−− 2003.03.14 エルニーニョ深沢(ElNino Fukazawa)
2005.12.20 改訂
2003年3月7日(金)に北九州市の小倉に行く用件が有り、新幹線で行った帰路山陰を廻って帰ることを思い付き、萩(山口県萩市)に1泊し山陰線で帰って来ました。大阪・小倉間は新幹線「のぞみ」を利用すれば家迄2.5時間でその日の内に楽々着いて仕舞うのですが、わざわざ遠回りして帰る所が、昔僅かの期間サラリーマンをして居た頃「出張と旅行の区別が付いとらん」と言われた私の真骨頂であります。即ち今回の旅は
「全ての出張や已むを得ぬ用件での”お出掛け”は”旅”に変化し得る」
という、「旅に関するエルニーニョの小定理」の実践記です。
7日(金)打ち合わせ前の待ち時間に、「旅に関するエルニーニョの小定理」を実行する為に、山陰の何処かに取り敢えず1泊することにし、時刻表の地図を見乍ら何処にしようかと思案した結果、「萩」が脳裡に浮上して来たのです。旅行案内書を見て早速、宿(ビジネスホテル)に電話を入れ部屋を予約してから打ち合わせに臨みました。
しかし決めたのはこれだけ、後は行き当たりバッタリ、打ち合わせも何時に終了するか決まって無いので、全ては成行任せです。兎に角今夜の宿さえ決めれば何とでも成ります。
打ち合わせが15時前に終了したので、小倉から東萩迄の切符を買い、列車を乗り継いで東萩駅に到着。19時前にチェックイン、シャワーを浴びてから町中に出て適当な赤提灯の店に入り、一人で乾杯しメシ。その後もう1軒別の焼鳥屋で適当に飲んでこの日は終わり。簡単でしょ。
→ 地図を見る(Open the map)
◆明倫館
萩と言えばやはり幕末の長州の志士でしょう。吉田松陰・高杉晋作・桂小五郎(木戸孝允)・伊藤博文など、幕末の風雲と明治維新の曙の舞台の上で、主役を演じた人が多数輩出して居ます。そういう人材を育てたのが藩校・明倫館と松下村塾、という訳で、8日(土)は先ず明倫館(※1)に行ってみました。その前にホテルで朝食。
明倫館は建物としては、明倫小学校内に槍剣術道場だった有備館が残るだけです、右がその写真です。この日は朝から寒くご覧の様に小雪が舞って居ました。
◆菊ヶ浜
私は是非菊ヶ浜を見たいと思って、明倫館からアバウトに北西の方角へ町中を歩いて行くと、女台場の碑(※2)が在る松林に行き着き波の音が一際高く聞こえて来たので、「着いたな」と思いました。この松林を抜けると左の写真の様な海岸です。
正に絵に描いた様な光景です。写真の正面に指月山(しづきやま)が海に突き出す様に、優雅な姿を見せて居ます。この小さな半島の付け根の所に萩城跡が在り、今は石垣のみが残って居ますが行きませんでした。私が立っている辺りから萩城跡辺り迄が菊ヶ浜です。松林と砂浜との間は国道に成っていて時々車が通過しますが、幕末の志士たちもここから見える、指月山の背後に沈む夕陽に、熱い想いを誓ったのかも知れません。
同じ地点から右手(東側)を見ると、萩港(浜崎港)から出港した見島行きフェリーが沖に向かって行くのが見えました(右の写真)。この日は可なり風が強く、テトラポッドを積み重ねた海岸の防波堤に波が大きく砕けて居ますが、このフェリーも可なり揺れて居ました。
◆萩の町並み
暫く菊ヶ浜を眺めて居ましたが、風が強く小雪が降ったり止んだりで、寒く成って来たので引き返すことにしました。そしてアバウトに東南の方向(そちらに町の中心が在る)に歩いて行くと住吉神社(左下の写真)に出くわしました。この神社は室町時代に大阪の住吉大社から住吉大明神を勧請したものだそうです。
右下の写真が住吉神社近くの通りの情景で、ご覧の様に海鼠(ナマコ)壁の蔵も見えます。萩の町は旧城下町(毛利氏37万石)らしく、しっとりと時代を偲ばせて居ます。
左が萩の浜崎港です。小雪がちらつく中で繋留して在る漁船を撮ったものです。
強風と雪で寒かったので兎に角東萩駅に辿り着くと、予定の特急の1つ前の各駅停車が駅に停車して居たので、これに飛び乗りました。何故なら次の特急迄1時間半近く待たねば為らなかったからです。
萩の町を巡っている間、所々の民家の軒先に、ここの特産物である八朔や夏みかんが鮮やかな山吹き色に実のっていたのが印象的でした。
さらば、萩。
◆東萩→益田(JR山陰本線)
東萩駅で飛び乗った益田行きの各駅停車、益田から山陰本線の特急が出るのですが、さてどうするか?、裏日本から表日本に渡るのに伯備線(米子→岡山)を使うか、鳥取迄行って智頭急行(鳥取→上郡)で行くかです。前者の方が便利で速いのですが、伯備線は何回か乗ったことが有るのに智頭急行は未踏破、という訳で後者で帰ることにしました。
時刻表で益田駅の待ち合わせ時間を見ると約50分、よし益田で外に出て昼メシにしようと思っていると、車掌が来て「切符の拝見」です。東萩駅では飛び乗りの為、自動券売機で190円の切符を買っただけですので、既に乗り過ごして居て、私がこのコースを車掌に言ったら何か不審がって居ましたが、お金を払えばこっちがお客、車掌は姫路(?)迄の普通乗車券と益田→鳥取、鳥取→姫路迄の特急券をパチパチ遣ってハンディ端末から印字出力して呉れました。この操作可なり面倒臭かったみたいです。
(>x<)
ところで、大阪在住の私が何で姫路なの?、それは最後にお答えしましょう。
◆益田
然う斯うして居る内に各駅停車は益田駅(島根県益田市駅前町)に着きました。駅に着いたら、ここはあの柿本人麻呂(※3)所縁の地で、駅には人麻呂らしき人形が置かれて「人麻呂の歌のある町」などと書いて在りました。そう言えば【脚注】にも在る様に、この益田から江津辺りは人麻呂が赴任した旧石見国(いわみのくに)なのですね、道理で。そこで『万葉集』巻2−132から人麻呂の歌を一首(△1)。
石見のや 高角山の 木の間より わが振る袖を 妹見つらむか
ま、昼時なので外に出てメシ。駅の近くの食堂で刺身定食を食べましたが、値段は大阪よりも高い位でした。
◆益田→鳥取(JR山陰本線)
さて益田駅12時丁度発の特急で鳥取に行きます。昨夜コンビニで買ったウィスキーの小壜でチビチビ遣り乍ら、車窓の風景を眺める旅、私こういうの大好きです。しかし山陰本線から眺める景色は美しく、特に海岸線は抜群です。この日は風が強かったので浪が高く、突き出した岩などに当たって飛沫(しぶき)を高く上げて居ました。何と言っても海の色が表日本よりも透明度が有り、目に浸みる様な青さです。
右は大田市辺りで写したものです。
左は出雲辺りの丘の風車です。2基並んで回転して居ました。
山陰の家々は瓦屋根の家が多く、写真では撮れなかったのですが、出雲地方の瓦屋根は稜線が少し反っていて独特の趣きが有りました。
左が八岐大蛇伝説(※4)で知られる出雲の斐伊川(ひいがわ)(※4−1)です。宍道湖(しんじこ)西端に注いで居ます。
素戔嗚尊(※4−2)が八岐大蛇を退治し終わった後、「吾が心清々し」と宣って、奇稲田姫(※4−3)に求婚する時に詠んだ有名な歌
八雲立つ 出雲八重垣 妻籠みに 八重垣作る その八重垣を(※4−4)
が『古事記』(△2のp41)に在り、その舞台に成った松江市佐草町には八重垣神社が在ります。
列車はこの後美保湾、鳥取海岸を通って鳥取駅に着きます。列車の右手に雲で覆われた大山の裾野が見えましたが、反対側の窓だった為に写真は撮りませんでした。撮っとけば良かった...(-x-)。
◆鳥取→上郡(JR因美線、智頭急行)
さあ、これからは初めてのコースです、鳥取→上郡。この区間は途中の智頭(ちず)駅迄がJR因美線、智頭から上郡迄が智頭急行(第三セクター線)、それ以降が山陽本線と成りますが、乗って仕舞えば1本の路線と同じ。初めての鳥取→上郡間をどんな所を走るのか楽しみです。
しかし、驚きました。この日は寒くて風が有って時々小雪が舞ったりして居たのですが、然りとて屋根に雪が白く残っている所など無かったのですが、鳥取から日本の中央を縦断する山脈を越える為に山の中を列車が登って行ったら、下の写真の様に窓の外が吹雪いていて、しかも畑や屋根が真っ白です。この特急列車は鳥取→上郡間は全て通過したのでアバウトですが、駅で言うと郡家(こうけ)から西粟倉辺りの間が雪で真っ白です。この写真は智頭急行の山郷駅(鳥取県八頭郡智頭町大字西谷)辺りで撮ったものです。
そしてもう一つ驚いたのは列車の中で時刻表の地図を見て居たら何と宮本武蔵駅(岡山県英田郡大原町)が在るではありませんか!、まぁ確かにこの辺りには大原町宮本という地名も在り宮本武蔵(※5)の生誕地説が伝えられる美作地方ですが、まさか「宮本武蔵」という駅が在るとは思っても居ませんでした。通過する時気を付けて見ていたら、ちっぽけな駅(多分、無人)でした。ローカル線の旅はこういう所が面白いですね!
しかし武蔵自身は『五輪書』の中で自らを「生国播磨の武士」(播磨は今の兵庫県の南西部)と記して居ます。
ここはもう兵庫県との県境で、直ぐに県境の峠を越え表日本側に出るともう雪の跡形も無く、空も段々晴れて来て佐用駅(兵庫県佐用郡佐用町)辺りから以降は全くの晴れ空です。日本は小さな島国ですが、この中央山脈の御蔭で裏日本と表日本の気候は全く異なる、ということを目の当たりにしました。裏日本と言うと差別的だと仰る方も有る様ですが、でもこうして列車で見て来ると「裏と表」「陰と陽」ということを実感させられますので、このページでは敢えて裏日本・表日本という用語を多用しました。
以上の様に、このコースは伯備線に比べると本数も少なく利用客も少ないのですが、期待通りの良いコースでした。
◆上郡→姫路(JR山陽本線) − IBOKINとは?
さて、山陽本線に入ったらもう普段乗るコースで、特に見る物は無いと思っていたら、一つ有りましたね、面白いのが。姫路に着く少し前に車窓から何処かの工場のロゴの
IBOKIN
という綴りが目に留まりました。何?!、「イボキン?」、...「疣キン?」「疣金?」(←所謂一つの「大人のおもちゃ屋」には、その様な商品がチン列されてますが)。この辺はあの揖保素麺(そうめん)で有名な揖保川(いぼがわ)という川が流れて居るので、多分「揖保川金属」とか何とか言う会社(→その後に判明)だと思うのですが、「イボキン」は笑っちゃいますね、アッハッハ!。
最後に大阪在住の私が何で姫路なの?、という疑問にお答えしましょう。まあ、山陰の旅の最後を私鉄の山陽電鉄で締め括るという洒落ですね、それに最近は山陽電鉄に乗って無かったですから。
私は大体遠出する際は時刻表と案内書が在ればそれを携行します。そうすれば出掛けた先で不意に思い立って、以上の様な旅を楽しむことが出来るからです。
こうして実行して仕舞った復路の旅程(と言っても予定無しの結果のみ)は以下の様に成りました。
3月7日(金)
小倉(15:08) → 下関(15:26) 立食い蕎麦(時間潰し)
下関(15:37) → 小串(16:19)
小串(16:24) → 長門市(17:32)
長門市(18:05) → 東萩(18:45)
●宿泊
3月8日(土)
早朝、萩市内見物
東萩(09:46) → 益田(10:55) 刺身定食で昼食(駅の外)
益田(12:00) →特急→ 鳥取(15:43)
鳥取(16:00) →臨時特急→ 姫路(18:00)
以上JR
姫路(18:15頃) →山陽電鉄・阪神→ 梅田(20:00頃)
往路旅費=¥14,720(のぞみ利用)
復路旅費=¥15,540(特急利用) ←食い物は除く
上の費用を見ると復路旅費は往きとトントン。つまり1日時間を掛ければ宿泊費だけで旅が出来た様な、”得した”気分に成れますので、皆さんも一度お試し下さい。
尚、この「旅に関するエルニーニョの小定理」を03年4月25日に「「日本再発見の旅」の心」の中の、【日本の「旅」論】というカテゴリー −「日本の旅」に関する私の持論を展開した論考− で改めて定式化しましたので、以後宜しく!
(-_@)
>>>■その後 − ”IBOKIN”判明
●やはり揖保川金属(株)
私は”IBOKIN”が気になって居たので後日、”IBOKIN”でサイトを検索したら見付かりました。私が見た会社は案の定、揖保川金属(株)竜野工場でした。竜野駅と網干駅の間で見た事も判りました。環境関連に力を入れて「緑の募金」運動などもして居ます。興味が有る方は検索して見て下さい。
{この記事は03年4月12日に追加}
●その後、株式会社イボキンに改名
更にその後、05年12月17日の早朝にJRで四国に行く途中、竜野駅に差し掛かる直前の揖保川を渡る鉄橋の上から遂に”IBOKIN”の看板を撮影しましたので左下に載せて置きます。
この会社は平成15(2003)年10月に株式会社イボキンに改名して居ます。会社建物の側面には”IBOKIN”の下に
Recycle/NO.1宣言
という字も読めます。又、屋根にも”IBOKIN”の看板が見えて居ます。
それにしても「イボキン」というロゴを正々堂々と掲げて居る根性には脱帽ですが、女性社員はどう思っているのでしょうか?!、女性社員の声を是非聞いてみたいですね!!
{この記事は05年12月20日に追加}
【脚注】
※1:明倫館は江戸時代、山口(毛利)・宇和島(伊達)等の諸藩の藩校の名。しかし、やはりこの萩の明倫館が最も有名。
※2:女台場(おんなだいば)は、幕末に長州が米英仏蘭4国と戦争状態に成った際、藩の防備の為に菊ヶ浜に高さ3m、幅12m、長さ500mに亘って砂堤を築いたもの。この頃藩士の多くは下関戦争の現場に派遣されて留守で、民衆、特に女性が中心に成って築いたのでこの名が在る。<旅行案内書より>
※3:柿本人麻呂(かきのもとのひとまろ)は、万葉歌人(生没年未詳:660頃〜710頃か)。三十六歌仙の一。天武・持統・文武朝に仕え、六位以下で舎人として出仕、石見国の役人にも成り讃岐国などへも往復、旅先(石見国か)で没。序詞・枕詞・押韻などを駆使、想・詞豊かに、長歌を中心とする沈痛・荘重、格調高い作風に於いて集中第1の抒情歌人。後世、山部赤人と共に歌聖と称された。「人丸」と書いて「ひとまる」とも言う。
※4:八岐大蛇(やまたのおろち)は、記紀神話で出雲の簸川(ひのかわ=今の斐伊川)に居たという大蛇。頭尾は各々八つに分れる。素戔嗚尊(すさのおのみこと)がこれを退治して奇稲田姫(くしなだひめ)を救い、その尾を割いて天叢雲剣(あまのむらくものつるぎ)を得たと伝える。
※4−1:斐伊川(ひいかわ)は、鳥取・島根県境の船通山(標高1142m)中に発源し、宍道湖西端に注ぐ川。下流部は天井川。八岐大蛇伝説で知られる。長さ75km。簸川(ひのかわ)。
※4−2:素戔嗚尊・須佐之男命(すさのおのみこと)は、日本神話で、伊弉諾尊(いざなぎのみこと)の子。天照大神の弟。「すさ」は「荒(すさ)ぶ」に通じ凶暴で、天の岩屋戸の事件を起した結果、高天原から追放される。反面、出雲国では八岐大蛇(やまたのおろち)を斬って天叢雲剣(あまのむらくものつるぎ)を得、天照大神に献じ国を守った。又、新羅に渡って、船材の樹木を持ち帰り、植林の道を教えたと言う。本地垂迹説では、牛頭天王の垂迹とされる。出雲系の祖神(おやがみ)。<出典:一部「学研新世紀ビジュアル百科辞典」より>
※4−3:奇稲田姫・櫛名田姫(くしなだひめ、くしいなだひめ)は、出雲国の足名椎(あしなずち)・手名椎(てなずち)の女。素戔嗚尊の妃と成る。稲田姫。
※4−4:八雲(やくも)とは、[1].幾重にも重なっている雲。八重雲。
[2].(素戔嗚尊の「八雲立つ出雲八重垣妻ごみに八重垣つくるその八重垣を」の歌を、和歌の初めとする事から)和歌。風雅和歌集序「出雲―の色に志を染め」。
※5:宮本武蔵(みやもとむさし)は、江戸初期の剣客(1584?〜1645)。名は玄信。二天と号。播磨(一説に美作)生れと言う。武道修業の為に諸国を遍歴して二刀流を案出し、二天一流の祖。佐々木巌流(小次郎)との試合が名高い。晩年は熊本に住み、水墨画も良くした。著「五輪書」。
(以上出典は主に広辞苑)
【参考文献】
△1:『万葉集(上)』(佐佐木信綱編、岩波文庫)。
△2:『古事記』(倉野憲司校注、岩波文庫)。
●関連リンク
@参照ページ(Reference-Page):萩市の地図▼
地図−日本・山口県(Map of Yamaguchi prefecture, -Japan-)
「旅に関するエルニーニョの小定理」の理論▼
「日本再発見の旅」の心(Travel mind of Japan rediscovery)
宮本武蔵が「生国播磨」と記した『五輪書』の部分▼
2003年・伊賀忍者村訪問記(Iga NINJA-village, Mie, 2003)
揖保川や揖保素麺の里▼
2005年・伊和神社初詣で(Iwa shrine, Hyogo, 2005 beginning)
「旅に関するエルニーニョの小定理」の更なる実践▼
2005年・大井川の塩郷吊橋(Swinging Shiogo, Oi-river Railway, 2005)