2006年・金谷急ぎ旅
[大井川鉄道の旅・その5]
(Kanaya hurryingly, Oi-river Railway, 2006)

-- 2006.12.11 エルニーニョ深沢(ElNino Fukazawa)
2007.02.05 改訂

※注意:このページは写真が多く、読込みに時間が掛かります。
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 ■はじめに - 予想以上の好天で金谷を優先

 ★このページは<その4>「SLの人生」編の続きです。これは大井川鉄道の旅の起点・金谷の今昔を知る散策日誌です。

 私は3度目の大井川鉄道(正式名称:大井川鐵道(株)、略称:大鉄又は大鐵)の旅を思い立ち、06年11月8日(水)の早朝に大阪を発ち昼前にJR東海道本線の金谷駅に着きました。今回の旅は「寸又峡の紅葉」をメイン・テーマにして居て、金谷散策は帰路の明日に”序でに”立ち寄ろうと考えていたのですが、それを覆させたのはこの日の快晴の天気でした。
写真0:天竜川辺りからの富士山。 今回の旅は天候に合わせて出て来たのですが予想以上の好天で、既に浜名湖辺りの車窓から富士山が見えて居ました。右の写真は天竜川辺りからの富士山です。
 金谷の予備知識では牧之原公園からの富士山の眺望は抜群とのこと、明日も好天の予報ですが今の現実の好機を逃すまい、と先に金谷を見ることに決し駅前のタクシーで牧之原公園に直行しました。
 とは言っても本数の少ない大鐵本線、私は千頭駅前発14時50分のバスで寸又峡の下見にも行きたいので、大鐵金谷発13時24分の普通電車に乗ることにしました。大井川鉄道で今迄”揺らり旅””緩り旅”をして来ましたが、今日は僅か1時間半の”急ぎ旅”に成ります。
 尚、金谷は江戸時代の東海道五十三次の24番目の宿駅ですが、「越すに越されぬ大井川」の話をご存知無い方は予備知識として<その1>の「大井川の温故知新」の一読をお薦めします。私は兎に角、先を急ぎます。
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 ■牧之原公園

  ◆牧之原からの眺望

 JR金谷のホーム北側から出発したタクシーは05年に見たホーム西のトンネル(=牧の原隧道の上を通って線路の南側に回り込み、坂を上がること数分で丘陵頂上の駐車場に着きました。ここが牧之原公園(島田市金谷、標高約200m)です。
 公園では2匹の猫が私を出迎えて呉れましたが別ページに掲載しますので、ここでは割愛。私は早速、牧之原公園から見た富士山(下の写真)の撮影に取り掛かりました。牧之原頂上から富士は北東の方角に在り、この写真の下部に見える川が大井川です。
写真1-1:牧之原公園から見た富士山。
写真1-1-2:大井川河川敷部分の拡大。
 上の写真で富士山頂上の真下の大井川河川敷部分の拡大が右の写真ですが、実は江戸時代の”川越し”(※1)の人足たちはこの辺りを渡して居たのです。
 対岸が嘗ての東海道島田宿の渡し場で川会所跡(※2) -大井川両岸に川会所が設けられたのは元禄9(1699)年- が在ります。ここは島田宿大井川川越遺跡(静岡県島田市河原1、2丁目辺り)という国の史跡に指定され、島田市立博物館では”川越し”の様子を展示して居ます。島田の歴史を更に遡ると中世には五条義助を始め多くの刀鍛冶が住み、その刀匠碑も在ります。
 付近には浄瑠璃「生写朝顔話」(※3)の舞台と成った朝顔の松や、八百屋お七(※3-1)の恋人・吉三郎と伝えられる墓関川庵に残されて居るなど、話題に事欠きません。川岸から奥まった所には代官所跡も在ります。
 

 こちら側の大井川西岸に視線を落として行くと新金谷駅が見え(下の写真)、近鉄電車や群青色の客車の車輌が見えて居ます。この駅の少し北側が旧東海道で金谷宿はこの駅付近に在りました。新金谷駅は標高69mですから、約130mの標高差です。
写真1-2:牧之原公園から見た新金谷駅。
 大井川を挟む両宿場は往時大変賑わいました。それもその筈、雨が降り増水すると「川留め」(※1-1)で渡河出来なく成るので宿場で商売する人々には”恵みの雨”以上の天恵でした。しかし旅人にとっては旅程が伸びる上に宿賃が嵩むという”恨みの雨”です。そこで芭蕉も

  さみだれの 雲吹きおとせ 大井川

と恨み節を捻り出しました。この句碑は島田宿の川会所跡に立って居ますが、五月雨(さみだれ)とは旧暦5月に降る長雨で、今の梅雨のことです。
 、かの弥次さん・喜多さん(※4、※4-1)は「川明き」(※1-2)直後に島田に着き、人足に渡し賃を吹っ掛けられ一騒動演じた揚句、輦台(※1)で増水した大井川を地獄に墜ちる思いで渡って居ます(△1のp202~206)。
写真1-3:牧之原公園から見た大井川上流の山々。
 目を大井川上流に転じると右の様に建造中の第二東名大井川橋の向こうに幾重もの山並みが見え、大井川が流れ来る山懐の奥深さが窺えます。
写真1-4:牧之原公園から見た駿河湾。 東にはJR東海道本線の大井川鉄橋の遥か遠くに焼津方面の駿河湾も見えて居ます。
 昔はこの大井川を境に向こう側(=東側)を駿河国、こちら側(=西側)を遠江国(とおとうみのくに)と呼びました。遠江とは近江に対する呼称で、畿内の都から見て近い琵琶湖が近江遠い浜名湖が遠江です。大井川は国境の大河だったのです。
写真1-4-2:駿河湾方面の拡大。
 右が駿河湾方面の拡大で、視界が利く日にはその先に伊豆半島も望めるそうです。
 ご覧の様に、ここは180度の雄大なパノラマで夜景も又格別の様です。


写真2-1:JR車内から見た大井川鉄橋。写真1-5:牧之原公園から見た大代川橋梁。 然う斯うして居ると先程新金谷駅に停車して居た近鉄車輌の普通電車が大代川橋梁を渡って来ました(左の写真)。
 先程JRの大井川鉄橋を上から俯瞰しましたが、右は熱海行きのJR車内から見た大井川鉄橋で、06年8月30日の夕方 -即ち<その2><その3>の旅の後- に撮影したものです。

  ◆牧之原の今 - 日本の「お茶文化」

 さて、富士山を始めとする雄大な眺望を楽しんだ後は公園の中を少しだけ散策しました。しかし時間が無いので私は乗って来たタクシー会社にケイタイで電話をして、ここに迎えに来て呉れる様に先に頼みました。タクシーが到着する迄の数分で駐車場の周辺を回りました。
写真3-1:牧之原公園の栄西像。写真3-2:牧之原公園の茶業組合の碑。 先ずは左の写真、駐車場の直ぐ傍に立つ昭和36(1961)年建立の大きな栄西の石像(※5)です。
写真3-1-2:栄西像台座の銘板。 台座には左の様に「茶祖 栄西禅師尊像」と刻まれた銘板が嵌め込まれて居ます。
 右は石像の直ぐ近くに立つ茶業組合の創立30周年記念碑「静岡縣榛原郡茶業組合創立丗週年記念碑」と刻まれて居ます。この公園は牧之原台地の北端に位置し南面は5千haもの広大な牧之原大茶園に成って居ます。そう、金谷は川根茶の出荷地です。その為に中国(当時は)から茶種と喫茶法を持ち帰った栄西を讃えて在るのでしょう(金谷町はつい最近迄川根茶の産地と同じ静岡県榛原郡でしたが05年に合併して島田市に組み込まれました)。
 しかし乍ら栄西が宋から持参した茶種は京都栂尾の「本茶」宇治茶の元に成りましたが、彼は静岡茶とは無関係です。静岡茶の起源を知るには京と静岡を結ぶ人物を別に見出さねば為りませんが、それは後述の「考察」の章に譲ります。

 この公園の直ぐ南の「お茶の郷博物館」(1998年建造、現在は新島田市お茶がんばる課の管轄)には静岡の茶に所縁の有る小堀遠州(※6)の庭園と茶室を復元展示し、お茶の文化を紹介して居ますが”急ぎ旅”の為寄らず、到着したタクシーに乗り込み、春には市指定天然記念物のカタクリ(※7)が群生するという台地の斜面を降りました。
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  ◆牧之原の温故知新

 ここで牧之原の故(ふる)きを温(たず)ねてみましょう。

 牧之原という地名は、701(大宝元)年の大宝律令で官牧制度(※8)以後、この地が遠江国の馬の官営牧場だったことに由来します。
 この地が茶畑に変貌したのはずっと後の明治初期のことです。先ず1869(明治2)年に維新で失職した旧幕臣・新番組(※9)200余人が入植開墾を始め77(明治10)年には500町歩に迄達しました。この開墾地の南に70(明治3)年に大井川渡船の開始に因り失職した川越し人足(※1)たちが開墾に加わりました。現在その地には水神社が祀られ境内には人足頭領・丸尾文六の報恩碑が建ち、付近は丸尾原と呼ばれて居ます(△2のp183)。


 フーム、今の新島田市が”がんばって”宣伝して居る「お茶の郷」の歴史は意外と浅いということが解りました、やはり温故知新は大事ですね!

 ■旧東海道金谷坂

 タクシーで駅迄下る途中に石畳の東海道金谷坂が在るので私はその入口(左下の写真) -「東海道金谷坂」「石畳上り口」と書かれた2本の門柱が立つ- で降りました。これからちょっとだけ江戸時代の雰囲気を体験して来ます。
写真4-1:東海道金谷坂の入口。 金谷坂入口は島田市牧之原です。そこから登ると直ぐ右手に石畳茶屋が在り、その入口に石畳の謂れを書いた説明板が立って居ます。それに拠ると、江戸幕府が金谷宿と西隣の日坂宿との間の金谷峠越えの労を少なくする為に山石を敷き詰めた石畳の道がその後舗装されて居たのを、1991年に部分的に復元し市の史跡にしたと在ります。成る程、草鞋(わらじ)には石畳の坂の方が歩き易いのですね。
写真4-2:東海道金谷坂の庚申堂。 更に少し登ると鶏頭塚の句碑と説明板が在り、その奥に庚申堂(※10)が在ります(右の写真)。
 庚申信仰中国道教の影響を受けて干支の庚申(こうしん) -庚(かのえ)と申(さる)- の夜に徹夜で庚申待(※10-1)をし禁欲したという江戸時代に流行った民間信仰です。人間の腹中に棲むとされる三尸虫(※10-2)が庚申の夜に人間の罪 -外面的な罪だけで無く腹の中の悪巧みをも- 天に告げるのを、青面金剛(※10-3~※10-5)の威力を借りて防ごうという信仰です。
 先程の鶏頭塚の説明板に拠れば、日本左衛門が庚申堂を盗人衣装の着替え場所に利用したという言い伝えが有るそうです。<その3>では新金谷駅南の日本左衛門の首塚を紹介しました。

写真4-3:東海道金谷坂の石畳の道。 私は又少し駆け登りましたが、石畳の道は左の写真の様に曲がりくねって更に続きます。この坂を道形(みちなり)に登って行くと諏訪原城跡(別名:扇城、島田市菊川)に出ます。ここも牧之原台地北西の一角で、武田信玄が砦を築き息子・勝頼が天正元(1573)年に本格的に築城し総面積7万㎡に及ぶ広大な山城です。同年夏に浜松の徳川家康に攻められ落城しましたが、現在、本丸・二の丸・三の丸・西の丸・帯郭・腰郭・搦め手・水堀・空堀などを残し国の史跡です(△2のp179)。
 諏訪原の名称は武田家が守護神とする諏訪神社(主祭神:建御名方富命)を勧請した為です。しかし時間の限られた”急ぎ旅”、城跡迄往復する時間は有りません。ここで引き返すことにしました。
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 ■JR金谷駅 - 駅西のトンネル上は富士見の好地


写真5-1:牧の原隧道から見た金谷駅と富士山。 金谷坂からは歩いて車道を下りました、駅迄10分位です。そして、この[大井川鉄道の旅]シリーズ第1弾で「トンネルを抜けると金谷だった」と紹介したトンネル(=JR金谷駅西の牧の原隧道)の上に来て思わず歓声。ヤッホー!、眼下の駅の真正面に富士山がくっきりと見えて居ます(右の写真)。JRの駅舎の奥には大鐵金谷駅駅舎も見えて居ます。
 金谷駅が標高93mですから、ここは標高約100mの高台で、北東の富士山の方向に遮る物が無く、ここは手っ取り早い富士撮影スポットであることを発見しました。
 私は暫く立ち止まって見て居ましたが時間が無い”急ぎ旅”、3分位で切り上げて坂を降りました。もう1箇所寄りたい所が在るのです。
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 ■巌室神社 - 「金谷」の地名起源の聖地

 「もう1箇所寄りたい所」と言うのは金谷駅北の坂道を少し下って左の方角、即ち北に鳥居が見えて来ます、左下が目指す巌室神社島田市金谷町、旧榛原郡金谷町新町)です。
写真6-1:巌室神社の鳥居と鎮守の杜。写真6-1-2:巌室神社鳥居の扁額。 右が鳥居の扁額の拡大で社名が記されて居ます。
 鳥居の奥に鎮守の杜が見えて居ますが、そこは小高い山状の地です。この鳥居を潜り赤い姫宮橋を渡ると神社の境内です。
 境内の階段を上がると簡素な拝殿がひっそりと建って居ます(左下の写真)。ここは今年の夏にも立ち寄った所で、古木に覆われ夏でも涼しかったのを思い出しました。
 


写真6-2:巌室神社の拝殿。写真6-3:巌室稲荷神社の赤い鳥居。 拝殿の右を奥に回り込むと「お稲荷さん」で良く見掛ける真っ赤な鳥居の重畳「巌室稲荷神社」と書いた真っ赤な幟が見えて来ます(右の写真)。
 鳥居の下の石積みの階段を上がり左に進むと、赤い鳥居と小さな祠が在ります(左下の写真)。
 この祠が巌室稲荷神社です。そして祠を抱く様に高さ3m位大岩が控えて居ます。社名の「巌室」の意味がこれで理解出来ますこの場所は先程の拝殿(左上の写真)の裏側に位置し、拝殿で拝むことは即ちこの大岩を遥拝する事に成り、この大岩自体が信仰の対象なのです。これは古代日本の神信仰の原型とされる磐座信仰(※11)を体現したもので、ここは稲荷社以前からの聖地(=磐座空間)だったのです。これで”急ぎ旅”にも拘わらず私が寄った訳がお解りでしょう。実は夏ここに立ち寄った時”怪しい”と直感したのですが、その時は時間が無く詳しく見れなかったのです。
写真6-4:巌室稲荷神社の祠。 祠は右下の写真の様に大岩下部の穴の前に鎮座して居ます。私はこの祠の裏の穴に興味を持ちました、即ち「巌室・岩室」とはこの様な「石で覆われた室」を指すからですが、特に変わったものは在りませんでした。穴を見ると覗いて見たく成るが私の性分です、アッハッハ!
写真6-5:巌室稲荷神社の祠の拡大。 稲荷神社の祭神は宇迦御魂(うかのみたま、倉稲魂とも)で、「うか」とは「食(うけ)」のことで穀物神です。その神使が狐という訳で、「お稲荷さん」には必ず狐が居て、この祠の神棚の上にも1対の狐が載って居ます。
写真6-4-2:巌室稲荷神社の祠脇の沢山の小さな陶器の狐。
 ところがここには祠の左下の地面や岩の上や隙間に沢山の小さな陶器の狐が置かれて居ました。右の写真は左上の写真の赤い鳥居の左の岩の上に並んで居た狐の拡大です。これもちょっと珍しい光景です。
 

  ◆巌室神社の鎮火祭の起源

 この巌室神社の詳細を良くは知りませんが、毎年10月28日夜に行われる鎮火祭は市指定の無形民俗文化財です。私見ですが、この祭は遠州で絶大な神威を誇る秋葉神社の日伏せ神事(12月15~16日)(※12)と関係するのでは(?)、と思われます。そこで、金谷の歴史や巌室神社について少し調べてみたら次の様な事が判りました。

    ++++ 巌室神社の磐座に隠された秘密 ++++
 先ず地名から考えると「金谷」の古名は「金屋」で鍛冶師鋳物師と所縁が深いのです(△3のp219)が、案の定この地は鋳物師たちの活動拠点で中世には巌室神社に金山彦命(※13)が祀られ当時は「金屋」と記したという事が判明しました。川向こうの島田は鍛冶師が住んだ所(前述)です。金山彦は金山姫と共に「鉱山の神」ですが鋳物師や鍛冶師が居れば鉱山師や踏鞴師が居るのは当然です。大井川上流の奥泉駅付近にも江戸時代の鍛冶場跡(下開土遺跡)が在りましたので大井川は砂鉄を産したのでしょう。独特の霊気の様な「気」に包まれた巌室神社の磐座に隠された秘密(=私が”怪しい”と直感したもの)がこれで解けました。
 次に鎮火祭ですが、享保15(1730)年の大火を始めこの頃度々火災に見舞われたので迦具土神(※12-1)の怒りを鎮める為に始まったもの(始年未詳)です。迦具土神は秋葉神社の主祭神なので、これも案の定「巌室神社の鎮火祭」と「秋葉神社の日伏せ神事」とは関係大有りでした。そもそも金山彦/金山姫は伊弉冉が迦具土を産んだ際に女陰(ほと)を火傷し苦しんだ挙句の嘔吐物 -古事記では「多具理(たぐり)」と記す- から化成した兄妹神なので金山彦/金山姫は迦具土の弟と妹に当たり、元々から相互関係が深いのです(△4のp307~308)。
 ところで古名「金屋」から連想されるのは金屋子神(※13-1)で、この神は踏鞴師/鍛冶師/鋳物師など金属加工業者の守護神にして鞴祭(※13-2)の祭神です。しかし何故か稲荷神が金屋子神を代行する場合が可なり有る様です(※13-2)。現存する巌室稲荷神社にはそういう意味が込められて居るのでしょうか?、中々意味深です。
    {この囲み記事は07年2月5日に追加}
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 再び姫宮橋迄来て振り返ると鎮守の杜は岩山を覆い尽くして居ます。その杜の背後は大鐵金谷駅からも見える茶畑の丘で中腹には国道1号が通って居ました。
 以上、僅か1時間半で牧之原公園旧東海道金谷坂巌室神社をタクシーと自分の足で駆け回って来ましたが、以上が”急ぎ旅”の成果でした。

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 ■考察 - 日本の茶の歴史と静岡茶の起源

 ”急ぎ旅”の後は静岡茶の起源をゆっくり考えてみましょう。まぁ、その前に静岡の銘茶「川根茶」で喉を潤して下さい。

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  ◆茶の木と「お茶文化」

 ツバキ科の茶(※14)の原産地は中国雲南省の南西部とする説が現在最有力です。ここは普洱茶(プアール茶)の生産地として有名で、今でも茶葉を練り固めて昔乍らの沱茶(※14-2) -日本では餅茶或いは団茶と呼ぶ- を製造して居ます。普洱辺りが世界の「お茶文化」発祥の地と考えられ、こことチベットのラサとの間に延々と茶馬古道 -普洱からはを運び帰り荷にを運んだ- が開けたのです。
 尚、世界の「お茶文化」発祥の地・普洱については
  2002年・パーリャン小学校視察の旅(Report of Paliang's primary school, China, 2002)

をお読み下さい。

 茶は種を撒いてから茶樹に成長し葉を摘める様に成る迄5年位掛かり(△5のp99)、温暖湿潤で寒暖の差が大きく朝霧が発生する様な場所が生育に良いとされ、大きな河川流域の斜面地を茶畑とすることが多いのはその為です。茶はヒマラヤ中腹~中国南西部~中国江南地方~台湾北部~西日本に掛けて帯状に連なる照葉樹林(※15)に産する典型的な樹木です。照葉樹とは常緑広葉樹(※15-1)のことで、葉の表が日光を照り返す様な光沢を持つのが名の由来で、日本の神社の境内に多いや神事に欠かせない、茶と並び称されるコーヒーも照葉樹です。この地帯の人々は照葉樹林文化(※15-2)と呼ばれる共通の生活様式を有することでも知られて居ます。

  ◆中国での喫茶の流行

 中国では紀元前から一部の人に茶が飲まれて居ましたが、厭世家の陸羽(※16)が茶の歴史・製法・器具・喫茶法などの解説書である『茶経』(※16-1)を著したのが760年頃とされ、この頃に茶が文人の間に流行しました。『茶経』は「茶者、南方嘉木也。」(=茶は南方の嘉木なり)と言い(△6のp43)、「凡、採茶、在二月・三月・四月之間。」(=茶は旧暦の2~4月(新暦では4~6月)の間に採る)と言って居ます(△6のp63)。又、「神農食経。茶茗久服。人有力悦志。」(=『神農食経』は茶を久しく服せば力を得て悦ばしい気持ちになる)と在り(△6のp127)、『神農食経』 -神農(※17)は中国で薬の神様- を引用して述べて居ます。つまり「医食同源」という漢方の考え方に則ったもので茶は一種の薬と考えられて居たことが解ります。茶を飲んで元気に成るのはカテキン(※14-1)、好い気持ちに成るのはカフェイン(※14)の作用でしょうか。
 ところで、この時期は玄宗皇帝が楊貴妃の色香に溺れ箍(たが)が緩んだ隙に安禄山らに安史の乱(755~763年)を起こされ退位した年(=756年)と重なり、これ以降「大唐帝国」と称された唐の威勢は徐々に衰退に向かうのです。
 中国では唐の時代には沱茶、宋代には抹茶、明代には煎茶が流行しました。又、茶と共に茶道具や茶器類も発達し宋代に皇帝直属の官窯として最大の隆盛を見せた景徳鎮の磁器(※18)は中国の「お茶文化」と密接に結び付いて発達し芸術品の域に達しました。

  ◆茶の初伝来は奈良後期の渡来僧か

 日本に最初に茶を紹介したのは恐らく奈良時代後期(750年頃~784年)の中国唐の渡来僧だと考えられ、又、遣唐使の僧も茶を持ち帰ったかも知れません。この頃伝えられたとすれば沱茶(=団茶)です。聖武天皇の「行茶の儀」、嵯峨天皇の「賞茶の式」(△6のp29)が行われたとも在ります。『東大寺要録』には聖武天皇の頃(在位724~49年)に僧・行基が各地に茶を植えた、という話が載って居ます(△7のp248)が確たる証拠は有りません。

  ◆平安初期の唐風文化と茶

 信憑性が有る話としては、延暦24(805)年に帰朝した最澄が茶種を比叡山東山麓の近江坂本に植えたという伝承です。最澄は近江国の渡来人の子孫です。
 文献的な裏付けが有るのは、弘仁6(815)年6月、嵯峨天皇(※19)が近江唐崎に行幸した途次に梵釈寺の入唐僧・永忠(※20)が自ら煎じて茶を献じたという『日本後記』 の記述です。この時の茶が坂本の茶園のものだろう、ということでその10年前の最澄に繋がる訳です。何れにしても、この815年を以て文献学的な日本の喫茶の始原とするのが定説です。
 嵯峨天皇は翌816年に近畿諸国に茶栽培の勅命を出し、これを契機に日本でも朝廷のサロンを中心に喫茶が広まり『凌雲集』(※19-1)という漢詩集には当時の茶会や茶を賛美した詩が載って居ます。
 永忠が嵯峨天皇に献じた茶は煎茶であろうとされて居ますが、この頃の飲み方は通常は沱茶で、時には甘葛や葱や生姜を混じて飲んだ様です。茶に野菜・豆・穀物などを混ぜて食す習慣から畿内の茶粥(※21)が生まれます。中国貴州省を中心に住む侗族(トン族)は今でも油茶という茶粥に似たものを食べ、”茶を食べる”文化は照葉樹林文化の一つとされて居ます。
 尚、最澄が植えたとされる坂本の茶園は日吉大社の傍の小さな日吉茶園(滋賀県大津市坂本)として今も残り、ここで栽培された茶は大社の祭礼などに供されて居ます。

  ◆平安中後期300年間の日本茶の空白

 この様にして貴族階級に浸透した茶ですが、平安初期の茶は唐風文化の一部として文人趣味に留まった為、寛平6(894)年の遣唐使廃止以後に唐風文化が衰え国風文化が興ると喫茶の習慣も途絶え記録からも「茶」が消えます。平安中後期の900~1200年の300年間は日本茶の空白時代です。
 この平安中後期は陰陽道の「穢れ」や「怨霊」思想が貴族の間に流行り、肉食が極端に「禁忌」されて行く時期(←「日本の肉食文化の変遷」で既に指摘)にすっかり重なる点に、私は興味を惹かれます。

  ◆鎌倉時代の八女茶・京茶と禅宗

 日本の「お茶文化」を再興したのが前述の栄西(※5)です。彼は2度目の入宋から帰国した建久2(1191)年に肥前(今の佐賀県)背振山霊仙寺に茶種を蒔き八女茶の起源とし、建仁2(1202)年に京都に建仁寺を開いた折に茶の実5つを柿の形をした陶器に入れて京都高山寺の明恵上人(※20-1)に贈り、明恵はその実を栂尾高山寺山内に試植して成功し「本茶」の元とし、京都宇治に移植し「宇治茶」の元とし、こうして栄西と明恵が鎌倉前期に京茶の基礎を築きました(△5のp101~102)。現在では宇治の茶業家が高山寺の明恵上人廟に毎年新茶を献納し、境内には「日本最古之茶園」の石碑が立つ小さな茶園が在ります。
 栄西は又『喫茶養生記』(※5-1)を著し宋の抹茶の飲み方を日本に伝えました。その冒頭で「茶也、末代養生之仙薬。人倫延齢之妙術也。」と述べ(△6のp147)、茶を薬と見做す考え方は『茶経』と相通じて居ます。
 又、栄西の孫弟子にして曹洞宗の開祖・道元(※20-2)は宋から帰朝後越前に道場を開き2年後の寛元4(1246)年に永平寺と改名し僧堂生活の規範を「永平清規」に定め、その中で初めて「禅の茶礼(されい)」(=茶の礼式)を確立しました(△5のp105)。
 この様に茶が禅宗の僧侶たちに受け入れられた背景には、坐禅の妨げに成る睡魔を茶が除く効果が有ったからです。

  ◆南北朝期に諸国へ拡散

 この京都の茶を静岡に齎(もたら)した人物は誰か?、その答えはズバリ円爾(弁円、聖一国師)(※20-3)です。彼は鎌倉初期に駿河栃沢(現在の静岡市栃沢)の生まれで入宋し臨済禅を学ぶと共に茶の文化に触れ仁治3(1242)年に茶種を持ち帰り、寛元3(1245)年の帰郷の折に茶種を安部川西の隣村の駿河足窪(現在の静岡市足久保)に蒔き静岡茶の基礎を築いた、とされて居る人物です。京都東福寺を開いた円爾は京茶の栽培法にも通じていたと思われます(→東福寺の地図)。現在東福寺には明兆筆の「聖一国師像」が残され、故郷栃沢には国師の顕彰碑が立てられて居ます。
 同じく駿河生まれの禅僧・南浦紹明(大応国師)(※20-4)は宋の径山寺から台子(※22)や書籍を持ち帰り中国の茶の作法を日本に伝えた人です。彼の故郷の駿河国安部郡井宮村(静岡市葵区井宮、JR静岡駅北西約3km)には「産湯の井戸」が残され、近くの臨済寺(葵区大岩)には栄西・聖一国師・大応国師の茶の三聖の木像が在ります。

 そして『異制庭訓往来』という書物 -円爾直系の東福寺派の僧・虎関師錬(※20-5)が南北朝頃に著したとされるので成立年は1336~46年- には当時の茶の産地が

  京 :栂尾・仁和寺・醍醐・宇治・葉室・般若寺・神尾寺
  諸国:大和室尾・伊賀八鳥・伊勢河居・駿河清見・武蔵河越
      (室生) (服部)           (川越)

と記されて居ます。この中で著者は栂尾の茶を「名山」とし京の他所の産を「補佐」とし、大和・伊賀以外の諸国茶は「瓦礫の様」と、”独断と偏見”で断じて居ます。
 この中に駿河清見が静岡の茶処として載って居ます。清見という地名は現在の静岡市清水区(旧清水市)の興津辺りに現存して居ます。聖一国師が蒔いてから100年後の1340年頃には産地は駿河の足窪→清見へと南東へ波及して居ます。
 こうして中世の茶は禅宗と共に広められ定着したのです。

  ◆室町時代の武家と茶

 又、宋末期に流行した闘茶(※23)という抹茶を吟味して遊ぶ”賭け事”が伝えられ、日本でも南北朝~室町中期に流行り、武士が茶に参入して来ました。中でも”婆娑羅”(※24)な趣味人・佐々木導誉(高氏)(※24-1)は闘茶に嵌まり道具立てや作法を「書院の七所飾」に定めたと言います。そして南浦紹明が伝えた中国の茶礼を基に、能阿弥(※25)が「書院の七所飾」を参考に「書院の台子飾」を制定し「武家の茶礼」としました(△5のp109)。

  ◆室町後期~戦国期の茶道の確立と武人権力者の”茶番”

 信長や秀吉など天下人が「茶の湯」(※26)に懲ったのは良く知られた話ですが、室町末期から戦国時代に掛けて村田珠光武野紹鴎千利休などの茶人が輩出し茶道(※26-1)を確立しました。闘茶では中国風の茶道具や茶器が貴ばれましたが、これらの有閑茶人たちは和風を追究し、禅の精神とも通底する「侘び、寂び」の境地に到達したので特に侘茶(※26-2)と言われます。一方朝鮮から連れ帰った陶工の中国風や朝鮮風焼物に、古田織部などが和風の個性を吹き込み茶器のデザインを革新し一派を成しました。
 そんな状況の中で”剛の者”として鳴らした武人権力者たちも大いに”茶を利用”しました。その結果、茶器は便乱坊(べらぼう)に高騰しました。ポルトガルのイエズス会士ルイス・フロイスは当時の抹茶を「粉末にした草」と形容し「その所作に用いられるすべての品は日本の宝物と言い、「売買の際に仲介役となる宝石商のような人が居ると記して居ます(△8のp253~254)。
 そもそも武人が論功行賞で、例え高価であっても勢力拡大に何の役にも立たない茶器や茶碗などを貰って真に喜んだかどうか?、諸侯に与えるべき領地が最早余り無い上に勢力拡大をさせたく無いというホンネ(本音)から、天下人たらんと野望を持つ武人権力者たちは戦闘勝利の褒美に茶碗を与えるなど笑止千万な”茶番劇”を演じたのです。しかし逆に考えると、諸侯たちが「天下人の”ポーズ”としての茶趣味」を渋々受け入れざるを得ない様な「絶対的な秩序」が出来上がりつつ在った、つまり下剋上の戦国時代は終わりを告げていたのだ、とも言えましょう。
 鎌倉~室町の中世は抹茶の時代でした。

  ◆駿河から遠江へ - 川根茶の起源

 では一体川根茶の起源は何時か?
 最も早い時期を想定すれば東遷したのと同時期に足窪→川根へと西にも波及したと考えることも出来ます、足窪と中川根とは直線距離で僅か25kmです。近世に入り秀吉の検地以後は検地帳・茶貢租などの古文書に茶の産地が記録として残り、駿河志太郡伊久身村が文禄2(1593)年に、遠江榛原郡中川根村が慶長7(1602)年に登場します。伊久身村は現在の島田市伊久美で川根温泉の東5kmの位置です。
 従って確実に言えることは、川根茶のルーツは円爾の足窪茶(茶種は宋)であり、川根地方に根付いたのは1340~1600年の間ということです。

  ◆江戸前期の茶の全国的普及

 1603年からの江戸時代に入ると茶は禅を離れて普及し始め、それに合わせ小堀遠州は国産の焼物「国焼き」を指導し茶器も安価に生産される様に成りました。大鐵本線五和駅西方の志戸呂は遠州所縁の窯場です。
 やがて明から煎茶の文化が輸入され、江戸中期には宇治でも煎茶を生産する様に成り、作法無しで安直に飲める煎茶が新興階級の町人に歓迎され各地に茶店(ちゃみせ)が出現し、煎茶番茶(=低級煎茶)を飲むのが”日常茶飯事”に成る迄遍く日本中に普及しました。
 一方、”違いが解る”[或いはそう思い込んで居た]江戸の文人たちは「煎茶式」(※27)という煎茶の作法を編み出し反骨の”粋(いき)がり”を見せました。「粋」こそ江戸の時代精神です。

  ◆現在の静岡茶

 以上の様に幕末には圧倒的な茶の需要が有ったので、前述の如く明治初期に牧之原台地一帯に食い詰め者が茶畑を開墾した訳です。
 現在、宇治抹茶玉露は最高級品とされ、八女玉露も高級品として有名ですが、日本の茶生産の約半分を誇る静岡県は、牧之原台地や富士山麓の他、安倍川・大井川・天竜川・太田川などの河川の流域で茶を生産して居ます。中でも円爾に依る静岡茶発祥地である安部川流域の本山茶(足久保茶)は嘗て徳川幕府御用茶で、朝比奈川流域岡部町の朝比奈玉露、天竜川流域の天竜茶、そして本シリーズで度々登場する大井川流域の川根茶などが有名です。
    {この章は06年12月26日に加筆修正し完成}

 ■結び - 1時間半の成果


写真e:JR金谷駅前のセグロセキレイ。
 JR金谷駅に戻ると駅前の舗道をセグロセキレイ(背黒鶺鴒)が跳び跳ねて居ました(右の写真)。
 時刻は午後1時5分、私は駅で切符とお茶を買ってホームに入ると、私が乗る普通電車が富士山をバックに到着客を乗せて入線して来る所でした。
 この後私は大井川の秘境・寸又峡に行きました、続きをお・楽・し・み・に!

 ところで、このシリーズの背景画に塩郷の「川根茶」の茶畑を使用して居るので、是非川根茶のルーツをシリーズ中の何処かで書きたかったのですが、やっと実現出来て満足です。それは結局日本の茶のルーツから書き起こさねば為らなかったのですが。そこで「川根茶」を一杯お試し下さい。ルーツを知って飲むと一段と深く味わえるかも知れませんよ。

                (+_@;)
                ┌U_

 尚、[大井川鉄道の旅]シリーズの他画面への切り換えは最下行のページ・セレクタで行って下さい。(Please switch the page by page selector of the last-line.)

φ-- つづく --ψ

【脚注】
※1:川越し(かわごし)とは、[1].川を徒歩で渡ること。
 [2].江戸時代、特定の大河に橋や渡船を設けず、川越し銭を取って、人の肩輦台(れんだい)にのせて渡らせたこと。
 [3].「川越し人足」の略。
※1-1:川留め/川止め(かわどめ)とは、江戸時代、出水の為、旅人の川越しを禁じたこと。川支(づか)え。←→川明き。
※1-2:川明き(かわあき)とは、川留めを解除すること。川明け。←→川留め。

※2:会所(かいしょ)とは、江戸時代、商業・行政などの事務を執る為の集会所。株仲間の事務所、米・金銀などの取引所、町役人・村役人の事務所、藩の政務所など。
 川会所は主に「川越し」「川留め」の管理監督や川越し料の徴収に当たって居ました。

※3:生写朝顔話(しょううつしあさがおばなし)は、浄瑠璃の一。近松徳叟作、翠松園補の時代物。1832年(天保3)初演。司馬芝叟の長話「蕣(あさがお)」を原拠とし、秋月弓之助の娘深雪と駒沢次郎左衛門との情話を脚色。四段目「宿屋」「大井川」が有名。朝顔日記。後に歌舞伎化。
※3-1:八百屋お七(やおやおしち)は、江戸本郷追分の八百屋太郎兵衛の娘(1666?~1683)。天和2年(1682)12月の大火で焼け出されて駒込の正仙寺(一説に円乗寺)に避難した際、寺小姓の生田庄之助(一説に左兵衛)と情を通じ、恋慕の余り、火事に成れば会えるものと放火。捕らえられて鈴ヶ森で火刑に処せられたと伝える。資料に依り所伝は相異。この巷説は西鶴の「好色五人女」や歌祭文(うたざいもん)で流布し、相手を小姓吉三(吉三郎)として浄瑠璃や歌舞伎に脚色された。浄瑠璃「八百屋お七」(紀海音作)・「伊達娘恋緋鹿子」(菅専助他の合作)、歌舞伎「お七歌祭文」などが知られる。

※4:「弥次さん・喜多さん」は、十返舎一九作の『東海道中膝栗毛』の主人公。
※4-1:東海道中膝栗毛(とうかいどうちゅうひざくりげ)は、江戸時代の滑稽本。十返舎一九作。初版本は初編から8編迄に発端を加えて18冊。1802~09年(享和2~文化6)刊。発端のみ14年刊。弥次郎兵衛と喜多八が随所に失敗や滑稽を演じつつ東海道・京・大坂を旅する道中記。後20年に亘り続編を出す。本称「道中膝栗毛」又は「膝栗毛」。
 補足すると、十返舎一九は若い頃大坂で近松余七と号して浄瑠璃作者の修行を積んだのです。

※5:栄西(えいさい/ようさい)は、日本臨済宗の祖(1141~1215)。明庵と号。備中の人。比叡山で学び台密に長ずるが、禅学の衰微を嘆いて1168年(仁安3)・87年(文治3)と2度入宋、虚庵懐敞(きあんえしょう)に臨済禅を受け、博多に聖福寺、京都に建仁寺を建立して禅宗の定着に努めた。著「興禅護国論」。又、宋から茶種を齎(もたら)して栽培し、「喫茶養生記」を著す
※5-1:喫茶養生記(きっさようじょうき)は、茶に関する我が国最初の書。栄西著。2巻。1211年(建暦1)成、1214年(建保2)修訂。養生の仙薬として茶の効能を説き、将軍源実朝に献じたものと言う。

※6:小堀遠州(こぼりえんしゅう)は、江戸前期の茶人・造園家(1579~1647)。名は政一。宗甫・孤篷庵と号。近江国の人。豊臣氏及び徳川氏に仕え、作事奉行・伏見奉行を勤仕。遠江守であったので遠州と称。茶道を古田織部に学び、遠州流を創め、徳川家光の茶道師範。和歌・生花・建築・造園・茶具の選択と鑑定に秀でた。

※7:片栗(かたくり)は、[1].ユリ科の多年草。山野に自生。早春に2葉を出す。葉は厚くて淡緑色、表面に紫斑が有る。春早く、長い花柄を出し、紅紫色6弁の美花を開く。花被片は外曲反転し、下向きに咲く。地下茎は多肉・白色棍棒状で、澱粉を貯える。カタコ。古名、かたかご。
 [2].片栗粉の略。「―だんご」「―まんじゅう」。

※8:官牧(かんぼく)とは、律令制で、官用のを供給する牧場。兵部省の管理。諸国に亘っているので諸国牧とも言う。

※9:新番(しんばん)とは、江戸幕府旗本の軍事組織。1643年(寛永20)新設。20人を1組とし、当初4組、後8組。近習番。新御番。

※10:庚申(こうしん)とは、[1].干支の一。(かのえ)(さる)。
 [2].庚申待の略。
 [3].青面金剛の別称。
※10-1:庚申待(こうしんまち)とは、庚申の夜、仏家では帝釈天及び青面金剛を、神道では猿田彦を祀って、寝ないで徹夜する習俗。その夜眠ると、人身中に居る三尸が罪を上帝に告げるとも、命を縮めるとも言う。中国の道教の守庚申に由来する禁忌で、平安時代に伝わり、江戸時代に盛行。庚申。庚申会。庚申祭。御申待(おさるまち)。
※10-2:三尸(さんし)とは、道教で、人の腹中に棲んで居ると言われる3匹の虫。隠して居る過失をも知り、庚申の夜に人の睡眠中に天に昇り、その罪悪を告げると言う。三尸虫。
※10-3:青面金剛(しょうめんこんごう)は、顔の色が青い金剛童子。大威力が有って病魔・病鬼を払い除く。六臂三眼の忿怒相をして居る。民間で行われる庚申会(こうしんえ)の本尊として祀られる。
※10-4:庚申堂(こうしんどう)は、庚申の青面金剛を祀った堂。
※10-5:庚申塚(こうしんづか)は、路傍などに青面金剛(庚申)を祀って在る塚。三猿(さんえん)の形を刻んだ石塔(庚申塔)などを建てて在ることが多い。

※11:磐座(いわくら)とは、(イハは堅固の意)[1].神の鎮座する所。岩座。
 [2].山中の大岩や崖。

※12:秋葉神社(あきばじんじゃ)は、静岡県周智郡春野町の秋葉山に在る元県社。祭神は火之迦具土神(ひのかぐつちのかみ)。火難除け(火伏せ)の信仰と12月15・16日の火祭で有名。
※12-1:[火之]迦具土神([ひの]かぐつちのかみ)は、記紀神話で、伊弉諾・伊弉冉2尊の子。火を司る神誕生の際、母を焼死させた為、父に切り殺される火産霊神(ほむすびのかみ)。

※13:金山彦/金山毘古(かなやまひこ)は、鉱山の神金山姫を配する。
※13-1:金屋子神(かなやごがみ)は、踏鞴師/鍛冶師/鋳物師などの信ずる職業神。鉄の神/火の神と言われ、鞴祭(ふいごまつり)の祭神。特に中国地方に多い
※13-2:鞴祭(ふいごまつり)は、旧暦11月8日に、鍛冶屋/鋳物師など常に鞴(ふいご)を使う者が行う祭。祭神は、金屋子神(かなやごがみ)或いは稲荷神踏鞴祭(たたらまつり)。

※14:茶(ちゃ、tea)は、[1].ツバキ科の常緑低木。中国南西部の温・熱帯原産。葉は長楕円形で厚く表面に光沢が有り、10月頃葉腋に白花を開く。多くの変種が在る。果実は扁円形で、開花の翌秋に成熟し、通常3個の種子が有る。木の芽。「茶の花」の季語は冬。
 茶はカフェイン(苦み)・タンニン(渋み)・テアニン(甘み)やアミノ酸・糖類を含み、独特の風味で好まれる他、ビタミンB1・B2やビタミンC(紅茶を除く)・カテキンの供給源にも成る。
 [2].茶の嫩葉(わかば)を採取して製した飲料。嫩葉を蒸しこれを冷却して更に焙って製する。嫩葉採取の時期は4月頃に始まるが、その遅速に依って一番茶・二番茶・三番茶の別が有る。湯を注いで用いるのを煎茶 -玉露は高級品、番茶は低級品- と言い、粉にして湯にまぜて用いるのを抹茶又は碾茶(ひき)と言う。尚、広義には焙じ茶・紅茶・ウーロン茶・マテ茶などの総称。茗(めい)
 [3].抹茶を点(た)てること。点茶。茶の湯。茶道。
 [4].茶色の略。
 [5].好い加減な事を言うこと。からかうこと。茶化すこと。黄、御存商売物「相応に―を言ふて置きけるゆゑ、絵そらごとといひ初めしなり」。「―を言う」「茶番」。
※14-1:カテキン(catechin)とは、カテキュー(阿仙薬)から精製する黄色の非結晶化合物。植物界に広く存在し、タンニンの成分と成る。抗酸化作用抗菌作用を持つ。
※14-2:沱茶(たーちゃ)/餅茶(もちちゃ)/団茶(だんちゃ)とは、茶葉を丸餅状に練り固めた固形茶を指す。大きさは大小様々で、大きいものは一回毎に使用する分量だけ削って飲み、一回の飲茶に丸ごと使える小型円盤状のものは沱茶と呼ぶ。体積が少なく済み長期保存が利き、運搬に便利。中国古来の茶の保存形態で、現在では雲南地方に残る。遣唐使らに依って日本に最初に輸入された茶の形態で、団子の様な形から団茶とも呼ばれた。

※15:照葉樹林(しょうようじゅりん、laurel forest)とは、亜熱帯から暖温帯に掛けて見られる常緑広葉樹を主とする樹林。一般に、葉は深緑色で革質・無毛、表面にクチクラ層が発達し光沢が有るので、こう名付ける。西南日本、アジアの東南部、北アメリカのフロリダ半島、南アメリカの中部などに見られる。常緑広葉樹林。
※15-1:常緑広葉樹(じょうりょくこうようじゅ、evergreen broadleaf tree)とは、一年中緑色をして居る広葉樹。シイ(椎)/カシ(樫)/クスノキ(樟・楠)/アオキ(青木)/サカキ(榊/賢木)/ツバキ(椿)/チャ(茶)/コーヒー(珈琲)/月桂樹/ニッケイ(肉桂)/ビンロウ(檳榔)/オリーブ/ヒイラギ(柊・疼木)など。葉の表面に光沢が有るものを照葉樹とも言う。
※15-2:照葉樹林文化(しょうようじゅりんぶんか、laurel forest culture)とは、ヒマラヤ中腹から東南アジア北部・南西中国・江南の山地を経て西日本に至る、照葉樹林地帯に共通する雑穀栽培農耕・焼畑などの文化要素が特色付ける文化で、栽培植物学者の中尾佐助が提唱。

※16:陸羽(りくう)は、中国・唐中期の文人(?~804?)。自然復帰を唱えて半生を隠棲。「茶経」を著す。<出典:「学研新世紀ビジュアル百科辞典」>
※16-1:茶経(ちゃきょう/さけい/ちゃけい)は、茶書。唐の陸羽の著。760年頃成立。3巻。茶の歴史・製法・器具について記述した最古の書。<出典:一部「学研新世紀ビジュアル百科辞典」より>

※17:神農(しんのう)は、中国古伝説上の帝王。在位120年、子孫は8代続いて中国を治めたとされる。三皇の一。姓は姜(きょう)。人身牛首、民に耕作を教えた。五行の火の徳を以て王と成った為に炎帝と言う。百草を舐めて医薬を作り、5弦の瑟(しつ) -箏(そう)に似た楽器- を作り、八卦を重ねて六十四爻を作る。神農氏。<出典:一部「学研新世紀ビジュアル百科辞典」より>

※18:景徳鎮(けいとくちん、Jingdezhen)は、中国江西省北東部の都市。中国最大の製陶地。その窯名は宋代に始まるが、唐代にすでに青白磁などを焼き、明以降は赤絵などを造った。磁都と称される。人口38万4千(1995)。

※19:嵯峨天皇(さがてんのう)は、平安初期の天皇(786~842、在位809~823)。桓武天皇の皇子。名は神野(かみの)。「弘仁格式」「新撰姓氏録」を編纂せしめ、漢詩文に長じ、「文華秀麗集」「凌雲集」を撰せしめた。書道に堪能で、三筆の一。
※19-1:凌雲集(りょううんしゅう)は、日本最初の勅撰漢詩集。正称「凌雲新集」。1巻。嵯峨天皇の勅に拠って小野岑守(みねもり)ら撰。814年(弘仁5)成立か。作者24人、91編(現存本)を収める。唐詩の影響下、詩文隆盛期を反映。

※20:永忠(えいちゅう/ようちゅう)は、奈良~平安初期の僧(743~816)。京都の人。俗姓秋篠氏。宝亀の始め(770年頃)入唐し、延暦末年(805年頃)に帰朝、桓武天皇の勅に拠り近江国梵釈寺に住した。806(大同元)年に律師に任じられ、810(弘仁元)年に少僧都、後大僧都。815(弘仁6)年、嵯峨天皇が近江行幸の際に手ずから茶を煎じたと言う。<出典:「日本史人物辞典」(山川出版社)>
※20-1:明恵(みょうえ)は、鎌倉前期の華厳宗の僧(1173~1232)。諱は高弁。紀伊の人。父は平重国。高雄山の文覚(もんかく)らに師事、出家。華厳・密教を学ぶ。釈尊への思慕の念が強くインドへの渡航を二度企てたが中止。後に栂尾に高山寺を営み、華厳宗中興の道場とし、栄西が将来した茶樹を栽培。著に法然の浄土宗を批判した「摧邪輪」などが在る。<出典:一部「日本史人物辞典」(山川出版社)より>
※20-2:道元(どうげん)は、鎌倉初期の禅僧(1200~1253)。日本曹洞宗の開祖。京都の人。内大臣久我(土御門)通親の子。号は希玄。比叡山で学び、後に栄西の法嗣に師事。1223年(貞応2)入宋、如浄より法を受け、27年(安貞1)帰朝後、京都深草の興聖寺を開いて法を弘めた。44年(寛元2)越前に曹洞禅の専修道場永平寺を開く。著「正法眼蔵」「永平広録」など。諡号(しごう)は承陽大師
※20-3:円爾(えんに/えんじ)は、鎌倉中期の臨済宗の僧(1202~1280)。初め諱を弁円と称した。駿河の人。三井寺・南都・鎌倉に学び、1235年(嘉禎1)入宋して径山の無準(ぶじゅん)の法を嗣ぎ帰朝。筑前崇福寺や京都に法を説き、東福寺の開山と成る。鎌倉寿福寺・京都建仁寺に歴住。門下多く、その法流を東福寺派と言う。諡号(しごう)は聖一国師。著に「聖一国師語録」が在る。
※20-4:南浦紹明(なんぽじょうみょう)は、鎌倉時代の臨済宗大応派の禅僧(1235~1308)。駿河国生まれ。始め郷里の建穂寺に学び、後鎌倉の建長寺に学ぶ。1259(正元元)年に日宋し虚堂智愚の法を嗣ぎ、1267(文永4)年帰朝。筑前の興徳寺・崇福寺の住持を務めた後、1304(嘉元2)年に後宇多上皇の招きで京都の万寿寺に入寺、1307(徳治2)年建長寺住持。門下に大徳寺開山と成った宗峰妙超(大灯国師)などが居る。諡号(しごう)は円通大応国師。著に「大応国師語録」が在る。<出典:「日本史人物辞典」(山川出版社)>
※20-5:虎関師錬(こかんしれん)は、鎌倉末~南北朝時代の臨済宗の僧(1278~1346)。京都の人。東福寺海蔵院に居り、詩文に長じ、五山文学の先駆者の一人。著「元亨釈書」「済北集」など。海蔵和尚

※21:茶粥(ちゃがゆ)は、茶の煎じ汁、又は茶袋を入れて炊いた粥。入れ茶粥。

※22:台子(だいす)とは、正式の茶道で用いる風炉(ふろ)・杓立・蓋置・建水・水指(みずさし)など皆具一式を飾る棚物。及台子(きゅうだいす)は中国から渡来したもので、2本柱。桑台子千宗旦(利休の孫)好みで、及台子と同型、桑で作る。真台子(しんだいす)は黒の真塗りで4本角柱。竹台子珠光好みで、竹の4本柱。

※23:闘茶(とうちゃ)とは、南北朝・室町時代、茶会で本茶・非茶などを判別し、茶の品質の優劣を競った遊戯。中国の宋から伝えられたもので抹茶で行う

※24:婆娑羅/時勢粧(ばさら)とは、(「跋折羅(ばざら)」から。室町時代の流行語
 [1].派手に見栄を張ること。伊達(だて)。太平記21「例の―に風流をつくして」。
 [2].遠慮無く振舞うこと。しどけないこと。乱れること。狼藉。
※24-1:佐々木導誉(ささきどうよ)/佐々木高氏(ささきたかうじ)は、南北朝時代の武将(1306~1373)。名は高氏。京極氏。法名、導誉。近江半国守護。足利尊氏に従い初期の室町幕府に重きを成し、出雲・飛騨の守護をも兼ねる。太平記にはバサラ(婆娑羅)大名として描かれて居るが、和歌・連歌に秀でた文化人であった。

※25:能阿弥(のうあみ)は、室町時代の連歌師画家(1397~1471)。阿弥派の祖。真能とも称す。元は越前朝倉氏の被官で、水墨画を良くした他、鑑定・茶道・香道などにも通じた。足利義政の同朋衆。著に将軍家所蔵の中国画を列記した「御物御画目録」が在る。その子に芸阿弥、孫に相阿弥が在り、合わせて世に三阿弥と言う。
※25-1:同朋(どうぼう)とは、この場合、足利将軍に近侍し取次・お伽(とぎ)などの役に当った者。法体(ほったい)で某阿弥と称し、時宗の徒が多く、各種芸能に長じた者が出た。同朋衆。童坊。

※26:茶の湯(ちゃのゆ、tea ceremony)とは、客を招いて抹茶を点(た)て、会席の饗応などをすること。茶会。茶の会(え)。又、その作法。「―を習う」。
※26-1:茶道(さどう/ちゃどう、tea ceremony)とは、[1].茶の湯に依って精神を修養し、交際礼法を究める道。室町時代、村田珠光を祖とし、武野紹鴎を経て、千利休に至ってこれを大成、の精神を取り入れ、簡素静寂を本体とする侘茶を広めた。利休の子孫は、表千家裏千家武者小路千家の3家に分れて今に伝わり、その他門流多く、三斎流(細川忠興を祖)・織部流(古田織部を祖)・遠州流(小堀遠州を祖)・藪内流(藪内剣仲を祖)・石州流(片桐石見守貞昌を祖)・宗徧流(山田宗徧を祖)・庸軒流(藤村庸軒を祖)などの分派を生じた。
 [2].茶の湯を以て仕える者。茶頭。
※26-2:侘茶(わびちゃ)とは、茶の湯の一。東山時代に流行した書院茶に対して、村田珠光以後、桃山時代に流行し、簡素静寂の境地を重んじたもの。千利休が完成したと言われる。

※27:煎茶式(せんちゃしき)とは、煎茶の点前(てまえ)・作法を伴う芸道。江戸中期に抹茶の方式を批判して、高雅な茶味と文人精神を求めて作られた。

    (以上、出典は主に広辞苑です)

【参考文献】
△1:『東海道中膝栗毛(上)』(十返舎一九作、麻生磯次校注、岩波文庫)。主人公の弥次さん・喜多さんは有名で、「弥次喜多道中記」と俗称されます。

△2:『静岡県の歴史散歩』(静岡県日本史教育研究会編、山川出版社)。

△3:『歴史読本特別増刊 日本「歴史地名」総覧』(新人物往来社編・発行)。

△4:『日本の神様[読み解き]事典』(川口謙二編著、柏書房)。

△5:『カラーブックス 茶道入門』(井口海仙著、保育社)。

△6:『茶経 付喫茶養生記』(「茶経」は陸羽著、林左馬衛校注、「喫茶養生記」は栄西著、安居香山校注、明徳出版社)。

△7:『たべもの日本史総覧』(新人物往来社編・発行)。

△8:『完訳フロイス 日本史1』(ルイス・フロイス著、松田毅一・川崎桃太訳、中公文庫)。

●関連リンク
参照ページ(Reference-Page):京都市の東福寺の地図▼
地図-日本・京都市洛中(Map of Center of Kyoto city, Kyoto -Japan-)
参照ページ(Reference-Page):日本の旧暦の各月と季節▼
資料-「太陽・月と暦」早解り(Quick guide to 'Sun, Moon, and CALENDAR')
参照ページ(Reference-Page):照葉樹林文化圏の図▼
資料-照葉樹林文化とフォッサマグナ
(Laurel forest culture and Fossa Magna)

補完ページ(Complementary):世界の「お茶文化」発祥の地や
コーヒー栽培も行って居る▼
2002年・パーリャン小学校視察の旅
(Report of Paliang's primary school, China, 2002)

牧之原公園の猫▼
ノラ猫狂詩曲(What's new PUSSYCATS ?, Japan)
五月雨について▼
2004年・鯉幟の町-加須市(Kazo and carp streamer, Saitama, 2004)
浅草に在る小堀遠州の庭園▼
ぶらり浅草(Drift in and trip out Asakusa, Tokyo)
庚申信仰について▼
[人形浄瑠璃巡り#1]浄瑠璃神社
([Puppet Joruri 1] Joruri shrine, Osaka)

磐座信仰についての私見▼
2003年・年頭所感-感謝の心を思い出そう!
(Be thankful everybody !, 2003 beginning)

2003年・磐座サミットin山添(Iwakura summit in Yamazoe, Nara, 2003)
稲荷神が金屋子神を代行する例及び
武野紹鴎・千利休・古田織部について▼
阪堺電車沿線の風景-堺編(Along the Hankai-Line, Sakai)
「医食同源」の漢方▼
中国のヘビーなお食事-”食狗蛇蠍的!”(Chinese heavy meal)
中国の安史の乱▼
2001年・夜行列車で成都へ(To Chengdu by NIGHT TRAIN, China, 2001)
中国侗族(トン族)の油茶▼
2002年・三江のトン族を訪ねて(Dong zu of Sanjiang, China, 2002)
日本茶の空白時期と重なる平安中後期の肉食禁忌▼
(江戸の「粋」と「食肉の隠語」についても言及)
日本の肉食文化の変遷(History of MEAT-EATING in Japan)
茶と禅、村田珠光について▼
2003年・京都禅寺探訪(Zen temple of Kyoto, 2003)


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