-- 2003.04.13 エルニーニョ深沢(ElNino Fukazawa)
2018.07.03 改訂
※注意:このページは写真が多く、読込みに時間が掛かります。 ★---暫くお待ち下さい(Wait a minute)---★ |
日本の『古事記』(※0)には八百万(やおよろず)(※1) -千万(ちよろず)(※1-1)とも言う- の神々が居ります(△1のp56)。或いは八十神(やそがみ)(※1-2)とも言います(△1のp42)。これは日本人がユダヤの様に理屈っぽく無く、聖書などは無く、古代に於いて原始のアニミズム(animism)(※1-3)やシャーマニズム(shamanism)(※1-4~※1-5)を信奉して来た結果です。今日では神社の巫女(※1-6)に形骸化 -今はアルバイトの女性が多いから- したシャーマン(shaman)(※1-5)の姿を見る事が出来ますが、古代に於いては卑弥呼が典型的なシャーマンでした。故に日本人は多神教(※x)、即ち自然宗教(※x-1の[1])の一形態なのです(△2のp410~413)。
ここが一神教(=ユダヤ教/キリスト教/イスラム教など)(※x-2)の人たちと大いに異なる点です(△2のp338~343、p140~143、p238~240)。
[ちょっと一言] 一神教のユダヤ教の『旧約聖書』、イスラム教の『コーラン』に対し、多神教の日本には『古事記』『日本書記』が在ります。『古事記』に於いて「ここに高御産巣日神(紀:高皇産霊神)、天照大御神の命もちて、天の安の河の河原に、八百万(やおよろず)の神を神集へに集へて、思金神(紀:思兼神)に思はしめて詔りたまひしく、「この葦原中国は、我が御子の知らす国と言依(ことよ)さしたまへり国なり。故、この国に道速振(ちはやふ)る荒振る国つ神等の多なりと以為ほす。これ何れの神を使はしてか言趣(ことむ)けむ。」とのりたまひき。ここに思金神また八百万の神、議(はか)りて白(まを)ししく、「天菩比神(紀:天穂日神)、これ遣はすべし。」とまをしき。故、天菩比神を遣はすつれば、すなはち大国主神に媚び附きて、三年に至るまで復奏さざりき。」と在ります(△1のp56)。又、「故、この大国主神の兄弟、八十神(やそがみ)坐(ま)しき。」と在ります(△1のp42)。
これについては丁度今年正月の年頭所感の「考察」で、「日本人の「心」の原点と「神」信仰の原型について」という論考を書きましたので▼下▼を
2003年・年頭所感-感謝の心を思い出そう!(Be thankful everybody !, 2003 beginning)
是非お読み下さい。
この中で私が言っている(=主張している)結論は「見出し」をその儘列挙すれば良いのです。即ち
◆日本人の「神」信仰の原型 - それは万物に対する「感謝の気持ち」
◆神概念の洋の東西比較
(1)農耕を支配する太陽と日本の神
(2)内発的な日本の神概念と絶対的・外的な西洋の神概念
(3)私の宗教観 - 私に信仰が有るとすれば、「唯悟自然」
(4)ギリシャ神話に近い日本の神々の世界
です。
このページで採り上げる神々は、どちらかと言えば初歩的な神道(rudimentary Shinto)に属します。神道も初歩的のものから体系だった高度なもの迄、色々な段階が在るのですが、それは追い追い解って戴けるでしょう。例えば一番最初に扱う「山の神」(※2)などは一見誰でも知って居る様に見えて実は奥が深いのです。これをちゃんと理解し説明しようとすると可なり難しいのです。それにはアニミズム(※1-3)の段階迄降りて行く必要が有り、又底辺は民間信仰(※2-1)と混ざり合い曖昧さが加わります。
ところで、私にはどうも”余所見癖”が有りまして、当ページに掲載した様な写真を撮る事自体が「糞真面目な性格の人間には出来ない」と思って居ます。何故ならば、その様な「物」が在るなどと事前には全然知らないのですから(←唯一の例外は中臣須牟地神社(→後出)を撮りに行った時のみです)。ところが現場に来て見ると「ウゥー、変わった物が在るぞ!」と興味がそっちの方へ勝手に向かって仕舞うのです。
ですから当ページは正に私の”余所見癖”の成果であると、この様に自負して居りますゾ!
伊賀地方の地図は▼下▼を参照して下さい。
地図-日本・伊賀と甲賀(Map of Iga and Kouga, Mie and Shiga -Japan-)
03年4月13日(日)は「日本古城友の会」(尾原隆男会長)の例会で伊賀小泉氏館跡(現:依名古神社)(三重県上野市依那具)に行きました。この会は要するに「城跡巡り」をするのですが、そこで見付けて仕舞ったのが山之神(一般には山の神)(※2)の石柱でした(左の写真)。別に「見付けよう」と思っていた訳では有りませんが、これが私の”余所見癖”なのです、アッハッハ!{このリンクは2017年10月14日に追加}
「山之神」の下に「五穀豊穣交通安全 治山治水家内安全」と陰刻されて居て、人々が山の神に様々な願いを叶えてくれる様に要望している事が解ります。「交通安全」と在りますので、この石柱はそんなに古い物では有りません、恐らく1980年頃でしょう。
私は早速このページを書き始めましたが、「山の神」は実にヴァリエーションが多いのです(△3のp488~490)!
【脚注】※2に在る通り、「山の神」は「秋の収穫後は近くの山に居り、春に成ると下って田の神(※2-2)と成る」のです、つまり「山の神」と「田の神」は互いスワップ(swap)して仕舞うのです。しかも人々は「田の神送り」(※2-3)をして「田の神」が山へ帰るのを手助けするのです。即ち、神自体の変容に人間が積極的に参画し、それを楽しんでいる様に思えます。
更に九州地方などでは、山童(やまわっぱ)(※2-4)と河童(かわわっぱ=かっぱ)が互いスワップ(swap)して仕舞うのです。河童も元々は中国の河伯(かはく)が日本に定着したもので「河(川)の神」だったのです。{このリンクは2011年10月24日に追加}
やはり山とか河(川)は常人の世界(=「田の神」が支配する世界)とは少し異なった世界(=異界)だった事が解ります、そこで神自体の変容が起こるのです(下図)。
山=異界 常人の世界
↑ ↑
山の神 ←─ 神自体がスワップ(swap) ─→ 田の神
↑
山の精
常人が山に入るには「山の神」の機嫌を取り山鰧(やまおこぜ)(※2-5)を供えたり、山を生業とする者は山の神祭(※2-6)や山の講祭(※2-7)で「山の神」を祀ります。こうして異界である山を常人の世界に近付けたのです。こう見て来ると、「山の神」は元々は「山の精」(※2-8)だった事が推測出来ます。
今は「山の神」など信じてる人は少ないですが、日本の山間地では昭和初期頃迄、都会でも江戸時代迄は確実に信じられて来ました。この様な素朴な、それ故にヴァリエーションが多く体系的に整備される以前の初歩的な神道(rudimentary Shinto)を感じ取る事が出来ます。
ところで、「ウチのかみさんがねえ、...」と刑事コロンボが口癖にしてますが、この「かみさん」は「山の神」(※2の[2]、△3のp488)から来ているのです、貴方(貴女)は御存知でしたか?
(1)塞の神社
03年8月5日(火)の夕方、私はチャリンコ(=自転車)で大和川の右岸を下流に向かって走って居ました。
左が大和川で、川のこちら側(=右岸)が大阪市東住吉区住道矢田、対岸が堺市です。正面には近鉄南大阪線の電車が見えて居ます。私が走っているのは土手の上ですが、土手の下にも道が見え時々人が歩いて居ます。又、土手の直ぐ脇(写真の右側)をJR阪和貨物線が通って居ます。
大和川には鷺が羽を休めていたり上空をウスバキトンボ(薄羽黄蜻蛉)が飛んでいて、とても長閑です。
右岸を進み近鉄を越すと東住吉区矢田に成ります。私は大和川の土手を離れ町中を走っていたら小さな神社を見付けました(左の写真)。
何の神社だろうと思い説明板を探して居ると、鳥居の奥に額に入った説明書(左の写真の中央、右下に拡大写真)が在りました。
↑
「塞の神社」の説明書
この説明書は簡潔に記して在ります。神社の名前は「塞の神社」で、祭神は
八衢比古神(やちまたひこのかみ)
八衢比売神(やちまたひめのかみ)
来名戸神(くなどかみ)
と書いて在ります。
後で調べると、ここは大阪市東住吉区矢田6-4です。地図は▼下▼です。
地図-日本・阪堺地区(Map of Hankai area, Osaka -Japan-)
「塞の神社」は「塞の神(さいのかみ)」(或いは「障の神(さえのかみ)」)(※4)を祀る神社です(△3のp343~344)。祭神の八衢比古神と八衢比売神は所謂「岐の神/衢の神(ちまたのかみ)」(※4-1)で道の分岐点を守る神です。八衢(やちまた)(※4-2)は幾つにも分かれた道を強調して言ったものです。来名戸神(くなどかみ)(※4-3)は久那斗神(くなとのかみ)の事で、やはり集落の出入口や分岐点を守る神です。『日本書紀』には「是を岐神(ふなとのかみ)と謂す。此、本の号は来名戸(くなと)の祖神(さへのかみ)と曰す。」と在り(△5のp54)、『古事記』には「衝立船戸神(つきたつふなどのかみ)」と在ります(△1のp29)。「塞の神社」の近くにも道祖神が在るそうですが私は見逃しました。
「塞の神」/「障の神」とは要するに、「道の神」(※4-4)であって、分岐点や辻や道路の安全を守護する神の事です。元々は道祖神(※4-5)とは別でした(△2のp343)が、中世後期には混同され江戸時代には道祖神と同一視されました。広辞苑に拠ると、道祖神も「中世後期以降は夫婦円満から土俗的な性神(せいしん)としての性格を強め、陰陽石にも成って居る。」と在ります。道祖神は元々は中国古来の「道祖の神」に由来して居ます、即ち道教(※6、※6-1)です。
ここで道教とは如何なる宗教かを端的に定義すると、「道教とは中国古代のアニミスティックなさまざまな民間の信仰を基礎とし、神仙思想(※6-2、※6-3)を中心として、それに道家、易、陰陽、五行、緯書(※7)、医学、占星などの説や巫(ふ)の信仰を加え、仏教の組織や体裁にならってまとめられた、不老長生を主な目的とする呪術宗教的傾向のつよい、現世利益的な自然宗教(※x-1)だ」という事に成ります(△7のp73)。
日本神道の基層はこの様に、中国起源の道教が先ず在り、その土台の上に日本神道が体系化されて幾層にも織り重なって、恰(あたか)も日本神道が独自に形成されたかの様な印象を与えますが、一番基層の部分は道教なのだという点は押さえて置く必要が有ります。しかし「塞の神」は都合の良いものは何でも取り入れる民間信仰/民間宗教(※2-1)の典型と言えます。
ところで猿田彦(※4-6)という神様は衢の神とか道祖神に成ったりして居ます。天狗の原形ではないかと言われる長い鼻で俳優の神でもあるこの神は”猿的性格”を持って居るのかも知れません。
私は03年8月5日に早速このページを書き始めましたが非常に難しかったですね。色々調べないと書けませんので、たったこれだけ書くのに2年掛かりました、お笑い下さい。
{この節は05年10月6日に最終更新}
(2)矢田地方の民話
ところで先程の説明書に「トンド焼き、道祖神、左義長もこの神様の御神徳をいただくお祭です。」と在りますが、道祖神は上の通りですが、次にとんど焼(或いはどんど焼)(※9)や左義長(※9-1、※9-2)について記します。
それには矢田地方の民話を知る必要が有ります。
小正月
方違神社(大阪府堺市北三国ヶ丘町2)には1999年か2000年に行きました。方違神社の地図は▼下▼です。
地図-日本・阪堺地区(Map of Hankai area, Osaka -Japan-)
写真も撮った、と思って写真を探したら写真が無い、厳密に言うと原画が無い!
今日は04年12月18日です。私は徹夜で原画ファイル -沢山在る!- を全てチェックしました。それに依り以下の「原画ファイルの破壊状況」が判ったのです。
◆原画ファイルの破壊状況と破壊時期
1.破壊されたパソコンは?
ここで状況を整理して原画ファイルの破壊状況について書いて置いた方が良いと判断しました。書いて置かないと後からは「何時壊れたか?」という最も基本的な事を忘れて仕舞うからです。今ならそれを書けるのです。
私は1998年の夏に「Windows 85 のパソコン」(←パーソナル・コンピュータ(personal computer)の略)にし、2001年の夏に「Windows 2000 のパソコン」にし、2004年の暮れに「Windows XP のパソコン」に替えて居ます。つまり、
Windows 85
1999~2000年の原画 外国は無事 国内は無事
Windows 2000(2001年の夏から)
1999~2000年の原画 外国の全て破壊 国内の全て破壊
2001年の原画 外国は無事 国内の殆ど //
2002年の原画 外国は無事 国内の殆ど //
2003年の原画 外国は無事 国内の一部 //
2004年の原画 外国は無事 国内の一部 //
04年12月18日に原画の破壊が発覚
→ 直ぐ04年12月26日に Windows XP に買い替える
(Windows XPの「FMVオンラインユーザー登録情報」に
2004年12月26日の日付が在る)
以降は一切問題無し
と成ります。
但し、2001年の夏に Windows 85 から Windows 2000 にパソコンを替えた時には原画ファイルも全てチェックし無事であることを確認して居ます。つまり原画ファイルが破壊されたのはWindows 2000 のパソコンだ、という事が判りました。
2.何時から破壊されたか?
私のHP(ホームページ)のファイルの「雲南桃源倶楽部」は02年12月7日に書き始めたので、その時点では原画が在ったのです。この中の「象の樹」と呼ばれる樹に私が登っている写真は中国雲南省で1999年に撮ったものですが、これが04年12月18日には原画が破壊されていて、HPの「象の樹」だけが破壊を免れたのです。原画破壊の約2年前です。
それから「「田舎教師」-羽生」は04年8月3日に書き始めて初稿が出来上がった04年8月10日の段階では原画は無事だった事を確認して居ます。何故ならば初稿は直ぐに羽生市に送っているのです。それなのに04年12月18日には原画が破壊されていたのです。壊れる迄約4ヶ月です。何れもHPに定着したファイルの写真は無事ですが原画では無いので写真は通常ずっと小さいのです。
又、タイトルは忘れましたが大阪平野の環濠集落と杭全神社、滋賀県坂本を書いたHPが全く見当たりません。当サイトのHPは2002年11月20日から作成開始して居ますので03~04年に掛けてこれらのHPが破壊されたと考えられます。
その内、原画の破壊を図示すると以下の様に成ります。
安全 何等かの原因で
│ ┌ 原画領域を破壊
↓ ↓
HPに定着 原画は見れない
○ ←─ コピー ── ×
この二つのファイルの状況から、私は04年9月頃に原画の破壊が始まったのでは?、と思って居ます。
<原画の破壊は音がしません。又、壊れていても今回の方違神社の様に「こちらからその原画を見に行く」ことをしないと判らないのです。>
私の場合はHPの数が多くて、とても全てこちらから見に行く事は出来ません。それを防ぐにはバックアップ(back up)を「小まめに」取ることです。Windows XP のパソコン(←最終的に Service Pack 3 のOS(operating system)は極めて安定して居ます)ではバックアップを取って居ます。Windows
2000 でもバックアップを「小まめに」取って居れば破壊する確率は小さく成ります。でもそうは言ってもバックアップも面倒臭いですからねェ!
(>o<)
{この節の「2.何時から破壊されたか?」は05年2月25日に追加}
という事で、04年12月18日の方違神社に戻ります。
方違神社は百舌鳥耳原北陵(反正天皇陵)の後円部に接して在ります。電車では南海高野線の堺東駅から直ぐです。古くからこの地は摂津・河内・和泉の境界線上に在り -それ故に三国(みくに)という地名が付いている(←三国山/三国ヶ丘/三国峠など、三国(みくに)は3方が国境や県境に跨る所に付く地名)- 、方違神社は方位の無い神社とされて居ます。ですから何処かに出かける前に方違神社で方位を占うという事は極めて自然な成り行きとも言えます。
私は1999年か2000年に方違神社に来て写真も撮って居ます。そして既に03年4月30日に
「日本再発見の旅」の心(Travel mind of Japan rediscovery)
に於いて方違神社について書いて居るのです。その中で「これなども、全然知らなかったのですが、もう何年か前に大仙公園からの帰り道に「何時もと違う道で帰ろう」と思って”方違え”(※17)したら、知らない道を走っている間に偶然出くわした訳で、「こんな所に方違神社が在るのか?!」と「思わぬ発見」に感動した覚えが有ります。」と書いて居ますが、私はチャリンコで堺の古墳巡りをして居たのです。方違神社の写真も撮ったのですが上に記した様に原画は壊れて仕舞いました。
そこで写真を「方違神社」公式サイト(△12)から拝借します(右の写真)。{この写真は2018年1月21日に追加}
ところが、このHPは「方災除の社 方違神社 ほうちがいじんじゃ」と成って居るので驚き呆れて居ます。幾ら「方違(かたたが)え」(※17~※17-4)が今時「意味が解らない」「字が読めない」では有っても、公式サイトが間違った読み方をしたら示しが付かないのです。例で示しましょう。
++++ 古典は全て「方違(かたたが)え」と読む ++++
紫式部の『源氏物語』の「箒木」の帖には、女房達が「今宵、中神(なかがみ)、内裏(うち)よりは、塞(ふた)がりて侍りけり」と源氏に話掛けると、源氏は「さかし」と応え「二条院にも、おなじすぢにて、いづくにか違(たが)えん、いと悩ましきに」と言って大殿籠り(※19、※19-1)をして仕舞います(△14のp72)。ここで「中神(なかがみ)」と言ってろのは「天一神(なかがみ)」(※17-2)のことです。又、「若菜(上)」の帖では柏木が「ともかくも、かき紛れたる際(きは)の人こそ、かりそめにも、たはやすき物忌(ものいみ)(※17-5)・方違(かたたが)への移ろひも、かろがろしきに、おのづから、ともかくも、物の隙(ひま)をうかゞひ作るやうもあれ」と言ってます(△14-1のp360~361)。
清少納言の『枕草子』の25段では「すさまじきもの」の中で、「方(かた)たがへにいきたるに、あるじせぬ所。まいて節分などはいとすさまじ。」と在ります(△15のp43)。
藤原定家の『明月記』の正治2年正月の日記に「并せて節分御方違へなり。」と在ります(△16のp56)。
この様に、日本の代表的な古典が何れも「方違(かたたが)え」です。「方違(ほうちが)い」などという用法は何処にも無く、従って広辞苑にも載って居ません。「方違神社の公式サイト」は大いに反省すべし!!
ところで旧暦2月3日は節分(※20~※20-3)で、上の例でも『枕草子』や『明月記』に節分が出て来ますが、そもそも節分とは「季節の分かれ目」の事で、平安時代は節分の日に「方違え」するのが一般的でした(△3のp303)、これを「節分違(せちぶんたが)え」(※17-6)と言いました。
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◆「方違え」の実例
「方違え」とは陰陽道の俗信(※17-1、△3のp304)なのですが、平安中期には安倍晴明(※21)というカリスマ的な陰陽師が現れ、陰陽道は特に平安貴族の間に持て囃されました。貴族とか紫式部や清少納言の様な宮廷女房たちは要するに”閑人(ひまじん)”ですから、遊び感覚で「方違え」を楽しんだ訳です。▼下図▼で説明しましょう。
<方違え:陰陽道の「方角に対する禁忌の思想」>
C
○
/ \_方 = 今日
前日/ \_違
/ \_え
/ \
A●─ 今日は方角が悪い →●B
= A→Bの方角が凶
= 塞(ふた)がり/方塞(かたふた)がり/物忌/方忌
この時に A→C→B と「方違え」をする
A地点からB地点に行きたいが、その方角が今日は凶であるとすると、その方角は[方(かた)]塞(ふた)がり(※17-3、※17-4)と考え、その方角を忌むのです。物忌(ものいみ)(※17-5)とか方忌(かたいみ)(※17-7)とも言います。その場合は前日予めC地点に行って置き、今日はC地点→B地点に「方違え」するのです。「方違え」とは陰陽道の「方角に対する禁忌の思想」に他為りません。しかし実際にはもっと複雑で、天一神(なかがみ)一つを取って見ても【脚注】※17-2に在る様に陰陽道の法則に則って行なう事は日数がもっと掛かるし大変なのです。だから貴族や宮廷女房の”閑人(ひまじん)”しか厳密な方違えなど出来なかった訳です。
しかし、上図の程度の方違えは鎌倉武士にも受け入れられましたが室町時代になると形骸化しました(△3のp304)。そりゃあそうでしょう、間も無く下克上の社会に成ろうとしている時に「方違えもヘチマも無い」訳です。
では方違えは廃れたか、というとそんな事は有りません。「「日本再発見の旅」の心」で私が「今の時代で言えば、同じ目的地に行くのに町の角でコインを投げて表か裏かで方角を決めたり、或いは昨日ツキが無かったので今日は悉く昨日と逆を行ったりすることです。これは今のプロ野球選手や相撲取りとか縁起を担ぐ商売の人は取り入れて居ます。」と書いている通り「方違え」の考え方は今日でも生きて居るのです。コインの裏表で何かを決める事は子供時代に遣りました(←遊びの一種)。
もう一つ、日本には風水(※22) -古代中国の道教的宇宙観に基づく方位観念- という考え方が早くから移入され、【脚注】※22の補足に書いた通り「平城京、平安京、江戸城下町などは皆風水理論に従って建設されている」のです。風水は中国や朝鮮では今も盛んで、家の新築や墳墓の位置や方角を決める際に風水師に占って貰います。
◇◆◇◆◇
神功皇后が住吉ノ神を今の地に祀った時に方忌除災(※17-7、※17-8)の神事を行ったことから方除けの神と崇められ、転居/開店/新築/旅行の際に除災を願う場合が多いのです。
尚、2006年4月1日以降は方違神社の住所は堺市堺区北三国ヶ丘町2に成りました、これは堺市が政令指定都市に成った為ですが、やはり平成の大合併(住所は肥大化)の動きと関係して居ます。堺区は明治13(1880)年に郡区町村編制法に依り堺町が堺区に成った事が有りました。その後、明治22(1889)年に市制に移行し堺区は堺市に成りました。この当時の堺は迷走し、明治9(1876)年には堺県が出来、今の奈良県を飲み込んで仕舞った事も有ります(△19のp14~15)、いやはや!{この段は06年7月28日に追加}
(1)霰松原荒神
先ず霰松原の謂れから説明しましょう。阪堺電気軌道の安立(あんりゅう)町駅近くに大きな楠と霰松原を顕彰する小さな公園が在ります(→安立の地図)。その由来記に拠ると、嘗てここは松原が続く海沿いの美しい街道で、古代では「岸辺の道」と呼ばれ、室町後期から「紀州街道」と呼ばれました。「霰松原」とは天武天皇の第4子の長皇子(ながのみこ)がここで次の歌を詠んだ事に因んで居ます。歌碑には以下の様に在ります。
慶雲三年丙午幸于難波宮時
長皇子御歌
霰打つ あられ松原
すみのえの 弟日おとめと
見れど飽かぬかも
慶雲3年は706年で、この歌は『万葉集』巻1-65の歌(△31のp59)の歌です。
そして公園には霰松原神社(大阪市住之江区安立2)が在ります。第1回目は03年9月26日にチャリで行きました。
左が霰松原神社の白い鳥居で、右が神社の扁額の拡大で「霰松原神社」と書いて在るのが読めます。奥に3つの祠が見えます。
右に書いて在る様に、左の祠が金高大明神、真ん中の祠が霰松原荒神(※30、※30-1)という「竈(かまど)の神」(※30-2、※30-3)と「火の神」(※30-4)で、右の祠が瀧川稲荷大明神と榎明神と朝日明神です。
霰松原の謂れや霰松原荒神については▼下▼にも記事が在りますので、ご覧下さい。
阪堺電車沿線の風景-大阪編(Along the Hankai-Line, Osaka)
第2回目に行ったのは05年10月25日の夕方です。但し、この日は先に南海高野線の沢ノ町駅近くの止止呂支比売命神社(とどろきひめのみことじんじゃ)(大阪市住吉区沢之町1)に寄り、その後で霰松原に行きました。因みに私はチャリンコです。
前は3つの祠を撮りましたが、今度は霰松原荒神の祠だけを撮りました(左)。提灯には「霰松原荒神」と書いてます(中央)。この日は先に止止呂支比売命神社を見て来ましたが、霰松原荒神は止止呂支比売命神社でも祀られて居ました。
右は天水分豊浦命神社旧跡の碑です。「天水分豊浦命神社舊蹟」と陰刻されてます。嘗てこの地に式内社(△32のp425)の天水分豊浦命神社(あまのみくまりのとようらのみことじんじゃ)が祀られて居ましたが、明治の末(1910年)頃に上述の止止呂支比売命神社に遷座しました。この神社の祭神の天水分豊浦命は、その名の示す様に、「豊浦」即ち霰松原の海岸地域で「水分(みくまり)」即ち川と海の分水を司っていた神(※32、※32-1)です。『古事記』に天之水分神、国之水分神が出て来ます(△1のp23)。
アジアにも在る竈(かまど)信仰については▼下▼を
アジアに存在する日本神道の原型(Prototype of Japanese Shintoism exist in Asia)
ご覧下さい。{このリンクは07年11月23日に追加}
(2)竈大神
03年9月28日
(→地図)
右は鳥居の扁額の拡大です。
(1)癌封じ/ぼけ封じの御地蔵様
私がチャリンコで良く行く聖天坂(→地図)で、03年8月20日で「癌封じ地蔵」(大阪市阿倍野区松虫通3丁目)(※40~※40-2)と書かれた地蔵尊を見付けました(左右の写真、右は「癌封じ地蔵」と書いた表札の拡大)。赤い卍が見えます。
この近くには松虫塚や聖天さんが在って今迄も何度もここに来て居ます -ここは言わば「私の庭」なのです- が、「癌封じ地蔵」には今迄気付きませんでした。多分、聖天坂の石段の途中に在るので見逃して仕舞うのでしょう。
新しい花が「然りげ無い心遣い」を感じさせます。松虫通~聖天坂~天下茶屋に掛けての界隈は下町情緒が滲み出て私が好きな町並みです。
03年8月24日にもここに来たら「ぼけ封じ地蔵尊」(大阪市阿倍野区松虫通3丁目)を見付けました(左右の写真、右は「ぼけ封じ地蔵尊」の拡大)。
この「ぼけ封じ地蔵尊」の左側にも別の地蔵尊が在ります。
ここも新しい花が在ります。その花瓶には
花 花
宇 舩 宇
野 橋 野
よ 製 清
し 綿 治
の 所 郎
と陰刻して在ります。宇野さんは夫婦なのでしょう。
この様な小さな御地蔵様で日本の死亡率がNo.1の癌(※41~※41-2)を封じ込めようとする心意気に拍手喝采です。貴方(貴女)はどう思われますか?
貴方(貴女)はこれを迷信だと決め付けて自分は最先端の医療技術しか信用しない、それも貴方(貴女)の自由です。でも日本の八百万(やおよろず)の神々は、こんな所にも生きて居るのです。
又、呆け封じも同様です。今では「呆け」は認知症(※42~※42-1)と言う様ですが、ちょっと前迄は痴呆症(※42-2)と言って居ました。「痴呆」って差別用語なんですかねえ。しかし認知症というのはオカシイですね、呆けて認知出来ない訳ですから認知不全症にするべきです。私が子供の頃は認知などという難しい言葉は殆ど使わなかったと思います。唯一使って居たのは時代劇で、妾に産ませた子供を自分の子として「認知」するか、という時ですが大抵は「認知せず」でしたね。認知したら財産を分け与えなければ為りませんから。老人性の「呆け」(=痴呆症)の問題は1972年に発表された有吉佐和子の小説『恍惚の人』で一躍有名に成りました。でも認知症地蔵尊では無く「ぼけ封じ地蔵尊」として居る所が何とも微笑ましい限りです。
ところで、大阪や京都では地蔵盆(※40-3)というのが在り毎年8月23~24日に行いますが、今は地蔵盆の慣わしも都市部では廃れました。そもそも私は地蔵盆を見る為に8月20~24日の集中的にここへ来たのですが、やはりこの界隈では地蔵盆を遣って居ました。でも御年寄りですね、地蔵盆をしているのは。この御年寄りが居なく成ったらどう成るんでしょうか?!
又、この界隈には地蔵尊と同じ位の小さい祠に蛇を祀っていて「松蟲塚白龍神社」と書いて在りました。「龍」と書いてる実体は「蛇」なのです。関西では蛇神を「巳さん」と呼びますが、これも御年寄りです。江戸時代から400年位は続いて来た日本の伝統を若い人に受け継いで行って貰いたいですね。
尚、巳さんについては、より詳細なページを追加しましたので
日本、珍にして奇なる光景#2(The RARE and STRANGE scene 2, Japan)
2013年・年頭所感-今年は巳さん(This year is Mi-san, 2013 beginning)
を参照して下さい。{このリンクは2013年12月25日に追加}
(2)瘡神大明神 - 船待神社の境内末社
私は05年6月14日は堺市をチャリンコで走って居たら夕方「魚貝海虫慰霊碑」(→後出)を見付け(←後で調べたら、ここは船待神社の御旅所でした)、その後で船待神社(大阪府堺市西湊町1、左の写真)が在ったので寄りました(→地図)。鳥居の右側に立つ石柱の拡大が右の写真です。「大典紀念 舩待神社」と在ります。
昔は船は風が頼りですから「船待ち」(※44)をしたのです。
そして上の写真で緑色をした祠が見えます。それを拡大したのが右の写真で、これが瘡神大明神で船待神社の境内末社です。
瘡神(かさがみ)と読みます。瘡(かさ)(※45、※45-1)とは瘡蓋(かさぶた)が出来る皮膚病一般を指しますが、特に性病の梅毒(※45-2) -昔は【脚注】に在る様に正に瘡(かさ)と言った- とか、天然痘(※45-3)(=種痘(※45-4)=疱瘡(※45-5)) -昔は痘瘡(もがさ)(※45-6)とも言った- を指します。それと癩病(らいびょう)(※45-7) -昔は不治の病とされたが今はハンセン病(※45-8)として治療が可能- なども入るでしょう(△3のp300~301)。
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瘡神大明神の石柱
ところで、江戸時代の後期以前には疱瘡(天然痘)は不治の病と考えられていた -1796年の牛痘種痘法はジェンナーの発明(※45-4)- ので、「疱瘡という業病は外部から侵入して流行するため、その防御は集落の入口、すなわち辻に置かれた小さい祠であった。これは疱瘡神除けであり、前述したように、悪霊疱瘡神を他の集落の境まで送るのを疱瘡神送りという。」と在ります(△2のp467)。正にここに書かれている通り、海の近くの集落の”境”の地です。
でも八百万(やおよろず)の神々はちゃんと瘡神を作って見捨てないのです!
左が「瘡神大明神」と陰刻した石柱、その石柱を少し拡大したのが右の写真です。石柱側面には「天保十二年榜五月吉日」と在り、天保12年は1841年です。
左の写真で、右奥に天神社の梅鉢紋が見えているのは船待神社の神輿庫です。その左隣の社殿は船待神社の拝殿です。
右が境内に在った船待神社の由緒書ですので読んで下さい。船待神社の祭神は天穂日命と菅原道真です。
堺市石津北町 塩穴
尚、2006年4月1日以降は船待神社の住所は大阪府堺市堺区西湊町1に成りました。{この段は06年7月28日に追加}
(3)「天下大将軍」と「地下女将軍」の将軍標 - 元々は疾病除け
次は韓国の神様です。
左は03年7月17日にコリアタウン(御幸森商店街)(大阪市生野区桃谷3~5)の韓国焼肉屋の店先で撮ったもので「天下大将軍」と書いて在るのが読めます。コリアタウンの地図は▼下▼です。
地図-日本・大阪の猪飼野地区(Map of Ikaino, Osaka -Japan-)
その右隣はランチの定食の幟で見えませんが「地下女将軍」です。天下大将軍/地下女将軍の1対は将軍標(※48)と言って朝鮮/韓国の魔除けの境界神(※48-1)ですが、元々は疾病除けの境界神で村落の境界に置いたのです。朝鮮/韓国も八百万(やおよろず)の神々です。
右は05年6月25日に大阪飛田(大阪市西成区山王1)の焼肉屋の前で撮ったものです(→大阪飛田の地図)。
「焼肉」と書いた赤提灯が出ていて今度は完璧に「天下大将軍」「地下女将軍」が読めますね、朝の10:10頃撮影しましたので店は閉まって居ます。
この将軍標は今や”門神”(※5)をも兼ねているみたいですね、或いは”商売繁盛の神”かも知れませんね、韓国の焼肉屋は殆ど将軍標を出してますから。八百万の神々は「山の神」で見た様に神自体がどんどん変容するのです。それが初歩的な神道(rudimentary Shinto)の特徴です。
因みに、埼玉県日高市大字新堀の高麗神社(こまじんじゃ)には大きな将軍標が在ります。ここは嘗て武蔵国高麗郡と呼ばれた所で、『続日本紀』の霊亀2(716)年5月の条(元正天皇)には「辛夘、以駿河、甲斐、相模、上総、下総、常陸、下野の7国の高麗人1799人を武蔵国に遷し高麗郡を始め置く。」と記されて居て(△35のp66)、日本の亡命して来た高句麗の人々 -日本では高麗(こま)と言う- を一括して管理する為に武蔵国高麗郡を716年に新設したのです。その後、高麗神社が創建され主祭神は高麗王若光(←高句麗の王族とされる)で、代々高麗氏が宮司を世襲して居ます。詳しくは▼下▼をご覧下さい。
中国の新少数民族か?、ラ族(裸族)(Is a new minority of China ?, 'Luo zu')
(1)針塚
04年4月13日に和泉国一の宮の大鳥神社(大阪府堺市鳳北町1丁)の境内の中で針塚(右の写真)を見付けて仕舞いました(→大鳥神社の地図)。実は毎年4月13日は花摘祭が行われるのです。平安時代から続く可憐な祭で、野の花を摘み神に献じる神事です。私もそれが目的で来ましたが神社に入って真っ先に針塚が目に飛び込んで来たのでデジカメでパチリです。又、”余所見癖”が出て仕舞いました。
注連縄がしてあるので「塚」の字が見難いですが「針塚」と彫って在り針供養(※50)をします。私は大鳥神社の針供養は見てないのでインターネットで検索して見ると、毎年2月8日に不要に成った針、否々今迄良く働いてくれた針や折れて仕舞った針を感謝の気持ちを込めて蒟蒻(こんにゃく)に刺し宮司が祝詞を奉り、一連の神事として針供養祭を行います。
日本の八百万(やおよろず)の神々は、こんな非生物にも神格を与え生物と同じ様に慈悲を施すのです。
尚、2006年4月1日以降は大鳥神社の住所は大阪府堺市堺区鳳北町1丁に成りました。{この段は06年7月28日に追加}
(2)人形供養碑
05年8月15日 -この日は「ふぐ供養碑」と鳥塚を撮った日(→後出)- に犬を連れた西郷隆盛の銅像の近くで人形供養碑(東京都台東区上野公園1)を見付けました(右下の写真)。
供養碑の岩の台には
人形
それは人の心を
明るく楽しく
豊かにし
子どもを
優しく美しく
健やかにする
という、余り上手く無い詩が書かれて居ます。
左の石碑が清水観音堂の説明板で概略「清水観音堂の子育観音は子宝に恵まれない人々に霊験が有り、子を授かると丈夫に育つことを願って人形を奉納します。その奉納された人形と家庭で古く成った人形を秋の彼岸の終わりに、ここへ集め読経して荼毘に付します。それらの人形を回向し供養する為に供養碑が建てられた。」と書いて在ります。
◆和歌山市加太の淡嶋神社の人形供養
(3)筆塚
07年2月16日に大阪天満宮(大阪市北区天神橋2)の境内で筆塚(左の写真)を見付けました。地図は▼下▼をご覧下さい。
地図-日本・淀川、桜之宮と大阪城(Map of Yodo-river, Sakuranomiya, and Osaka castle, Osaka
-Japan-)
手前に少し見えている老筆函(ろうひつかん)に古く成った筆を入れるのですが、この日は1本も入ってませんでした。この写真を撮ったのが10:15分頃なので多分私が撮るのが早過ぎたと思います。
ここは天満宮、祭神の菅原道真は学問の神として名高い人ですが、書道も上手かった様で書道の神でも在ります。そこで天満宮で筆供養をすれば学校の成績も上がるし御利益絶大という訳です。
しかも、ここは大阪、大阪は商売繁盛です。こうして古い筆を供養したら新しい筆が必要ですわな~。この天満宮の境内の中にはちゃんと新しい筆を売る売店が在って「老筆函にお世話に為ったら境内で新しい筆を購入する」という”天満宮サイクル”が構築されているのです。中々商売上手でっせ、天満宮は!!
↑
老筆函
◇◆◇◆◇
針や人形や筆などの非生物の場合は、擬人化して八百万(やおよろず)の神々の一つに加え丁重にそれを供養し祀るという事が行われて居るのです。
(1)魚貝海虫慰霊碑
05年6月14日に船待神社の御旅所(大阪府堺市出島西町)で大きな岩に「魚貝海虫慰霊碑」と陰刻された慰霊碑を見付けました、地図は▼下▼をご覧下さい。
地図-日本・阪堺地区(Map of Hankai area, Osaka -Japan-)
左が慰霊空間の全体像で中央が慰霊碑です。右が慰霊碑の拡大です。
慰霊碑の下部には堺市出島漁業協同組合のマークと、その下に「堺市出島 漁業協同組合」と在ります。右の台には「堺市出島漁業協同組合 延縄乗子仲」、左には「堺市出島漁業協同組合 底曳乗子仲」と在ります。又、手前右の灯籠の脚部には「堺市出島漁業協同組合 延縄仲」、左には「底曳仲」と在ります。
堺港の一部が埋め立てられ魚貝類も埋め立ての犠牲に成るので、1962年に堺出島の漁業協同組合の延縄(はえなわ)と低曳網の漁師たちが慰霊碑を建立しました。それ迄の漁に感謝をし狭くなった漁場での大漁を祈願したものと思います。
しかし、埋め立ての犠牲に成る「魚貝類(←人に食われる)の立場」に成って考えるとは、「人に食われる魚貝類」の痛みを知ることです。これについては既に発表している論考が在りますので、▼下▼を
「動物の為の謝肉祭」の提唱(Carnival for Animals)
じっくりとお読み下さい。
尚、2006年4月1日以降は魚貝海虫慰霊碑(=船待神社御旅所)の住所は大阪府堺市堺区出島西町に成りました。{この段は06年7月28日に追加}
(2)ふぐ供養碑
05年8月15日 -この日は終戦記念日- の午後、私は東京上野の不忍池(※60、※60-1)に来ました。別に目的は無かったのですが、神戸に引っ越してからは不忍池に来るのは初めてだし暑いので、ゆっくり散歩でもしようと思い遣って来ました。そしたら以下にお見せする様な”面白い物”を見付けて仕舞いました。この近くには近世箏曲の創始者の八橋検校顕彰碑も在りました。
先ずは「ふぐ供養碑」(東京都台東区上野公園2)です(左下の写真)。不忍池名物の蓮が池を覆い尽くして居ます。
フグ(河豚)(※62)が白浪の上を泳いでいるデザインの下に「碑養供ぐふ」と右から左へ書かれて居ます(右の写真)。
そして扉に描かれたマークです(右の写真)。このモニュメントの左奥に少しだけ焦げ茶色をした石碑が見えて居ますが、これに供養碑建立の経緯が書いて在りますが余りはっきりとは読めません。
そこでネット検索して記します。要約すると「それ迄はしばしば中毒死者が出したが、昭和5(1939)年に(東京都)ふぐ料理連盟を結成し、古来秘されていた「ふぐ」の毒素を除く調理方法を公開し「完全調理した「ふぐ」は安心である事」を一般に認識させた。折りしも戦争の食糧難の時、同連盟は「ふぐ」の雑炊で一役買い、これが「ふぐ」の愛好者の増加に寄与した。昭和24(1949)年には東京都衛生局より「ふぐ調理師試験」実施の為の協力依頼が同連盟に有り連盟も全面協力した。そこで幾千万の「ふぐ」の霊に満腔の感謝を捧げる為に昭和40(1965)年9月に「ふぐ供養碑」を建立した」と在ります。上のマークは東京都ふぐ料理連盟のマークでしょう。
この碑文では「満腔の感謝」と言って居ますが、河豚の霊に酬いるとは「河豚の立場」に成って考える、即ち、「人に食われる河豚(フグ)」の痛みを知ることなのです。
「ふぐ」を「ふく」と読み替える地方 -例えば下関- が在ります。それは「ふぐ」は不具(ふぐ)に通じるので避けるのです。しかし河豚は旨い!!
関東では鍋を「河豚ちり」と言いますが関西では「鉄っちり」(※62-1)、河豚の刺身を「鉄っさ」(※62-2)と言います。その心は「鉄砲の様に当たったら死ぬ」からです。大分県臼杵市の「河豚のコース」を私が食っているので、▼先ずはそれ▼をご覧下さい。
2003年・福岡&大分食べ歩る記(Eating tour of Fukuoka and Oita, 2003)
私は年に3、4回河豚を食いに出掛けます。特に河豚の鰭酒は最高です。
ところで、フグ毒の主成分をテトロドトキシン(※62-3)と言いますが、大分前に「食通で鳴らした歌舞伎役者の8代目・坂東三津五郎は京都のフグ(河豚)料理店で「フグの肝臓(キモ)」をドバドバ食ってその毒に当たり御陀仏しました」ねェ。この話を聞いて「好きな物を食ったのだから本望だろう」と思うか、「止めときゃ良いのに」と思うかで、違いますね。それ故に「河豚食う無分別、河豚食わぬ無分別」(※62-4)とか「河豚は食いたし命は惜しし」(※62-5)という諺が生まれるのです。
(3)鳥塚
同じく05年8月15日に不忍池で鳥塚(東京都台東区上野公園2)を見付けました(右の写真)。左側の小さい石碑に鳥塚を建立した経緯が書いて在ります。それを要約すると、建てたのは「都内に店舗を構える東京食鳥鶏卵商業協同組合と東京都食鳥肉販売業環境衛生同業組合の有志」で、理由は「生活の糧であり子孫の繁栄に寄与する諸鳥類の霊魂を永久に慰める為に昭和37(1962)年3月24日に建立した」と在ります。
ここは東叡山寛永寺の不忍池弁天堂境内(※60-1)です。右側の赤い祠が弁天様です。背後に不忍池の蓮が写って居ます。
そうです、「鳥類の立場」に成って考えるとは「人に食われる鳥類」の痛みを知ることなのです。
◆ちょっと不忍池で休憩
ここで、ちょっと休憩して「ふぐ供養碑」と鳥塚が在る不忍池えお眺めましょう。私は何回かここへ来てますが最後に来たのは25歳位の時、その後神戸、大阪に引っ越しましたので凡そ30年振りです。
左は「不忍池」と太い字で陰刻された不忍池の碑で1966年の建立とか。
右上は池を覆い尽くした蓮です、蓮の花も咲いてます。奥に弁天堂も見えます。
言い忘れて居ましたが、この日はチャリンコで来て居ます。昨日も今日も浅草の同じホテルに宿泊しているのでホテルのチャリを只で借りました。しかし、ホテルは1時間位散歩で乗ると思って居たでしょうが私は朝の8:00~19:00位迄目一杯乗りました、アッハッハ!!
この不忍池は先程に書いた様に目的は無かったのですが、次に行く上野は摺鉢山古墳(前方後円墳)に行く」という目的が有りました。その事は▼下▼に纏めて在ります。
ぶらり浅草(Drift in and trip out Asakusa, Tokyo)
この日は”面白い物”を一杯撮影出来て満足です、浅草/不忍池と巡って、未だこれから上野/アメ横/秋葉神社などを巡ぐりました。途中、不忍池でツクツクボウシを上野の摺鉢山古墳の上でミンミンゼミを撮りました。実は私は昆虫の写真を撮るのが趣味でして特にトンボです。興味有る方はメニュー(目次)から入って下さい。
私の昆虫アルバム・日本編-目次(My INSECTS album in Japan, Menu)
(-_*)
(4)くじら供養碑
07年4月6~7日は日本の捕鯨の発祥地、和歌山県の太地町(※65)に行き、鯨のコースを食べました。
ここでは「くじら供養碑」(和歌山県東牟婁郡太地町)について記します(右の写真、07年4月6日撮影)。供養碑には「昭和54年3月建立」と日付が記されて居ます、1979年ですね。太地町の岬の先端の梶取崎には梶取崎灯台と古式捕鯨梶取崎狼煙場跡と「くじら供養碑」が在ります。
供養碑の説明板には概略「太地は我が国の捕鯨の発祥の地であり、鯨の恩恵は誠に大きい。由って供養碑を建て「鯨魂の永く鎮まりますことを祈る」ものである。」と記して在ります。
「鯨魂の永く鎮まりますことを祈る」とは「人に食われる鯨」の痛みを知ることなのです。
尚、太地町の詳しい話は既に▼下▼に載って居ますので、そちらをご覧下さい。
日本、形有る物を食う旅(Practice of active meal, Japan)
◇◆◇◆◇
八百万(やおよろず)の神々は「人に食われる動物」にも慈悲を寄せ、その「痛み」をいとおしんで居ます。私たちが八百万の神々と同じく寛容な心で物事に接する為には、前掲の「「動物の為の謝肉祭」の提唱」で述べた通り、
1.「自然の恵み」に感謝する
2.「人に食われる動物」の痛みを知る
ことだと私は思います。
(1)蛇神
交野の磐船神社の白龍/黒龍/金龍
地図-日本・枚方、交野市周辺(Map of Hirakata, Katano etc, Osaka -Japan-)
2003年・交野七夕伝説を訪ねて(Vega and Altair legend of Katano, 2003)
(1)-x.飛田遊郭の黒龍/白龍/天龍の大神
05年6月25日は前述の飛田の焼肉屋を撮った後、11:00頃にここに来ました。ここもやはり飛田(大阪市西成区山王1~3)の一角です(→飛田の地図)。
左の「黒龍大臣の由来について」(黒龍大神保存会)と書いた貼り紙を見付けました(西成区山王1)。それに拠ると、概略「この辺りの低地には明治末頃迄大池が在り、そこに大蛇が住み着き池の主と崇められ、住民は黒龍・白龍・天龍の祠を建てて祀った為に、天王町は戦災を逃れた」と書いて在ります。
飛田は今も昔の料亭風の建物(=遊郭)がずらりと並ぶ希少な所です。東京の吉原も空襲で遣られ、今は単なるソープランド街に成って仕舞いました。大阪の松島遊郭も少しは残って居ますが大部分は戦争で遣られました。私は1978年に関西の住人に成ったので、それ以前の事は知りません。私も飛田が戦火を逃れた事が不思議だったのですが、黒龍・白龍・天龍の御陰だったのですね。すると、この3蛇神が飛田遊郭の守護神という訳で、これからも大事にしないと行けませんゾ!!
この近くには「かみやまとばし」の標示石(高さ:約1m)が在り、嘗ては大池から流れる川に架橋されて居ました。
祠の中に阿倍野水の石碑が在り、大池の水は生活水としても利用されて居ました。地元では黒龍講を作り毎月18日を月例祭に、10月18日を大祭日とし護摩を焚き供養を盛大に行っているそうです。
左下の写真が黒龍大神の祠(西成区山王1)です。鳥居を潜り”蛇”の形をした注連縄の上の「神大龍黒」(←右から読む)と記した表札の拡大がその右です。
祠の内部を撮影したのが右端の写真、右は「黒龍大神」と刻んだ標柱の拡大です。
榊の葉でしょうか、然りげ無い心遣いが感じられます。
左上の写真で、鳥居の左の脚の奥に上述の阿倍野水の石碑(←「阿倍野水」と陰刻されている)が在り、それを拡大が左の写真です。
右下が「かみやまとばし」の標示石です(西成区山王1)、辛うじて「かみやまとばし」と読めます。
私は飛田が有り触れたソープランド街に成る事を救ってくれた3蛇神に深く感謝の意を込めて、この黒龍大神を代表して参拝しました!
左下は天龍大神の祠(西成区山王2)です。
左に載せた扁額の拡大写真 -大分黒く成っていたので可なり明るく処理しました- で漸く天龍大神と読めました。ここは西成区と阿倍野区の境に在り写真でも脇の道路と高層ビルが見えて居ます。
右上は貼り紙の拡大で、読むと参拝でドアを開けて自由に囲いの中に入(はい)れ参拝後は施錠をお願いします、書いて在ります。
白龍大神(西成区山王3)には寄りませんでした(←と言うよりも場所が判らなかったのです)。
◆「黒い鳥居」に「黒い聖母」
ところで黒龍大神の祠は「赤」が目立ちましたが、私は黒龍だから「黒」が良いと思いましたねぇ、ギャッハッハッハ!!
「黒い鳥居」は在るのでしょうか?、そこで「黒い鳥居」でネット検索しましたが無しです。
私はここで、キリスト教では「黒い聖母」 -「黒人の聖母」という意味では無く- が実際に存在する事を思い出したのです、即ち潜在意識の奥から「黒い聖母」が顕在意識の方へ引っ張り出されたのです。又、これを思い出すと鶴岡にも「黒いマリア像」が存在する事を思い出しました。ここから後は▼下のページ▼へ
黒い聖母について(About the Holy Mother of black)
リンクします。このページでは記憶と潜在意識との微妙な関係について非常に面白い事が解りましたので、是非お読み下さい。{この段のリンクは2018年7月3日に追加}
(2)蛙神
左下の写真は03年3月9日に磐船神社(大阪府交野市私市9)で撮った蛙の像です(→磐船神社の地図)。この蛙については
2003年・交野七夕伝説を訪ねて(Vega and Altair legend of Katano, 2003)
で紹介して居ます。
これが蛙神か?、と言うと多分違うでしょう。神様だったら蛙が乗っている岩に注連縄を巻いたりしてる筈です。下を水が流れて居ますが、これは天野川分流です。蛙は両生類ですから、この様に水辺にいるのは理に適って居て私は話の導入で蛙の像の写真を利用しただけです。
さて、蛙神は雨乞い(=祈雨)(※72)と疣取りに効力を発揮します(△3のp297)。これは何と無く解りますね、爬虫類の蛇(龍)と両生類の蛙はどちらも雨を呼び、疣はヒキガエル(蟇/蟾蜍)(※72-1)に直結します。ヒキガエルは俗名をガマガエル(蟇)/イボガエル(疣蛙)と言います。でも蛙は蛇に食われるので蛙と蛇は敵対関係に在ります。
ところで、ヒキガエルを食った御仁が居ます。それは北大路魯山人(※73)で「食用蛙などよりは蝦蟇の方が余程うまい。」と書いてます(△37のp141)。魯山人は京都伏見の陶器工場に行った時に、伏見稲荷の池で春眠している蝦蟇を肩の辺り迄腕を突っ込み5匹位捕まえさせ「刻んだ葱と一緒に煮て」食ったら「肉はキメが細かく、シャキシャキしていて、かしわの抱身などよりうまい。」と在ります(△37のp143~145)。但し、少し苦味が有って、これは蝦蟇の皮から出る成分です。
日本で食用蛙というとアカガエルやウシガエルですが、私の友人が遣って居る店でカエル料理が有って、これは本当に旨いでっせ!
脱線して仕舞いましたが、蛙石神社(静岡県富士宮市西町)というのが在り、やはり雨乞いと疣取りを行います(△3のp297)。ネット検索すると、蛙石神社は小さな神社で、この石は言い伝えでは富士山(※80)の噴火で飛んで来た噴石で形がガマガエルにそっくりなので蛙石として祀ったそうです。富士山の噴火と言うと1707年(宝永4)でしょうか、この時に宝永山が南東中腹に出来て居ます。それ以降は噴火は休んで居ます(←私が子供の頃は休火山(※80-1)と習いましたが今は休火山とは言わず活火山に含まれます)。
皆さん、「かかし」(※85)は神様なのです、ご存知でしたか?
『古事記』に次の様な記述が在ります、即ち「その少名毘古那神を顕(あら)はし白(まを)せし謂はゆる崩彦(くえびこ)(※85-1)は、今者(いま)に山田のそほど(※85-2)といふぞ。この神は、足は行かねども、盡(ことごと)に天の下の事を知れる神なり。」という箇所です(△1のp53~54)。
ちょっと注釈が必要ですね。少名毘古那神とは少彦名神。崩彦とは久延毘古の事で、即ちこれが「かかし」の事で、山田のそほども「かかし」の事ですが今は山田の僧都(そうず)(※85の[2])などと言われます。そして「かかしの神」は「足は行かねども、盡(ことごと)に天の下の事を知れる神なり」、つまり「足は動けないが世の中の事は何でも知って居る神である」と『古事記』は言って居るのです。
ところで「かかし」は何故「案山子」と書くのか?、疑問に思った事が在りませんか?
但し、『古事記』が書かれた頃は「かかし」という言葉は無く、上に在る様に「そほど」(※85-2)と言われて居ました。そこでインターネットの「語源由来辞典」を引いて見ると、
++++ 「かかし」の事を「案山子」と書く訳 ++++
「かかし」とは、田畑を荒らす雀などを脅して追い払うために田畑に立てる、竹や藁で作った人形。「かかし」は、古くは髪の毛や魚の頭などを焼き、串にさして田畑に立てたものを言ったのです。悪臭で鳥や獣を追い払っていたことから、これを「嗅がし(かがし)」と呼び、清音化されて「かかし」と成ったのです。つまり、広辞苑の【脚注】※85の[1]です。
但し、竹や藁で作った人形が使われる様に成ってからも、しばらくは「かがし」が用いられて居り、「かかし」という清音形は近世以降に関東地方から始まり、江戸時代後半に関西地方でも「かかし」が使われる様に成ったのです。
一方、漢字の「案山子」は、元々中国の僧侶が用いた言葉で、「案山」は山の中でも平らな所を意味し、「子」は人や人形の事なのです。中国宋代の禅書『景得伝灯録』に「僧曰、不会、師曰、面前案山子、也不会」と在り、これに倣って「かかし」の当て字に「案山子」が用いられる様に成ったと考えられます。
---------------------------
と出て来ます。これを纏めると、
①元は「嗅がし(かがし)」 → 清音化し「かかし」 近世(江戸時代)
『古事記』では「そほど」
②「案山子」は当て字で、中国宋代に起源(日本は鎌倉時代)
日本で「案山子」が用いられた 近世(江戸時代)
と成ります。近世とは江戸時代(1600年以降)ですから、「かかし」も「案山子」も江戸時代に普及しました。
◆外国の案山子(かかし)
ここで私が中国を旅してて見付けた案山子を次に紹介しましょう。2つ在ります。
左の写真は遼寧省の丹東から大連に行く途中、前陽站→北井子站の間でバスの中から05年8月30日の13:45頃に撮影。案山子が田圃の中に半分胴を埋めて居ます。
右は内蒙古自治区の五当召寺 -内蒙古では可なり有名なラマ寺、モンゴル族はチベット仏教(ラマ教)を信奉- から包頭東站に移動中のバスの中から09年9月17日の8:10頃に撮影。案山子は畑の中です。
何れもバスは80~100km/hで走ってますから、まごまごしてたら案山子は行き過ぎて仕舞います。右の写真など焦点が案山子より後ろに合ってますが時間が無い、兎に角シャッターを切りました。これらの案山子に課せられた機能は日本の案山子と全く同じです。
中国(=漢族)では余り案山子を見て居ません。西双版納(=タイ族)の田園地帯でも案山子は見ませんでした。それ故に、これらの案山子を見付けた時は感動しました!
「山の神」や「塞の神」は rudimentary Shinto(初歩的な神道)と言えるでしょう。それは正に体系的な神道に至る前の、中国の道教(※6)の影響が未だ”剥き出し”に見られ、しかしそれと同時に日本の初歩的な神道の萌芽 -未だ余り体系立って居ない- も現れて居ます。従って色々な要素が混同/習合された極めて原始的・土俗的な宗教です。従って各地方に依って幅広い差異やヴァリエーションが見られるのが特徴だ、という事が解りました。
これに対し「須牟地/住道/住地(すむじ)の神」は大阪の一地方の local Shinto(局所的な神道)です。しかし乍ら「須牟地の神」は詰まる所「塞の神」と同じく「道の神」で、そこには道教が基層部分を覆っているのです。
【脚注】
※0:古事記(こじき)は、現存する日本最古の歴史書。3巻。稗田阿礼が天武天皇の勅で誦習した帝紀及び先代の旧辞を、太安万侶が元明天皇の勅に依り撰録して712年(和銅5)献上。上巻は天地開闢から鵜葺草葺不合命(うがやふきあえずのみこと)迄、中巻は神武天皇から応神天皇迄、下巻は仁徳天皇から推古天皇迄の記事を収め、神話・伝説と多数の歌謡とを含み乍ら、天皇を中心とする日本の統一の由来を物語る。ふることぶみ。
※1:八百万(やおよろず)は、数が極めて多いこと。古事記上「―の神」。→千万(ちよろず)。
※1-1:千万(ちよろず)は、限り無く多いこと。せんまん。万葉集2「天の河原に八百万―神の神集ひ集ひいまして」。→八百万(やおよろず)。
※1-2:八十神(やそがみ)は、多くの神。古事記上「この大国主神の兄弟、―坐(ま)しき」。
※1-3:アニミズム(animism)とは、(anima[ラ]「魂・霊魂」から)宗教の原初的な超自然観の一。自然界の有らゆる事物に霊的存在を認めるという信仰。自然界の有らゆる事物は、具体的な形象を持つと同時に、それぞれ固有の霊魂や精霊などの霊的存在を有すると見做し、諸現象はその意思や働きに依るものと見做す信仰。<出典:一部「学研新世紀ビジュアル百科辞典」より>
※1-4:シャーマニズム(shamanism)とは、シャーマンを媒介とした霊的存在との交渉を中心とする宗教様式。極北/シベリア/中央アジア、北米の先住民に一般的で、類似の現象は南アジア/東南アジア/オセアニアなどにも見られる。しかし世界観/超自然観や社会的背景を反映し、一様では無い。中国/朝鮮/日本では巫術/巫俗/巫女等の名で知られる。
※1-5:シャーマン(shaman)とは、自らをトランス状態(忘我・恍惚)に導き、神/精霊/死者の霊などと直接に交渉し、その力を借りて託宣/予言/治病などを行う宗教的職能者。シベリアのツングース系諸族の例が早くから注目された。日本に於いても古代の巫女である卑弥呼が典型で、現在でも東北地方のイタコや南西諸島のユタなどに特徴が見られる。巫者(ふしゃ)。巫女(みこ)。巫術師(ふじゅつし)。<出典:一部「学研新世紀ビジュアル百科辞典」より>
※1-6:巫女/神子(みこ、virgin consecrated to a deity, shrine maiden)は、神に仕えて神楽/祈祷を行い、又は神意を伺って神託を告げる者。未婚の少女(=処女)が多い。かんなぎ(巫/覡)。→シャーマン。
補足すると、最近では未婚の女性のアルバイトが多いですが、処女性については私は関知して居りません。
※x:多神教(たしんきょう、polytheism)は、複数の神々を同時に崇拝する宗教。自然現象を人格化したものや、人間生活の様々な局面を投影した独自の性格と形姿を持つ神々に対する信仰。原始的諸宗教や古代の宗教の多くはこれに属する。←→一神教。
※x-1:自然宗教(しぜんしゅうきょう、natural religion)とは、[1].宗教の発達過程に於いて、初期の自然発生的/原始的宗教の総称。主としてアニミズム/呪物崇拝/自然崇拝/多神教など。自然的宗教。自然教。←→倫理的宗教。
[2].神の恩恵に基づく啓示宗教に対し、人間の自然的理性に基づく宗教を言う。啓蒙主義時代の合理主義の所産。理神論など。<出典:一部「学研新世紀ビジュアル百科辞典」より>
※x-2:一神教(いっしんきょう、monotheism)は、ユダヤ教/キリスト教/イスラム教の様に、唯一の神を信仰する宗教。唯一神教。←→多神教。
これに対し、複数の神が在る中で1つの神だけを信仰する場合は、拝一神教(monolatry)と言う。古代イスラエルのヤハウェ信仰など。<出典:「学研新世紀ビジュアル百科辞典」>
※2:山の神(やまのかみ、mountain god)は、[1].山を守り、山を司る神。又、山の精。民間信仰では、秋の収穫後は近くの山に居り、春に成ると下って田の神と成ると言う。法華経(竜光院本)平安後期点「魑(やまのかみ)魅(さわのかみ)」。今昔物語集27「さやうならむ歌などをば深き山中などにては詠ふべからず。―の此れを聞きてめづる程に留むるなり」。
[2].自分の妻の卑称。かかあ。かみさん(上さん)。狂、花子「―が少しの間も離さぬに依て」。
[3].〔動〕
[a].カジカ科の淡水産の硬骨魚。カジカに似る。全長約15cm。北九州産。
[b].ミノカサゴ/カジカ類の魚の方言。→山鰧(やまおこぜ)。
※2-1:民間信仰/民間宗教(みんかんしんこう/みんかんしゅうきょう、folk belief)とは、民間に伝承されて居る信仰。民俗宗教。
※2-2:田の神(たのかみ、god of rice field)は、田を守護する神。農業の神。→田の神送り。
※2-3:田の神送り(たのかみおくり)とは、田の神が山へ帰るのを送る農村行事。9月30日、10月/11月の初丑の日など地方に依って異なる。
※2-4:山童(やまわろ/やまわっぱ)は、熊本県などで、山に棲む想像上の動物。河童が秋に山へ入って山童に成り、春には又、河童に成って川に戻ると言う。
※2-5:山鰧(やまおこぜ)とは、狩人が山の神に供え、或いはこれを秘蔵すると好猟が有るとして携えるもの。「おこぜ」は普通海魚を言うが、カジカの様な川魚や巻貝、或いは鹿の耳などを指す地方も在る。
※2-6:山の神祭(やまのかみまつり)は、山に生業を持つ猟師/林業者/木地師などが山の神を崇め、仕事を休んで祭ること。季語は冬。
※2-7:山の講祭(やまのこまつり)とは、山の神の祭。中部山岳地方では初春・初冬の2度、信者が団体で祭る。
※2-8:山の精(やまのせい、oread)は、山の主。山の霊。山彦(やまびこ)。山精(さんせい)。
※4:障の神/塞の神(さえのかみ/さいのかみ)とは、(伊弉諾尊が伊弉冉尊を黄泉国(よみのくに)に訪ね、逃げ戻った時、追い掛けて来た黄泉醜女(よもつしこめ)を遮り止める為に投げた杖から成り出た神で、障(さえぎ)るが原意)邪霊の侵入を防ぐ神。行路の安全を守る神。村境などに置かれ、中世後期にはその形から良縁・出産・夫婦円満の神(=道祖神)と習合された。道の神。久那斗神/岐神(くなとのかみ)。道祖神(さえのかみ/どうそじん)。今昔物語集13「すべて人無し。只―の形を造りたる有り」。
補足すると、「道祖神」と「道の神/障の神/塞の神」とは元来別の神ですが、中世後期にはこれらが混同され同一視される様に成りました。因みに広辞苑では、「近世には」習合されたと成って居ましたが、『日本の神様[読み解き]事典』(川口謙二編著、柏書房)のp343には『源平盛衰記』(南北朝時代には成立)に道祖神と書いて「さえのかみ」と訓じて居り、既に中世後期には習合(混同)が起きて居ます。従ってそこを「中世後期には」に改めました。
※4-1:岐の神/衢の神(ちまたのかみ)とは、[1].道の分岐点を守って、邪霊の侵入を阻止する神。障の神/塞の神(さえのかみ)。道祖神。神代紀下「衢神(ちまたのかみ)」。
[2].(天孫降臨の時、天の八衢(やちまた)に迎えて先導したから言う)猿田彦神の異称。
※4-2:八衢(やちまた)とは、道が八つに分れた所。又、道が幾つにも分れた所。迷い易い譬えにも言う。万葉集2「橘の蔭踏む道の―に」。
※4-3:久那斗神・来名戸神(くなとのかみ)/岐神・船戸神(ふなとのかみ)とは、伊弉諾尊が黄泉国(よみのくに)から逃げ帰り、禊祓(みそぎはらえ)をした時に投げ捨てた杖から化生した神。集落の入口などの分岐点や辻に祀られ、災禍の侵入を防ぐ神、又、道路や旅行の神とされた。道の神。岐(ちまた)の神。道祖神。
※4-4:道の神(みちのかみ)は、道路・旅行の安全を司る神。障の神/塞の神(さえのかみ)。道祖神。万葉集17「―たち幣(まい)はせむ」。
※4-5:道祖神(どうそじん)は、道路の悪霊を防いで行人を守護する神。日本では、障の神/塞の神(さえのかみ)と習合され、中世後期以降は夫婦円満から土俗的な性神(せいしん)としての性格を強め、陰陽石にも成って居る。近世には道陸神(どうろくじん)とも言った。中国道教の「道祖の神」に由来。手向けの神。遊女記(朝野群載3)「百大夫、―之一名也」。<出典:一部「学研新世紀ビジュアル百科辞典」より>
※4-6:猿田彦(さるたひこ)は、(古くはサルダビコ)日本神話で、瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)降臨の際、先頭に立って道案内し、後に伊勢国五十鈴川上に鎮座したという神。容貌魁偉で鼻長7咫(あた)(←天狗の原形の説有り)、身長7尺余と伝える。俳優/衢(ちまた)の神とも言う。中世に至り、庚申の日にこの神を祀り、又、道祖神と結び付けた。
※5:門の神(かどのかみ)/門神(もんしん)は、門を守護する神。天岩戸別神。門守。
※6:道教(どうきょう、Taoism)は、中国漢民族の伝統宗教。黄帝・老子を教祖と仰ぐ。古来のアニミズムや巫術(=シャーマニズム)や老荘道家の流れを汲み、これに陰陽五行説や神仙思想などを加味して、不老長生の術を求め、符呪・祈祷などを行う。後漢末の五斗米道(天師道)に始まり、北魏の寇謙之(こうけんし)に依って改革され、仏教の教理を取り入れて次第に成長。唐代には宮廷の特別の保護を受けて全盛。金代には王重陽が全真教を始めて旧教を改革、旧来の道教は正一教として江南で行われた。民間宗教として現在迄広く行われる。
※6-1:道士(どうし)とは、
[1].道義を体得した人士。
[2].仏道を修める人。俗人に対し僧の称。
[3].道教を修める人。道人。
[4].方士。仙人。
※6-2:神仙/神僊(しんせん)は、この場合、神、又は仙人。神通力を得た仙人。「―譚」。
※6-3:神仙思想(しんせんしそう)は、中国古代の神秘思想。山東省の神山信仰に端を発する。即ち、東方の海上に蓬莱・方丈・瀛州の3神山、又遥か西方に崑崙山が在り、これらに不死の仙人や羽人が居るとされた。後にこれが理想的超人として仙薬の服用などに依り人間の成り得るものとされ、不老長寿の薬を求め煉丹術を生み、道教の元に成った。<出典:一部「学研新世紀ビジュアル百科辞典」より>
※7:緯書(いしょ)とは、経書に付託して禍福/吉凶/祥瑞/予言(讖(しん))を記した書物。経書に対して言う。詩緯/易緯/書緯/礼緯/楽緯/春秋緯/孝経緯(以上七緯と言う)など。孔子の作と言うが、前漢末の偽作。後、禁書と成り、今は佚文(=逸文)を伝えるのみ。←→経書。
※9:どんど焼/どんど/とんど焼/とんど(―やき)とは、小正月(1月15日)に村境などで行う火祭。門松/竹/注連縄などを集めて焚く。季語は新年。→左義長(さぎちょう)。
※9-1:左義長/三毬杖/三毬打(さぎちょう)とは、(元、毬打(ぎっちょう)を三つ立てたからと言う)小正月(1月15日)の火祭りの行事。宮中では正月15日と18日に吉書(きっしょ)を焼く儀式。清涼殿の東庭で、青竹を束ね立て、毬打3個を結び、これに扇子/短冊/吉書などを添え、謡い囃しつつ焼いた。民間では正月14日、又は15日(九州では6~7日)長い竹数本を円錐形などに組み立て、正月の門松/七五三飾(しめかざり)/書初めなどを持ち寄って焼く。その火で焼いた餅を食えば、年中の病を除くと言う。子供組などに依り今も行われる。どんど焼。道祖土焼(さいとやき)。ほっけんぎょう。ほちょじ。鬼火焚(おにびたき)。季語は新年。徒然草「―は、正月に打ちたる毬杖を真言院より神泉苑へ出して焼きあぐるなり」。
※9-2:毬杖/毬打(ぎっちょう/ぎちょう)とは、正月行事の童子の遊戯に使用する、毬(まり)を打つ長柄(ながえ)の槌。近世は彩色を施し、金銀泥を加えて正月の飾り物とする。又、その遊戯。季語は新年。平家物語5「大きなる―の玉をつくつて」。
※17:方違え(かたたがえ)/方違い(かたたがい)とは、陰陽道(おんみょうどう)の俗信の一。他出する時、天一神(なかがみ)の居るとされる方角に当る場合はこれを避けて、前夜、吉方(えほう)の家に1泊して方角を変えて行くこと。枕草子25「―に行きたるに、あるじせぬ所」。
※17-1:陰陽道(おんみょうどう)とは、古代中国の陰陽五行説に基づいて天文・暦数・卜筮・卜地などを扱う方術。大宝令に規定が在り、陰陽寮が置かれたが、次第に俗信化し、宮廷・公家の日常を物忌・方違えなどの禁忌で左右した。平安中期以後、賀茂・安倍の両氏が分掌。
※17-2:天一神(なかがみ/てんいちじん)とは、暦神の一。十二神将の主将、或いは地星の霊と言う。己酉の日に天から下って東北の隅に居ること6日、転じて正東に居ること5日と言う様に順次に南・西・北を巡り、四隅に居ることそれぞれ6日、四方に居ることそれぞれ5日、計44日で、癸巳の日に正北から天に上り、天上に居ること16日、己酉の日に再び地上に下る。この神の天に在る間を天一天上と言う。下って地上に居る方角を「塞(ふた)がり」と言って、この方角に向かって事をすることを忌み、その日他出する時は方違えをする。源氏物語帚木「こよひ―、内裏(うち)よりはふたがりて侍りけりと聞ゆ」。
※17-3:塞がり(ふたがり)とは、塞がること。「方(かた)―」。
※17-4:方塞がり(かたふたがり/かたふさがり)とは、陰陽道で、天一神(なかがみ)や大将軍などの居る方角を凶として忌むこと。後撰和歌集恋「―とて男の来ざりければ」。→方違え。
※17-5:物忌(ものいみ/ぶっき)とは、[1].或る期間、飲食・行為を慎み、身体を浄め、不浄を避けること。斎戒。神武紀「八十平瓮(やそのひらか)を造りて躬自(みずから)斎戒(ものいみ)して諸神を祭りたまふ」。
[2].不吉として、或る物事を忌むこと。縁起を担ぐこと。保元物語「武将の身として夢見―など余りにをめたり」。
[3].天一神(なかがみ)・太白神(ひとよめぐり)などの「塞(ふた)がり」を犯すのを忌んで、その日の過ぎる迄家に籠って慎むこと。源氏物語松風「今日は六日の御―明く日にて」。
[4].[3]の印(しるし)に、柳の木の札、又は忍草に「物忌」と書いて冠、又は簾(す)などに掛けたもの。物忌の札。枕草子33「烏帽子に―つけたるは」。
[5].明治維新前、伊勢神宮や鹿島/香取/賀茂/春日などの諸大社で神事に与(あずか)った童男/童女。祝詞、六月月次「神主部―等」。
※17-6:節分違え(せちぶんたがえ)とは、平安時代、節分に行なった方違(かたたが)え。枕草子298「―などして夜ふかく帰る、寒きこといとわりなく」。
※17-7:方忌(かたいみ/ほういみ)とは、陰陽道(おんみょうどう)で、方角の塞(ふさ)がって居るのを忌むこと。→方違え。
※17-8:除災(じょさい)とは、災禍を消除すること。「―招福」。
※19:大殿籠り(おおとのごもり)とは、貴人が御休みになること。
※19-1:大殿籠る(おおとのごもる)とは、〔自四〕貴人の寝ることを敬って言う語。御休みになる。伊勢物語「みこ、―らで明かし給うてけり」。
※20:節分(せつぶん/せちぶん)は、(「季節の分かれ目」の意)
[1].the day before the beginning of each season。季節の移り変る時、即ち立春/立夏/立秋/立冬の前日の称。
[2].the day before the calendrical beginning of spring。特に立春の前日の称。この日の夕暮、柊(ひいらぎ)の枝に鰯(いわし)の頭を刺したものを戸口に立て、鬼打豆(おにうちまめ)と称して炒った大豆を撒く習慣が在る。豆撒き。季語は冬。→追儺(ついな)。
※20-1:鬼打豆(おにうちまめ)とは、鬼遣(おにや)らいに撒く炒った大豆。
※20-2:追儺(ついな/なやらい)とは、宮中の年中行事の一。大晦日の夜、悪鬼を払い疫病を除く儀式。舎人(とねり)の鬼に扮装した者を、内裏の四門を巡って追い回す。大舎人長が方相氏(ほうそうし)の役を務め、黄金四つ目の仮面を被り、玄衣朱裳を着し、手に矛/楯を執った。これを大儺(たいな)と言い、紺の布衣に緋の抹額(まっこう)を着けて大儺に従って駆け回る童子を小儺(しょうな)と呼ぶ。殿上人は桃の弓、葦の矢で鬼を射る。古く中国(=道教)に始まり、日本には7世紀末、文武天皇の頃から伝わり、社寺・民間にも行われた。近世、民間では、節分の行事となる。鬼遣(おにや)らい。季語は冬。
※20-3:末額/抹額(まっこう/まっかく)とは、(マッコウはマッカクの音便)細纓(さいえい)の冠の縁に鉢巻に結んだ紅の絹布。下級の武官が公式の時や非常の際に頭に纏った。
※21:安倍晴明(あべのせいめい)は、平安中期の陰陽家(921~1005)。子孫は陰陽道を以て朝廷に仕え土御門家と称した。良く識神(しきがみ)を使い、有らゆることを未然に知ったと伝える。伝説が多い。著「占事略決」。
※22:風水(ふうすい)とは、[1].吹く風と流れる水。
[2].fortune-telling by wind and water。方位と山川/水流などの様子を考え合わせて、都城/住宅/墳墓の位置などを定める術。特に、中国や李朝朝鮮では墓地の選定などに重視され、現在も普及。風水術。風水説。
補足すると、風水は古代中国の道教的宇宙観に基づく方位観念で、都城・住宅・墳墓の位置などを定める術で、日本にも古くから伝わり平城京、平安京、江戸城下町などは皆風水理論に従って建設されて居ます。家康は江戸城を中心とした風水固めを天海に仰ぎ、例えば寛永寺は丑寅の鬼門封じ、日光東照宮は江戸の真北の玄武の守りを固めるものです。
※30:荒神(こうじん)とは、[1].三宝荒神の略。竈(かまど)の神。日本永代蔵2「掛鯛を六月まで―の前に置きけるは」。
[2].陰に居てそれぞれの人を保護すると信じられて居た神。東海道中膝栗毛3「わしにもハイ―さまがついてゐずに」。
[3].西日本で祀る屋敷神。同族祭祀のことが多い。
※30-1:三宝荒神(さんぼうこうじん)とは、この場合、仏・法・僧の三宝を守護するという神。宝冠を戴き三面六臂、怒りの相を示す。近世には、竈(かまど)の神として祀る。荒神。
※30-2:竈(かまど、kitchen range)は、この場合、(「ど」は場所を意味する語)土/石/煉瓦/鉄又はコンクリートなどで築き、その上に鍋・釜などを掛け、その下で火を焚き煮炊きする様にした設備。かま。くど/へっつい(竈)。万葉集5「―には火気(ほけ)ふき立てず」。
※30-3:竈の神(かまどのかみ/かまのかみ)とは、[1].竈を守護する神。奥津日子命(おきつひこのみこと)・奥津比売命(おきつひめのみこと)を祀る。後に仏説を混じて三宝荒神(さんぽうこうじん)、略して荒神(こうじん)とも言う。竈神(かま[ど]がみ)。狂、栗焼「我はこれ―」。
[2].妻の異称。
※30-4:[火之]迦具土神([ひの]かぐつちのかみ)は、記紀神話で、伊弉諾・伊弉冉2尊の子。火を司る神。誕生の際、母を焼死させた為、父に切り殺される。火産霊神(ほむすびのかみ)。
※30-7:竈祭(かま[ど]まつり)/竈の神祭(かま[ど]のかみまつり)とは、竈(かまど)の神の祭。朝廷では春秋に行い、民間では夏冬に行なったが、現代では年末に行うことが多い。
※30-8:竈祓(かま[ど]ばらい)とは、[1].毎月、晦日(みそか)に竈(かまど)を清める行事。巫女/僧などが行い、銭を貰った。荒神祓。かまじめ(竈注連/竈標)。季語は冬。
[2].竈祓の巫女で売春した者。転じて、淫売婦。
※31:「竈を起す」とは、家を繁栄させる。身代を築く。
※31-1:「竈を分ける」とは、分家する。
※31-2:「竈を破る」とは、破産する。身代を潰す。
※31-3:「竈賑(にぎわ)う」とは、暮らしが豊かに成る。家が富む。新古今和歌集賀「民の竈はにぎはひにけり」。
※31-4:「竈に媚(こ)ぶ」とは、[論語八佾]貴い奥向きの主人に媚びるよりは、地位は低くとも実務を握っている者に媚びる。
※31-5:「竈に跨がる」とは、(釜は金属で作り、竈は多く土/石で作るので、釜の方が貴いという意から)子が親に優る譬え。
※32:水分(みくまり)とは、(「水配(みくばり)」の意)山から流れ出る水が分れる所。祝詞、祈年祭「―に坐(ま)す皇神等(すめかみたち)の前に白(まお)さく」。→水分神(みくまりのかみ)。
※32-1:水分神(みくまりのかみ)とは、流水の分配を司る神。古事記上に速秋津日子/速秋津比売2神の子、天之水分神/国之水分神の2神が見え、吉野水分神社/宇太水分神社など各地の水源地に分祀される。「みこもり」と転じて、俗に子守神として信仰される。枕草子287「みこもりの神、またをかし」。
※40:地蔵(じぞう、Jizo, guardian deity of children)は、地蔵菩薩の略。
※40-1:地蔵菩薩(じぞうぼさつ、Jizo, guardian deity of children、Ksitigarbha[梵])は、釈尊の入滅後、弥勒仏の出生する迄の間、無仏の世界に住して六道の衆生を教化/救済するという菩薩。像は、胎蔵界曼荼羅地蔵院の主尊は菩薩形に表されるが、一般には比丘形で左手に宝珠、右手に錫杖(しゃくじょう)を持つ形が流布。中国では唐代、日本では平安時代より盛んに尊信される。子安地蔵/六地蔵/延命地蔵/勝軍地蔵なども在る。地蔵。地蔵尊。
※40-2:六道(ろくどう/りくどう)とは、この場合、〔仏〕衆生(しゅじょう)が善悪の業(ごう)に由って赴き住む六つの迷界。即ち、地獄/餓鬼/畜生/修羅/人間/天。六観音/六地蔵/六道銭/六道の辻はこれに由来する。六趣。
※40-3:地蔵盆(じぞうぼん)とは、京都で8月(古くは旧暦7月)23・24日の地蔵菩薩の縁日に行う会式(えしき)。各地にも、この日、児童が石地蔵に香花を供えて祀る風習が在る。地蔵会。
※41:癌(がん、cancer)は、[1].悪性腫瘍(しゅよう)の総称。
[2].特に、上皮性の悪性腫瘍。癌腫。「胃癌/乳癌」。
[3].比喩的に、機構・組織などで、取り除き難い難点。「金権は政治の―である」。
※41-1:肉腫(にくしゅ、sarcoma)とは、上皮組織以外の組織から発生する悪性腫瘍。筋肉/脈管/軟骨/骨/造血組織/神経などに発生し、速やかに発育し、又、転移する。
※41-2:転移(てんい、metastasis)とは、この場合、〔医〕癌腫/肉腫などが原発した部位から遠隔の場所へ移って新しい腫瘍を作ること。
※42:認知症(にんちしょう、dementia)とは、成人後期に病的な慢性の知能低下が起きる状態。所謂「呆け/物忘れ/徘徊」などの行動を起こす。主な原因は脳梗塞など脳血管系の病気とアルツハイマー病。元は痴呆症と呼んだ。
※42-1:アルツハイマー病(―びょう、Alzheimer's disease)とは、老年痴呆の一型。初老期に始まり、記銘力の減退、知能の低下、高等な感情の鈍麻、欲望の自制不全、気分の異常、被害妄想、関係妄想などが在って、やがて高度の痴呆に陥り、全身衰弱で死亡する。脳に広範な萎縮と特異な変性が見られる。ドイツの神経病学者アルツハイマー(A.Alzheimer、1864~1915)が初めて報告。
※42-2:痴呆/痴呆症(ちほう[しょう]、dementia)は、(senile dementia は老人性痴呆[症])一旦個人が獲得した知的精神的能力が失われて、元に戻らない状態。普通、感情面/意欲面の低下をも伴う。脳の腫瘍/炎症、中毒/血液循環障害などに由来。麻痺性痴呆[症]の類。加齢に因る事も有る(老人性痴呆[症])。
※44:船待ち(ふなまち)とは、船を待つこと。出船を待つこと。
※45:瘡(かさ/くさ)とは、[1].dermatosis, scab。皮膚病の総称。出来物(できもの)。今昔物語集29「身にあしき―の出でたりければ」。
[2].syphilis。梅毒の俗称。守貞漫稿「夜鷹の―にて思ひいづることあり」。
[3].eczema。湿疹。
[4].impetigo。胎毒。
<出典:一部「学研新世紀ビジュアル百科辞典」より>
※45-1:胎毒(たいどく、impetigo)とは、母胎内で受けた毒。小児の頭部/顔部などに起る種々の皮膚病はこの毒に因るとされたが、少数の先天性梅毒を除いては、体質又は細菌に因るものが多い。〈書言字考〉。
※45-2:梅毒/黴毒(ばいどく、syphilis)は、性病の一。トレポネーマ・パリズム(スピロヘータ)に因って起る慢性感染性疾患。患者の陰部/口腔粘膜から、又、先天的には母体から感染。第1期は病菌侵入部に初期硬結を、次いで無痛性横痃を生じ、第2期は全身に菌が分布して発疹を生じ、第3期は皮膚/内臓/筋肉/骨などにゴム腫を生じ、第4期は麻痺性痴呆症/脊髄癆(せきずいろう)などを起こす。コロンブスのアメリカ到達、シャルル8世のナポリ攻撃(1494~95年)以来欧州から世界に広がり、日本では1512年既に記載が在る。瘡(かさ)。唐瘡(とうがさ)。瘡毒(そうどく)。シフィリス。ルーエス。
※45-3:天然痘(てんねんとう、small-pox)は、法定伝染病の一。天然痘ウイルスが病原体で気道粘膜から感染。高熱を発し、悪寒・頭痛・腰痛を伴い、解熱後、主として顔面に発疹を生じ、後に痘痕(あばた)を残す。感染性が強く、死亡率も高いが、種痘に依って予防出来、1980年WHOに依り絶滅宣言が出された。疱瘡(ほうそう)。
※45-4:種痘(しゅとう、vaccination)は、痘苗(とうびょう)を人体に接種し、天然痘に対する免疫性を得させ、感染を予防する方法。1796年の牛痘種痘法はジェンナーの発明。植え疱瘡(ぼうそう)。
※45-5:疱瘡(ほうそう、small-pox)は、痘瘡(とうそう)、即ち天然痘の俗称。又は、種痘及びその痕のこと。痘瘡(いもがさ)。痘瘡(もがさ)。豌豆瘡(えんどうそう)。〈日葡辞書〉。島崎藤村、家「へえ、繁ちやんも種痘(ほうそ)がつきましたに、見て下さい」。
※45-6:痘瘡(もがさ、small-pox)とは、疱瘡(ほうそう)。天然痘。栄華物語本雫「今年は―といふ物起りぬべしとて」。日葡辞書「モガサヅラ」。
※45-7:癩病(らいびょう、lepra[ラ])は、ハンセン病に同じ。源平盛衰記44「身に―を受けて」。
※45-8:ハンセン病/ハンセン氏病(―びょう、Hansen's disease)は、(癩菌の発見者、ノルウェーのG.A.ハンセン(Hansen)、1841~1912に因む)癩菌に因って起る慢性の感染症。癩腫型と類結核型の2病型が在る。癩腫型癩は結節癩とも言い、顔面や四肢に褐色の結節(癩腫)を生じ、眉毛が抜けて頭毛も少なく成り、結節が崩れて特異な顔貌を呈する。皮膚の他、粘膜/神経をも侵す。類結核型は斑紋癩/神経癩とも言い、皮膚に赤色斑を生じ知覚麻痺を伴う。潜伏期は数年から20年。乳児期に感染を受け、数年以上を経てから発病することが多い。病変部、殊に鼻腔内潰瘍からの分泌物に癩菌が多い。主として家族内感染。遺伝病では無い。プロミンなど新薬の出現に依り完治が可能に成り、1996年に「らい予防法」は廃止された。癩病。癩。レプラ(lepra[ラ])。<出典:一部「学研新世紀ビジュアル百科辞典」より>
補足すると、日本で差別的な癩病を、1953年に全患協が「ハンセン氏病」に改め、更に1983年に「ハンセン病」に改めた。だが国民的に認知されたのは「らい予防法」が廃止された1996年。
※48:将軍標(しゅぐんひょう)は、朝鮮/韓国の魔除けの境界神で、天下大将軍と地下女将軍の1対を置く。元々は朝鮮半島で疾病除けに村落の境界に置いた。
補足すると、今は韓国の焼肉屋の前に置かれる。
※48-1:魔除け(まよけ、talisman to protect one from evil)は、悪魔を避ける為の物。お守り。護符。「―のお札」。
※50:針供養(はりくよう)は、2月8日又は12月8日に、針仕事を休み、折れた針を集めて豆腐や蒟蒻(こんにゃく)に刺して供養すること。各地に在る淡島神社に納めるなどする。季語は春、又は冬。
※51:淡嶋神社/淡島神社(あわしまじんじゃ)は、和歌山市加太に在り、祭神は少彦名神。延喜式内社の加太神社に比定される。各地に分祀。婦人病に霊験が有るとされる。又、神の名を針才天女とも伝え針供養(2月8日)が行われ、雛流し神事(3月3日)や人形供養が行われる。淡島(粟島)明神。淡島神(あわしまがみ)。
※51-1:婦人病(ふじんびょう、women's diseases, female disorders)とは、女性生殖器の疾患、及びその関連疾患の総称。月経異常、卵巣/子宮/外陰の疾患、更年期障害、ホルモン異常などを含む。
※51-2:淡島願人(あわしまがんにん)とは、元禄の頃(1688~1704)、淡島願人と称する大道芸人の一種が淡島様の小さな神棚を手にして、その功徳を説いて回り、殊に花柳界の女性の信仰を得た。これに依り淡島神の信仰は全国に広まった。淡島殿。<出典:一部「学研新世紀ビジュアル百科辞典」より>
※51-3:淡島物(あわしまもの)とは、淡島の信仰や淡島願人の風俗を取り入れた歌舞伎舞踊作品の総称。「粟島園生竹(そのうのたけ)」「関東小六後雛形(のちのひながた)」など。
※60:不忍池(しのばずのいけ)は、東京、上野公園の南西に在る池。1625年(寛永2)寛永寺建立の際、池に弁財天を祀ってから有名に成る。蓮の名所。今は東京都台東区に在り、面積0.15㎢、周囲約2km。<出典:一部「学研新世紀ビジュアル百科辞典」より>
※60-1:寛永寺(かんえいじ)は、東京都台東区上野公園に在る天台宗の寺。山号は東叡山。寛永2年(1625)天海が開山。歴代住持は法親王で、輪王寺門跡を称した。徳川将軍家の菩提所。
※62:河豚/鰒(ふぐ、globefish, puffer)は、この場合、(古くはフク)フグ目フグ科とその近縁の硬骨魚の総称。多くは体は肥り、背鰭(びれ)は小さく、腹鰭は無い。歯は板状で鋭い。攻撃されると、腹部を膨らますものが多い。肉食性。肉は淡泊で美味、冬が旬であるが、内臓などには毒を持つものが多い。マフグ/トラフグ/キタマクラ/ハコフグなど約50種が分布。肉はトラフグが最も美味で、刺し身/ちり鍋などにする。フグ毒の成分はテトロドトキシンで、中枢神経を麻痺させ死ぬことも在る。かとん(河豚)。ふくべ。ふくとう。ふくと。季語は冬。〈和名抄19〉。<出典:一部「学研新世紀ビジュアル百科辞典」より>
※62-1:鉄っちり(てっちり)とは、(「てつ」は河豚の異称で「てっぽう(鉄砲)」の下略)河豚(ふぐ)を用いたちり鍋。河豚ちり。主に関西で言う。
※62-2:鉄っさ(てっさ)とは、(「てつ」は河豚の異称で「てっぽう(鉄砲)」の下略)河豚(ふぐ)の刺身の異称。主に関西で言う。
※62-3:テトロドトキシン(tetrodotoxin)とは、フグ毒(属名テトロドン)の主成分。化学式C12H19N3O9。呼吸や感覚の麻痺を起こす。海生の微生物に由来し、フグの体内に蓄積される。卵巣や肝臓に多い。猛毒で致死量は体重1kgにつき10~6g。鎮静薬として神経痛の治療に用いることがある。或る種のカエルなどにも見出される。フグ毒。<出典:一部「学研新世紀ビジュアル百科辞典」より>
※62-4:「河豚食う無分別、河豚食わぬ無分別」は、河豚の毒の有るのを構わずに食うのは無分別であるが、中毒を恐れてその美味しさを味わわないのも無分別である。
※62-5:「河豚は食いたし命は惜しし」は、美味しい河豚料理は食いたいが、中毒の危険が有るので食うことを躊躇(ためら)う。転じて、遣りたい事が有るのに、危険が伴うので決行を躊躇う。
※65:太地(たいじ)は、和歌山県南東部、熊野灘に臨む漁港の町。日本の捕鯨発祥地として有名。
※72:雨乞い(あまごい、praying for rain)は、旱(ひでり)の時、降雨を神仏に祈ること。祈雨(きう)。季語は夏。天武紀下「是の月に、旱(ひでり)す。…―す」。
※72-1:蟇/蟾蜍(ひきがえる/ヒキガエル)は、カエルの一種(両生類カエル目)。体は肥大し、四肢は短い。背面は黄褐色、又は黒褐色、腹面は灰白色で、黒色の雲状紋が多い。皮膚、特に背面には多数の疣(いぼ)が有る。又、大きな耳腺を持ち、白い有毒粘液を分泌。動作は鈍く、夜出て、舌で昆虫を捕食。冬は土中で冬眠し、早春現れて、池や溝に寒天質で細長い紐状の卵塊を産み、再び土中に入って春眠、初夏に再び出て来る。日本各地に分布。ヒキ/ガマ/ガマガエル/イボガエル。季語は夏。色葉字類抄「蟾蜍、ヒキカヘル」。
※73:北大路魯山人(きたおおじろさんじん)で、陶芸家(1883~1959)。本名、房次郎。京都生れ。初め書/篆刻で名を成し、後に料理/食器の研究に当たる。北鎌倉に窯を築き多彩な陶磁器を製作。
※80:富士山(ふじさん、Mt. Fuji)は、(不二山/不尽山とも書く)静岡/山梨両県の境に聳える日本第1の高山。富士火山帯に在る典型的な円錐状成層火山で、美しい裾野を引き、頂上には直径約800m、深さ220m程の火口が在り、火口壁上では剣ヶ峰が最も高く3776m。古くから霊峰として崇拝され、文学/絵画/伝説などの題材とされて来た。江戸時代に信仰登山が盛んに成り、山麓に宿坊が作られた。明治以降はスポーツ登山の対象と成り登山者が増加。近年は自動車道の開通も在って行楽地として賑わう。史上度々噴火し、1707年(宝永4)爆裂して宝永山を南東中腹に造ってから静止。他にコニーデ型の大室山など70余りの寄生火山が在る他、丸尾(まるび)と呼ばれる新しい溶岩が在り、その中に風穴(ふうけつ)と呼ばれる溶岩トンネルが在る。北麓には溶岩でせき止められて出来た富士五湖が散在する。箱根/伊豆を含んで国立公園に指定。立山/白山と共に日本三霊山の一。芙蓉峰(ふようほう)。<出典:一部「学研新世紀ビジュアル百科辞典」より>
※80-1:休火山(きゅうかざん)は、元、永く噴火を休止している火山を言ったが、現在では使われない用語。殆ど活火山に含まれる。
※85:案山子/鹿驚(かかし/かがし/かがせ、scarecrow)は、(「嗅がし」の意)
[1].獣肉などを焼いて串に貫き、田畑に刺し、その臭を嗅がせて鳥獣を退散させたもの。焼串(やいぐし)。焼釣(やいづり)。
[2].竹や藁(わら)などで人の形を造り、田畑に立てて、鳥獣が寄るのを威し防ぐもの。鳥威し。山田の僧都(そうず)。季語は秋。日葡辞書「カガシ」。
[3].見掛けばかりもっともらしくて役に立たない人。見掛け倒し。虚仮威(こけおど)し。
※85-1:久延毘古/崩彦(くえびこ)とは、(「崩(く)え彦」の意と言う)古事記に見える神の名。今の案山子(かかし)の事と言う。
※85-2:案山子(そおど/そほど)とは、(ソホヅの古形)かかし。古事記上「くえびこは今に山田の―といふぞ」。
(以上、出典は主に広辞苑です)
【参考文献】
△1:『古事記』(倉野憲司校注、岩波文庫)。
△2:『歴史読本特別増刊・事典シリーズ 世界「宗教」総覧』(新人物往来社編・発行)。
△3:『日本の神様[読み解き]事典』(川口謙二編著、柏書房)。
△5:『日本書紀(一)』(坂本太郎・家永三郎・井上光貞・大野晋校注、岩波文庫)。
△7:『道教の神々』(窪徳忠著、講談社学術文庫)。
△12:「方違神社」公式サイト。
△14:『源氏物語(一)』(山岸徳平校注、岩波文庫)。
△14-1:『源氏物語(三)』(山岸徳平校注、岩波文庫)。
△15:『枕草子』(池田亀鑑校訂、岩波文庫)。
△16:『明月記抄』(今川文雄編訳、河出書房新社)。
△19:『最新 大阪ものしり事典』(創元社編・発行)。
△31:『万葉集(上)』(佐佐木信綱編、岩波文庫)。
△32:『別冊歴史読本 日本「神社」総覧』(新人物往来社編・発行)。
△35:『新訂増補國史大系 続日本紀(前編)』(國史大系編修會編、吉川弘文館)。
△37:『魯山人の料理王国』(北大路魯山人著、文化出版局)。
●関連リンク
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