2005年・大井川の塩郷吊橋
[大井川鉄道の旅・その1]
(Swinging Shiogo, Oi-river Railway, 2005)

−− 2005.09.14 エルニーニョ深沢(ElNino Fukazawa)
2006.10.14 改訂

※注意:このページは写真が多く、読込みに時間が掛かります。
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 ■はじめに − 私は”常に旅人”

 05年の夏、私は何の予定も無く不意に大井川鉄道(正式名称:大井川鐵道(株)、略称:大鉄又は大鐵)に乗って”ちょんの間”の旅を楽しみました。何故か?、それは静岡の親戚で盆の法事が有り、それに出席しなければ為らない、という已むを得ぬ用件が有ったのですが...。しかし、そんな事を四角四面にクソ真面目に頓着する私ではあ・り・ま・せ・ん!
 法事は法事、人がやがて死に行くのは世の定め、くよくよ悲観しても死んだ人間が生き返る訳は有りません。故に法事の儀式以外の時間は「自分の為に有効に活用しよう」、というのが私の基本的考え方であり態度です。そこで
  「全ての出張や已むを得ぬ用件での”お出掛け”は”旅”に変化し得る」

という「旅に関するエルニーニョの小定理」が応用されたという訳です。これは私の【日本の「旅」論】というカテゴリー −「日本の旅」に関する私の持論を展開した論考− の最初に「「日本再発見の旅」の心」の中で提唱して居る重要な概念です。又、この理論は既に「2003年・萩と山陰の旅」の中で実践して居ます。こうして私は常に”旅人”に成れるのです。

 そして私は怪し気な野毛の”一発屋”の御仁から使い残しの「青春18きっぷ」(残り3回有効、※1)を額面通り6,900円(=3日×2,300[円/日])で手に入れたのでした。実は私に「青春18きっぷ」の有用性を吹き込んだのは”一発屋”の御仁でした。

 ■トンネル内で思考の切り換え

  ◆トンネルを抜けると金谷だった

 05年8月13日(土)の早朝6時30分に家を出て7時18分の新快速に飛び乗り、その後は下に載せた旅程表の如く、その場で決めて乗り継いで目的地のJR富士川駅に辿り着きました。この日は盆の入りで”青春18切符を持った年寄り”が一杯で列車は大混雑、これには魂消(たまげ)ましたが、彼等については最後に言及します。
写真0:JR金谷駅ホームから見た西のトンネル。写真1−1:大鐵金谷駅の駅舎。 名古屋区間は何とか座れたものの豊橋からずっと立ちっ放し、何しろ豊橋からは3輌編成ですから、そりゃ混みまっせ。こんな混雑電車で富士川駅迄行くのは考え物、時間に余裕も有ることだしと、暫し思案を巡らした結果、”新感覚”の私は金谷で大井川鉄道に乗って寄り道するという「旅に関するエルニーニョの小定理」の実践を思い付きました。そして菊川駅を過ぎトンネルを抜けると金谷だった、のです(※2)。
 左上がJR東海道本線金谷駅ホームの直ぐ西のトンネル(←このトンネル上の草地の上は道路で富士山の眺めが良い!)、右上が大井川鉄道の起点・大鐵金谷駅の駅舎(標高93m)です。

  ◆塩郷行きは大鐵金谷駅で決断

 大鐵は私鉄ですので「青春18きっぷ」は無効、別途料金と成ります。時刻表だけが頼りで大井川沿線の資料は全く有りませんが、幸い大鐵金谷駅に「大井川鐵道沿線マップ」(左下の写真がその一部)が在り、これを参考にしました。時間的に終点の千頭(せんず)迄は無理で途中下車せざるを得ません。「不動の滝」も「八垂の滝」も駅から遠そうなので、塩郷(しおごう)の吊橋を往復して帰って来ることにしました。大鐵金谷駅←→塩郷駅は片道1,140円、往復で2,280円です。JRは大阪駅から富士川駅迄乗り放題の2,300円ですから、大した奮発ですゾ!
 私は塩郷迄の切符を買い、停車中の何処かで見た様な2輌編成の各駅電車(後述) −塩郷駅は急行停車駅・下泉の1つ手前の駅で急行は停車しません− に乗り込みました。車内は空調が効いていて、20人位の客を乗せ定刻通り12時55分に発車しました。
地図1:大鐵金谷駅の「大井川鐵道沿線マップ」。写真1−2:神尾駅に並ぶ狸の置物。
 途中の神尾駅の山手側の線路脇の崖には、右の写真の様に信楽焼の狸の置物が並んで居ました(右の写真)。
 川根温泉笹間渡(ささまど)駅からは温泉街の湯煙が見えました(左の地図)。
写真1−3:走行中の先頭車輌からの眺め。
 右が走行中の先頭車輌からの眺めで、ご覧の様に単線ですが、電化されて居ます。各駅電車は「後乗り、前降り」のワンマンカーです。
地図2:塩郷駅待合室の地図。写真2−0:塩郷駅の駅名板。
 乗車すること約50分で塩郷駅(標高199m)に着きました、左が駅名板です。一つ手前の地名駅(じなえき)を過ぎた辺りの「日本一短いトンネル」には気が付きませんでした。
 駅からはもう吊橋とその上流に塩郷ダムの堰が見えて居ますが、この無人駅に降りたのは私の他には小学生らしき少女が1人だけでした。時刻は13時45分、駅の待合室で帰りの時刻表を見ると次は15時21分、散歩の時間は約1時間半です。
 この待合室には「水と緑の自然郷コース(中川根町)」という地図(右上がその一部)と手作りの本棚が在り、本が置いて在りました。通学の子供たちが読むんでしょうか?

 ■塩郷吊橋”揺らり旅”

  ◆吊橋探検

 私は駅少し北側の吊橋に早速行きました。左下が駅側から見た塩郷吊橋静岡県榛原郡川根本町(←旧・中川根町)下泉、対岸が久野脇)で、全長220m、高さ10mの大井川最長の吊橋です。旧・中川根町は静岡県中部に位置し、面積121ku、人口約6400。隣接する川根町、旧・本川根町と共に「三川根」と呼ばれる山間地で、茶業「川根茶」)と林業(杉材が中心)が主産業です。

 [ちょっと一言]方向指示(次) 中川根町はこの記事を書き始めた時は存在しましたが、直後の05年9月20日に隣接する本川根町と合併して川根本町成りました。

 吊橋の登り口には旧・中川根町役場企画観光課の立て札が在り、それには「体重70kgの人が2m間隔で110人迄搭乗可能」と書き乍ら「1m以上の十分な間隔をとり、10名程度で通行するようご協力を」と注意書きして在ります。
写真2−1:駅側から見た塩郷吊橋。 又02年に中川根町の町制40周年を記念した住民の愛称を公募し現在の正式名称は「恋金橋(こいかねばし)」だそうですが、「お金が恋しい橋」と読めて仕舞いますね、アッハッハ!
写真2−2−2:吊橋上の私。写真2−2−1:吊橋上から大井川を覗く。 吊橋の歩く部分は木の板で、上からは左の写真の様に遥か下に水面が見えチビりそうな感じです。
 右は揺れる吊橋の真ん中で震えている私です(自分で撮影)。ここをスイスイ歩いて居る人は地元の人に違い有りません。やっとの思いで対岸に渡りましたが、大地に着いても暫くは体が揺れて居る様でした。これぞ”揺らり旅”です。
写真2−3:六地蔵のお堂。写真2−4:六地蔵の仏龕(ぶつがん)。 対岸の林道を抜けると車道の脇に「薬師堂公園コース」の案内板と「六地蔵」の標識板が立って居ます(左の写真)。標識板奥の石垣の上に建つのが六地蔵のお堂で、お堂の中を覗くと右の様な六角形の仏龕(ぶつがん)に6体の地蔵が彫られて居ます。
 六地蔵の謂れは昔、浅間神社の御用財を盗んだ6人の盗賊が殺され、その霊を鎮める為に村人が建てたとか。
 

  ◆蝶を追い掛け時間潰し

 駅対岸の久野脇地区の奥には佐沢薬師(江戸時代初期の一木造りの薬師如来像が在る)や久野脇キャンプ場(4万uの敷地内に各施設が完備)が在りますが、そこ迄行く時間は有りません。
写真2−5:ツマグロヒョウモンの♂。
 しかしこの儘引き返すと時間が余るので、ここで時間を潰すことにしました。と言うのは先程からヒグラシの鳴き声がし畑では蝶が舞っているからですが、こういう時間の潰し方が出来るのは私位でしょう。
 左がお花畑のコスモスの花に止まっていたツマグロヒョウモンの♂です。
 ヒグラシは「声はすれども姿は見えず」でした。更なるここでの成果は「私の昆虫アルバム・日本編−チョウ・ガ類」をご覧下さい。
写真2−6:対岸から見た塩郷ダムの堰と茶畑。 そして再び林道へ戻りましたが、途中河川敷に下って行ける細い道が在り、少し下ると右の写真の様に駅対岸からの風景が目の前に展開します。遠く大井川に架かっているのが塩郷ダムの堰、手前一面が茶畑です。堰は橋も兼ねていて上を車が通過して居るのが見え、長閑(のどか)な風景です。
 静岡県はお茶の産地で、この辺りの特産も「川根茶」です。先程の地図に拠れば六地蔵の少し奥に茶工場が在ります。
写真2−7:駅の対岸側から見た塩郷吊橋。
 右が帰路、駅対岸から見た塩郷吊橋です。
 左下は吊橋の上から眼下を見下ろし、大井川を遊泳中の母娘を撮ったものです。この吊橋付近の川では多くの人々が遊泳やバーベキューを楽しんで居ました。
写真2−8:大井川を遊泳中の母娘。
 

 ■SLの汽笛で思考を戻す

  ◆SLの汽笛を間近に浴びて

車輌1−1:塩郷駅に侵入して来るSL急行。 こうして駅に戻りましたが、早めに戻ったのが奏功しました。と言うのは、大井川鉄道名物のSLを間近に見ることが出来たからです。
 右が塩郷駅に汽笛を鳴らし乍ら侵入して来る大鐵金谷行きのSL急行「かわね路号」の雄姿です。ご覧の様に下り勾配の金谷行きはバック牽引(=後ろ向き牽引)で、前面のライトの下の型番プレートには「C108」と型と番号が浮き彫りして在ります。
 私の前ではギャルが携帯電話のカメラで身を乗り出して撮影して居ますが、私も機関車を出来るだけ引き付けて撮りました。この直後至近距離から汽笛を思い切り浴びせられ、耳が変に成りそうでした。
 後で時刻表を調べると、このSLは
  千頭(13:33)→大鐵金谷(15:52)
車輌1−2:塩郷駅通過後のSL全車輌。の列車で、塩郷駅の通過時刻は15時0分頃でした(△1)。
 そして右が塩郷駅を過ぎ、川岸を大きくカーブして下流に去って行くSL全車輌です。写真右端の機関車は7輌の客車と最後尾に電気機関車を重連して牽引、つまり9輌編成でした。
 ところで各駅電車の空調有りに対し、560円の急行料金を支払って乗るSLの客車は皆窓を開け放ち天井では扇風機が回って居ました、「往時を偲ぶ」のも大変です。これでトンネルにでも入ったらさぞ大変と思われますが、このSLは下り勾配を走っていた為か、黒煙をドバドバ吐いたりはせず、上の写真の様にポッポッと白い蒸気を3秒間隔位に吐くだけでした。次は上り勾配を前向き牽引(ノーマル牽引)するSLの姿を見てみたいですね。

写真3−1:大井川鉄道から見た夕暮れの大井川。  ◆大井川を振り返る

 大井川は南アルプス赤石山脈の間ノ岳(3189m)南斜面に発し、駿河・遠江(とおとうみ)の境を流れ駿河湾に注ぐ全長160km余りの大河です。

 SLの雄姿を拝めた幸運に感謝し、私は予定通りに15時21分発の2輌編成の各駅電車(←偶然にも往路の折り返し列車)で引き返しました。帰りの乗客は多く既に40人位乗っていて、途中の家山駅から大勢乗り込んで来てほぼ満席に成りました。
 右上の写真は帰りの大鐵電車の車窓から撮った夕暮れの大井川ですが、水量は可なり細って居ます。大井川は嘗ては水量豊富な川だったのですが...。

 そんな事に想いを馳せ乍ら、不意に思い立った”ちょんの間”の旅は終わりました。空は雷雨模様で途中少し雨が降りましたが何とか持ち応えて呉れました。
 私は金谷から再びJRに乗り富士川駅に18時前に着き、何事も無かったかの様に神妙な顔で、親戚宅に迎えられたのでした。お盆の祖霊に合掌!!

                (-_-)
                _A_

 ■大井川の温故知新 − 越すに越されぬ大井川

 大井川の”今”を旅した後は大井川の故(ふる)きを温(たず)ねてみましょう。

 水量豊富で流れの速い大井川は昔から交通の難所とされ、江戸時代には幕府の防衛線として渡船・架橋が禁じられ、旅人は必ず人足を雇って肩車又は輦台渡し(れんだいわたし、※3)を強いられ、増水すると川留めと成り、その為東岸の島田と西岸の金谷の宿場は賑わいました(※3−1)。下の俗謡は特に有名です。

  箱根八里は馬でも越すが、越すに越されぬ大井川


 大井川の”川越し”(※3−2)の情景は安藤広重の版画や幕末に来日したF.ベアト(※4)の写真に残されて居て、左下が広重画『東海道五十三次』の金谷です(△2のp138)。
 そして右下がJR東海道本線の車窓から見た大井川の嘗ての渡し場付近の情景で、背後に国道1号の青い大井川橋が見えて居ます。鮎釣りらしき釣り人が立っている辺りを広重の版画の様に”川越し”して居たのです。
図1:広重画『東海道五十三次』の金谷。写真4−1:JRから見た大井川の嘗ての渡し場付近の情景。
 大井川に渡船が許されたのは実に”文明開化”後の明治3(1870)年で、木造の蓬莱橋が架けられたのは明治12(1879)年のことでした。近年に入り1964年に大井川源流の赤石山脈一帯が南アルプス国立公園に指定され、寸又峡温泉や赤石温泉などの観光開発が進んだ反面、上流域の森林伐採と相次ぐダム建設(井川ダム、畑薙(はたなぎ)第一ダム・第二ダム、長島ダムなど)に因り渇水化が進みました。そして実は大井川鉄道は元々は奥大井の木材運搬電力開発(=水力発電)の為に敷設されたのです(→「大井川鉄道の沿革」は後述します)。
 そして今、大井川を挟んで賑わいを競って来た嘗ての宿場町の島田市と榛原郡金谷町は合併05年5月5日新たな島田市に統合されました。


 現在の蓬莱橋は橋脚のみコンクリートで全長897m「世界最長の歩行者専用木造橋」としてJR島田駅の南東1km辺りに在り、有料で使用されて居ます。

 ■大井川鉄道に近鉄特急?? − 大鐵車輌に思わぬ発見


車輌2−1:近鉄の特急車輌。車輌2−2:京阪の特急車輌。 さて、上で私が乗った電車を「何処かで見た様な2輌編成の各駅電車」と書きましたが、それが左の写真です。これは塩郷駅で降りた後、駅を出て行く時に撮ったものです。関西在住の方はもうお判りでしょう。そう、これは近鉄の特急車輌です。
 そして右の写真をご覧下さい。これは帰りの列車待ちの時に、反対方向に塩郷駅に停車しに来た千頭行きの各駅電車(14時27分発)ですが、これは京阪の特急車輌で、やはり2輌編成です。
 これは思わぬ発見です。他社の中古車輌を寄せ集め、塗り替えなどの「無駄と手間」を省き”無修正”で現物使用する、という大井川鉄道の大胆な廃品回収精神 −或いは”他人の褌(ふんどし)”活用精神− はリサイクルの鑑(かがみ)と言えましょう。

 そこでこの日バチバチ撮った大鐵の車輌を以下に一挙公開します。先ず下は塩郷吊橋上から大鐵金谷行きの各駅電車を撮ったもので、写真の右の方に進み、塩郷駅に14時0分に停車する直前です。これは南海の車輌です。
車輌2−3:塩郷吊橋から見えた各駅電車。
車輌2−4:電車。車輌2−5:電車。
 左右の2枚は新金谷駅の車庫引込線に停車して居た車輌で、帰り電車の車窓から撮ったもので、新金谷駅には車輌基地が在ります。
 左は西武鉄道の車輌、右は近鉄名古屋線の車輌です。

 関西の近鉄・京阪・南海、関東の西部の車輌が有るなら、より近い名鉄の車輌も有るかも知れませんが、電車の型について詳しく無い私には判りません。大鐵オリジナルの車輌はどれなんでしょうか?!

    ++++ 大鐵の寄せ集め車輌 ++++
 その後【参考文献】△3で調べたら、オリジナルな電車は1輌も無い(△3のp4)、開業第1号車は旧伊賀鉄道のSLと書いて在ります(※5、△3のp97)。更に同書に拠れば電車の寄せ集め元としては他に名鉄小田急北陸鉄道岳南鉄道などが有るそうです。
 但し戦前の1929年にはSLの1C1型15号、31年にはSLの1C1型16号、35年にはSLのC12型121号(=C12121)、そして翌36年にはボギー式ガソリンカーのキハニ101など、非電化機関車や車輌を自社発注で製造した時代も有りました。
 現在保有のSLは機関車も客車も旧国鉄(現JR)の払い下げ車輌 −現有の機関車は上で見たC10型C11型C12型C56型− で、現在は私鉄で唯一の現役SL(=走るSL)です。この様に一旦現役を引退した古車を復活運行し乍ら保存を図ることを動態保存と言います。又C56型のC5644は嘗て泰緬鉄道を牽引して居た機関車ですが、大鐵SLの「数奇な運命」については
  大井川鉄道の”SLの人生”(The 'Life of SL', Oi-river Railway)

をご覧下さい。{この部分は05年9月29日に追加、更に10月6日に修正しました。}
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 しかし大鐵より走行距離がずっと短い超ローカル線の岳南鉄道の”お古”を使っているのには驚きました。日本で殆ど死語に成り掛けている「勿体無い(もったいない)」の心を企業活動の中で実践し続けている姿を、”MOTTAINAI”の提唱者のマータイさんに見せて上げたいですね!

 [ちょっと一言]方向指示(次) 2004年度ノーベル平和賞を受賞したケニアのワンガリ・マータイ女史が、国連の「女性の地位委員会」閣僚級会合で05年3月4日に日本語の「勿体無い(もったいない)」を環境保護の合言葉にしようと提唱したもの。この会合で彼女は「もったいない」の精神は消費削減(Reduce)再使用(Reuse)資源再利用(Recycle)修理(Repair)4つの"R"を体現して居る、として環境保護と戦争抑止の為に
  "MOTTAINAI"
を国際的標語とすべき事を唱え、この標語をプリントしたTシャツを掲げました。

 ■大井川鉄道の沿革

 大井川鉄道は現在

  大鐵本線(大鐵金谷駅←→千頭駅、 距離=39.5km)
    標高   93m   299m
  大鐵井川線(千頭駅 ←→井川駅、 距離=25.5km)
    標高  299m   686m


の2系統から成り、本線は電化されて居ます。秘境として名高い寸又峡温泉へは千頭からバスが往復し、接岨峡(せっそきょう)温泉井川ダムへは更に千頭で井川線に乗り継ぎます。尚、井川線や井川駅の地名の井川は濁らず「いかわ」と読みます。

 [ちょっと一言]方向指示(次) 大鐵は、大鐵金谷駅→千頭駅→井川駅、という金谷から遠ざかる上り勾配が「下り線」で、金谷に向かう下り勾配が「上り線」ですので、ご注意を!

 ここで大井川鉄道の歴史と変遷に触れて置きましょう。

 大井川流域の本線の鉄道敷設は元々は奥大井の木材搬出用として1918年に駿府鉄道として静岡←→千頭が構想されたのが最初です。その後、起点を島田に変更したり駿府鉄道や材木資本の資金不足で紆余曲折中に、関東大震災(1923年)復興や軍需の拡大で電力需要が高まり中部や東京の電力資本が参加して、1925年に大井川鉄道(株)を設立、ルートを再検討し起点を金谷に変更してスタートしました。
 こうして大鐵本線は木材運搬と電力開発の2つの目的を背負い1927(昭和2)年6月に金谷←→横岡(=現在の五和(ごか)駅の少し先)間を開業したのが始まり(※5)で、その後順次延長して行き1931年に現在の千頭駅迄延長し横岡駅を廃止して現在のルートが完成し、1949年に全線電化が完了しました。その後沿線の過疎化とモータリゼーションに因る需要低下の為1969年に名鉄の経営参加を仰ぎ、徹底した合理化と差別化に活路を見出して今日に至って居ます。

 一方、井川線は大井川電力が奥泉ダム建設の為に1935年に千頭←→奥泉間に軌道幅0.762mの軽便軌条の所謂トロッコ列車を走らせたのが始まりで、その後大井川電力は中部電力に併合され軌道幅を本線と同じ1.067mの狭軌に広げ、1954年には井川発電所建設の為に井川ダム近くの堂平迄延長、その後運送業務を中部電力から大井川鉄道に移管し1959年に大鐵井川線が誕生しました(しかし施設や車輌は中部電力が所有)。井川ダム建設完了に因り1971年に井川←→堂平間を廃止、長島ダム建設に因る水没区間を1990年に電動のアプト式軌道(※6)に付け替え、その他は非電化の儘今日に至って居ます。
 そのアプト区間が「アプトいちしろ←→長島ダム」間の約1.5km、ここが90パーミル(※7)という日本一の急勾配を誇る日本唯一のアプト区間で、大井川鉄道では井川線を1999年に「南アルプスあぷとライン」と銘打って観光に力を入れて居ます。


 こうなると日本唯一のアプト式列車に是非乗ってみたいですね、私は鉄道マニアではありませんが...。

 ■考察 − 希少性で勝負する大井川鐵道の戦略

 大井川鉄道も御多分に洩れず近代化の潮流の中で廃線の危機に何度か見舞われましたが、私のマーケティング分析に拠れば

 その戦略は、”大衆(=マジョリティー(majority))”を追い掛けるのでは無く、自らのローカリズム(localism)に確りと立脚し、ローカル線やレトロな情緒を好む少しマニアックな”小衆(=マイノリティー(minority))”にターゲットを絞り、他線に無い希少性(rarity)独創性(originality)個性(individuality)を打ち出し、兎角マイナーなイメージに受け取られ勝ちなローカル色を”売り”に転じた開き直り、が成功して居る様に思えます。

 その様な”小衆”向けのサービスとしてSLなどの貴重な旧型車輌を保存するトラストトレインの受け入れ先と成り、千頭駅構内のSL資料館を建てました。そして各種の記念乗車券の発行、「SL運転の理論と実技講習」や「鉄橋上を走るSLの撮影会」などのユニークなイベントの開催など、趣向を凝らした企画をして居ます。又、大鐵のSLはテレビCMから大作映画迄度々メディアに登場し、NHKテレビの『ぼっちゃん』では伊予鉄道の代役として、映画『鉄道員(ぽっぽや)』では家山駅がロケ地として使われました。そして今や大井川鉄道の存在そのものが希少価値に成って居ます。

  ◆現在の旧書体の「大井川鐵道」という社名について

 ところで、私は大井川鉄道について、

  「大井川鉄道(正式名称:大井川鐵道(株)、略称:大鉄又は大鐵)」

と書き、しかし通常の記述では新書体を使う様にして居ます。そこで会社の沿革を調べると、何と2000(平成12)年10月迄は新書体の大井川鉄道(株)が正式名称だったのです。それなのに「鉄」「鐵」と新書体から旧書体に変えたのは、

  「鉄」という字は「金を失う」

と書き、縁起が悪いので旧書体の「鐵」にしたという話です。成る程、それは大いに納得出来ます。正にミレニアム(millennium)の書体変更(※8)であった訳で、21世紀からは希少性に陽が当たり儲かる企業に成りますでしょうか??、ムッフッフ!!
    {この節は06年10月14日に追加しました。}

 ■今回の旅の全旅程

 最後に成りましたが、今回の「大井川鉄道の旅」を含め、「青春18きっぷ」を活用した全旅程は以下の通りです。

  8月13日(土)
   大阪(07:18) → 米原(08:37)
            米原(08:47) → 名古屋(09:54)  サンドイッチを車内で食う
                    名古屋(10:27) → 豊橋(11:45)
                              豊橋(11:52) → 金谷(12:32)
   大鐵金谷(12:55) → 塩郷(13:45) 塩郷吊橋を往復 塩郷(15:21) → 大鐵金谷(16:12)
   金谷(16:40) → 富士川(17:52)               ●宿泊(親戚宅)

  8月14日(日)
   午前中に法事  法事後に会食
   富士(13:47) → 熱海(14:28)
            熱海(14:57) → 大船(16:01)
                    大船(16:18) → 桜木町(16:44)
   野毛の”一発屋”の御仁と野毛で飲食
   桜木町(21:29) → 上野(22:19)
             東京メトロ:上野 → 田原町(約3分)  ●宿泊(浅草のホテル)

  8月15日(月)
   浅草・上野をサイクリング(上野ではツクツクボウシミンミンゼミを撮影)
                                 ●宿泊(浅草のホテル)
  8月16日(火)
   東京メトロ:田原町 → 上野(約3分)
               上野(7:04) → 東京(7:11)
   東京(07:24) → 熱海(09:20)
            熱海(09:39) → 豊橋(12:45)
                    豊橋(12:56) → 名古屋(13:42)
                            「きしめん」を立ち食い
   名古屋(14:08) → 亀山(15:19)
             亀山(15:41) → 加茂(16:58)
                     加茂(17:06) → 奈良(17:26)
                              奈良(17:31) → 天王寺(18:08)

      黒字:JR  青字:JR以外


 14日以降の旅程は「大井川鉄道の旅」には関係有りませんが、それぞれ既に発表して居る「私の昆虫アルバム・日本編」「横浜物語」「ぶらり浅草」の内容を補完する為の旅でした。これらの取材結果は何れ記事に反映させます。

 ■結び − 思わぬ発見に引き込まれて

 私は8月13、15、16の3日で「青春18きっぷ」を使い切りました。ここで最初に触れた”青春18切符を持った年寄り”について私見を述べて置きます。
 今や”「青春18きっぷ」で遠乗りする老人”や元来は青少年用の”ユースホステル(youth hostel)に宿泊する老人”は、高齢社会日本の”有り触れた”光景です。逆に目先のカッコ好さだけを追い、JR在来線や安宿には見向きもせず直ぐに飛行機に乗り”王子様ホテル”に泊まりたがる若者(=バカ者)が多いですが、この様な”脛齧りの若者”に遊び金を提供して居るのが”年金リッチな老人”という訳で何処か矛盾を感じますが、これが本高齢社会日本の縮図(※9、※9−1)です。

                (>v<)

 14日(日)には足の痺れる法事を恙無(つつがな)く終えた後、私は野毛の”一発屋”の御仁と飲む為横浜に向かいましたが、早く着き過ぎるので大船で根岸線に乗りました。又、帰りの16日(火)も名古屋からは、普段余り利用することの無い関西本線 −本線とは名ばかりで完全なローカル線− で帰りました。そう言えば関西本線にはスイッチバックが在りましたね、私は鉄道マニアでは無いですが。
 そして今回も「思わぬ発見」をした旅でした、それが大井川鉄道を走っていた寄せ集めの”無修正”車輌だったのです。そしてそれを突き詰めると大井川鉄道の苦心や工夫に思い至りました。これも「日本再発見の旅」の一つです。
 以上の様に「機会の有効利用」を図れば、特別に時間を捻出しなくても旅は可能に成ります。これが「旅に関するエルニーニョの小定理」の教えであり、皆さんも是非お試し下さい!!

 尚、このページの背景は先程の塩郷の「川根茶」の茶畑です。渋味の効いた「川根茶」の味を堪能して、暫しご休憩して下さい。

                (+_@;)
                ┌U_

 [大井川鉄道の旅]シリーズは始まったばかりです。続編の画面への切り換えは最下行のページ・セレクタで行って下さい。(Please switch the page by page selector of the last-line.)

φ−− つづく −−ψ

【脚注】
※1:「青春18きっぷ」とは、JRの各駅停車と快速の普通車を1日(=0時0分〜23時59分)乗り放題の検印欄5日分を1枚に印刷した切符のことで、05年8月現在の値段は11,500円(=2,300[円/日])です(子供も同額)。1日分ずつの分割は不可だが複数人での共同使用は可。急行、特急、寝台での利用は無効。JRバスや船の利用は概ね無効だが、地方に依り利用可能な便が有るので、予め調べると利用範囲が広がります。
 常時発売されて居るのでは無く、学生の春・夏・冬の長期休暇に合わせて発行されるので「青春」と命名されて居ます。

※2:この部分は新感覚派の作家・川端康成(1899〜1972)作『雪国』の冒頭部分「国境の長いトンネルを抜けると雪国であった。」のパロディーです。

※3:輦台/連台(れんだい)は、旅客を乗せて川を渡るのに用いる台。棒2本に板を渡し、人をその上に乗せ、数人で担ぐものなど。
※3−1:大井川の川越しを管理監督する為に、両岸には川会所が元禄9(1699)年に成ってやっと設けられましたが、それ以前には旅人は随分難儀した様です。
 それは川越し料を客と人足との間でその都度決めていた為で、島田・金谷の両岸の馬方が川越人足と共謀して、浅瀬を隠し故意に深い所を渡し、更にはわざと転げたりして客を脅し、高く吹っ掛けて料金を吊り上げて居ました。
※3−2:江戸時代、特定の大河に橋や渡船を設けず、川越し銭を取って、人の肩輦台(れんだい)にのせて渡らせたこと。

※4:F.ベアト(Felice Beato)は、イタリアに生れ、イギリスに帰化した写真家(1825〜1903)。1863年(文久3)頃来日し、日本各地の風景・風俗・人物を撮影し、貴重な記録を残した。

※5:1927年の大井川鉄道最初の列車を牽引する栄光を担ったのは、コッペル製Cタンク5、6です。旧伊賀鉄道の電化に因り不要に成り払い下げられた蒸気機関車で、1949年の大鐵の電化迄20年以上走り続けました(△3のp97)。

※6:アプト式軌道(―しききどう、Abt system railway)とは、スイス人アプト(R.Apt)(1850〜1933)の発明した特殊の鉄道。急坂を上下する時、滑りを防ぐ為に軌道の中央に歯を刻んだレール(ラック・レール)を設置し、動力車に取り付けた歯車と噛み合わせ進ませる。

※7:パーミル(per mill)は、1000分の幾つかを表す語。千分率。プロミル。記号は[‰]。

※8:ミレニアム(millennium)は、1000年間。千年紀。2000年〜2999年は新たな千年紀で2000年1月1日がその始まりの日に成る。1999年〜2000年に流行語化した。<出典:「学研新世紀ビジュアル百科辞典」>

※9:高齢社会(こうれいしゃかい、aged society)とは、高齢化が進み、高齢者の割合が高い社会。一般に高齢化率が14%を超えた社会を言う。日本は1995年に14.5%に達し高齢社会に成った。<出典:「現代用語の基礎知識(2004年版)」>
※9−1:高齢化率(こうれいかりつ、rate of aging)とは、65歳以上の高齢者人口が総人口に占める割合。1956年の国連の会議で、当時の先進国のデータを基に高齢化の度合いを分類する為に提示された。<出典:一部「現代用語の基礎知識(2004年版)」より>

    (以上、出典は主に広辞苑です)

【参考文献】
△1:「大井川鐵道(株)」公式サイト。

△2:『太陽浮世絵シリーズ 広重』(鈴木重三監修、福田英雄編、平凡社)。

△3:『私鉄の車両14 大井川鉄道』(飯島巖、白井良和、荒川好夫著、ネコ・パブリッシング)。

●関連リンク
参照ページ(Reference-Page):SLの歴史や型式番号について▼
資料−SL発達史と日本SLの型式番号(The history and naming rule of SL)
参照ページ(Reference-Page):関東大震災について▼
資料−地震の用語集(Glossary of Earthquake)
補完ページ(Complementary):「旅に関するエルニーニョの小定理」の理論や
「思わぬ発見」の御利益について▼
「日本再発見の旅」の心(Travel mind of Japan rediscovery)
「旅に関するエルニーニョの小定理」実践記▼
2003年・萩と山陰の旅(Hagi and San'in, 2003)
野毛の”一発屋”の御仁とは▼
[横浜物語#2]野毛([Yokohama story 2] Noge)
「青春18きっぷ」の有用性を私に吹き込んだ”一発屋”の御仁▼
東西三都物語(The 3-cities of east and west)
塩郷吊橋での昆虫写真の成果▼
私の昆虫アルバム・日本編−チョウ・ガ類
(My INSECTS album in Japan, Butterflies and Moths)

「勿体無い」と思う心▼
2004年・年頭所感−業を宿したDNA
(Sinful structure of DNA, 2004 beginning)

高齢社会日本への提言▼
日本の現状は「多老」だ(Present Japan is the SURPLUS OLD-PEOPLE society)
関西本線のスイッチバック▼
2005年・伊勢鹿伏兎城(Ruins of Kabuto castle, Mie, 2005)
「大井川鐵道(株)」公式サイト▼
外部サイトへ一発リンク!(External links '1-PATSU !')


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