教)を信仰している。
 彼等の同胞は極少数が嘗てのソビエト連邦に居たが、今はロシア側の統計に無い。

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   ◆中西北部~南部

     8. フイ族、ホイ族、回族(Hui ethnic minority group)
      <回族(Hui zu)>

 人口は約860万人
 主に寧夏回族自治区に集中的に居住し、甘粛省/青海省/河南省/河北省/山東省/雲南省などの地域に規模は異なるが集中的に居住している区域が在る。その他の地域には多くの回族の人々が集中的に居住している区域と分散して居住している区域がある。回族(フイ族/ホイ族)は幅広く分布し、全国各地に散在し、中国で分布地域の最も広い少数民族である。
 回族の人たちは漢民族の人たちと長年生活して来た為、漢語を使い、その他の民族と一緒に生活している回族の人たちはその民族の言葉を使うことが出来る。少数の人たちはアラビア語ペルシャ語に精通している。文字は漢字を使っている。
 回族のルーツは西暦7世紀に溯ることが出来る。当時アラブとペルシャの商人が中国へ商売をしに来て、中国南東部沿海の広州・泉州などに居住していた。数百年に亘る発展を経て、これらの人たちは回族の一部と成った。その他に、13世紀の初め頃、戦争の為中国西北部に移住させられた中央アジアの人たち、ペルシャ人とアラブの人たち -彼等は「色目人」と呼ばれた- は、婚姻・宗教などの形で絶えず漢族/ウイグル族/モンゴル族の人々と融合し、回族を形成することに成った。
 現在、全国の殆どの県・市には回族が居住して居る。回族の人たちはイスラム教を信奉し、集まり住んでいる都市・郷・鎮・村にはモスク(清真寺)が建てられ、モスクを囲んで居住することがその特徴と成っている。彼等は特有の飲食習慣 -「豚の国」中国で豚を食べない清真という習慣を守り通す- が在る為、飲食業を主とする事業を営む伝統が在る。回族の人たちは経済・教育のレベルが割りに高く、中国歴史の発展の為に大きく寄与している。
 回族の男性は頭に鍔の無い白い帽子を被り、女性は男性と同じ帽子か、又はスカーフで頭を包むので、外部の人は回族だと判る。因みにイスラム教のことを日本で回教、信者のことを回教徒と呼ぶのは、この回族に由来して居る。明の大航海者・宦官の鄭和も回族である。

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   ◆西域(天山・崑崙)

     9. ウイグル族(Uighur ethnic minority group)
      <維吾爾族(Weiwuer zu)>

 人口は約721万人
 主に新疆ウイグル自治区に分布し、天山以南の各オアシスに住んでいる人が多いが、湖南省桃源県/常徳県などにも住んでいる。
 ウイグル語はアルタイの語系突厥語派に属する。中心/ホータン/羅布の3種の方言がある。
 アラビア文字を表音文字として使っている。
 ウイグル族は中国北西部の長い歴史を持つ民族の一つであり、「ウイグル」と自称し、「団結」「連合」の意味である。その祖先は紀元前3世紀に中国北部一帯に住んでいた遊牧民族のディンリィン及びその後のティエロに遡ることが出来る。ティエロは西チュルクハン国の一部であり、7世紀に回コ汗国を打ち建て、唐朝と友好を旨とした従属関係を結んだ。回コは後に回鶻と改称され、9世紀に新疆に移住して地元の各民族の住民と互いに融合しあい、次第にウイグル族に発展した。ウイグル族の人たちは主に農業に従事し、綿花/ブドウの栽培や園芸に長じ、経済の発展が速い。
 新中国成立後の1955年に新疆ウイグル自治区が設置され、国の力強いバックアップと援助の下で、自治区の工業や農業及び各分野は大発展を遂げた。
 彼等の食事はトマト味 -ケチャップでは無く本物のトマト- でが中心だ。麺は手打ち饂飩(うどん)。麺は何でも有る感じで、細麺/太麺/刀削麺/きし麺の様な麺で、これにトマトやピーマンと羊肉の具を、炒める汁麺にして食べる。炒めた麺がパスタだったら即イタリアのスパゲッティに成って仕舞う。トマト味の炊き込み御飯も旨い。朝は焼き立てのナン。これが乾燥すると乾パンに成り(こちらは乾燥してるので1日で成る)、これは砂漠の非常食。街中で売ってるケバブ(シシカバブ)も旨いし砂鍋(土鍋料理)は最高。但し、イスラムは酒が無いので、トマト味に飽きたり酒が飲みたければ中華の店に。それとトルファンの葡萄ハミ(本当はピチャンの特産)のハミ瓜は絶品。民族楽器が豊富で楽器屋も多く、列車にも色々な種類の弦楽器を持ち込み演奏して仕舞う
 大多数のウイグル族の人たちはイスラム教を信仰している。ウイグル族の一部にウイグル独立勢力が在り、2006年頃から表面化しテロも発生して居る。その経済的根拠はタクラマカン砂漠から石油が出て居る事にある。

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    10. タジク族(Tadzhik ethnic minority group)
      <塔吉克族(Tajike zu)>

 人口は約3万3000人
 主に新疆ウイグル自治区の南西部に分布し、タシュクルガンのタジク自治県に集中して住んでおり、その他はサチェ/イプ/イェチョン/ピーサンに分布している。
 言語はインド・ヨーロッパ語系イラン語派パミール語分支に属するタジク語である。サチェなど地区のタジクの人たちはウイグル語を使っている。
 タジク族の人たちは殆どウイグル文字を使っている。
 タジク族のルーツは中央アジア地区の古い歴史を持つ民族と言われ、紀元前10世紀以前にパミール高原の東部に居住してベルシャ語を使っていた幾つかの部落に遡ることが出来る。西暦2~3世紀に、新疆タシュクルガン一帯にチェパントという国が現れ、その国の人たちはタジク族の祖先だと見られている。タジク族は同地域で絶えず発展を遂げ、小さな村が現れ、17世紀後期に成るとパミール西部と南部に住んでいた多くのタジク族の人たちもここに移住して来て、中国のタジク族と成った。「タジク」はその民族の自称であり、王冠の意味である。昔のタジク族は畜産業で生計を立て農業を兼業とし、半遊牧・半定住の生活を送っていた。今では果樹栽培が主で牧畜は副で、著しく工業化が進んで居る。
 新中国成立後の1954年、タシュクルガン・タジク自治県が設置された。国の力強いバックアップの下で、タジク族の経済は急速な発展を遂げ、人々の物質生活と文化生活の水準は著しく向上した。
 タジク族の人たちは殆どイスラム教を信仰している。
 現在、彼等の同胞はタジキスタン共和国を作って居る。

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    11. タタール族、韃靼族(Tatar ethnic minority group)
      <塔塔爾族(Tataer zu)>

 人口は約4800人
 新疆ウイグル自治区に分散して居住しており、人口の比較的に集中した居住地区はイーニン/ターチョン/ウルムチなどの都市である。
 タタール語を使っている。タタール語はアルタイ語系チュルク語派フンド語分支に属する。タタール語は一部の年寄りだけの間で使われており、他の人たちはカザフ語又はウイグル語を使っている。
 タタール族はアラビア文字を原形とする文字を持っているが、カザフ族/ウイグル族の人たちと共に暮らして居るので、この2つの民族の文字もタタール族の人たちの中で通用している。
 タタール族の祖先は唐代に中国北方の突厥国の「韃靼」部落から移住して来たと言われている。「達旦」「達達」「韃靼」「達怛」は何れもタタールの音訳である。13世紀に蒙古人が西へ征伐に赴いた時、西洋の人たちにタタールと呼ばれた。蒙古人の打ち建てたヨーロッパとアジアの両大陸に跨るキムチャクカーン国が滅びた後、15世紀にボルガ川一帯でカザンカーン国が蒙古人に依って打ち建てられ、16世紀にロシアに合併された。この時期にタタールは既に一つの民族と成っていた。19世紀初めから少なからぬタタールの人たちはロシアから中国の新疆に移住し、第2次大戦の終了後更に一部のタタール人が移住して来て、中国のタタール族と成った。
 畜産業に従事する人は村に住んでいるが、知識人教育関係者は都市部に住んでいる。教育関係者が新疆の教育事業の為に大きく寄与した為、タタール地区の教育事業は非常に発達している。ボロディンの『韃靼人の踊り』は超有名。
 タタール族の人たちの間ではイスラム教を信仰する人が多い。
 彼等の同胞はロシア連邦にも居る。

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    12. ウズベク族(Uzbek ethnic minority group)
      <烏孜別克族(Wuzibieke zu)>

 人口は約1万4000人
 ウズベク族は新疆ウイグル自治区に分布しているが、イーニン(伊寧)/ターチョン(塔城)/ウルムチなどの都市に比較的集中している。
 ウズベク語を使用する。ウズベク語はアルタイ語系チュルク語族西フン語分支に属する。大多数の人がウイグル語に通じる。
 文字はアラビア語を元とした表音文字である。
 ウズベク族の祖先は大昔中央アジアから中国に移住して来た。14世紀の前半、モンゴル帝国に属したキプチャクハーン国はウズベクハーンの支配の下で国力が強大と成った為、ウズベクハーン国と呼ばれると共に、その民もウズベク人と呼ばれる様に成った。元の時代、キプチャクハーン国のウズベクの人たちはシルクロードに沿って新疆経由で中国内陸部に辿り着き商業を営む様に成った。その為、その一部は新疆の幾つかの町に移住する様に成った。18世紀50年代に清朝が新疆を統一してから、中国に移住してくる中央アジアのウズベク人、特に商人が日増しに増えた。こうした移住は20世紀の初め迄続いた。移住者は商人の他/手工業者/知識人と農民もいた。ウズベク人の殆どは町に居住して居た為、教育を受ける機会も多く知識人や教師の数も多かった。そして、新疆地区の文化・教育事業の為に大きな貢献をした。
 ウズベク族の人たちは殆どイスラム教を信仰している。
 現在、彼等の同胞はウズベキスタン共和国を作って居る。

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    13. キルギス族(Kirgiz ethnic minority group)
      <柯爾克孜族(Keerkezi zu)>

 人口は約14万人
 主に新疆ウイグル自治区クズロスゥクズ自治州に分布し、少数は新疆各地と黒竜江省の豊かな県に分散して居住している。
 キルギス語を使い、この言葉はアルタイ語系チュルク語派に属する。南、北2種類の方言がある。南に住んでいる人たちはウイグル語、北に住んでいる人たちはカザフ語、黒竜江省に住んでいる人たちは漢語/蒙古語にそれぞれ通じている。
 文字はアラビア文字を基礎とする文字がある。
 キルギスはこの民族の彼等の自称で、チュルク語で「40人の少女」「40の集落」或いは「40人の草原の人」という意味である。キルギス族の祖先については、歴史上「鬲昆」「堅昆」「黠戛斯」「轄戛斯」「吉利吉思」「乞児吉思」「布魯特」などの呼称がある。元々はエニセイ川上流の地域に居住していたが、その後段々と南西の天山地区へ移住し、地元の突厥、蒙古の集落と融合する様に成った。
 キルギス族は主に牧畜業に従事し、狩猟/農業/手工業と商業をも営んでいる。新中国の成立迄、キルギス族の遊牧生活に於いては父系氏族の組織形態が保たれ、部落の下にはその末端生産組織として幾つかの家庭があった。当時は粗放的な生産と原始的管理の下に在ったので生産力が低かった。今では、大きな成果を勝ち取り、キルギス草原には繁栄の様相が現れている。
 牧畜業に従事するキルギス族の主な家畜は、羊/山羊/牛/ヤク/馬/駱駝である。テントはオエイと呼びフェルト製で直径5m位在る。新疆ウイグル自治区のキルギス族は霊峰ムズターグアタの中腹に居を構え、そこへ行く途中の3500m位の高さにはスグルというリス科の齧歯動物が居るが、これが直立して面白い。又、彼等はコムズと言う口琴を演奏する。
 キルギス族の大多数はイスラム教を信仰し、少数の人はチッベト仏教(ラマ教)、或いはシャーマニズムを信仰している。
 現在、彼等の同胞はキルギス共和国を作って居る。

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    14. カザフ族(烏孫の後裔)(Kazakh ethnic minority group)
      <哈薩克族(Hasake zu)>

 人口は約111万人
 主に新疆ウイグル自治区伊犁カザフ自治州/木壘カザフ自治県/巴里坤カザフ自治県に分布し、少数は甘粛省阿克賽カザフ自治県に分布している。
 カザフ語を使用し、この言語はアルタイ語系チュルク語派西フン語分支に属する。南西・北東の2つの方言がある。
 カザフ文字は表音文字で19世紀後半に形成されたものである。旧ソ連の頃に2回も改正され、1954年も改正を行った。これはアラビア文字を基礎とする。
 カザフ族は悠久な歴史を持っている。早くも漢代に天山の南北に住んでいた烏孫(紀元前2世紀~西暦2世紀)の人たちがカザフ族の祖先で、その後、突厥(6世紀中葉)/葛邏禄/回鶻(10~12世紀)/哈刺契丹(12世紀)/克烈/乃蛮/欽察(13世紀)などともルーツとして関係がある。この民族名は15世紀中葉に最初に使われた。その時のカザフの人たちはカザフ汗国を打ち建てた。カザフ族の民間の伝説によると、カザフは「白いガチョウ」の意味である。カザフは中国古代の「曷薩」「阿薩」「可薩」の別名と見ている人もいる。又、カザフを「戦士」「自由人」「離脱者」と解釈する人もいる。
 カザフの人々は少数が農業に従事する他、殆どが牧畜業に従事し、1年中美しい草原で生活している。彼等にとって放牧や運送、遠出にが欠かせない。カザフの人たちは誰もが駿馬に乗ることを誉れとし、「馬に跨った民族」である事を誇りとしている。貴重なイリ馬は彼等の誇りであり、2000年余年前、その強さと美しさに依って漢の武帝に「天馬」と讃えられた
 カザフ族の殆どはイスラム教を信奉している。
 現在、彼等の同胞はカザフスタン共和国を作って居る。

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   ◆北部

    15. ロシア族、オロス族、オロシャ族(Russian ethnic minority group)
      <俄羅斯族(Eluosi zu)>

 人口は約1万3000人
 ロシア族は新疆ウイグル自治区のイリ/塔城/アルタイとウルムチなどに分散して居住しており、大多数はイリ地区に住み、残りの少数は黒竜江省内蒙古自治区に分散している。
 ロシアの言葉(ロシア語と略称)を使用し、インド・ヨーロッパ語系スラブ語派東スラブ語に属する。公用語はロシア語
 中国に住んでいるロシア族は当初は18世紀の初めに帝政ロシアから移住して来た人たちである。19世紀からロシア十月革命の前後までに、更に多くのロシア人が続々と新疆一帯に入って来た。当時は「帰化族」と呼ばれ、集まり住んでいた村は「帰化村」と呼ばれていた。
 新中国成立後、ロシア族に改名され、その生活の習わし・服飾・祭日などは、略ロシアのロシア人と同じである。ロシア族は生産技術/経済/文化/生活などの面により高い発展水準を持っている。都市部に住むロシア族の人々は様々な修理業/手工業/運輸業に従事し、又農業と副業をも兼営している。農村に於いてはロシア族人たちの大部分が一緒に集まり住んでいて、独自に一つの村を形成し、農業・畜産業に従事している。園芸養蜂にも長じている。ロシア族の人たちが中国に移住して来たのはそれ程昔の事では無い為、一般にロシアに親戚が在住し、新中国成立後に一部の人はロシアに帰って身内の人たちと一緒に暮らす様に成った。一部はオーストラリアとカナダなどに移住し、これは彼の地に親戚が居るからである。こうした事から中国のロシア族の人数はそれ程多くは無い。
 ロシア族の人々の多くはギリシャ正教を信奉している。
 ロシア族が居る所ではロシア料理店が在る。マトリョーシカ(入れ子式のロシア式こけし)は中々日本でも人気が在る。
 現在、彼等の同胞はロシア連邦の主人である。

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    16. パオアン族(保安回とも)(Baoan ethnic minority group)
      <保安族(Baoan zu)>

 人口は約1万2000人
 主に甘粛省積石山のパオアン族・トンシャン族・サラ族自治県に分布し、少数は甘粛省臨夏回族自治州青海省循化県に分布している。
 集中して居住している地区のパオアン族の人たちはパオアン族の言語を使用して居り、この言語はアルタイ語系蒙古語派に属する。大多数のパオアン族の人たちは漢語に精通している。
 文字は無く漢字を使っている。
 パオアン族は人口の比較的少ない少数民族である。パオアンは地名に由来し、明代の万暦年間に青海省同仁地区にパオアン営が置かれパオアン城が築かれた。パオアン族の人たちはイスラム教を信仰し、風俗習慣が現地の回族に似ていた為に「保安回」と呼ばれていた。1950年、この民族の願いに基づいて、パオアン族と名付けられた。民族内部の伝説/言語の特徴/蒙古族に似た幾つかの生活の習慣により、パオアン族は元代、明代の頃から、青海省の同仁地区に居住するイスラム教を信仰する一部の蒙古族/回族/漢民族/チベット族/トゥ族と長期に亘って付き合って出来た民族である。
 封建的な農奴主の抑圧を受けた為、パオアン族の人たちは現在のパオアン族が集中的に居住している甘粛省積石山の3つの村に移住する事を余儀無くされた。パオアン族の人々は主に農業に従事し、少数の人たちが牧畜業手工業に従事している。

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    17. シボ族(鮮卑の後裔)(Xibo ethnic minority group)
      <錫伯族(Xibo zu)>

 人口は約17万人
 シボ族は主に遼寧/吉林/黒竜江などの地域に分布しているが、新疆ウイグル自治区の察布査爾シボ自治県とその周辺地区に居住している人も一部いる。
 新疆ウイグル自治区に居住するシボ族の人たちが使用しているシボ語はアルタイ語系ツングース語族満州語分支に属する。東北地区に居住しているシボ族の人たちは漢語を使用している。
 シボ文字は1947年に満州文字を元にして幾らか修正を加えて創られた。大多数のシボ族の人たちは漢字を使用している。
 シボ族の人たちは「錫伯」と自称しているが、漢字で書かれた文章は様々な音訳と書き方がある。例えば、「犀毘」「師比」「鮮卑」「矢比」「席百」「席吐」「錫伯」などである。シボ族の人たちは中国古代の北方の鮮卑人の子孫を以て自認し、当初は大興安嶺の東麓一帯で遊牧生活を送り、西暦4世紀前後に南の黄河流域まで移住して政権を作り上げたが、後に漢民族に同化された。嫩江/松花江/綽爾河流域に残った鮮卑の人たちは東北地方で生存し続けて、今日のシボ族と成った。
 1764年に1016人のシボ族の人たちが招集されて、新疆のイリ(伊犁)地区で屯田する事に成った。今日の新疆のシボ族の人たちは、その人たちと2000人余りの従軍家族の子孫である。シボ族の人たちは昔から狩猟と魚労に依って生計を立てて来た。新疆に移住したシボ族の人たちは水稲の栽培を主とし、牧畜業をも兼ねている。これらのシボ族の人たちは祖国を守り、イリ河の渓谷一帯を開発する為に貢献した。
 シボ族の人たちは嘗てはシャーマニズムチベット仏教(ラマ教)を信仰していたが、現在は宗教を信仰する人は殆ど居ない

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    18. サラ族(Sala ethnic minority group)
      <撒拉族(Sala zu)>

 人口は約8万7000人
 主に青海省循化サラ族自治県/甘粛省積石山保安族・トンシャン族・サラ族自治県及びその付近の地区に居住している。その他は青海/甘粛/新疆などの地区に分散して住んでおり、漢族/チベット族/回族/ウイグル族/カザフ族と一緒に暮している。
 サラ語を使い、この言葉はアルタイ語系チュルク語族西フン語派に属する。
 自民族の文字は無く、漢字が通用している。
 サラ族の祖先は元代に長距離を乗り越えて中央アジアのサマルカンドから青海省の東部に辿り着き、循化地区に定住する事に成った。長年の生活を通じて、周囲の漢/チベット/回などの民族と融合しあう中で次第に独自の民族が形成される様に成った。彼等は自分たちの事を「撒拉爾」と称し、漢語の史籍では「撒刺児」「沙喇族」「撒拉回」などと称され、何れもその自称の音訳である。サラ族の人たちは主に農業に従事し、牧畜業と園芸をも営んでいる。
 新中国成立後の1954年に循化サラ族自治県が、更に1980年には更に積石山保安族トンシャン族サラ族自治県が設立され、サラ族は漸く日の目を見た。今日人々の生活水準は逐次改善されている。
 サラ族には口弦という口を共鳴体として使う楽器が在る。馬蹄形をして銅製又は銀製である。
 サラ族の人たちはイスラム教を信仰している。

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    19. トゥ族、トウ族(吐谷渾の後裔)(Tu ethnic minority group)
      <土族(Tu zu)>

 人口は約19万人
 主に青海省東部の湟水以北、黄河両岸一帯及び隣接する地域に集中して住んでいる。その内の大部分が青海省互助トゥ族自治県と周辺の民和/大通/同仁などの県に住み、少数の人が甘粛省天祝チベット族自治県に居住している。
 トゥ族語はアルタイ語系蒙古語族に属する。互助と民和の2種の方言がある。
 文字は昔は漢字を使って居たが、現在はラテン文字を原形とするトゥ族の文字を新しく作り試用中である。
 トゥ族は中国の北西部の長い歴史を持つ民族であり、「蒙古爾」(蒙古人)、「チャハン蒙古爾」(白蒙古人)、「土昆」(着民の意味で、「吐渾」という言葉を濁る発音に依るもの)、「土戸家」などと自称し、近くに住むチベット族の人たちに「ホール」(チベット北部の遊牧民族に対する通称)と呼ばれ、漢民族/回族の人たちに「土人」「土民」と呼ばれている。中華人民共和国の成立後、トゥ族の願いに依って「トゥ族」と統一された。
 トゥ族の民間伝説に依ると、その祖先は蒙古人と地元のホール人の間での婚姻による子孫である、とされている。伝説の中のホール人は吐谷渾人であるので、トゥ族の人たちは古代吐谷渾人の子孫だと多くの研究者は見ている。トゥ族の人たちは昔は牧畜業に従事して居た為、今でもヒツジを飼う習俗があり、殆どの家庭はヒツジの飼育に長じ、ヒツジを大切にしている。
 宗教はチベット仏教(ラマ教)を信奉している。

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    20. トンシャン族(Dongxiang ethnic minority group)
      <東郷族(Dongxiang zu)>

 人口は約37万人
 トンシャン族は主に甘粛省臨夏回族自治州境内の東郷地区に住んでおり、少数は甘粛省蘭州市/定西地区/寧夏回族自治区/新疆ウイグル自治区に分散して居住している。
 トンシャンの言葉はアルタイ語系モンゴル語派に属する。鎖南/汪家集/四甲集の3つの方言に分かれる。大多数のトンシャン族の青年は漢語に精通している。
 この民族は文字は無い
 トンシャン族の人々は主に甘粛省の東郷地区に住んでおり、この地区の名を民族名としてトンシャン族と呼ばれている。トンシャン族はモンゴル族をルーツとし、13世紀からモンゴルの軍隊はこの一帯に駐屯して屯田を行った事がある。13世紀以降、トンシャン族の人たちはイスラム教を信奉し始めた。14世紀後半に東郷地区に住む各民族が融合して単一の民族に成った。以前は「東郷回回」「東郷蒙古」「東郷土人」などと呼ばれ、新中国成立後トンシャン族と呼ばれる様に成った。
 トンシャン族自治県は乾燥した山岳地帯で、連峰が連なり海抜が高く交通が不便である。半世紀に亘る刻苦奮闘を経て、既に乾燥した東郷の古い様相を変え、活気溢れる新しい山村と成っている。トンシャン族の人々の生活の習わしと宗教信仰は基本的に回族と同じであるが、使われている言語は逆にモンゴル族のそれと似ている。主に農業生産に従事し農作物はジャガイモを主としている。又、モモ・アンズを栽培し、モモとも異なりアンズとも違うもので良い香りがする。
 トンシャン族の人々はイスラム教を信奉している。

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    21. ユイグー族(鉄勒の後裔)(Yugu ethnic minority group)
      <裕固族(Yugu zu)>

 人口は約1万人
 主に甘粛省粛南ユイグー族自治県に集まり住んでいるが、酒泉市の黄泥堡ユイグー族郷に住んでいるものも一部いる。
 現在、3種の言語を使用している。アルタイ語系チュルク語族に属する西部ユイグー語アルタイ語系モンゴル語族に属する東部ユイグー語、及び漢語である。
 自民族の文字は持たないが、一般的には漢字が使われている。
 ユイグー族は中国の北方の長い歴史を持つ少数民族であり、その祖先は紀元前3世紀の丁零、4世紀の鉄勒及びモンゴル人民共和国に居住している袁紇に遡ることが出来る。8世紀には、回紇人(唐代北方のトルコ系部族)の人たちが甘州(今の張掖)と涼州(今の武威)の辺りへ移住して遊牧生活を送り、ハン国を築き上げた。9世紀に於いて国が亡びた為、各地域の人々は彼方此方逃れ、その中の一部分は河西回廊に遣って来て、先に移住して来ていた同じ民族の人たちと合流して今日のユイグー族の前身と成った。史書の記載では、「黄番」「西番」「撒里畏兀児」などと呼ばれて来たが、自民族の間では「尭乎児」「西喇尭乎児」と自称していた。1953年に自治県の創立を準備する際、民族の呼称は協議を経て「裕福と強固」の意味を取って「ユイグー」と決められた。
 ユイグー族の人々は祁連山の山間部で生活し、牧畜業を主とする。国の支援の下で、定住しての放牧が実現したばかりで無く、牧草地帯や人工牧草地帯/飼料用地の建設/水利施設の築造/機械の購入などに依って、草原の牧畜業は急速な発展を遂げ、人々の生活水準も可なり向上した。
 ユイグー族の人たちの殆どはチベット仏教(ラマ教)を信仰している。

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   ◆チベット地方

    22. チベット族、西蔵族(Tibetan ethnic minority group)
      <蔵族(Zang zu)>

 人口は約459万人
 主にチベット自治区、及び青海省の海北/黄南/海南/果洛/玉樹など幾つかのチベット族自治州と海西モンゴル族チベット族自治州甘粛省の甘南チベット族自治州と天祝チベット族自治県四川省の阿ハ・甘孜自治州及び木里チベット族自治県雲南省の迪慶チベット族自治州に集まり住んでいる。
 チベット語を使用する。チベット語は漢・チベット語系チベット・ミャンマー語族チベット語分支として分類されている。ウーツァン(衛蔵)/カム(康)/アムド(安多) の3種の主要な方言がある。
 チベット文字は西暦紀元7世紀頃にサンスクリットの字体を参照して創った左から右へ横書きされる表音文字である。
 チベット族の祖先は大昔からヤルンズァンボ河中流一帯で生活し、子孫を増やして来た。考古学調査に依って、旧石器時代、新石器時代及び金石時代の古代文化遺跡が発見されている。周 -後の孔子が理想とした国- を建国する際、チベット系を示唆する記述が『史記』に在る。西暦6世紀、チベットのロカ地区のヤルン部落の首領が部落同盟の指導者に成り、「ツァンプ」と名乗り奴隷制社会に入った。西暦7世紀に至って、ソンツェン・ガンポがチベット全域を統轄した。これは歴史上「吐蕃」と呼ばれている。ソンツェン・ガンポと唐朝の文成公主との成婚は、チベット族の発展の上で積極的な役割を果たした。元朝はチベット地区を中央王朝の統治の下に置いた。清朝政府は正式にダライ・ラマとパンチェン・オルドニを冊封して「ガシャ」(チベット地方政府)を設けると共に、チベット駐在大臣を任命した。20世紀50年代に於いて、チベット地区では未だ「政教合一」の封建的な農奴制度が実施されていた。1959年に民主的改革が行われ、貧しくて立ち遅れた状況から逐次抜け出した。
 チベット族の人たちの殆どはチベット仏教(ラマ教(喇嘛教))を信仰している。彼等は今でも五体投地をする。
 チッベト族は3000m級の高山地帯に住み遊牧生活を送る。今は大分定住が進んだが、嘗ては牧畜動物と一緒に移動に「夏の家」と「冬の家」が100~200kmも離れていた。中でも彼等が開発したヤクは羊の様に毛が織物の原料と成り、チーズの原料の乳と成り、尚且つ食べれば牛肉の味がするという”スグレモノ”。チベット仏教の寺院の摩尼車を回し乍ら歩いた事や屋根の上の金色臥鹿、そしてアルペンホルンの様なラグドゥンは印象的。
 現在、ダライ・ラマ14世(テンジン・ギャンツォ)は1959年にインドに亡命した儘である。14世はインドのダラムシャーラーに樹立されたチベット亡命政府で国家元首を務め1989年にはノーベル平和賞を受賞して居る。14世は人権侵害を非難しているが、チベットにはより過激なチベット独立派が在り何度か中国政府と衝突して居る。只、亡命ということはチベット独立運動に向かって行くと考えられる。ここには欧米対中国インド対中国の関係も絡み、状況は単純では無い。

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    23. メンパ族(Moinba ethnic minority group)
      <門巴族(Menba zu)>

 人口は約7400人
 主にチベット自治区南東部のモンオ地区に住んでおり、一部はメド地区に住んでいる。
 メンパの言葉は漢・チベット語系チベット・ミャンマー語族チベット語派に属する。チベット地区で生活している為、チベット族の人たちとの付き合いも多く、その為チベット語が通用している。
 自民族の文字が無くチベット文字が通用している。
 メンパ族の人たちはチベット高原の門隅地区に住んでおり、古来チベット族の人たちと密接な繋がりを保っている。紀元823年にラサのチョカン寺の前に建てられた「甥と叔父の仲直りの記念碑」の中で言及されている孟族は、メンパ族を含んでおり、その頃トーファンの統治下にあった。13世紀に門隅はチベットの一部分として、正式に中国の版図に組み入れられた。17世紀中葉以降、メンパ族はチベットの政教一致の地方政府の統治下に置かれる。メンパ族の人たちは主として農業に従事し牧畜と狩猟をも兼ねていた。封建農奴制度の下で焼畑農業を中心に林業・牧畜・狩猟を副業にし、立ち後れた生産様式の為に生産力のレベルは非常に低く貧しい生活を送っていた。
 1959年に新生中国に依り、メンパ族の人たちもチベット族の人たちと共に解放された。特に改革・開放に伴って、メンパ族の人たちの経済と文化は大きな発展をとげた。
 メンパ族の多くはチベット仏教(ラマ教)を信仰し、少数の者は原始宗教を信仰している。

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    24. ローバ族(Lhoba ethnic minority group)
      <珞巴族(Luoba zu)>

 人口は約2300人
 主にチベット自治区南東部の洛渝地区及び近隣の察隅/墨脱/米林などの県に分布している。
 墨脱県北部に住んでいるローバ族はチベット語を使用し、他のローバ族はローバの言葉を使っている。ローバの言葉は漢・チベット語系チベット・ミャンマー語派(どの言葉の分支か未だ確認されて無い)に属する。ローバ族の方言は地域に依って違っている。新中国成立前、ローバ族は未だ木を刻み、縄を結ぶ遣り方で物事を記録していた。
 自民族の文字を持たず、少数の人たちがチベット語に精通している。
 ローバという言葉の語源はチベット語で「南部の人」の意味で、チベット族の人の彼等に対する呼称である。地域に依ってローバ族の自称は異なっている。例えば「博嘎爾」「崩尼」「崩如」などがある。ローバ族は昔からヒマラヤ山脈の山麓で生活していたが、高い山がローバ族の人たちと外部との交流を遮り社会の発展が遅れた。20世紀50年代に成ってもローバ族は未だ原始社会末期の家父長奴隷制度の段階にあり、チベット封建農奴主の統治の下で生活していた。各部落は未だ焼畑農法という原始的な遣り方で農業に従事し、トウモロコシ陸稲及びその他の雑穀を栽培していた。食糧収穫量は低く、採集や狩猟に依って生活を維持していた。その為、ローバ族の男子は皆優れた猟師である。
 新中国成立後、ローバ族の人たちは民族平等の権利を享受し、国及び各民族の支援の下で近代的な生産の道を歩み、経済・文化が急速に発展して居る。
 ローバ族の人々は万物に魂が在るとする原始宗教(アニミズム)を信奉している。

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   ◆雲南地方

    25. タイ族、ダイ族(Dai ethnic minority group)
      <傣族(Dai zu)>

 人口は約102万人
 タイ族は主に雲南省西双版納タイ族自治州徳宏タイ族・チンプオ族自治州耿馬タイ族・ワ族自治県孟連タイ族・ラフ族・ワ族自治県に住んでいる。少数が付近のその他の県に分散して居住している。
 タイ族の言葉を使用し、この言葉は漢・チベット語系チワン・トン語派チワン・タイ語分支に属する。徳宏方言と西双版納方言がある。
 タイ族は表音文字を使っており、各地で使われている文字はやや違いが在り、幾懋文(西双版納幾文)/幾陳文(徳宏幾文)/幾荏文/金平幾文(幾端文とも言う)の4種に分かれている。4種の幾文は古代のインド文字母をルーツとする。
 タイ族は悠久な歴史を持つ少数民族であり、大昔からタイ族の祖先は中国西南部で子孫を増やし乍ら生き続けて来た。西暦1世紀の漢字で書かれた史籍にはタイ族の祖先についての記載があり、「滇越」「撣(或いは)擅」「僚(或いは)鳩僚」と呼ばれていた。唐・宋の時代には、「金歯」「黒歯」「花蛮」「白衣」などと呼ばれていた。元・明の時代には、それが「白夷」「百夷」「伯夷」などと呼ばれていた。タイ族の人々は自分たちの事を以前は「幾椎」「幾雅」「幾荏」などと称し、新中国成立後、タイ族の人たちの願いに依って呼称をタイ族に改めた。
 タイ族には千年以上に上る古い幾文の文献、古い貝葉経、自民族の暦法(幾暦)、著名な長い叙事詩などが有り、又豊富多彩な音楽と踊りがある。これはタイ族の悠久な歴史、光り輝く文化、独特な風情を存分に具現するものである。
 タイ族の多くは小乗仏教を信奉している。
 ところで西双版納(シーサンパンナ、Xishuangbanna)タイ語で「田の在る12の村」の意味で、明の時代「1版納」が納税の単位。「西双」は

  12 = 4 * 3 → 四(Si)三(San) → 西(Xi)双(Shuang)

という音韻と漢字の変化に依る「言葉遊び」、洒落である。
 タイ族は亜熱帯地域で生活しており農業が発達し、特に西双版納の広い水田風景 -三毛作出来る水稲- は美しく、他にサトウキビ/コーヒー/サイザルアサ/バナナ/ゴムなどの熱帯経済作物の栽培に適する。タイ族は糯米文化粽(ちまき)など日常茶飯に食べている。酒(蒸留酒)も旨く沖縄の泡盛の元。瓢箪を利用した芦笛が在る。4月13~15日に行われる水掛祭(ソンクラーン祭)は先ず寺の仏像に聖水を降り掛け、その後で水を掛け合って楽しむ。孔雀が名物で、孔雀は彼等の踊りの象徴で、「象の芸」象に乗るのは面白い。西双版納の密林は貴重な野生動物・野生植物の宝庫で「野生生物の王国」と呼ばれ、今では中国の著名な観光スポットである。
 現在、彼等の同胞はタイ王国(旧称:シャム)を作って居る他、ラオス人民民主共和国/ベトナム社会主義共和国にも居る。民族的には同じで中国西南部が本貫地である。タイという国家を「泰(Thai)」と言うのに対し、中国の少数民族を「傣族(Dai zu)」と言う。

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    26. イ族、イー族(Yi ethnic minority group)
      <彝族(Yi zu)>

 人口は約657万人
 雲南省/四川省/貴州省/広西チワン族自治区の4つの省・自治区に分布する。
 イ族の言葉は、漢・チベット語系チベット・ミャンマー語族イ語分支に属する。方言が6種類ある。漢民族と良く接している人たちは漢語が分かる。
 イ族は、中国に於いては割りに人口が多く、居住地域が広く、悠久な歴史を持つ少数民族である。大昔から、イ族の祖先は中国南西地区で生活し子孫を増やして来た。古くから陝西/甘粛/青海に居住していた幾つかの羌族の分派が南下して、長い歴史の流れの中で南西地区の原住民部落の人たちと段々と融合し、イ族が形成されるに至った。その足跡は今日の雲南/四川/貴州の3省の広い範囲に及んでいた。各地のイ族の人々は皆自分たちは仲牟由の子孫だと称し、その6人の息子に依って「六祖」部落が誕生したと言う。イ族の歴史に於ける重要な特徴の一つは、長期に亘って奴隷制度を維持して来た事である。20世紀に入っても一部地域には未だ奴隷制度が残っていた。
 イ族の人々は地域に依って多くの自称があり、例えば「諾蘇」「納蘇」「羅武」「羅羅」「米撒溌」「撒尼」「阿細」「阿西」などがそれである。大多数のイ族の人たちの共通の願いに従い、「イ」が統一した民族の呼称とされる様に成った。
 父系親族集団の発達が顕著である。生業は焼畑農法が中心で、蕎・燕麦・トウモロコシ・ジャガイモ・豆類などを栽培する。主食はトウモロコシや麦粉を炒って食べる。
 昔、イ族の間では多神崇拝(アニミズム)が流行っていた。清朝初期に道教が盛んに成った。19世紀の末、カトリック、キリスト教が入って来て少数だが信者が居る。
 イ族は地域に依って民族衣装も様々で、女性の羅窩帽(とても大きな被り物)/鶏冠帽目が入った背当て、など非常にユニークである。昆明市の石林にはイ族の支系のサニ族(撒尼族)が住んでいる。

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    27. ペー族、白族(Bai ethnic minority group)
      <白族(Bai zu)>

 人口は約159万人
 主に雲南省大理ペー族自治州に居住し、その他は雲南省各地貴州省の畢節地区四川省の涼山イ族自治州湖南省の桑植県に分布している。
 ペー族はペー族の言語を使用し、この言語は漢・チベット語系チベット・ミャンマー語派イ族語分支に属し、南部・中部・北部の3つの地区の方言がある。大多数のペー族の人たちは自民族の言語を使用し、漢語にも精通している。
 ペー族の人たちは唐代の頃から漢字を基礎とする四角形のペー族の文字を使い始めペー族の言葉を記録していた。漢民族とペー族との往来に依り、ペー族の言語の中に数多くの漢語の語彙を吸収し、漢字はペー族の人たちの間で通行する文字と成っていた。
 ペー族は長い歴史を持つ、文化が発達した民族である。ペー族の先祖は古くからアール海(洱海)湖地区で生活していた。考古学的発掘が行われた蒼山・洱海遺跡、海門口遺跡に依って、新石器時代以前から洱海地区で生活して居たことが明らかに成っている。磨製石器を使い、簡単な農業・牧畜業・漁業・狩猟に携わり、穴居生活を送っていた。2000余年前から金属の道具を使い始め、農業と牧畜業を発展させた。西暦2世紀に、漢の武帝が蒼山・洱海地区に郡県を置いた。8世紀から13世紀頃まで、この一帯には前後してイ族、ペー族の先住民を主体とする奴隷政権南詔国とペー族段氏を主体とする封建領主制政権大理国が現れた。家族構造は父系親族集団を中心として居る。
 現在のペー族の人たちは90%以上が農業に従事し、水稲/小麦/トウモロコシ/ソラマメなどを栽培する。ペー族の人たちは自分たちのことを「白子」「白伙」「白尼」と呼び、その意味は「ペー族の人たち」である。1956年にペー族の人たちの願いに依って、呼称は正式にペー族と定められた。
 ペー族は村社の神に相当する本主を崇拝し、仏教を信仰している。
 洱海地区のぺー族は周り少数民族から尊敬されている、それは嘗て元に攻められた時ペー族だけは勇敢に戦ったからだ。大理とは大理石が採れるから。洱海地区のぺー族は高い文化が有り、三塔(3つの仏塔)/三方一照壁・四合五天井の建築/三道茶藍染めなどに現れて居る。珍しいものでは洱海で採れるギンヤンマのやごの炒め物/豚の生皮など。手っ取り早いのは洱海の遊覧船(三道茶付き)

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    28. ヌー族(Nu ethnic minority group)
      <怒族(Nu zu)>

 人口は約2万7000人
 主に雲南省の碧江/福貢/貢山に居住して居り、近くの蘭平/維西にもヌー族が集中して居住している地区である。
 ヌー語を使い、この言葉は漢・チベット語系チベット・ミャンマー語族に属し、語派は未だ確認されて無い。各地域に依って方言が大きく異なり、その結果お互いに交流する事すら出来ない程である。
 自民族の文字が無く、殆どの場合は漢字が使われている。
 ヌー族は怒江/瀾滄江(メコン川)の両岸一帯で生活している長い歴史を持つ民族の一つである。2種類に分かれ、福貢/貢山に居住する者は、その地域の一番早かった土着民で自分たちで「阿怒」「阿竜」と称しており、碧江/瀘水に居住している者は麗江/剣川の東から移住して来た者で自分たちのことを「怒蘇」と称し、涼山のイ族と深い繋がりがある。長年付き合っている中で、この2種類の人たちは互いに融合しあい、次第に怒江地区に於ける一つの民族が形成されるに至った。滔滔と流れる怒江は以前はヌー族と外部との繋がりを遮断し、川を渡る際には危険を冒してロープ(日本で野猿と言う仕掛け)丸木舟に頼る以外無かった為、経済の発展が遅れた状態にあった。生業は農業トウモロコシ/ソバ/アワ/裸麦などの雑穀類が主食である。
 20世紀半ばに成っても、一部地区のヌー族の人たちは依然として原始共同体の残存を保ち続けていた。ここ数10年来、数本の大鉄橋が怒江に架設され、現代化した道路が山と川に閉じ込められていた怒江地区の扉を開き、ヌー族の人たちは安定した生活を送る様に成った。
 ヌー族の人は嘗ては万物に霊魂が在るとする原始宗教(アニミズム)を信仰していたが、一部の人たちはチベット仏教(ラマ教)或いはカトリック、キリスト教を信仰している。

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    29. ハニ族(Hani ethnic minority group)
      <哈尼族(Hani zu)>

 人口は約125万人
 主に雲南省南西部の礼社江下流紅河西側の哀牢山岳地帯に分布している。
 ハニの言葉は漢・チベット語系チベット・ミャンマー語派イ族の言葉に属する。哈雅/碧触/豪白の3つの方言に分かれている。
 ハニ族には自民族の文字が無く1957年にローマ字を基礎としての表音文字が創られた。
 ハニ族の人々は居住地域の違いに依って多くの呼称があり、「哈尼」「愛尼」「豪尼」「触多」「碧約」「白宏」などと称する。史書の記載の中で「和蛮」「和泥」「窩泥」「俄泥」「哈泥」「阿泥」などと称している。新中国成立以後、この民族の各派が協議することに依ってハニ(哈尼)を統一の民族の呼称とする様に成った。
 ハニ族は古代のの人たちをルーツとしている。羌の人たちは次第に南に移住し、西暦7世紀の頃に今の哀牢山・無量山一帯に住む様に成った。唐の南詔の頃に更に南東へ集中し、紅河/元江の岸辺一帯に住む様に成り、この地で開発に力を入れ発展を遂げた。今の元陽南岸の高い山と険しい山峰一帯には延々と続く棚田があり、これはハニ族の人々が代々勤勉に働くことに依って築き上げた知恵の結晶である。ハニ族の人々は高い山・長い川という地理的強みを生かして、一年中絶えることの無い渓流の水と谷の水を棚田に引き入れ、完全な天然灌漑網を作り上げている。主に水稲を栽培し色々な経済林・茶畑の栽培にも力を入れている。ハニ族の人々は父子連名制を保ち、父の名前の最後の1か2字を息子の名前の最初に付けている。
 ハニ族は多くの神(アニミズム)祖先崇拝を信奉している。
 ハニ族には豊富な口承伝説が在る。元陽の棚田は規模が大きく有名。
 彼等の同胞はミャンマー連邦/ラオス人民民主共和国/タイ王国/ベトナム社会主義共和国にも居て、これらの国ではアカ族(阿卡族)と呼ばれる。ミャンマー/タイ/ラオス国境の金三角地帯(ゴールデン・トライアングル)では1980年頃迄阿片栽培もして居た。

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    30. ワ族、ワー族(Wa ethnic minority group)
      <佤族(Wa zu)>

 人口は約35万人
 主に雲南省の西盟/蒼源/孟連の3県と周辺の山間部に集中して住んでいる。
 ワ語は南アジア語系ワ・トーアン語分支に属する。バジョーク/ワ/アワーの3種の方言がある。
 元々文字が無かったが、1957年にラテン語文字を原形としてワ族の文字を創った。
 ワ族は中国雲南省南西部の長い歴史を持つ民族の一つであり、2000年前にプーラン族/ドーアン族などの民族と共に高黎貢山と瀾滄江地区の開発に寄与した。彼等は「ワ」「バジョーク」「アワー」などと自称し、「山の中に居住している者」の意味である。紀元前11世紀頃から前206年迄の周、秦の頃、その祖先は「バイプー」の分支であった。唐代には「濮子蛮」、宋代には「濮蛮」、明代には「古刺」、清代には「ガ刺」「哈瓦」と呼ばれた。地元のタイ族はワ族を「カワ」と呼び、「カ」はタイ語の中では「奴隷」の意味で侮辱的な呼称であった。嘗ては首狩りも行い聖林に置かれた首は豊穣や厄除けの力を持つとされた。又、水牛供犠も行った。
 新中国成立後、各民族の平等・団結を具現する為「ワ族」と定められた。ワ族の人たちは高い山の中に住み、取り分け起伏の多いアワー山間地帯に住んでおり、交通が不便で外部との交流が少なく、焼畑農法を営むが経済の発展は極めて立ち遅れている。しかし、現在ワ族の人は故郷に大きな変化が起こり、現代化の発展の道を歩み出している。
 ワ族の人たちは万物に魂が在るとする原始宗教(アニミズム)を信仰している。
 彼等の同胞はミャンマー連邦にも居る。ミャンマー/タイ/ラオス国境の金三角地帯(ゴールデン・トライアングル)では1980年頃迄阿片栽培もして居た。

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    31. リス族、リースー族(烏蛮の後裔)(Lisu ethnic minority group)
      <傈僳族(Lisu zu)>

 人口は約57万人
 主に雲南省怒江リス族自治州に集中的に居住し、少数は付近の州・県と四川省塩源/塩辺/木里に分散して居住している。
 リスの言葉を使用し、この言語は漢・チベット語系チベット・ミャンマー語派イ語分支に属する。前後して3種の文字を使った事がある。それは欧米の宣教師の作った表音文字、維西県のリスの人が作った音節文字、新中国成立後に作ったローマ字の様な新しい文字である。第3の文字は今ではリス族の間で普及されている。
 リス族は長い歴史を持つ民族で、その民族名は唐の時代に最初に使われ今も使われている。リス族はイ族/ナシ族と密接な関係がある。唐の時代の「烏蛮」をルーツとしている。8世紀の頃、リス族の祖先は金沙江の両岸一帯に居住した。16世紀の中葉、略奪と抑圧に反抗し、戦争を避ける為、多くのリス族の人々は部落長の引率の下で怒江地域に移住した。リス族の人たちは辺鄙な高い山の中で暮らし、生産力水準が低く、焼畑農法狩猟など原始的な生産活動を主としていた。20世紀50年代に成っても未だ氏族社会の残存が顕著な形で残されていた。怒江地域だけでも虎/熊/猿/蛇/羊/魚/蜂/鼠/鶏/鳥/竹/麻/茶など10種類の氏族の呼称があり、これらの呼称にはそれぞれ崇拝するトーテムが存在している。新中国成立後、リス族の人たちにとって新しい人生のスタートであった。特に交通の発展に依って、リス族の人たちは交通の不便な山奥から出て、経済・文化は急速な発展を遂げた。
 リス族は以前から原始宗教(アニミズム)を信奉して居たが、20世紀の初めに欧米の宣教師が入って来てからは少数の人たちはキリスト(或いはカトリック)を信奉する様に成った。
 彼等の同胞はミャンマー連邦/ラオス人民民主共和国/タイ王国にも居る。ミャンマー/タイ/ラオス国境の金三角地帯(ゴールデン・トライアングル)では1980年頃迄阿片栽培もして居た。

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    32. ラフ族(Lahu ethnic minority group)
      <拉祜族(Lahu zu)>

 人口は約41万人
 主に雲南省瀾滄県/孟連県に集中的に居住している。少数はその他の民族と共に雲南省南西の国境一帯の県に居住している。
 ラフ語を使用し、この言語は漢・チベット語系チベット・ミャンマー語派イ語分支に属する。拉祜納と拉祜煕の2つの方言がある。ラフ族は長年漢族・タイ族と仲良く付き合って来た為、大多数のラフ族の人々は漢語とタイ族の言葉を両方とも話せる。ラフ族は以前から欧米の宣教師が作ったローマ字の様な文字を使っていたが、1957年これ迄の文字を基礎として表音文字の様なラフ文字を作った。
 ラフ族は悠久な歴史を持つ民族である。そしてイ族/ナシ族などの民族と同じ様に古代の羌族と同じ祖先を持ち、青海チベット高原から絶えず南へ移住する中で形成された民族である。清の時代の史籍の記載の中では、ラフ族は「倮黒」と称されている。ラフは民族の自称である。ラフ語の中で「虎」を「拉」と称し、「火で食品を煮る」ことが「祜」で、拉祜は「虎の肉を煮て食べること」の意味である。この民族の呼称からラフ族が狩猟民族であったことが解り、その他の民族に「虎狩りの民族」と呼ばれている。
 ラフ族の社会の発展は地域差が有り、20世紀40年代に大部分の地域が封建領主或いは地主経済に入ったが、原始社会の残存が未だ一部には在った。新中国成立後、ラフ族の政治・経済・文化・教育・医療衛生などの諸方面で大きな発展を遂げている。
 20世紀50年代以前、ラフ族の人たちは多神原始宗教(アニミズム)を信奉していた。大乗仏教が伝わってからは大乗仏教が流行る様に成り、少数はキリスト教或いはカトリックを信奉している。
 彼等の同胞はミャンマー連邦/ラオス人民民主共和国/タイ王国にも居る。ミャンマー/タイ/ラオス国境の金三角地帯(ゴールデン・トライアングル)では1980年頃迄阿片栽培もして居た。

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    33. チンポー族、チンプオ族(Jingpo ethnic minority group)
      <景頗族(Jingpo zu)>

 人口は約12万人
 主に雲南省徳宏タイ族チンプオ族自治州の潞西/瑞麗/隴江/盈江/梁河などの県の山間部に集中的に居住し、付近の州・県の山間地帯は少数のチンプオ族の人たちが分散して居住している。
 チンプオ語を使用し、この言語は漢・チベット語系チベット・ミャンマー語派チンプオ語分支に属している。
 使用されているチンプオ文字はローマ字を基礎とする表音文字である。
 チンプオ族の人々は雲南徳宏地区の原住民族では無い。古代チンプオ族の人々は西康・チベット高原の南部で生活していた。その後、横断山脈に沿って瀾滄江(メコン川)・金沙江一帯に移住し、明代の末期、清代の初期に徳宏地区に移住し、トーアン族/アチャン族/漢族などの民族と共に山間地帯で暮らしていた。チンプオ族は主に農業に従事し、穀物は水稲/陸稲を主とし、その次はトウモロコシである。新中国成立以前にチンプオ族社会には既に地主・富農が現れていた。以前の山官は封建的領主に変身していた。チンプオ族は気風が純朴かつ率直で勇敢な民族である。幼い頃から大人と一緒に山に入って猟をし、背嚢(はいのう)を背負い、長刀を腰にぶら下げ、銅製の銃砲を肩に担ぎ、堂々としていた。チンプオ族の女性は編み物に長じ、数百種のカラーの図案模様を織ることが出来、その中の大多数は動植物の模様で非常に美しい。改革・開放が実施されてからの今日、貧しかったチンプオの山村は繁栄した姿を見せている。
 チンプオ族の人たちは以前から殆どが万物に魂が在るとする原始多神教(アニミズム)を信奉して来たが、少数の人はキリスト教を信奉している。
 チンプオ族の女性は元はで、結婚して体の鱗が「銀の泡」に変わったと言い伝えられて居り、「泡衣」という飾りを肩から掛けて居る。

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    34. プーラン族(Bulang ethnic minority group)
      <布朗族(Bulang zu)>

 人口は約8万2000人
 主に雲南省西双版納・タイ族自治州のモン海/景洪、臨滄地区の双江/永徳/雲県/耿馬、思茅地区の瀾滄/墨江に分布している。
 プーラン族の人々はプーランの言語を使用し、この言語は南アジア語系バングラデシュ・カンポジア語派プーラン語分支に属し、プーラン、アルワ族の方言がある。一部のプーラン族の人々はタイ族の言語、ワ族の言葉、そして漢語を話すことが出来る。
 プーラン族には自民族の文字が無く漢字或いはタイ族の文字を使っている。
 プーラン族は長い歴史を持つ民族であり、中国古代の濮、蒲、朴の子孫だと言われている。唐代には「朴子蛮」、元・明・清代には「蒲蛮」と称された。一部の人たちは自分たちのことを「プーラン」と呼び、一部の人たちは「阿瓦」「伊瓦」「翁拱」と呼び、漢族とタイ族の人々はプーラン族の人たちを「濮満」「蒲満」と呼んだ。新中国成立後、この民族の願いに依って、プーラン族と称される様に成った。
 新中国成立以前にプーラン山で生活していたプーラン族の人々はある程度の原始共同体の残存を保っていた。平覇地区で生活していたプーラン族の人たちは経済・文化の発展レベルの高い漢族・タイ族の影響を受けた為、封建的な地主経済の発展段階に入った。プーラン族の人々が生活している地区は気候が温暖で物産に恵まれている。プーラン族の人たちは主に農業に従事し、の栽培が得意で著名なプアール茶(普洱茶)を栽培している。プーラン山のプーラン族の人たちは母子連名制を実行し、子供は生後3日間に名前を付け母の名前が子供の名前の後に繋がる様に成っている。
 以前は大多数のプーラン族の人たちは小乗仏教を信仰していた。

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    35. アチャン族(Achang ethnic minority group)
      <阿昌族(Achang zu)>

 人口は約2万7000人
 主に雲南省徳宏のタイ族・チンプオ族自治州の隴川県/梁河県に分布し、少数は盈江県/潞西県/瑞麗県と保山地区の竜陵県/騰沖県に分布している。
 アチャン語は漢・チベット語系チベット・ミャンマー語派ミャンマー語分支に属し、梁河/隴川/潞西など3つの地区の方言がある。居住地区の違いに依って「ちん撒」「漢撒」と呼ばれた事もある。長期に亘って漢民族・タイ族と共に暮らしていた為、アチャン族の人たちは殆ど漢語とタイ族語に通じている。
 アチャン族には文字が無く漢字とタイ族の文字を使用する習慣がある。
 漢語の史書の中で、アチャンは「峨昌」「莪昌」「俄昌」と呼ばれた事がある。その先住民は早い時期から雲南省北西部の金沙江/瀾滄江(メコン川)/怒江流域一帯で生活していた。西暦13世紀に、何度もの移住を通じて、次第に現在住んでいる地域に定住する様に成った。アチャン族の人々は防衛の為の辺境地帯に駐屯していた兵士たちから水田を耕作し、鉄器を作る技術を学び農業と手工業との分業を推し進め、商品経済が初歩的な発展を遂げた。唐代と宋代の頃にアチャン族居住地区は南詔と大理の管轄下に置かれた。明代と清代の頃にはアチャン族は族長制度を実行する様に成った。新中国建国以前、アチャン族地区は封建的な領主経済の下に置かれ、地主経済も一定の発展を遂げた。その頃の領主の多くはタイ族の族長で、地主は殆どが漢民族であった。
 アチャン族の人々は、普遍的に小乗仏教を信仰している。

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    36. プミ族(Pumi ethnic minority group)
      <普米族(Pumi zu)>

 人口は約3万人
 主に雲南省の蘭坪/麗江/維西/永勝などの県寧ろうイ族自治県に居住しており、その他は四川省の木里チベット族自治県と塩源県に居住している。
 プミ語を使い、この言葉は漢・チベット語系チベット・ミャンマー語族羌語派に属する。南と北の2種類の方言があるが、その違いは大きい。
 プミ族は嘗てはチベット語の文字を使用した事もあるが、余り普及しなかったので、現在は漢字が通用している。
 プミ族はその居住地区に依ってそれぞれの呼称があり、雲南省の蘭坪/麗江/永勝に住んでいる人たちは自分たちのことを「普英米」と称し、寧ろう町の人たちは「普日米」又は「培米」と称し、これは「白人」という意味である。漢語の史籍では「西番」「巴苴」と称されている。新中国成立後の1960年に、この民族の要望に基づき統一的にプミ族と名付けられた。プミ族は元々青海・チベット高原に住み、青海・甘粛及び四川周辺の遊牧部落であったが、西暦7世紀前に現在の四川南西部地区に移駐し西昌地区の主な民族の一つと成り、漢族・チベット族などの民族と緊密に行き来している。元朝の頃にプミ族の一部の人たちは蒙古の軍隊と共に雲南省の潞西地区に入り、そこで発展し成長を遂げて来た。父系家族を基本単位として居る。
 プミ族は主に農業と副次的に牧畜に従事し、トウモロコシ/裸麦/小麦羊の乳製品である。90%以上の土地が山間地帯に在る上に生産様式が立ち後れていた為に生産は発達して居なかった。新中国成立後、特に1988年に蘭坪ペー族・プミ族自治県が設立した後、各方面で大きな発展を遂げている。
 プミ族の殆どは万物に霊魂が在るとする原始宗教(アニミズム)を信仰し、その他はラマ教道教を信仰している。

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    37. トゥーロン族、トールン族(Dulong ethnic minority group)
      <独龍族(Dulong zu)>

 人口は約5800人
 トールン族は雲南省貢山トールン族ヌー族自治県の独竜江流域の渓谷地帯に住んでいる。
 トールン族の言葉を使用し、漢・チベット語系チベット・ミャンマー語派に属する。
 この民族は文字を持たない
 トールン族の呼称は『大元統一志』の麗江路の風俗に始まり、「破」と呼ばれている。明・清の時代には「抓」或いは「曲」と呼ばれた。新中国成立後、この民族の願いに依って自分たちの使っている「独竜」を民族の呼称として使うことに成った。
 新中国成立前の20世紀40年代に於いては、山と川に隔てられ隔絶していた為トールン族の人々の社会的生産力の発展水準は低く、基本的に未だ父系家族制で原始的な木や竹で作った簡単な道具を使い、焼畑農業に従事していた。年間生産量が低かった為、採集と漁獲・狩猟が依然として生産を補完する為に不可欠であった。トールン族の暮らしは非常に貧しく、商品の交換も無く、木に刻することと縄を綯(な)うことで物事を記録し、新中国成立後に成って初めて立ち後れた様相を徹底的に変えた。
 トールン族の人たちは勤勉で、お客様を大切にし友情を尊び、何時でも或る家に何か用が有ったら村全体が助けることに成っていた。信義を重んじ約束した事は守り、質素な良好な道徳意識を持ち、「夜に戸締まりはせず、道に落ちている物を拾う人も無く」という事が、トールン族の人たちの伝統的な美徳である。
 トールン族の人々は以前から万物に魂が在ることを信奉し、自然界の物を崇拝(アニミズム)している。

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    38. トーアン族(Deang ethnic minority group)
      <徳昂族(Deang zu)>

 人口は約1万5000人
 トーアン族は雲南省徳宏タイ(幾)族チンプオ族自治州及び保山/臨滄/思茅地区に分散して居住している。その内、尊西県三台山と鎮康県軍弄などはトーアン族が集中的に居住している区域である。
 トーアン族の言葉は、南アジア語系ワ・トーアン語派に属する。納盈/布雷/若買の3つの方言に分かれている。トーアン族の人々の殆どはタイ族の言葉、漢語或いはチンプオ族の言葉に精通している。
 トーアン族には自民族の文字が無く、多くの人々は漢字或いはタイ族の文字を使うことが出来る。
 トーアン族は中国南西部の長い歴史を持つ少数民族であり、古代の濮人をルーツとし哀牢と密接な関係がある。紀元前2世紀頃に、怒江両岸一帯に居住し、可なり早くから保山/徳宏一帯の開発に携わった民族である。史書に記載されている茫蛮部落はトーアン族の祖先であり、隋・唐の時代に「茫蛮」「橡子蛮」「望苴子蛮」と呼ばれ、前後して漢・晋王朝及び南召・大理国に従い、元代以降タイ族土司所属の民に成った事もある。トーアン族の圧倒的多数はチンプオ/漢/リス/タイ族などの民族と共に生活し、主に農業生産に従事している。昔から、お茶を飲むことはトーアン族の好みであり、その為お茶の栽培に長じどの家にも茶の木がある。以前居住地区でその他の民族の差別を受け見下されて居たが、解放後こうした状況は改められ、その他の民族と同じような平等の地位を保っている。解放後パラウン族と総称された。この民族の要求の下で、1985年9月、国務院の認可を経てトーアン族と改称された。
 トーアン族の人々は小乗仏教原始宗教(アニミズム)を信奉している。

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    39. チノー族、ジノー族、ジーヌオ族(Jinuo ethnic minority group)
      <基諾族(Jinuo zu)>

 人口は約1万8000人
 主に雲南省西双版納・タイ族自治州景洪県のチノー郷とその近隣の山間部に分布する。
 チノー語は漢・チベット語系チベット・ミャンマー語派イ語分支に属する。
 自民族の文字は持たない
 チノーはこの民族の自称であり、嘗て史籍文献の中では「攸楽」と漢訳されていた。チノー族の人たちは全て雲南省西双版納州の基諾山に集まり住み、その生活習慣・祝日の風俗・服飾・民族の起源と歴史的な沿革などの各方面の情況に基づき、国務院から中国の少数民族の一つとして認定された。
 チノー族のルーツに関しては、記載される文献は無い。チノー族の人たちは、諸葛孔明の南下する軍勢の一部で、普洱や墨江、或いは更に遠い北方から移住して来たと言い伝えられて居る。又、洪水で皆死に絶えた時、小さな男の子と女の子が太陽を象った太鼓の中に隠れていて助かり、今のチノー族はその子孫であるという洪水太陽鼓伝説が在る。彼等は太陽を尊ぶ。
 新中国の成立当時は原始社会の末期から初期農村社会の段階にあった。その後チノー族の人たちは、焼畑農法竹を刻して物事を記録する/物々交換/霊魂を祭って病いを治すといった事が、時代遅れと見做され生活習慣を変える事を余儀無くされた。今では、チノー族の公務員・大学生・医師・商人と農業科学技術者が育っている。
 昔、チノー族は「万物に魂が在る」と信じ、盛んに祖先崇拝を行った。太陽鼓の祭が在る。

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    40. ナシ族、ナーシー族(Naxi ethnic minority group)
      <納西族(Naxi zu)>

 人口は約27万8000人
 主に雲南省麗江ナシ族自治県とその周辺区域に集中的に居住しており、四川省の塩源/塩辺/木里などの県チベットの茫康県にも分布している。
 ナシ語を使用し、この言語は漢・チベット語系チベット・ミャンマー語派イ語分支に属する。大多数が漢語を話せる。
 ナシ族には元々2種類の文字が在った。一つは表意の象形文字で東巴文(トンパ文)と称され、もう一つは表音の音節文字で哥巴文と呼ばれている。1957年にローマ字を基礎とするナシ表音文字が作り出された。ナシ族は中国の長い歴史を持つ民族の一つで、南へ移住した古代羌族の一派で父系を重視する。ナシという民族名は古代髦人の部落の名から来たものである。漢の時代の文献に記載されている「もう牛夷」「摩沙夷」が、ナシ族の祖先である。地域に依って、ナシ族の自称は異なっている。例えば「ナシ(納西)」「ナ(納)」「ナジョ(納汝)」「ナニ(納日)」などがある。新中国成立後、民族の願いに依ってナシ(納西)に確定した。
 ナシ族は自民族の発展に於いて、燦然と輝く民族の文化を作り出した。西暦7世紀に現れたトンバ文は、現在世界で僅かに残っている、未だ使われている象形文字である。トンバ文で書かれた「トンバ経書」はナシ族の社会発展の歴史を研究する為の貴重な資料である。ナシ族は農業を主とし、水稲/トウモロコシ/ジャガイモ/小麦/豆類/綿花/麻を栽培している。金沙江両岸は森林地帯である。玉龍雪山の山間地帯は植物種類が多く「植物の宝庫」と讃えられている。納西古楽も古い伝統が在る。麗江地区の女性は背中に北斗七星を表した「七星羊皮」を付ける。
 ナシ族は普遍的に、多くの神を祭るトンバ教を信奉して来た。少数はチベット仏教(ラマ教)道教、或いはキリスト教を信奉している。
 又、北の四川省との境の瀘沽湖に住むモソ人(摩梭人)もナシ族と同系で、母系制阿注婚(=妻問い婚)を今に残して居て、ナシ族が父系的であるのと対照的である。

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    41. ミャオ族(Miao ethnic minority group)
      <苗族(Miao zu)>

 人口は約739万人
 主に貴州省/雲南省/四川省/広西チワン族自治区/湖南省/湖北省/広東省などの地に居住しており、大きな集中的居住地区も在るし、小さな居住地区も在り、その他の民族と共に居住している地区もある。
 ミャオ語を使い、この言葉は漢・チベット語系ミャオ・ヤオ語族ミャオ語派に属する。ミャオ語は、湖南の西部/貴州の東部と四川/貴州/雲南という4大方言がある。大方言の中に小方言の分支がある。様々な民族が共に居住している地区のミャオ族の人たちは、漢・トン・チワン族の言葉を話すことが出来る。
 以前ミャオ族には統一の文字が無かったが、1956年に4種類の方言の在る表音文字を創出した。
 ミャオ族は中国では長い歴史を持つ民族の一つであり、早くも4000年前の史籍の中の「南蛮」と称されていた氏族、或いは集落についての記述の中にミャオ族の祖先について触れられたものがある。古い伝説と伝記の中で触れられている黄帝・炎帝と合戦したり講和したりした蚩尤はミャオ族の人たちの祖先と見做されている。各地に分布しているミャオ族の人たちは、自分たちのことを「牡」「蒙」「毛」「果雄」「帯叟」などと称しており、又一部の地方ではその住んでいる土地、服飾などに依って、「ミャオ」の前に「長裙・ミャオ」「短裙・ミャオ」「長角ミャオ」「赤ミャオ」「黒ミャオ」など異なった名称が用いられている。漢の頃からミャオ族の人たちは湖南省の西部、湖北省の西部、四川省の東部、貴州省の東部に住む様に成り、戦乱・飢饉・疾病・過剰な出産・耕地の荒廃などに依って彼方此方移住し、言葉・服飾・頭の飾り・習慣が大きく異なる様に成り、社会の発展も地域差が有る。
 ミャオ族の人たちは水稲トウモロコシの栽培を主とし、オオアブラギリ・アブラナなどの経済作物と、サンシチニンジン・オニノヤガラ・杜仲などの貴重な漢方薬材の栽培にも携わっている。
 ミャオ族の人たちは万物に霊魂が在るとする原始宗教(アニミズム)を信仰している。
 貴州省の凱里郊外にはグオジア人が住んでいて、一応今はミャオ族の一派とされている。未婚の女性は被り物を被るが結婚すると被り物を取りを結う
 彼等の同胞はミャンマー連邦/ラオス人民民主共和国/タイ王国にも居る。ミャンマー/タイ/ラオス国境の金三角地帯(ゴールデン・トライアングル)では1980年頃迄阿片栽培もして居た。

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   ◆四川地方

    42. チャン族(古代「羌」の後裔)(Qiang ethnic minority group)
      <羌族(Qiang zu)>

 人口は約19万8000人
 主に四川省のチベット族・チャン族自治州及びその付近の地区に居住しており、特に茂汶チャン族自治県に集中している。その他は漢/チベット/回などの民族と共に暮らしている。
 チャン語を使い、この言葉は漢・チベット語系チベット・ミャンマー語族チャン語派に属する。南と北の2種類の方言があり、一つの方言は5つの地方の言葉に分かれている。チャン族の人たちの殆どは漢語に通じている。
 チャン族には自民族の文字が無く、長年漢字を使っている。
 チャン族は中国に於ける悠久な歴史を持つ民族の一つで、甲骨文字の資料の中には早くも3000年前のの時代のに関する記載があり、主に中国の西北部中原地区に住んでいた。唐の時代に、チャン族の一部はチベット族に同化され、又一部の人たちは漢族に同化された。現在四川省西北部に住んでいるチャン族の人たちは古代羌族の一分支である。
 チャン族の人たちは自分たちのことを「爾瑪」或いは「爾咩」と称し「地元の人」という意味である。現在はトウモロコシ大豆を主とする農業牧畜漢方薬の採集/農閑期の井戸掘りなどだが、「羌」という字が「羊」の「人」と書く様に嘗ては遊牧民族であった。
 チャン族の人たちの生活している所は山峰が幾重にも重なり合い、河川が縦横に流れており、又パンダキンシコウの主な生息地でもある。新中国成立後、チャン族の農業生産とその他様々な業種が大きな発展を遂げ、特に水利施設・上水道と電力などの事業が大いに発展を遂げ、彼等の住んでいる山間地帯には小型水力発電所が彼方此方に建設されている。
 チャン族の人たちは昔から万物に霊魂が在るとする原始宗教(アニミズム)を信仰して来たが、チベット族の人たちと一緒に暮らしている少数のチャン族の人たちはチベット仏教(ラマ教)を信仰している。
 羌笛という縦笛が在る。

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   ◆貴州地方

    43. トン族(Dong ethnic minority group)
      <侗族(Dong zu)>

 人口は約251万人
 貴州省/湖南省広西チワン族自治区に隣接する地域に分布し、その中の貴州省黔東南ミャオ族トン族自治州は主な居住域である。
 トン族の言葉を使用し、漢・チベット語系チワン・トン語派トン・シュイ族の言語に属する。南北2つの方言がある。
 トン族は元々自民族の文字を持たず漢字を使っている。1958年にトン族の南部方言を基礎とし、貴州省榕江の言葉を標準音とし、ローマ字を採用してトン族の文字を創出した。
 トン族は中国の古代百越の一派から生まれ、秦・漢の時代に「駱越」と呼ばれ、魏・晋以降は「僚」と称し、トン族は僚の一部分であった。古代の文献では歴史上トン族を「洞人」「畆人」「洞蛮」などと呼び、自分たちは「甘」と称していた。宋の時代に「懍伶」と音訳し、明の時代以降は「畆僚」「畆蛮」「畆苗」と称し、或いは「苗」と誤って称された。新中国成立後、トン族と呼ばれることに成った。
 トン族の人々は主に農業に従事し、粳(うるち)米の栽培を主とし、糯米(もちごめ)がこれに次ぎ、稲田で魚を養う事に長じている。トン族は又林業にも従事し、スギ・油茶の栽培で良く知られ、油茶で客を持て成すのはお客様を大切にするトン族の人々の習わしである。トン族の女性は綿の栽培に長じ、自ら布を織り染めている。トン族の人たちは誰もが歌(歌垣の伝統を保持)を歌う事が出来、人々はトン族の住む地域を「詩歌の大海原」と称している。父系の小家族が基本単位にしている。
 トン族の住む村の中の鼓楼風雨橋はその独特な風格に依って、トン族の建築芸術の粋を示すものである。礼儀正しく、老人を敬い幼児を大事にし、人を助けることが好きで、橋を修繕し道を補修し、公益事業を重視することはトン族の人々の伝統的な習俗と美徳である。又、発酵食品が豊富に有り、日本酒と同じ醸造酒糯酒が在る。中国には蒸留酒のみで醸造酒は無いというのが定説だが、中国で”定説崩しの醸造酒”を飲んだのはトン族の村だけである。トン族は又、色々なサイズのが在る。
 トン族は多くの神、自然物を崇拝する原始宗教(アニミズム)を信奉している。

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    44. プイ族(Buyi ethnic minority group)
      <布依族(Buyi zu)>

 人口は約254万人
 主に貴州省南部、南西部の2つのプイ族・ミャオ族自治州に居住し、貴州省のその他の地区、雲南省の羅平四川省の寧南/会理にも分布している。
 プイ族の人々はプイ族の言葉を使用し、この言語は漢・チベット語系チワン・トン語派チワン・タイ語分支に属し、3つの方言がある。
 プイ族には以前文字が無く漢字を使用していた。新中国成立後、ローマ字を基礎とするプイ族の文字が創られた。
 プイ族とチワン族は同一祖先を持って居り、百越(古代の江蘇・浙江・福建・広東一帯に分布していた)の一部である。今でもプイ族の人々は古代越人の風俗習慣を残しており、例えば欄干式の家屋に住み、銅製の太鼓を打つなどがそれである。前漢の頃の夜郎国と現在のプイ族のルーツの関連性を認める人もいる。一部のプイ族の人々は自分たちのことを「布依」「布越」「布曼」と呼んでいる。新中国建国後、この民族の呼称に基づいて、「プイ(布依)」に統一された。
 プイ族の居住地区は渓谷と平原地帯が多く、美しい山水、景色の壮観さで知られる黄果樹の滝はプイ族の人たちが集中している地区である。プイ族居住地区で出土した文物から見ると、プイ族は水稲の栽培に従事していた長い歴史を持つ農耕民族で、他に陸稲/小麦/トウモロコシなど。プイ族の人々が作った蝋纈染め(ろうけつぞめ)は長い歴史があり、図案が美しく国内外で知られている工芸品である。父系の小家族が基本単位である。
 プイ族は精霊崇拝の原始宗教(アニミズム)だがシャーマニズム祖先崇拝も見られ、又少数のプイ族の人たちはカトリックとキリスト教を信仰している。

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    45. シュイ族(駱越の後裔)(Shui ethnic minority group)
      <水族(Shui zu)>

 人口は約34万人
 主に貴州省三都シュイ族自治県に集中して住んでおり、その他は近くの茘波/独山/都匀/榕江/従江などの県および広西チワン族自治区の融安/南丹/環江/河池などの県に分布している。
 漢・チベット語系チワン・トン語派トン・シュイ語分支に属するシュイ語を使っている。陽安/潘洞/三洞の3種の方言がある。
 昔は1種の古い文字を使っていた。シュイ書と呼ばれ、約300字余りから成り、少数の祈祷師だけが読むことが出来、宗教迷信活動に使われていた。シュイ族の人たちは日常生活では漢語を使っている。
 シュイ族の人たちは、古代百越の「駱越」という支系をルーツとする。明代の史書の中にシュイ族の称呼が見られる。シュイ族の人たちは自分たちのことを「海水」と称し、「水の中の人」の意味である。清朝が直接シュイ族地区を統治した後、漢民族の人たちが絶えず竜江と都柳江の上流地域に移住して来て、シュイ族の人たちは尚も漢族に依る間接統治を受けた。シュイ族の人たちは水稲耕作に中心とする農業に従事し、その他に大麦・小麦・トウモロコシなども栽培する。古代百越の後裔がそうである様に、シュイ族も父系の小家族が基本単位である。
 新中国成立後、シュイ族の人たちの生活は大きく改善され、取り分け文化・教育・医療・衛生事業の発展に依ってシュイ族地区の立ち遅れた様相は徹底的に変わり、嘗て発病率が80%にも上ったマラリアも抑制された。1957年に三都シュイ族自治県が設立された。
 シュイ族の人たちは昔は多くの神と万物に魂が在るとする原始宗教(アニミズム)を信仰していた。カトリック教が清代末期に伝えられ、僅かはカトリックを信仰している。
 銅鼓舞は有名で、婚礼や葬礼にも使われる。

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    46. コーラオ族(僚の後裔)(Gelao ethnic minority group)
      <仡佬族(Gelao zu)>

 人口は約43万人
 主に貴州省の北西/南西/北部に分散して住んでおり、少数の人たちが広西チワン族自治区雲南省に住んでいる。
 コーラオ族の言葉を使用し、漢・チベット語系だが語派は未定である。稿/阿欧/哈給/多羅の4つの方言に分かれている。分散して暮らしている為、漢語が既に公用語と成り、多くの人々はミャオ族の言葉/イ族の言葉/プイ族の言葉に精通している。
 この民族は文字を持た無い。公用文字は漢字
 コーラオ族の人々と中国古代の「僚」 -発音は「老」と同じである- は密接な関係があった。約2000年前に古代の僚人は貴州省に定住して農業に携わり、その後絶えず移住を繰り返してその他の地区に定住する様に成った。明の頃から、多くの史籍に懍石(コーラオ)、古代はと称する」という記載が見られる。
 清の頃に、コーラオ族の人々の間に専門の鍛冶屋が現れ、を鋳造し鳥撃ち銃を作り、人々に「鍛冶屋の懍石」と称されていた。コーラオ族の人々は長期に亘って漢族の人々と一緒に暮らして来た為、生活の習わしなどの面で既に現地の漢族と似ているが、今なお一部の自民族特有の文化行事/祭日の祝典/飲食の習慣を保っている。コーラオ族は人数が少なくて分散して暮らしている為、それぞれの間に大きな違いがあり、言語さえ大きな違いがあり、往々にして同じの県に住む一族の人たちの間でも言葉が通じ無い
 コーラオ族の人々は山間部に住み、主に農業に従事しトウモロコシの栽培を主とし、イネ/麦/イモなどを栽培しているが、新中国成立以前、コーラオ族の人々は貧しい生活をしていた。一部地域では結婚前に女性が上顎犬歯を抜歯する風習が在った。新中国成立以後、コーラオ族の人々は民族平等の権利を享受し、生産水準が絶えず向上し、生活水準も向上し続けている。
 コーラオ族は多くの神(アニミズム)を信奉し、祖先を崇拝している。
 彼等の同胞はミャンマー連邦/ラオス人民民主共和国/タイ王国/ベトナム社会主義共和国にも居る。ミャンマー/タイ/ラオス国境の金三角地帯(ゴールデン・トライアングル)では1980年頃迄阿片栽培もして居た。

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   ◆広西・中南部・東南地方

    47. チワン族(Zhuang ethnic minority group)
      <壮族(Zhuang zu)>

 人口は約1549万人
 チワン族は中国の少数民族の中で人口の最も多い民族である。主に広西チワン族自治区雲南省の文山チワン族ミャオ族自治州に集まり住み、僅か一部が広東省/湖南省/貴州省/四川省などに散在している。
 チワン語は漢・チベット語系チワン・トン語族チワン・タイ語分支に属し、南北2大方言に分かれる。
 南宋の時代に漢字を元に独自の文字が創られたが、標準には成らなかった。1955年にはローマ字を元にしたチワン語の文字が作られたが、チワン族の人たちの殆どは漢語を使用している。
 チワン族は中国嶺南地区(広東・広西の地を指す)の原住民族として長い歴史を持っている。数万年前の頃から、チワン族の祖先たちは既に中国の南方で生活していた。春秋戦国の頃は百越の一部であった。宋朝以降に於いては「僮」「土」などの呼称で史書に記載されている。各地のチワン族の人たちは20余りの自称をもち、新中国の成立後に「僮」に統一した。1964年に、周恩来総理の提案により、国務院の認可を得て、「僮」を「チワン」に変え、チワン族の精神的様相を一層表わすものと成った。1958年3月15日、広西チワン自治区が発足し、チワン族の自治を獲得した。
 チワン族の人たちは主に農業に携わり、トウモロコシの栽培を主とする。チワン族の人たちは歌(歌垣の伝統を保持)が好きで、チワン族の人たちの住んでいる村は「歌の海」と讃えられている。綺麗なチワン錦織はチワン族の伝統的な工芸品であり内外で知られている。父系の小家族が基本単位であり、村は漢字姓を持つ氏族で構成される。この様に長年に亘って漢族の影響を受けている。
 昔から、チワン族の人たちは自然崇拝と多神崇拝などの原始宗教(アニミズム)を信じていた。唐・宋以降、仏教道教が前後にしてチワン族地区に入って来た。近代に成って、キリスト教とカトリックもチワン族地区に入って来た。

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    48. トゥチャ族(Tujia ethnic minority group)
      <土家族(Tujia zu)>

 人口は約570万人
 主に湖南・湖北・四川の3省が隣接している地区に集中して住んでいる。
 漢・チベット語系チベット・ミャンマー語派に属するトゥチャ語を使っている。南部と北部の2種の方言がある。長期に亘って漢民族と共に生活して来た為、殆どの人が漢語を使い、トゥチャ語を使う人でも漢語に通じている。
 独自の文字は無く、トゥチャ族の人たちは漢字を使っている。
 トゥチャ族は長い歴史を持つ民族で、その祖先は早くも2000年前から今の湖南省西部/湖北省西部一帯で生活し、その他の少数民族の様に「武陵蛮」「五渓蛮」と軽蔑されていた。宋代以後「土丁」「土民」「土兵」などと呼ばれた。漢民族の人たちが多数移住して来てからは「トゥチャ」が民族の称呼として現れた。トゥチャ族の人たちは自分たちのことを「ビツカ」と称し「土着の人」という意味である。新中国成立後、民族識別作業が行われ長期に亘って承認されなかったトゥチャ族は単一の民族として認められ、1957年に湖南省西部トゥチャ族ミャオ族自治州、1983年には湖北省西部トゥチャ族ミャオ族自治州が設置され、その後酉陽/秀山/石柱/長陽/五峰/印江/沿江など民族自治県が設立された。
 トゥチャ族は漢民族の影響を多く受けており、農業が発達し経済の発展が速く文化教育が進んでいる。トゥチャ族の人たちは風光明媚の地で暮らしており、武陵源は世界文化遺産に指定され、張家界は中国の初めての国家クラス森林公園である。嘗ては焼畑農法トウモロコシ/芋類/小麦などの栽培が中心だったが、今では棚田で水稲耕作をする様に成った。擺手舞という固有の舞踏を伝える。
 トゥチャ族の人たちは祖先を崇拝し、多くの神の原始宗教(アニミズム)を信仰する。

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    49. ヤオ族(Yao ethnic minority group)
      <瑶族(Yao zu)>

 人口は約213万人
 主に広西チワン族自治区に分布しているが、湖南/雲南/広東/貴州などの省に分布しているものも一部いる。
 ヤオ語を使用する。ヤオ語は漢・チベット語系ミヤオ・ヤオ語族ヤオ語分支として分類されている。ヤオ語は3種類の言語の総称で、ミェン(勉)語、プヌ(布努)語、ラキャ(拉珈)語という3つの方言に大別されている。各地のヤオ族の人たちの間では言語の差異が大きく、お互いに言葉が通じない位である。ヤオ族の人たちは日頃チワン語漢語を使用することが出来る。
 自民族の文字は持たず漢字を使用している。
 ヤオ族は中国の長い歴史を持つ民族の一つで、ルーツは古代の「荊蛮」「長沙武陵蛮」「莫徭」「蛮徭」であると見られている。ヤオ族は 「勉」「金門」「布努」「拉珈」「炳多優」などと自称している。それぞれ異なった生業や、居住地域・服飾・頭の飾りに依って、数十種の異なった呼称がある。例えば、盤瑶/山子瑶/頂板瑶/花藍瑶/過山瑶/白コ瑶/紅瑶/藍テン瑶/八排瑶/平地瑶/オウ瑶/茶山瑶/背簍瑶などがそれである。これらの呼称の中に「瑶」という字があるので、新中国成立後「ヤオ族」と総称される事に成った。父系である。
 地域の自然環境が異なっている為、ヤオ族の社会経済の発展は非常に地域差が有る。人口の大部分は農業移動式の焼畑農法陸稲/トウモロコシ/芋類などで、定住した人々は棚田が発達し水稲耕作を行なう。林業に従事するものは、薬用植物/茶/油桐/綿花/キノコ/藍/ケシなどである。自給自足の自然経済を主とする。国の大きな支援の御陰で、ヤオ族地区の経済と文化事業は大きな発展を遂げた。
 ヤオ族の宗教信仰は比較的複雑で、自然崇拝(アニミズム)トーテム崇拝を行っている人もいれば、道教を信奉している人もいる。
 彼等の同胞はミャンマー連邦/ラオス人民民主共和国/タイ王国/ベトナム社会主義共和国にも居る。ミャンマー/タイ/ラオス国境の金三角地帯(ゴールデン・トライアングル)では1980年頃迄阿片栽培もして居た。
 ヤオ族の被り物は地域に依って様々に異なって居る。

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    50. ジン族、ベトナム族(Vietnamese ethnic minority group)
      <京族(Jing zu)、旧称は越族(Yue zu)>

 人口は約1万8000人
 主に広西チワン族自治区防城の各民族自治県の山心/万尾/巫頭という3つの小さな島及びその付近の地域に分布し「ジン族三島」と呼ばれている。
 ジン語を使用し、語系は確認されて居らず、ベトナム語 -ベトナム語はモン・クメール語派- と略同じである。漢語の広東方言を使う人もいる。
 自民族の文字を持たず漢字を使っている。
 ジン族は以前は越族と呼ばれ、1958年ジン族と改称された。ジン族の祖先は西暦16世紀の初め頃にベトナムの塗山などの地から山心/万尾/巫頭という3つの島に漂流して来た。その時小さな島は荒れ果てて一軒の人家もなかった。ジン族の人々は後に続々と島に定住して来た漢民族・チワン族の人たちと共に島を開発した。ダム堤防に依って3つの島は大陸部と繋がり島は半島と成り、干拓に力を入れ大陸から淡水を引いて来て田畑を灌漑し農業を発展させた。
 ジン族の3つの島は亜熱帯に位置し湿気が多く蒸し暑く、四季は常緑である。3つの島のある北部湾は著名な漁場で在る為、ジン族の人々は主に海洋漁業に従事している。男性は誰もが魚を獲るのが上手い。又、魚類加工業/海産物養殖業/タツノオトシゴ養殖業人工に依る真珠養殖業を発展させている。
 以前、ジン族の人たちの殆どは非識字者で、3つの島は「文盲島」と称されていた。新中国成立後、政府はジン族の人たちに対する教育を強化し、島には小学校・中学校が在るだけで無く、多くの大学生が育成され「文盲島」はすでに「文化村」に変わった。魚・海老の料理、独弦琴が独特。
 ジン族の人々は祖先を崇拝し、信奉する神々の多くは海と関係がある。
 現在、彼等の同胞はベトナム社会主義共和国を作って居る。

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    51. マオナン族(Maonan ethnic minority group)
      <毛南族(Maonan zu)>

 人口は約7万1000人
 主に、広西チワン族自治区北西部の環江県の上南/中南/下南山間部、及び河池/南丹/宜山/都安などの地区に分布している。
 マオナン語を使い、この言葉は漢・チベット語系チワン・トン語族トン・シュイ語派に属する。長年漢・チワン族の人たちと付き合って来た為、圧倒的多数のマオナン族の人々は漢語とチワン族の言葉に通じている。
 自民族の文字は無く漢字が通用している。
 言い伝えに依ると、マオナン族の祖先は元・明の頃に山東・湖南・福建などから広西チワン族自治区に移駐して来たと言う。早くも11世紀の漢語の典籍の中にマオナンという表現が現れ、地名から一般的に認められる様に成った民族の呼称である。その間に「茆灘」「茅灘」「茅難」「冒南」などという言い方もあった。マオナン族の人たちは自分たちのことを「阿南」と称しており、「この地域の人」という意味である。
 新中国成立後、マオナン(毛難)と名づけられ1986年に自民族の意志に基づきマオナン(毛南)族に改名された。マオナン族は勇敢且つ屈強で困難を恐れず進取の気概に富む民族であり、子供の教育には熱心でどんなに困難でろうと子女を就学させている。その為教育と文化のレベルが高く、数多くの文化人・知識人が居る。
 マオナン族地区には、サツマイモ/食用牛/花竹帽という3つの特産がある。マオナン族は500年余りに亘る食用牛飼育の歴史があり「食用牛の里」と讃えられている。マオナン族の人たちは、竹編み細工/石彫り/木彫りなどの工芸品の製作に長じている。
 マオナン族の人たちは道教を信仰している。

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    52. シェ族(She ethnic minority group)
      <畲族(She zu)>

 人口は約63万人
 主に福建・広東の2省及び広西自治区の境界地帯福建・浙江2省の境界地帯に居住している。中でも、福建・浙江2省には最も多く居住して居り96%を占めている。
 シェ語を使い、この言葉は漢・チベット語系ミャオ・ヤオ語族に属する。2種類の方言がある。自民族同士ではシェ語を話し、外部の人たちと交流する際は漢語を話している。
 自民族の文字は無く漢字が通用している。
 シェ族は中国南東部の山間に住んでいた長い歴史を持つ素朴な少数民族であり、早くも西暦7世紀頃にシェ族の祖先は福建・広東・江西3省の接する地域で生活していた。その時彼等は「蛮」「蛮僚」「峒蛮」と呼ばれ、南宋の頃にシェと称される様に成った。「シェ(畲)」は焼畑農法で開墾し耕作するという意味で、一つの民族の呼び方とされたのは彼等か立ち後れた遣り方で働いているからある。元代以降「シェ民」はシェ族に対する特有の呼称として、良く史籍の中に現れる様に成った。
 中華人民共和国が成立した後、正式にシェ族と名付けられた。各地で生活しているシェ族の人たちは、皆自民族の発祥の地を広東省潮州の鳳凰山だと言っている。
 シェ族の人たちは小人数グループで居住しており、周囲の漢族の人たちと共に暮らしていることも在り、漢族の人たちと一つの村に居住していることも在る。シェ族の人たちは主に農業に従事し、水稲の栽培のほか、茶/サトウキビ/ラミー材などの経済作物を栽培している。シェ族の人たちは経済・文化など各方面で漢族の人たちと同じ様に発展を遂げている。
 シェ族の人たちは祖先崇拝を行っている。

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    53. ムーラオ族(Mulao ethnic minority group)
      <仫佬族(Mulao zu)>

 人口は約15万9000人
 多数は広西チワン自治区の羅城ムーラオ族自治県に住んでおり、少数の人たちは近くの県・市に分散して住んでおり、漢/チワン/ミャオ/ヤオ/トン/マオナン/シュイなどの民族と共に暮らしている。
 ムーラオ語を使い、この言葉は漢・チベット語系チワン・トン語族トン・シュイ語に属する。ムーラオ語はマオナン語/トン語/シュイ語と可なり似ている。大多数の人は漢語に通じ、一部の人たちはチワン語が話せる。
 自民族の文字が無く漢字を使って来た。
 ムーラオ族は中国の長い歴史を持つ民族の一つで、魏、晋以降の史書の中で「姆佬」「木佬」と呼ばれれて居た。歴史の記載と言い伝えによると、ムーラオ族は元或いは明の初め頃に広西の羅城に定住し始めた。自分たちのことを「伶」「謹」と称しているが、チワン族の人たちは「布謹」と呼び、漢族の人たちは「姆佬」と称している。農業に従事し水稲/トウモロコシ/小麦などを収穫する。同姓同族の村が多く、羅・呉姓には祖先が犬に養育されたという伝承がある。新中国成立後、この民族の要望に依ってムーラオと総称される様に成った。
 ムーラオ族の居住している地区は岩山地帯であり、山峰が幾重にも連なり峡谷と窪地ばかりで、土質が痩せており耕地の灌漑と交通は極めて劣悪で経済の発展は難しかった。ここ数10年来、水利施設の建設に依って潅漑面積がどんどん広がり、穀物生産高が絶えず伸びている。ムーラオ族の居住している山間部には豊富な石炭が埋蔵されて居り、「石炭の里」とも言われ、石炭の採掘は重要な経済的支柱と成っている。
 ムーラオ族の人たちの大多数は道教を信仰し、少数の者は仏教を信仰している。

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   ◆沿海部・海南地方

    54. カオシャン族、高砂族(Gaoshan ethnic minority group)
      <高山族(Gaoshan zu)>

 人口は約40万人
 主に台湾省台湾島の山間部福建/浙江省などの東部沿海地帯と蘭嶼島に住んでいる。台湾が日本植民地時代に日本人は高砂族と呼んでいた。
 カオシャン族の言葉を使用し、南島語系インドネシア語族に属する。泰耶爾(泰雅)、鄒(曹)、排湾の3つの語群があり、20以上の言語を有し、今なお使されているのは13種の言語である。異なった呼称のカオシャン族の人たちは異なった言語を使っている
 この民族は文字を持たない
 カオシャン族という民族の呼称は、1945年以降、台湾の少数民族に対する中国人民の総称である。それには「雅美」「阿美」「賽夏」「泰雅」「布農」「曹」「排湾」「卑南」「平埔」などの呼称の人たちが含まれる。これらの呼称に依って居住地区が異なっている為、言語・習わし・服飾などには大きな違いが在る。台湾では、カオシャン族の人々は僅か2%位しか占めていないが、最も早くから台湾で生活していた人たちである。大体紀元前3万年から1.5万年迄の旧石器時代に、台湾の台南「左鎮人」が台湾全域に移住する様に成った。その頃から、カオシャン族の祖先は祖国の「宝の島」と言われる台湾で生活する様に成った
 カオシャン族のルーツは主に大陸南東部沿海一帯の古越人の一派であり、その後フィリピン群島と琉球群島から来た少数の住民と融合して形成された、と見られている。今でもカオシャン族の人々は例えば顔に入れ墨を施し、歯に穴を開け、耳に骨などを通す習わしなど自民族の特色を保っている。
 カオシャン族の人々は主に焼畑農業・林業・狩猟に従事し、その内の「雅美人」の人たちは主に魚を獲ることに携わっている。カオシャン族の人々は台湾当局の支配の下で「山胞」(平地の山胞と山地の山胞に分けられて居る)と称されている。一部の山胞は都市に入って暮らし、生活と文化に大きな変化が生じている。
 カオシャン族は原始宗教(アニミズム)を信奉し、天上の神/自然の神/精霊/妖怪などを崇拝している。
 台湾のカオシャン族では昔は宗教的な意味合いから首刈りも行われた。彼等の同胞は中華民国(台湾)に居る。

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    55. リ族、リー族(Li ethnic minority group)
      <黎族(Li zu)>

 人口は約111万人
 主に海南省に分布している。
 リー族の言葉を使用し、この言語は漢・チベット語系チワン・トン語派リー語分支に属する。居住地域に依って方言に違いが在る。漢族と密接に交流して来た為、多くの人が漢語に精通している。1957年、ローマ字の形のリー族の言葉を作った。
 リー族は中国の長い歴史を持つ民族の一つで、昔越族から発展して来たので、チワン族/プイ族/トン族/シュイ族/タイ族などの民族とルーツの面で密接な繋がりが在り、特に古代百越の一分支駱越とは更に密接な関係がある。早くも秦・漢以前に、駱越の一分支が中国の広東省・広西チワン族自治区などの地域から続々と海南島に移住して来た。リー族は自称が沢山ある。例えば「孝」「岐」「美孚」「本地」などがそれである。リー(黎)は民族名として唐の末期に始り、11世紀の宋の時代以後正式に史籍に記載される様に成った。リー族の女性は紡織に精通していて、宋の時代の末期、元の時代の初めに、紡織の工匠の黄道婆が嘗て海南島でリー族の女性に紡織技術を学んだことがある、先進的な紡織道具と技術を作り出し、中国古代の科学技術の発展に貢献した。リー族が居住している海南島は亜熱帯に位置し、気候が温暖で湿潤である。景色が美しく、四季は常緑で物産が豊富である。父系氏族集団が中心。
 農業が発達していて水稲/陸稲を栽培する。又、ゴム/サトウキビ/果物/植物油などの熱帯経済作物も割と高い発展水準を示している。
 リー族は以前から原始宗教(アニミズム)を信奉して居たが、近代に成ってから少数の人たちがキリスト教を信奉する様に成った。

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【参考文献】
△1:「中国の少数民俗」公式サイト。中国インターネット情報センター(China Internet Information Center)制作。中国の全少数民族の解説を網羅して良く纏まって居ます。しかし、漢民族寄りの表現 -このサイトは漢民族が作って居るので、当然と言えば当然ですが- が若干気に掛かる所も在ります。統計の数値は1995年頃かと思われます。

△2:『縮刷版 文化人類学事典』(石川栄吉・梅棹忠夫・大林太良・蒲生正男・佐々木高明・祖父江孝男編、弘文堂)。

△3:『民俗 70視天下』(宋杰編、白山出版社)。これも良く纏まって居ます。特に中国と関係の深い外国の民族も載せて居り、漢民族から見た外国民族観が覗え面白いです。瀋陽の出版社です。

△4:『金三角真相』(張明・焦瑛編著、時代文芸出版社)。


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