2001年・夜行列車で成都へ
[蜀の国:三星堆/都江堰/青城山/三国志]
(To Chengdu by NIGHT TRAIN, China, 2001)

-- 2005.10.02 エルニーニョ深沢(ElNino Fukazawa)
2014.09.14 改訂

※注意:このページは写真が多く、読込みに時間が掛かります。
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 ■はじめに - 成都の旅程

 2001年10月20日中甸空港(現:香格里拉(シャングリラ)空港)の濃霧で遅れた飛行機は昼過ぎにやっと飛び立ち、昆明空港に着いたのは午後1時半頃(←9時半頃に到着予定なので約4時間送れ)でした。
 大幅な遅れにも関わらず待っていてくれた直美ちゃん(右の写真)と昆明駅前広場で合流しました。直美ちゃんは「雲南桃源倶楽部」の会員で当時雲南民族学院に留学中で中国語OK、以後宜しく~!!
 そして中甸の旅の「結び」に記した様な経緯で直美ちゃん/松岡さん/私の3人は昆明南駅(※1)に向かい成昆鉄道(成都と昆明を結ぶ)の車中の人に成りました。小池さんと井本さんは景洪(以後は景洪組と呼ぶ)へ飛行機で行きました。

 成都の旅程は以下の通りです。

 10/20(土) 中甸 → 昆明(2手に別れる)飛行機
             昆明 → 成都   列車      成昆鉄道の車中
   21(日) 成都 → 広漢(三星堆博物館)タクシー    広漢賓館
   22(月) 広漢 → 都江堰、青城山   タクシー
          → 成都        タクシー    西蔵賓館
   23(火) 成都市内見物 → 昆明    列車      成昆鉄道の車中
   24(水) 昆明で<景洪組>と合流  → 関空 飛行機


 尚、当ページは横書きなので引用文の漢数字はアラビア数字に変換して居ます。
 又、麗江編中甸編の旅を書いてからこの「成都の旅」を書く迄1年半位のブランクが出来ました。地図は▼下▼をご覧下さい。
  地図-中国・四川省の成都と三星堆(Map of Chengdu and Sanxingdui of Sichuan, -China-)

 それではディーゼル機関車の夜行列車で往復した四川省の成都の旅をお楽しみ下さい。

 ■10月20日(土) - 成昆鉄道に乗って

 成都昆明の略真北650kmの地点に在ります。成都への旅は成昆鉄道を利用します。夕方5時頃に雲南省の省都・昆明南駅を出発し、翌朝9時頃に四川省の省都・成都北駅に到着予定です。切符を買い暫く待合室で待機後、改札が始まりホームに出ました。
 左が昆明南駅ホームで出発を待つ我が成昆鉄道の車輌(=特急寝台車)で、右端で腕組みをして居るのが松岡さん、出発が待ち切れない様子です。
 右上が私たちの2段ベッドの寝台席で手前が通路です。日本のA寝台に相当しますが、寝台は日本より若干長く、全体的にゆったりとして居ます。


 右が発車待ちの間立ち続ける客室乗務員の一人です。
 中国の長距離列車(=特急列車や夜行寝台車)には客車1輌毎に必ず女性の客室乗務員が1人付き、車掌の様に切符のチェックから客室やトイレの掃除迄一切を行います。途中の停車駅では、例え深夜でも停車時間が長かろうとも、必ずホームの乗降口に降り発車迄姿勢を正して立ち続け、発車直前には敬礼をして乗り込みます。
 そして彼女たち、何れもスラリと背が高く美形揃いです。客車の端には小さな机と椅子を備えた半畳位の狭い乗務員室が在りますが、夜行列車では彼女たちは時々この机上に頭を沈め仮眠して居ます。
 彼女は「中国名花集」に登録しました。
 

 列車が走り出すと車内放送で早速夕食の案内です。席に食事を運んで貰うことも出来ますが、好奇心旺盛な私たちは食堂車を覗きに行きました。左下が食堂車で晩飯を食っている直美ちゃんと松岡さん、右下が食堂車の食事です。ご覧の様に汁の椀以外はトレイも食器も全てアルミ製で、ご飯に肉の空揚げなど約3種類、これにピリ辛豆モヤシと漬物、それに汁物が付いて30[元/人]です。街の飯屋の食事よりは高いですが、値段も味も”まあまあ”でした。


 この後席に戻りましたが、通路には色々な物売りやウォークマンのレンタル・サービス -CDも選べる- が来たりして、結構賑やかでした。

 夜中に目が覚めた私は、ふと外を見ると列車が駅に停車中でした。そこで私は上段のベッドから降りて通路を通りホームに降りてみました。すると先程の客室乗務員がホームの乗降口に立っていて、私に「直ぐ戻れ」と目でジェスチャーしましたので、私は少しだけホームをうろついただけで、言われた通りに車内に戻りました。
 列車では客室乗務員はエライのです!

 ■10月21日(日)・その1 - 広漢市の三星堆遺跡

 (1)成都の旅程を決める

 目が覚めると外は明るく成っていて、もう午前7時前です。私は列車の洗面所で歯を磨き通路に出て暫く窓の外をぼんやり眺めて居ましたが、列車は亡羊とした農村風景の中をゆっくりと走って居ました。9時過ぎに到着予定なので車内では朝食を摂らずに居たのですが...。列車は2時間近く遅れて11時少し前に漸く成都[北]駅に着きました。

 成都北駅には松岡さんが昆明のガイドを通して手配して置いた旅行社の人が来ていたのですが、これが

  ガイド + 運転手 + 旅行者の社長 + 車(マイクロバス)

という、”物物しい出で立ち”です。我々はたったの3人、これは明らかに過剰装備です。そこで我々はこれは手違いである、と説明して結局ガイドだけ帯同して貰うことで合意しました。しかし、運転手と旅行者の社長はマイクロバスですごすごと引き返しましたが、そもそも列車が2時間近くも遅れた状況で良く我々を待って居ましたねえ。日本なら疾っくに引き上げてる筈で、成都に着いたら旅行社の人が居(お)らなくて逆に我々の方が困る筈です。
 さて、これからどうしよう?、えっ??、実は今日、いや成都で何処を見るか全然決まって無かったのです。こういう”込み入った”問題を考えるには、先ず心を落ち着ける必要が有ります。その為には、ケツを落ち着けて掛かるべし、今日は未だ朝飯を食って無いので”朝飯兼昼飯”を食って考えることにしました、「腹が減っては軍(いくさ)は出来ぬ」訳です。レストランで腹拵えし旅行案内書を引っ張り出して、今日は松岡さんの知人の故郷・広漢に泊まり、明日成都に泊まり、明後日夜行列車で昆明に帰るという案がすんなりと決まりました。そこで私が広漢に行くなら三星堆(Sanxingdui)の遺跡(※2、※2-1) -1986年に発掘された新しい遺跡は『山海経』(※2-2)を体現していて私は中国の歴史を塗り替える遺跡に成ると思っていますゾ!- を見ようと提案し、この案が了承されて”全件落着”です。そして明日泊まる成都の宿を予約して、ガイドの魏敏さん -四川大学の女学生- を伴い4人でタクシーに乗り込み、広漢市に向かったのです。

 (2)三星堆博物館

 成都から高速で約40分で広漢市に入り、その儘今度は普通の道路を直行して「三星堆博物館」(1997年建造)に約50分で着きました(△1のp193)。もう時刻は午後1時過ぎ、博物館を早く回らねば為りません。
 取り敢えず展示物をご覧下さい。尚、ここに展示されてる物は全てレプリカで、但し大きさは実物大に造って在ります。左が博物館入口、写っているのは左から松岡さん、私、直美ちゃんです。
 右が魔術師像(青銅)(※3)です。腕に蛇を抱えて居ます、そして後ろには羽が付いている様に見えます、羽で空を飛ぶのでしょうか?
 胸には◎のマークが入ってます。そして頭には帽子を被って居ます。
 

 右下青銅縦目仮面です。この仮面は高さ約65cm仮面としては可なり大きいです。
 私は『山海経』を読んでいて「目は直(たて)にして」(△2のp172)という表現が、どういう目の状態を言っているのか、ずっと解らなかったのです(→後出)。横目?、縦目??、この縦目仮面を見て疑問は氷解しました、即ち少し上から見ると

    
    //

なのです。つまり目の眼光がこちらに突き刺さって来るみたいで、フーム、そうだったのか!!
 縦目仮面の顔の表情ですが、やはり目は大きく鼻は高く、口を真一文字に結んでいて口はやはり大きいです。仮面には耳が無く、代わりにがピンと張り出して居ます。

 これは仮面としては大き過ぎるので、祭壇に飾られ「王の権威」の象徴として周りに睨みを利かせ天下を睥睨してたと思われます。
 ケースの下部には人物像(青銅)が見えますが、やはり目は大きく鼻は高く耳は大きく大きな口を真一文字に結んで居ます。頭には帽子を被って居ます。


 左は黄金の人物像です。やはり頭には帽子を被って居ます。目は大きく鼻は高く耳は大きく大きな口を横に真一文字に結んで居ます。これは長老の顔ですね。




 ところで、今迄見て来た人物像や仮面に言える事ですが、この顔は中国人には見えません、もっと西方的な顔です(→この言葉は後でもう一度出て来ます)。
 

 左下1号神樹(青銅) -或いは世界樹宇宙樹(※4)- で中国神話の「十個の太陽」(△2のp122、132、159)を表して居ます。

 背景の博物館内部が写って居て大きさが解ると思いますが、高さが3.89m(大きさは実物大)なので迫力が有りました。左の写真は青銅が未だ新しい為に真鍮の様に見えますが、青銅の青さは「銅の錆(さび)」なのです。
 右は左の写真に写っている烏(からす)の拡大です。

 三星堆では神樹は6本出土したそうですが破壊(→後出)されて居り、今のところ復元されているのはこの大型の1号神樹中型の2号神樹の2本だけです。これは正しく世界樹です。
 事実、この1号世界樹も未だ完全復元では無く、もし完全復元されたら5mに達するそうです。天辺には天上界が在る筈です。兎に角、これだけ巨大な世界樹は他に在りません。

 樹は3段に成り、枝が伸び、葉は無く、蕾(つぼみ)が咲いて、各段に3羽ずつ烏(からす)が居て、合計で烏は9羽いるです。ここが現世界と下部は冥界に繋がるのでしょう。中国では「太陽の中には、烏(からす)がいる」(△3のp12)とか「太陽は烏(からす)の背に乗って東から西へ運ばれる」(△3-1のp125)とか言われて居ます。そして合計で「十個の太陽」が在り、九個の太陽は地下で休んでいて「一個の太陽」のみが地上で輝くのです。これが正常パターンですが、何かの不具合で「十個の太陽」全部が地上に出て仕舞う事が在り、そう成ると人間は熱くて焼死する危険に遭遇し「九個の太陽」を射弓で落とす神話や伝説が生まれるのです(→この話は又後でします)。


 上の写真には写ってませんが最下部には龍が1匹居るのです、ここは冥界です。
 そこで1号世界樹下部の龍の写真を三星堆の本より補いました(△4のp41より)。写真の左下方に龍のマンガチックな顔が見えていて余り強そうでは有りません。
 フーム、これは博物館では気が付かなかったですね、見逃して仕舞いました。


 ところで、中国では神樹と呼んで居ますが私は世界樹の方が良いと思います。こちらの方が一般的なのです。世界樹と言われれば直ぐ世界樹ユグドラシル(※4、△3-1のp32)を思い出しますが、”神樹”と言われると直ぐにはユグドラシルを思い出せませんでした(→この問題は又後で詳述します)。

区切り線。

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  ■■特別企画 - 三星堆遺跡を考える

  (1)古蜀と三星堆

   (1)-1.古蜀の歴史

 右下の写真は巴蜀文明の文字です。成都周辺を古くは蜀(しょく)(※5、※5-1)と言い三星堆は古蜀に属します。巴(は)は成都の東で四川省重慶地方の別名です。
 古蜀の三星堆文明及び巴蜀文明の歴史の概略は▼以下▼の通りです。

   <古蜀の三星堆文明>
 B.C.2800 三星堆文明の始まり
 B.C.2100 初代蚕叢の時代
 前13世紀 魚鳧王朝成立
 前11世紀 魚鳧古蜀が周に従い
       殷滅亡に力を貸す
  -から青銅技術を獲得-
 前 6世紀 魚鳧王朝が杜宇族に
       滅ぼされる
  -三星堆発掘物を破壊-
   (三星堆文明終了)

 前 6世紀 杜宇が蜀王を称する

   <巴蜀文明>
 B.C. 700 巴の鼈霊族が
       開明王朝を開く
 B.C. 316 開明王朝、
       秦に滅ぼされる


 【参考文献】△4のp33より。

   (1)-2.三星堆文明

 三星堆の発掘物の放射性炭素年代測定法(※6)に依れば紀元前2740~前850年頃と出て居ます(△4のp15)。約紀元前2800年に花開いた古蜀の三星堆文明のエポック第1は、初代王の蚕叢(さんそう)です。王の名の中に「蚕」の字を含んで居て初代王蚕叢と養蚕とは無関係では有りません。第2は魚鳧王朝の古蜀が周(※5-2)に従い殷滅亡(※5-3)に力を貸した事です(→後出)。その結果、古蜀は青銅の鋳造技術をから獲得し、それが今日の三星堆遺跡として発掘されたのです。三星堆文明の中核は青銅器文明(※3-1)なのです。但し、青銅技術の獲得には殷の青銅技術者を古蜀に大量に拉致説(←日本が文禄・慶長の役で朝鮮半島から陶工その他を1万人規模で拉致したのと同じ)と青銅技術の学習説とが有りますが、私は拉致説を採ります。第3紀元前6世紀頃に魚鳧王朝が杜宇族に滅ぼされた事です、これで古蜀の三星堆文明は終了しました。但し、その際に三星堆発掘物は破壊されて居るのです。これにも2説有り、1つは敵(=杜宇族)に依る破壊説、もう1つは財宝物を敵に渡したく無い味方(=魚鳧王朝)に依る破壊説です。これについては専門家の分析を待ちたいと思って居ます(→後の「三星堆遺跡の意義」に続く)。
 以後、蜀が歴史に再び登場するのは紀元後220~280年『三国志』(※7~※7-1、△5、△5-1)の時代です。

  (2)『山海経』の世界が甦る三星堆

   (2)-1.20世紀後半迄無視された『山海経』

 2000年5月6日(土)の午後から「雲南桃源倶楽部」(会長:北山昌夫) -この日は「雲南桃源倶楽部」の桃源祭でした- の主催で彭飛氏(国際日本文化研究センター教授)の講演が国際交流センター(大阪市天王寺区上本町)で在りました。この日は鳥越憲三郎氏(古代史、文化人類学)も来られましたが鳥越先生が「三星堆遺跡は素晴らしい!」と仰ったので甚く感動したのを覚えて居ます。
 私が三星堆遺跡に興味を持ったのは1997、8年頃です。何しろ三星堆遺跡は1986年広漢市(成都の隣)で発掘された新しい遺跡なので未だ知らない人が殆どです。私が何故三星堆に心惹かれたかと言えば、ここ頃私は『山海経』(※2-2、△2)という中国の奇書を読んで居ましたが、『山海経』に出て来る荒唐無稽な話が三星堆遺跡で出土している事を知ったからです。

    ++++ 『史記』が無視した『山海経』 ++++
 『史記』(※8)を著した司馬遷(※8-1)が余りに荒唐無稽な内容の為に「歴史に非ず」と言って捨て去った『山海経』から、書いて在る通りの遺跡が出て来たのは驚異です。「歴史に非ず」とした箇所は『史記』の「大宛列伝」「太史公曰く、『禹本紀』に「黄河は崑崙の山(※9)から源を発する。崑崙は高さが2千5百里余りあり、日と月が光明をかくすところである、その上には醴泉と瑶池がある。」としるされる。ところが張騫(ちょうけん)が大夏に使者として赴いたあと、ひとはついに黄河の水源をきわめた。かれらは『禹本紀』に言う崑崙の山など見つけはしなかった。だから、九州(中国全土)の山や川について語ったものでは、『尚書』の記述が真実に近いことになるのである。『禹本紀』や『山海経』に書かれている奇怪な物どもについて、わたしは語ろうとは思わない。」という太史公自序の部分です(△6のp99、△6-1のp487)。司馬遷が自らを太史公(※8-2、※8-3)と称したのは父と同じく太史令の職を任じていたからです。客観的な歴史を目指していた司馬遷は到底認める訳には行かなかったでしょう。しかし『山海経』の一部に書かれていた事が20世紀後半三星堆遺跡に依って「客観的な事実」として発掘されたのです。
    ------------------------


 それで私は三星堆遺跡の本を探し(←当時は本も少なかった)、【参考文献】△4を買いました。

   (2)-2.燭陰(燭竜/燭龍)

 それにしても、燭陰(燭竜/燭龍)(△2のp126、172)の「目は直(たて)にして」(△2のp172)を表す博物館の青銅縦目仮面には吃驚仰天しましたね。

 私は青銅縦目仮面の模型を買って来ましたので、その写真を右に載せます。
 これは高さが約6cm横に張り出した冠の幅が約15cmです。少し上から見ると

    
    //

です。目の眼光がこちらに突き刺さって来るみたい、これが縦目なのです。

 燭陰(燭竜/燭龍)に関しては、「海外北経」では「鍾山の神の名は燭陰。(この神が)目を開けば昼となり、目を閉じれば夜となる。吹けば冬となり、呼べば夏となる。飲まず食わず息せず、息すれば風となる。身の長さ千里、無晵(むけい)の東にあり、この物たるや人面蛇身色赤く、鍾山のふもとに住む。」と在ります(△2のp126)。右が『山海経』の「海外北経」に載っている燭陰(燭竜)の図です(△2のp127)。『山海経』の怪物はどれもマンガチックです、訳者の解説には「幼児の書いた図画」の様だと在ります(△2のp183)。

 又、「大荒北経」「西北の海の外、赤水の北に章尾山あり、がいる。人面蛇身にして赤く目は直(たて)にして真中にのっかかる。(この神が)目をとじると晦(くら)くなり、目をひらくと明るくなる。食わず、寝(い)ねず、息せず、風雨をば招き、九陰(とこやみ)をも照らす。これを燭竜という。」と在ります(△2のp172)。
 こうして見ると、燭陰(燭竜/燭龍)とは昼と夜を司る神(=龍)の様です。

   (2)-3.十個の太陽と十二個の月

    (2)-3-1.十個の太陽

 ここで『山海経』を少し仔細に当たり、博物館で見た「十個の太陽」を記述している箇所を抜き出して見ましょう。「海外西経」女丑(じょちゅう)の尸(し)、(女丑が)生まれると十個の太陽が上部にあり、女丑がこれを炙り殺した。丈夫国(おとこのくに)の北にあり、右手でその面(かお)をおおっている。十個の太陽が上部にあり、女丑は山の頂にいる。」と在り(△2のp122)、「海外東経」には「黒歯国はその北にあり、人となり黒い歯、稲(こめ)を食い、蛇を食う。一つは赤く一つは青い。(蛇が)傍にいる。下部に湯のわく谷があり、湯の谷の上に扶桑(※4-1)あり、ここは十個の太陽が浴(ゆあ)みするところ。黒歯の北にあり、水の中に大木があって、九個の太陽は下の枝に居り、一個の太陽が(いま出(い)でんとして)上の枝にいる。」と在り(△2のp132)、又「大荒東経」には「海内に二人いる、一人は揺民で、一人は名を女丑(じょちゅう)という。女丑には大きな蟹がいる。大荒の中に山あり、名は孽揺頵羝(げつよういんてい)。山の上に扶木(扶桑)がある。高さ三百里、その葉は芥菜(からしな)のよう。谷あり、温源の谷(湯谷)といい、その湯の谷の上に扶木があり、一個の太陽がやってくると、一個の太陽が出ていく。(太陽は)みな烏(からす)を載せている。」と在り(△2のp151)、更に「大荒南経」には「東南の海の外、甘水のほとりに義和(ぎか)の国あり。女子あって名は義和といい、いまし太陽を甘淵に浴(ゆあみ)させている。義和帝・俊の妻十個の太陽を生んだ。」と在ります(△2のp159)。
 ここで上の話を整理しましょう。すると▼下▼の様に成ります。

    <十個の太陽、湯谷、扶桑、烏(からす)>

  [1]全部で十個の太陽が在る
  [2]温泉の谷(湯谷)が在り、
       温泉の上に扶木(扶桑) -伝説上の架空の樹- が在る
  [3]女性(女丑/義和)が山の上に居り、
       この女性が温泉で太陽を湯浴みさせる
  [4]一個の太陽が遣って来ると一個の太陽が出て行く
  [5]十個の太陽は烏(からす)を載せている

 上の内容から次の様な話を作る事が出来ます。

 「十個の太陽」が在り、「九個の太陽」は女性から湯浴みをさせて貰って休んで居る。「一個の太陽」のみが烏(からす)に乗って東の空(日の出)から西の空(日没)へ移動する。次の日は「一個の太陽」が遣って来ると「一個の太陽」が出て行って、同じ事を繰り返す。

 これが正常パターンですが、何かの不具合で「十個の太陽」全部が地上に出て仕舞う事が在り、そう成ると人間は熱くて焼死する危険に遭遇し「九個の太陽」を射弓で落とす神話や伝説が生まれるのです。この「十個の太陽(10個の太陽)」の話は中国で非常に有名中国の神話の本には必ず出て来ます、例えば『楚辞』『淮南子』『山海経』などです(△3のp12~19、△3-1のp125~126、133)。{このリンクは2011年1月1日に追加}

 その様な異常パターンの話を『楚辞』(※10)から紹介しましょう。堯(ぎょう)(※10-1)の帝の時、十個の太陽が大空に並び出た。一つでさえ、なかなか熱いのに、十の太陽がいっしょになって、かんかん照りつけたので、大地の草や木が、見る見る焦げ枯れ始めた。...<中略>...弓を射ることに巧みな羿(げい)(※10-2)というものを呼んで、「そなたに頼みたいことがある。速刻九つの太陽を射落としてもらいたい」と言った。羿は仰せをかしこみて、すぐに大空に向かって、数本の矢を射放った。名人の手練に仇矢(あだや)はなくて、九つの太陽にいる九羽の烏(からす)の体を貫いた。烏どもはみな死んで、はらはらと羽翼(つばさ)をおとした。こうして地上の人々はやっと無惨な焼死をすることを免れた。」という話です(△3のp15)。

 『中国神話伝説集』の解説者注に依ると「昔、天空に多数の太陽が出て人々を苦しめたので、英雄が射落として人々を救ったという伝承は、華南の苗族その他の諸族や東南アジアインド、あるいは北アメリカなどにもある。羿射日伝承の発生を山東半島における太陽崇拝に求める中国起源説や、インドなどに求める南方起源説などがある。」と書いて居ます(△3のp192)。
 又、「太陽の中には、烏(からす)がいるといわれ、また鶏がいるともいわれる。烏は火烏(かう)と呼ばれ、鶏は金鶏(きんけい)と呼ばれる。太陽にこもっている陽の精気が凝り集まってなったものである。だから火烏も金鶏もみな足が3本生えている。陽の気はその数が奇数であるからである。」と在ります(△3のp12)。
 同様の話は△3-1のp125にも載って居ます。ここで火烏は金烏(きんう)(※4-2)とも言われます。又「陽の気はその数が奇数である」と言っているのは、陽の数とは「1、3、5、7、9」を言い、陰の数が「0、2、4、6、8」です。足が3本の烏は日本では八咫烏(※4-3)と言い熊野神社の神使(※4-4)です。右の写真が熊野神社本宮の八咫烏です。
 

    <多数の太陽、太陽崇拝説、南方起源説>

 『楚辞』には「十個の太陽」の内の「九個の太陽」を羿(げい)が射落とし焼死の危機を逃れた話が出て来ますが、「多数の太陽」の伝承は東南アジアやインドなど可なり広範囲に在り、太陽崇拝説とか南方起源説とかが言われて居ます。

 最近日本でも夏に38℃とか40℃に近い日が数日在ります(←それも異常高温に成る所は大体決まって居り、例えば群馬県館林市、埼玉県熊谷市、山梨県甲府市、岐阜県多治見市など)。それを思うと私は「多数の太陽」の話は南方起源説に軍配を揚げたいですね。夏を涼しく過ごす方法を参考になさって下さい。{この話は2010年7月7日に追加}

    (2)-3-2.十二個の月 - 1~12月

 月についても『山海経』は太陽と同じ考え方をして居ます。「大荒西経」には噎(えつ)は西極にいて日月星辰の運行と停止をつかさどる。...<中略>...女子がいる、いまし月を浴(ゆあみ)させている。帝・俊の妻常義(じょうぎ)月を十二個生んだ。そしてここでいま始めて産湯をつかっている。」と在るからです(△2のp163)。やはり月も女性に湯浴みさせて貰い夜の運行を待機するのです、これは昼と夜の違いは有りますが太陽と全く同じです。常義月を十二個生んだ1~12月の事です。
 そして「大荒南経」に太陽を生んだ人の名が出ていますので月と比較して見ましょう。するとどちらも「帝・俊の妻」義和常義は太陽と月の守護神という事に成ります。次に帝・俊(しゅん)(※10-6、※10-7)を当たると、「大荒西経」の初めの方に帝・俊后稷(こうしょく)(※10-8)を生み、稷は百穀をもって降った。稷の弟を台璽(たいじ)といい、叔均を生んだ。叔均はわが父と(おじの)稷に代わって百穀をまき、始めて耕作をした。」と在り(△2のp161)、帝・俊后稷を生み」から

  帝・俊(しゅん) = 帝・舜(しゅん)

である事が解ります(△6-2のp15~20、23)。又、后稷は周の始祖とされて居ます(△6-2のp60~61)。『史記』にもよ、人民が飢えているようだから、なんじは農官となって四時にしたがい、時節の百穀を播くように。」と在ります(△6-2のp23)。ここで言う「農官」が【脚注】※10-8の[1]で言う「后稷という農業長官」で、元々「后稷」という名は「「后」は君、「稷」は五穀」の意が有る伝説上の人物なのです(→后稷については又後で述べます)。
 以上を纏めると▼下▼の様に成ります。

    <太陽と月 - 共に女神が守護神>

       帝・俊(しゅん)とは帝・舜(しゅん)のこと
  太陽 : 義和(ぎか)帝・俊の妻十個の太陽を生んだ
         義和(ぎか)が太陽の女神  → 太陽を湯浴みさせる
         太陽の中には烏(からす)が居る、
           或いは烏に太陽が乗って運ばれる
  月  : 常義(じょうぎ)帝・俊の妻月を十二個生んだ
                      (1~12月)
         常義(じょうぎ)が月の女神 → 月を湯浴みさせる
         月の中にはヒキガエル(蟇/蟾蜍)が居る

 月とヒキガエルの話は次節に出て来ます。

   (2)-4.西王母伝説と三星堆

    (2)-4-1.月に棲むヒキガエル(=ガマガエル)

 羿(げい)の伝説的な話を紹介しましたが、実は羿の妻も伝説的な人なのです。その名を嫦娥(じょうが)(或いは姮娥(こうが))(※10-3)と言い、『淮南子』「覧冥訓」に拠れば、羿が西王母(※9-1、※9-2)から得た不死の薬を盗み飲み仙人(※9-3)と成って月宮に入ったと伝えられて居ます。
 中国では月の中にはヒキガエル(=ガマガエル(蟇)(※10-4)、中国名:蟾蜍(※10-5))が居ると信じられていて、嫦娥は月のヒキガエルに成ったとも言われて居ます。羿の妻の嫦娥蟾蜍(=ヒキガエル)は「月の異称」にも成って居ます。私が何故こんな話をするのかと言うと三星堆からは右の写真のヒキガエルの石造彫刻も出土して居るからです、長さ11cm、幅が4.3cmの実物大の彫刻です(△4のp205より)。
 ヒキガエルは西王母の眷属(=従者)として兎と共に月に居るのです。それにしても、この彫刻は素晴らしい!

    (2)-4-2.『山海経』の西王母伝説

 その西王母ですが『山海経』ではもの凄く酷く書かれて居ます。「西山経」には「さらに西へ350里、玉山といい、ここは西王母の住むところ。西王母はその状(すがた)、人のようで豹の尾虎の歯でよく嘯(うそぶ)き、おどろの髪に玉の勝(かんざし)をのせ、天の厲(わざわい)五残を司る。」と在ります(△2のp40~41)。ここで訳者注を見ると「五残」とは五刑(※11)の事です。同注には更に「西王母は仙女(※9-4)でなくて半人半獣である。『山海経』の古さを示す。」と在ります(△2のp78~79)。天の厲(わざわい)五残を司る」とは人間に重大な刑罰を下すと言って居り、丸で閻魔大王の様です。
 又「大荒西経」には「西海の南、流沙のほとり、赤水の後(しりえ)、黒水の前に大きな山あり、名は崑崙の丘。...<中略>...人あり、勝(かみかざり)を頭にのせ、虎の歯豹の尾をもち、穴に住む。名は西王母。この山にはなんでもある。」と在るのです(△2のp164)。【脚注】※9-1もこれに拠っている事が解ります。
 ところが「海内北経」には「西王母が几(つくえ)にもたれて勝(かみかざり)をのせている。その南に3羽の青い鳥がいて、西王母のために食物をはこぶ。崑崙の虚(おか)の北にあり。」と在り(△2のp141)、「海内北経」にはが出て来ます。ここで西王母について整理しましょう。

    <西王母のイメージ - 『山海経』>

  [1]西王母は崑崙の丘(玉山)に住む
  [2]豹の尾虎の歯嘯く頭に髪飾り(或いは簪(かんざし))、
       穴居 → 半人半獣
  [3]天の厲(わざわい)五刑を司る
  [4]髪飾りを持つ

 「王母」とは元来祖母(※9-1)の意味を表す
 [2][3]と[4]の話は別系統である

 ここで、[4]の西王母が『山海経』の時代から「杖」を持っている事は注目に値します。この話は[2][3]の話とは明らかに別系統の話です。『孝経援神契』という書物にも「「あるいは仙人杖と名付け、あるいは西王母杖と名づける。」と記されている」と在ります(△4のp198)。

 ところで崑崙(※9)とは、今日の崑崙山脈 -新疆ウイグル自治区とチベット自治区の境界をなす大山脈- では無い事は明らかです(△7のp94~95、p57~58)。つまり崑崙は中原地方(=黄河中流域)から見て西方に在るのですが、三星堆の時代の中国の版図は未だ限られて居り、西側の境界線は洛陽洞庭湖を結ぶ線のちょっと西側迄です。(※12)の時代に成って初めて西安(旧:長安)が版図に入ったのです。

    (2)-4-3.西王母の変貌 - 半人半獣から人間の顔をした神に

 西王母と言うと神仙思想(※9-5)、神仙思想と言うと直ぐ道教(※13)を連想します。道教は元々はアニミズム(※14)やシャーマニズム(※14-1)を母体とした民間宗教で『山海経』の時代から存在して居り、『山海経』も民間道教の世界観を色濃く反映して居ます。しかし道教が体系的に整備されるにはやはり教団が必要なのです。教団が出来たのは184年黄巾の乱(※13-1)(←これが太平道(※13-2))とか五斗米道(※13-3)の成立で、これが『三国志』の取り分け蜀/呉/魏の三国分裂(←分裂したのは220年)に密接に絡んで来ます。
 その話は後にして(→10月23日を参照)、これらの教団が徐々に道教を体系化し神の序列を決め宗教的ストーリー(=神話)を構築/脚色して行ったのです。この過程は日本の神道でも全く同じです。そういった過程の中で西王母が穴居していた半人半獣から段々と神性を帯び、やがて完全な人間の姿に成り神々の一員に成って行きます。次に道教から変貌振りを見ましょう。

 【参考文献】△7-1の著者は『山海経』が書いている「半人半獣」的な姿を否定して居ます、即ち「尾は豹、歯は虎...<中略>...とかいてあるが、『歴世真仙体道通鑑後集』巻1には、それは使者の白虎神の姿で、王母ではない。」と在ります(△7-1のp147)。道教では西王母は神々の一人ですから悪くは書けないのです。そして東方を治める東王父(※9-2)に対し西方を治めたので西王母と呼ばれたと在ります。
 更に「前漢の武帝(※15)が不老長寿を望んでいたので、西王母は前110年7月7日にその宮殿に降り、7個の桃のうち4個を武帝に与え、自分も3個をたべた。」と在り、武帝が長生の道を尋ねると「お前は品性下劣美食淫欲をほしいままにし、殺を好み奢侈にふけっているから、長生きはできない。」と答えたと在ります(△7-1のp148)が、これには笑っちゃいますね、武帝は然もありなん。しかし「嘯(うそぶ)く」という『山海経』から引き継いだ性質が良く現れて居ます、西王母は大変口達者です(→武帝の晩年(後出))。
 そして右が現代の道教の西王母の図です(△7-1のp147より、台北市)。顔は祖母の顔をしていて完全な人間です。頭に髪飾り簪(かんざし)をし、両脇の仙女に軍配の様な形をした団扇で扇いで貰っていて頭上では鳥が舞って居ます。そして右手にを持って居ます!!

 つまり道教の西王母のイメージは▼下▼の様に成ります。

    <西王母のイメージ - 道教>

  [1]西王母は崑崙の丘(玉山)に住む
  [2]祖母の顔 → 『山海経』の半人半獣から人間の顔の神(仙女)
  [3]髪飾り(或いは簪(かんざし))、嘯くを持つ

 こうして西王母は神(=仙女)(※9-4)に成る訳ですが、仙女とはシャーマン(※14-2)の一種とも考えられます。

    (2)-4-4.古代に於ける中国西方 - 蛮夷が住む”野蛮”な地

 ところで成都とか広漢市は中原地方から見れば大分西に寄った所に在り、当然の事乍ら中国の版図には入って居ません。戦国時代(紀元前5~前3世紀)にはとか(※16)とかの遊牧民族が中国の西を闊歩して居たのです。

 その事を(※5-2)の武王の「商郊牧野の誓い」から見て行きましょう。武王は正月甲子の日、早朝、武王商郊牧野にいって誓いを立てた。この日武王は、左手に黄金で飾った鉞(まさかり)を杖つき、右手に犛牛(ぼうぎゅう)の白毛をつけた旗をもち、将士をさしまねいて、「遠く西土の将士ら、ご苦労であった」とねぎらい、...<中略>...「...<中略>...庸・蜀・羌・髳・微・纑・彭・濮の八国蛮夷の人々よ、なんじらの干(たて)をならべ矛を立てよ。わしはいま誓いを立てよう」と言い、誓言を告げた。...<中略>...「...<中略>...ここに敬んで天の罰をおこなう。...<中略>...つとめよや将士ら。こいねがわくは威武桓々(いぶかんかん)、虎のごとく羆のごとく豺のごとく離(ち)のごとく、商郊の牧野に武勇をあらわせ。...<中略>...」と。」と在ります(△6-2のp67~68)。
 これは正月甲子の日殷と周の世紀の決戦(=前1023年)を前に武王が檄(げき)を飛ばしている場面ですが、この中に重要な事が3つ含まれて居ます。先ず第1は、武王は西方の諸部族の名を挙げ彼等を八国蛮夷と呼んで居ますが、その中に(四川)と(巴蜀)と(巴蜀)、即ち三星堆文明を担った部族が含まれて居るのです。そして中原地方から見れば西方の諸部族は”野蛮”と見做されて居たという事です。
 第2はしかし乍ら、「この日武王は、左手に黄金で飾った鉞(まさかり)を杖つき、右手に犛牛(ぼうぎゅう)の白毛をつけた旗をもち」と在る様に武王自身がチベット族の様な格好をしている事です。「犛牛」とはチベット族が開発したヤクの事です。つまりを建国した人々と西方の遊牧民族との関係は非常に濃密で、周の建国はチベット系或いはチベット族との混血民族であると結論付けられるのです。因みに、武王の父の文王も西伯と呼ばれて居ました。西伯とは「西方の諸侯の頭」(△6-2のp56)という意味で、やはり西方の遊牧民族を表します。
 第3「庸・蜀・羌・髳・微・纑・彭・濮の八国蛮夷の人々よ」と在る様に、三星堆文明を担った部族(=蜀、古蜀)は殷の滅亡に力を貸していたのです。

 兎に角、この様に成都や広漢市は古代に於いては蛮夷が住む”野蛮”な地と中央(=中原地方)では見做されて居たのです。

    (2)-4-5.「西王母之邦」も「都広の野」も三星堆蜀国か(?)

 【参考文献】△4の著者は西王母に会ったという西周王朝第5代の穆王の事跡を『穆天子伝』に拠って確かめた結果、「少なくとも地理的に、また年代学的に「西王母之邦」はイコール三星堆蜀国だった可能性が十分に考えられる。」として居ます(△4のp182)。私もこの意見は重要だと思いますが未だ断定は出来無いと思って居ます。

 これに関連して『山海経』にはもう一つ気になる事が書いて在るのです。「海内経」には「高はここから上下して天に登る。西南の黒水のほとりに、都広の野あり、后稷をここに葬る。ここはみごとな菽(まめ)・稲(こめ)・黍(きび)・稷(あわ)があり、百穀自生し、冬も夏も種がまける。...<中略>...この地の草は冬も夏も枯れることがない。」と書いて在るのです(△2のp173~174)。「高」とは仙人の様な人らしく(△2のp177)、后稷「十二個の月」の所に出て来た周の始祖と目され農業長官をした伝説的人物すが都広の野あり、后稷をここに葬る。」は見逃せません。「都広の野」とは何処か?、と成る訳ですが、どうやら今の四川省西部の川西平原一帯を指すらしいので(△4のp106~107)、成都や広漢市がその中心に成り、即ちそれは三星堆蜀国に成る訳です。

 この2つの話を纏めると、「都広の野」(=三星堆蜀国)の何処かにここから上下して天に登ると、そこが「西王母之邦」です。でも西王母は仙女ですから仙人・仙女しか天に登れないという事に成りそうです。やはり「西王母之邦」は永遠に夢想すべき理想郷なのです!
 蛮夷が住む”野蛮”な地と見做されていた中国西方に西王母が住むという、一見矛盾した考えの裏には、三星堆文明が在ったのだと言えます。しかし三星堆は歴史に埋もれ忘れ去られました。しかし、紀元前2700~(前1100年、殷の滅亡)~前6世紀(三星堆滅亡)の西方の古代人たちは三星堆文明を現実のものとして受け入れていたのです。因みに三星堆や成都の西がチベット高原です。

    (2)-4-6.黄金の西王母杖が三星堆から出土!

 実は三星堆遺跡から1本の黄金製の杖が発掘されて居るのです。この杖は長さ143cm、重さ486g、表面には人間、鳥、魚などが刻まれて居ます(△4のp198)。右がそのの写真です(△4のp199より)。長さ143cmとは随分大きな杖です。上述の様にこの杖を西王母杖と名付けた文献も在りますので私もそう呼ぶことにします。
 黄金の西王母杖が持つ意味は「王か、又は西王母の権力の象徴」の二つに一つです。それ以外は有り得ません。論点を整理すると、

    <黄金の西王母杖 - 権力の象徴物>

  [1]王権の象徴     → 世俗的な権力
       王は世襲制
  [2]西王母の権力の象徴 → シャーマン(=仙女)
                   としての神権
       西王母は仙術の優劣

と成ります。
 [1]の場合が通常考えられて居ます。しかし[2]のパターンの確立はゼロでは有りません。その場合、西王母は仙術術の優劣 -或いは嘯(うそぶ)く能力か!- で決まり必ずしも世襲制では無いと思います。そして[1]の場合も[2]の場合も、権力が代わる時に黄金の西王母杖が威厳を持って受け渡されるのです。
 古代に於いては、古代文明では王権神授説(※17) -「王権を神から授かる」という考え方- が一般的で、その際必ず権力の象徴物が受け渡されるのです。日本の「三種の神器」が正にそれです。上の[1]か[2]かの決定は専門家に任せましょう。

    (2)-4-7.杖について

 ここでについて、一般的にどう扱われているのかを探って見ましょう。黄金の杖はインカ帝国の伝説的初代帝王マンコ・カパック(Manqu Qhapaq) -素晴らしい名前です!- が用いたとされて居ます(△8のp133~135)。そもそも杖(cane, stick)羊飼いの持ち物で男根の象徴です。又、魔法使い巡礼者の持ち物です(△9のp187)。『旧約聖書』の「出エジプト記」第7章8節に「主はモーセとアロンに言われた。...<中略>...あなたはアロンに言いなさい、『あなたのつえを取って、パロの前に投げなさい』と。するとそれはへびになるであろう」と在ります(△10のp82)。この杖は魔法の杖なのです。又、ギリシャ神話ではヘルメス「使者の役を示すをもっている。」と在り(△11のp238)、ディオニュソス「木蔦を絡ませた霊杖を持って居ますし(△12のp30)、ペルシャ(旧イラン)のゾロアスター「近代のイメージで描かれた肖像」を持って居ます(△12のp83)。これらの神話や伝説だけで無く、歴史的にもメソポタミア(※18)では王冠が王権の象徴でした。
 「ここに「杖」が取り立てて記述されていることはこれが西王母にとって欠かせない何か特別な意味をもつ道具だったことを物語る。殷周王朝などの中原の世界では、はあまり存在しなかっただけに、西王母を語る時のその存在意識も極めて大きいといわなけれならない。」と在る(△4のp198)様に、杖それも黄金の杖は極めて特異的なのです。

   (2)-5.三星堆の世界樹

 先程の博物館の所で私は神樹より世界樹とした方が一般的で良いという話をしましたが、『中国神話伝説集』の原注(1)(←編者の松村武雄氏が付けた注)に「それから世界樹の観念も、中国に存していたらしい。スカンディナヴィアの神話に、イグドラジル(Iggdrasil)という大きな樹があって、上は天界に至り、下は死界に根をはっていると言われている。このような樹を世界樹と呼ぶのであるが、中国にもこれにすこぶる類同した説話が存している。『太平御覧』の言うところによると、中国に1本の大きな扶桑(※4-1)の樹があった。枝が無くて、すくすくとどこまでも大空に伸び上がっていた。そして上は天盤に至り、下は曲がりくねって三泉に通じているというのであるから、これを目して、中国のイグドラジルとなしても、決して不当ではあるまい。したがってまたこれを一種の世界樹と呼んでも、あえて比倫(ひりん)を失しているとは言えないと思う。」と在る(△3のp183)様に、松村武雄氏は流石に状況を適切に捉えて居ました。
 『太平御覧』に書いて在る事が正しく世界樹の概念に他為りません。しかし松村氏は1986年の新しい三星堆遺跡を知らずに故人に成られました。

 この様に世界樹とは天上界/現世界/冥界とか未来/現在/過去とかを内に含む概念で、それ故に世界樹と言われる所以です。
 それを神樹と言って仕舞うと、世界樹が本来持っている幅広い横の繋がりが見え難く成って仕舞うのです。だから世界樹と呼んだ方が良いのです。

 【参考文献】△4の著者が世界樹という概念を持ち得なかった事は非常に残念です。1号世界樹が『太平御覧』の内容を正に具現化して居り、世界樹ユグドラシル(※4)と同じく中国の世界樹である事を認識して戴きたいのです!!

    ◆参考 - 馬王堆墳墓の帛画の世界樹

 1972年から発掘された馬王堆墳墓(※19)も当時大変話題に成りました。特に被葬者の妻のミイラ状の死体は保存状態が非常に良かった事を覚えて居ます。この遺跡から出土した帛画(はくが)(※19-1)も大変有名に成りましたが、これも世界樹を描いて居ます。帛画とは絹地に描いた図絵の事ですが、馬王堆の帛画は絹の着物に描いているのです。
 右の図絵が湖南省長沙から出土した馬王堆墳墓帛画の一部です(△3のp14より)。やはり扶桑が描かれ蕾を付けていて、天上界現世界冥界 -それ故に世界樹なのです- が描かれ現世界には人間が居ます。右の図絵は天上界と現世界の一部で着物の裾に冥界が在りますが右の絵には省略されて居ます。
 図絵の一番上を見て下さい、右に烏(からす)が円(太陽)の中に居り、左には三日月にヒキガエルが描かれて居ます。そして真ん中の竜、これが昼と夜を司る燭陰燭竜燭龍です。燭陰は人面蛇身色赤くと在りますが、実際着物に描かれた絵は竜が真っ赤に描かれて居るのです。燭陰は天上界の真ん中で昼と夜を支配して居るのです。
 三星堆や馬王堆でお解りの様に『山海経』のイメージは古代中国の人々に広く浸透して居ました。

   (2)-6.三星堆遺跡の意義 - その独自性と特異性

 古代の蜀、即ち古蜀について書いた史書としては『蜀王本紀』『華陽国志』が在りますが三星堆については断片的にしか解りません。つまり三星堆については文献では限界が有り後は考古学的解明が進むのを待つしか無いのです。しかも私はこれらの文献は持っていないので【参考文献】△4から引用します。尚、三星堆発掘物の放射性炭素年代測定法(※6)に依れば紀元前2740~前850年頃という値が出て居ます(△4のp13~15、22)。
 『華陽国志』蜀志は三星堆文明の初代王である蚕叢について其の目は縦なりと書かれて居るそうです(△4のp37)。この縦目については三星堆の青銅縦目仮面を見た人はイメージ出来ますが、見てない人はどうイメージしたら良いのかさっぱり判らない筈です。私も『山海経』が言う縦目が全くイメージ出来ませんでした。この事から青銅縦目仮面は蚕叢に間違い有りません。蚕叢は特異なイメージで見ただけで他を威圧したと思われます。時代的には夏(か)の時代(※5-4)で祭政一致であった筈です。
 蚕叢王朝に代わり柏灌王朝、魚鳧王朝と三星堆文明は続き(殷の時代(※5-3))、魚鳧王朝が周に従い殷滅亡に力を貸したのが紀元前1100年頃で、この時に殷から青銅技術を移入しました(←の青銅は有名)。
 その後は周の時代(※5-2)に成りますが紀元前6世紀頃杜宇(とう)族に因って三星堆文明は滅亡したのです。前にも記した通り、その際に三星堆発掘物は破壊されて居るのです。これにも2説有り、1つは敵(=杜宇族)に依る破壊説、もう1つは財宝物を敵に渡したく無い味方に依る破壊説です。その後、魚鳧王朝を滅ぼした杜宇が蜀王を名乗り、やがて杜宇族に代わり巴(は) -巴は成都の東で四川省重慶地方の別名- の鼈霊族が開明王朝 -巴蜀文明と呼ぶ- を開きますが、遂に紀元前316年(※12)の司馬錯に滅ぼされます(△4のp24)。『史記』秦本紀に「(恵文王の)9年、司馬錯がを伐って、これを滅ぼした。」と在ります(△6-2のp127)。
 古蜀はこれで中国中央の政権に飲み込まれ、滅亡した三星堆文明は歴史に埋もれ三星堆の存在も忘れられて仕舞いました、1986年迄は!

 ところが1986年夏”ひょんな偶然”から三星堆は日の目を見たのです。実は三星堆遺跡は1920年代から三星村から玉器や石器が素人に依る発掘が密かに行われ、その結果盗掘に晒されてきました。ところが1986年に地元の煉瓦工場が掘り当てた土穴から大量の青銅器、玉石器、子安貝の他、数点の金器が出て来たのです(△4のp12)。これが発端と成り三星堆での本格的な発掘調査が行われました。その結果、三星堆は1辺が約2千mの巨大な城壁 -比較的原始的な盛土版築技法- で囲まれた城郭都市で、民家は15~30㎡の地表面建築で屋根は藁葺き、墓や玉石器の加工工房や灰抗(塵捨場)なども見付かって居ます。中でも金杖や純金製マスクを始め金器は100点以上見付かって居り三星堆発掘物を特徴付けて居ます。三星堆遺跡の意義は、第1夏(か)の時代に別の文明が存在した事が明らかに成った事です。未だでさえも文明の存在がこれ程明らかには成って居ません。
 金杖の特異性(=中原的では無い)については前に記した通りですが、更に「金杖、金マスク、青銅製の仮面、立人像、人頭像、神樹などはいずれも三星堆文明の独自性を示すものであり、これらの要素は同文明が殷周文明の延長戦上にあるだけのものという可能性を完全に否定しているといえる。金杖と黄金マスクの存在に注目し、古代西アジアの世界、あるいは地中海世界に三星堆文明の源流を求めようとする学者もいるが、それが実証できるかどうかはこれからの研究にかかっている。...<中略>...(三星堆文明は)極めて「非中国的」であるということには間違いない。」と在ります(△4のp22)が、この意見に私は大いに賛成です。ここで「中国的」とは即ち漢族的という事ですが三星堆は「漢族とは縁もゆかりもない異民族」の文明なのです(△4-1のp211)。これは博物館で黄金の人物像を見た時に述べた感想、即ち「今迄見て来た人物像や仮面に言える事ですが、この顔は中国人には見えません、もっと西方的な顔です。」と述べた私の印象と一致するのです。三星堆遺跡の意義の第2は、この文明が「非中国的」「独自性と特異性」、即ち夏殷周文明とは異なる画期的な文明だという事を提示している点です。それは即ち、黄河文明(=漢族の文明)に対して、それとは異質の長江文明(※2-1)が存在した事の証(あかし)です。従ってこの「独自性と特異性」を明らかにする事こそ今後の課題だと考えます。
 そこで「この図」を見て下さい。これは照葉樹林文化圏を表した図ですが、中尾佐助さんが提唱した照葉樹林文化が西から東へ文化を伝搬し西日本に到達したとする学説」は学会で受け入れられて居ます。それで図を良く見ると照葉樹林文化は長江沿いに伝搬しているのです。更に「次の図」を見て戴くと照葉樹林文化圏が日本の静岡県辺りで終焉して居ますが、これはフォッサマグナの断層線が南北の方向に走って居るからです。小動物の生活範囲を規制しているフォッサマグナは勢いの衰えた照葉樹林帯にとっても”壁”として作用しているのです。私は特に照葉樹林文化圏の図を見た時に長江文明の存在を予測して居ました!!

  (3)蚕叢、魚鳧 - 古蜀の王を李白が漢詩に詠み込んで居た!!

 私は李白(※20、※20-1)の漢詩を或る目的で調べていたら、偶然に蚕叢魚鳧という古蜀の古代王の名が詠み込まれている事を発見しました。それは「蜀道難」という雑言古詩で(△13のp265~268)、次の様な詩です。

      蜀道難         蜀道難

  噫吁嚱危乎高哉     噫吁嚱(ああ)、危い乎(かな)、高い哉(かな)
  蜀道之難 難於上青天  蜀道の難(かた)きこと、青天に上るよりも難し
  蠶叢魚鳧     蚕叢魚鳧    *蠶は蚕の古い書体
  開國何茫然       開国、何ぞ茫然たる
  爾来四萬八千歳     爾来、四万八千歳
  不與秦塞通人煙     秦塞(しんさい)とは人煙(じんえん)を通ぜず
  西當太白有鳥道     西のかた太白に当りて、鳥道有り
  何以横絶蛾眉巓     何を以てか、蛾眉(がび)の巓を横絶せん
  地崩山摧壮士死     地崩れ山摧(くだ)けて、壮士(そうし)死す
  然後天梯石桟方鉤連   然(しか)る後、天梯、石桟、方(はじ)めて鉤連(こうれん)
  上有六龍囘日之高標   上には六竜回日(かいじつ)の高標有り
  下有衝波逆折之囘川   下には衝波逆折(しょうはげきせつ)の回川有り
  黄鶴之飛尚不得     黄鶴(こうかく)の飛ぶこと、尚得ず
  猨猱欲度愁攀縁     猨猱(さる)、度(わた)らんと欲して攀縁(はんえん)を愁う

 口語訳

      蜀道の険しさ
  ああ、何と危うく、高いことか。
  蜀に行く道の険しさは、青空に登るよりもなお険しい。
  蜀王の蚕叢、さらには魚鳧
    かれらの開国の世の、何と遠く見定めがたいことか。
  それ以来、はるかに4万8千年、
    長安地方とは、人家の煙も通じないままだった。
  西のかた太白山には、鳥しか通えないような高く険しい道があるが、
    どうして蛾眉山の頂(いただき)までも、ずいと横切って進めよう。
  大地が崩れ、高山がくだけ、壮士たちが圧死したという大事件。
  その後で、天の梯子のような山道や、岩壁に渡した桟橋(かけはし)が、
    やっとつながるようになったのだ。
  上のほうに有るのは、六竜の引く太陽神の車も迂回するような、
    高く高く突き出た峰、
  下のほうに有るのは、ぶつかりあう波がしらが逆巻きつつ、
    めぐりめぐって流れる川。
  天翔ける黄鶴(こうかく)が飛ぼうとも、越えてしまうのは、なお不可能。
  木登り上手なサルが渡ろうにも、よじのぼるのが心配顔。

 用語の注を書くと、蚕叢・魚鳧は伝説中の、古代の蜀国における二人の君主の名。四万八千歳は揚雄の『蜀王本紀』に、「蜀王の先、蚕叢・柏灌・魚鳧・蒲沢・開明と名づく。...開明従(よ)り上りて蚕叢に到るまで、三万四千歳を積む」とある。秦塞は長安地方の塞(とりで)。ここでは広く長安地方のまちや村をいう。太白は長安の西北約100kmの山。秦嶺山脈の主峰の一つ。六竜は太陽神の乗る、6頭立ての竜の引く車。義和という御者がそれを御して大空を東から西にめぐる。囘日之高標は太陽神の竜車が迂回しなければならないような高い山の峰。左思の「蜀都腑」の、「義和も道を峻(たか)き岐(みね)に仮り、陽烏(太陽の中に住むカラス)も翼を高き標(みね)に廻らす」を承(う)けた表現。」と在るのです(△13のp267~268)。上の注の中身は正に三星堆を明らかにする為に私が引用した箇所そのものです。


 右が李白の肖像画です(△14のp40)。李白の【脚注】※20を見ると、若い時に剣術を好み、奇書を読み、遊侠の徒と交わった。」と在りますが、奇書、即ち、奇書中の奇書で在る『山海経』を読んだに違い有りません。そして後年を好み奇行多く奔放な生活を送った。」に成って行くのです。西域 -中原地方からは西戎(※20-2)と呼ばれていた- で生まれ蜀郡に住んだ異端児の李白は、私と同じく自分を異邦人と感じていた筈です。右の顔を見て下さい、これは中国人では無く西域人の顔です。「白髪三千丈」(※20-3)の異邦人李白は面・白・い!!!
 尚、李白は後でもう一度出て来ます(→後出)

                (*o@)

    {この章のここ迄は大変時間が掛かりました。2014年9月14日に最終更新}

  (4)『史記』と司馬遷について

   (4)-1.司馬遷

 宦官(※8-4)にされた人には宮刑(※11-1、※11-2)に処せられた人も在り、『史記』を著した司馬遷宮刑に処せられ宦官として前漢の武帝に仕えたのです!
 ここで、この内容について詳しく説明しましょう(以下の文は△6-1の司馬遷の年譜(p543~547)を参照)。司馬遷(※8-1)は前145年頃に夏陽県の龍門(今の陝西省韓城県)に生まれ、前126年に南方各地を経巡り、前110年父・司馬談の遺言で『史記』著述を託され前108年に父の跡を継いで太史令(※8-2) -暦と文書の管理が仕事- と成りました。そして前104年改暦に従事し『史記』の執筆に取り掛かった様です。
 ここで問題の事件が起こります。武帝(※15)(左の図(△6-1のp31))の命令で前99年李陵(※15-1)が匈奴征伐に出征しましたが逆に匈奴の捕虜に成って仕舞い、武帝は怒り狂い李陵を厳罰にしようとしました -李陵は前漢には戻らず匈奴の首領の娘を嫁にし匈奴の地で没しますが李陵の家族は皆殺しにされました- が、遷は若い時に李陵と学んだ仲だったので李陵を弁護した為に逆にが死刑の判決を受けて仕舞いました。
 右の写真が司馬遷の肖像です(△14のp29)。遷はどうしても『史記』を完成させたく思い宮刑を自ら進んで受け死刑を逃れる道を選びました。これは現在英米で日常化している司法取引(※21)を彷彿とさせますが古代中国では宮刑を受け宦官に成れば死刑は免れたのです、流石は宦官帝国です。しかし当時の医術水準では宮刑(=玉を潰しチンポを切る手術)の成功率は90%位で失敗したらです。御負けに麻酔など無いですから物凄く痛いのです。遷にとって宮刑手術は大きな懸けでした。
 前96年の大赦で出獄した遷は屈辱的な宦官として生きて行くしか無く、中書謁者令(※8-5、※8-6) -中書令としてる本も在りますが、これが正式名- として武帝の後宮の秘書役に成ります。こうして遷は武帝に仕え乍ら前91年、念願の『史記』130篇(※8)が完成しました。そして前87年には武帝が死に、前86年頃司馬遷が亡くなりました。

 西王母の予言の通りワンマンの武帝の晩年は国が乱れ皇太子が自殺しましたが、遷は前91年に反乱派に連座した囚人の任安「任少卿に報ずるの書」を書き送り、宮刑を受けても『史記』を著述する気持ちを切々と語って居ます(△6-1のp32~35)。もし遷が宮刑・宦官という経験を経て居なかったならば『史記』は通り一遍の史書に成って居たかも知れず、苦い経験は司馬遷を「政治の醜い部分も書くリアリストに変えたのです(△6のp213~214)。その結果『史記』は西欧のヘロドトスの『歴史』と並び称される名著と成りました。そして「太史公自序」(※8-3)は司馬遷の生(なま)の声を伝えて居ます。
 元々去勢(※11-3)とは家畜改良の技術です。去勢されると髭が生えなく成ります。去勢/宮刑/宦官やヘロドトスについては「掲示板のおちゃらけ議論」で詳しく扱って居ますので、▼下▼をご覧下さい。
  ペニスの商人考(About the PENIS broker)

 序でですが『史記』の「孝文本紀」(△6-2のp336)と、「書」の「封禅書」(△6-3のp169)に「深沢侯(=深澤侯)(しんたくこう)」というのが出て来ます。どちらも書いて在ることは同じで、姓はで景帝の時に封を絶たれた人と在ります。深沢侯には李少君という舎人(とねり)が居り、竈(かまど)を祀って福を求める術、五穀を食べずに仙人に成る術、不老長生の方術を使うので身分の上の人たちは李少君を尊んだと在ります。しかも趙氏は秦氏の祖先(→後出)という事ですから私は趙深沢の後裔であり、しかも秦氏に繋がる知れませんよ!、ブォホッホッホッハッハッハッハ!!

   (4)-2.『史記』を読んでいた平安の二大女傑

 『源氏物語』の「乙女」の帖に、夕霧が唐土(もろこし)の学問に触れ「ただ4~5月のうちに、史記などいふ文(ふみ)は、読み果て給ひてけり。」と在ります(△15のp287)。又、『枕草子』の211段には「書(ふみ)は、文集(もんじふ)。文選(もんぜん)。新賦(しんぶ)。史記五帝本紀。願文。表。博士の申文。」と在ります(△15-1のp254)。ここで「五帝本紀」と在るのは『史記』「本紀」の最初の章です(△6-2のp9~28)。
 平安の二大女傑(=紫式部清少納言)は凄い、恐れ入りました。今の”ぐうたら社会”で『史記』を読んでる女子大生がどの位居るんでしょうか?、心許無い限りです。しかも学校教育では無く、昔の上流家庭ではが子供に一流の家庭教師を付けて教育したのです。平安の二大女傑もそうした環境で『史記』を学んだ、という事ですね。現代では天皇家の御曹司ですら学校に通って居ますから皇族の子弟でも『史記』を知らないかも知れません。

   (4)-3.『史記列伝』の翻訳者と湯川秀樹氏

 ところで【参考文献】△6-1の訳者の貝塚茂樹氏と、△6の訳者の小川環樹氏は兄弟で兄弟揃って『史記列伝』を訳出している事は面白いですね。但し、前者は抄訳ですが解説が詳しく司馬遷の事が良く理解出来るのに対し、後者は完訳です。環樹氏は『三国志演義』(△5、△5-1)も訳して居ます。
 実は長兄の小川芳樹氏(東大教授(冶金学))/次兄の貝塚茂樹氏(京大教授(東洋史))/3男の湯川秀樹氏(京大教授(理論物理学)、日本人初のノーベル賞受賞(物理学賞))/4男の小川環樹氏(京大教授(中国文学))の4兄弟は何れも碩学・俊才です。そもそも小川家は学者の家系で父の小川琢治氏も東大を出て京大教授(地理学)を務めて居ます。父の琢治氏は「秀樹が一番”ぬうぼう”としていて捕らえ処の無い人間」と思って居た様ですが、私も然もありなんと思いますね。秀樹氏は老荘思想に深く入り込んでいて湯川学には”知の遊び”が在りました。
 一方、『山海経』の訳者の解説には小川琢治氏は、五蔵山経はその作成年代を戦国以前とし、東周洛陽に於てできたと述べておられる。」と在り(△2のp184)、4兄弟の父の名が出て来ます。『五蔵山経』は古い旅行案内書です(△2のp182、185)。この本には妖怪漫画家の水木しげる氏も解説を載せていて(△2のp196~203)、江戸時代の鳥山石燕の『画図百鬼夜行』(△16のp20~27)を引き合いに出し乍ら中々の博識を披露して居り流石現代の妖怪の第一人者です。
 尚、1949年の湯川氏のノーベル賞受賞式で演奏された曲目は貴志康一(作曲家/指揮者)作曲の『ヴァイオリン曲「竹取物語」』(1933年作)で、1949年には既に故人です。「竹取物語」は当時私が主宰していた【ブラボー、クラシック音楽!】オリジナルCD『モダニズム音楽入門-4』に収録し、「竹取物語」や湯川氏については【参考文献】△17のp293~294に書いて在ります。因みに、私が生まれたのが1949年なのです。何か因縁を感じますね、ムッフッフ!{このリンクは2014年5月20日に追加}

                (*_@)

  (5)『山海経』の位置付け

 『山海経』(※2-2)は郭璞(※2-3)が序と注を付け300年頃に発行されて居ます。訳者は『山海経箋疏』(郝懿行(かくいこう)撰、1800年頃発行)をテキストとして居ます(△2のp179)。しかし『山海経』の作者については不明です。成立年代は脚注に在る様に戦国時代~秦・漢代の作と考えられて居ますが司馬遷の『史記』に記載されているのでB.C.91年より前という事に成ります。訳者の解説には「作者についても全く不明で、現在のわれらが考えるような単純な書物でなく、何人かの作者が、また地方を異にしたものたちが作成したものであろうし、しかもながい時代にわたって語りつぎ、書きついできたものだ。」と在る(△2のp183)様に、訳者は時代も地方も異なる複数の作者を想定して居ます。

 実は『山海経』は私の大の愛読書です、これ程荒唐無稽で面白い本は滅多に在りません。『世界の奇書』という本にも載ってましたね(△2-1のp76~79)。世界の誰しもが認める「奇書中の奇書」である事は間違い有りません。しかし「海内東経」には「雷沢(らいたく)の中に雷神(※22)あり、竜身で人頭、その腹をたたく。」と在り(△2のp145)、これなどは明らかに雷神が中国から日本に伝わった事を表して居ます。日本では太鼓などを打ちますが元々は腹を叩いて居たのです。{このリンクは2012年9月30日に最終更新}
 右が『山海経』の雷神です(△2のp146)。この様に『山海経』は日本に伝来している箇所が少なくない事は水木しげる氏の解説に書かれて居ます。

              ◇◆◇◆◇

 これで三星堆遺跡に関する「特別企画」を終わります。
    {この節は2010年7月7日に最終更新}

区切り線。

 ■10月21日(日)・その2 - 広漢市の松岡さんの友人を訪ねて

 我々(松岡さん、直美ちゃん、私とガイド)4人は午後2時頃博物館を出て昼飯を食って、広漢市の松岡さんの友だちの家にタクシーで向かいました。松岡さんは住所を書いた紙を出しタクシーの運ちゃんに見せて、運ちゃんが「その住所はここだ」と言った所でタクシーを降りました。今は3時半頃です。
 松岡さんの友人はアパートに住んでいるので、どの部屋かガイドに聞いて貰い子供が「ここだよ」と答えましたが、松岡さんは別に今日来ると約束してる訳では無いので生憎(あいにく)不在なのです。我々は少し待つことにしましたが中々本人が現れません。我々は5時半頃迄 -つまり約2時間- 待ち、外が少し暗く成りましたので松岡さんは「もう諦めよう」と言い、「別に会えなくても良いさ。訪ねて来たという事に意義が有るんだから。」と言いました。それで我々は帰りのタクシーが来る通り迄とぼとぼと帰り掛けたその時です、松岡さんの友人が戻って来たのです!

 松岡さんの友人は叶さんと言います。それで左下の左側3人が叶さん、奥さん、叶さんの子供です。それと松岡さん、ガイドです。右下の写真が叶さんと松岡さんの2ショットで、松岡さんの目は涙で潤んで居ます!
 松岡さんに聞いた話に拠ると、叶さんは三重県津市 -松岡さんの住んでいる所- の中華料理のコックで、それで松岡さんと知り合いに成りました。叶さんは一時帰国をしている所ですが修行の為に又外国に行くという話です。


 この日の1年後位に叶さんはどうしてるか聞いた所、「彼は今ドイツのベルリンで修行してるわさ。」という話です。そして「四川省の人は外国で修行してる人が多いみたいわさ。」と言いました。
 今夜は広漢賓館に泊まります。

 ■10月22日(月) - 都江堰と青城山

 (1)広漢市から都江堰へ

 左下が広漢市の朝の風景バイクタクシーが写って居ます。今にも雨が降って来そうな天候です。
 我々はこれから”自動車”のタクシーに乗って都江堰(※23)に向かいましたが、松岡さんは何と200元/1日(朝~夕方)でタクシーをチャーターする事に成功、我々は乗客は4人です。
 タクシーで40分位で広漢市の西北に在る都江堰 -都江堰は日本の広辞苑にも載って居ます!- に着きました。都江堰の詳しいことは【参考文献】△18、△1のp190~191を参照して下さい。

 都江堰とは紀元前256年に開始された岷江 -長江(※2-1)の支流- と呼ばれる川に施した古代の治水及び灌漑用の利水施設で今も現役で利用されて居るのです。時代は戦国末期の秦の昭襄王(※23-1)の時代、工事を担当したのは蜀の郡守の李冰(りひょう)親子で、父の李冰は前251年迄に原形と成る堰を作り後は息子(=李二郎)が引き継ぎ完成させました。昭襄王もこの事業に銀10万両を拠出しました。
 岷江の治水及び利水工事を完成させると、それ迄度々洪水に悩まされた蜀郡(=成都)は以後「天賦之国」と呼ばれ豊かな穀倉地帯に生まれ替わったと伝えて居ます。因みに紀元前316年蜀という国はに滅ぼされたので都江堰工事が行われた前250年頃の蜀は「秦のの一つ」に過ぎません、それで郡守なのです。それと昭襄王は始皇帝の曽祖父です。我々は三星堆で蜀の歴史を学んだので蜀の事が良く解ります。尚、都江堰は初め(=10世紀以前)は都安堰と呼ばれて居ました。

 都江堰に着くと、我々は先ずロープウェイに乗り見晴らしの良い仁王廟に行きました。この仁王廟は李冰親子を祀って居ます。
 右が仁王廟から眺めた都江堰です。下に見えている川が岷江、橋は安瀾索橋です。ご覧の様に人工の中洲が在り川は外江(中洲の奥:洪水の排出)内江(中洲の手前:灌漑用に水を引き入れる)に別れ、この分水するのが魚嘴分水堤です。魚嘴とは分水する土手の事です。飛沙堰は内江の土砂の排出と水量の調節に -これが(※23-2)- 、宝瓶口は内江の水を灌漑用に運河に導水します(△18)。川の水は右から左へと流れて居ます。

 都江堰建設当時使われたのは、蛇籠と言われる竹を割って籠を作り中に石を詰めたもの榪槎と呼ばれる竹と木材に依って三角錐形に組み立てた一種のテトラポッドで、この様な「竹」の水制(※23-3)が中洲(魚嘴分水堤)の築造に使われました。
 仁王廟の壁には李冰の格言「深淘灘、低作堰」(深く灘を掘り、低い堰を作る)が刻されて居ます(△18)。

 以上の説明を解りやすく▼下の図(ポンチ絵)▼で示しましょう。右上の写真と見比べて見て下さい。

                  西
  ────────────────||──────────||──────
    ←外江          安||  ←外江     ||外江閣
  ─────\─\────────||──────────||─\
     飛沙堰\ \  中洲  瀾||  魚嘴分水堤   魚嘴 / ←岷江
  ───────\─\──────||───────────/
  ────────┐      索||
       宝瓶口│       ||  ←内江
  ────────┘      橋||
    ←運河           ||
  ────────────────||─────────────────
                  東

                 仁王廟

 下に降りました。左下が先程上から眺めた安瀾索橋です。

 この索橋鉄鎖橋とも言って、コンクリートの橋脚に鉄の門を作り、その間を鉄製のロープを渡し木の板を敷き詰めて在ります。昔は石の橋脚竹製のロープで(△18)、ここでも「竹」が使われて居たのです。

 下の写真安瀾索橋の上で記念撮影、直美ちゃん(左)とガイドの魏敏さんです。上の説明とこの写真で索橋(鉄鎖橋)の構造が解ったと思います。彼女たちは「中国名花集」に登録しました。

 ところで魏さんは四川省でガイドをしているので都江堰は何回も案内してしている筈ですね。四川省と言ったら、この都江堰、青城山、成都動物園(←パンダ)、そして物好きが三星堆です!

 都江堰上に記した様に、所謂ダム(※23-4)とは違い、流れを分水し(魚嘴分水堤)、片方(外江)は洪水の排出を、もう片方(内江)に水を引き入れ灌漑用に水量を調節し(飛沙堰) -これが- 、運河へ導水している(宝瓶口)のです。後は自然に任せ流体力学の原理に従って作動しているのです。
 日本人は”自然に任せ”るのが苦手みたいで、その為か土木関係の会社が都江堰を”勉強”の為に見学に来て居ます。

    ◆参考 - 京都の葛野大堰は都江堰を手本にしたという一説

 一説に拠ると都江堰を手本にして日本の山背国葛野郡(現:京都府右京区太秦)葛野大堰を築いたという話が在ります。しかもそれを成したのが秦氏(※12-1)(←太秦は秦氏の領地)と言うのです。この説は面白いですね、私は有り得る話だと思って居ます。特に都江堰は随所に「竹」を使用して居ましたが、太秦の近くには今でも「嵯峨野の竹林」で有名な位「竹」は豊富に有ったからです。私は秦氏がこの「竹」をヒントに葛野大堰の手本に都江堰を考え付いたのではないかとさえ思って居ます。京都の葛野大堰については▼下の2つのページ▼を是非お読み下さい。取り分け「謎の三柱鳥居」は秦氏の謎について全てを書いて在ります!
  謎の三柱鳥居(The mysterious Trinity torii)
  2003年・京都禅寺探訪(Zen temple of Kyoto, 2003)

 ところで秦氏の出自に関しては諸説在りますが、秦氏は秦の始皇帝の末裔だとする一説も在り、今ではすっかり有名人に成った東儀秀樹氏(←東儀家は雅楽の家系)が「東儀家は秦氏に連なり自分が秦の始皇帝に繋がるのはとてもロマンが在る。」と語って居たのを何かの雑誌で読んだことが有ります。そこで『史記』秦本紀を紐解くと、太史公自序に「太史公言う。秦の遠祖の姓は(えい)であるが、後世子孫が分封せられ、封国の名をもって氏となし、徐氏、郯氏、莒氏、終黎氏、運奄氏、菟裘氏、将梁氏、黄氏、江氏、修魚氏、白冥氏、蜚廉氏、秦氏があった。しかし、秦の直接の先祖の造父は、趙城に封ぜられたので趙氏である。」と在り(△6-2の135)、秦氏の姓が『史記』に載っているのです。

                (*_@)

 左下が観光地に行くと中国では良く見掛ける門で「都江堰景区」左から書いて在り、この門は比較的新しい事が解ります。

 それよりも私が興味を持ったのは、屋根の上です(←暗いのでボケて居る)。ご覧の様に人物像(男女)犬が見えます。

 実は都江堰は道教(※13)の施設が沢山在ります、最初に行った仁王廟も道教の建物です(次に行く青城山も道教です)。上の都江堰景区の門もそうで、屋根の上の人物像や犬なども道教的です。

 さて昼食です。昼飯は都江堰の中で食べました。都江堰は大変広く飯屋の他にホテルも在り一帯が自然公園に成って居ます。
 今日の御数の一つが左下のカエル(蛙)です。これが料理されると右下の写真の様に成ります(蛙の鉄板焼き)。食べた感じは”非常に柔らかな鳥”と言った感じです、クセが無くさっぱりして居てとてもグーです。そしてもう一品在るのは鳩の姿焼きです。香ばしくて、肉は締まっていて、とても旨かったですね。ところで、この鳩ですが、これって家鳩なんですかねぇ、公園なんかに普通に居るヤツ。私は99年から中国を旅して今年2001年で3年目ですが、日本で公園で普通に見掛ける家鳩を中国で余り見ないのです。松岡さんに聞くと「中国人は食ってるんちゃう、人口が多いから!」という返事でした。まあ、私はそんな話を聞いても何とも思いませんが、食って旨ければ良いのです!!
 しかし1999年の雲南桃源旅行では、私は中国料理の”油っこさ”で飯が食えなくなり旅の後半の麗江の旅をキャンセルしたのです。それから2年でここ迄”肉体改造”をしたのです。2年前の”純情可憐”なエルニーニョを是非ご覧下さい!

                    蛙の鉄板焼き     鳩の姿焼き
                      ↓          ↓


 タクシーの運ちゃんにも一緒に食べよう、運ちゃんの食費は勿論こちらで持つからと言いましたが運ちゃんは遠慮して食べませんでした。

 (2)青城山 - 上清宮の老君閣

 下の「青城天下幽」の図青城山で買ったものです(→後出)が、これを地図代わりに使います。都江堰と青城山(※24)は近く都江堰から約15km程西南へ行った所が青城山です。そして青城山はもの凄く広く全体は自然風景区に成って居ます(△1のp192~193)。通常観光客が行くのは、下の図の右方に在る上清宮とか青城第一峰(1260m)です。全山で最高峰は宝華山の2113mです。


 ここは道教の四大名山の一つ(※13)です。この地は後漢末期五斗米道天師道とも言う)(※13-3)を興した張陵がここで丹薬を煉ったことが在り、ここの道教気功は有名です。又、洞天乳酒/苦丁茶/道家泡菜(=キムチ)/白果燉鶏(銀杏とニワトリの煮込み物)の道教料理が在るそうです(△18)。尚、五斗米道とは入門の際に五斗米(=日本の5升の米)を納めさせたので言い、信者にも一定の責任意識を持たせる意味が有ったのでしょう。
 しかし後漢末期は国が乱れた時期で、道教のもう一つの宗派である太平道(※13-2)は黄巾の乱(※13-1)を起こし後漢滅亡の切っ掛けと成りました(←反乱民衆は張角らに扇動され額に黄巾を付けて居ました)(△7-1のp88~92)。では後漢が滅亡してどう成ったのか?、蜀/呉/魏の三国分裂の時代、即ち『三国志』(※7)の時代に成る訳です。ここで再びが歴史の表舞台に登場するのです。

 我々はここでタクシーを降りました。左下が青城山の入口の門ですが、この門は「山城青」右から書いて在るので古い門です。松岡さんが立って居ます。屋根の上には都江堰と同じく色々な人物像が在ります、これが道教の建物なのです。
 右下が青城山自然風景区の遊園地の様な所で我々はしばしボートに乗って楽しみました。写っているのは直美ちゃんです。今にも雨が降りそうな天候で写真は明るく処理して在りますが本当はもっと暗いのです。

 軽装で来た我々は寒かった事を覚えて居ます。

 左が上の地図の右側に在る索道(※24-1)で、スキー場に在る2人乗りのリフト(←「地球の歩き方」にはロープウェイと書いて在る(△1のp193))です。写って居るのは直美ちゃんとガイドです。我々はこれに乗り一気に約500m上清宮に登って、否々座って来ました!

 右が上清宮です。松岡さんと私が写って居ます。真ん中に「宮清上」と在り、右の門が「門圃玄」、左の門が「瑶臺闕」 -「闕」は宮城の門の意- と全て右から書いて在ります。
 上清宮は晋代(265~420年)に建立されたものですが、現存する建物は清の同治年間(1862~1874年)に建てられました。宮内は道教の開祖の老子(※13-4)を祀って在ります。裏手に在る老霄頂の呼応亭は日の出雲海奇観を楽しむ所だそうです(△18)。
 

 我々は上の「宮清上」と書いて在る門から入りました。すると左下の老君閣 -ここに老子が祀られている(△7のp25~27、△7-1のp138~145)- という5、6階の道観(※13-5)が現れ、私は道観を見るのが初めてだったので大変興味を持って見学しました。
 右下が老君閣の内部の様子です。奥に略等身大位の3人の像が祀られ一番左が多分老子です。線香の香りが可なり強く感じられました。
 右下が老君閣の土産物売り場の小母さんです。地図代わりに使っている「青城天下幽」はここで買いました、10元位だったと思います。

 実はこの後、階段を登り道士たち(※13-6)が20人位で何やら修行をしている階にも行き、その中に女性の道士が3人位居たことを覚えて居ます。私はデジカメで写真を撮ろうかと思いましたが、どうもそういう雰囲気では無かったので写真は撮りませんでした。

 左下は老君閣の屋根です。先頭に人物像、後は山羊・犬・獅子か?、或いは想像上の動物か?、が居ます。
 右下は帰りの橋の上で手に持っている横笛を吹いて居た若い道士です。笛の演奏が大変上手く私は暫く立ち止まって聴いて居ました。彼の服装が修行中の道士の服装です。
 先程も書きましたが雨が降りそうでご覧の様に濃霧が掛かり、それにもう16:30でとても暗く寒いのですが写真は明るく処理して在ります。
  

 帰りは下りのリフトは無いので歩いて帰りました(←当たり前や!)。下山したら17:00です。タクシーの運ちゃんは我々を待っててくれ我々はそれに乗って成都北駅に近い所で降ろして貰い約束の200元を払いました。
 早速我々は西蔵賓館を取り、荷物を置いて晩飯を食いに出掛けました。

 (3)成都の火鍋料理で「豚の脳味噌」を食す

 この店はガイドの紹介です。私は滅茶苦茶腹が減って居ます、それとアルコール不足です。先ずビール(啤酒)です、ビールを飲まないと何も考えられません!
 今日は四川鍋料理、これを火鍋(左下の写真)と言います。四川料理は山椒(※25)が効いて辛いのです。雲南料理は唐辛子で辛く、同じ辛い料理でも味は大分異なります。スープはご覧の様に「白いスープ」「真っ赤なスープ」とに分かれ、真っ赤な方は唐辛子が目茶入ってますが火鍋は山椒も相当入ってます。
 我々は最初、小魚や肉を野菜と一緒に食べて居ましたが、ガイドが「ここは豚の脳味噌が在る」と仰ったので豚の脳味噌を注文しました(右下の写真)。青い野菜は香菜です。それで脳味噌を「真っ赤なスープ」でシャブシャブして食べると、旨い!!


 これを焼酎飲み乍ら汗掻いて食べるのです、何しろ辛いですから目茶汗掻く訳です。味は「タラの白子」みたいで中々行けますゾ。大体見掛けが似ている物はも似ている」という事を中国料理で学びました!!

 女性陣も豚の脳味噌を食べて居ます(左の写真)。私は焼酎が進みましたねぇ。

        ◇◆◇◆◇

 ガイドの魏敏さんは今は四川大学の3年生で、中々聡明な子で日本語がとても上手いです。日本にも是非行ってみたいと言ってましたが、どうしたでしょうか。そう言えば、三星堆の本(△4)の著者も魏さんと同じ四川大学出身です。

 楽しい夕食でした。ガイドはこれでお役御免、皆に別れを告げて帰りました。明日は松岡さん、直美ちゃん、それと私で成都市内を見物します。
 夜はぐっすり眠れました!

 ■10月23日(火) - 成都市内見物後、再び成昆鉄道

 (1)杜甫草堂

 今日は成都市内見物で先ず杜甫草堂に行きました。草堂は市の中心外から5km位西の在ります。期せずして三星堆で李白を取り上げましたが、李白(※20)と杜甫(※26、※26-1)は共に盛唐期を生きた詩人(←李白が11歳年上です)です。
 杜甫安史の乱755~763年)(※26-2)の後半を避難する為に759年から4年間(←厳密には蜀郡)の成都に草堂(※26-3)を建て住んだ事が在ります。この時期、玄宗皇帝も蜀郡の成都に逃れて居ます。

 左は草堂に入ったら白い鳩は沢山居る所が在りました。

 右は松岡さんです。草堂内部はご覧の様に、至る所に竹林が在ります。

 左は少陵草堂です、「少陵草堂」と書いて在りますね。。写っているのは私です。




 下は杜甫神龕です。「龕(がん)」とは像などを安置する厨子のことです。左右の表札には
  荒江結屋公千古
  異代昇堂宋両賢

と書いて在ります。どうやら「宋両賢」とは北宋の黄庭堅と南宋の陸遊のことです。二人共この時代に杜甫の造詣が深く、杜甫再評価(→後出)に力が在った人です。

 左の写真の右下に杜甫の肖像画が在り、それを拡大したしたのが右の写真です。
  遺杜詩
  像拾聖
と在ります。



←杜甫の  拡大→
 肖像画
 




 左は一覧亭という塔です。











 これで杜甫草堂は一通り見ました。

    ◆杜甫の詩

 ここで杜甫の詩を紹介します。安史の乱の間(←成都に住んだ時期を含む)に240首以上の詩を作って居ます(△1のp182)。先ず安史の乱の時(755~758年)の詩です。

      春望       春望

    国破山河在    国破れて山河在り
    城春草木深    城春にして草木深し
    感時花濺涙    時に感じては花にも涙を濺(そそ)ぎ
    恨別鳥驚心    別れを恨んでは鳥にも心を驚かす
    烽火連三月    烽火は三月に連なり
    家書抵万金    家書は万金に抵(あた)る
    白頭騒更短    白頭を掻けば更に短く
    渾欲不勝簪    渾(すべ)て簪(しん)に勝(た)えざらんと欲す

 この「国破れて山河在り」(※26-4)は恐らく杜甫の詩の中で、特に日本人には特別の郷愁を誘う詩(=五言律詩)です(△19のp121~123)。安史の乱長安の都が反乱軍の手に落ちた中で、この詩は757(至徳2)年(46歳)の3月に長安で作られて居ます。その前年の756年には玄宗皇帝退位蜀郡成都に逃れ、玄宗の寵愛を独り占めにしていた楊貴妃756年反乱軍に因り殺されて居ます(※26-2を参照)。この詩はそういう大変な状況の中で生まれました。
 ところで「国破れて山河在り」が何故日本人には特別の郷愁を誘う詩なのか?、解りますか。これは戦中派の人でないと解らないでしょうね。私も戦後派ですが戦中派の人に大分前に聞いたことが在ります。それは日本人が太平洋戦争(=第二次世界大戦)で広島と長崎の2発の原爆を食らって負けた事に皆が「もうダメだ」と思った時に「国破れて山河在り」の詩は勇気を与えてくれたと言いました。確かに国は破れたが山河は残っている、「もう一度遣り直そう」と思ったそうです。その為、当時のラジオ新聞はこぞって「国破れて山河在り 城春にして草木深し」の2句を放送したのです。それで戦後、この詩が有名に成ったのです。

 これはメディアに因る情報操作(=誘導)なので私は余り好きでは無いですが、そういう近現代のメディアとは無縁な人がこの詩を暗誦して名句を残して居ます。奥の細道で平泉の中尊寺を訪ね奥州藤原氏の栄華の跡を偲んで、こう書き記(しる)して居ます。即ち「巧名一時の叢(くさむら)となる。「国破れて山河あり 城春にして草青(あを)みたり」と、笠打敷(うちしき)て、時のうつるまで泪(なみだ)を落し侍(はべ)りぬ。

    夏草や兵(つはもの)どもが夢の跡

と在るのです(△20のp40~42)。もうお解りでしょう、松尾芭蕉です。一見無関係に思われる漢詩と俳句ですが、詩聖と言われた杜甫と同じく俳聖と言われた芭蕉とは何処か気脈が通じ合っていたのかも知れません!

 次は成都の杜甫草堂(759~763年)で作った詩です。

      有客       客有り

    患気経時久    気を患いて時を経(ふ)ること久しく
    臨江卜宅新    江(こう)に臨みて宅を卜(ぼく)すること新たなり
    喧卑方避俗    喧卑(けんび)、方(まさ)に俗を避け
    疎快頗宜人    疎快(そかい)、頗る人に宜(よ)し
    有客過茅宇    客有りて茅宇(ぼうう)を過ぐ
    呼児正葛巾    児(じ)を呼びて葛巾(かっきん)を正さしむ
    自鋤稀菜甲    自ら鋤(す)けば菜甲(さいこう)稀なり
    小摘為情親    小(すこ)しく摘むは情親(じょうしん)の為なり

 この詩も五言律詩です。760(上元元)年(49歳)の時成都の杜甫草堂で作りました。当時は成都の東南の錦江の支流である浣花渓の畔にありました(△19のp251~252)。今の草堂とは位置が異なります。実は杜甫が建てた草堂は杜甫が死ぬと直ぐに無くなりました。杜甫は唐代にはそれ程有名では無く今日の人気は北宋時代(960~1127)再評価されたのです。その切っ掛けは北宋後半の1039(宝元2)年に出版された杜甫の詩集『杜工部集』(王洙が撰)であり(△19のp390)、先程の杜甫神龕に在った黄庭堅や陸遊らの業績です。現在の草堂も北宋時代に祠堂(※26-5)が建てられ段々大きく成って行き、今の建築郡は清の嘉慶16(1811)年に建築されたものが元に成って居ます(△1のp182)。現在は10万㎡の広大な土地に詩史堂や草堂博物館を備えて居ます。

    ◆李白と杜甫

 ここで李白と杜甫の比較をしましょう。先ず744年頃李白(44歳)と杜甫(33歳)は河南に於いて会って居ます(△13のp380、△19のp377)が、その頃李白は超有名人、対する杜甫は全く無名の一詩人です。二人の詩の内容は正反対です。李白は奔放磊落、酒を飲み飲まれている間に詩が迸り出て来るのに対し、杜甫は謹厳実直、叙事詩が得意で詩を推敲し丁寧に作り上げて行きます。李白が天才型であるのに対し、杜甫は秀才型です。李白が唐で大いに評価され早くも詩仙(※20-1)と呼ばれましたが、杜甫は彼が生きた唐では余り評価されませんでした。それ故に杜甫が建てた草堂は見向きもされず直ぐ無くなりました。
 杜甫が再評価され詩聖(※26-1)と呼ばれ、李杜(※20、※26)と並び称される様に成ったのは北宋時代なのです。音楽家に例えれば李白はモーツァルト(=早熟型)であり杜甫はブラームス(=大器晩成型) -ブラームスは交響曲第1番を書くのに20年掛かって居ます- です。マーラーの「大地の歌」 -これはマーラーの9番目の交響曲ですが彼は番号を付けるのを避けた!- に李白の詩が援用されて居ます。しかし今日、杜甫草堂はこうして在るのに対し李白に残された物は何も無いのです。
 ではどちらが好きかと聞かれれば、私は断然李白です。全くの偶然から私は三星堆の蚕叢と魚鳧という王の名前を李白が詠み込んでいた詩を見付けた時私は小躍りしました。この様な意外性が李白には有るのです。もしかして、李白は三星堆文明の”申し子”ではないか?!、李白が西域で生まれたのもそれを裏付けて居るのでは!!、そんな事を想像するのは非常に楽しく面白い、ブワッハッハッハッハ!!

 ところで、杜甫には「飲中八仙歌」という唐の8人の酒飲み -賀知章/王李璡/李適之/崔宗之/蘇晋/李白/張旭/焦遂- を詠じた詩が在りますが、この中の李白を詠んだ詩を最後に紹介して置きます(△21のp36)。

        <杜甫の「飲中八仙歌」より、李白の段>

    李白一斗詩百篇    李白、酒一斗に詩百篇
    長安市上酒家眠    長安の盛り場の上(ほと)り
    天子呼来不上船    天子呼び来たれども、船に上らず
    自称臣是酒中仙    自ら称す、臣は是れ酒中の仙

 杜甫が詩仙李白を茶化して居ます、杜甫にもこういう一面が在るのですね。李白は酒に酔って池に映ったを捉えようとして溺れて死んだと伝えられて居ます。

                (-_@)

 左下は草堂を出た所です。松岡さんと直美ちゃんが写って居ます。
 右下は亀趺(※27)と言い、亀が世界を支えているという世界観を表すもので中国では良く見掛けますが、モンゴルにも日本にも在ります。

 それにしても亀の表情を見て下さい、世界の皆の体重を支えている訳でとても苦しそうですね!
 

 (2)武侯祠 - 三国志演義の蜀の英雄の祠堂を祀る

 武侯祠は成都中心部の南郊公園に隣接して居ます。ここは(※5)が在った所なので『三国志演義』(※7-2)のの英雄、即ち諸葛亮(※28、※28-1)と劉備(※28-2)の祠堂(※26-5)を中心に、他に劉備の墓や、黄巾賊を討った関羽張飛趙雲などを祀って居ます。武侯とは諸葛亮の諡で、西晋時代の末期(300年頃)に建てられ明代に改築されて居ます(△1のp183)。

 ところで皆さん、『三国志』『三国志演義』とは全然違うという事を理解して下さい。その事を説明します。

    ++++ 『三国志』と『三国志演義』は全く違う ++++
 陳寿(※7-1)の『三国志』は正史の1つで、蜀/呉/魏に関する純然たる歴史書です。学者を除き一般の日本人でこれを読んでいるのは通称「魏志倭人伝」 -正式には『三国志』「魏書」の「東夷伝」の倭人の条- だけです。
 それに対し、明代の羅貫中(※7-3)が書いた『三国志演義』は小説です。勿論『三国志』の歴史に基づいて居ますが、そこには虚構が混じり作者が面白可笑しく脚色し、中国の四大奇書(※7-4)に数えられて居るのです。更に日本では元禄の初め湖南文山訳の『通俗三国志』が刊行されて以来爆発的に読まれ、やはり元禄の頃から流行った講談(※29~※29-2) -江戸時代は講釈(※29-1)と言った- で語られ江戸町人は非常に馴染みました。浮世絵の絵師たちも『演義』の訳本の『通俗三国志』を題材に取り上げ、例えば国芳/北斎などが『通俗』の英雄を描いて居ます。又、もう一つ江戸時代に講談(講釈)で流行ったものに『水滸伝』が在りますが『水滸伝』も四大奇書の一つです。
    ----------------------------


 左下が諸葛亮 -諸葛孔明(※28-1)と言った方が日本人には解り易いと思いますが、孔明は字です- の像です。
 そして右下が劉備(※28-2) -同じく玄徳は字- の像です。足元に「昭烈皇帝」と書いて在りますが、これは劉備の諡(おくりな)です。劉備は蜀漢(※5-1) -劉備は漢の一族- を作り、劉備は死にますがが覇権争いに参加し、ここに三国志演義の時代の幕開けと成ります。


 尚、当ページでは三星堆で古蜀巴蜀(←これはです)を扱いました!

 (3)陳麻婆豆腐 - その謂れ

 只の麻婆豆腐(※30)では有りません、陳麻婆豆腐なのです。陳麻婆豆腐は1862年に成都の北の万福橋に「陳興盛飯舗」を創業したのが最初です。しかし店主の陳春富さんは間も無く亡くなり、代わりに奥さんが店を切り盛りしなければ為りませんでした。万福橋は行商人が行き交い荷運びの人たちが足を休める地でした。奥さんはそんな行商人たちが良く豆腐を買うのを日常的に目にして居ました。そこで奥さんは豆腐を使う料理を作ろうと思い立ち、色々試行錯誤を重ねた結果、豆腐を辛く味付けた料理に至りました。この料理の評判を呼び、万福橋の人たちは「陳あばた小母さんの豆腐」(→中国語で陳麻婆豆腐)と呼びました。奥さんの顔にはニキビ跡の痘痕(あばた)が在ったのです。日中辞典を引いて下さい、

    痘痕(あばた) → 麻(ma)
    小母さん    → 婆(po)
    豆腐      → 豆腐(doufu)

という意味です。つまり中国語で麻婆豆腐は「あばた小母さんの豆腐」と成るのです。そしてこれが陳麻婆豆腐の謂れです。
 そして清朝(1616~1912年)末期に成都の名物料理に成り、今では世界各国で中華料理の一つに成って居ます。現在は成都市のど真ん中(=西玉龍街197号)に本店が在ります(△1のp199)。

 左下が陳麻婆豆腐の本店です(「陳麻婆豆腐」と書いて在ります)。松岡さんが店の前に立って居ます。私たちはここで昼食です。
 右下が陳麻婆豆腐で、この様に鉄板に盛られて出て来ます。見た感じも日本の物とは違います。唐辛子と山椒(※25) -中国では花椒と言う- がタップリ入っていて、隠し味でニンニク(葫)が相当使われて居ます。又、ネギ(葱)はワケギ(分葱)が使われます。
 舌が痺れる様な感じに成るのは山椒の所為です。麻婆豆腐の「麻」は上の「あばた」の他に「痺れる」という意味も有るのです、例えば麻痺(まひ)ですね。それと麻(あさ)という意味も有ります。
 私はビール(啤酒)で御飯を流し込む様に食べました。ウ~ゥ、辛~ぁ、でも旨い。最後にキュウリ(胡瓜)の漬物(←或いは生(なま)か?)が出て来たので救われました!


 今夜は夜汽車で昆明に帰ります。私は成都と広漢市の旅に思い残す事は在りません!!

 (4)成都 → 昆明 - 帰りの成昆鉄道

 成昆鉄道の帰りも「往」と同じで夕方6時頃成都北駅を出発し翌朝9時頃昆明南駅に到着しました。成都駅を出発する前に女性客室乗務員と2ショットを撮りました(下の写真、松岡さんが撮影)。

 お茶目な私は成都駅を出発する前に女性客室乗務員を見付け2ショットで撮って貰いましたが、松岡さんがシャッターを押す瞬間に、ご覧の様に彼女はプイと横を向いて仕舞いました。まぁ、彼女は”勤務中”なので仕方無いでしょう。皆さんは勤務中の女性に”ヘンな真似”をしないで下さいね。彼女は「中国名花集」に登録しました。
 私が着ているのは写楽が市川鰕蔵(えびぞう)を描いたデザインですゾ。浮世絵は中国で人気が有ります。

 成昆鉄道の帰り(「復」)の様子は往き(「往」)の様子と大差有りません、車窓の風景が逆に成るだけです(←当たり前じゃ)、アッハッハ!

 帰りは弁当 -20[元/人]- にしました、弁当の晩飯も大差無し。

 左の写真は摘みに買った鶏の脚 -?元、多分5元位か- です。「中国のヘビーなお食事-”食狗蛇蠍的!”」の中で私は「皆この脚の爪を見て気持ち悪がりますが、どうってこと無いですよ、女の手だと思って食えば良いのです、えっ、もっと気味悪いって?、アッハッハ!」と言って居ます。これを摘みに中国製焼酎を飲んでさっさと寝ました。やはり疲れていたので、直ぐ眠れました...Zz。
 大阪の私の家はミナミの飲み屋街に歩いて10分の所に在り、台湾人のママが遣っている店に時々行きますが、やはり台湾人が夜中に摘みを売りに来てママがそれを買い、我々客にそれが出て来るという仕組みです。その中にこの鶏の脚が在るのです。台湾では女性もこれを食べますよ。コリコリして旨いです、ビールの当てに良いですね。

 夜中に3度位トイレで起きました。夜中の2時半頃、という事は日付が変わり10月24日に成ってますが、何処の駅かは判りませんが丁度起きた時に列車が駅に停車して居たので、トイレに寄った後で女性客室乗務員が外で立っているだろうと思い見に行きました。やはり駅に立ち発射直前に敬礼をして列車に乗り込みました。

 右の写真は朝6時半頃で、洗面を終えた後、貨物列車が止まっている脇を我々の列車が通り過ぎて行きました。今日は曇りの様です。
 

 ■結び - 10月24日(水)は昆明から帰国

 列車は予定通りに9時頃昆明南駅に到着しました。直美ちゃんともここでお別れです、直美ちゃん、どうも有難う!!
 いやあ、異国を列車で旅するのは良いものです。成昆鉄道は良かったですね。実はこれが私にとって中国で初めての列車の旅でした。そして何と言っても三星堆遺跡は忘れられません!
 実はこの旅行記に三星堆の考察記事(←「特別企画」の記事を入れる事を迷いましたが結局入れる事にしました。もしこれを入れなかったら2006年頃には本ページは出来上がって居たのですが結局2014年迄掛かって仕舞いました。三星堆はそれ迄の殷や周の遺跡とは異質で、中原地方を離れた西方の文化/文明が、取り分け『山海経』が色濃く反映されて居ます。今思うと、やはり考察記事を入れて良かったと思って居ます。

 私たちが成都へ行っている間、西双版納へ行っていた小池/井本さん組(=景洪組)10月24日昆明で合流し、同日帰国しました。
 ここ迄、成昆鉄道往復で成都に付き合って戴きまして誠に有り難う御座います。中国でお世話に為った方々にも厚く御礼致します。では何方様もお元気で、チャオ!!

                (^O^)/~~~

♪♪♪ おしまい ♪♪♪

【脚注】
※1:昆明市の鉄道は、環状線に成っていて昆明北駅と南駅が在りますが、メインは南駅で長距離旅客列車は南駅に発着します。北駅は貨物や近郊のローカル線が発着します。昆明駅と言う場合は南駅を指します。

※2:三星堆(さんせいたい、Sanxingdui)は、中国の四川省広漢市1986年に確認された特異な遺跡 -青銅製縦目仮面巨大な青銅製世界樹(神樹)黄金の杖など- で、1920年代から部分的に出土していたが本格的調査は1980年頃迄成されなかった。本格的発掘に拠り、紀元前3000~1000年古蜀文化に属すること、黄河文明とは異質の長江文明の遺跡であることが判明。特に青銅製世界樹からは「十個の太陽」燭陰が、黄金の杖からは西王母が、月に住むと言われているヒキガエル(蟾蜍)の彫刻からは嫦娥伝説が、「山海経」の影響を強く受けている。
 補足すると、李白の「蜀道難(蜀道の険しさ)」という漢詩に三星堆の青銅製縦目仮面のモデルと考えられている初代王・蚕叢と、魚鳧王朝を築いた王・魚鳧の名を、この詩に詠み込んでいたとは驚きです。因みに、伝説の多い李白は西域人です。
※2-1:長江(ちょうこう、Chang Jiang)は、中国第一の大河。青海省南西部に発源、雲南/四川の省境を北東流し、重慶市を貫き、三峡を経て湖北省を横断、江西/安徽/江蘇3省を流れて東シナ海に注ぐ。全長約6300km。流域は古来交通/産業/文化の中心。この大河の流域に栄えた文明を長江文明と呼ぶ事が有る。揚子江。大江。
※2-2:山海経(せんがいきょう/さんかいきょう/さんかいけい)は、中国古代の神話と地理の書。主に洛陽(周代の洛邑)地方を中心に山や海の動植物や金石草木の他、祭祀・神話・伝説・怪談などを記し、中国神話の宝庫と言われる。18巻。禹の治水を助けた伯益の著とされるが、戦国時代~秦・漢代の作。<出典:一部「学研新世紀ビジュアル百科辞典」より>
※2-3:郭璞(かくはく)は、東晋の文人(276~324)。字は景純。博学高才、詞賦は東晋第1と称せられた。元帝に仕え、尚書郎と成ったが、王敦が叛(そむ)こうとした時、諫めて殺された。著「爾雅注」「山海経注」「楚辞注」など。

※3:青銅(せいどう、bronze)は、[1].銅と錫(すず)との合金。各種在り、鋳造用の他、鍛錬材/圧延材にも用いられ、亜鉛/鉛などを加えて古来美術品/貨幣に造られた。錫2~10%程度に少量の亜鉛/鉛などを加えたものが最も多い。一般に、鋳造/加工が容易で、機械的性質や耐食性/耐磨耗性が良好。機械の部品にもしばしば用いられ(砲金)、更に燐(りん)を加えた燐青銅、金銀を加えた鐘青銅、特殊な鏡青銅などが在る。真鍮に次ぐ日常に関係深い銅合金。人類が青銅器時代で青銅を利用したのは非常に古くB.C.3000年頃とされる。唐金(からかね)ブロンズ。錫青銅。→アルミ青銅。→青銅器時代。
 [2].銭(ぜに)の異称。〈日葡〉。
<出典:一部「学研新世紀ビジュアル百科辞典」より>
※3-1:青銅器時代(せいどうきじだい、Bronze Age)とは、考古学上の時代区分に於ける三時期法の第2段階。石器時代と鉄器時代の間に在り、青銅の器具を製作/使用した時代。青銅の利用はB.C.3000年頃メソポタミアに始まり、間も無くエジプト/ヨーロッパに伝わった。中国では殷/周時代がこれに当たる。青銅器の使用に依って生産力は向上し、強力な軍隊が組織された結果、強大な王朝が出現した。日本では弥生時代に大陸から鉄器/青銅器を略同時に学んだ為、独立した青銅器時代は無かった。<出典:一部「学研新世紀ビジュアル百科辞典」より>

※4:世界樹(せかいじゅ、World tree)/宇宙樹(うちゅうじゅ、Universe tree)とは、世界(宇宙)が1本の大樹から成るという概念で、通常、天上界/現世界/冥界とか未来/現在/過去とかを内に含む。この概念を図とか鋳物に具象化したものも在る。広くヨーロッパ/インド/ペルシャ(イラン)/中国/シベリア/メソアメリカなどに見られる。北欧神話の世界樹ユグドラシル(Iggdrasil)が名高い。
※4-1:扶桑(ふそう、fusang)とは、[1].[山海経海外東経]中国で、東海の日の出る所に在るという伝説上の神木。又、その地の称。
 [2].〔植〕ブッソウゲの別称。
 [3].[南史夷貊伝下、東夷]中国の東方に在るという国。日本国の異称。扶桑国。
※4-2:金烏(きんう)とは、(太陽の中に3足の烏が居るという中国の伝説に拠る)太陽の異称。←→玉兎(ぎょくと)。
※4-3:八咫烏(やたがらす)とは、(ヤタはヤアタの約。咫(あた)は上代の長さの単位)
 [1].記紀伝承で神武天皇東征の時、熊野から大和に入る険路の先導と成ったという3本足の大烏。姓氏録に拠れば、賀茂建角身命(かもたけつのみのみこと)の化身と伝えられる。古事記中「今、天より―をつかはさむ」。
 [2].中国古代説話で、太陽の中に居るという3本足の赤色の烏(=金烏(きんう))の、日本での称。〈和名抄1〉。
※4-4:神使(しんし/かみのつかい)とは、[1].神の使い。多くはその神に縁故の有る鳥獣・虫魚を言う。使わしめ。神社に付属して、その使と成る例としては、天神の牛/日吉の猿/稲荷の狐/八幡の鳩/春日の鹿/熊野の八咫烏/大黒天の鼠の類。
 [2].(かみのつかい)神社に遣わされる勅使・奉幣使。夫木和歌抄27「たれもみなそのうまやどに馬はあれど―にかちよりぞ行く」。

※5:蜀(しょく)は、[1].中国の地名。今の四川省の別称。古くから富饒の地として知られ、劉備が蜀漢を建国したのを始め、この地に割拠した支配者は少なくない。「隴(ろう)を得て―を望む」。→蜀の桟道。
 [2].中国の国名(古蜀蜀漢/成漢/前蜀/後蜀など)。古蜀は三星堆遺跡の発掘で注目されている。
※5-1:蜀漢(しょっかん)は、中国、三国の一(221~263)。後漢の滅亡後、蜀地方を中心に劉備の建てた国。漢の一族であったので国号を漢と称した。
※5-2:周(しゅう)は、この場合、中国の古代王朝の一(前1100~前256)。姓は姫。に朝貢していたが、西伯(文王)の子・発(武王)がこれを滅ぼして建てた。第12代幽王迄は鎬京(こうけい)に都したが、前771年犬戎の侵略を受けて一旦滅亡。第13代平王は東遷し、翌年即位、都を成周(今の洛陽付近)に移した。東遷以前を西周、それ以後を東周(春秋戦国時代に当たる)と言う。37代で滅亡。
※5-3:殷(いん)は、中国の古代王朝の一(BC1600~BC1100頃)。「商」と自称(←「殷」は後代の周が名付けた)。史記の殷本紀に拠れば、湯王が夏(か)を滅ぼして創始。30代、紂王に至って周の武王に滅ぼされた。領域は黄河下流域が中心。殷の王は神の意を甲骨で卜占し、その結果を基に政治を行った。高度の青銅器と文字(甲骨文)を持つ。<出典:一部「学研新世紀ビジュアル百科辞典」より>
※5-4:夏(か)は、この場合、(呉音はゲ)中国の王朝名/国名。殷(いん)の前に在った中国最古の王朝。伝説では、治水伝説で有名な禹(う)が舜(しゅん)の禅(ゆずり)を受けて建国。都は安邑(山西省)など。紀元前21~16世紀頃14代17王と言う。第17代桀(けつ)に至り、殷の湯王に滅ぼされた。最近、考古学研究の進展に依り夏王朝の存在 -河南省偃師の二里頭遺跡が有力- が主張される。<出典:一部「学研新世紀ビジュアル百科辞典」より>

※6:放射性炭素年代測定法(ほうしゃせいたんそねんだいそくていほう)/炭素一四法(たんそじゅうしほう)とは、炭素14を用いた年代測定法。生きた生物は常に大気と物質交換をしているので、質量数14の炭素原子と質量数12の普通の炭素原子との比は一定であるが、生物が死ぬと、交換が無くなるので質量数14の原子は壊変して時と共に減る。これを利用して過去数万年程度迄の年代を測定する。

※7:三国志(さんごくし)は、二十四史の一。魏/呉/蜀3国の史書。65巻。晋の陳寿撰。→三国志演義
※7-1:陳寿(ちんじゅ)は、西晋の歴史家(233~297)。字は承祚。四川安漢の人。中国正史の一である「三国志」の他、「益都耆旧伝」などの著が在る。
※7-2:三国志演義(さんごくしえんぎ)は、明代の長編小説四大奇書の一羅貫中の作。全120回。蜀の劉備・関羽・張飛が桃園に義を結ぶのに始まり、呉の孫皓が降伏して晋の天下統一が完成する迄の事跡を、三国志に基づいて再話した歴史小説。元禄初年、湖南文山訳「通俗三国志」が刊行されて以来、日本でも愛読されて来た。三国志通俗演義。→三国志
※7-3:羅貫中(らかんちゅう)は、元末・明初の小説家。生没年未詳(1330?~1380?)。山西太原の人。著に「三国志演義」、雑劇「竜虎風雲会」などが在る。
※7-4:四大奇書(しだいきしょ)とは、中国の長編小説、水滸伝三国志演義西遊記(又は西廂記)/金瓶梅(又は琵琶記)の4書を言う。

※8:史記(しき)は、二十四史の一。黄帝から前漢の武帝迄の事を記した紀伝体の史書。本紀12巻、世家30巻、列伝70巻、表10巻、書8巻、合計130巻。前漢の司馬遷著。紀元前91年頃に完成。但し「三皇本紀」1巻は唐の司馬貞に依り付加。注釈書に、南朝宋の裴駰(はいいん)の「史記集解」、司馬貞の「史記索隠」、唐の張守節の「史記正義」、明の凌稚隆の「史記評林」などが在る。太史公書(太史公自序が各項目毎に在る)。
※8-1:司馬遷(しばせん)は、前漢の歴史家(B.C.145~ 86)。字は子長。陝西夏陽の人。武帝の時、父の司馬談の職を継いで太史令と成り、自ら太史公と称した。B.C.99年に匈奴に降った友人の李陵を弁護して武帝の怒りに触れ、宮刑断種の刑)に処せられたが宦官に成り、発憤し中書謁者令として武帝に仕え、父の志を継いで、正史の第1に数えられる「史記」130巻を完成した。<出典:一部「学研新世紀ビジュアル百科辞典」より>
※8-2:太史(たいし)とは、中国古代の官名。記録を司った史官。
※8-3:太史公(たいしこう)は、[1].太史の敬称。
 [2].「史記」に於ける司馬遷の称。
※8-4:宦官(かんがん、eunuch)とは、東洋諸国で後宮に仕えた去勢男子宮刑に処せられた者、異民族の捕虜などから採用したが、後には志望者をも任用した。古代エジプトギリシャローマ、更にイスラム諸国の全域に行われた。特に中国で盛行、殷/周から清まで続き、常に皇帝に近接し重用されて政権を左右する事も多く、逆に後漢/唐/明代には弊害が著しかった。宦者。寺人。閹官(えんかん)。閹人。刑余。閽寺(こんじ)。<出典:一部「学研新世紀ビジュアル百科辞典」より>
※8-5:中書(ちゅうしょ)とは、漢代の官名。正しくは中書謁者と言い、宮廷の文書/詔勅などを司った。
※8-6:謁者(えっしゃ)とは、客の取次をする者。

※9:崑崙(こんろん)とは、[1].中国古代に西方に在ると想像された高山で、美玉を産するという山。書経の禹貢/爾雅/山海経などに見える。西王母が住むと言う。崑山。<出典:一部「学研新世紀ビジュアル百科辞典」より>
 [2].→崑崙山脈
※9-1:西王母(せいおうぼ)とは、[1].中国に古くから信仰された女神・仙女。姓は、名は「山海経」には半人半獣でヒョウの尾とトラの歯を持ち、髪にはカズラを付けて居ると在るが、時代が下るに連れて王母(祖母の意)から仙女化し、漢代には西王母信仰が盛んと成った。道教の神の一。周の穆王(ぼくおう)が西に巡狩して崑崙(こんろん)に遊び、西王母に会い、帰るのを忘れたと言う。又、漢の武帝が長生を願っていた際、西王母は天上から降り、仙桃七顆を与えたと言う。道教では亀山金母/金母元君/瑶池金母とも言う。←→東王父。<出典:一部「学研新世紀ビジュアル百科辞典」より>
 [2].能の一。神物。西王母が桃の実を周の穆王に贈った事を脚色。
※9-2:東王父(とうおうふ)は、中国の伝説上の仙人西王母と対置され、詩題/画題として有名。東王公。東父。←→西王母。
※9-3:仙人/僊人(せんにん)とは、[1].legendary wizard。道家の理想的人物。人間界を離れて山中に住み、穀食を避けて、不老/不死の法を修め、神変自在の法術を有するという人。
 [2].〔仏〕世俗を離れて山や森林などに住み、神変自在の術を有する修行者。多く外道を指すが、を仙人の中の最高の者の意で大仙、或いは金仙(こんせん)という事も有る。
 [3].unworldly man。浮世離れした人の譬え。
※9-4:仙女(せんにょ/せんじょ)とは、[1].legendary witch。女の仙人西王母嫦娥(じょうが)の類。山姫(やまひめ)。
 [2].fairy。妖精。フェアリー。
※9-5:神仙思想(しんせんしそう)は、中国古代の神秘思想。山東省の神山信仰に端を発する。即ち、東方の海上に蓬莱・方丈・瀛州の3神山、又遥か西方に崑崙山が在り、これらに不死の仙人羽人が居るとされた。後にこれが理想的超人として仙薬の服用などに依り人間の成り得るものとされ、不老長寿の薬を求め煉丹術を生み、道教の元に成った。<出典:一部「学研新世紀ビジュアル百科辞典」より>

※10:楚辞(そじ)は、(「楚の文章」の意)楚の屈原の作品とその門下、及び後人の作とを集めた書。漢の劉向編と言う。後漢の王逸が自作の「九思」を加えて17巻とする。詩経と並んで中国古代の2大詩集とされる。劉向編であればB.C.20年頃に成立。
※10-1:尭/堯(ぎょう)は、この場合、中国古伝説上の聖王。陶唐氏。名は放勲。帝嚳(ていこく)の子。舜と並んで中国の理想的帝王とされる。唐尭。帝尭。「尭風舜雨」。
※10-2:羿(げい)は、中国古伝説上の人物。弓の名人尭(ぎょう)の時、一度に10の太陽が出て人民が熱さに苦しんだので、尭の命を受けてその9個の太陽を射落し(←各太陽には烏(からす)が居て9羽の烏も射落した)、更に民に害をなす物を駆除したと言う。
※10-3:嫦娥(じょうが)/姮娥(こうが)は、[1].[淮南子覧冥訓]中国古代の伝説で、羿(げい)の妻。羿が西王母から得た不死の薬を盗み飲み、仙人と成って月宮に入ったと伝える。
 [2].転じて、月の異称
※10-4:蟇/蟾蜍(ひきがえる/ヒキガエル)は、カエルの一種(両生類カエル目)。体は肥大し、四肢は短い。背面は黄褐色、又は黒褐色、腹面は灰白色で、黒色の雲状紋が多い。皮膚、特に背面には多数の疣(いぼ)が有る。又、大きな耳腺を持ち、白い有毒粘液を分泌。動作は鈍く、夜出て、舌で昆虫を捕食。冬は土中で冬眠し、早春現れて、池や溝に寒天質で細長い紐状の卵塊を産み、再び土中に入って春眠、初夏に再び出て来る。日本各地に分布。ヒキガマガマガエルイボガエル。季語は。色葉字類抄「蟾蜍、ヒキカヘル」。
※10-5:蟾蜍(せんじょ)とは、[1].月中に居るというヒキガエル(蟇/蟾蜍)
 [2].月の異称月蟾(げっせん)
※10-6:舜(しゅん)は、中国の古代説話に見える五帝の一顓頊(せんぎょく) -やはり五帝の一- の6世の孫。虞の人で、有虞(うぐ)氏と言う。父は舜の異母弟の象を愛し、常に舜を殺そうと計ったが、舜は良く両親に孝を尽した。尭(ぎょう)の知遇を得て摂政と成り、その2女娥皇と女英を妃とした。尭の没後、帝位に付き、天下は大いに治まった。即位後18年、南方を巡幸、蒼梧の野で死んだ。その位を子に譲らず、治水に功績のあった禹(う)に譲位したと言う。大舜。虞舜。<出典:一部「学研新世紀ビジュアル百科辞典」より>
※10-7:五帝(ごてい)とは、古代中国の伝説上の五聖君。「帝王世紀」には小昊(しょうこう)/顓頊(せんぎょく)/帝嚳(ていこく)/唐尭(尭)/虞舜(舜)、「史記」には黄帝/顓頊/帝嚳/尭/舜を挙げる。
※10-8:后稷(こうしょく)は、[1].[書経舜典](「后」は君、「稷」は五穀の意)古代中国伝説上の農事を司る長官。
 [2].周の始祖と伝えられる伝説上の人。母姜原が巨人の足跡を踏んで妊娠し、生れると直ぐに棄てられた事から、棄(弃)と名付けられた。後、農耕に貢献。帝尭に挙用されて農師と成り、舜の世に[1]の后稷の官に付いた。武王はその16世の孫と伝える。周代に農業神として崇拝された。<出典:一部「学研新世紀ビジュアル百科辞典」より>

※11:五刑(ごけい)とは、この場合、[書経舜典]中国、周代の5種の刑罰。大辟(死刑)/(男子は去勢、女子は幽閉)/(足切り)/(鼻切り)/(いれずみ)を言う。
※11-1:宮刑(きゅうけい)とは、古代中国の刑罰。男子は生殖機能を去り、女子は幽閉、若しくは卵管を除いたと言う。死刑に次ぐ重刑五刑の一。宮。腐刑/宮割/淫刑とも称する。
※11-2:断種(だんしゅ)とは、[1].root out。種を絶やすこと。
 [2].sterilization。精管、又は卵管を一部切除、又は結紮(けっさつ)して、生殖能力を失わせること。
※11-3:去勢(きょせい)は、[1].castration。動物の、殊に雄性の性巣を除去、又は働かなくすること。未成熟の内にこれを行うと、第二次性徴が発現しない。畜産では、性質を大人しくし、上質の肉を得る様にする為にしばしば行われる。
 [2].enervation。比喩的に、抵抗・反対などの気力を奪って仕舞うこと。「―された現代人」。

※12:秦(しん、Chin)は、この場合、中国の国名(前771年~前206)。春秋戦国時代の大国。始祖非子の時、周の孝王に秦(甘粛)を与えられ、前771年襄公の時、初めて諸侯に列せられ、秦王政始皇帝)に至って六国 -韓(かん)/趙(ちょう)/魏(ぎ)/楚(そ)/燕(えん)/斉(せい)、これに秦を加えて戦国の七雄と言われた- を滅ぼして天下を統一前221年)。中国史上最初の中央集権国家。全国に郡県制を敷き、文字/度量衡/貨幣を統一し、万里の長城を大増築した。始皇帝の死後、反乱が起こり3世16年漢の高祖に滅ぼされた。(前206)。中国を指す China (日本語ではシナ)は秦(Chin)が語源。<出典:一部「学研新世紀ビジュアル百科辞典」より>
※12-1:秦氏(はたし/はたうじ)は、(古くはハダ)姓氏の一。古代の渡来系の氏族。応神天皇の時に来朝した弓月君(ゆづきのきみ)の子孫と称するが、確かでは無い。5世紀後半頃より、伴造(とものみやつこ)として多数の秦部(はたべ)を管理し、養蚕機織の技術で織物の生産などに携わった。

※13:道教(どうきょう、Taoism)は、中国漢民族の伝統宗教。黄帝老子を教祖と仰ぐ。古来のアニミズムや巫術(=シャーマニズム)や老荘道家の流れを汲み、これに陰陽五行説神仙思想などを加味して、不老長生の術を求め、符呪・祈祷などを行う。後漢末の五斗米道(天師道)に始まり、北魏の寇謙之(こうけんし)に依って改革され、仏教の教理を取り入れて次第に成長。唐代には宮廷の特別の保護を受けて全盛。金代には王重陽が全真教を始めて旧教を改革、旧来の道教は正一教として江南で行われた。民間宗教として現在迄広く行われる。
※13-1:黄巾の乱(こうきんのらん)とは、184年、後漢の霊帝の時、張角を首領として河北で起った農民反乱。張角らは悉(ことごと)く黄巾を着け、黄老の道を奉じて太平道と称し、貧民を救済したので、忽(たちま)ち数十万と強大と成り、蜂起した。同年末、張角の病死に因って衰えたが、その後も残党の反乱は長き、後漢滅亡の契機と成った。
※13-2:太平道(たいへいどう)は、後漢の道士の張角が始めた呪術的宗教。184年黄巾の乱を起した。五斗米道と共に道教の源流を成す。
※13-3:五斗米道(ごとべいどう)は、(入門の際、五斗米(=日本の5升の米)を納めさせたから言う)後漢末期の社会不安に乗じて興った宗教で、天師と号した張陵が老子から呪法を授かったと称して創始。太平道と共に道教の源流天師道とも言う。<出典:一部「学研新世紀ビジュアル百科辞典」より>
※13-4:老子(ろうし)は、中国、春秋戦国時代の思想家(前579頃~前499頃)。道家の祖。史記に拠れば、姓は李、名は耳、字はタン又は伯陽。楚の(河南省)の人。周の守蔵室(図書室)の書記官。乱世を逃れて関(函谷関又は散関)に至った時、関守の尹喜(いんき)が道を求めたので、「老子」を説いたと言う。
※13-5:道観(どうかん)とは、道教の寺院。道士の住む建物。
※13-6:道士(どうし)とは、
 [1].道義を体得した人士。
 [2].仏道を修める人。俗人に対し僧の称。
 [3].道教を修める人。道人。
 [4].方士。仙人。

※14:アニミズム(animism)とは、(anima[ラ]「魂・霊魂」から)宗教の原初的な超自然観の一。自然界の有らゆる事物に霊的存在を認めるという信仰。自然界の有らゆる事物は、具体的な形象を持つと同時に、それぞれ固有の霊魂精霊などの霊的存在を有すると見做し、諸現象はその意思や働きに依るものと見做す信仰。<出典:一部「学研新世紀ビジュアル百科辞典」より>
※14-1:シャーマニズム(shamanism)とは、シャーマンを媒介とした霊的存在との交渉を中心とする宗教様式。極北/シベリア/中央アジア、北米の先住民に一般的で、類似の現象は南アジア/東南アジア/オセアニアなどにも見られる。しかし世界観/超自然観や社会的背景を反映し、一様では無い。中国/朝鮮/日本では巫術巫俗巫女等の名で知られる。
※14-2:シャーマン(shaman)とは、自らをトランス状態(忘我・恍惚)に導き、神/精霊/死者の霊などと直接に交渉し、その力を借りて託宣/予言/治病などを行う宗教的職能者。シベリアのツングース系諸族の例が早くから注目された。日本に於いても古代の巫女である卑弥呼が典型で、現在でも東北地方のイタコや南西諸島のユタなどに特徴が見られる。巫者(ふしゃ)。巫女(みこ)。巫術師(ふじゅつし)。<出典:一部「学研新世紀ビジュアル百科辞典」より>

※15:武帝(ぶてい)は、この場合、前漢の第7代の皇帝(在位前141~前87)(前156~前87)。劉徹。内政を確立匈奴を漠北に追い、西域/安南/朝鮮半島を経略儒教を政治教化の基とした。
※15-1:李陵(りりょう)は、前漢の将軍(~前74)。李広の孫。字は少卿。甘粛成紀の人。武帝の時、匈奴と戦って捕らわれ、単于(ぜんう)の女(むすめ)を妻とし、その地に在る事二十余年で没。親友の蘇武と唱和した詩は五言古詩の起源と言う。友人の司馬遷が彼を弁護して宮刑に処せられたことは有名。

※16:氐(てい)は、この場合、五胡の一。先秦時代から中国の西境に拠ったチベット系の民族。渭水/漢水の上流域から四川省の北部に散在し、晋末以後、成(成漢)/前秦/後涼を建国。

※17:王権神授説(おうけんしんじゅせつ、theory of the divine right of kings)とは、[1]古代において、王権は神(又は天)から授けられたもので、王は神(天)に対してのみ負債を負い、王権は神(天)以外の何物に依っても拘束されず、人民は王の為す事に口出し出来ない、という考え方。ここで天としているのは主に中国を指す。
 [2].は[1]を近世に当て嵌めて、王や君主の権力は神から付与されたものであり、人民に反抗の権利は無いとする説。絶対主義国家に於いて唱えられた政治学説。イギリス王ジェームズ1世ルイ14世に仕えたフランスの司教ボシュエらが代表者。帝王神権説

※18:メソポタミア(Mesopotamia)は、(ギリシャ語で「川の間の土地」の意)西アジアのチグリスとユーフラテス両河川間の地現在のイラクに含まれる。メソポタミアの北部をアッシリアと呼び、南部をバビロニアと呼ぶ。更にバビロニアの内の北部をアッカド、南部をシュメール地方と言う。新石器農耕の開始はジャルモなど北部が先行したが、BC3000年頃シュメール人が南部に来住しエジプトと並ぶ最古の都市文明を発祥させた。<出典:「学研新世紀ビジュアル百科辞典」>

※19:馬王堆(まおうたい/ばおうたい、Mawangdui)は、中国、湖南省長沙市東郊の地。1972~74年、前漢代の墳墓3基を発掘、被葬者は長沙国丞相軑侯(たいこう)利蒼(在位前193~前186)と妻子(←妻の死体は水銀溶液浸けで保存状態は極めて良好)。世界樹の帛画及び「戦国策」「老子」などの帛書の他、3000点余の副葬品が出土。
※19-1:帛画(はくが)とは、絹地に描いた絵画。馬王堆出土のものが有名。

※20:李白(りはく)は、盛唐の詩人(701~762)。西域に生まれ、蜀郡で育った。伝説が多く、その母が一夜太白星(=金星)を夢みて生んだので太白を字とした。号は青蓮(居士)。謫仙人とも称された。10歳の頃既に詩才を現したが、剣術を好み、奇書を読み、遊侠の徒と交わった。を好み奇行多く奔放な生活を送った。42歳の時に玄宗宮廷詩人に招かれたが、宦官の高力士らに嫌われて追放される。755年安史の乱が起こり、王子(永王璘)の反乱に座して流罪と成るが後に赦免。最後は酔って水中のを捕えようとして溺死したと伝える。その詩は天馬行空と称され、絶句と長編歌行を得意とした。杜甫と共に李杜と併称される大詩人。詩仙詩文集「李太白集」30巻が在る。<出典:一部「学研新世紀ビジュアル百科辞典」より>
 補足すると、李白の「蜀道難(蜀道の険しさ)」という漢詩に三星堆の青銅製縦目仮面のモデルと考えられている初代王・蚕叢と、魚鳧王朝を築いた王・魚鳧の名を、この詩に詠み込んでいたとは驚きです。
※20-1:詩仙(しせん)とは、[1].天才の詩人。詩の大家。詩聖。
 [2].特に、杜甫を詩聖と称したのに対する、李白の敬称
※20-2:西戎(せいじゅう)とは、古代中国人が西方の異民族を指した総称。青海付近/黄河の源流域から甘粛省東部に亘る地域に居住したチベット系、乃至トルコ系の諸民族。←→東夷。→白虎。
※20-3:「白髪三千丈」は、[李白、秋浦歌]長年の憂いの為に頭髪が白く成り伸び放題に成ったこと。心配事や悲しみが積ることの形容。又、誇張した表現の例とされる。

※21:司法取引(しほうとりひき、plea bargaining)とは、刑事裁判で、検察被告との間で取引し、被告が協力する代わりに刑の軽減を図る制度。多く、英米法の国で実施される。

※22:雷神(らいじん、god of thunder, Thor)とは、雷電を起す神。鬼の様な姿をして虎の皮の褌(ふんどし)を纏い、太鼓を輪形に連ねて負い、手に桴(ばち)を持つ。中国で天帝の属神とされ、日本では北野天神の眷属神ともされ、雨を降らす農耕神でもある。日本では風神と対を成すことが多い。光の神。雷公。雷師。鳴神(なるかみ)。季語は夏。北野天神縁起「もろもろの―鬼類はみなわが従類となつて」。

※23:都江堰(とこうえん、Dujiangyan)とは、[1].中国四川省中部の都市。人口57万3千(1995)。
 [2].[1]の北西部、岷江中流に在る古代以来の水利施設。秦の昭襄王(昭王) -始皇帝の曽祖父- の代、蜀の郡守であった李冰B.C.256年に築造を開始したが、息子の李二郎に引き継がれ、やっと完成した。現在も成都平原の治水に資する。
※23-1:昭襄王/昭王(しょう[じょう]おう)は、戦国時代末期の秦の王(前325~前251、在位期間は前306~前251)。都江堰を築いた李冰を蜀の郡守として駐在させた。始皇帝の曽祖父で、以下、孝文王→荘襄王→政(=始皇帝)と続く。「史記」には趙軍を破り四十万人を悉く穴に埋めて殺した」と在る。
※23-2:堰(せき、dam, sluice)は、(「塞(せ)く」の連用形から)取水や水位/流量の調節の為に、水路中、又は流出口に築造した構造物。いせき。→―を切った様。
※23-3:水制(すいせい、groin)とは、高水時の水勢緩和や低水時の流路の水深確保の為、河岸から流水中に設ける工作物。堤防から少し離れた所に作る。水刎(みずば)ね。<出典:一部「学研新世紀ビジュアル百科辞典」より>
※23-4:ダム(dam)は、発電利水治水などの目的で水を溜める為に、河川/渓谷などを横切って築いた工作物とその付帯構造物の総称。ロックフィル・ダムアーチ・ダムアース・ダム重力ダムなどが在る。堰堤(えんてい)。

※24:青城山(せいじょうざん、Qingchengshan)は、中国四川省中部に在る山。標高2113m道教の発祥地の一つ。世界遺産。
※24-1:索道(さくどう)は、空中に張った鉄索に搬器(はんき)を吊るして、人、又は物を運搬する設備。簡易なものは架線とも言い、鉱業/林業の運材施設としても利用。ロープウェイの法令上の呼び名。→ロープウェイ。

※25:山椒(さんしょう/さんしょ、prickly ash, Japanese pepper)は、ミカン科の落葉低木。日本の各地、中国・朝鮮に自生。高さ約3m。枝に棘が多い。葉は小形の羽状複葉。春、黄色の小花を開く。雌雄異株。乾果は裂けて黒い種子を散らす。葉と果実は香気と辛味が強く、芽は「木の芽」と称して香味料に、果実は香味料及び健胃・回虫駆除薬に、材は擂粉木(すりこぎ)にする。古称、(はじかみ)。川薑。漢名、蜀椒。季語は、芽が春、花が夏、実が秋。

※26:杜甫(とほ)は、盛唐の詩人(712~770)。字は子美、号は少陵。洛陽の東、鞏県の人。先祖に晋の杜預(政治家・学者)が在り、祖父杜審言は初唐の宮廷詩人。科挙に及第せず、長安で憂苦する内に安禄山の乱(=安史の乱)に遭遇。一時左拾遺として宮廷に仕えたが、後半生を放浪の内に過す。その詩は格律厳正律詩の完成者とされる。社会を鋭く見つめた叙事詩に長じ、「詩史」の称が有る。李白と並び李杜と称され、杜牧に対して老杜と言う。詩聖。工部員外郎と成ったので、その詩集を「杜工部集」と言う。
※26-1:詩聖(しせい)とは、[1].傑出した詩人。詩仙。
 [2].特に、李白を詩仙と称したのに対する、杜甫の敬称
※26-2:安史の乱(あんしのらん)は、755~763年、唐の玄宗の末年から起った安禄山父子・史思明父子の反乱。玄宗756年に退位に逃れ、玄宗の寵妃の楊貴妃は反乱軍に因り同年殺された。乱後、節度使の自立化が進み、唐は衰退に向かった。
※26-3:草堂(そうどう)とは、[1].草葺きの家。草屋。又、自分の家の謙譲語
 [2].庵(いおり)草庵
※26-4:「国破れて山河あり」は、[杜甫、春望「国破山河在、城春草木深」]戦乱(=安史の乱)の為に国都長安は破壊されたが、その周囲の山河は昔の姿そのまま存在する、との感慨の言葉。
※26-5:祠堂(しどう)とは、[1].(家の中の)祖先の霊を祀る所。寺院で、俗家の位牌を纏めて安置する位牌堂。持仏堂。霊屋(たまや)。
 [2].神仏を祀る小さい建物。祠(ほこら)。
 [3].祠堂金の略。

※27:亀趺(きふ)とは、の形に刻んだ、碑の台石。中国に多い。亀が世界を支えて居るとする宇宙観に基づく。

※28:諸葛亮(しょかつりょう)/諸葛孔明(しょかつこうめい)は、三国時代、蜀漢の丞相(181~234)。字は孔明。山東琅邪(ろうや)の人。劉備の三顧の知遇に感激、臣事して蜀漢を確立した。劉備没後、その子劉禅を良く補佐し、有名な出師表(すいしのひょう)を奉った。五丈原で、魏軍と対陣中に病死。諡(おくりな)は忠武侯。
※28-1:字(あざな)とは、この場合、中国で、男子が成年後実名の他に付ける別名。日本で、平安時代、成人男子が人との応答の際に名乗る名。
※28-2:劉備(りゅうび)は、三国の蜀漢の創始者(在位221~223)(161~223)。諡(おくりな)は昭烈帝。字は玄徳。漢の景帝の皇子中山靖王の劉勝の後裔。関羽/張飛と結び、諸葛亮を参謀とし、呉の孫権と協力して魏の曹操を赤壁に破り、蜀(四川)を平定して漢中王と称。魏の曹丕(そうひ)が漢帝を廃するに及び、221年成都で自ら帝位に即き、国をと号し、呉・魏と天下を三分して争った。

※29:講談(こうだん、storytelling)は、話芸の一種。釈台(小卓)張扇(はりおうぎ)で叩きつつ、物語類を語り聞かせる寄席芸。内容は軍記/仇討/武勇伝/侠客伝/世話物など。起源は元禄(1688~1704)頃「太平記読み」。江戸時代には講釈と呼ばれた。→講釈。
※29-1:講釈(こうしゃく、storytelling)は、この場合、(軍学・兵書に通じている者が軍書を講じた事から)寄席演芸で、軍記物を朗読するもの。明治以後は講談と言う。
※29-2:講談師(こうだんし、storyteller)は、談を業とする人。江戸時代迄は講釈師

※30:麻婆豆腐(マーボーどうふ)は、四川料理。豆腐/豚の挽肉を炒め、唐辛子味噌などで辛く味付けしたもの。四川省のものは山椒が入り、日本のものは入って無い。

    (以上、出典は主に広辞苑です)

【参考文献】
△1:『地球の歩き方104 雲南・四川・貴州と少数民族 1999~2000年版』(「地球の歩き方」編集室、ダイヤモンド社)。

△2:『山海経 中国古代の神話世界』(高馬三良訳注、平凡社)。
△2-1:『世界の奇書 総解説』(自由国民社編・発行)。

△3:『中国神話伝説集』(松村武雄編、伊藤清司解説、現代教養文庫)。
△3-1:『世界の神話伝説 総解説』(自由国民社編・発行)。

△4:『三星堆・中国古代文明の謎-史実としての『山海経』』(徐朝龍著、大修館書店)。
△4-1:『出身地でわかる中国人』(宮崎正弘著、PHP新書)。

△5:『三国志 通俗演義』(羅貫中作、武部利男・小川環樹共訳、岩波書店)。
△5-1:『三国志(三国演義) 一~十』(羅貫中作、小川環樹訳、岩波文庫)。

△6:『史記列伝(五)』(司馬遷著、小川環樹・今鷹真・福島吉彦訳、岩波文庫)。
△6-1:『世界の名著11 司馬遷(史記列伝)』(司馬遷著、貝塚茂樹編、貝塚茂樹・川勝義雄共訳、中央公論社)。
△6-2:『史記1 本紀』(司馬遷著、小竹文夫・小竹武夫訳、ちくま学芸文庫)。
△6-3:『史記2 書・表』(司馬遷著、小竹文夫・小竹武夫訳、ちくま学芸文庫)。

△7:『道教の本(不老不死をめざす仙道呪術の世界)』(学研編・発行)。
△7-1:『道教の神々』(窪徳忠著、講談社学術文庫)。

△8:『インカ帝国』(泉靖一著、岩波新書)。

△9:『シンボル事典』(水之江有一編、北星堂書店)。

△10:『旧約聖書(1955年改訳版)』(日本聖書協会編・発行)。

△11:『ギリシア神話小事典』(バーナード・エヴスリン著、小林稔訳、教養文庫)。

△12:『古代秘教の本(太古神話に隠された謎の秘儀と宗教)』(学研編・発行)。

△13:『李白詩選』(李白作、松浦友久編訳、岩波文庫)。

△14:『(総合)新世界史図説-十四訂版』(帝国書院編・発行)。

△15:『源氏物語(二)』(山岸徳平校注、岩波文庫)。
△15-1:『枕草子』(池田亀鑑校訂、岩波文庫)。

△16:『図説 日本の妖怪』(岩井宏實監修、近藤雅樹編、河出書房新社)。

△17:『ブラボー、クラシック音楽! ~活動履歴・曲目解説・オリジナルCD・折々の感想など~』(エルニーニョ深沢著、蛙ブックス)。

△18:「中國旅游 青城山-都江堰」(中華人民共和国国家旅游局編・発行)のパンフレット。この資料は大阪湊町駅に置いてます。

△19:『杜甫詩選』(杜甫作、黒川洋一編、岩波文庫)。

△20:『芭蕉おくのほそ道(付 曾良旅日記 奥細道菅菰抄)』(松尾芭蕉著、萩原恭男校注、岩波文庫)。

△21:『漢詩の名句・名吟』(村上哲見著、講談社現代新書)。

●関連リンク
参照ページ(Reference-Page):四川省の成都(都江堰/青城山など)と
広漢市の三星堆の地図▼
地図-中国・四川省の成都と三星堆
(Map of Chengdu and Sanxingdui of Sichuan, -China-)

参照ページ(Reference-Page):西域のタクラマカン砂漠の地図▼
地図-中国・タクラマカン砂漠(Map of Taklimakan Desert, -China-)
参照ページ(Reference-Page):中国の少数民族▼
資料-中国の55の少数民族(Chinese 55 ETHNIC MINORITIES)
参照ページ(Reference-Page):照葉樹林文化圏の図
(中国に入ってからは長江沿いに伝搬する)▼
資料-照葉樹林文化とフォッサマグナ
(Laurel forest culture and Fossa Magna)

参照ページ(Reference-Page):秦氏(はたし)について▼
資料-聖徳太子の事績(Achievement of Prince Shotoku)
補完ページ(Complementary):雲南省中甸(現:香格里拉)の旅や
周とチベット族との関係について▼
2001年・紅葉の中甸(Red leaves of Zhongdian, China, 2001)
補完ページ(Complementary):『史記』を著した司馬遷は
宮刑に処せられ宦官として前漢の武帝に仕えた事や、”知の遊び”について▼
ペニスの商人考(About the PENIS broker)
補完ページ(Complementary):京都渡月橋の大堰川は秦氏の葛野大堰が
名称起源で、中国の都江堰を手本にしたという説が在る▼
謎の三柱鳥居(The mysterious Trinity torii)
横顔(Profile):雲南桃源倶楽部について▼
雲南桃源倶楽部(Yunnan is Shangri-La)
雲南省麗江や羌(きょう/チャン)について▼
2001年・麗しの麗江(Beautiful Lijiang, China, 2001)
成昆鉄道の客室乗務員や直美ちゃんや成都のガイド▼
中国名花集-花の写真館(Chinese Flowers)
中国の「十個の太陽(10個の太陽)」や「月とヒキガエル」の話▼
2011年・年頭所感-今年は大人しく
(Behave yourself and keep quiet, 2011 beginning)

神使について▼
浪速のケッタイ(Strange spots in Naniwa, Osaka)
夏を涼しく過ごす方法▼
阪堺電車沿線の風景-大阪編(Along the Hankai-Line, Osaka)
体系的に整備される前の神道を「初歩的」と呼んで居ます▼
初歩的な神道の神々(The gods of rudimentary Shinto)
日本人の中に居ると異邦人を意識して仕舞う私▼
プ・リャンスオに蛇酒を捧ぐ(Snake liquor to Pu Liangsuo, China)
日本の雷神について▼
2009年・年頭所感-聖牛に肖ろう
(Share happiness of Holy Ox, 2009 beginning)

京都嵯峨野の竹林▼
竹林の美(The beauty of BAMBOO grove)
京都の葛野大堰について▼
2003年・京都禅寺探訪(Zen temple of Kyoto, 2003)
「鳩の姿焼き」や蛙料理や「豚の脳味噌」の料理▼
中国のヘビーなお食事-”食狗蛇蠍的!”(Chinese heavy meal)
1999年の雲南桃源旅行の”純情可憐”な私▼
1999年・雲南の旅(昆明/西双版納/大理)
(Kunming, Xishuangbanna, and Dali of Yunnan, China, 1999)

大衆とメディア(或いは大衆とマスメディア)の関係▼
理性と感性の数学的考察(Mathematics of Reason and Sense)
モンゴルの亀趺(きふ)▼
まどかの1998年中国・モンゴルの旅
(Travel of China and Mongolia, 1998, Madoka)

大阪の台湾人が遣ってるお店のママ▼
2004年・台湾”味試し”旅(Let's banquet and sing in Taiwan, 2004)
【ブラボー、クラシック音楽!】で
オリジナルCDの『モダニズム音楽入門-4』を作成▼
「ブラボー、クラシック音楽!」を振り返って
(Recollection of 'Bravo, CLASSIC MUSIC !')

「中国の少数民族」について▼
外部サイトへ一発リンク!(External links '1-PATSU !')


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