-- 2009.01.05 エルニーニョ深沢(ElNino Fukazawa)
2017.06.14 改訂
尹鴻飈君 -難しい漢字なので字を大きくしました- の故郷は中国雲南省の金平県です。正式には雲南省の紅河哈尼族彝族自治州の金平苗族瑶族傣族自治県です。読みは
哈尼族 ハニ族
彝族 イ族
苗族 ミャオ族
瑶族 ヤオ族
傣族 タイ族
で、要するにこれらの少数民族(Ethnic Minorities)が多く住んでいる地域なのです。雲南省の少数民族については
資料-中国の55の少数民族(Chinese 55 ETHNIC MINORITIES)
を参照して下さい。因みに尹君は漢族(Only one Majority)です。金平県はベトナムと国境を接していて、一口で言えば”辺境”ですが素朴で心が和みます。金平とはこんな所です!
詳しい経緯(いきさつ)は私は知りませんが、その様な”辺境”から出て来た尹君は北山昌夫先生 -本人は「愚公亭塞翁」と言い塞翁と呼んでくれと言ってます- に日本で留学するに際してお世話に為ったみたいで、1999年の雲南桃源旅行 -塞翁が案内した旅- では留学生で通訳として旅行に同行して居ました(←塞翁は多くの留学生の保証人に成ったりして居ます)。その後、尹君は日本の愛知県の会社で働き日本国籍も取得しました。
当ページでは尹君では無くて尹君のお父さんの事を中心に書きます。何故ならば、飛行機のトラブルで4時間位遅れたのに塞翁を待っていた律儀な人、昆明のお父さんのマンションに塞翁と共にお邪魔した際には、琴やピアノを演奏してくれた娘さん、お父さんの手料理を御馳走に為った事、昆明の雪の写真を見せて貰った事など、私にはとても強い印象で残って居るからです。
(1)飛行機の大幅遅れにも我々を待っていた!
尹君のお父さんは何時も塞翁を空港迄出迎え、私も出迎えの姿を見るのは1999年、2000年の雲南の旅に続き3回目です。「1999年・雲南の旅」をご覧下さい。{この段は2017年6月14日に尹君に確認しリンクを追加}
この日(=2002年10月20日)も昆明(=雲南省の省都)の空港で出迎え更にホテル迄来てくれました。右の写真はホテル(=銀天大酒店)で撮影し、右から尹君のお父さんと娘さん、そして塞翁です。娘さんは「中国名花集」にも載って居ます。
実はこの写真を撮ったのが午前1時頃で日付も10月21日に変わって居ます。娘さんは少し眠そうです。広州の空港から予定通りに飛んで居れば午後8時頃には昆明に着いて居たのです。尹君のお父さんと娘さんは午後8時頃からずっと空港で待ち続けたのです。その訳をこれから説明しましょう。
その前に、今回の全旅程は「2002年・雲南タイ族民家宿泊記」に載って居ますが、ここでは省略して関係有る部分のみを抽出してコピーすると▼下▼の様に成ります。
<宿泊>
10/19(土) 関空 → 広州 華南農業大学招待所
20(日) 広州 → 昆明 銀天大酒店 飛行機のトラブルで約4時間遅れる
21(月) 昆明 → 景洪 版納賓館と桃源ハウス
...<後半略>...
(2)実は広州で飛行機トラブルが有った
この日の昼は塞翁の知り合いの華南農業大学の黄先生が「生卵と蛇とどちらがゲテモノ?」という”面白い問題”に挑戦して居たのです。これは既に2004年に発表した「民族変わればゲテモノ変わる」に書いて居ますが、我々はこうして蛇料理をちょっと食べ日本の「玉子掛けご飯」を食べて「食は広州に在り」を満喫して、意気揚々と昆明行きのジェット機に乗り込み飛行機は予定通りに離陸用の滑走を始めました。スピードも可なり上がり後少しで離陸か、と思った時に何時も離陸の時に感ずる「ググッと背後から押す」様な感覚が有りません。「?」と思った私は「このまま離陸したらヤバいんとちゃう?」と思ったのと略同時に飛行機は突然逆噴射を行い滑走路の端で止まりました。そして再びゲートに戻ったのです。
ゲートに戻っても何の説明も無く、パイロットは油圧系統を「ギィー、ギィー」と音をさせて無駄な抵抗を何度も、時間にして40分以上も試みて居ました。それからやっと機内放送が有り(←何言ってるか解らない)、状況の説明をして居ましたがエンジン・トラブル(engine trouble)とは言って無いので、パイロットの反応からやはり油圧系統のトラブルだと思います。もう、この頃は乗客も騒いで居ます。ゲートに戻って1時間以上も経ってから漸く飛行機を乗り換えろという放送が有り、私たちはブーブー言い乍ら乗り換えました。
乗り換えたら直ぐ出発かと思いきや、これが中々出発しない。結局出発する迄4時間位も掛かりました、広州→昆明の所用時間が約2時間です、いやはや!
この遅れがその儘昆明到着の遅れに成ったです。1つだけ言うと、この日は機内食が我々の晩飯に成りました。何故かというと、この日は昆明のレストランで夕食を取る予定でしたが午前1時(←ホテルのレストランも終了)からレストランへ行くのは皆疲れたと言い、それぞれお菓子などを食べ直ぐに寝ました。明日は又飛行機で景洪(=西双版納)へ行かねば為りません、旅では睡眠は極めて大事です。
翌日、我々一行は飛行機で景洪に向かい、タイ族の民家に”体験宿泊”し彼等と寝食を共にし交流を深めました。その模様は前掲の「2002年・雲南タイ族民家宿泊記」に詳しく記しました。この旅は[2002年雲南桃源旅行・真髄編]という副題が付いて居ます。
(1)午後は塞翁と唐さんと共に滇池の龍門へ
[雲南桃源旅行・真髄編]を終えた私たちは西双版納から再び10月25日に昆明に戻って来ました。ここで又旅程をコピーして▼下▼に載せて置きます。明後日は塞翁は帰国します。小池・松岡・私の3人(=桃源倶楽部「食み出しトリオ」)は28日から愈々雲南解脱の旅(解脱編#2の旅)」(←解脱編は#1~#3迄在る)に出る、という25日はそういうタイミングの日でした。
<宿泊>
...<前半略>...
10/25(金) 景洪 → 昆明 → 滇池(龍門) → 尹君の家 塞翁、唐さん、私
銀天大酒店(昆明) 塞翁、唐さん、食み出しトリオ
26(土) <昆明の「清真」通り> 食み出しトリオ
昆明 → 広州 華南農業大学招待所
27(日) (広州→関空:塞翁は帰国、広州→上海:唐さんは帰郷)
天翔大酒店 食み出しトリオ
28(月) 広州 → 桂林 三江・風雨橋迎賓館 食み出しトリオが「解脱編#2」の旅
...<後半略>...
昼頃昆明に着いた我々は昼食後に街を散策する者と滇池の龍門へ行く者と二手に分かれ、私は1999年に龍門へ行ってる筈ですが余り印象に残って無いので後者にしました。滇池(面積298㎢)は雲南省で一番広い湖ですが琵琶湖(面積670㎢)の約半分以下の広さです。滇池は市内中心地の3km位西南に在り、龍門は滇池の西側の峻厳な山に在ります。
左が龍門へ上る2人乗りのリフトで、塞翁と[真髄編]ではしゃいでた唐華英さんです。背後に見えるのが滇池です。下りも乗っている人が居ます。
滇池は昆明に離発着する飛行機からも見えるのですが、右が今日載って来た飛行機から撮った滇池です。昆明空港は市内中心地の5km位東南に在ります。
リフトを降りても暫くは登り道が続きます。唐さんは龍門への登り道の途中で遣っていた易者(※1~※1-7)に何かを相談 -可なり長い時間で10分間位- して居ましたね(右の写真)。テーブルの上には筮竹(※1-2)と易(えき)の本が置かれて居ます撓い。
唐さんは占って貰った訳では無いですが見料として何某(なにがし)かを置いて行きました。27日に上海に帰ってから何かの参考にするのでしょう。
龍門に着きました。ここは道教の石窟(※2、※2-1)だそうで、三清閣から慈雲洞へ至る道は清の乾隆年間(1736~1795年)に呉清米という道士が14年の歳月を掛けて掘ったものとか。そして慈雲洞から絶壁を40m程行けば龍門石窟(※2-2)です。この石窟は楊親子と70余名の石工が22年掛けて掘ったものだそうです(△1のp53)。私が思うに中国人は絶壁の龍門石窟が好きなのです。何故ならば幾つか在る龍門石窟は悉く絶壁に造られているからです。
龍門で最も有名な所は、黄河中流の険所で山西/陝西両省の境に在り山岳が対峙して門口を成して居るそうせす。ここは所謂「登龍門(登竜門)」(※3)の語源に成った所です。又、龍門石窟で最も有名な所は、河南省洛陽の南郊に在るそうです。という事で昆明の龍門や龍門石窟は全国一では無いですが雲南省ではここが1番です。
でも私たちは絶壁に在る龍門石窟には行きませんでした。その手前に充分雰囲気と景色が堪能出来るスポットが在るのです。
左が私です、背後は滇池です。
右が龍門のモニュメントをバックにした唐さんです、背後は岩山です。
その岩山に行ってみたのが左の写真です。石窟(※2)を彷彿とさせます。
右は北の方角です。昆明市街地のビル群が写って居ます。
左は北東の方角で、下方に見える龍門索道が龍門側と対岸を結んで居ます。
右は東の方角で、龍門索道の向こうが雲南民族村です。滇池が美しい!{このリンクは2017年6月14日に追加}
因みに、この滇池の南に昆陽という所が在り(→地図)、そこが鄭和(※4~※4-2) -明代にアフリカ迄遠征した中国の宦官- の生まれ故郷です。私は昆陽にも興味が有りますね。
右は塞翁が「僕はこっちの方が良い」と言って龍門より少し上の断崖にどんどん上って行った所でポーズを取りました。これは東南の方角で遥か下に滇池が見えて居ます。
塞翁は芦屋のドン・キホーテ(※5、△2のp3、66~67)を気取って、龍でも押さえ付けた気分なのでしょうが「先生、明後日は帰国でっせ!」。塞翁は明後日から再びニッポンの窮屈さと家庭のシガラミの生活 -そもそも、それが嫌で雲南省の西双版納を桃源郷としたのです!- に思いを巡らせ、何時迄もここに居たい様に見えました。
帰りもリフトに乗って下り、そこからタクシーに乗って尹君のお父さんのマンションに向かいました。
(2)夕方はお父さんの家で - 娘さんの演奏、お父さんの手料理、
昆明の雪の写真
我々3人が尹君のお父さんのマンションに着いたのは午後5時半位です。お父さんは”辺境”の金平を離れ尹君の娘さんを教育する為に昆明のマンションを借りて居ます。故郷の金平の家はお母さんが1人で -塞翁のメモに拠ると猫を10匹位飼って居ます- 守って居ます。お父さんのマンションは「金星園丁小区」に在り、後でインターネットで検索すると昆明市盤龍区金星園丁小区と在り、地図で見ると市の北側の郊外 -昆明市は環状線の様に鉄道が市の中心部を囲んで居ますが、僅かにその外側です- に位置して居ます。小区に出入りする車はガードマンがチェックします。
お父さんが何か言うと、娘さんは琴を出して演奏し始め、続いてピアノも演奏してくれました(左の2枚の写真)が非常に上手いのです。「中国名花集」をご覧下さい。
私は中国ではどんな楽譜を使って居るのかと思い、今のピアノ曲の楽譜を撮らせて貰いました。
曲名は「柳青娘」です(右の写真)が楽譜を見て納得、笛を買ったりした時に見たのと同じです。五線紙と言いますが、先ず五線が無い、音の高さは1~7の数字(←日本の度(※6)に相当)など、五線の楽譜とは随分異なります。しかし娘さんはこの楽譜で上手く演奏してました。何事も”慣れ”なのです!!
そして最後はご覧の様に尹君のお父さんの手料理を御馳走に為りました(左下の写真)。写真の右端の手がお父さん、左端の手が唐さんです。今夜はアルコールは無しですゾ。ところで尹君のお母さんの猫好きは紹介しましたが、このマンションにも猫を飼って居て我々が食事をしている間に私のリュックサックにじゃれて居ました(右下の写真)。
そして尹君のお父さんに見せて貰った写真の中に昆明の雪の写真が在りました。昆明では雪は降らないと聞いて居たので -昆明は亜熱帯ですが標高1891mの盆地に在り「春城」(「常春の都」の意味)と呼ばれて居ます- 驚いて目を凝らして見ましたが、やはり20年に1度位は雪が降るんですね。帰国してからネットで検索したら「珍しい昆明の雪」が写真付きで出て来ます。
そう言えば日本でも四国板東で10数年振りの積雪に私は遭遇して居ます。我々は午後8時半頃に昆明の家を辞しタクシーでホテルに帰りました。
もう2002年から10年近くが経ちました、日本では十年一昔(※7)と言います。松岡さんの話(2010年の年末)に拠ると、尹君のお父さんはその後他界されたそうです。そうですか、合掌!
(-_-)
_A_
塞翁も少し記憶が曖昧に成って来た様です。尹君の娘さんはその後日本に来て尹君と生活を共にして居ましたが、これも松岡さんの話に拠ると今は奈良女子大に行っているそうです、賢いですね。
年寄りが老いて行くのには何の変化も無く”只枯れて行く”だけですが、若い世代が成長するのにはしばしば劇的な環境変化を伴います。そんなことを考え乍ら、...2008年に金平を2度目に旅した事(←初めて訪れたのは2000年です)が、早くも懐かしく感じられます。
{この章は2011年1月30日に記事を最終更新しました。}
【脚注】
※1:易(えき、divination)とは、[1].易経(周易)のこと。
[2].又、易経の説く所に基づいて、算木(さんぎ)と筮竹(ぜいちく)とを用いて吉凶を判断する占法。上古、伏羲が初めて八卦(はっけ)を画し、神農が八卦を組み合わせて六十四卦と成したのに始まると言う。陰陽二元を以て天地間の万象を説明するもので、陰を示す陰爻「--」と陽を示す陽爻「―」を3つ重ねた八卦を基本とし、八卦を組み合わせた六十四卦に万象を含むとする。中国古代の宇宙観を示すもの。易占い。易学。「易者・易占」。<出典:一部「学研新世紀ビジュアル百科辞典」より>
※1-1:算木(さんぎ、divining blocks)とは、この場合、易(えき)で爻(こう)を組み合わせて卦(け)の形を表す具。長さ約10cmの正方柱体の6個1組の木。
※1-2:筮竹(ぜいちく、divining bamboo-sticks)とは、占いに用いる、竹を削って作った長さ約40cmの細い棒。普通50本。→筮(めどき)。
※1-3:易者(えきしゃ、augur, fortune-teller)は、算木(さんぎ)と筮竹(ぜいちく)を使い、易に依って占うのを業とする人。売卜者(ばいぼくしゃ)。八卦見(はっけみ)。「大道―」。→易者身の上知らず。
※1-4:八卦(はっけ、ba gua[中国], fortunetelling)とは、(ハッカとも)[1].周易で、陰陽の爻(こう)を組み合わせた次の八つの形象。
☰ 乾(けん) ☱ 兌(だ) ☲ 離(り) ☳ 震(しん)
☴ 巽(そん) ☵ 坎(かん) ☶ 艮(ごん) ☷ 坤(こん)
自然界/人事界百般の現象を象徴する。→八象(はっしょう)。
[2].転じて、占い。易(えき)。卜筮(ぼくぜい)。
※1-5:卦(け、hexagram)とは、易(えき)で算木(さんぎ)に現れる形象。これに依って天地間の変化を表し吉凶の判断をする。八卦を基本とし、更に六十四卦の変化を生ずる。→八卦。
※1-6:爻(こう)とは、易(えき)の卦(け)を形造る横画。―を陽、--を陰とする。卦は陽爻と陰爻とを組み合わせて構成される。→八卦(はっけ)。
※1-7:「易者身の上知らず」とは、易者は他人の身の上の判断はするが、却って自分の身の上は判らない。陰陽師(おんみょうじ)身の上知らず。医者の不養生。
※2:石窟(せっくつ、stone cave, rock cave)は、岩屋。岩穴。岩窟(がんくつ)。→石窟寺(せっくつじ)。
※2-1:石窟寺(せっくつじ、cave temple)とは、絶壁の岩を刳り貫き、その中に仏像を安置、又は彫刻し、壁面には彩色装飾をも加えて寺院とした所。敦煌や雲崗(うんこう)や幾つか在る龍門(竜門)石窟寺など。
※2-2:龍門石窟/竜門石窟(りゅうもんせっくつ)は、中国河南省洛陽の南郊に在り、そこの龍門(竜門)に在る石窟寺院。北魏の孝文帝の洛陽遷都(494年)頃から唐の中頃に至る二百余年間に造られた大小多数の石窟などがあり、敦煌/雲崗(うんこう)の石窟と並んで有名。世界遺産。
※3:登龍門/登竜門(とうりゅうもん、gateway to success)は、[後漢書[党錮伝、李膺]](龍門(竜門)は中国の黄河中流の険所で、ここを登った鯉は龍(竜)に成ると言われた事から)困難ではあるが、そこを突破すれば立身出世が出来る関門。「作家の―」。
※4:鄭和(ていわ、Zheng He)は、明の成祖(永楽帝)朝の宦官。本姓は馬、名は三保。昆陽(雲南省昆明市晋寧)の人(1371~1434頃)。色目人で代々イスラム教徒。1381年に明の太祖(=朱元璋)は雲南地方を支配していた元の出先機関を攻略し滅亡させた。鄭和は捕らえられ去勢されて燕王(後の永楽帝)に献上された。大船隊を率いて1405~33年の間に前後7回、南洋/インド洋/アラビア海方面に遠征し、最も遠い地点は東アフリカのケニア迄到達。通商貿易に貢献。三保太監または三宝太監と称された。
※4-1:色目人(しきもくじん)とは、(諸種族に属する者の意)元代、その治下のトルコ/イラン/アラビアなどの西方系諸民族の総称。モンゴル人/色目人/漢人/南人の四身分の第2位。準支配階級として財政/流通を担当。
※4-2:太監(たいかん)とは、明/清代、宦官の官署の長官。
※5:ドン・キホーテ(Don Quijote[スペイン])は、[1].セルバンテス作の長編小説。前編1605年、後編15年刊。主人公のドン・キホーテは騎士道物語を読み過ぎて妄想に陥り、自らラマンチャ出身の騎士と成って痩せ馬ロシナンテに跨り、従士サンチョ・パンサを伴って遍歴の旅に出掛け、数々の滑稽な冒険を演ずるという風刺・諧謔小説。<出典:一部「学研新世紀ビジュアル百科辞典」より>
[2].転じて、空想的理想主義者。「―型の人物」。
※6:度(ど)とは、この場合、音程の単位。全音階で、各音の隔たりの大きさで表す。
※7:十年一昔(じゅうねんひとむかし)とは、10年経てば、もう昔である。10年を一区切りと見て、その間には大きな変化の有るものだという事。
(以上、出典は主に広辞苑です)
【参考文献】
△1:『地球の歩き方104 雲南・四川・貴州と少数民族 1999~2000年版』(「地球の歩き方」編集室、ダイヤモンド社)。
△2:『西双版納 -悠々ロングステイのすすめ-』(北山昌夫編著、三一書房)。
●関連リンク
@参照ページ(Reference-Page):雲南省の金平県や昆明の地図▼
地図-中国・昆明と雲南省(Map of Kunming and Yunnansheng, -China-)
@参照ページ(Reference-Page):広州の地図▼
地図-中国・広東省の広州(Map of Guangzhou of Guangdong, -China-)
@参照ページ(Reference-Page):中国雲南省の少数民族▼
資料-中国の55の少数民族(Chinese 55 ETHNIC MINORITIES)
@補完ページ(Complementary):尹君の故郷の雲南省金平の旅▼
2008年・雲南の河口/金平etc
(Hekou, Jinping etc. of Yunnan, China, 2008)
@補完ページ(Complementary):2002年の旅の全旅程
(雲南桃源旅行、雲南解脱の旅)▼
2002年・雲南タイ族民家宿泊記(Homestay at Dai's-house, China, 2002)
@横顔(Profile):「雲南桃源倶楽部」について▼
雲南桃源倶楽部(Yunnan is Shangri-La)
律儀な尹君のお父さんや滇池や雲南民族村▼
1999年・雲南の旅(昆明/西双版納/大理)
(Kunming, Xishuangbanna, and Dali of Yunnan, China, 1999)
尹君の娘さんよ登録▼
中国名花集-花の写真館(Chinese Flowers)
華南農業大学の黄先生、「生卵と蛇とどちらがゲテモノ?」に挑戦▼
民族変わればゲテモノ変わる(About the bizarre food)
旅では飯と睡眠とどちらが大事か?▼
2001年・麗しの麗江(Beautiful Lijiang, China, 2001)
雲南解脱の旅(解脱編#2)▼
2002年・三江のトン族を訪ねて(Dong zu of Sanjiang, China, 2002)
2人乗りのリフトや中国の宦官について▼
2001年・夜行列車で成都へ(To Chengdu by NIGHT TRAIN, China, 2001)
四国板東で10数年振りの積雪▼
板東のドイツ人俘虜たち(The German captives in Bando, Tokushima)