-- 2007.08.04 エルニーニョ深沢(ElNino Fukazawa)
2009.04.16 改訂
現在の中国(中華人民共和国)は56の諸民族が犇(ひし)めく多民族国家です。その全人口(=約13億)の92~93%以上という圧倒的多数を占めるマジョリティー(majority)が漢族で、7~8%の人口は55の少数民族(minority race, ethnic minority group)で構成されて居ます。各少数民族の名称や詳細は
資料-中国の55の少数民族(Chinese 55 ETHNIC MINORITIES)
をご覧下さい。
07年の7月末の約1週間、私は中国東北地方の北朝鮮(朝鮮民主主義人民共和国)(※1、※1-1)に接する地域に古代の高句麗(※2、※2-1)が築いた山城遺跡(※3)を訪ねて歩き回りました。
実はこの旅に私を誘ってくれたのは「関西城郭研究会」(略称:関城研)の河合延明氏です。河合さんは「日本古城友の会」の会員でも有ります。私は「日本古城友の会」の”付録会員”(←私の会員番号は「ふ-6」(=フロク))でっせ!!
河合さんは高句麗の城を良く研究していて良く知っているので頼もしい人です。高句麗の山城遺跡について書く場合、先ず高句麗の歴史を研究しなければ太刀打ち出来ません。高句麗の文化は古代山城遺跡と壁画古墳が特徴的です。私は未だ未だ勉強不足、今は力量不足ですので高句麗の山城遺跡について”有意味”な文は書けません、”無意味”な文章だったら書けますが。
本ページでは高句麗の古代山城の在る地域でケッタイな人たちを、「これは新たな少数民族ではないか?!」と思われる一群の”怪しい人々”を、度々見掛けましたので本ページで紹介しようと筆を執りました。
でもこのページ、背景色が何故「真っ黄色」なの??、それは最後に明らかに成るでしょう。
ここ吉林省集安市(※2-2)は高句麗(※2)が遼寧省の五女山城から遷都して次に平壌(※1-2)に遷都(427年)する迄、約200年間 -中国側の主張では約400年間- 、高句麗の首都でした。07年7月26日は広開土王碑(好太王碑)(※2-3)と古墳群(壁画古墳(※4)も含む)と禹山貴族墓群(四神墓や角觝墓(※4-1)など)、集安市博物館、国内城遺跡(集安市の団地の真ん中の在る)などを経巡って来ました(△1のp166~175)。
◆禹山貴族墓群の角觝図
[ちょっと一言] 高句麗の文化は古代山城遺跡と壁画古墳(△2)が双璧です。中国五女山城や集安市の世界文化遺産は「高句麗前期の都城と古墳」が登録理由で、北朝鮮平壌市・南浦市の世界文化遺産は「高句麗の古墳遺跡」が登録理由です。両方共2004年に同時登録されましたが、1つの民族の遺跡が2つの国から世界遺産に登録されてる例は希です。実際、高句麗の古代山城の石塁は規模・構造からも卓越しているし、壁画古墳も壁画の種類が多く日本の高松塚古墳の比では無いと感じです。
[ちょっと一言]で触れた高句麗の壁画古墳については
資料-日本の相撲の歴史と仕来たり(History and custom of Sumo in Japan)
を参照して下さい。
組み合う力士 行司
↓ ↓
角力(相撲)などが描かれて居る角觝墓(5世紀中頃)が禹山貴族墓群(△1のp171)に在ります。この角觝図は非常に有名な図(△2のp92)で歴史の教科書には必ず載って居ますので、大きな模写図の写真(左の写真、下部には「角觝墓角觝図」と在る)を載せます。因みに、ここには本物は在りません。「資料-日本の相撲の歴史と仕来たり」に載って居る角觝図は、この絵の輪郭を模したものです。
左の図は絵の具が剥げ解り難いですが、二人の力士が相撲を取り、それを右の行司が捌いて居ます。この写真を角觝図と比較して見て下さい。この角觝が日本の相撲のルーツ(前200年頃に伝来か(?))と目されている古代の競技(=スポーツ)です。
因みに、中国では「西北有敦煌、東北有集安」と言うそうです(△2のp8)。
尚、「相撲の歴史」については▼下▼を参照して下さい。
日本の相撲と八百長の歴史(History of Japanese Sumo and fixed game)
(-_@)
◆集安がビール党に成った訳を推理
26日は集安に泊まりました。この日の夜、ここで飯を食おうと”とある店” -この店は飯屋兼一杯飲み屋でケバブ(=焼”羊”)(※5)から鍋料理迄出来る「何でも屋」- に入ったのですが、既に出来上がって居る一群の”怪しい人々”が居ます(左下の写真)。
店の小姐(シャオチエ(xiaojie))(※6)がこちらを振り返って居ますが、私がカメラを構えて居るからです。それにしても5人が上半身裸です。
この男達、ほんの数年前の前世紀 -僅か数年前には20世紀でした- には「お腹を冷やすと良くない」とか何とか”屁理屈”を付けて、決してビール(啤酒)を冷やして飲まなかった連中が、上半身裸で正々堂々と冷えたビールをガンガン飲んでる光景は、前世紀の中国を知っている私は信じられない風景なのです。
そもそも中国大陸の人は、何族に関わらず、ビールという飲み物を余り飲まなかったのです。酒と言ったら焼酎で白酎や高粱酎を飲んでたものです。まぁ、値段の事も有り、焼酎の方が安く、そして良く酔えるからです。
確かに、この日の晩は蒸し暑かったですね。集安という所は北朝鮮との国境沿いに在りますが、気候は内陸性気候で7月下旬は最高気温が30℃に成り、一方真冬は-20℃に成ります。日本より数段ワイルドなのです。普段ならもっとカラッとして居るのですが、何故かこの日は蒸し暑かったのです。
私は集安の人々がビール党に成った理由として、2004年に吉林省集安市は世界文化遺産に登録された事が有ると思います。これにより数々の遺跡は整備され管理され観光客も増えました。そして観光客が飲むものはビールです、当然観光客は冷やして飲みます。それで地元の連中も「ビールは冷やして飲むんだ」と初めて理解し、冷やして飲んだら旨い。それから3年経た今年、集安の人々は斯くもビールを冷やし上半身裸で飲む様に成った、というのが私の推理です。
(-_*)
ところで上半身裸の連中は一体何族なんでしょうか?。私は聞いてみました、「貴方たちは"Man zu"(満[州]族)ですか?」と、そしたら「"Han zu"(漢族)だ」という答えでした。そしたら「あんた等は"Riben ren"(日本人)だろ?」と聞くので「"Hanguo ren"(韓国人)だ」と答えて遣りました。どうやら私たちの方が怪しい人間の様です、グワッハッハッハッハ!!
この後我々(←私と河合さん)もここで寛ぐことにしました。やはり冷えたビールは旨い!
ところで先程の店を出る時、右の写真の女の子がケバブ(※5)を買って出て来ました、この様に「お持ち帰り(take out)」も出来るんですね。左手のビニールで包まれた方に3、4本、右手で持ってる方は殆ど食べて仕舞って僅かに肉が1切れだけくっ付いて居ます。彼女も"Han zu"(漢族)だそうです。明るいですね、屈託が無い。
さて彼女はケバブを持って、こんな時間に何処へ行くんでしょうか?!
7月27日は午前中に集安市の丸都山城、午後は遼寧省桓仁満族自治県の五女山城(ここも世界文化遺産に登録)に行って五女山下のコテージ(※7)に泊まりました。
7月28日は遼寧省丹東市(※8)の虎山長城(←万里の長城の一番東端)(△1のp107)や、その近くに在る丹東市の「一歩跨」で北朝鮮との国境を成す鴨緑江の川幅が20m位しか無い所を遊覧船(=50元)で見て、「一歩跨」で北朝鮮の煙草を買って丹東市内に泊まりました。
右が「一歩跨」の石碑で「中朝遣境」と在ります。
翌7月29日には丹東市の鳳凰山に向かいました(△1のp108~109)。高句麗遺跡の鳳凰山山城(※9)を探検する為だったのですが、結果は如何に?!
鳳凰山は丹東市の西北45kmの鳳城市に在り、左下が鳳凰山を南側から撮ったもの。標高836mですが、ご覧の様に岩肌を露出させ非常に険しい山である、と旅行案内書に書いて在ります。現在、鳳凰山は風景名勝区に指定されて居ます。
真っ直ぐ伸びるレールは、これを私の前方に辿って行けばやがて瀋陽(※8-1、→後述)、更には北京に通じ、私の後ろの方へ辿って行くと丹東に着き、更に鴨緑江(※10)を橋で渡ると北朝鮮の新義州市に着くという国際列車が走って居るのです。金正日御用列車(※1-3)が走るのはこの路線です。ということは、金正日は列車の窓から鳳凰山を眺めて居たかも知れませんね。何しろ鳳凰山の一種異様な山容は目を引くからです。
さて鳳凰山の麓に遣って来て解ったことは、ここは嘗て日本軍が支配してた土地で、日本軍が使って居た施設が現在も中国側の施設として残って居るのです。右上の写真は日本軍が敷設した引き込み線の跡です。勿論、今は使われて居ません。この話を聞いた時一瞬”嫌な予感”がしたのですが...。
鳳凰山の入口は奥が深いので私たちはタクシーに乗り入口迄行って貰うことにしました。
15~20分乗ったでしょうか、漸く入口に着いたのでタクシーを降り、入口の鞍部をもう少しで越えようかとした時、下で何やら喚いて居ます。私たちに向かって喚いて居るのは確実で、何故ならこの日鳳凰山に入山しようとしてるのは”私たちだけ”なのです。
戻って訳を聴きました。先ずその前に「あんたら何者なんだ?」と聴いたら「警察業務を委託されてる者だ」と答えました。写真の左手に何か持ってますが、どうやら業務委託証書の様な物らしい。写真で若者はバイクの運転手 -これも業務を委託されたのか?!- で、このバイクに乗り2人で我々を追い駆けて来たのです。そして右手で「撮るな!」と制しているんですが私の方が早かったという場面です。
そして「直ぐ引き返せ」と言うから、「何で引き返さなきゃ為らんのや」と言っても、それには答えず「兎に角引き返せ」の一点張りです。この応酬を30分以上続けましたが埒が明かず、結局私たちが諦めました。この日も暑かったのですが2人共上半身裸です。こんな品の無い格好で警察業務を請け負っているとは、呆れて仕舞います。
結局私の”嫌な予感”が当たって仕舞いました。私は今迄何度も中国を旅して、軍関係の施設には「外国人」は近付けないという事を知って居たからです、経験として。それが先の大戦から60年経って現実には”死んだ”施設の残骸であってもです。そしてもう一つ、それが国境に近い程厳しく成るということも。しかし中国人(漢族)は大抵の場合大丈夫 -フリーパス(free pass)- なのです。少数民族は?、そういう場面に遭遇して無いので私にも解りません。
[ちょっと一言] 軍関係の施設が「外国人」に解放されて無い好例が遼寧省の軍港・旅順(※8-2)です。私は今年07年6月14日に旅順を見て来ましたが、絶対喋らずに中国人に成り済ます、というのが条件でした。でもどう見ても”死んだ”施設の残骸です。後は散歩してたら御巡りが出て来て「ここはダメだ、彼方へ行け」(←何故ダメなのかは言わない)と言うので後で調べたら近くが軍施設だった、というパターンです。
国境近くでは色々有りました。今回の旅行でも7月28日に行った「一歩跨」という所は鴨緑江の川幅が非常に狭く20m位向こうは北朝鮮です。又、招待所に泊まる予定でチェックインしたのに軍人が大勢この招待所に泊まるから他に移れ、とか夜中の1時過ぎに御巡りが来て「ここは外国人は泊まれないのでホテルを変われ」とか。この時は1時間以上擦った揉んだして相手が諦めました。
しかし何と言っても、新疆ウイグル自治区をパキスタンとの国境を目指し西走した時でしたね。ここはガイド帯同を義務付けられてる区間ですが、国境の1時間も手前で自動小銃を持った国境警備兵2人が我々の車に乗り込んで来たのです。そして帰りも又乗り込んで来ました。でもパキスタンとの国境は最高でした。5000mを越える標高で万年雪が有り、20m位パキスタン側に越境を許可して貰いパキスタンから見た中パ国境を写真に撮りました。更にトイレ(←所謂「ぽっちゃんトイレ」)に行った序でに国境警備兵のウンコを撮りました。”怪しい私”は国境が非常に(異常に)好きです、アッハッハッハ!!
{この[ちょっと一言]の旅順の軍施設(=東鶏冠山北堡塁)は2009年3月20日に外国人にも解放されました。この解放の記事は2009年4月16日に追加。}
29日の午後は遼陽市(※8-3)の遼代白塔(八角形の13層の塔)などを見て遼陽市に泊まりました。実はこの白塔近くには高句麗の遼東城が在った筈ですが今は何も残って居ません。
そして晩飯は遼陽市の満州族の店に入り、満州族の名物料理の驢肉(ロバ肉)を食いました。右の写真は驢肉火焼でロバ肉の炒めもので香辛料を利かしピリ辛味。こちらでは「上有龍肉、下有驢肉」(天上には龍の肉、地上には驢肉有り)と言われている程です。驢肉は軽くて旨いです、ビールの当てに盛って来いです。
7月30日は遼陽市(※8-3)の東京城城址、燕州城へ行き、夜は瀋陽市に泊まり明日帰阪します。私たちもここで火鍋料理を食い、そして冷えたビールをガンガン行きました、この夜が中国での最後の晩餐ですから。何しろ中国のビールはアルコール度数が日本のビール(5.5%)より1%~2%低いし、地方に行ったら瓜とか芋を原料に使っているのも在ります。もう行け行けでシャオチエ、ビール!(=来来、小姐啤酒!)
でも、ここにも右の写真の様に上半身裸の先客が居ました。この連中も良く飲みます。その内ビール瓶を持ってこちらに注ぎに来たりして、こちらも貰うばかりでは悪いので注ぎ返したりして、ワーワーガヤガヤ盛り上がりました。こちらが"Riben ren"(日本人)という事は直ぐ判るらしく、この"Han zu"(漢族)は陽気でした。1人は日本に行ったことが在る、と言ってました。
瀋陽も内陸性気候で、集安よりは少し暖かく、従って夏は暑いです。それでも冬は-17℃に成ります。でも今年は集安も丹東も瀋陽も蒸し暑いのです。それにしても中国人が冷えたビールを飲むという事に、俄かに信じ難いものが在り、私は未だ頭がグラグラして居るのです。
[ちょっと一言] 2001~2002年頃、雲南省を旅する時に私の旅の仲間の一人は、何時も今夜泊まる宿に電話を入れ「ビールを冷やしとけ!」と言ってました。もし電話をし忘れたり会話が上手く伝わらない時は”常温ビール”です、雲南省なんか亜熱帯でっせ。私は根性が座ってましたので常温でも飲みましたよ。それから僅か数年でこの変わり様です。
◆瀋陽がビール党に成った訳
しかし、疑問はこれで解けました。集安は2004年に世界文化遺産に登録され、そして来年の2008年は北京オリンピックが開催されます。瀋陽でも一部競技(サッカー予選)の会場に成って居ます。
右の写真はこの日飲んだジョッキですが、説明は不要でしょう。オリンピックは中国語で奥林匹克運動会、略して奥運会です。
そう、来年は北京オリンピックなんですね。もうビールを飲む時に中国人が必ずと言って良い程「お腹を冷やすと良くない」と言って居た言葉が聞かれなく成る日は、案外近いかも知れません。
{この段の瀋陽が北京オリンピックのサッカー予選会場に成った事は2008年11月20日に追加}
古代の高句麗はツングース系(※2-1)で、中国東北部から朝鮮北部・東部に居た古代の濊貊(穢貊)(わいはく)(※2-4、△1のp173) -濊(穢)と貊とは厳密には別種- と考えられ、高句麗は特に貊と見られて居ます(△2-1のp18、21~22)。今の中国遼寧省桓仁満族自治県の五女山城で建国(西暦紀元頃)し、狩猟・牧畜から次第に農耕化して行き吉林省集安市に遷都しここを丸都山城(山城)と国内城(平城)で守り、広開土王(在位391~412年)の時に最盛期を迎えます。更に吉林省から今の北朝鮮に入り平壌を最終的な首都と定めます(427年遷都)が、唐と新羅の連合軍に依って668年に滅ぼされます。実はこの連合軍は先に百済も滅亡させて居ます(660年)。
まぁ、歴史に飲み込まれた高句麗の最後ですが、その遺民や亡命者は日本にも来て居るのです。高句麗は「高麗(こま)」とも書きます。現在の埼玉県日高市(旧:武蔵国高麗郡)がそれで、高麗川が流れ高麗神社(埼玉県日高市大字新堀) -主祭神:高麗王若光、配神:猿田彦命、武内宿禰- が在り代々高麗氏が宮司を世襲して居ます(△3のp61~65)。他にも東京都狛江市、山梨県北巨摩郡・中巨摩郡・南巨摩郡(古くは巨麻郡)など、高句麗系渡来人・帰化人の跡は地名に残されて居ます。又、神社では高麗神社は掛川市にも有り、神奈川県大磯の高来(たかく)神社、大阪八尾市の許麻(こま)神社(△4のp137)など、高句麗の由緒を今に伝えて居ます。
そして『日本書紀』の天武13(684)年(△5のp198)、持統元(687)年(△5のp238~240)などに朝鮮半島からの遺民や亡命者を受け入れた記録が在ります。中でも『続日本紀』(※11)の霊亀2(716)年5月の条(元正天皇)には「辛夘、以駿河、甲斐、相模、上総、下総、常陸、下野の7国の高麗人1799人を武蔵国に遷し高麗郡を始め置く。」と記されて居て(△6のp66)、上述の武蔵国高麗郡は716年に新設されたのです。
[ちょっと一言] 更に『続日本紀』の天平宝字2年の条(淳仁天皇=廃帝)には「癸亥、帰化の新羅僧32人、尼2人、男19人、女21人を武蔵国の閑地に移し、新羅郡を始め置く。」と在り(△6のp254)、武蔵国新羅郡は758年に新設されて居ます。新羅郡は後に新座郡に成り、今の埼玉県新座市です。
又、年代は不明乍ら -恐らく百済滅亡(660年)以後~大宝律令(701年)の間- 大坂摂津国にも百済郡が置かれ、略今の大阪の生野区・東住吉区です(△4のp32~33)。ここには今でも百済の地名が残って居ます。
この頃は朝鮮半島の情勢が切迫して居り、高句麗だけで無く滅亡した百済、更には勝ち組の新羅からも遺民や亡命者が日本に続々と流れ込んで来ました。扱いに苦慮した朝廷は遺民や亡命者を何箇所かに集めて「特別行政区画」を作り集約的に管理をした訳です。
やあ、どうでしたか?、古墳壁画は凄かったですね。
下が07月26日の吉林省集安市の休憩所の写真です。この後は既に紹介済みの例の晩飯と成る訳です。
私たちは広開土王碑・壁画古墳・禹山貴族墓群(四神墓や角觝墓が有名)・国内城遺跡などを経巡って来たので、15:10頃からここで休憩です。ここは垢抜けた哈爾浜啤酒広場という休憩所 -中国的な野暮ったい作りでは無くモダンなレストハウスです- で、未だ昼飯を食って無かったので川魚の鍋料理を食い、左下の写真は15:40頃(河合さんが撮影)、右下の写真は15:20頃の撮影です。
◆川を隔てた国境に思いを馳せる
私の背後を流れて居るのが国を隔てる鴨緑江(※10)(←近くには鴨緑江の石碑も在る)で、丹東よりも上流なので川幅が狭く目測で150~160m位しか有りません。ここに中国人(=中国の漢族)が車で乗り付け結構混んで居ます。何故混むか?、中国の漢族は国境から相手の国を覗くのが凄く好きなのです。
向こう岸は勿論北朝鮮(正式名:朝鮮民主主義人民共和国)で北朝鮮の人も時々見えます。ここには中国のモーターボートの発着所が在り、右下の写真の様に乗り合いモーターボートに10人位乗り込んで”国境見学”です。
★サブページで「中国集安の北朝鮮国境」のビデオ(size=0.75MB)をご覧に為れます。ここよりも少し上流の普通のボートの発着所が在る休憩所で13:20頃に撮ったもので、この後に禹山貴族墓群と国内城遺跡に寄ってますので、こことは余り離れて居ません。▼下▼をクリック!!
ビデオ-中国集安の北朝鮮国境(VIDEO - North Korea border of Chinese Jian)
それにしても、国境にモーターボートや普通のボートを出して相手国を見学するというのは可なりな偏執狂(※12)ですね!
これを心理分析すると中国人は優越感に浸れるからだと思いますが、しかし北朝鮮からすると事情は異なりますね。何しろ陸を接して居る訳ですから中国は軍事的に脅威である筈です、これは地政学(※13)の初歩ですよ。北朝鮮は好むと好まざるとに拘わらず大国且つ隣国の中国の顔色を窺って行かないと国を維持出来ないのです。私は北朝鮮は色々中国に対し不満が有る筈だと思って居ますが、そこは我慢して居るのです。
キューバが何故革命政権を今日迄維持出来たのか?、それは間に海が在るからですよ。もし陸続きだったら疾っくに北米の一部に成って居ます。
日本は四方が海で囲まれた「羊水国家」ですから国境の特殊な感覚は全然無いですから、こうして外国に来た時に国境を肌で感じようと思って居るのです。そういう意味で私も国境がとても大好きなのです、アッハッハ!!
(-_@)
ところで、上で見て来た一群の”怪しい人々”をどう思いますか?、私は今迄の少数民族に無かった風習 -ビールを冷やして飲む(←ここは哈爾浜啤酒です)とか、上半身裸に成るとか- を具えて居るのは、やはり新たな少数民族ではないか?、と思って居るのです。名付けて
ラ族、裸族(Luo zu)
です(中国式発音でルォ族とも言います)。
ムッ、道理で少し可笑しいと思って居たですって?、この背景色はケッタイを寄せ集めたページの背景色と同じで、「き印」(※14)を表す「真っ黄色」なのです!!
フッフッフ、あの”怪しさ”は尋常では無いですからね。まぁ、これは洒落と御理解下さい。
それよりもビール(啤酒)が冷たい内に、皆さんと乾杯!、そしてラ族(裸族)に乾杯!!
(+_@;)
U┐
尚、[中国のケッタイ]シリーズの他画面への切り換えは最下行のページ・セレクタで行って下さい。(Please switch the page by page selector of the last-line.)
【脚注】
※1:北朝鮮(きたちょうせん)は、朝鮮民主主義人民共和国の俗称。
※1-1:朝鮮民主主義人民共和国(ちょうせんみんしゅしゅぎじんみんきょうわこく)は、朝鮮の北緯38度線以北に成立した人民共和国。1948年9月建国。朝鮮労働党政権下で社会主義体制を執る。最高人民会議の下に常任委員会が在る。面積12万㎢。人口2391万(1995)。首都は平壌(ピョンヤン)。
※1-2:平壌(へいじょう、ピョンヤン、Pyongyang)は、朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)の首都。同国南西部、大同江下流沿岸の都市。人口264万。BC108年、漢の武帝が衛氏朝鮮を滅ぼし、楽浪郡を置いた地。AD427~668年、高句麗の首都として繁栄。1948年北朝鮮の首都と成ったが、朝鮮戦争(1950~1953)中の爆撃で壊滅した。戦後は近代都市として復興し、同国最大の工業都市・文教都市と成って居る。平壌城跡など高句麗時代の遺跡が多い。古名は王険城。<出典:「学研新世紀ビジュアル百科辞典」>
※1-3:金正日(キム・ジョンイル、Kim Chongil)は、朝鮮民主主義人民共和国の最高指導者(1942~2011)。金日成(キム・イルソン)の長男。ソ連生まれ。金日成総合大学卒業。1960年代から政治活動を始め、父の死後の1994年、その後継者と成る。朝鮮労働党総書記兼人民軍最高司令官。<出典:一部「学研新世紀ビジュアル百科辞典」より>
※2:高句麗・高勾麗(こうくり、Koguryo)は、古代朝鮮の国名(0頃~668)。三国の一。紀元前後、ツングース系の朱蒙の建国と言う。中国東北地方の南東部から朝鮮北部に渡り、4~5世紀広開土王・長寿王の時に全盛。都は209年より集安の丸都城、427年以来平壌。唐の高宗に滅ぼされた。中国東北部に移された高句麗の遺民は後に渤海国を建てた。故都集安や平壌に壁画古墳を残し、遼寧省や集安に古代山城を残す。高麗(こま)。<出典:一部「学研新世紀ビジュアル百科辞典」より>
※2-1:ツングース(通古斯、Tungus)とは、シベリアのエニセイ川からレナ川/アムール川流域やサハリン島、中国東北部に掛けて広く分布するツングース諸語(アルタイ語の一つ)を話す民族の総称。漢代以降の鮮卑、唐代の靺鞨(まっかつ)/契丹(きったん)、宋代の女真(じょしん)、満州族などを含む。狭義にはその内の北部のエヴェンキ族を指し、生業は狩猟/漁労/採集、トナカイ/馬/牛の飼育等を主とする。
※2-2:集安(しゅうあん、チーアン、Jian)は、中国吉林省鴨緑江中流西岸の都市。人口29万。古代から朝鮮半島への交通上の要地で、広開土王碑を始め高句麗や渤海の遺跡が多い。1965年迄は輯安と書いた。<出典:「学研新世紀ビジュアル百科辞典」>
※2-3:広開土王(こうかいどおう)は、高句麗第19代の王(在位391~412)(374~412)。名は談徳。南北に領土を広め、仏教を篤信、高句麗の最盛期を築く。その旧都(鴨緑江西岸の輯安(集安)、今の中国吉林省集安県)にある同王の事跡を記した広開土王碑(好太王碑)は414年建立。高さ6.39m。4面に漢隷体の漢文千七百余字を刻す。その頃の新羅や倭との交渉も記し貴重な史料。国岡上広開土境平安好太王。永楽太王。好太王。
※2-4:濊貊・穢貊(わいはく/かいはく)とは、主に中国東北部から朝鮮北部・東部に住んだ、古代のツングース系民族の濊(穢)と貊を一緒に呼んだもの。夫余・高句麗・沃沮(よくそ)などはこれに属するとされるが、濊(穢)と貊の違いなど未だ不明な部分が多い。貊の字は貉が当てられることも有る。
※3:山城(やまじろ/さんじょう、mountain-castle)とは、通常独立した山頂に築かれ山頂の平坦部に段状に曲輪の配置が為されて居る城を言う。日本では、古代に北九州の大野城、近畿の高安城などが最初。これらは古代朝鮮の築城法の影響を受けて居るとされ、古代山城(又は朝鮮式山城)と言う。以後これに倣い中世~戦国に掛けて自然の要塞としての地形を利用した山城が多数造られ、中世山城と言う。中世城郭には山城が多く、戦闘専用の砦(=詰の城)としての性格が強く、居住用には「根小屋」と言われる館を山麓に構える場合が多い。
※4:壁画古墳(へきがこふん)とは、装飾古墳の内、特に図像的な彩色画の在るものを言う。日本には奈良県の高松塚古墳・キトラ古墳、福岡県の王塚古墳・竹原古墳などが在る。
※4-1:角觝/角抵(かくてい)とは、角力(すもう)。力競べ。
※5:シシカバブ/シシュケバブ(shish kebab)とは、(シシは「串」、カバブは「焼いた肉」の意)トルコなど中近東諸国の料理。羊肉の角切りを串焼きにしたもの。現地では単にケバブ(kebab)と言う。
※6:小姐(シャオチエ、xiaojie)とは、(男性から)女性を親しんで呼ぶ語。現代中国語で「小姐」は、お嬢さんの意。
※7:コテージ(cottage)は、山小屋。別荘。コッテージ。
※8:丹東(たんとう、タントン、Dandong)は、中国遼寧省南東部の港湾都市。鴨緑江を挟んで朝鮮の新義州と相対し、瀋陽に向かう鉄道の基点。木材・大豆の集散地。旧称、安東。人口68万1千(1995)。
※8-1:瀋陽(しんよう、Shenyang)は、中国遼寧省の省都。清朝の国都として盛京と改称し、北京遷都後は陪都として奉天と称した。清の東陵・北陵が残る。周辺の撫順・本渓・鞍山を含めた地域は重要な鉱工業地帯。人口472万(1995)。
※8-2:旅順(りょじゅん、Lushun)は、中国遼寧省、遼東半島の南西端、大連市の港湾地区。日清戦争及び日露戦争に日本軍が攻落し、租借。第二次大戦後、ソ連の管理下に置かれ、1955年中国に返還。返還後は中国海軍の基地と成り、外国人には未開放。
※8-3:遼陽(りょうよう、Liaoyang)は、中国遼寧省の都市。瀋陽の南、旧満鉄沿線の要地。遼・金時代には東京(とうけい)と称した。日露戦争の激戦地。人口68万(1995)。
※9:鳳凰(ほうおう)は、古来中国で、麒麟・亀・竜と共に四瑞として尊ばれた想像上の瑞鳥。形は前は麒麟、後は鹿、頸は蛇、尾は魚、背は亀、頷(あご)は燕、嘴は鶏に似、五色絢爛、声は五音に当たり、梧桐に宿り、竹実を食い、醴泉を飲むと言い、聖徳の天子の兆として現れると伝え、雄を鳳、雌を凰と言う。鳳鳥。
※10:鴨緑江(おうりょくこう/おうりょっこう、Amnok kang, Yalu Jiang)は、北朝鮮(朝鮮民主主義人民共和国)と中国東北部との国境を成す川。白頭山(長白山)に発源し、南西流して黄海に注ぐ。全長795km。朝鮮第1の長流。
※11:続日本紀(しょくにほんぎ)は、六国史(りっこくし)の一。40巻。日本書紀の後を受け、文武天皇(697年)から桓武天皇(791年)迄の編年体の史書。藤原継縄・菅野真道らが桓武天皇の勅を奉じて797年(延暦16)撰進。略称、続紀(しょっき)。
※12:偏執狂(へんしゅうきょう/へんしつきょう、monomania)とは、或る事に異常に執着する人。モノマニア。
※13:地政学(ちせいがく、Geopolitik[独], geopolitics[英])とは、政治現象と地理的条件との関係を研究する学問。ドイツの学者ラッツェル(F.Ratzel1844~1904)の政治地理学に基づいてスウェーデンの学者チェーレン(R.Kjell n1864~1922)が首唱、主にドイツに於いて第一次大戦後の政治的関心と結び付き、ハウスホーファー(K.Haushofer1869~1946)に依って発展、ナチスがこれを支持。地理政治学、地政治学。
※14:き印(きじるし)とは、(「きちがい(気違い)」の「き」を採った隠語)狂人。
(以上、出典は主に広辞苑です)
【参考文献】
△1:『地球の歩き方D04 大連と中国東北地方 2005~2006年版』(「地球の歩き方」編集室、ダイヤモンド社)。
△2:『集安高句麗壁画』(吴广孝著、山東画報出版社)。
△2-1:『高句麗史話』(黄斌・刘厚生著、遠方出版社)。
△3:『日本の神々 神社と聖地11』(谷川健一編、白水社)。
△4:『大阪における朝鮮文化(歴史地理学的・説話考古学的アプローチ)』(段熙麟著、大阪文庫)。
△5:『日本書紀(五)』(坂本太郎・家永三郎・井上光貞・大野晋校注、岩波文庫)。
△6:『新訂増補國史大系 続日本紀(前編)』(國史大系編修會編、吉川弘文館)。
●関連リンク
@参照ページ(Reference-Page):中国の少数民族▼
資料-中国の55の少数民族(Chinese 55 ETHNIC MINORITIES)
@参照ページ(Reference-Page):高句麗の壁画古墳について▼
資料-日本の相撲の歴史と仕来たり(History and custom of Sumo in Japan)
@サブページ(Sub-Page):中国集安の北朝鮮国境▼
ビデオ-中国集安の北朝鮮国境
(VIDEO - North Korea border of Chinese Jian)
@補完ページ(Complementary):相撲の歴史について
(角觝が日本の相撲のルーツ)▼
日本の相撲と八百長の歴史(History of Japanese Sumo and fixed game)
自動小銃を持った国境警備兵が我々の車に乗り込んで着たパキスタン国境や、
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