大和筒井城
[松永久秀と筒井順慶・その2]
(Ruins of Tsutsui castle, Nara)

-- 2004.05.25 エルニーニョ深沢(ElNino Fukazawa)
2017.10.14 改訂

 ■はじめに - 名を捨て領国を守る生き方

 ★このページは<その1>「大和多聞城と大和郡山城」の続きです。今回は筒井城です。

 さて<その1>で多聞城と大和郡山城と筒井城が”石垣の因縁”で結ばれて居ることを述べましたが、これらの城を巡る闘いは”天下を取る”程の大悪に成り得なかった松永久秀筒井順慶(※1)という2人の小悪「宿命の対決」でもあったのです。そこからは反抗的に”仁義無き闘い”を挑んだ久秀と、戦国の荒波を日和見主義(※1-1、※1-2)で泳ぎ抜こうとした順慶の正反対の生き方が浮かび上がります。”弱肉強食”(→後出)の世界ではどちらにも一理有ると言えるでしょう。今回は筒井氏の本貫地を訪ね筒井順慶の生き方を考えてみます。
 04年5月25日(火)26日(水)に私は筒井城跡(大和郡山市筒井町)に行きました。
 その後、04年10月15日(金)順慶の墓(→後出)に行きました。{この行は05年1月5日に追加}

 尚、関連城郭の地図は<その1>に載って居ます。

 ■大和筒井城

 (1)筒井城跡

 04年5月25日は法隆寺からレンタサイクルで”入城”です。ここ筒井町が町名の通り筒井氏の本貫地で、旧・大和国添下郡筒井(添下は「そうのしも」)です。しかし嘗ての筒井城跡は、今は民家の間の畑の中に囲い地に成って草が生い茂っているばかりです(左下の写真)。それは信長に郡山に移ることを命じられ、筒井順慶自らの手で破却したからです(後述)
写真TT1-1:筒井城址の囲い地(=シロ畑)。写真TT1-2:筒井城址に咲く花。
 この金網に地元の「筒井順慶顕彰会」の千切れた幟が立って居ますが、これが無いと初めて来た人にはここが城址とは判りません。幟に赤く染め抜かれた紋は「梅鉢紋」でこれが筒井氏の家紋(→完全形は後出)です。
 右上の写真が囲いの中の草地に咲いていた白い花で、何故か印象的でした。

 ところで通常城址にはそれを示す石碑が立っているものですが、周りを見渡してもそれが見当たりません。誰かに聞くにも人通りも無く困っていたら、この囲い地の奥で小父さんが野良仕事をして居たので声を掛けて聞いてみました。するとこの囲い地の直ぐ南側、即ち左下の写真の左手に蓮池が在り、その脇の道を奥の畑の方に入って行った所に在るとのことです。私は直ぐに行ってみました。
 左下がその蓮池で、嘗ての内堀の跡です。ご覧の様に花は未だ咲いて無いですが、葉が池の全面を覆って居ます。この写真に見える細い畦道を奥の方に進むと、在りました!、右下の写真が畑の中に”人知れず”立っていた「筒井順慶城趾」の石碑です。先程の小父さんの話に拠ると地元ではこの囲い地を「シロ畑」 -城畑であろう- と呼んで居て史蹟公園化する話も出ているとのことでした。
写真TT1-3:内堀跡の蓮池。写真TT1-4:「筒井順慶城趾」の石碑。

 さて、筒井氏は中世大和の国人・戦国大名で、代々興福寺衆徒の家柄から、出自は藤原氏とも大神(おおみわ)氏とも菅原氏とも言われて居ますが、家紋から見ると「梅鉢紋」は菅原氏系で、この地は旧・添下郡菅原の南隣です。ここで順慶の生涯を見てみましょう。

    ++++ 筒井順慶の生涯 ++++
 1549~1584年。順慶の幼名は藤勝(後に藤政)です。父・順昭は大和の大勢力でしたが大和統一の一歩手前で藤勝2歳の時に病没した -この時の模様は「元の木阿弥」の話(後述)として伝わって居ます- 為、永禄2(1559)年には松永久秀に侵略され永禄8(1565)年には筒井城も奪われました。翌年三好三人衆と手を結び久秀に抗戦、永禄10(1567)年、前述の大仏殿焼き打ちを逃れ筒井城を奪回します。家柄故早くから僧門に入っていた藤政はこの頃得度して陽舜坊順慶と称しました。
 大悪・信長が表舞台に登場すると小悪・久秀は直ぐに信長に従った為、順慶は元亀2(1571)年に再び筒井を追われ辰市城(現奈良市)に退避します。同年夏すかさず久秀は嫡男・久通と共に辰市を攻めましたが、筒井軍は結束して辰市の合戦を制し信長に臣従します。この時信長との間を取り持ったのが明智光秀です。以後信長軍の光秀傘下で頭角を表し、前述の様に天正4(1576)年には信長から大和国守護を任じられ、破壊した多聞城(或いは多聞山城)の石材を筒井城に運びます。この時は筒井城の修築を考えていたのでしょう。
 翌天正5年10月10日、明智光秀と共に遂に宿敵の松永久秀を信貴山城(地図参照)に敗死させると、信長から「大和国中一円存知」を許されて、天正8(1580)年に一国一城令に拠り本貫地の筒井城を破却し大和郡山城の築城を開始します。この時奈良中の大工を郡山に集め突貫で築城し、多聞城から筒井へ運び込んだ石材を郡山城の石垣に利用したのです。
 本能寺の変の時は盟友・光秀の誘いに応じず、山崎の合戦でも再び光秀の要請に動かず「洞ヶ峠」を極め込み裏で秀吉に通じ、後に秀吉には叱責されはしましたが大和国を安堵されました。秀吉に属してからも各地を転戦しますが、病に罹り天正12年(1584)8月11日、郡山城中で死去しました。
 戦国の世、信長・光秀・秀吉・家康らが国盗りの野望を剥き出して闘う中で、順慶は強者に翻弄され乍らも強者の力を天秤に掛けて上手く泳ぎ、専ら大和の領国の保守と筒井家の安泰の為に腐心した人でした。能楽や茶道 -久秀も茶人でした- に造形が深く、有名な井戸茶碗「筒井筒」(※2、後述)の所持者でした。そして信貴山南麓の達磨寺に宿敵久秀の死骸を葬ったのは仏僧・順慶(△1のp573)とされて居るのです。
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 (2)光専寺の順慶坐像

 先程の囲い地の前の道を北に行くと突き当たりに幽井山光専寺(筒井町1533)が在ります。光専寺は浄土真宗興正寺派で永正11(1514)年の創建です。左下の写真が光専寺の門と西側の門前通りです。この門前通りは白壁の蔵が建って居たりして、風情を感じさせます。
写真TT2-1:光専寺の山門。写真TT2-2:光専寺の本堂と庭。
 この門の右側に木札が掛かっていて、それには「筒井順慶公木像安置」と書いて在ります。この日は他を回る予定が有ったので、翌日電話しその木像を見せて戴きました。右上がその時写した境内の本堂と手入れされた庭の写真です。

写真TT2-3:光専寺にある筒井順慶公木像。 そして左の写真が本堂に在る筒井順慶公木像で、全体は厨子に納められて居ます。この厨子は文化9(1812)年に筒井家所縁の人々に依って作られたものです。
 木像は想像して居たより小さな高さ70cm程の、左手に数珠を持った僧形の坐像です。風流を好んだ人らしく穏やかな表情をして居ます。
 厨子の右下の説明板には現在は「筒井順慶坐像保存会」所蔵で市指定文化財である旨が書かれて居ます。下がその説明板の拡大写真です。
写真TT2-4:光専寺にある筒井順慶公木像の説明板。

 この木像は江戸時代初期の作と伝えられ、元々は筒井氏の菩提寺の寿福院(=現本門寺) -ここから南東200m位で県道(=大和郡山広陵線)の東側- に安置され後に大坂の順慶町(じゅんけいまち)に在ったものを筒井町の有志が買い戻し、「保存会」を作りここに管理を委託して在ります。
 又、唐招提寺には順慶の画像が残されて居ます。

    ◆大坂の順慶町は大層賑わった

図TT1:「摂津名所図会」の順慶町。

    ++++ 大坂の順慶町 ++++
 大坂の順慶町とは現在の大阪市中央区南船場で、天正11(1583)年に筒井順慶が大名屋敷を建てた跡で近年迄町名に成って居ました(※3)。
 順慶町は江戸時代の大坂のメインストリートだった境筋から遊興地の新町へ入る通路に面して居た為、往時は「夕暮より万灯てらし、種々(くさぐさ)の品を飾りて...両側尺地(せきち)もなく」と『摂津名所図会』に夜店の賑わい振りが描かれて居ます(右の図、△2のp40)。
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 (3)菅田比売神社の内堀の跡

 さて光専寺の門前の道を東に進むと菅田比売神社(すがたひめじんじゃ)(筒井町字寺垣内)が在ります。左下が鳥居脇に立つ社名碑(←「式内 菅田比売神社」と陰刻)、中央下が小さな社殿です。
 実はこの神社の神域東端に幅1m位の濠が在り、これが先程見た筒井城の内堀の名残(右下の写真)なのです。
写真TT3-1:菅田比売神社(すがたひめじんじゃ)の社名碑。写真TT3-2:菅田比売神社(すがたひめじんじゃ)の小さな社殿。写真TT3-3:菅田比売神社(すがたひめじんじゃ)の濠(=嘗ての筒井城址の内堀)。

 菅田比売神社延喜式神名帳の式内社なので創建は古い社です(△3のp418)が、祭神は菅田比売では無く天鈿女命(※4)とも伊豆能売神(※5)とも言われ、元は丹後庄町との境に在ったと伝えられ、八条町一夜松に在る菅田神社 -式内社(△3のp419)で祭神は菅田比古命(別名:一夜松天神)- と対を成して居たとの事です(△4のp146)。

 ところで【脚注】に在る様に天鈿女命は天照大神が天岩屋戸(※4-1)に隠れた時に活躍した神で、天鈿女命は猿女の祖(※4-2)です。今と成っては天鈿女命と伊豆能売神との関係、社名の菅田比売命と伊豆能売神との関係は不詳です。大和郡山には猿女氏の本拠の売太神社賣太神社)が在りますので、祭神が天鈿女命という話は無視出来ませんが、猿女氏については▼下のページ▼に宿題を課して、当ページは先に進みます。{このリンクは2016年5月16日に追加}
  稗田阿礼と環濠集落(Hieda Are and circular moat, Yamato-Koriyama, Nara)

 (4)筒井氏の「夢の跡」とその後

 以上の様に筒井城は中世末期の平城で、先程見て来た「シロ畑」が居館の跡で、それを取り囲む内堀跡が在り、更にその外側を外堀が囲んで居たそうです。光専寺の北側には外掘跡や土塁跡も残って居ます。この地に最初に城郭を築いたのは永享2(1430)年筒井順永で、近世的居館を建てたのは父・順昭で城内には市(いち)も在ったそうで、筒井氏の「夢の跡」と言えます。
 最後に順慶以後の筒井氏について簡単に記して置きましょう。順慶死後の筒井氏を継いだのは慈明寺順国の子で養子の定次(※6)ですが伊賀上野城に移封され改易、その後順慶の猶子・定慶が継ぎ郡山城番に復しましたが大坂夏の陣で豊臣方に就き断絶しました。一方順慶の養子の順斎が家康に仕え、以後江戸時代を旗本で通し、江戸後期にはロシアとの条約交渉で活躍した筒井政憲を輩出して居ます。
 尚、筒井定次については伊賀小泉氏館の所で少々出て来ます(▼下のページ▼)ので追加します、但し定次は馬鹿殿です。{このリンクは2017年10月14日に追加}
  竹林の美(The beauty of BAMBOO grove)

 ■城跡周辺の縁故地

 (1)無冠の八幡宮

写真TT4-2:「筒井順慶公之碑」が在る「八幡宮」の社殿。写真TT4-1:「筒井順慶公之碑」が在る「八幡宮」の扁額。 菅田比売神社の南東100m位の所に単なる無冠の「八幡宮」という無人の神社が在ります。左が鳥居の額で「八幡宮」とだけ書いて在ります。
 右が3棟在る小さな社殿の内の1つです。3つの社殿はそれぞれ3柱の祭神、足立彦命・誉田別命(=応神天皇)・息長足姫命(=神功皇后)を祀って居て、何れも菅田比売神社のものと似た造りと大きさです。
 大和郡山市にはこの様な八幡宮が他にも幾つか散在して居ます(△4のp220~221)が、その理由として中世の郡山衆が東大寺配下の衆徒を中心に成長した経緯が有り、郡山衆が東大寺の総鎮守・手向山八幡宮を各地に勧請した為です。
写真TT4-3:「筒井順慶顕彰会」の幟。写真TT4-4:「筒井順慶公之碑」。 八幡宮境内には「筒井順慶顕彰会」の幟が完全な形で立ち梅鉢紋も良く判ります(左の写真)。筒井町を経廻って気が付いたことは、この幟が立つ所は”順慶に関係有り”なのです。
 そう思って境内を歩くと北東の一隅の鉄柵で囲まれた中に順慶を顕彰した石碑が2つ在りました。「筒井順慶公之碑」と書かれた石碑(右の写真)と「由来」と刻まれた石碑で、後者は洪水のことに触れて居ます。この辺は郡山盆地の真ん中で、東を佐保川が流れ北には金魚の養殖池が密集して居る低地で、佐保川の氾濫で度々水害に見舞われました。石碑は順慶が堤防や貯水池を造り水害から郷を守ったとして称えて居ます。

 (2)筒井順慶の墓
写真TT5-1:五輪塔覆堂。写真TT5-2:五輪塔覆堂の標識。
 04年10月15日に近鉄の平端駅の北東100m位の所の五輪塔覆堂(長安寺町)に来ました(右の2枚の写真)。覆堂の中に五輪塔(=筒井順慶の墓)が覆われて居ます。御廟所とも言われ国の重要文化財に指定されて居ます。ここは現在「筒井順慶歴史公園」に成って居ますが、公園と呼ぶには狭く目立たない存在です。
 順慶の墓は初め円証寺(奈良市)に葬られましたが後にここに改葬されました。元はもっと広かったと言い西寺という寺が墓を守っていたそうです。
    {この節は05年1月5日に追加}

 ■筒井順慶に纏わるエピソード

 ところで筒井順慶には纏わる逸話(エピソード)が幾つか伝わって居ます。次にそれをご紹介しましょう。

    ◆元の木阿弥(旧の木阿弥)

 その中で最も有名なのが「元の木阿弥」(元来は「旧(もと)の木阿弥」)でしょう。これは現在
 「折角良い状態に成ったものが再び元の詰まらない状態に帰し、その間の苦心や努力が無駄に成ること」
に使いますが、その語源は
 順慶の父・筒井順昭が天文20(1551)年に円証寺で病死した時、嗣子・順慶は未だ2歳だった為、その死に乗じて攻め入られることを恐れ、声や形相の似ていた盲人琵琶法師・木阿弥を奈良から呼び、順昭が病気で寝ている様に見せ掛け、順慶が長ずるに及んで初めて順昭の死を公けにし、木阿弥は旧(もと)の市人と成った。
という話に由来して居ます。

    ◆洞ヶ峠

 又「洞ヶ峠(ほらがとうげ)を極め込む」(※1-3)という言い回しが有り、現在では
 「両方を比べ、有利な方に付こうとして形勢を観望する日和見主義
に使いますが、その語源は
 本能寺の変の後、山崎の合戦で筒井順慶の援軍を待ちわびていた明智光秀がこの洞ヶ峠に来て順慶の去就を問うたが、順慶は郡山城に籠もり協議して居る間に光秀は秀吉に敗れ、小栗栖(おぐるす)で農民に殺されて仕舞いました。この事実が後に順慶がここに陣して形勢を観望したと誤伝されて日和見主義(※1-1、※1-2)の譬え話に成った。順慶流(※1-4)とも二股膏薬(※1-5)とも二股武士(※1-6)とも言う。
です。
 順慶が二股者や日和見主義者の代名詞(※1-7)に成ったのもこの話に由来します。しかしこの話が全くの「濡れ衣」では無く、順慶は恩義の有る光秀 -光秀は自分を引き立てて呉れたばかりか光秀の子・十次郎を養子に貰い、更に光秀の娘を養子・定次(※6)の次妻にして居ました。定次の正室は織田信長の三女・秀子なので、この辺の人間関係は複雑です。- の要請にも拘わらず山崎の合戦では秀吉とも通じていたのは事実なので汚名も仕方無い所ではあります。しかし、順慶が”弱肉強食”の戦国の世を生き延びるにはこの方法しか無かったことも事実です。
 洞ヶ峠は京都府八幡市と大阪府枚方市との境に在る峠で天王山の南約7kmの地点で、現在はその裾を国道1号線が通って居ます。

    ◆筒井筒の茶碗

 順慶の生涯の項で既に触れた「筒井筒の茶碗」の話も伝わって居ます。元来戦よりも風流を好んだ順慶は、親戚筋の井戸氏から贈られた朝鮮李朝前期の井戸茶碗(※2)を大切に所蔵して居ましたが、山崎の合戦を制し晴れて天下人に成った秀吉のご機嫌を取るべくこの名器を献上し、秀吉から大和国を引き続き安堵されました。
 秀吉はこの名器を大事に所蔵して居ましたが、或る時近習が誤って落としこれを割って仕舞いました。この時、戦国の通人(つうじん)にして風流人・細川幽斎(※7)が機転を利かせ

  筒井筒 五つに割れし 井戸茶碗
    咎(とが)をば我に 負いにけらしな


と、『伊勢物語』第23段に在る「筒井つの井筒」の歌のパロディー歌(=狂歌)を詠み秀吉の機嫌を取り成した
、という話が伝わって居ます。秀吉が『伊勢物語』の歌迄解したとは私には思えませんので、単純に「その罪は私が負いまする」と戯(おど)けて歌った幽斎の仕草が面白かったのでしょう。これが「筒井筒の茶碗」で、口径約15cm高さ約8cmで赤膚色、5つに割れても貼り合わせれば現在国の重要文化財に指定されて居る逸品です。

 [ちょっと一言]方向指示(次) 『伊勢物語』第23段中の元歌「筒井つの井筒」は、田舎の男が幼い頃から井戸端で遊んで居た幼馴染みに恋を打ち明ける時の歌で

  筒井つの 井筒にかけし まろがたけ 過ぎにけらしな 妹(いも)見ざるまに

というものです。これには女の方から次の様な返歌が返されて居ます。

  くらべこし 振分髪も 肩すぎぬ 君ならずして 誰かあぐべき

 しかしこれでハッピーエンドには成らず、やがて男は河内の高安に別の女を作り通い出しますが、それを止めもせず化粧をして送り出す女に、他に男が居るのでは?、と嫉妬する”男心の細やかさ”(=”繊細で優雅”な「遊びの美学」が見事に描写されて居ます(△5のp24)。


 これで終わります。
    {この章は05年1月5日に追加}

 ■結び - 心の杉の葉

 こうして見て来ると筒井順慶とは中々面白味有る人物です。この筒井で生まれ戦乱の大波を何とか掻い潜り再び筒井に帰って来ました。その為他人からは何や彼やと言われましたが結果的には筒井の地を守り通すことが出来たのです。そして筒井町を廻って感じた事は、順慶は地元の人には今でも慕われて居るということでした。
 それでは最後に順慶の辞世の歌で締め括りましょう。

  根は枯れじ 筒井の水の 清ければ
    心の杉の 葉は浮かぶとも


 尚、[松永久秀と筒井順慶]シリーズの他画面への切り換えは最下行のページ・セレクタで行って下さい。(Please switch the page by page selector of the last-line.)

φ-- おしまい --ψ

【脚注】
※1:筒井順慶(つついじゅんけい)は、[1].戦国末期の武将(1549~1584)。大和生駒郡筒井城主。1571年(元亀2)松永久秀が織田信長に叛いた時、明智光秀と共に久秀を滅ぼし、郡山城に拠って大和全国を管した。本能寺の変の後、一時光秀に与したが、形勢の変化に態度を変え、82年(天正10)山崎の合戦では豊臣秀吉に通じた。
 [2].転じて、二心有る者、二股者(ふたまたもの)の俗称。→洞ヶ峠(ほらがとうげ)。順慶流二股膏薬
※1-1:日和見(ひよりみ)は、[1].天気模様を見ること。
 [2].事の成行きを見て有利な方に付こうと形勢を覗うこと。→洞ヶ峠(ほらがとうげ)。
※1-2:日和見主義(ひよりみしゅぎ)とは、形勢を覗って、自分の都合の良い方に付こうと二股を掛けること。政治運動や労働運動で用いられることが多い。
※1-3:洞ヶ峠(ほらがとうげ)とは、(京都府南部と大阪府枚方市との境に在る峠。天王山の南約7kmに在り、1582年(天正10)の山崎の戦に明智光秀がここに来て、筒井順慶の去就を問うた。この事実が、順慶がここに陣して形勢を観望したと誤伝されたことに因る)両方を比べ、有利な方に付こうとして形勢を観望すること。日和見。「―を極め込む」。
※1-4:順慶流(じゅんけいりゅう)は、(筒井順慶が山崎の戦に際し、明智光秀に味方すると見せ掛けて、実は豊臣秀吉に通じたということから)二心を抱いて去就を決しないこと。二股膏薬
※1-5:二股膏薬(ふたまたごうやく)/内股膏薬(うちまたごうやく)は、内股に貼った膏薬の様に、あちらに付いたりこちらに付いたりして、定見・節操の無い者。浄、松風村雨束帯鑑「どちらへもつく―」。
※1-6:二股武士(ふたまたぶし)とは、二股の態度の武士。二心を抱く武士。浄、一谷嫩軍記「源氏がたの―が頼みしにちがひはあるまい」。
※1-7:二股/二俣(ふたまた)は、[1].元が一つで、末の二つに分れたもの。白氏文集天永点「今年瑞麦両岐(ふたまた)に分れたり」。「―のソケット」。
 [2].あれに付きこれに従い、態度の一定しないこと。二股膏薬。甲陽軍鑑19「或いは―にて小身なる敵に勝ち」。
 [3].二つの事のどちらに成っても良い様に、同時に、両方に関わりを持つこと。「―を掛ける」。

※2:井戸茶碗(いどちゃわん)とは、朝鮮産の抹茶茶碗の一種。古来茶人に珍重され、最高のものとされる。名称の起源は地名説、将来者名説などが在る。井戸。

※3:江戸時代の順慶町は花街の新町(しんまち)の東隣に位置して居た為、「東は堺筋から西は新町橋まで、両側尺地(せきち)も無く」夜市が立って大変な賑わいだった、と『摂津名所図会』に書かれて居ます。
 又、同書に拠ると新町「諸方の花魁(おいらん)を一つ所にあつめ田圃を闢きて新たに町」としたのに因むと在り、大坂で唯一の公許の遊所(=公娼)として、京都の島原、江戸の吉原、長崎の丸山と並び江戸時代の4大遊郭の一つでした。

※4:天鈿女命/天宇受売命(あまのうずめのみこと)は、日本神話で、天岩屋戸の前で踊って天照大神を慰め、又、天孫降臨に随従して天の八衢(やちまた)に居た猿田彦神を和らげて道案内させたという女神。鈿女命。猿女君(さるめのきみ)の祖とする。
※4-1:天岩屋戸/天の岩屋戸(あまのいわやと)は、天の岩屋の戸。日本神話で天照大神素戔嗚尊の暴状を怒り天の岩屋に籠った為、天地が常闇(とこやみ)と成った。群神が相談して種々の物を飾り、天児屋根命が祝詞を奏し天鈿女命(あまのうずめのみこと)が舞った所、天照大神が出て来て、世が再び明るく成った。北半球で冬至に太陽の力が弱まり復活する型の神話。古事記上「是に天照大御神見畏みて、―を開きてさしこもり坐(ま)しき」。
※4-2:猿女/猨女(さるめ)とは、神祇官の職の一。大嘗祭/鎮魂祭などの神楽の舞などに奉仕した女。

※5:伊豆能売神(いづのめのかみ)は、黄泉の国から帰った伊弉諾尊が禊祓をした際に、その禍(まが)を直そうとして化生した三神の一柱。他の二柱は神直毗神・大直毗神。

※6:筒井定次(つついさだつぐ)は、織豊期の武将(1562~1615)。慈明寺順国の子で順慶の養子。1584(天正12)年に遺領を継ぐが、翌年伊賀国上野9万5千石に移封。関ヶ原の戦いでは家康に従ったが、1608(慶長13)年家臣に不行跡を提訴され改易。キリシタンで1615(元和1)年豊臣方への内通の嫌疑で死罪、一族は断絶。<出典:「日本史人物辞典」(山川出版社)>

※7:細川幽斎(ほそかわゆうさい)は、安土桃山時代の武将・歌人(1534~1610)。三淵晴員の子。本名、藤孝。忠興の父。剃髪して玄旨幽斎と号し、信長・秀吉・家康3代に仕えて重用された。三条西実枝(さねき)に古今伝授を受け、近世歌学の祖と称された。家集「衆妙集」。

    (以上、出典は主に広辞苑です)

【参考文献】
△1:『歴史と旅臨時増刊 日本城郭総覧』(鈴木亨編、秋田書店)。

△2:『上方風俗 大阪の名所図会を読む』(宗政五十緒編、東京堂出版)。

△3:『別冊歴史読本 日本「神社」総覧』(新人物往来社編・発行)。

△4:『ふるさと大和郡山 歴史事典』(大和郡山市文化財審議会編、大和郡山市発行)。

△5:『伊勢物語』(大津有一校注、岩波文庫)。

●関連リンク
補完ページ(Complementary):猿女氏の本拠の売太神社(賣太神社)▼
稗田阿礼と環濠集落(Hieda Are and circular moat, Yamato-Koriyama, Nara)
梅鉢紋の菅原氏の本貫・大和国添下郡菅原
2005年・空から大阪の古墳巡り(Flight tour of TUMULI, Osaka, 2005)
本能寺の変の前の明智光秀▼
2003年・京都禅寺探訪(Zen temple of Kyoto, 2003)
延喜式神名帳の式内社▼
2004年・出雲大神宮の御蔭山(Mikage-yama, Kyoto, 2004)
順慶の養子の筒井定次が移封された伊賀上野城▼
2003年・伊賀忍者村訪問記(Iga NINJA-village, Mie, 2003)
伊賀小泉氏館で馬鹿殿振りを発揮した筒井定次▼
竹林の美(The beauty of BAMBOO grove)
”繊細で優雅”な「遊びの美学」とは▼
在りし日の前衛倶楽部(Zen'ei Club of the past)


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