2002年・パーリャン小学校視察の旅
[「パーリャンに小学校をつくる会」同行記]
(Report of Paliang's primary school, China, 2002)

-- 2002.12.14 エルニーニョ深沢(ElNino Fukazawa)
2005.01.04 改訂

※注意:このページは写真が多く、読込みに時間が掛かります。
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 ■はじめに - 「つくる会」とパーリャンについて

 私と「パーリャンに小学校をつくる会」との出会いは
  「パーリャンに小学校をつくる会」

に書いた通りです。それに対して後日「つくる会」の方から私にパーリャン小学校視察の訪問旅行の話が有り(確か1999年暮れ)、その時は私が時間を取れなかったのですが、02年の視察旅行に初めて同行させて貰いました。スタッフの方と私の様に寄付をした同行者、総勢17名で訪問しました。
 パーリャンは中国雲南省孟連ダイ族ラフ族ワ族自治県のミャンマー国境に寄った所に在ります。パーリャン村は標高1200m位の山間地に在り、村には21の集落が在り、人口は3381人、766戸(1997年の統計)だそうです。この辺りの詳しい事や、「パーリャンに小学校をつくる会」の活動趣旨やスタッフについての情報は「つくる会」のページから参照して下さい。パーリャンの地図を今直ぐ見たい方はココ(Open the map)
 今回のパーリャン小学校視察の旅程を以下の表に記します。

日付 移動 宿泊
3/27(水)  8:30 関空集合
10:30 関空 ---- 飛行機 --> 14:45 昆明
                  昆明空港近く
                   で打合わせ
16:50 昆明 ---- 飛行機 --> 18:30 景洪
景洪のホテル
  28(木)  8:30 景洪 ---- バス ----> 16:00 孟連
        モンハイ、瀾滄経由
        (モンハイではお茶工場見学)
孟連のホテル
  29(金)  8:80 孟連 ---- バス ----> 10:30 パーリャン
                  パーリャン
                  小学校視察

                   (昼食)
                  東木村のダイ族、
                   ラフ族の村を見学
14:00 パー ---- バス ----> 16:00 モンア
      リャン         ミャンマーとの国境
                   を見学
16:30 モンア -- バス ----> 18:30 孟連
孟連の招待所
  30(土)  7:00 孟連 ---- バス ----> 15:00 景洪
        瀾滄、モンハイ経由
        (瀾滄では陶器工場見学) 景洪で市場
                      見学と夕食
20:00 景洪 ---- 飛行機 --> 21:10 昆明
昆明のホテル
  31(日)  午前中、市内見学
14:45 昆明 ---- 飛行機 --> 19:30 関空
番猫のフニャー。

 この様な日程で行きましたが、パーリャンは日本では全くと言って良い程知られて居ませんので、このページではパーリャン及びパーリャン小学校について詳しく報告したいと思います。

 ■勐海(モンハイ)、瀾滄(ランソウ)、孟連(モンレン)

 (1)モンハイ

 3月28日(木)の朝、西双版納タイ族自治州の州都・景洪市のホテルを発ち、途中モンハイ・瀾滄を経由してパーリャンが属する孟連県に向かいました。
写真1:西双版納の田植え風景。写真2:モンハイの棚田。 西双版納は三毛作も可能な雲南省の米処です。隣のモンハイ県も水田が在ります(左の写真)。
 山間地に入ると右の様な棚田が現れます。
 モンハイは景洪からバスで2時間程西へ入った所で、小ぢんまりとした街です。
写真3:日本の御供えの餅に似た形の沱茶。 左の写真何だか解りますか?、これはモンハイのお茶製造工場(茶廠)の脇の展示館に在った直径30cm位の大きな普洱茶(プアール茶)(※1)です。この辺りからパーリャンに掛けては世界の茶の原産地です。
写真4:景真八角亭を模した休憩所。 雲南省ではこの様にお茶の葉を固めて沱茶(※1-1)にします。これを削って飲むんですね。私も愛飲して居ますが、これは文字通り日本の御供え餅の様です。
 遣唐使などに依って日本に最初に輸入された茶はこれです。

 右は昼食をした食堂近くのモンハイの重要文化財・景真八角亭を模した休憩所(景真八角亭は街外れに在ります)。

 [ちょっと一言]方向指示(次) 普洱茶(プアール茶)は雲南省思茅地区の普洱県に集荷される黒茶を指します。中国茶は発酵度合いと、その発酵が揉捻(じゅうねん、茶葉を揉む工程)の前か後かに依って次の6種類に大別されます(太字は中国八大銘茶)。但し白茶だけは揉捻しません(△1のp75)。
  緑茶:非発酵       西湖龍井(浙江)、蘇州碧螺春(江蘇)
  白茶:微発酵(前発酵)  白毫銀針(福建)
  青茶:半発酵(前発酵)  武夷岩茶(福建)、安渓鉄観音(福建)、烏龍茶(福建、台湾)
  黄茶:半発酵(後発酵)  君山銀針(湖南)
  黒茶:半発酵(後発酵)  普洱茶(雲南)
  紅茶:全発酵(前後発酵) 祁門紅茶(安徽)、滇紅(雲南)

 (2)瀾滄

写真5:欄滄陶器工場の陶器釜。写真6:欄滄近くの川を渡る牛の群れ。 瀾滄は瀾滄ラフ族自治県の県庁ですが、それ程大きな街ではありません。孟連に向かうには、この瀾滄の街をほぼ直角に曲がり西に折れて行きます。ここには孟連からの帰りに寄り、陶器工場を見学しました。地元の人が使う素朴な陶器を焼いて居ました(左上の写真)。
 瀾滄県からもう直ぐ孟連県に入ろうという時、牛の群が川を渡っているのを見ました。まあそういう田舎街です(右上の写真)。瀾滄から孟連、更に孟連からミャンマー国境迄、この辺りはスイカの産地でバスの窓からスイカ畑を良く見掛けました。

 (3)孟連

 孟連は孟連ダイ族ラフ族ワ族自治県の県庁(孟連鎮)で、パーリャン小学校を訪れる為の拠点ですが、やはりそれ程大きな街ではありません。
 しかしパーリャンには私たちの様な旅行者を受け入れ出来る施設は無いので、やはりこの孟連を拠点にしなければ為りません。
写真7:ガイドの林さんと曹さん。 左の写真は今回通訳等でお世話に為った昆明中医学院の女医の林さん(右の女性)と曹さん(真中の女性)と現地教育委員会の方(左の男性)です。林さんは今迄ずっと「つくる会」のスタッフの現地通訳をされて居るそうです。
写真7-2:ホテルに咲いていたブーゲンビレア。
 右上の写真はホテルに咲いて居たブーゲンビレアです。

 ■パーリャン

 (1)パーリャン小学校

 3月29日(金)は愈々小学校に行く日です。パーリヤンは奥深い所で、孟連から更にバスで2時間位西へ入ったミャンマー国境寄りの山間地で、途中美しいお茶畑の峠(左下の写真)を越えて行き、大きく枝を広げている東木村(後述)目印の様な樹木(右下の写真)の脇を通り過ぎた所に在ります。
写真8:孟連からパーリャンへ行く途中のお茶畑の峠。写真8-2:東木村の目印の樹木。

 ここにラフ族ワ族ダイ族ハニ族リス族などの中国少数民族やミャンマー系など、色々な民族の児童たちが小学校に寄宿して勉強をして居ます。先生たちは皆若く、日本の大学生位の年で、勿論先生たちもここで寝泊りして居ます。「つくる会」の援助で教室部分はほぼ完成に近い所迄来て居ますが、今は未だ旧い校舎と寄宿舎で生活して居ます。
写真9:現在使われているパーリャン小学校校舎。竹で覆って居ますが、ご覧の様に隙間だらけ。 「つくる会」のスタッフはここで第2期工事の進捗の点検と今後の予定の打ち合わせを行いました(その為に来たのです)。
 私が自分の目で確かめたかったのは、今の校舎や寄宿舎はどんな作りなのかということだったのですが、実際に目にして愕然としました。木の柱の骨組みに竹で覆いをしただけの、隙間だらけの粗末な建物でした(右の写真)。これは訪問旅行に参加した他のメンバーも皆同じ思いだったに違い有りません。
写真10:小学校の教科書で学んで居る児童。竹の覆いの隙間から差し込む光に注目。
写真11:小学校の授業風景。 ここは中国の一番南の地方で普段は暖かいのですが、山間地なので冬に成るとが降りる時も有るそうで、とてもそんな寒さに耐えられる作りでは有りません。
 しかし子供たちは皆元気に教室で勉強して居ました(左右の写真)。良く躾けられて居る様で、私たちに会うと向こうから笑顔で挨拶をされたのが非常に印象的でした。
 


写真12:独身の女性教師の新宿舎の居間。
 子供たちの教科は所謂国語、算数、社会、理科の他、耕作の実習、コーヒー栽培(※2)の実習(→コーヒー畑は後出)など、日本に比べて実際の社会生活を実体験する場が在るのが特徴です。国語は公用語である中国語(=漢語)の他に、自分たちの民族語も習得するとの話で、私もそれは大変良い事であり、そして絶対に必要な事だと思います。

 右の写真は独身女性教師の新宿舎の中の様子です。

 私たちが見学して居るとやがて何かをガンガン叩く音がして、子供たちが一斉に教室から飛び出して来て、給食場へ昼ご飯を取りに走って行きました。後で判ったのですが、ガンガンした音は木に吊るした鍋で、昼休みを告げる音でした。
 下の写真がそれで、背後に見えているのが建設中の新校舎と寄宿舎です。私はこの写真が自分としては気に入っているので下に大きく掲載します。新旧の対比が周りの風景に溶け込んで居ます。
 写真13:チャイム換わりの鍋。背後に見えるのが建設中の新校舎。

 又、小学校の周辺の風景も載せて置きます。下の写真の赤い横断幕は地元の教育委員が小学校の入口に立てたもので、日本への謝意が書いて在ります。
  写真14:小学校入口に立つ、日本への感謝を表した横断幕。
写真15:小学校入口脇の家でビリヤードに興じる地元の人々。ビリヤードは雲南では普通の遊びです。写真16:小学校入口近くを流れる小川。のどかな風景です。 この横断幕の直ぐ傍の家では地元の人がビリヤードをして居ました(左の写真)。中国ではビリヤードは極普通の遊びで、通り掛かった市場などで私は今迄の旅で何度も目にして居ます。私はここで頼み込んで玉を突かして貰いましたが、上手く行きませんでした。右の写真は学校入口の小川で、私が立つ小さな橋の下を流れ西のミャンマー方向に流れて居ます。

 パーリャンは何も無い所なので、私たちほ持って来たインスタントラーメンで昼食をしました。
 さて子供たちの昼食ですが、この日はご飯にキャベツの野菜炒め(見た限りキャベツしか入って無い!)を掛けた椀が1つだけです。キャベツ炒め丼ですね(下の左右の写真)。
 私は左下の写真の男の子のキャベツ丼を「少し食べさせて呉れ」とジェスチャーで言って食べさせて貰いました。少し酢が入っている様な味で、旨いとは決して言えたものでは無かったのですが、私はこの子に「旨い!」とジェスチャーで言って遣ったら、嬉しそうににっこり笑いました。
写真17:私にキャベツ丼を食べさせてくれた男児。写真18:この笑顔を見て下さい。
 ご覧の様に子供たちはとても純真で皆瞳をキラキラ輝かせて居ます。私は子供たちのこの表情を見て、「ここに来て良かった、来た甲斐が有った」と思いました。そこには日本が置き忘れて仕舞った「何か」が有る様に感じられたからです。

 この子供たちの笑顔をお土産に私たちは小学校を去りました。早く新しい校舎で学べる日を願わずには居られません。みんな有り難う!!
 私はこの感動を以下の様な詩に表しました。

    題 パーリャンの自然児よ

キラキララ キラキララ
小さな瞳が キラキララ
ああ、雲南の地のパーリャンで 自然児たちよ
育てや 素直に大らかに
進めや 苦難を乗り越えて
拓けや 明日を 民族の誇りを持って
歌えや 感謝と祈りを 自然の恵みに


               月海

 (2)パーリャン東木村と東拡大塞二社

 小学校から帰る途中、私たちは少数民族の村に立ち寄り、民家を見学しました。先ず東木(トンム)村へ行きました。ここはダイ族の村落で、大阪市立大学の上田先生は彼等の生活や民俗の調査の為何回か訪れて居るそうです。この村でダイ族特有の高床式農家(左下の写真)の1つに上がって部屋の中を見学させて貰いました。
写真19-1:ダイ族の家の中の「神の依代」。写真19:ダイ族特有の高床式農家。
 この日は午後から外は蒸し暑かったのですが、裸電球の屋内は暗いですが涼しかったです。家の中に神の依代の様な物(右の写真)が在り、神様がここに降りて来ると言いますので正に依代(※3)ですが、男神用と女神用の2本在ります。ダイ族は皆敬虔な仏教徒なのに仏教以前の原初的信仰を垣間見た思いでしたが、更にこれが日本の「神」信仰の形態と非常に近似して居る事に私は驚きと共に強く興味を持ちました。
写真20:ダイ族の家の中でテレビを見ている少年僧。 今のダイ族は仏教徒ですから男子は一度は寺で修行をせねば為らず、通常小学校を終えた頃に皆寺に預けられて、仏教以外にも色々と教育を受けます。右の写真はそういう少年僧たちが、高床式住居の中でカラーテレビを見ているのです。こういった山間地でもテレビの普及率は急激に伸びていて、この写真の少年僧たちが見ているのもカラーテレビです。
 尚この東木村は、ミャンマー側から侵入した嘗ての日本軍の被害に遭った所だそうで、寺などに当時の資料などが残されて居るそうですが、今回はそこには行きませんでした。しかし村の人たちは私たちにとても親切でした。

 東木村から程近い所に東拡大塞二社というラフ族の集落(左下の写真)が在り、私たちはここも見学させて貰いました。ラフ族はその昔虎狩りをして居たという伝説を持って居ますが、今はダイ族などと変わらず農耕民として暮らして居ます。彼等の集落はバス道路から下った谷間に在り、村へ下る途中にはコーヒー畑(右下の写真)が在りました。ここパーリャンは照葉樹林文化(※4、※4-1)の真っ只中ですが、茶もコーヒー(※2)も照葉樹、即ち常緑広葉樹(※4-2)です。
 コーヒーは高温・多湿・適度の霧が生育条件でお茶の生育条件とほぼ重なる故か、現在この辺りではコーヒー栽培に力を入れて居る様です。しかし中国は何と言っても「お茶文化」でコーヒーの需要は国内では少なく、味は「欧米人が多数来る観光地」のカフェがマアマアで、その他はインスタントコーヒー以下です。
写真21:パーリャンのラフ族の集落。写真21-2:東拡大塞二社のコーヒー畑。

 ■ミャンマー国境へ

 (1)ミャンマー国境の街 - モンア

写真21-3:ミャンマーとの国境の街・モンアとミャンマーの山並み。 帰路お茶畑の峠迄戻った後、南馬河に沿って西に足を伸ばし、ミャンマー国境の街モンア迄行きました(右の写真)。国境迄の道路は良く、子供達が川で泳いだり水牛が水田を耕したりスイカ畑を眺め乍ら車で約1時間で着きました。
 写真の道路正面の茶色の屋根の建物が検問所で公安やら軍服姿が小さく見え、左に紅旗(=中国国旗)が旗めいて居ます。その先は左にカーブして国を分かつ谷川に橋が架かって居ます。背後はミャンマーの山並みで、検問所からの距離は目測で数100m位です。
 ここの検問は大変厳しくこれ以上近付くことは出来ず、この写真の撮影地点は検問所の150m位手前です。

 (2)孟連のお土産

写真22:ラフ族の赤い布製バッグ。

 パーリャン小学校で感じた事ですが、ラフ族の子供たちは左の写真の様な大変ハデな布製バッグ(赤系統が多い)を、女子だけでは無く男子も身に付けていたのが印象的でした。
 この日孟連に帰ってから市場のおばちゃん(おばちゃんは自宅迄私たちを引っ張って行きました)から皆でこのバッグをお土産に買いました。尚この写真のモデルはラフ族の人では無く土屋さんです、念の為。
 

 ■孟連から景洪へ

 3月30日(土)早朝に食事をして直ぐ出発です。途中、瀾滄→モンハイ→景洪と、一昨日来た時の逆コースを辿ります。

 (1)孟連の朝霧とモンハイの紅茶天日干し

 最初に沱茶の話をしましたので、最後に再び茶の話にしましょう。左下の写真は孟連を発って数10分後のバスの車窓からの朝霧の風景です、午前8時位です。田圃の向こうの低い山の上に出ているのは月ではありません、太陽です。実はこの朝霧が良質の茶樹の生育には欠かせないのです。
 そして瀾滄で直角に曲がり南下しモンハイ県に入り、多分モンハイより手前のモンシャー辺りで昼食をしました。そして食後に見たものが右下の写真です。トラクターの後ろで道路の上に直に広げられて在るのは紅茶の茶葉です。多分「後発酵」を終えた茶葉を天日干しで乾燥させて居るのでしょう。茶葉の脇を車が砂煙を上げて通ってもヘッチャラです!
写真23:孟連の朝霧。写真24:道路上で紅茶を露天干し。

 (2)景洪のスコール

写真25:景洪で突然のスコール そして15時頃景洪に着きました。着いた時は薄曇りで陽が少し指して居ました。
 私たちは市場見物をした後、庄洪路(=工芸品売り場通り)に行き土産物などを見ていたのですが、突然右の写真の様にバケツを引っ繰り返した様なスコール(※5)に見舞われました。店先にぶら下がっているのは西双版納名物の瓢箪を利用した縦笛です。
 ここは熱帯湿潤気候に属し、年に依って多少違いますが凡そ11月~4月が乾季、5月~10月が雨季で、雨季にはこの様なスコールが降りますが、10分位で何事も無かった様にパッと止みます。そろそろ雨季が近付いた様です。
 この後空港近くのレストランへ行き食事をして、20時発の飛行機で昆明に帰りました。

 ■結び

 今回パーリャンに行って大変良い経験をしたと思って居ます。多分こんな事でも無い限りパーリャンなど行くことは無かったでしょう、全く名前も知らなかった所ですから。又、中心に成ってこの活動を推進して居る大阪市立大学の富樫、上田の両先生、西日本工業大学の井原先生たちとも今回初めて顔を会わせましたが、スタッフや同行者一同皆気さくで好い人ばかりで、皆それぞれの思いを夜ホテルで酒を飲み乍ら話し合ったのものでした。そして何よりも小学校の児童たちのキラキラ輝いて居た瞳は一生忘れないでしょう。

 [ちょっと一言]方向指示(次) 私にも自分なりの思いが有り、それは過去の日本の歩みと重ね合わせて考えざるを得ません。近代日本は教育に重点を置いて近代化・文明化を為し遂げた訳ですが、一方では教育を身に付けた人々は農村から出て行き、結果に於いて日本の農村は荒廃しました。そして何千年と育んで来た農耕民族の心も失って来た様に思えます。しかし、ここではこれ以上この問題には立ち入らず、私の考えは何れ別のページに纏める積もりです。

写真e:帰国直後の関空にて。 ま、しかし私としては何と言っても色々な事を酒を飲み乍ら語り合えて面白かったですね。
 そして「つくる会」のスタッフも全員酒飲みであることが判り、これが何よりの収穫だったかも知れません。右の写真は帰国直後、関空の中の飲み屋で日本酒を飲んで居る所です。右から佐野さん(建築家)、西岡さん(大阪市立大学)、そして富樫会長、左奥が枡岡先生(東北工業大学)、そして筆者です。中々居ませんよ、帰国しても家へ帰らず空港で飲んじゃうというのは。
 尚、このお店には美人のママが居て、富樫先生は飛行機に乗らないのに関空通いをして居るというウワサです。

 最後に、一緒に旅した皆さんどうも有り難う!

                (^o^)/

 >>>■その後

 二度と訪れることは無いだろうと思っていたパーリャンに、04年10月29日~11月11日の小学校の竣工記念旅行(竣工式は11月1日)に再び行って来ました。そしてこの旅行を以て「パーリャンに小学校をつくる会」は解散しました。
 学校というハードウェアを作った後の奨学制度その他のソフトウェアの支援は新たに
  「パーリャン村の小学生を支援する会」

が既に04年6月頃から活動を開始して居ます。
    {この記事は04年11月17日に追加}

♪♪♪ おしまい ♪♪♪

【脚注】
※1:茶(ちゃ、tea)は、ツバキ科の常緑低木。中国南西部の温・熱帯原産。葉は長楕円形で厚く表面に光沢が有り、10月頃葉腋に白花を開く。多くの変種が在る。果実は扁円形で、開花の翌秋に成熟し、通常3個の種子が有る。木の芽。「茶の花」の季語は冬。
 茶はカフェイン(苦み)・タンニン(渋み)・テアニン(甘み)やアミノ酸・糖類を含み、独特の風味で好まれる他、ビタミンB1・B2やビタミンC(紅茶を除く)・カテキンの供給源にも成る。
※1-1:沱茶(たーちゃ)/餅茶(もちちゃ)/団茶(だんちゃ)とは、茶葉を丸餅状に練り固めた固形茶を指す。大きさは大小様々で、大きいものは一回毎に使用する分量だけ削って飲み、一回の飲茶に丸ごと使える小型円盤状のものは沱茶と呼ぶ。体積が少なく済み長期保存が利き、運搬に便利。中国古来の茶の保存形態で、現在では雲南地方に残る。遣唐使らに依って日本に最初に輸入された茶の形態で、団子の様な形から団茶とも呼ばれた。

※2:コーヒー(koffie[蘭], coffee[英])は、[1].樹はアカネ科の常緑高木。アフリカ原産の2~3種を元に、現在は中南米/ハワイなど熱帯各地で大規模に栽培。高さ数m。葉は長卵形。花は白色で香気が有る。果実は石果、紅紫色、普通は2個の種子(コーヒー豆)を蔵する。珈琲
 [2].コーヒー豆を煎って挽き粉としたもの。又、それを湯で浸出した褐色の飲料。香気と苦味が有る。約1.3%のカフェインを含み、覚醒作用が有る。酸みは主にクロロゲン酸、苦みはタンニンに因る。飲料としては、ヨーロッパで18世紀頃一般に普及、日本には室町時代に入ったと言われる。厚生新編「支那地方には茶湯並に―湯に加へて用ゆ」。
<出典:一部「学研新世紀ビジュアル百科辞典」より>

※3:依代・憑代(よりしろ)とは、神霊が招き寄せられて乗り移るもの。樹木・岩石・人形などの有体物で、これを神霊の代りとして祭る。形代(かたしろ)。

※4:照葉樹林文化(しょうようじゅりんぶんか、laurel forest culture)とは、ヒマラヤ中腹から東南アジア北部・南西中国・江南の山地を経て西日本に至る、照葉樹林地帯に共通する雑穀栽培農耕・焼畑などの文化要素が特色付ける文化で、栽培植物学者の中尾佐助が提唱。
※4-1:照葉樹林(しょうようじゅりん、laurel forest)とは、亜熱帯から暖温帯に掛けて見られる常緑広葉樹を主とする樹林。一般に、葉は深緑色で革質・無毛、表面にクチクラ層が発達し光沢が有るので、こう名付ける。西南日本、アジアの東南部、北アメリカのフロリダ半島、南アメリカの中部などに見られる。常緑広葉樹林。
※4-2:常緑広葉樹(じょうりょくこうようじゅ、evergreen broadleaf tree)とは、一年中緑色をして居る広葉樹。シイ(椎)/カシ(樫)/クスノキ(樟・楠)/アオキ(青木)/サカキ(榊/賢木)/ツバキ(椿)/チャ(茶)/コーヒー(珈琲)/月桂樹/ニッケイ(肉桂)/ビンロウ(檳榔)/オリーブ/ヒイラギ(柊・疼木)など。葉の表面に光沢が有るものを照葉樹とも言う。

※5:スコール(squall)は、急激に起こる強風で、数分間続き突然止むもの。一般に降水や雷雨を伴い風向が急変する。日本では特に熱帯地方の驟雨(しゅうう)を言うことが多い。日本国内のものは疾風(はやて、早手)、陣風(じんぷう)と言う。<出典:一部「学研新世紀ビジュアル百科辞典」より>

    (以上、出典は主に広辞苑です)

【参考文献】
△1:『お茶の事典 日本茶・中国茶の世界』(斉藤光哉監修、成美堂出版)。

●関連リンク
参照ページ(Reference-Page):パーリャンの在る孟連県の地図▼
地図-中国・孟連(Map of Menglian, -China-)
参照ページ(Reference-Page):中国の少数民族▼
資料-中国の55の少数民族(Chinese 55 ETHNIC MINORITIES)
参照ページ(Reference-Page):照葉樹林文化圏の図▼
資料-照葉樹林文化とフォッサマグナ
(Laurel forest culture and Fossa Magna)

横顔(Profile):現在の「支援する会」の活動▼
パーリャン村の小学生を支援する会
(Support team for Paliang's schoolchildren)

横顔(Profile):嘗ての「つくる会(解散)」の活動▼
パーリャンに小学校をつくる会
(Construct team for Paliang's primary school)

補完ページ(Complementary):日本の「お茶文化」や
遣唐使に依って日本に輸入された沱茶▼
2006年・金谷急ぎ旅(Kanaya hurryingly, Oi-river Railway, 2006)
ブーゲンビレアや女生徒の笑顔を中国名花集に登録
(2005年1月4日に更新)▼
中国名花集-花の写真館(Chinese Flowers)
発展途上国の援助活動についての私見
(日本の近代教育についても言及)▼
対外援助ボランティア活動の在り方と私(The way of foreign aid volunteer)
日本の「神」信仰について▼
2003年・年頭所感-感謝の心を思い出そう!
(Be thankful everybody !, 2003 beginning)

”大陸”中国と台湾の「コーヒー文化」の比較論▼
2004年・台北市の街角事情(Town watching in Taipei, 2004)
中国の少数民族について▼
外部サイトへ一発リンク!(External links '1-PATSU !')


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