-- 2008.06.04 エルニーニョ深沢(ElNino Fukazawa)
2017.07.16 改訂
※注意:このページは写真が多く、読込みに時間が掛かります。 ★---暫くお待ち下さい(Wait a minute)---★ |
★このページは[2008年雲南回帰の旅#3]の続きです。ここから思茅/景洪/昆明に入ります。
今回の「雲南回帰の旅#4」の旅程を[雲南回帰の旅#1]から▼下▼にコピーして置きます。
◆旅程の一部
2008年3月 <宿泊>
...<前半略>...
20(木) 緑春 → 江城 → ②思茅(普洱市) 金孔雀大酒店
21(金) 思茅 → 景洪 金象賓館
22(土) 景洪 金象賓館
23(日) 景洪 ⇒ 昆明 宝善大酒店
24(月) 昆明 ⇒ 広州 沙面のユースホステル
...<後半略>...
*.⇒は飛行機、②が2度目の訪問地
今回行く所も田舎なので詳しく書きます、写真も多いです。しかし個々の写真は小さいという事をご了承下さい。
尚、雲南各地の地図は▼下▼を適宜参照して下さい。
地図-中国・西双版納(Map of Xishuangbanna, -China-)
又、これらの地域は少数民族(Ethnic Minorities)と言われる人々が多く住んで居ますので、雲南省の少数民族については
資料-中国の55の少数民族(Chinese 55 ETHNIC MINORITIES)
を参照して下さい。
[雲南回帰の旅#1]でも書きましたが、当ページの記事は「全て見た儘有りの儘、何も足さない、何も引かない」をモットーに書いてます。それでは[雲南回帰の旅#3]をお楽しみ下さい。
(1)思茅は十三夜
19:50頃思茅(正確に記すと普洱市思茅区)に着きました。松岡さんは早速汽車站に行き明日のバスの時刻表「思茅至各地分車型時間票価表」をチェックですが景洪往きのバスは殆ど30分置きに在ります。
その次はホテルを「金孔雀大酒店」に決め荷物を置いて20:50頃から晩飯です。左は豚肉とジャガイモの炒め物でニンニクが利いて居ます(21:09頃)。今日は緑春県と江城県の県境の架橋工事で皆さんはお疲れですが、私はキミスジ(黄三筋)を撮れたので疲れは有りません(←これ内緒)。皆さんお疲れ様、あぁビールが旨い!
ホテルに帰る途中で月を見たらとても綺麗だったのでパチリ(右の写真、21:40頃)、月齢12.4の十三夜の月です。満月は明後日の3月22日です。
今日20日は春分の日(←二十四節気の一つです)なのです。今日は風呂に入ってゆっくり寝ましょう。
◆思茅市は普洱市に名称変更
ところで、思茅市(Simao city)は2007年1月(=我々がこの旅をした前年)に普洱市(Puer city)に名称変更しましたので、それについて簡単に記します。
元々思茅地区と呼ばれて居たこの地域に、思茅市と普洱県が別々に存在して居たので話が少々ややこしく成ります。元々の普洱県が無ければ「思茅市が普洱市に成りました」で一件落着ですが、元々存在して居ますので今度は普洱市と普洱県が並存して仕舞います。そこでどうしたかと言うと
思茅市 → 普洱市
思茅鎮 → 翠雲区 → 思茅区
普洱県 → 寧洱県
(正式名:普洱哈尼族彝族自治県 → 寧洱哈尼族彝族自治県)
としました。哈尼族彝族自治県というマイナーな県が折れた格好で寧洱県は「洱」の字のみを残して居ます。翠雲区は一時的な経過措置として2003年~2007年迄置かれました。
では何故面倒な名称変更をしたのか?、と言うと普洱茶(※1)は現在世界的に名前が知られた商品なので普洱茶の更なる販売促進策として都市機能を備えた思茅を「普洱」としてお茶の集散地(※1-1)のイメージを高める狙いからです。但し、ここで気を付けなければ為らない事は集散地と生産地とは往々にして異なるという事です。普洱市より寧ろ寧洱県(旧:普洱県)や孟連県や勐海県など普洱市の周辺の県が生産地です。尤も中国政府はそういう誤解も含めて「普洱」の効果を期待して居る訳です。
尚、普洱茶については
2002年・パーリャン小学校視察の旅(Report of Paliang's primary school, China, 2002)
を参照して下さい。
(-_*)
(1)思茅を離れ景洪へ
西双版納の広域地図を参照して下さい。
下が我々が泊まったホテルで「金孔雀大酒店」と書いて在るのが読めますね(7:18頃)。ホテルの大時計が7:19を指して居ますので、私のカメラの時計は略正確です。
普洱市思茅区は雲南省では昆明に次いで進んだ地域で、飛行場も有ります -私は2004年に昆明→思茅を飛んで居ます- し、特に高速道路は広く日本より快適です。
しかし思茅区で見るべき物は無いので直ぐバスで西双版納の景洪へ南下する為にタクシーで普洱高速客運站 -昨日の一般車の客運站とは違う場所です- に向かいました。
右は夕べ十三夜の月が橙色だったのでタクシーの中から撮りました(7:59頃)。但し、明け方の月で背景は明るくボヤッとした感じなので明るさとコントラストは強調処理して在り、月の上部は雲です。
ところで、思茅を訪れたのも2度目 -実は先程記した様に他のグループの旅で2004年に思茅に来て居ます- ですが、2000年の雲南桃源旅行の思い出は全く残って居ません。その訳は今回と同じく移動の中継点でしか無いので3年位経ったら綺麗さっぱり忘れて仕舞うのです。今回は「思茅市→普洱市」の名称変更や次に「普洱高速客運站」の事を書くので記憶に残るでしょう。
◆普洱高速客運站
流石に思茅区は違います、時刻表は電光掲示板で表示されて居ます(8:11頃)。これは昆明より凄いぞ!
左の表示に一部を拡大したのが上の写真です。
電光掲示板に「2008-3-21 普洱高速客運站班次信息 8:11:28」と表示されて居ます。私のカメラの時計はピッタシ正確です。何時合わせたのか(?)...、私は今迄5分~10分はズレて居ると思ってました!
左下が広い待合室で未だ出発ゲートは閉まって居ますので我々はここで待つしか無い訳です、松岡さんも暇を持て余して居る様です(8:12頃)。
私はトイレを見に行ったらご覧の様に清潔です、今ちょうど清掃中でした(8:15頃)。
右はゲートガールで未だゲートは閉まって居ます(8:20頃)。ゲートの上に「旅途愉快」と表示されて居ます。
やっとゲートが開き我々が乗る高速バスです(8:22頃)。出発の10分前にゲートは開く様で、バス前面に「普洱⇔景洪」と在ります。
バスは予定通りに8:30に出発し、右はこのバスの車掌です(8:36頃)。あどけない顔ですね。
(-_*)
(2)景洪市(允景洪鎮)
(2)-1.2つの大橋
10:21頃に西双版納傣族自治州の景洪市に入りました(左下の写真)。少数民族は傣族・哈尼族・基諾族・拉祜族・布朗族・彝族・瑶族などです。他に緬甸人(ミャンマー人)を街中で見掛けますが南はミャンマーです。「西双版納」の謂れや地図についてはココから参照して戴きたいですが、「西双版納」の謂れを記すと
「西双版納(Xishuangbanna)とはタイ語で「田の在る12の村」の意味」で、「西双」は
12=4×3 → 四(Si)三(San)
→ 西(Xi)双(Shuang)
という音韻と漢字の変化に依ります。明の時代「1版納」が納税の単位でした。
看板の拡大(右の写真)「創建全国文明城市」「建設和諧新景洪」と在り、景洪に入った事が判ります。
西双版納大橋が小さく写って居る
↓
バスは景洪大橋(又は瀾滄江大橋、左の写真)を渡り景洪中心部に入りました(10:26頃)。
左の写真の原画には西双版納大橋が小さく薄く写って居ましたので、それを右に拡大します。
尚、西双版納大橋については▼下▼をご覧下さい。
2002年の景洪ナイト・フィーバー(Jinghong night fever, China, 2002)
高速バスは思茅区から2時間、10:30頃に版納客運站に着き今表に回って来た所です(10:38頃)。「版納客運站 BANNA BUS STATION」と在りました。タイ語でも書いて在ります。
この後、我々は今夜のホテルの「金象賓館」(→後出)で荷物を下ろし身軽の成って街に繰り出しました。取り合えず、昼飯です。
ここは海抜500m位、この蒸し暑さは懐かしい!
我々は街中の繁盛している食堂に入りました(12:05頃)。先ずビール(啤酒)から出て来ました。両方共「瀾滄江啤酒」で、左の小瓶が500ml、右の中瓶が620ml(720mlでは無く)で、小瓶には「爆炮」と在ります。まぁ、何でも良いから乾杯!
注文する前にタイ族の女性が食べている物(=ぶっかけ飯)を観察しました(左の写真、12:24頃)。
御数を適当に注文し我々も昼飯(右の写真、12:38頃)。小池さんはコーラです。
若い店員は橙色のTシャツを着て日本で言えばマクドナルドの様な乗りです。何でも在る、お酒も出す、お客からしたら手っ取り早い、最近はこういう店が流行りの様です。
(2)-2.景洪市の略マップ
ここで景洪市の略マップを下に載せます(△1のp43)。我々に関係深い市医院(市民病院)、旧版納賓館、金象賓館、民族工芸品店が並ぶ庄洪路、大曼么(ターマンメ)の桃源ハウスなどが概略判る筈です。街の中心は◎で示した景洪の東・西・南・北路が交わる所です。
\ \
======瀾滄江大橋
//|| 市\ \
// || 医\瀾 \
// ||◙ 院\ \
// ||====||\ \
// 景|| 庄洪路||嘎\ \
//白 洪||孔 ||蘭 \ \
//象 北||雀 ||中● \滄 \
//湖 路||湖★ ||路 \ \
=========◎====◎=========西双版納大橋
// 景洪||西路 || 景洪||東路 \ \
// || 景|| || 州医院 \ \
//大曼么 || 洪|| ||嘎 \ \
// 桃源 || ◍ 南|| 観||蘭 \江 \
==== ハウス ||金 路|| 光||南 \ \
||象 || 酒||路 \ \
||賓 || 店
||館 ||
★印:州政府
●印:旧版納賓館
◙ 印:客運站(バス発着場)、◍ 印:客運南站
(3)景洪市の旧友を訪ねる
(3)-1.チノー族の看護婦の白美蘭さん
午後からは雲南桃源倶楽部に関係深い中国人を訪ねるみたいです。最初は北山塞翁の『西双版納』に良く出て来る基諾族(チノー族)の看護婦の白美蘭さん(△1のp12、92など)を訪ねます。我々は瀾滄江の方へ歩いて行き、右が彼女の勤める市民病院で「景洪市人民医院」と在ります(13:05頃)。病院は瀾滄江沿いに在ります。
左が病院内の部屋で、看護婦が休憩を取れる迄30分位待たされました(13:45頃)。白さんは左から2人目です。
右は病院の外で(13:51頃)。
小池さん・松岡さんは今夜の食事を約束したみたいです。
ところでチノー族は1979年に中国55少数民族の最後に認定された民族で認定式には主席に成る前の江沢民が出席して居ます。因みに江沢民は私の弟子ですゾ、ムッフッフ!
現在チノー族は1万8千人位。西双版納には基諾山という山が在りチノー族が纏まって住んで居ますが彼女の父は基諾山に住んで居ました(△1のp71)。基諾山は2000年の雲南桃源旅行で塞翁に案内して貰いました。チノー族は洪水太陽鼓伝説という不思議な伝承を持ち、1950年頃迄焼畑農法/物々交換/病気平癒に霊魂祈祷が行われて居たのですが、今では公務員・医師・商人として新しい道を開拓して居ます。詳しくはチノー族を参照して下さい。
右の写真はチノー族の民族衣装でモデルは白さんの母親です(北山塞翁の『西双版納』から、△1のp64)。
塞翁は94年に発熱して市民病院に入院し、その時に看護婦の白美蘭さんから「思いもかけず日本語で話し掛けられた」事に甚(いた)く感激し(△1のp69)、彼女の父母や兄弟たち更にはチノー族の故郷である基諾山に籠もったりして(△1のp86~93)、塞翁は白美蘭さんを非常に信頼して居ます。
(3)-2.庄洪路の商店会長のプ・リャンスオ - 行方不明
「プ・リャンスオに蛇酒を捧ぐ」以来、プ・リャンスオ(浦良鎖)は”問題の人”ですね。プ・リャンスオは上海出身で庄洪路の自分の店に「上海知青」(「知青」は「知識青年」のこと)と書いて在ります。小池さんはプ・リャンスオの家に行くのに何か手土産が在った方が良いと言って途中の熱帯果物屋で足を止めました。
左がその果物屋です(14:00頃)。パパイアやサラカヤシやバナナやメロン[の様な物]や名前不明の熱帯果物が幾つかです。
小池さんはサラカヤシを買いました(右の写真、14:00頃)。タイ族の小母ちゃんが秤で測っていて、それを松岡さんが見て居ます。
ところでサラカヤシとはどんな果物か拡大したのが左の写真で、小池さんにしたら「どうせ食べるのはプ・リャンスオだ」と思って自身は食べた事も無い熱帯果物を買いました。まぁ、バナナを買うより珍味感で勝って居ます。
我々は手土産を持って彼の自宅迄行きましたが、右の写真の如く彼は不在で近所の人に尋ねたら「もう1ヶ月位不在だ」と、つまり行方不明ですね(14:50頃)。
ではサラカヤシをどうするか?、捨てるか食うか?、捨てるのは勿体無い、じゃあ食おう、それならホテルへ帰ろう、と成った訳で有ります!!
プ・リャンスオに関する思い出は[2008年雲南回帰の旅・番外編]をご覧下さい。
(3)-3.街を散策
◆又もや昆虫撮集で成果 - ジャノメタテハモドキ(蛇の目立羽擬)
ホテルへ帰る途中ですが、私は蝶が飛び交うのに出会うと眼がそちらの方に行って仕舞います、そこで又もや”昆虫撮集”です。
左の写真はタテハチョウ(立羽蝶)という事は判ります(15:22頃)が、暫く名称不明でしたが判明しました。ジャノメタテハモドキ(蛇の目立羽擬)です(△3のp64)。
右もタテハチョウ(立羽蝶)の仲間ですが名称不明です(金象賓館(→後出)で撮影、16:49頃)。写真は何れも略実物大です。
実は左上のジャノメタテハモドキは蛇の目が4つ在るのですが、翅の開き方に依って2つ -この2つは小さい蛇の目- が隠れて居るのです。まぁ、図示すると▼下図▼の様な具合です。
ジャノメタテハモドキ(蛇の目立羽擬)の「蛇の目」
┌─\
│ \
\ ◎ \ ★蝶は翅を畳むと前翅が上に成るので
│ 後ろ翅の蛇の目が隠れる事が在る
├─── /
│⑧ ←──/
│◎
\ /
└─/
そもそもタテハチョウ(立羽蝶)は右上の写真の様に翅を立てて(=閉じて)止まる事が多いので、そう呼ばれるのです。右上の写真の裏翅から種(しゅ)を推測し名前を当てる事は中々面白いですが未だ判明して居ません。
この”昆虫撮集”も大きな成果です!
(^o^)
さぁ、それでは街中の風景を暫し楽しんで下さい。
ジャノメタテハモドキを撮った後のスイカ屋が右です(16:41頃)。写真に写っている秤で重さを測り値段を決める様です、どれも略同じ様に見えますが。
そして16:45頃の金象賓館に帰って来ました。先程の名称不明の蝶はこの時に金象賓館の応接セットに止まって居たのです。
その後サラカヤシを試食したら、甘酸っぱくて、でも少々クセ -これを「熱帯の味」と言うのでしょう- が有ります。
金象賓館の従業員のヘ・チャンリ(賀長利)は未だ来て居ません、18時に出社するみたいです。
右の写真は金象賓館のベランダから撮ったヤシの木で(17:00頃)、ヤシの木を上から撮って居ます。
我々は再び散歩に出掛けました。左下の写真は通りの風景で(17:12頃)、ヤシの並木が見えます。
左は通りに出ていた居住区委員会のスローガンです(17:15頃)。「新城社区居委会宣伝欄」と書いて在ります。赤のチョークで「”五創”活動聯袂打造新景洪」と在り黄色のチョークで「未来的文明景洪」と在ります。
右上はブーゲンビレアです(17:20頃)。
左下はタイ族の青年僧が歩いて居ました(17:20頃)、足元を見るとサンダル履きです。タイは上座部仏教(=小乗仏教)です。
左は青空床屋です(17:20頃)。
右が青空喫茶店です(17:32頃)、暑いので冷たい飲み物とか軽食も在ります。
左は割り箸を作っている所で(17:40頃)、竹から手作業で作ります。
右は夕食の御数を売って居ます(17:46頃)、日本の惣菜屋ですね。やはり若い人が中心です。
さて、そろそろヘ・チャンリが出社する時間です、金象賓館に帰りましょう。
(3)-4.桃源ハウスの住人ヘ・チャンリ - 金象賓館の万屋
左下がヘ・チャンリ(賀長利)です(18:15頃)、写真の右側のホテルの従業員です。彼はホテルマンとして勤務してますが寧ろ万屋(よろずや)と言った所です。実は松岡さんが金象賓館で働いて居るという情報源は中川さんみたいです。
そして右下の写真でヘ・チャンリと話しているのが、何と”ヘ・チャンリの新妻”だそうで、右の娘さんが”新妻の連れ子”だそうで娘さんは21歳です(18:24頃)。
ところでヘ・チャンリは娘さんと一緒に住んで居ましたが、ヘ・チャンリの娘さんは?、と聞くと「娘は結婚した」と答えました。ヘ・チャンリの娘さんは2002年に中学2年でした。あれから6年、今年は20歳位か成る程、新妻の連れ子と同じ位の年です。そんな話をこの時にしました。まぁ兎に角、後は食事をし乍ら、という事に成りました。
◆小池さんと松岡さんの意図が読めたぞ - 21日の食事会
私は全然知らなかったですが今回の「食事会」の事は予め決まって居たのです。これには北山塞翁の意向が反映して居ます。という事は日本を出発する前に既に決まって居たのです。それで松岡さんが19日の夕方に元陽県新街鎮のホテルをキャンセルして緑春に歩を進めた理由がここに在ったのです、つまり21日の食事会は既定の日程なのです。
理由はこうです。この2、3年で体力が可なり落ち、記憶も衰えて、もう雲南の旅をする事は無理に成った北山塞翁に成り代わって”或る事”をはっきりさせる目的が有るのです。”或る事”とはズバリ、大曼么に買った桃源ハウス(或いは北山マンション)です。もう北山塞翁は桃源ハウスは誰かに「呉れて遣る」という気持ちでしょうが、当人たちの意思をはっきりさせる必要が有るのです。それで桃源ハウスに所縁が深い
白美蘭さん 市民病院の看護婦で94年に塞翁が入院した時の恩人
プ・リャンスオ 庄洪路(工芸品売り場通り)の商店会長 ← 行方不明
(浦良鎖) (今も会長かどうかは判りません)
ヘ・チャンリ 桃源ハウスの管理人兼住人
(賀長利)
と食事を共にして「後は宜しく頼む」と一件落着させる積もりなのです。プ・リャンスオにも事前に「食事会」の事を連絡してた筈ですが、それ以前に行方不明に成っていたと考えるべきです。
(*_@)
(3)-5.食事会 - 看護婦の変貌振りに自棄酒
そういう事で、この食事会は北山塞翁にとっては非常に重要なのです。従って私は詳しく書くことにします。
今夜の宴は「曼闘傣宴府」で行います(左の写真、18:49頃)。小池さん、松岡さん、李君が写って居ます、どうやら李君が場所の設定をした様です。
右は左から、松岡さん、小池さん、看護婦の白美蘭さんとその恋人(→職業は後で紹介します)です(19:15頃)。それにしても豪華な料理ですねぇ。
鶏肉、豚肉、魚料理、ジャガイモの千切りの炒め物(=韓国のお好み焼きのチヂミ[の様な物])、野菜料理色々などが並んで居ます、後ビール(啤酒)も(下の拡大写真)。
左は看護婦と恋人です(19:15頃)。
右は女同士の話し合いです(19:16頃)。どうやら”ヘ・チャンリの新妻”と連れ子の話を山村さんが聞いている様です。
左がヘ・チャンリ(右側)と李文革君です(19:16頃)。李君が今回の会場設定をした様ですが、彼は国際的旅行ガイドなのでお手の物です。
二人の背後は舞台で、それを拡大したのが右です。
李君は2002年当時はガイドに成って日も浅かったですが今では国際的旅行ガイドに成長しました。彼の事も[2008年雲南回帰の旅・番外編]に書いて在ります。
小池さんは携帯電話の機能を看護婦と恋人に説明して居ます(19:16頃)。
松岡さんは不貞腐れ気味で只管(ひたすら)食べて居ます、それは不貞腐れたくも成りますね、もう直ぐ解ります。
左はヘ・チャンリの新妻と連れ子です(19:50頃)。
右はヘ・チャンリ一家です(19:50頃)。
そして右の写真、看護婦とその恋人のタクシー運転手の2ショットです(19:50頃)。私も書くのが阿呆らしく成って来ました。横で松岡さんは「ちぇ、くそー」と言ってました。
そう言えば白美蘭さんの娘さんを今日は見て無いですね、今迄は何時も娘さんを連れて居たのに、結婚したのか?、それで看護婦は新しい恋人を作ったのか?、旦那さんは離婚したのか?、...私の頭はどんどん勝手に回転して行きます!!
上の疑問や白美蘭さんの恋多き人生については[2008年雲南回帰の旅・番外編]をご覧下さい。
(>o<)
もうヘ・チャンリと自棄酒(やけざけ)です(左下の写真、19:53頃)。Tシャツの歌麿も泣いてます!!
断って置きますが、ヘ・チャンリは大酒豪です。
松岡さんも自棄酒です(右の写真、19:54頃)。
◆浮世絵のTシャツの思い出
浮世絵のTシャツは中国で人気が有ります、歌麿とか写楽ですね。1999年か2000年かに、私は昆明のホテルで見知らぬ中国人(漢族)に「浮世絵のTシャツと自分のTシャツと取り替えて呉れないか」と言われ交換した事が有りました。他でも私の浮世絵のTシャツを指差していた人を幾人か見掛けました。
2007年に旅順の軍施設を見学した時の面白いエピソードを紹介しましょう(←この旅は雲南桃源倶楽部とは別の旅です)。当時旅順の軍施設は未だ解放されて居らず日本人は見学不可なのですが、そこは中国、ちゃんと”それで商売”してる人が居て、確か100元払ったら黙認して呉れるのです。但し「中国人に成り済ませ、絶対喋るな!!(←喋ると日本語はばれる)」が条件です。それで私はその様にしてチケットを買い並んで居たのですが、私はその時「浮世絵のTシャツ」を着ていたのです。浮世絵は中国でも知られて居ますからまずいと思い慌ててTシャツを引っ繰り返し裏表を逆にして見学しました、アッハッハ!!
それから間も無く2009年3月20日に旅順の軍施設は外国人に解放されました。{この「旅順の軍施設解放」の記事は2009年4月16日に追加。}
(-_*)
(3)-6.大曼么の桃源ハウスへ - 今はヘ・チャンリ一家の家
小池さんと松岡さんの意図から考えたら、この後当然大曼么の桃源ハウスを”現場検証”をする筈で、案の定ヘ・チャンリ一家と共に桃源ハウスに向かいました。ヘ・チャンリは一貫して北山塞翁が不在の時、桃源ハウスを守り管理して来たのです。唯一の問題と言えばプ・リャンスオの”病気”ですが、あれから6年経って居ます。今は関係無いでしょう。
桃源ハウスは今はヘ・チャンリ一家が住んで居ます、そして将来もヘ・チャンリが管理して行くでしょう。塞翁が「市井の哲人」(△1のp68)と呼んだヘ・チャンリが桃源ハウス(=北山マンション)の所有者に成ることに塞翁も満足すると思います。
左下の写真が、その大曼么のマンション群です(北山塞翁の『西双版納』より、△1のp106)。
私は3回位桃源ハウスに行ってますが、何時も夜なので桃源ハウスの写真は撮って無いのです。
右は桃源ハウスの近くに居たノラ猫です(20:34頃)。
一つだけここで紹介するのは左の柱時計が掛かって居ました(20:40頃)。時刻も合って居ます。そして赤い字で「愚公亭」と在り、その下に青い字で「北山昌夫」と在ります。
私が北山先生のことを塞翁と呼ぶのは、「雲南桃源倶楽部」で自ら愚公亭塞翁と宣って「自分のことは塞翁と呼んでくれ」と仰ったのです。その想いが強かったのですねぇ、私はこの時計を撮る時に塞翁の言葉が思い出され不思議な感動を覚えました!
桃源ハウスでの話の内容については全て[2008年雲南回帰の旅・番外編]即ち
西双版納でタンゴ、何でや?(TANGO in Xishuangbanna, why ?, China)
に記して在りますので是非是非ご覧下さい。特にヘ・チャンリが結婚した理由については非常に驚嘆する内容です。ヒントはタンゴ(tango)です、ダンゴじゃ無いでっせ!!
私たちは桃源ハウスの”現場検証”が済んだ後、再び一杯引っ掛けに行きました(23:30頃)。右からヘ・チャンリ(←彼は腹が減ったらしく米線を食って居ます)、李君、松岡さん、小池さんです。
こんな遅い時間に再び飲みに行くとは、松岡さんは余程看護婦の2ショットに当てられた様ですね。気持ちは解ります、ワッハッハッハ!!
{この章は2017年7月16日に最終更新}
(1)朝市を散歩
金象賓館に近い南市場の朝市(常設)を散歩しました。その中からちょっと変わった物を紹介します。
先ず左下はカエル(蛙)で、中央下はウナギ(鰻)で、この2つは同じ店です(7:55頃)。カエルは孔雀湖でも居ますがウナギは瀾滄江でしょう。
右端は豚の小腸です(7:58頃)。
左下は子豚を非常に多くの唐辛子で下味を付けて売って居ます(7:59頃)。精が付きそうですね朝っぱらから、ホッホッホ!!
中央下はこのお姉さんが売ってますが、左から獅子唐、トマト、唐辛子を焼いてます(8:04頃)。獅子唐と唐辛子は串に差してます(右下の写真は拡大)がトマトを焼いて食べるんですね。
左下は淡水魚をお婆さんに売り込んで居ます、中央下も同じ店でやはり淡水魚です(8:10頃)。この程度の淡水魚は孔雀湖にも居ます。
右下はカワエビ(川海老)ですが、これは瀾滄江ですね(8:13頃)。
(2)喫茶店
加州陽光 CALIFORNIA SUNSHINE 珈琲
西双版納族游度暇区
ところで、私はこの旅行中に2002年10月24日の「景洪ナイト・フィーバー」の話を”すっかり忘れて”居ました。もう一度、瀾滄江右岸の西双版納大橋の遊歩道の近くに在った遊技場に行って見たかったですね。あぁ、残念無念!!
「景洪ナイト・フィーバー」の話は▼下▼から、お読み下さい。
2002年の景洪ナイト・フィーバー(Jinghong night fever, China, 2002)
前にちょっと言いましたが私は昆陽を訪ねてみたかったですね、鄭和の生まれ故郷ですから。
「桃源倶楽部「食み出しトリオ」+紅一点」
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【脚注】
※1:プアール茶/普洱茶(―ちゃ、Puer tea)は、中国茶の一種。雲南省普洱に産する茶で、麹菌を寄生させた緑茶を発酵させた赤褐色のもの。黴臭い香りが特徴。プーアル茶とも。
補足すると、六大茶類は緑茶・白茶・青茶・黄茶・黒茶・紅茶が有る。
※1-1:集散地(しゅうさんち)は、生産地から産物を集めて、これを他方に送り出す地。
※2:瀾滄江(らんそうこう)は、メコン川(Mekong river)の中国名。東南アジア第1の大河。中国青海省南部、チベット高原東部に発源、山系の走向に従って南東流後に南流、中国雲南省およびラオス・タイの境を流れ、カンボジアを貫流、ベトナム南部で南シナ海に注ぐ。下流のデルタ地帯は水田地帯として重要。長さ4350km。
(以上、出典は主に広辞苑です)
【参考文献】
△1:『西双版納 -悠々ロングステイのすすめ-』(北山昌夫編著、三一書房)。
△2:『地球の歩き方104 雲南・四川・貴州と少数民族 1999~2000年版』(「地球の歩き方」編集室、ダイヤモンド社)。
△2-1:『地球の歩き方D06 成都・九寨溝・麗江 2012~2013年版』(「地球の歩き方」編集室、ダイヤモンド社)。
△3:『熱帯アジアの昆虫』(浜野栄次著、講談社)。
●関連リンク
@参照ページ(Reference-Page):西双版納の地図▼
地図-中国・西双版納(Map of Xishuangbanna, -China-)
@参照ページ(Reference-Page):中国雲南省の少数民族▼
資料-中国の55の少数民族(Chinese 55 ETHNIC MINORITIES)
@参照ページ(Reference-Page):日本の旧暦や二十四節気について▼
資料-「太陽・月と暦」早解り(Quick guide to 'Sun, Moon, and CALENDAR')
@参照ページ(Reference-Page):蝶の分類学と特徴▼
資料-昆虫豆知識(Insect Trivia)
@横顔(Profile):雲南桃源倶楽部や雲南桃源旅行について▼
雲南桃源倶楽部(Yunnan is Shangri-La)
日本の月の写真(十三夜の月)▼
月見の宴(The MOON watching banquet in Japan)
普洱茶について▼
2002年・パーリャン小学校視察の旅
(Report of Paliang's primary school, China, 2002)
西双版納大橋や2002年10月24日の景洪ナイト・フィーバーの話▼
2002年の景洪ナイト・フィーバー(Jinghong night fever, China, 2002)
プ・リャンスオ(浦良鎖)やヘ・チャンリ(賀長利)▼
プ・リャンスオに蛇酒を捧ぐ(Snake liquor to Pu Liangsuo, China)
景洪の蒸し暑さ、北山塞翁の最後の雲南桃源旅行▼
2002年・雲南タイ族民家宿泊記(Homestay at Dai's-house, China, 2002)
旅順の軍施設▼
中国の新少数民族か?、ラ族(裸族)
(Is a new minority of China ?, 'Luo zu')
昆明の北山塞翁随行記で鄭和に触れる▼
2002年・尹君のお父さんの思い出
(Memories of Mr.Yin's father, China, 2002)
私の弟子・江沢民や私の中国名について▼
エルニーニョ深沢とは何者か?!(Who am I ?)
中国の少数民族について▼
外部サイトへ一発リンク!(External links '1-PATSU !')