<海外と日本の写真集>
竹林の美
(The beauty of BAMBOO grove)

-- 2017.10.14 エルニーニョ深沢(ElNino Fukazawa)
2018.03.18 改訂

※注意:このページは写真が多く、読込みに時間が掛かります。
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 ■はじめに - 竹林/竹/笹/筍など

 今回は竹林(bamboo grove)(※1)がテーマでタイトルを「竹林の美」としました、「美」と言えるかについては自分でも甚だ疑問ですが。
 私は1990~2011年迄 -写真を撮ったのは2002年以降- は外国も含めて彼方此方を飛び回って居ましたが、竹林(※2)や(※2-1)に遭遇する事は「実は極めて希」なのです。ここに載せる為に今迄の写真を全てチェックしましたが竹林の写真はこれだけです。恐らく500枚に1枚位しか在りません。自分でもすっかり忘れていた写真が結構在りました。
 しかし日本には竹や笹が多く、特にの種類の多さには驚かされます。これらは【脚注】※2~※2-15を参照して下さい。






 日本では竹や笹は山地へ行けば在ります。私も1968~1975年位3000m級の山を可なり歩いて居ますので、道も無く延々と続く濃密な熊笹地帯(※2-15)を下山した経験も有ります。ですが登山では無い「普通の旅」の場合は熊笹の林を歩く事は有りません、精々が50m×200m位です。因みに今は熊笹と書きますが、江戸時代の芝居好きが縁辺が枯れて白変するのを隈(くま)に見たてて言ったので、原意は隈笹(くまざさ)と書くのが正しいのです。










 中国雲南省河口県の”物凄い辺境の地”竹林寨という小さな村が在りましたが、私の見る限り竹林は有りませんでした。

 ■日本の竹林

 (1)伊賀小泉氏館跡

 03年4月13日(日)は「日本古城友の会」(尾原隆男会長)の例会で伊賀小泉氏館跡三重県上野市依那具)に行きました。因みに私は「日本古城友の会」の”付録会員”です。何故かって?、私の会員番号は「ふ-6」(=フロク)だからです、アッハッハッハ!
 伊賀地方の地図は▼下▼からご覧下さい。
  地図-日本・伊賀と甲賀(Map of Iga and Kouga, Mie and Shiga -Japan-)

 竹林が現れました。左は城山城の土塁(※4-1)と竹林です。
 右は三の山の出口の熊笹の林(※2-15)です(△1)。
 この熊笹の林には既に道が付いていて遠くで「日本古城友の会」の人たちが先を歩いていて、我々は北の城へ移る途中でした。
 この日、我々は先ず昼食を小泉氏館跡(現:依名古神社)で取り、それから館跡の北に在る三主の城(=城山城と三の山・北の城・狭間城)を右回りに巡りました、それが上の写真だったのです。

 ですが私が小泉氏館跡の城巡りで最初に見付けたのは山之神(一般には山の神)(※10)でした(左の写真)、どうも私は”余所見癖”が有りまして...。山之神の下に「五穀豊穣交通安全 治山治水家内安全」と陰刻されて居ます。この山之神の事は既に2003年に「初歩的な神道の神々」というページに書いて居ます。山之神の周りにはが生えて居ます、三主の城跡は竹薮が多かったですね。
 「山の神」の民間信仰については【参考文献】△2のp488~490をご覧下さい。

        ◇◆◇◆◇

 小泉氏館跡は今は依名古(いなこ)神社に成っていて、近鉄伊賀線(伊賀上野駅~伊賀神戸駅)の猪田道駅から東南に歩いて直ぐの所に在ります。田圃の中に白い鳥居が見え長閑な雰囲気です(左下の写真(←左方には桜が咲いてます)、中央下は神社の扁額)。

 近くには「式内依名古神社舊跡」と陰刻された石碑も在りました(右の写真)。「式内」と在るのは平安前中期のデータベースである「延喜式」の神名帳(※11、※11-1)に名前が登録されて居たとは驚きです(△3のp426)。

    ++++ 「延喜式神名帳」とは ++++
 そもそも延喜式神名帳に名前が載るという事は、「その神社が官社として国家から特別な待遇を受ける」ことなのです。「延喜式」というのは、このデータベースが醍醐天皇の延喜の時代(901~923年)(※11-2) -実際には927年の撰進- に作られたという意味です。だから927年以前に登録される必要が有るのです。延喜式神名帳に登録されている神社2861社祭神3132座)で、それを式内社(※11-3)と呼びます(△3のp414~415)。そで無いものを式外社(※11-4)と呼びます。
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 従って依名古神社は由緒が古く尊いという事です。しかし石碑とは字が異なり神名帳には依那古神社伊賀国伊賀郡)で登録されて居ます。しかし創建の由来は不明。祭神は大稲輿命伊賀氏(→後出)の祖神と考えられます。ここの地名が依那具(いなぐ)、神名帳に登録された神社名が依那古(いなこ)なので土地の守護神を祀って居ると想像してましたが大体想像通りです。神社は当初はここでは無く高野川の流域に創建され和銅3(710)年に祭事を催して居ます。しかし貞順4(1687)年長田川の洪水で社殿が流されたので、この地に在った小泉の宮に合祀されました。この時、依那古神社は廃絶され当社は高野社と呼ばれました。明治に成って社名を現在の依名古神社に改め村社と成りましたが明治42(1909)年猪田神社に合祀され、依名古神社は再び廃された(←それ故「舊跡(旧跡)」と陰刻されている)のですが、地元住民はご覧の様に丁重に祀って居ます。それは何故か?

 そこで小泉氏の登場です。この地は1579~81年「天正伊賀の乱」で天下人・信長が伊賀の勢力を征伐し、天正12(1584)年には筒井定次(←順慶の養子)が伊賀上野城に入城しました。小泉氏は伊賀氏の豪族の一つで、ここに居を構え可なりの勢力でしたが信長の敵では無かったのです。伊賀氏は「伊賀国は垂仁天皇子孫の伊賀国造が支配したが、伊賀氏はこの後裔が多い。中世以降は秀郷流藤原公李5世朝光が伊賀守に任ぜられ、後裔の伊賀氏は鎌倉幕府内で重きをなした。族裔は奥州にも広まる。他流で平氏の侍大将伊賀家長は桓武平氏流といい常陸鹿島の地頭職はこの系。ほか濃尾・伊予・土佐など。」と在ります(△5のp291)。
 『伊水温故』に拠ると、小泉氏館には小泉太郎左衛門が居住し名剣を所持して居り、それを馬鹿殿・定次が所望しましたが太郎左衛門はこれを断った為に斬罪に成り、小泉氏は滅亡しました。ところが、その祟りが定次の息子たちの早死と成って顕れ、その霊を鎮める為に村人たちは小さな神社(=小泉の宮)を建てて祀ったのです。それが現在の依名古神社です(△1)。定次の時に筒井家は改易に成って居ますので、やはり定次は馬鹿殿です。
 この地は伊賀、伊賀と言えば忍者です。伊賀の人たちは「天正伊賀の乱」の事を決して忘れずに信長を嫌い、小泉氏の様な伊賀勢に同情を寄せて居ました。その信長が本能寺の変で死すと、家康が堺から三河へ逃げる際に伊賀忍者 -それの下部組織を無足人(※8、※8-1)と言う- が活躍し家康を逃したので、家康は後に天下人に成ると服部半蔵を頭領とした伊賀忍者を重用したのです。そういう律儀さが伊賀の人々には有ると思います、その律儀さが依名古神社を丁重に祀る原動力の様な気がします。
 尚、「本能寺の変」から逃れる家康と逃す伊賀の無足人については既により詳しく扱って居ますので、興味有る方は▼下▼をお読み下さい。
  2005年・伊勢鹿伏兎城(Ruins of Kabuto castle, Mie, 2005)

 「日本古城友の会」は3:30頃に猪田道駅で解散に成りましたので、私は天気も好いし桜の季節なので伊賀上野城に寄って帰る事にしました(→伊賀上野城の地図)。しかし近鉄伊賀線には依那古(いなこ) -猪田道駅から2つ伊賀神戸寄り- という駅が在り、この駅が気になって居たので先ず依那古駅に行き、その後で上野市駅の伊賀上野城に行き、又折り返して伊賀神戸経由の近鉄大阪線で帰阪しました。

 左が依那古駅(無人駅)に停車した2輌編成の「くノ一」の電車です。この写真に見覚え有りませんか。この写真は忍者好きのプーペット君のページで既に2003年に使いました!
 右上が伊賀上野城の桜とその下で花見酒を飲んでる人たちです。
 尚、近鉄伊賀線は2007年10月1日から伊勢鉄道伊賀線に経営が移管しました。左上の写真は03年ですので近鉄の伊賀線です。

 (2)高槻市の番山古墳

 03年10月4日(土)自転車(大阪ではチャリンコと言う)で高槻市の古墳を見たりしました。この付近には古墳が多く、宮内庁が固執する継体天皇陵古墳(=太田茶臼山古墳、大阪府茨木市太田)(△6のp108)や今城塚古墳大阪府高槻市郡家新町) -多くの学者はこちらが継体天皇陵であるとして居ます(△6のp27)- の前方後円墳が在るの始めとして、塚原古墳群(高槻市塚原)(△6のp197~198)や番山古墳(高槻市上土室)や、ちょっと高台の安威古墳群(茨木市安威)(△6のp3)などです。茨木市の地図は▼下▼をご覧下さい。
  地図-日本・淀川、桜之宮と大阪城(Map of Yodo-river, Sakuranomiya, and Osaka castle, Osaka -Japan-)

 左右が番山古墳の竹林です。この古墳は一見直径56m、高さ7mの円墳に見えるのですが嘗ては帆立貝式前方後円墳であったと推察出来るそうです。番山古墳の北側には埴輪を焼いた窯跡も見付かって居ます。
 その埴輪などから5世紀中頃に築かれたとされて居ます。古墳の手前は水田です。

 (3)茨木市の阿為神社の近くに竹林

 03年10月17日(金)は好天に恵まれたので、茨木市と高槻市を自転車で回りました。朝早く家を出て高槻駅を目指し、/玉川の里/高槻城公園/旧笹井家住宅/野見神社/富田の町並み(そばビールと蕎麦で昼飯)/総持寺/阿為神社と大念寺に寄って、安威川に沿って下り淀川右岸から摂津市と寝屋川市に架かっている鳥飼仁和寺大橋を渡り淀川左岸に入り、後は私の何時もの散歩コースです。実は「黄昏の淀川~大阪城」に載っていた鳥飼仁和寺大橋の写真はこの時に撮影したものだったのです!

 高槻市の富田町は中々落ち着いて造り酒屋 -國乃長(寿酒造)- などが在り良い感じでした。私は「貞寿庵」という古風な蕎麦屋(左の写真)に入り「ざる蕎麦」と店が宣伝している「そばビール」を頼みました(右の写真)。アルコール度数は2.9%で日本のビールより低く中国並みです。
 左が阿為神社大阪府茨木市安威3)の参道です。阿為神社は高台に在りますが、私は自転車を漕いで坂道を登って行きましたので非常に疲れました、アッハッハ!
 灯籠の後ろの石の標識には「式内郷社 阿為神社」と陰刻されて居ます。延喜式神名帳には摂津国嶋田郡で登録されて居ます。主祭神は天児屋根命(←藤原氏/中臣氏の祖神)で、社伝に拠れば藤原鎌足が創建した社だそうです。安威の地は鎌足と縁が深く阿為神社の西1kmの西安威には鎌足公古墳が在ります。
 そして、この阿為神社から帰る途中には竹林が1ヶ所だけ在りました(右の写真)。
 

 (4)山城鹿背山城

 04年4月11日(日)の「日本古城友の会」の例会で木津鹿背山城京都府木津市(←2000年代初頭の平成の大合併(住所は肥大化)の前は京都府相楽郡木津町でした))に行きました。京都市木津町の地図は▼下▼。
  地図-日本・京都府(Map of Kyoto prefecture, -Japan-)

 JR木津駅は大和地線/学研都市線/関西本線が乗り入れている駅ですが、駅前は閑散として何も有りません。タクシーも「御用の方は××××へ電話を」と書いた立て札が在るのみです。私も木津駅を乗り換えに利用した事は何度も有りますが、この駅で降りたのは今回が初めてでした。つまり車社会なのです。でも御霊神社/木津小学校の鹿背山分校/浄土宗の西念寺が有り人々の生活の匂いは感じられます。鹿背山分校には桜が咲いて居ました、今は花見の季節です。
 「日本古城友の会」も車社会に逆らって辺鄙な所をウロウロする”変な人たち”の集まりです。

 鹿背山城は木津太郎秀清文治4(1188)年頃 -鎌倉時代初期- に築城、文明2(1470)年10月に畠山義就に攻められ落城しました。その後、永禄8(1565)年~永禄11(1568)年に松永久秀が大和の北の守りとして出城(※4-3)を築いたとされて居ます(△1-1、△1-2)。
 我々は土塁の跡を登って行き、大抵は木の林なのですが一部はご覧の様に竹林を抜けて進みました(左下、中央下の写真)。

 

 そして右上が(※2-2)です。外に出ている部分が20cm位有り大きいですね。筍は食ったら旨い。
 大阪に居た時は2~4月頃筍をスーパーで売り出し、皮を剥いて適当な大きさに切り、鯛(タイ)や鰤(ブリ)と鍋料理にすると旨さ倍増です。肉とは合いません(と私は思います)。しかし沖縄では筍は売って居ません、加工して細かく刻んであるのは在りますが生(なま)の数の子は在りません。

 (5)和泉根福寺城

 05年3月13日(日)の「日本古城友の会」の例会で和泉根福寺城に行きました。南海本線の貝塚駅で水間鉄道に乗り換え終点の水間駅へ、そこから水間鉄道(株)が運行しているバスで蕎原行きに乗り秋山口という停留所で降りました、時刻は9:30頃です。
 他のお客さんは吃驚してましたね。何にも無い停留所で10数人位が降りるんですから、「何か有ったのけえ」。右が秋山口でバスを降りる我々。平川君の顔が見えます。「日本古城友の会」は斯様に人騒がせな会です!
 蕎原は「そぶら」と読みます。途中「新蕎原大橋」を渡って「根福寺城跡と殿の墓」という案内板の前へ来たのが10:10頃です。案内板には凡そ「松浦肥前守が野田山城として築城し、後に根福寺城と成った」事が書かれて居り、更に「共同墓地入口には「殿の墓」と呼ばれている五輪塔を浮き彫りにした墓碑が在る」そうですが、誰の墓かは不明。
 根福寺城の城郭は「秬谷(きびたに)川に沿って4kmばかり山手の秬谷・大川両集落の北側に、標高276mの東郭と283mの西郭をもつ山塊が、根福寺城跡である。」と書かれて居ます(△8のp616)。我々は西郭(※4-4)から巡りました。竹林が見えて来ました。

 左の石垣の間から竹が3本出て居ます(11:10頃)。建物の礎石の様なものも在りました。
 中央は東郭の鞍部(※4-5)です。右が尾原隆男会長の拡大です(13:30頃)。

 根福寺城大阪府貝塚市秬谷)は天文4(1535)年松浦肥前守野田山城として築城しました。肥前守は細川晴元などの将として名を上げましたが、晴元が三好長慶と対立すると長慶方と成り、その結果根来寺勢力と敵対する事と成りました。そこで根来寺は同10(1541)年に野田山城を攻め根福寺と改めました。しかし永禄元(1558)年に肥前守の子の松浦孫五郎が根来の出城(※4-3)と思われる蛇谷(じゃたに)城に拠って岸和田城主の十河一存と合戦を行っていて、肥前守親子は敵味方に分かれたのです、まぁ、それが戦国時代という事です。事実、永禄5(1562)年に一時三好勢が岸和田城を回復すると細川刑部大輔に代えて松浦肥前守を置いて居ます(△1-3)。右が和泉国古城図です(△8のp613より)。
 根来寺(※15)は大治元(1126)年 -平安後期- に高野山の覚鑁(かくばん)上人(※15-1)が岩出荘に建てた大伝法院(※15-2)が大元で、高野山金剛峰寺派の反対に遭い保延6(1140)年紀州根来に700人の弟子と共に移り住み新義真言宗の根本道場としました(△1-3)。特に戦国時代の根来衆(※15-3)の活躍は皆さん良くご存知の通りです。

 左下は東郭から抜け出て来た所で振り返ると見事な竹林でした(14:00頃)。

 我々はバスで水間駅に帰り、右下が水間鉄道の水間駅です(駅名部分の拡大が右、15:17頃)。駅は水間観音(水間寺)を模して在ります。

 水間鉄道は大正14(1925)年に開通しました。それ迄は水間街道と呼ばれ、紀州街道の貝塚から水間街道を通り根福寺を経て、途中山道を歩きますが、やがて粉河街道/根来街道/大熊街道、更には紀伊葛城街道や高野街道と合流出来ます(△1-3)。従って根来寺勢力は根福寺を重要視して居たのです。

 水間鉄道で貝塚市に戻り会としてはここで解散しました(15:43頃)。我々有志は貝塚市の尊光寺願泉寺(貝塚御坊)を見学しました(→後出)。根来寺と関係が深いのです。

    ◆貝塚という地名の謂れ

 ところで、貝塚駅近くに「従是 東西 海塚領」と陰刻された石柱(領界石) -この領界石は明治30(1897)年の建立- が在りました(右の写真)。私は「貝塚」だと思って居ましたが帰って地図で調べると「海塚」という町名が貝塚駅周辺に在りますが「貝塚」という町名は在りません。しかも「海塚」の読みは「うみづか」です。えぇ?、私は俄然興味が湧きました、これは竹林とも城とも関係有りませんが!
 先ず「貝塚」というと古代の貝塚遺跡を連想しますが貝塚市には貝塚遺跡は無いのです。
 そこで『日本地名ルーツ辞典』で調べると、「『高野山文書』の永享3年(1431)「近木庄高野御段銭田数散用状」に「海塚」とみえるのが文献上の初見である。当初は、海塚・貝塚と書かれていたが、江戸時代中期以降は貝塚寺内海塚村という使い分けがなされていた。」と在ります。ここで「貝塚寺内」と在るのは貝塚御坊と言われた願泉寺です。更に「天文14年(1545)に一向宗の道場を卜半斎(ぼくはんさい)が建立、天文末年には寺内町(※15-4)へと発展した。天正11年(1583)には紀州鷺森にいた顕如を天正13年8月まで迎えた。」と在ります(△12のp576)。少し補うと、卜半斎(=了珍)は根来寺から来て居り、当然根来寺勢力の出先として岸和田城と対峙します。一向宗とは浄土真宗(親鸞が開祖)の事です。
 貝塚市は願泉寺(貝塚御坊)の寺内町として発展して来た事が解りました。それには覚鑁(※15-1)が真言宗の中に浄土真宗を採り込み真言宗新義派を開いた事、そして覚鑁の教えを守っていた根来寺の勢力が背後に在ったのです。
 しかし秀吉の時代(天正10(1582)年以降)に成ると、卜半斎も秀吉と協調せねばならなく成り、同13(1585)年3月23日に秀吉は根来寺を一気に攻め焼き払いました(△1-3)。斯くて根来寺の時代は終わったのです。

 ここで「貝塚」に絡んで私の思い出を話しましょう。貝塚市というと「東洋の魔女」と呼ばれた日紡貝塚(現:ユニチカ)の女子バレーボールが強かったですね、東京オリンピック(1964年)の時です。私はその頃は高校生でしかも横浜に住んでましたから関西の事は皆目判らずに、只「貝塚」という地名は日紡貝塚という社名でインプットされました。

                (-_*)

 最後は貝塚市の寺内町を歩きました。梅の花が左の写真の様に咲いて居ました(15:55頃)。
 しかし、この日は寒く貝塚市は時偶がちらついて居ました。右は尊光寺の鐘楼ですが、写真で雪が解りますかね。右の上から左の下の方向に雪が降って居ます(16:02頃)。

 この後16:15頃迄願泉寺を見学し16:30頃の南海電車の急行で大阪に帰りました。ところで水間鉄道(南海電鉄系)は南海本線とは連絡が良いですが、JRとは交差してますが駅が無く800m位歩かねば為りません、念の為。

 ()伊雑宮の御田植神事

 06年6月24日(土)

 三重県志摩市磯部町上之郷374(←平成の大合併(住所は肥大化)の前は志摩郡


近鉄志摩線の上之郷駅











 (4)出雲富田城

 06年7月9日(日)の「日本古城友の会」の例会で出雲富田城・松江城に行きましたが、そこ内の出雲富田城で竹林を見付けました。この日は朝から雨が降って居ました。










 (5)四国の忌部山古墳

 07年1月12日(金)は私独自で四国の忌部山古墳の山道で竹林を見付けました。







 右の小さな祠については島根県の奥出雲地方で見つけた「笹の宮」の所(→後出)で論じます。



 (6)近江佐和山城

 07年4月8日(日)は「日本古城友の会」の例会で近江佐和山城に行きました。















 (7)大和郡山の環濠集落

 07年10月28日(日)は「関西城郭研究会」(略称:関城研)の例会に参加し環濠集落を見て歩いて居ましたが、私の”余所見癖”から竹林を見付けました。普通は見付けても写真は撮りませんが私は撮るのです。御蔭でこうして竹林の特集をする時に”余所見癖”が役に立つのです。尤も、役に立つから”余所見”をしている訳では有りませんゾ。

    ◆私と「関西城郭研究会」の関係

 ところで、私は「関城研」の会員では有りませんが2007年頃から時々例会に参加して居ます。切っ掛けは「関城研」の河合さんと「高句麗族の山城遺跡や壁画古墳を見る旅」 -中国の集安(←ここには壁画古墳が在る)や遼寧省桓仁県(←ここには五女山城が在る)- に行った事です。良く朝鮮式山城などと言いますが、その朝鮮式山城のルーツと目される高句麗族の山城を見た事は非常に大きな収穫です。それと「関城研」と行った鬼ノ城はとても印象的でした、これは▼下▼に纏めて在ります。
  備中鬼ノ城と温羅伝説(The GOD'S ROCK Kinojo and Ura legend, Okayama)

 高句麗の山城遺跡もこの様に纏められたら良いなぁと思って居るのですが、こちらは非常に難しく中々筆が取れません。

                (>_<)






大和郡山市番条町と書いて在りました





 (8)伊勢鳥羽城・田城

 09年11月8日(日)の「日本古城友の会」の例会で伊勢鳥羽城・田城に行き、これも私の”余所見癖”から近鉄山田線の電車が走っているのを見付け写真を撮ったのですが、その写真に偶然にも竹林が写って居たという訳です。「日本古城友の会」のバス旅行では何時も大阪の森之宮神社(正式名:鵲森宮)の前からバスに乗るのですが、バスで来たので自分が何処に居るのか今一感覚的に掴めないので近鉄電車の写真を撮っておけば後から判り易いかも知れないと思ったのです。因みに、鵲森宮の宮司とは1980年代の半ばから懇意にして居ます、もう30年以上の付き合いです。
 8:00の出発で伊勢鳥羽城に着いたのが11:22ですからバスで約3時間20分掛かります。

 右が竹林の情景(竹林は電車の左上方)で、撮影場所は伊勢田城の近くの九鬼神社の近くで道路標識に「九鬼岩倉神社前」と出て居ました(撮影時刻:14:18)。電車は2輌編成で小さな川を渡って居ます。

 その後バスで移動し14:41から磯部神社志摩市磯部町恵利原1270)を見学して15:00に帰りました。大阪に着くのは18:30頃に成ります。私は磯部神社には2006年伊勢神宮関連で来て居ます。

 (9)酬恩庵(一休寺)と松花堂

 2011年3月6日(日)は「関西歴史散歩の会」(会長:下村治男)の例会で酬恩庵(俗称:一休寺)と松花堂に行きました。一応私も「関西歴史散歩の会」に参加して居ました、沖縄に来る前は。この会は毎月第1日曜日の歴史散歩の例会に勝手に参加して次回の場所と集合時間をそこで知る、という遣り方なので入会/退会の手続きは不要で会員番号も有りません。

 酬恩庵(俗称:一休寺、住所:京都府京田辺市薪里ノ内102)は臨済宗の大応国師(1235~1309年)が禅道場として開いた妙勝寺が前身で、康生2(1456)年に一休禅師が荒廃しているのを再興し「恩に酬いる」意味で酬恩庵と名付けました。一休禅師は応仁の乱(1467~77年)の間は酬恩庵に身を潜め、又墓も在る為に後年一休寺と呼ばれる様に成りました。
 一休寺(※18)の茶室の傍に竹林が在りました(左右の写真)。特に右の橙色をした竹は「金明孟宗竹」と言うそうです(案内板より、後で再び登場)。奥に見える庵が茶室「竹隠」です。
 ここは金春禅竹(※20、世阿弥の娘婿)がこの付近で一休禅師に猿楽の能を披露したと伝えられ、薪(たきぎ)の能を始めた所だそうです。それ故に住所が薪里ノ内に成って居るのです。

 慈揚塔は一休禅師の廟堂ですが、後小松天皇の落胤と伝えられて居るので宮内庁が管理して一般人は墓参りなど出来ません。慈揚塔を取り囲む壁の前には

    後小松天皇皇子
       宗純王墓
    一、みだりに域内に立ち入らぬこと
    一、魚鳥等を取らぬこと
    一、竹木等を切らぬこと
          宮内庁


と注意事項を「一つ書き」(※22)に書いた立て札が在ります。しかし門扉の「すかし菊紋」の覗き窓 -16の菊の花弁形に透かし彫りされて居る- からは枯山水(※24)に手入れされた廟堂が見えましたので、「すかし菊紋」の覗き窓からデジカメのレンズを入れて撮りました(右の写真)。
 一休寺納豆を御土産に買いました。

 午後からは京都府八幡市八幡松花堂(※25~※25-2)に来ました。ここは元松花堂公園だった所に2002年4月5日美術館吉兆松花堂(←松花堂弁当(※25-3)を売り出す)や庭園を新装オープンさせました。会の決まりでは庭園の見学だけですが有志の人は松花堂で食べて帰っても良く、私も一番安い1500円の松花堂弁当を食って帰りました。

 ところで吉兆松花堂は高級料亭『吉兆』が経営しているのですが、2008年5月28日のインターネットニュースでは、大阪船場の吉兆の湯木佐知子社長は「...<前略>...食品の安全・安心に対する信頼を裏切ったことを心よりお詫び申し上げます。...<中略>...これ以上の営業継続は困難と判断し、断腸の思いで廃業致します。」と用意した文章を涙声で読み上げ、船場吉兆を廃業しました。要するに船場吉兆は「食材の使い回し」がバレたという訳で、バレなければもっと続けていた訳です。
 「食の偽装」2002年雪印食品の輸入牛肉を国産牛と偽装した事件を発端に、同年丸紅畜産の鶏肉産地偽装事件などが続き、不況の最中(さなか)の2008年には彼方此方で「食の偽装」が発覚し、名古屋の納屋橋饅頭、伊勢の赤福などがそれに続きました、いやはや!

              ◇◆◇◆◇

 一休寺と松花堂に来た2011年3月6日と言うと、3.11(東北地方太平洋沖地震/東日本大震災)の5日前だったのですねぇ!!

 (10)島根県仁多郡奥出雲町稲原の「笹の宮」

 2011年4月1日(金)(←3.11の約20日後)に私は島根県の奥出雲地方を一人旅しました。




「笹の宮」

「笹の宮/地名 稲田竹が花」



 稲田神社の「笹の宮」と奇稲田姫伝説については▼下▼に
  日本、珍にして奇なる光景#2(The RARE and STRANGE scene 2, Japan)

概略を記して在ります。


又、胞衣塚については▼下▼を
  比売許曽神社と胞衣塚(Himekoso shrine and afterbirth mound, Osaka)

ご覧下さい。






 ここで07年1月12日(金)四国の忌部山古墳に行った帰りの見付けた「何かを祀っている様に見える竹林」を採り上げましょう。











































 ■嵯峨野の竹林

 嵯峨野の地図は▼下▼を参照して下さい。
  地図-日本・京都市洛西(Map of West of Kyoto city, Kyoto -Japan-)

 嵯峨野京都市右京区嵯峨)(※50)は本当に竹林という感じがします。そこで2010年7月20日(火)に撮影した嵯峨野の竹林の写真を載せましょう。但し、この写真は京都の友人が撮ったもので私が写真を懇願したらメールで送ってくれました。有難う、竹さん(←仮にそう呼びます)。因みに、この日は私は例に依って”トンボ撮集”をしてました、アッハッハ!!
 私も嵯峨野の竹林は1980年代初頭と94年頃に2度歩いてますが、その時は写真を撮って無かったのです。2000年以降は嵯峨野観光会社のトロッコ列車に乗ったり嵐山や渡月橋を歩いたり天竜寺へ行ったりと、嵯峨野の近くへは数回行ってますが竹林は歩いて居ません。観光客が多いし、2度も行ってるからもう行かなくても良いんじゃないの、という感じでしたね。しかし、こうして竹林の写真集を作る為には、やっぱり嵯峨野は欠かせません。右が竹さんが撮った嵯峨野の竹林です。
 7月の明るい日差しに竹林も伸びやかで画像を少し明るめに処理しました。嵯峨野の竹林は美しい、正に「竹林の美」を感じます!!

 『枕草子』の169段にも

  野は、嵯峨野さらなり。印南野。交野。...

と書かれて居ます(△15のp224)。私は印南野にも交野にも思い出が在ります。






    ◆嵯峨野の思い出

 80年代に来た時は大河内山荘 -大河内伝次郎(※50-1)の別荘跡- に寄り赤い縁台で抹茶を飲んだ事を思い出します。子供の頃、映画の丹下左膳を見ましたよ。大河内伝次郎は独特の喋り方をするので寄席の芸人によく声帯模写をされて居て、私は芸人の声帯模写も聞いて笑って居ました。でも大河内伝次郎という人は凄い、そして偉い!

                (*_@)

 大河内山荘の西北の背後には小倉山(※50-2)が控え、小倉山は藤原定家小倉山荘(別名:時雨亭)(※50-3)を営なみ『小倉百人一首』を編んだ定家所縁の地です。因みに、『小倉百人一首』の第97番が定家の歌ですので、ここで紹介しましょう。

 『小倉百人一首』第97番歌:権中納言定家(藤原定家) <新勅撰集-恋三>

  来ぬ人を 松帆の浦の 夕なぎに 焼くや藻塩の 身もこがれつつ

 因みに、私は沖縄に来るので2013年3月で退会しましたが、2002年の秋から「冷泉家時雨亭文庫」の正会員(会員番号:正2286)でした。藤原俊成・定家・為家と3代続けて歌人が生まれ、為家と側室・阿仏尼(←『十六夜日記』の作者)との間の子・為相(ためすけ)が冷泉家を興すのです。だから冷泉家は定家の血を引いている訳です。冷泉家は同志社大学の隣に在ります。

 05年10月2日(日)には「関西歴史散歩の会」の例会で嵯峨野の野宮神社に来て居ます。この日の講師は葛野大堰秦氏の話もされました。
 あぁ、嵯峨野は色々な事が思い出されます!

 ■桂林の竹林

 中国の桂林は何と言っても漓江下りが有名です。私は02年10月30日(水)漓江下りをしました。02年秋桂林地方の旅の全体の旅程「2002年・”脱雲南”桃源紀行」を参照して下さい。

 先ずは桂林の風景を見て下さい(右の写真)。独特の桂林の奇岩カルスト地形と言い、要するに奇岩は石灰岩なのです。この日は曇っていて時々小雨がパラついたりして居ましたが、流石は中国の大観光地、ご覧の様に川下りの遊覧船がわんさか列を成して進みます。この遊覧船目当てに小舟で食べ物を売ったりもして居ます。外国人も欧米系、ブラジルとかの南米系、アジア系、韓国や中国系、と有らゆる人種が居ます。

 私らは中国人に成り済まし中国人用遊覧船に乗りました、だから日本語に拠る説明は無し、全て中国語です。どうせ日本語の説明も大して聞きませんから。しかし中国人料金なので外国人の1/3位の運賃で済みます、オッホッホ!
 左の様に漓江が注いでいる所が数箇所在りました。


 桂林の竹林はちょっと変わっていて普通の緑色をした竹林の中に、一際大きな橙色をした竹が数本在るのです(左右の写真、中央は左の拡大)。橙色をした竹は節の部分は黒色をして居ます。
 「桂林の竹林」の第1報は「2002年・桂林の漓江下り」で行って居ます。
 

 ■那覇市の竹林





「粂村竹籬(くめむらちくり)」と在ります。






 ■結び






-- 完 --

【脚注】
※1:竹林(ちくりん、bamboo grove)は、竹の林。竹藪。
※1-1:竹藪/竹薮(たけやぶ/たかやぶ、bamboo grove)は、竹林(たけばやし)。竹の林。
※1-2:竹林山水(ちくりんさんすい)は、竹林を主とした山水画。
※1-3:竹林精舎(ちくりんしょうじゃ)とは、中インドのマガダ国の王舎城の北方に在った僧院。迦蘭陀(カランダ)長者が土地を、頻婆娑羅(ビンバシャラ)王が建物を、釈尊に献じた。仏教最初の僧院。祇園精舎と共に二大精舎と言う。
※1-4:竹林七賢(ちくりんのしちけん)とは、中国の西晋代3世紀末に、世塵を避けて竹林に会し清談を事としたと言われる隠士。阮籍(げんせき)/嵆康(けいこう)/山濤(さんとう)/向秀(しょうしゅう)/劉伶(りゅうれい)/阮咸(げんかん)/王戎(おうじゅう)の称。その自由奔放な言動は『世説新語』に記されて居る。
※1-5:清談(せいだん)とは、[1].魏晋時代に盛行した談論。後漢の党錮の禍に高節の士が多く横死して以来、知識人らが儒学の礼教に反し、老荘の空理を談じ、琴を弾じ酒に耽り、放逸を事とした風俗を指す。竹林の七賢はその代表。
 [2].浮世を離れ、名利を超越した、高尚な談話。袋草紙「中院右府入道許に参り、―の次で」。
※1-6:竹林七妍(ちくりんのしちけん)とは、竹林七賢に擬して、竹林に七人の美人を描いた見立絵で、浮世絵に多い。勝川春章が描いたのが起りで、七妍とは、武家女房/町家女房/娘/妾/遊女/芸妓/踊子である。
※1-7:妍(けん)とは、美しいこと。生(なま)めかしく、艶やかなこと。「―を競う」「妍艶・妍姿」。



※2:竹(たけ/たか、bamboo)は、(「たか」は「たけ」の古形)[1].イネ科タケ亜科多年生常緑木本の総称タケ群ササ群に大別。ササとの区別は明確でないが、タケ類で比較的大型で、タケノコ(筍)の皮が成長後脱落するものタケ(竹)と呼ぶ。独立のタケ科とする場合も在る。茎は木質化、隆起したが有り、地上茎地下茎に分れる。地上茎は直立叢生、多くは中空で、地下茎は節部から根及び(たけのこ)を生ずる。葉は狭長扁平で先端が尖り、短柄。花は長い間隔を置いて周期的に稲穂状の黄緑花を付けるが、開花後は多く枯死。熱帯から温帯に掛けて広く分布し、特にモンスーン地帯に多い。東南アジアを中心に、世界に約40属6百種、日本では凡そ12属150種を産する。タケ群はマダケウンモンチクホウライチクモウソウチクホテイチクトウチク/ナリヒラダケ/クロチク/オカメザサなどの各属を含む。建築器具製作細工物竿などに重用し、は食用松竹梅などと言われ縁起が良い物とされる。万葉集5「わが園の―の林に鶯鳴くも」。→笹(ささ)。<出典:一部「学研新世紀ビジュアル百科辞典」より>
 [2].竹製の管楽器である尺八の俗称。
 [3].紋所の名。竹の茎に多少の葉を取り合せて「竹の丸」、雀をあしらって「竹に雀」などとする。
 [4].(女房詞)たけのこ(筍)。
※2-1:笹/篠/小竹(ささ、bamboo grass)は、(「ささ」は小さい意)[1].イネ科常緑多年生植物。広義にはタケ類で形の小さく、皮の落ちないものの便宜的な総称。地上茎は数年間枯れない。タケとの違いは、成長完了後迄タケノコの皮(葉鞘(ようしょう))が落ちないこと、茎が太く成らないこと、葉が比較的大きくて幅が広いことなどである。花が咲けば普通枯死。東アジアに分布し、特に日本には多く600種以上とも言われ、山地に群生。チマキザサ/ミヤコザサ/クマザサなどのササ属の他、通俗的にはオカメザサ/アズマネザサなども含む。葉茎を細工物/垣などにし、又、観賞用。は食用。万葉集2「―の葉はみ山もさやに乱るとも」。→竹
 [2].紋所の名。笹の葉・枝を取り合わせて描いたもの。仙台笹/上杉笹/鳥居笹/山口笹/雪持笹/三枚笹/九枚笹など。
※2-2:筍/竹の子/笋(たけのこ、bamboo shoot [sprout])は、[1].竹の地下茎から出る若芽。鱗片状の皮で包まれている。煮て食用にする。たかんな(筍)。季語は夏。
 [2].筍医者の略。
※2-3:松竹梅(しょうちくばい、pine, bamboo and Japanese apricot)は、この場合、。三つとも寒に堪えるので、中国では歳寒の三友と呼んで画の題材とされた。日本では、目出度いものとして慶事に用いる。
※2-4:真竹(まだけ/またけ)は、竹の一種。最も普通の竹で関東以南の各地に、竹藪を作る。地下に太い根茎が走る。高さ約15m、径10cm。各節には2輪の環状隆起が有る。時に枝端に花を付けるが、その後に枯れる。茎、及び竹の皮は有用、は食用。呉竹(くれたけ)。苦竹(にがたけ/くちく)。〈日葡〉。
※2-5:呉竹(くれたけ)は、[1].(呉(くれ)から渡来した竹の意) 淡竹(はちく)の異称。徒然草「―は葉ほそく、河竹は葉ひろし」
 [2].真竹(まだけ)の異称。
※2-6:雲紋竹(うんもんちく)は、ハチク(淡竹)の一種。茎の表面に雲紋状の暗褐色斑紋の有る竹。工芸用
※2-7:淡竹(はちく)は、中国原産の竹の一種。日本各地に栽培。高さ10mに成る。稈(かん)は淡緑色白蝋粉に覆われ、節は2輪状。竹の皮は紫色。は食用、材は硬靱/緻密で諸器具を作る。クレタケ(呉竹)。カラタケ(幹竹)。ウンモンチクやクロチクなど。〈日葡〉。
※2-8:稈(かん)とは、竹/稲などのイネ科植物の中空な茎。「麦稈」。
※2-9:蓬莱竹(ほうらいちく)は、竹の一種。中国原産。高さ5m。節から多数の枝を出し、葉は互生叢状。観賞用として庭園に植える。
※2-10:孟宗竹(もうそうちく)は、竹の一種。日本で最も大形高さ20m余直径10cm余に成る。茎は中空で外皮は白蝋質、黄緑色を帯び、葉は長さ約5cm、披針形。7~10月頃稀に円錐花序を出す。竹の皮は褐紫色の斑点を密に付ける。は食用、材は器具用。元、中国江南地方から渡来、本州以南の各地で植栽。〈黒本本節用集〉。
※2-11:布袋竹(ほていちく)は、マダケ(真竹)の変種。稈(かん)の下部は節間が短く、膨れ出して奇形を呈する。上部は節の直下が少し膨れる。観賞用に栽植。稈は釣竿に用いる。五三竹(ごさんちく)。人面竹。
※2-12:唐竹(とうちく)は、タケの一種。高さ4m、径4cm程の小竹で、節は2輪状で著しく隆起。葉は鋭く尖り、裏に細毛が有る。中国原産観賞用に栽植。
※2-13:漢竹/唐竹(からたけ)は、中国渡来の竹などを作った。寒竹(かんちく)。新撰六帖6「―の笛にまくてふかばざくら春面白く風ぞふくなる」。
※2-14:阿亀笹/お亀笹(おかめざさ)は、[1].イネ科タケ類の植物。丈低く叢生、1節から5本の側枝を出す。庭園に普通。東京吉原の鷲神社の酉の市で、この竹竿にお亀の面を下げるのでこの名を得たと言う。五枚笹。豊後笹。
 [2].紋所の名。5枚の笹の葉を描いたもの。
※2-15:隈笹/熊笹(くまざさ)は、ササの一種。山林中に自生し、観賞用に広く栽培。高さ約1m。幹は細くて強靱。新葉は緑色だが、秋、縁辺が枯れて白変するのを隈(くま)に見たてて言う。葉は料理/菓子の装飾用


※3:「竹を割った様」とは、(竹が真っ直ぐにすぱっと割れるところから)さっぱりとした性質の譬え。邪悪な心や曲ったところの無い気性を言う。
※3-1:「竹に雀」とは、[1].(図柄として、良い取合せとされる事から)1対の良い組合せ。
 [2].紋所の名。笹竹の円の中で雀の向き合ったもの。勧修寺家/上杉家(上杉笹)/伊達家などの紋所。
※3-2:「竹植うる日」とは、旧暦5月13日の称。竹を植えるのに最も良い日とする。竹酔日(ちくすいじつ)。竹迷日。季語は夏。笈日記「降らずとも―は蓑と笠」。
※3-3:竹馬の友(ちくばのとも)は、[晋書殷浩伝](桓温が不仲の殷浩と並び称されることを不満に思い、幼時には殷浩は自分の捨てた竹馬で遊んでいたと、自分の優位を吹聴した故事から転じて)共に竹馬に乗って遊んだ幼い時の友。幼友達。



※4:山城(やまじろ/さんじょう、mountain-castle)とは、通常独立した山頂に築かれ山頂の平坦部に段状に曲輪の配置が為されて居る城を言う。日本では、古代に北九州の大野城、近畿の高安城などが最初。これらは古代朝鮮の築城法の影響を受けて居るとされ、古代山城(又は朝鮮式山城)と言う。以後これに倣い中世~戦国に掛けて自然の要塞としての地形を利用した山城が多数造られ、中世山城と言う。中世城郭には山城が多く、戦闘専用の砦(=詰の城)としての性格が強く、居住用には「根小屋」と言われる館を山麓に構える場合が多い。
※4-1:土塁(どるい)は、土を盛り上げて築いた、小さな砦(とりで)。
※4-2:虎口(こぐち)とは、城の内外、曲輪間の出入口のことで、小さく出入口を築く「小口」から来ている。
※4-3:出城(でじろ)とは、本城の周辺に築いた城。〈日葡〉。←→根城。
※4-4:曲輪/郭/廓(くるわ)とは、一定の区域の周囲に築いた土や石の囲い。
※4-5:鞍部(あんぶ)は、山の稜線の窪んだ所。撓(たお/たおり)。



※xx-5:主郭(しゅかく)/本丸(ほんまる)とは、一城内に於いて中心を成す曲輪。
※xx-3:縄張(なわばり)とは、城を築く場所を選定(=地取り、選地)した所に、機能・目的に応じて設計し曲輪や虎口の配置を決めること。配置工事する際に縄打ちすることから縄張と言う。






※8:無足(むそく)とは、この場合、(知行の料足の無い意)鎌倉・室町時代、武士が所領を持たないこと。又、その武士。無禄(むろく)。
※8-1:無足人(むそくにん)とは、[1].無足の状態に在る人。
 [2].無足と同じ。又、田地を持たない農民。



※10:山の神(やまのかみ、mountain god)は、この場合、山を守り、山を司る神。又、山の精。民間信仰では、秋の収穫後は近くの山に居り、春に成ると下って田の神と成ると言う。法華経(竜光院本)平安後期点「魑(やまのかみ)魅(さわのかみ)」。今昔物語集27「さやうならむ歌などをば深き山中などにては詠ふべからず。―の此れを聞きてめづる程に留むるなり」。


※11:延喜式(えんぎしき)とは、弘仁式・貞観式の後を承けて編修された律令の施行細則。平安初期の禁中の年中儀式や制度などの事を漢文で記す。50巻。905年(延喜5)藤原時平・紀長谷雄・三善清行らが勅を受け、時平の没後、忠平が業を継ぎ、927年(延長5)撰進。967年(康保4)施行。
※11-1:神名帳(しんめいちょう/じんみょうちょう)とは、神祇の名称を記した帳簿。特に延喜式巻9・巻10の神名式を言い、毎年祈年祭(としごいのまつり)の幣帛に与る宮中・京中・五畿七道の神社3132座を国郡別に登載する。この延喜式神名帳に登載された神社を式内社、それ以外を式外社と言う。
※11-2:延喜(えんぎ)とは、平安前中期、醍醐天皇朝の年号(901.7.15~923.4.11)。辛酉革命などに由る改元。
※11-3:式内(しきない)とは、延喜式の神名帳に記載されている神社式内社。式社。←→式外(しきげ)。
※11-4:式外(しきげ)とは、延喜式の神名帳に記載されていない神社。石清水八幡宮など。「―の社」←→式内。





※12:メンマ(麺碼)は、(中国語)中国産の麻竹(まちく)の筍(たけのこ)を細かく刻んで発酵させ、乾燥、又は塩漬にした食品。中華蕎麦(ラーメン)の具などに用いる。支那竹。乾筍(カンスーン)。
※12-1:支那竹(しなちく)は、メンマに同じ。
※12-2:麻竹(まちく)は、熱帯産の竹の一種。巨大で高さ約20m、直径約30cm、節間約60cm。地下茎は余り伸びず、固まって生える。肉厚く、外面は緑色、節毎に多数の枝を生じ、葉も密生。茎で筏(いかだ)椅子などを造る。大麻竹。ラーメンに入れるメンマ(麺碼)は、これの筍から作る








※15: 根来寺(ねごろじ/ねごろでら)は、和歌山県那賀郡岩出町に在る新義真言宗の総本山。正しくは大伝法院1130年(大治5)覚鑁(かくばん)が高野山に創建。山内衆徒の反発から1288年(正応1)頼瑜が現在地に移し、新義派を主張して独立。織田信長/豊臣秀吉に抵抗して1585年(天正13)焼討されたが、慶長(1596~1615)年間浅野氏に依り再興
※15-1:覚鑁(かくばん)は、平安後期、真言宗新義派の開祖伝法院流の祖(1095~1143)。肥前の人。仁和寺の寛助や三井寺の覚猷らに東密・台密を学び、高野山に登る。鳥羽上皇の帰依を受けて長承元(1132)年大伝法院を開き、金剛峯寺の座主を兼ね、初めて真言密教に浄土教を採り込んだ。が、1山(=高野山金剛峰寺派)の反対に遭い、保延6(1140)年紀州根来(ねごろ)に移った。著「五輪九字明秘密釈」など。諡号は興教大師。<出典:一部「日本史人物辞典」(山川出版社)より>
※15-2:大伝法院(だいでんぼういん)とは、根来寺(ねごろじ)の正称。
※15-3:根来衆(ねごろしゅう)とは、根来寺の僧兵を中心とする軍事集団。南北朝時代以後、特に戦国時代に強勢。卓越した鉄砲隊を以て知られたが、1585年(天正13)豊臣秀吉により討伐された。根来法師。
※15-4:寺内町(じないちょう/じないまち)は、中世後期、真宗寺院などを中心にして堀などで防御した町。




※18:一休(いっきゅう)は、室町中期の臨済宗の僧(1394~1481)。諱(いみな)は宗純、号は狂雲一休は字(あざな)。後小松天皇の落胤と言われる。京都大徳寺の住持。狂詩に巧みで書画を良くする。禅院の腐敗に抗し、奇行が多かった詩集「狂雲集」一休諸国咄頓知咄などに伝説化され、小説/戯曲に描かれる。


※20:金春禅竹(こんぱるぜんちく)は、室町中期の能役者・能作者(1405 ~1470)。金春座中興の祖。金春流57世。通称、七郎。名は氏信。禅竹は法名。世阿弥の女婿。歌道と仏教との造詣を以て「六輪一露」などの哲理的能楽論を書き、又「定家」「芭蕉」「玉葛」「楊貴妃」などの能を作る。


※22:一つ書き(ひとつがき)とは、箇条を分けて書く文書で、各項目毎に「一(ひとつ)、何々」として書き分けること。又、その文書。書立(かきたて)。一打(いちうち)。


※24:枯山水(かれさんすい/かれせんずい)は、水を用いず、唯地形に依って山水を表す庭。石組を主とし、水を表すのに砂礫(されき)を用いる事が在る。室町時代に輸入した宋・明の山水画の影響に拠る。大徳寺塔頭大仙院竜安寺の庭の類。涸山水(こせんすい)。

※25:松花堂(しょうかどう)とは、松花堂昭乗が晩年営んだ草庵の名。又、昭乗の号。その書道の流名の略称や器の名としても用いる。
※25-1:松花堂昭乗(しょうかどうしょうじょう)は、江戸初期の学僧/書画家(1584~1639)。俗姓は中沼、名は式部。別号は惺惺翁/滝本坊。堺の生れ。男山八幡の社僧。阿闍梨法印。書は御家流、次いで空海の法を修め、寛永の三筆の一人。書風を滝本流(式部流/松花堂流)と言う。又、水墨画や彩色画に長じ、和歌/茶道を嗜み、晩年、男山に茶室松花堂を建てて幽栖。
※25-2:寛永の三筆(かんえいのさんぴつ)とは、近衛信尹(のぶただ)(三藐(さんみゃく)院)/本阿弥光悦/松花堂昭乗。
※25-3:松花堂弁当(しょうかどうべんとう)は、十文字の仕切りをした方形の縁高(ふちだか)に、料理を盛り込んだ弁当。松花堂昭乗がこの器を用いたと言う。略式の会席料理/懐石に使用。





※27:胞衣(えな/ほうい/ほうえ)とは、胎児を包んだ卵膜と胎盤。徒然草「御―とどこほる時の」。→後産(あとざん)。
※27-1:後産(あとざん/のちざん/こうざん、afterbirth)とは、胎児の娩出(べんしゅつ)の後、分娩の第3期に胎盤などが胞衣(えな)として娩出されること。
※27-2:臍の緒(へそのお/ほぞのお、umbilical cord)は、臍帯(さいたい)に同じ。〈日葡〉。
※27-3:臍帯(さいたい、umbilical cord)とは、胎児と胎盤とを繋ぐ柔らかな索状の器官。内部に動脈・静脈を入れ、胎盤を介して母体の血液から酸素及び栄養物を胎児に送り、又、胎児の体内に於ける不要物及び二酸化炭素を母体血液に移す。ヒトでは長さ50~60cm臍の緒(へそのお/ほぞのお)。
※27-4:胞衣刀(えながたな)とは、胞衣(えな)を切るのに用いた竹刀(たけがたな)。
※27-5:竹刀(たけがたな)は、[1].竹で作った刀。竹光(たけみつ)。浄、雪女五枚羽子板「身は―抜きかねて」。
 [2].竹で作った馬櫛。刀に歯の付いた様な形のもの。〈日葡〉。

























※50:嵯峨野(さがの)は、京都市右京区嵯峨付近の台地の称。古くから秋草や虫の名所。今は嵯峨野の竹林が人気。「あはれなり秋は―のをささ原」(夫木)。(歌枕)。
※50-1:大河内傳次郎/伝次郎(おおこうちでんじろう)は、映画俳優(1898~1962)。本名、大辺男(ますお)。福岡生れ。新国劇から転じ、剣劇俳優として成功。「大河内」は生地の地名に由る。京都嵯峨野に大河内山荘が在る。「忠次旅日記」「血煙高田の馬場」「大菩薩峠」「丹下左膳」などに出演。<出典:一部「学研新世紀ビジュアル百科辞典」より>
 補足すると、今の大河内山荘(京都市右京区嵯峨)は1934年~1962年(伝次郎が亡くなる迄)に造り上げた大河内伝次郎の別荘跡(回遊式日本庭園)で、約2万㎡の広さです。西北の背後に「小倉百人一首」で有名な小倉山が控えて居ます。
※50-2:小倉山(おぐらやま)は、この場合、京都市右京区嵯峨西部に在る山(標高293m)。保津川を隔てて嵐山に対する紅葉の名所藤原定家所縁の地(←定家の小倉山荘が在った)で「小倉百人一首」(藤原定家撰)は有名。
※50-3:小倉山荘(おぐらさんそう)は、この場合、京都小倉山麓に在った藤原定家の山荘。百人一首の色紙をこの障子に張ったと言う。時雨亭/嵯峨山荘とも。








    (以上、出典は主に広辞苑です)

【参考文献】
△1:「日本古城友の会」第474回例会資料『伊賀 狭間城 北の城 城山城 小泉館』。
△1-1:「日本古城友の会」第486回例会資料『山城 鹿背山城』。
△1-2:「日本古城友の会」の「城だより(第423号)」。
△1-3:「日本古城友の会」第486回例会資料『山城 根福寺城』。


△2:『日本の神様[読み解き]事典』(川口謙二編著、柏書房)。




△3:『別冊歴史読本 日本「神社」総覧』(新人物往来社編・発行)。




△5:『姓氏苗字事典』(丸山浩一著、金園社)。


△6:『古墳辞典 増補・新装版』(大塚初重・小林三郎編、東京堂出版)。



△8:『歴史と旅臨時増刊 日本城郭総覧』(鈴木亨編、秋田書店)。





△12:『日本地名ルーツ辞典』(池田末則・丹羽基二監修、創拓社)。



△15:『枕草子』(池田亀鑑校訂、岩波文庫)。



●関連リンク
参照ページ(Reference-Page):三重県上野市の地図▼
地図-日本・伊賀と甲賀(Map of Iga and Kouga, Mie and Shiga -Japan-)


参照ページ(Reference-Page):茨木市の地図▼
地図-日本・淀川、桜之宮と大阪城
(Map of Yodo-river, Sakuranomiya, and Osaka castle, Osaka -Japan-)


参照ページ(Reference-Page):京都市相楽郡木津町の地図▼
地図-日本・京都府(Map of Kyoto prefecture, -Japan-)


参照ページ(Reference-Page):京都市嵯峨野の地図▼
地図-日本・京都市洛西(Map of West of Kyoto city, Kyoto -Japan-)






参照ページ(Reference-Page):カルスト地形や桂林地方の地図▼
地図-中国・桂林地方(Map of Guilin region, -China-)



参照ページ(Reference-Page):『小倉百人一首』について
(第97番が藤原定家の歌)▼
資料-小倉百人一首(The Ogura Anthology of 100 Poems by 100 Poets)

中国雲南省ベトナムとの国境も賑わっていた▼
2008年・雲南の河口/金平etc
(Hekou, Jinping etc. of Yunnan, China, 2008)




延喜式神名帳や嵯峨野観光会社のトロッコ列車▼
2004年・出雲大神宮の御蔭山(Mikage-yama, Kyoto, 2004)


筒井順慶・定次以降の筒井氏について▼
大和筒井城(Ruins of Tsutsui castle, Nara)


「本能寺の変」から逃れる家康と逃す伊賀の無足人▼
2005年・伊勢鹿伏兎城(Ruins of Kabuto castle, Mie, 2005)




私の余所見癖や山之神(一般には山の神)を見付ける▼
初歩的な神道の神々(The gods of rudimentary Shinto)








忍者好きのプーペット君に使った「くノ一」電車▼
2003年・伊賀忍者村訪問記(Iga NINJA-village, Mie, 2003)


鳥飼仁和寺大橋の歩道の上からの写真▼
黄昏の淀川~大阪城(Twilight scene from Yodo-river to Osaka castle)



平成の大合併(住所は肥大化)とは▼
2006年・井川線あぷとラインの旅
(Ikawa Abt-line, Oi-river Railway, 2006)








私の余所見癖は竹林特集には役に立つ▼
日本、珍にして奇なる光景(The RARE and STRANGE scene, Japan)

高句麗族の山城遺跡や壁画古墳を見る旅▼
中国の新少数民族か?、ラ族(裸族)
(Is a new minority of China ?, 'Luo zu')





備中鬼ノ城について▼
備中鬼ノ城と温羅伝説(The GOD'S ROCK Kinojo and Ura legend, Okayama)

鵲森宮の宮司とは30年以上の付き合い▼
鵲森宮と「美しい日本文化研究所」
(Kasasagi-Morinomiya and Elegant JPN culture)


2006年の伊勢神宮訪問▼
私自身の写真集・海外と日本編(My own PHOTO album in overseas and Japan)


2006~2010年は不況の真っ最中▼
今の不況を笑い飛ばせ!(Laugh off the current recession !)

2011年の3.11(東北地方太平洋沖地震/東日本大震災)▼
エルニーニョの打っ棄り的相撲論議(ElNino's throw away Sumo discussion)

島根県の稲田神社の「笹の宮」と奇稲田姫伝説▼
日本、珍にして奇なる光景#2(The RARE and STRANGE scene 2, Japan)
胞衣塚や稲田神社の「笹の宮」について▼
比売許曽神社と胞衣塚(Himekoso shrine and afterbirth mound, Osaka)





”トンボ撮集”や”昆虫撮集”について▼
私の昆虫アルバム・南西諸島編(My INSECTS album in South-West Islands)


嵐山や渡月橋▼
2003年・京都禅寺探訪(Zen temple of Kyoto, 2003)


印南野の思い出▼
エイが向かいし島「江井ヶ島」(Rays went toward Eigashima, Kinki)
交野の思い出▼
2003年・交野七夕伝説を訪ねて(Vega and Altair legend of Katano, 2003)


藤原定家や「冷泉家時雨亭文庫」について▼
冷泉家時雨亭文庫(Reizei Shigure-tei library)


葛野大堰や秦氏について▼
謎の三柱鳥居(The mysterious Trinity torii)


02年秋の桂林地方の旅の全体の旅程▼
2002年・”脱雲南”桃源紀行(Escape from Yunnan, China, 2002)
「桂林の竹林」の第1報▼
2002年・桂林の漓江下り(Go down the Lijiang of Guilin, China, 2002)



葛飾北斎『琉球八景』の第3景「粂村竹籬」▼
北斎の「琉球八景」(Hokusai's 'Ryukyu 8 scenic spots', Naha)









「日本古城友の会」のサイトと「関西歴史散歩の会」のサイト▼
外部サイトへ一発リンク!(External links '1-PATSU !')


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