2003年・伊賀忍者村訪問記
(Iga NINJA-village, Mie, 2003)

−− 2003.02.04 エルニーニョ深沢(ElNino Fukazawa)
2003.04.14 改訂

※注意:このページは写真が多く、読込みに時間が掛かります。
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 ■はじめに − 伊賀忍者村を訪れるに至った話

 昨年知り合ったラオス人のケオピラウォン・プーペット(Phouphet Kyophilavong)君が、”忍者”に憧れて日本に留学しに来たという話を聞いて、彼が博士論文を提出したら忍者村を連れて行って遣る、という約束をしました。この話やプーペット君についての詳細はココからご覧下さい。
 とは言ったものの、伊賀と甲賀に忍者村が在って忍者屋敷等を展示して居る、ということは知っていたのですが、私自身「忍者村」を訪れるのは今回が初めてでしたが、大阪(プーペット君は神戸)から電車で行き易い所として、伊賀忍者村に行くことに決めた訳です。
写真1:上野市駅舎(近鉄伊賀線)。 03年1月28日(火)、前日は可なり雨が降って天候が心配だったのですがこの日は晴れて、予てからの約束通り上野市の忍者村を訪ねることが出来ました。
 伊賀上野 −今の地名で三重県上野市− は四方を低山に囲まれた盆地の城下町です。地図を参照して下さい。
 → 地図を見る(Open the map)

 そこで先ず伊賀上野城から訪ね、その後で伊賀流忍者博物館(忍者屋敷・忍術体験館・忍者伝承館)に寄ることにしましたが、これらは何れも上野城の城郭を中心に造った上野公園内に在るので、公園内をぐるっと一周する感じで纏めて廻ることが出来ます。上野公園は近鉄伊賀線の上野市駅(右上の写真)の直ぐ北側に在り、駅から城迄は歩いて10分位です。
 大阪から上野市へはJR関西本線、近鉄大阪線、そして名阪国道(25号線)の3つのルートが在りますが、近鉄で行きました。
  上本町又は鶴橋 → 伊賀神戸(特急/急行で約1時間)
  伊賀神戸 → 上野市(近鉄伊賀線で約20分)

アバウトですが、こんなものです。
 帰りには上野市内の中ノ立町通りを南に歩きました。町の佇まいは南北の碁盤目状の道路で整然と区画され、如何にも城下町という落ち着いた風情を漂わせて、とても”好い感じ”です。私はこういう小ぢんまり、小ざっぱりした町並みが好きです、人が人間らしく生活するにはこの位の規模が好いですね。この日は午前中は晴れて居ましたが、風が吹き寒い日で、午後からは曇って来て小雪がちらついたりしました。

 ■伊賀上野城

 伊賀上野城(上野市丸之内)は最初、信長時代の天正9(1581)年に北畠(織田)信雄(※1)が伊賀攻略後に平清盛の平楽寺跡の丘陵に砦を築かせ、次いで秀吉時代の天正13(1585)年に筒井順慶の養子・筒井定次(※2)を大和郡山から12万石で移封して10年懸かりで三層天守閣の本格的城郭を築かせ、そして家康時代の慶長16(1611)年に「築城の名手」と謳われた藤堂高虎(※3、※3−1)を今治から移して大改築させ翌年完成させました。高虎は居城を津城に移し、上野城には保田采女を藤堂姓にし城代とし、以後32万石の城下町は明治迄続きました(△1)。別名は白鳳城

 フーム、鈴鹿関(※4)に近い伊賀上野は天下盗りを狙う武将には、地政学的に「要衝の地」だったことが解ります。
写真2:再建された三層大天守と二層小天守の雄姿。 更に資料(△2)を調べると、この城は藤堂高虎が実験的な試みを目論んだものの未完に終わった城の様で、元々は五層の天守閣でしたが完成直前に台風で崩壊、天守は造られずに終わりました。又、現在日本一の高石垣として本丸西側に残っている石垣も、四方に築かれる予定でしたがやはり未完に終わって居ます。尚、藤堂氏の本城は津城でここには城代が置かれました。
 上が昭和10(1935)年に再建された天守閣 −三層の大天守(右手前)と二層の小天守(左奥)− の雄姿です。石垣の前に立つモデルがプーペット君です。

 左下は天守閣で忍者の真似をする私です、皆さんは決して為さらないで下さい!!
写真3−2:伊賀上野城の天守閣からの展望。写真3:天守閣で忍者の真似をする私。 天守閣からは伊賀盆地に広がる瓦屋根の町並みなど四方が一望出来ます(右の写真は天守から北の眺望)。従ってもし敵が攻めて来ても周りの山を越えた所で直ぐに発見されて仕舞います。
 

 城の建物は現在は歴史資料館の様に成っていて、藤堂家所縁の蔦紋(左下の写真)の入った品々や甲冑や武具類が展示されて居ます。藤堂家の蔦は一見桐に似ていて、これは秀吉から受けた桐紋を主家への遠慮から蔦に変形した為と言われて居ます。
 中央下は天守閣の天井を利用して展示されて居る書画。右下は大筒と火縄銃です。
図:藤堂家の蔦紋。写真4:天主の天井に展示された書画。写真5:大筒と火縄銃。
 左下の写真は鬼瓦。何か猫に似た小動物を形取って居ますが、正確には判りません。こういうのは大抵は魔除けの意味が有ります。右下は城跡から出土した古瓦ですが前述の蔦紋が浮き彫りされて居ます。
 上野市は瓦屋根の町並みが美しい所ですが、昔の城下町には必ず屋根を葺く職人や瓦職人などが居て、大阪では瓦町とか瓦屋町という地名が今でも残っている訳です。
写真6:鬼瓦。写真6−2:城跡出土古瓦の蔦紋。
写真7:豪華な籠。 左の写真は豪華な殿様用の籠です。豪華ですが畳半畳の広さ、という狭さで天井も低いし窮屈な感じです。甲冑なども小さい感じで、多分昔の人は今より小柄だったと思われますが、どうでしょう、この狭い籠で1刻(=2時間)も揺られて居たら現代人なら我慢出来なく成るのでは、と思われます。
写真7−2:武将の飾り兜。
 右が藤堂家の武将が身に付けた飾り兜。資料に拠ると黒漆塗唐冠形兜(※5)と言うそうで、三重県指定文化財です。秀吉から藤堂高虎が拝領し、後に高虎から一族の藤堂良重に拝領しますが良重が大坂夏の陣で討死、為に高虎は良重の弟・九蔵良次に拝領し代々九蔵家の秘宝として伝えられて来た逸品です。
 こんな物は実戦で戦う際には邪魔に成りますが、武将は采配を揮うのが仕事ですから、指揮官は敵からも味方からも何処に居るか目立つ必要が有ったのでしょう。そう言えば、当時の合戦の布陣は「将棋」に似て居ますね。

写真8:西の丸の有名な高石垣から堀を望む。

 そして左が有名な本丸西の高石垣の上から堀を望んだ写真です。高石垣は見えませんが、上野城の高石垣は反り返りの無い直線的な造形で、シンプルで美しいフォルムです。
 この章の最初に記しましたが、高虎はこの高石垣を四面に巡らせる構想だったのですが、志半ばで未完に終わって居ます。この日は厳寒の1月28日で大変寒く風が吹いていたので、ここに立つと吹き飛ばされそうな感じでした。

 4月に再訪問した時の桜に華やぐ城の風景も是非お楽しみ下さい!(ココをクリック)

写真9:小天守内の忍井戸。 城の最後に1月に訪問した時に見落とした物をご覧に入れましょう。二層の小天守内には深さ50間(=約90m)の忍井戸(しのびいど)が在り、井戸からは抜け穴が四方に延び城外との連絡や物資の搬入、忍者の抜け道だったそうです。流石は忍者の地、城も忍者屋敷の様な迷宮構造をして居たのです。この小天守は再建ですから、再建時に忍井戸の入口を復元した訳ですね。右の写真は忍井戸を金網の間からフラッシュを焚いて写しました。
 因みに、当サイトも”迷宮の様”と言われて居ます!
    {忍井戸の記事は03年4月14日に追加}

 ■伊賀流忍者博物館(略称:にんぱく)

 忍者博物館(にんぱく)は入口の方から伊賀流忍者屋敷・忍術体験館・忍者伝承館の3つのゾーンから成って居ます。写真で順に見て行きましょう。
写真10:忍者屋敷の中のどんでん返し。
 <伊賀流忍者屋敷>は上野市に残っていた実際の忍者屋敷をここに移築したもので、どんでん返し抜け道隠し戸刀隠しなどの「仕掛け」や「絡繰(からくり)」を、忍者の格好をしたお兄さんが実演して見せて呉れ、我々にも遣らせて呉れるので面白かったですね。
 右は回転式の隠し戸です。プーペット君の背後の戸がクルッと回転する様に成っていて、敵に追われた忍者はこの扉の背後に入り込み一瞬の内に身を隠すことが出来る仕掛けです。更に扉の奥には抜け道が用意されて居て、身を隠すだけで無く外へ逃げ出せる様に成って居ます。

写真11:水の上を歩く道具の「水蜘蛛」。 <忍術体験館>では忍者の七つ道具の「水蜘蛛」(右の写真)や手裏剣(左下の写真)や縄梯子鎖帷子と覆面(右下の写真)などが展示して在り、忍者の「技(わざ)」と「術(じゅつ)」が体験出来る様に成って居ます。
写真12:忍者が実際に使った様々な形の手裏剣。 左には忍者特有の十方手裏剣八方手裏剣が並んで居ます。
 手裏剣は読んで字の如く、手の平の中に隠し持ち、敵に近付いて投げるのです。場合に依っては刃先に毒を塗ったりもし、現代のサイレンサー拳銃に相当する秘密兵器でした。
写真13:鎖帷子と覆面。
 プーペット君は手裏剣に食い入る様に見入って居ましたが、彼は手裏剣投げを実際に体験したかったのです。生憎(あいにく)この日は平日で出来ず残念がって居ました。土・日・祝日なら忍者の実戦ショーが有り、手裏剣投げも体験出来るそうです。この日は実戦の模様は館内のビデオで見ました。

 右の鎖帷子と覆面は現代の防弾チョッキと防弾マスクに相当します。
 


写真14:忍者同士の伝達に使った秘密文字。
 <忍者伝承館>は忍者の発祥と発達の歴史や忍者に必要な鍛錬や心構えなどの資料を展示して居ます。
 右の写真は忍者同士の情報伝達に使った秘密文字の一つ、漢字伝来以前に日本に存在した伝えられる神代文字(※6、△3のp183〜212)。忍者は情報の漏洩に最大限の注意を払い、決して普通の文字は使いませんでした。ですから記憶術の訓練をし、文字を全く使わず口から口へと伝達するのを至上とし、文字を使う場合には暗号化して使いました。或いは「五色の米」と言って、色の着いた米粒を組み合わせて蒔き、後から来た仲間がこれを解読するという様な、色々な手を使って居ます。
写真14−2:九字法の説明板。
 右は九字法(=九字護身法)の「臨兵闘者皆陣列在前」の九字の秘法(※7)の説明板です。9個の白い円は上から時計回りに
  臨 → ア[A]
  兵 → キ[Ki]
  闘 → サ[Sa]
  者 → タ[Ta]
  皆 → カ[Ka]
  陣 → ハ[Ha]
  列 → ワ[Wa]
  在 → ヤ[Ya]
  前 → エ[E]
と並び、それぞれの呪文の意味を説明して在ります(△4のp177)。
 フーム!、忍者は今日のCIA以上かも知れませんね。


写真15:忍者の発生系統図「忍術の樹」。
 右の写真が忍者発祥の系統図「忍術の樹」の写真です。この中に服部半蔵(※8)や宮本武蔵(※9)も載って居ます。
 他には”食・香・薬・気・体”の「忍者五道」と言われる、忍者の日頃の訓練や修養、伊賀流忍術の極意を伝えた文献などが展示されて居ます。
 日本の忍術は、古代から「間諜」(※10)と呼ばれ諜報・工作・テロ活動の術として発達して来た中国の兵法(=奇門遁甲)と神仙思想(=道教の元、※11)を基に、これにインドやチベットから伝わった密教、そして日本の神道や山岳信仰の修験道を取り入れて発達して来ました(△4のp151〜184)。

 忍者屋敷を出る時、私は忍者の格好をしたお兄さんに訊きました。お兄さんたちや、「くノ一」(※12)のお姉さんたち(この日は居ませんでしたが)は、歴(れっき)とした上野市役所の公務員です。私が卑近な声で「羨ましいですねえ。」と言うと、「仕事ですから。全ての技(わざ)を一瞬の内に熟(こな)すからこそ術に見えるのです。その為には普段から練習を積む必要が有ります。」と、服部半蔵的模範回答を頂戴しました。
 それにしても”超安定”の給料を貰って「忍者ごっこ」が出来るのは、やはり羨まし〜い!

 ■芭蕉の俳聖殿


写真16:俳聖殿の前で。

 ところで上野市は又、松尾芭蕉(※13)の生地として有名、と言っても地元の人以外では知っている人は少ないですが。芭蕉って言ったらあの「古池や...」という俳句で超有名ですが。
 上野市には芭蕉翁生家故郷塚など、芭蕉関連地が可なり在る感じですが、今回は何処へも行かず上野公園内で偶々(たまたま)俳聖殿という建物の前を通ったので、記念写真を撮りました。
 ところで皆さん、「芭蕉=忍者」説(※13−1)ってご存知ですか?
 

 ■「忍者」考 − 宮本武蔵に通底する忍者の合理精神

 こうして「にんぱく」を見て来ましたが、「忍者」って凄いですね。何よりも感じるのは当時の社会体制の中では珍しく、忍者の考え方は非常に合理的です。それはあの様な仕掛けや武器を自分で作って仕舞うアイデアマン兼技術者だったからでしょうね。そして卓抜した行動力集中力、長時間の空腹や敵の拷問にも耐えられる忍耐力、情報を記憶する記憶力、そして自分を守り敵を倒す為に駆使する医術や薬学的知識、どんな状況下に於いても対応出来る順応力など、可なりオールマイティな力を要求されます。その為に聖職者にも似た辛い修行に打ち克って徹底的に自分を鍛えたのです。そうした鍛錬の結果、常に心の平静さを保つことが出来、「気」を察し見えない物が見えて来る「心眼」(※14)を獲得出来るのだと思います。
 実は以上の事はあの宮本武蔵も『五輪書』(※9−1)の中で説いて居ます。即ち、「地之巻」には「兵法の道、二天一流と号し、数年鍛練の事、初而書物に顕はさんと思ひ、時に寛永二十年十月上旬の比、九州肥後の地岩戸山に上り、天を拝し、観音を礼し、仏前にむかひ、生国播磨の武士新免武蔵守藤原の玄信、年つもつて六十。」
と序し、先ずは武蔵が播磨の生まれで60歳の時発起して著したと明記した後で

 「我兵法を学ばんと思ふ人は、道をおこなふ法あり。
  第一に、よこしまになき事をおもふ所
  第二に、道の鍛練する所
  第三に、諸芸にさはる所
  第四に、諸職の道を知る事
  第五に、物毎の損徳をわきまゆる事
  第六に、諸事目利を仕覚ゆる事
  第七に、目に見えぬ所をさとってしる事
  第八に、わづかなる事にも気を付くる事
  第九に、役にたゝぬ事をせざる事
 大形如此理(おおかたかくのごときことわり)を心にかけて、兵法の道鍛練すべき也。」


「兵法の道」を説いて居ます。この第七が「心眼」のことを述べていると思われます。この様に忍者の合理精神と武蔵の合理精神は共通して居ます、両者共「敵に背を見せて逃げる」ことも戦術の一つと考えて居ます。

 しかし、それで居て忍者の身分は低く、当時の武家社会の中では武士からも町人や農民からも、一歩蔑まれて見られて居ました。言わば身分制の狭間に「忍の一字」で生き乍ら、しかし有名な所では8代将軍吉宗のお抱え忍者「お庭番」の様に、「影の存在」の任務は重かったのです。現代で言えば特殊部隊ですね。
                

 そして、このページを作る為に「にんぱく」で貰った資料を読んで居たら、伊賀流忍者の極意として

    気を見て虚を衝け。恐れるな、侮るな、考え過ぎるな。

と出て来ました。私はもう嬉しく成りました、何故って私はこのサイトの「個人的見解」のコーナーに「現代人のストレスは”考え過ぎ”が原因、だから考え過ぎるな」という意見を載せている様に、私と同意見だからです。同じ意味のことは宮本武蔵も「兵法の道」第九で「役にたゝぬ事をせざる事」と言ってますよ。

 [ちょっと一言]方向指示(次) 『五輪書』は他の武芸書と異なり、単なる「型」の習得では無く「「勝つ」為の心構え」が説かれて居ますが、そこに貫かれて居るのは徹底した合理主義の精神です。武蔵が仕官を望み乍ら遂に士官出来なかった(晩年細川家に雇われましたが、あれは形だけで事実上は居候です)のは、この合理精神がやはり当時の儒教的忠君主義(※15)と合わなかった為、と私は見て居ます。その点、同時代の剣豪・柳生宗矩(※16)は忠君主義に折り合いを付け体制に上手く乗りました。皆さん、組織の中で出世しようと思ったら宗矩を見習いましょう!!

 ■結び − 忍者の心、それは「想像力のワンダーランド」

 伊賀上野に行く前に地図を見ていたら、伊賀上野って去年の暮れに行った奈良県山添村や月ヶ瀬村に非常に近いことが判り驚きました。又、地図で見ると滋賀県の信楽やもう一つの忍者発祥の地、甲賀町も非常に近い(JRの駅で3つ)ことに気付きました。この辺りは丁度京都(山城国)、奈良(大和国)、滋賀(近江国)、三重(伊賀国)の県境、昔の国境(くにざかい)に当たる”境の地”で尚且つ奥深い辺境の地です。しかし、だからこそ遁甲に適し、忍術がこの地域で人知れず育まれたのでしょう。
 → もう一度地図をご覧下さい(Open the map again)

 この日の帰り大阪鶴橋で、プーペット君と焼肉を食べました。焼肉と忍者は全く関係有りませんが、この時ビールを飲み乍らプーペット君は、母国へ帰ったら将来は貿易を遣りたい、自分の家を忍者屋敷の様にカラクリ一杯の家にしたい、と語って居ました。その2、3日後にプーペット君からメールが届き、この中で彼は「忍者ぷーぺっと」と宣言したのです。思えばあの焼肉を食べている時に、彼は忍者に成る決意を固めたのかも知れません。
 子供の頃良く「ちゃんばら」(※17) −「ちゃんばら」に脚注を付けるのも時代です− をして遊びましたが、私もどちらかと言えば剣豪よりも忍者の方が好きで、手製の手裏剣や吹き矢などを作って遊びましたね。又、忍者気取りで家人に見付からない様に屋根伝いに他人の家を渡り歩くのも、何とも言えずスリルが有りました。今思うと結構忍者して居ましたね。私はこういう”怪しい”物事が大好きで、当サイトの「伏魔殿」、あれも宛(さなが)ら忍者屋敷の様でしょ?、忍者の心、これこそ@想像力のワンダーランド@(※17)なのです!!
 最後に私は思うのですが、「忍びの道」を究め、捨て石として働いた忍者...。
  忍者の生き甲斐って、一体何だったのでしょうか?

 >>>■その後
写真e:近鉄伊賀線の忍者顔電車。
 プーペット君が帰国後、私は03年4月13日(日)に再び上野城を訪れる機会を得、桜満開の上野城を堪能しました。
 右の写真は、その時に近鉄伊賀線の依那古(いなこ)駅で偶然見掛けた忍者顔電車です。「くノ一」顔(※12)ですね、”妖しい”雰囲気が漂って居ますが、それ以上に滑稽です!
    {この忍者顔電車の記事は03年4月14日に追加}

φ−− おしまい −−ψ

【脚注】
※1:織田信雄(おだのぶかつ)は、安土桃山時代の武将(1558〜1630)。法名、常真。信長の次子。初め伊勢国司北畠氏の跡を継ぐ。信長の没後、徳川家康の援を得て小牧山に秀吉と対戦。後に転封を拒んで改易された。大坂の陣では密かに家康に通じ、後に大和などに5万石を与えられる。

※2:筒井定次(つついさだつぐ)は、織豊期の武将(1562〜1615)。慈明寺順国の子で順慶の養子。1584(天正12)年に遺領を継ぐが、翌年伊賀国上野9万5千石に移封。関ヶ原の戦いでは家康に従ったが、1608(慶長13)年家臣に不行跡を提訴され改易。キリシタンで1615(元和1)年豊臣方への内通の嫌疑で死罪、一族は断絶。<出典:「日本史人物辞典」(山川出版社)>
 補足すると、定次の豊臣方への内通も順慶譲りか?!

※3:藤堂高虎(とうどうたかとら)は、安土桃山・江戸前期の武将(1556〜1630)。近江の人。浅井長政・羽柴秀長らに仕え、秀吉に召され宇和島城主と成り、文禄・慶長の役に従う。秀吉没後は徳川氏に属し、関ヶ原・大坂の戦功に依り伊勢・伊賀32万石に封。築城に優れる。
※3−1:築城(ちくじょう)は、場所の選定(=地取り選地)と、選定した場所に機能・目的に応じて設計し城郭要素の配置を決めること(=縄張:配置工事する際に縄打ちすることに由来)が生命で、この「選地と縄張」に力を発揮した人が「築城の名手」と呼ばれました。

※4:鈴鹿関(すずかのせき)は、三関の一。701年(大宝1)開設。三重県鈴鹿郡関町付近に比定される。東国への交通の要衝。789年(延暦8)廃止。

※5:唐冠形兜(とうかむりがたかぶと)とは、豊臣秀吉が、好んでこの形の兜を用いて権威の象徴としたと言う。戦国末期に流行した唐式の冠形鉢。

※6:神代文字(じんだいもじ)とは、我が国固有の、神代から伝えられたという文字。実は、亀卜の灼兆(しゃくちょう)や朝鮮のハングルに擬した偽作日文(ひふみ)・天名地鎮(あないち)・阿比留文字(あひるもじ)などの種類が在る。江戸時代、その存否について平田篤胤の「神字日文伝(かむなひふみのつたえ)」(存在説)伴信友の「仮字本末(かなのもとすえ)」(否定説)などの論争が有った。

※7:九字(くじ)とは、〔仏〕護身の秘呪として用いる9個の文字。「臨兵闘者皆陣列在前」の9字の呪(じこ)を唱え、指で空中に縦に4線、横に5線を書く(=九字を切る)時は、どんな強敵も恐れるに足りないという護身の法。元は道家に行われ、後に陰陽道に用い、又、密教家修験者忍者などが用いた。九字護身法
※7−1:「九字を切る」とは、九字の呪(まじな)いをすること。

※8:服部半蔵(はっとりはんぞう)は、織豊期の武将(1542〜96)。保長の子。名は正成(まさなり)、通称・半蔵(半三とも)、異名・鬼半蔵、法名は西念。石見守。父の跡を継いで徳川家康に仕え、伊賀忍者を支配。三河国宇土城夜討の際、16歳で伊賀者を率いて戦功をあげ、遠江国掛川城攻め、姉川の戦、三方原の戦の緒戦に従軍。遠江国に8千石を領する。家康の関東入国後は与力30騎・伊賀同心200人を支配した。<出典:『日本史人物辞典』>

※9:宮本武蔵(みやもとむさし)は、江戸初期の剣客(1584?〜1645)。名は玄信。二天と号。播磨(一説に美作)生れと言う。武道修業の為諸国を遍歴して二刀流を案出し、二天一流の祖。佐々木巌流(小次郎)との試合が名高い。晩年は熊本に住み、水墨画も良くした。著「五輪書」
※9−1:五輪書(ごりんのしょ)は、武道書宮本武蔵著。地・水・火・風・空の5巻。厳しい剣法修業に依って究め得た兵法の奥義を述べたもの。1644年(正保1)頃成る。

※10:間諜(かんちょう、spy)とは、密かに敵側の情勢を探って味方に通報する者、又その行為。間者スパイ。「―を放つ」。

※11:神仙思想(しんせんしそう)は、中国古代の神秘思想。山東省の神山信仰に端を発する。即ち、東方の海上に蓬莱・方丈・瀛州の3神山、又遥か西方に崑崙山が在り、これらに不死の仙人羽人が居るとされた。後にこれが理想的超人として仙薬の服用などに依り人間の成り得るものとされ、不老長寿の薬を求め煉丹術を生み、道教の元に成った。<出典:一部「学研新世紀ビジュアル百科辞典」より>

※12:くノ一(くのいち)とは、(漢字「女」が「く」「ノ」「一」に分解出来ることから)
 [1].女を指す俗語。
 [2].特に、女の忍者

※13:松尾芭蕉(まつおばしょう)は、江戸前期の俳人(1644〜1694)。名は宗房。号は「はせを」と自署。別号、桃青・泊船堂・釣月庵・風羅坊など。伊賀上野に生れ、藤堂良精の子良忠(俳号、蝉吟)の近習と成り、俳諧に志した。一時京都に在り北村季吟にも師事、後に江戸に下り水道工事などに従事したが、やがて深川の芭蕉庵に移り、談林の俳風を超えて俳諧に高い文芸性を賦与し、蕉風を創始。その間各地を旅して多くの名句と紀行文を残し、難波の旅舎に没。句は「俳諧七部集」などに結集、主な紀行・日記に「野ざらし紀行」「笈の小文」「更科紀行」「奥の細道」「嵯峨日記」などが在る。
※13−1:「芭蕉=忍者」説を最初に発表したのは斎藤栄で推理小説「奥の細道殺人事件」の中で、芭蕉が諸国を俳句を詠み乍ら弟子の家々を巡り歩いたのは、芭蕉は伊賀忍者で単に俳句だけでは無く他に密命を帯びていて諸国の情報収集をして居たのではないか?、という仮定の基に構築した話で、斎藤栄の多数の推理小説の中でも出色の出来映え(と私は思うのですが)です。その論拠に成ったのが、芭蕉が「伊賀上野生まれで肉体労働に従事した」経歴です。で、その蜜命を発したのは誰かと言うと、ヒントは印籠、まあ読んでからのお楽しみ。興味有る方は是非御一読を。

※14:心眼(しんがん、mind's eye)とは、物事の実体や真相をはっきり見通す鋭い心の働き。しんげん。日葡辞書「シンガンヲアキラムル」。「―に映ずる」、「―を開く」。

※15:忠君(ちゅうくん、loyalty)は、君主に忠義を尽くすこと。君主の為に身命を惜しまないこと。「―愛国」。
※15−1:忠(ちゅう)とは、[1].fidelity。偽りの無い心。真心を以て尽くすこと。忠実。誠。まめやか。「忠誠・忠告」。
 [2].loyalty。儒教の中心道徳の一つで、中国では禄を貰って君主に仕える臣が君主に対して専心尽くすこと。日本の武士道では、従者が主君に対して負う義務。忠義。忠君

※16:柳生宗矩(やぎゅうむねのり)は、江戸初期の剣客(1571〜1646)。新陰流の達人。宗厳の子。但馬守。関ヶ原の戦に徳川家康に従い、大和国柳生荘で2千石を知行、後1万2千5百石に加増。著「兵法家伝書」

※17:「ちゃんばら」とは、「ちゃんちゃんばらばら」の略。「ちゃんちゃん」は刀と刀がぶつかる音、「ばらばら」は人がばらばら斬らて倒れる様(さま)。
 [1].映画や芝居で、白刃を打ち合うこと。剣劇。又、刀で斬り合う真似事遊び。時代劇映画のことを俗に「ちゃんばら映画」と言う。「―映画」。
 [2].転じて、乱闘騒ぎ、喧嘩。

※17:ワンダーランド(wonderland)とは、不思議の国。御伽の国。

    (以上、出典は主に広辞苑です)

【参考文献】
△1:『日本の名城・古城』(井上宗和著、角川文庫)。

△2:『別冊歴史読本 日本の名城「城絵図を読む」』(新人物往来社編・発行)。

△3:『日本超古代文明のすべて』(佐治芳彦・高橋良典・鈴木旭・幸沙代子・関裕二・その他著、日本文芸社)。

△4:『魔術師の饗宴』(山北篤と怪兵隊著、新紀元社)。

●関連リンク
参照ページ(Reference-Page):三重県上野市の地図▼
地図−日本・伊賀と甲賀(Map of Iga and Kouga, Mie and Shiga -Japan-)
参照ページ(Reference-Page):奇門遁甲について▼
資料−天文用語集(Glossary of Astronomy)
補完ページ(Complementary):伊賀上野城の桜の風景▼
日本全国花見酒(Cherry blossoms and banquet in Japan)
横顔(Profile):プーペット君の紹介▼
忍者ぷーぺっと(Phouphet Kyophilavong)
筒井順慶・定次以降の筒井氏について▼
大和筒井城(Ruins of Tsutsui castle, Nara)
大阪の瓦職人の町▼
人形の町−大阪松屋町(Town of dolls, Matsuyamachi, Osaka)
宮本武蔵の生誕地を名乗る場所▼
2003年・萩と山陰の旅(Hagi and San'in, 2003)
”考え過ぎ”がストレスの原因▼
私の健康論−不摂生は健康の母(My healthy life)
上野市から近い山添村や月ヶ瀬村▼
2002年冬至・石上奥の大国見山
(Okunimi-yama, Nara, 2002 winter solstice)

”境の地”の恩恵▼
2003年・磐座サミットin山添(Iwakura summit in Yamazoe, Nara, 2003)
王貞治やイチローに受け継がれる宮本武蔵の精神▼
イチローに於ける”球道者”精神(ICHIRO is a pursuer of baseball)
迷宮構造についてのエルニーニョ氏の見解▼
エルニーニョ深沢とは何者か?!(Who am I ?)
@想像力のワンダーランド@や迷宮について▼
ようこそ【エルニーニョの世界】へ(Welcome to ElNino's world)
伊賀忍者博物館(にんぱく)や伊賀流忍者について▼
外部サイトへ一発リンク!(External links '1-PATSU !')


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