-- 2004.08.03 エルニーニョ深沢(ElNino Fukazawa)
2004.08.10 改訂
私は以前、「東西三都物語」のおちゃらけ討論に於いて、何故かパッとせずに”埋没して居る埼玉県”を俎上に載せました。そしてこの”埋没感・陥没感”をダントツ(原意は「断然トップ」=ダン凸)の反対、つまり「ダントツに凹んで居る」という意味でダンボコ(=ダン凹)と呼び、「埼玉はつらい」状況を作り出して居るのは地元の良さが解らず、常に東京を向いている”埼玉都民”の東京コンプレックスに起因して居る、と分析しました。
ところでその「埼玉はつらい」状況 -誰も振り向いて呉れない埋没感・陥没感- は一体何時頃(When?)、何故に(Why?)形成されたのか?、というのが今回のテーマです。結論を先に言えば、私は埼玉県の田舎イメージ、埋没イメージを近代以降定着させて仕舞ったのには、田山花袋(※1)の小説『田舎教師』(△1)の影響が有るのでは?!、と前から思って居たのです。
明治40(1907)年に自伝的小説『蒲団』(△2)のラストシーンに於いて
「女のなつかしい油の匂ひと汗のにほひとが言ひも知らず時雄の胸をときめかした。夜着の襟の天鵞絨(ビロード)の際立って汚れて居るのに顔を押附けて、心のゆくばかりなつかしい女の匂ひを嗅いだ。」
という、主人公の中年男が「去りし女弟子の夜着と蒲団の匂いを嗅ぐ」という赤裸々な描写に依って”派手な(=刺激的な)”センセーションを巻き起こし、忽ち小説に於ける「自然主義」(※1-1)を確立した田山花袋は、その2年後の明治42(1909)年に『田舎教師』という実に”地味な(=日常的な)”写実小説を発表します。
実在したモデルの代用教員(※2)時代の日記を基に書かれたこの小説の内容を一口で言えば、理想を抱き乍らも貧しさ故に小学校教師に成った青年が、志半ばでひっそりと田舎の片隅に埋没して行く、というものです。
小説『田舎教師』こそ筋立てが埋没悲劇であり、その舞台が埼玉県という訳です。つまり
When? : 明治42(1909)年以降
Why? : 小説『田舎教師』
で「埼玉と埋没」が結合したという私の仮説です。
私は04年7月17、18日にこの『田舎教師』の舞台及び舞台裏を訪ねました。このページでは、埼玉人の深層心理に迫る私の仮説の検証を試みたいと思います。
「四里の道は長かった。その間に青縞の市の立つ羽生の町があった。田圃にはげんげが咲き、豪家の垣からは八重桜が散りこぼれた。赤い蹴出(けだし)を出した田舎の姐さんがおりおり通った。」
という書き出しで始まる『田舎教師』。「青縞」とは藍染め糸で織った縞木綿のことでこの地方の地場産業、「げんげ」とはれんげ草のことです。そして「羽生の町」、これが小説の主な舞台で現在の埼玉県羽生市です。広辞苑に拠ると
羽生は埼玉県北東部の市。室町末期、木戸氏の城下町。江戸時代には町場と称し、特産の木綿青縞(あおじま)を取引する市場町として発展。衣料品工業が盛ん。人口5万6千。
こうして小説『田舎教師』は主人公・林清三が旧制中学を卒業後、明治34年に羽生の小学校の代用教員として採用され、明治37年に病を得て死ぬ迄の約3年半の生活を描いて居ます。そこでこの小説の内容を少し詳しく、”文学散歩”気分で追って行くことにしましょう。
(-_*)
(1)教師に成って1年目 - 明治34(1901)年


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先ずは左端が東武伊勢崎線及び秩父鉄道が合流する羽生駅前のロータリーです。駅舎は04年7月現在工事中。
そして町中の電柱には、出ました!、「羽生名物 田舎教師最中」なる広告が。如何にも”田舎臭い”ですね。
又、通りには小説に出て来る半鐘台も在りました(右の写真)。
小説は
「清三の前には、新しい生活がひろげられていた。どんな生活でも新しい生活には意味があり希望があるように思われる。」
と続き、主人公・清三は無垢な若者らしく、代用教員という”中途半端な職”に希望を抱き乍ら実家の在る行田から赴任先の三田ヶ谷村弥勒高等小学校に遣って来たのです。
そもそも清三が小学校教師に成った訳は、熊谷中学を卒業し宛ても無くフラフラして居たのを、やはり行田から熊谷に共に通った親友の加藤郁治の父親が郡視学(※3) -今の教育委員会のエライはん- をして居た関係から、その口利きで明治34年4月に月給11円で小学校の代用教員の口が与えられたのでした。
この頃の清三には秘めたる想いが有り、加藤郁治と同じ一人の女性(旧忍藩の士族の娘で浦和の女学生「Artの君」こと北川美穂子)を慕う恋の葛藤に悩んで居ました、いやあ青春ですね!、彼等は良く美穂子の家で藩主所縁の桑名訛りが有る母親に読んで貰い歌留多取りをして居ます。
作中には当時の三田ヶ谷村や弥勒周辺の様子や人々の人情が次の様に描写されて居ます。
「三田ヶ谷村といっても、一ところに人家が固っている訳ではなかった。其処に一軒、彼処に一軒、杉の森の陰に三、四軒、野の畠の向うに一軒という風で、...」
「清三の教える室の窓からは、羽生から大越に通う街道が見えた。...<>...田舎娘が赤い蹴出(けだし)を出して、メリンスの帯の後姿を見せて番傘をさして通って行く。」
この街道とは現在の羽生外野栗橋線でしょう。又、当時の青縞織りについて、羽生から弥勒に通う途中の井泉村(いずみむら)の様子として
「青縞を織る音が処々に聞える。チャンカラチャンカラと忙しそうな調子が絶えず響いてくる。」
と書かれて居ます。

弥勒という地名は今でも残って居て羽生駅から東へ6km程の所に位置し、現在の羽生市大字弥勒です。その寂しさは今でも然程変化は無く、弥勒野一帯には左の写真の様な田圃が所々に広がって居て大変長閑です。
現在の羽生市大字三田ヶ谷には三田ヶ谷小学校が在りますがこれは別物で、当時の三田ヶ谷村弥勒高等小学校は今は無く、代わりに等身大の田舎教師の像(右の写真)と「弥勒高等小学校跡」の説明板(左下の写真)と「弥勒高等小学校址」の石碑が立って居るばかりです(右下の写真)。石碑には小説中最も有名な一節(後出)の「絶望と悲哀と寂寞とに堪え得られるようなまことなる生活を送れ。運命に従うものを勇者といふ。」が刻まれて居ます。
又、説明板に拠ると田舎教師・清三は「羽生の啄木」なんだそうですが、幾ら同年代で貧しく、同じく代用教員を勤め文学や詩歌に傾倒したからと言っても、これは”田舎臭い”比較ですね。


弥勒の田圃の中には当時「そば切りうどん 小川屋」という料理屋が在り、そこの娘・お種は実在した人で学校の宿直室に泊まることが多かった清三に、弁当を運ぶなどして多く接して居ました。小説中では
「娘は莞爾(にこにこ)と笑って見せた。評判な美しさというほどでもないが、眉の処に人に好かれるように艶(えん)な処があって、豊かな肉づきが頬にも腕にも露わに見えた。」
と描写されて居ます。「田舎教師の像」から100m位西の円照寺には「お種さんの資料館」が在りますが、「お種さんの資料館」と円照寺は後で紹介しましょう。
さて主人公・清三の容貌はと言うと、赴任当初から傍目にも
「顔の蒼白い、鼻の高い、眉と眉との間の遠い...<中略>...弱々しい人」
と映る様な人として描かれて居ます。「鼻の高い」のが理想を追う空想型人間を、「眉と眉との間の遠い」のが生命力の弱さを表して居るのかも知れません、
清三は赴任当初は弥勒の小学校の宿直室に泊まり、週末に成ると行田の実家に歩いて帰り、給料の一部を裁縫の内職で一家を支える母親に渡して居ました。羽生から行田の実家辺りは
「羽生の町はさびしかった。時々番傘や蛇の目傘が通るばかり、庇の長く出た広い通は森閑としている。...<中略>...町の四辻には半鐘台が高く立った。そこから行田道は岐れている。...<中略>...家は行田町の大通から、昔の城址の方に行く横丁にあった。角に柳の湯という湯屋があって、...」
と書かれて居ます。
「昔の城址」とは忍城跡のことです。この忍城の外堀部分が中国江南水郷式庭園を模して1964年に開園した水城公園(行田市水城公園、左下の写真)で、公園内には「田山花袋作田舎教師」の石碑(右下の写真)が立って居ます。当然碑にはこの行田の描写部分が刻まれて居る、と思いきや否、「弥勒高等小学校址」の石碑と同じ文句が刻まれて居て、残念でした。こういう所がダサイ(※4)ですね!!


行田には清三にとって悲しい思い出が有ります、弟・政一を行田で失って居るからです。
「弟は一昨年の春十五歳で死んだ。その病は長かった。次第に痩せ衰えて顔は日に日に青白くなった。医師は診断書に肺結核と書いたが、父母はそんな病気が家の血統にある訳がないと言って、その医師の診断書を信じなかった。」
私には弟の死因と清三の死因とが無関係とは思われません。
やがて清三の略歴が語られます。記述を要約すると、清三は足利(あしかが)の裕福な呉服屋に生まれましたが、骨董に手を出したお人好しの父親がしくじって没落、明治26年8歳で熊谷に引っ越し、明治33年15歳(中学2年)の時に行田に夜逃げして惨めな生活を強いられ、以後3年間行田から熊谷の中学に歩いて通います。但し、この年齢について作者は「数え年」(※5)で記して居るので、「満年齢」よりは2歳位高く成って居ますので注意して下さい。
熊谷の町も次の様に語られて居ます。
「行田町から熊谷町まで二里半、その路は綺麗な豊富な水で満された用水の縁(ふち)に沿って駛(はし)った。一田圃ごとに村があり、一村ごとに田圃が開けるという風で、夏の日には家の前の広場で麦を打っている百姓家や、南瓜(とうなす)の見事に熟している畑や、豪農の白壁の土蔵などが続いた。...<中略>...熊谷は行田とは比較にならぬほど賑かな町であった。家並も整っているし、富豪も多いし、人口は一万以上もあり、中学校、農学校、裁判所、税務管理局なども置かれた。...<中略>...町は清三にとって第二の故郷である。」
小学校に勤め出して間も無く、清三は弥勒の小学校を取り巻く環境を見て、段々と埋没して行く自分を既に予感した様で
「熊谷から行田、行田から羽生、羽生から弥勒と段々活気がなくなって行くような気がして、帰りはいつもさびしい思に包まれながらその長い街道を歩いた。...<中略>...かれは今の境遇を考えて、理想が現実に触れて次第に崩れて行く一種のさびしさと侘しさとを痛切に感じた。」
と書かれて居ます。
一方その頃中学時代の文学仲間・石川機山が『行田文学』という同人誌を発行する事に成り、清三は新体詩(※6)や小説で知られて居る羽生の成願寺(じょうがんじ)の住職・山形古城を、同じく熊谷中学の同窓で今は羽生の郵便局員・荻生秀之助の紹介で、同人誌の名誉会員を依頼しに訪ねます。これが清三と山形古城との最初の出会いでした。花袋は清三に
「兼ねて聞いていたよりも風采の揚らぬ人だとかれは思った。」
と言わしめて居ますが、同時に古城の
「成功不成功は人格の上に何の価値もない。人は多くそうした標準で価値をつけるが、私はそういう標準よりも理想や趣味の標準で価値をつけるのが本当だと思う。乞食にも立派な人格があるかも知れぬ」
という意味の言葉に感化され、これが切っ掛けで清三は6月1日から成願寺に間借りする事に成り、やがて『田舎教師』が世に出る切っ掛けにも成ります。
『行田文学』はその後、当の石川が加須へ芸者通いを始めやがて家業の青縞商を継いで仕舞い、4号で廃刊して仕舞いますが、成願寺で文学趣味の山形古城から文学や新体詩や人生について教えを受けたり、伊勢や京都の話を聞いたり、本を借りて読んだりします。当時の清三は島崎藤村や国木田独歩や明星派の与謝野鉄幹などに傾倒して居た様です。
成願寺ではその頃、当時の農村が何処でもそうだった様に、養蚕の内職をして居て
「蚕の上簇(あが)りかける頃になると、町は俄かに活気を帯びて来る。平生は火の消えたように静かな裏通にも、繭(まゆ)買入所などというヒラヒラした紙が張られて、近在から売りに来る人が多く集った...<中略>...料理店では三味線の音が昼から聞えた。」
と羽生の町の一時的な賑わいが描かれて居ます。そんな或る日曜日にガラガラと車を乗り付けて
「白い羅紗の背広にイタリヤンストロウの夏帽子を被った太った男」
という原杏花(きょうか)なる作家が東京から雑誌記者を連れて訪れ、昼から酒を飲み本堂の木魚を叩いたりしてドンチャン騒ぎをして帰るシーンが描かれますが、これが田山花袋自身です。こうして花袋も清三の存在を知るのです。
そして或る夏の日の情景として
「夕方知らずして、主の坊がWifeと共に湯の小さきに親しみて(?)入れるを見て、突然のことに気の毒にもまた面食はされつ」
と、住職夫妻が一緒に行水して居る所を見て仕舞った件も滑稽に書かれて居ます。尚、この『田舎教師』の中で所々散見されますが、或る語をわざと外来語(英語やドイツ語)に置き換えて語る語法は、当時の学生間の流行りでした。
成願寺のモデルに成った寺は現在の羽生駅の直ぐ近くに在りますが、ここは最後にご紹介します。
清三は恋の葛藤から次第に、恋のライバルである加藤郁治が住む行田方面に行くのを避ける様に成り、秋風が吹き出すと段々と音楽や写生や植物採集に逃避して行きました。
「この頃は学校でオルガンに新曲を合わせて見ることに興味を持って、琴の「六段」や長唄の「賤機(しずはた)」などを遣って見ることがある。鉄幹の「残照」は変ロ調の4/4でよく調子に合った。遅くまでかかって熱心に唱歌の楽譜を浄写した。」
この年の晦には行田の旧友に会っても以前の様には心は晴れませんでした。郁治は次の年に東京高等師範(東京教育大学を経て筑波大学の前身)に進学します。
(2)教師に成って2年目 - 明治35(1902)年
「旧暦で正月をするのがこの近在の慣習なので、町はいつもに変らずしんとして、...<中略>...重立った富豪(かねもち)などの注連飾が唯目にたった。」
と書かれて居る明治35年正月の日記には
「ああさても好んでしかも詩人となり得ず、さらばとて俗物となり得ず。」
と、恋の葛藤と文学志向に揺れる気持ちを書いて居ます。この頃から病魔に因る体の倦怠感が現れ、羽生と弥勒の1里半の道を往復するのが億劫に成り、段々と学校の宿直室に泊まることが多く成って、遂に明治35年の2月半ばに寺を出て学校の宿直室を正式な寝座(ねぐら)にしますが、成願寺間借り時代(明治34年6月1日~翌年2月半ば)の清三は、教師に成ってから最も心身共に安定し充実して居た様に思えます。
2月末には
「鄙(ひな)はさびしきこの里に
さきて出でにし白梅や
一枝いだきて唯一人
低くしらぶる春の歌」
という詩に「都を知らぬ鄙少女」という題を署して美穂子に送ろうと思ったりもしました、清三は恋に悩んで居たのです。
彼は田植唄が野に聞える頃からは益々、実家や友人たちの居る行田とは反対方向の利根川方面に次第に足が向く様に成り、時には生徒たちを連れて写生や植物採集に出掛けるて行きます。利根川寄りの村の風景は
「発戸には機屋(はたや)が沢山あった。...<中略>...機屋の周囲には、賃機(ちんばた)を織る音が盛にした。あたりの村落のしんとしているのに引かえて、此処には活気が充ちていた。金持も多かった。他郷から入って来た若い男女も随分あった。発戸は風儀の悪い村と近所から言われている。」
「田舎は存外猥褻で隠微で不潔であるということも解って来た。」
などと描かれて居て、羽生の農村も当時の日本の農村経済の縮図であったことが窺えます。

作中には利根川の草花の名前が列挙された箇所も在りますが、ここで現在の利根川風景をご紹介しましょう。
弥勒を北に進んだ辺りの利根川河川敷には羽生スカイスポーツ公園(羽生市大字堤)が在り、右の写真は上空を旋回して居た両翼6m位のグライダーが河川敷に滑空して来て着陸した瞬間です。発戸の河川敷はもっと西、利根川橋の上流に在ります。
土手は「利根サイクリングロード」に成って居て、利根川沿いを自転車で走ることが出来ます。
秋に成ると清三は人生に嫌気が差したのか、突然日記を中断します。小説では、清三はその頃から渡良瀬川の渡船で古河近傍の中田の遊郭へ通い、退廃的生活に入って行きます。但し、この遊郭へ通う部分は日記の空白期間を埋める為の作者の創作で、如何にも『蒲団』の作者らしい連想と言えます。
(3)教師に成って3年目 - 明治36(1903)年
翌明治36年も放蕩生活を続けますが、春に成って馴染みの相手が身請けされ挫折します。そして9月に清三の最後の希望を成就する為上野の音楽学校(東京芸術大学の前身)を受験する為上京しますが
「清三は田舎の小学校の小さなオルガンで学んだ研究が、何の役にも立たなかったことをやがて知った。」
のです。
(>_<)
夢破れて清三は幾分吹っ切れたのでしょうか、11月15日にほぼ1年振りに日記を再開します。その出出しは
「絶望と悲哀と寂寞とに堪え得られるようなまことなる生活を送れ。...<中略>...運命に従うものを勇者という。」
という、この小説中最も有名な苦悶の叫びで始まって居ます。そして
「過去は死したる過去として葬らしめよ。われをしてわが日々のライフの友たる少年と少女とを愛せしめよ。生活の資本は健康と金銭とを要す。われをして清き生活を営ましめよ。」
と続きます。これは清三が夢を捨て現実に立脚した清貧な生活に戻る宣言でもあります。しかし「生活の資本」の一部である健康は益々悪化し
「この頃はよく風邪を惹いた。散歩したとては、咳嗽(せき)が出たり、湯に入ったとては熱が出たりした。」
と言った状態でした。年の暮れは行田の実家で部屋に籠もって寝て送って居ます。
(4)教師に成って4年目 - 明治37(1904)年
母思いの清三は明治37年元旦の日記には
「新年(にいどし)を床の青磁の花瓶(はながめ)に 母が好みの蔓梅もどき」
という歌を記しますが、又1月8日には
「健康を得たし、健康を得たし、健康を得たし。」
と悲痛に連呼して、再び小学校に戻って行きます。そんな中で2月に日露戦争が開戦し、国中が忠君愛国に沸く状況や原杏花(=花袋自身)が従軍したことも記して居ます。しかし清三はこの頃から寝汗を掻く様に成り、羽生の医者に通い始めましたが胃腸が悪いと誤診され、春休みに旧友と会った時には血色の悪い顔を皆から心配されて居ます。
めっきり衰弱した清三の体を心配した母親の提案で、6月の農繁休暇を利用して一家は行田から羽生に転居し、清三も宿直室を出て親子3人で一緒に生活することに成りました。実家を引き払うに際し清三は行田に在る弟の墓参りをしますが
「清三は最後に弟の墓を訪(と)うた。祖父の墓は足利にある。祖母の墓は熊谷にある。こうして、ところどころに墓を残して行く一家族の漂泊的生活をかれは考えて暗然とした。」
と語られる部分は印象的です。

羽生への引っ越しを契機に衰弱が進んで来た清三は頻りと弥勒から羽生への転任を願い出ましたが直ぐには叶いませんでした。こうして羽生での束の間の親子3人の生活が始まりますが、清三にとっては遅過ぎた様です。
しかし体調の良い日は夕涼みなどを楽しみ、羽生の町中を東西方向に流れる葛西用水の夕涼みの様子が次の様に描写されて居ます。
「用水の橋の上は涼しかった。納涼に出た人がぞろぞろ通る。...<中略>...この頃は水が一杯に漲り流れて、それに月の光や、橋の傍に店を出している氷屋の提灯の灯影がチラチラと映る。流れる水の影が淡く暗く見える。向うの料理店からは、三絃(しゃみせん)の音が聞えた。」
葛西用水は今では健康的に舗装された桜並木に成り(右上の写真)、私の好きな昔の隠微な面影は有りません。
この頃から咳が絶えず出、体が益々だるく成り熱が毎日出る様に成りましたが、羽生の医者は未だ胃腸だと言いました。しかしもうこの頃は素人眼にも肺病の兆候が濃厚で、容態は悪く成るばかりです。
清三は滋養物を摂る為に鯉、鰻、牛肉、鶏肉、鶏卵、更にはゴイサギ迄食べ、祈祷をしたり不動ヶ岡不動尊の御符を貰ったりしましたが何の効果も霊験も無く、その内に脚部大腿部に腫気(すいき)が出て動くのも大変に成ったので、秋風が立つ頃漸く父親と面倒見の良い荻生さんに伴なわれて、評判の良いという行田の医師に診て貰い、初めて肺病と診察されましたが同時に「手遅れ」とも宣告されます。
やがて日本軍遼陽占領が報じられ、花電車が通り「万歳」の歓声の中で
「その花々しい国民の一員と生れて来て、その名誉ある戦争に加わることも出来ず、その万分の一を国に報ゆることも出来ず、その喜悦(よろこび)の情を人並に万歳の声に顕わすことすらも出来ずに、こうした不運(ふしあわせ)な病の床に横って、国民の歓呼の声を余所に聞いていると思った時、清三の眼には涙が溢れた。」
という無念の思いが語られます。
そして明治37(1904)年9月22日、日本中が日露戦争で遼陽占領の報に沸き返って居た最中に、一家3人が羽生の一つ屋根の家に暮らし始めてから僅か3ヶ月で、田舎教師に成ってから3年半で、満21歳という若さで、遂に清三は無念の裡に誰にも惜しまれずに、ひっそりと息を引き取りました。病名は肺病、彼の弟も肺結核で先立って居ます。
そして小説の最後の一節は
「秋の末になると、いつも赤城おろしが吹渡って、寺の裏の森は潮(うしお)のように鳴った。その森の傍を足利まで連絡した東武鉄道の汽車が朝に夕に凄じい響を立てて通った。」
と結ばれて居ます。
こうして田舎教師は埼玉の片田舎に”埋没”したのですが、実はこの頃、東武鉄道も”埋没”寸前 -【脚注】※7の東武鉄道の沿革をご覧下さい- でした。

何という皮肉でしょうか?!、清三が亡くなった後に東武鉄道は羽生と足利を結びましたが、足利こそは清三の生まれ故郷なのです。
その後、小説中で清三が幾度も歩いて通った、熊谷~行田~羽生間もやがて秩父鉄道で結ばれます(※8)。右の写真は熊谷から行田駅に入って来る羽生行きの秩父鉄道の電車です。冬にはこの地方の名物・赤城颪(おろし)の冷たい風がヒューヒューと駅を吹き抜けて行きます。
運命に従う勇者に合掌!
(-_-)
_A_
(1)作中人物と実在モデルの関係
冒頭の副題で私は「このページを埼玉人に呈す」と書きましたが、実は『田舎教師』を開くと最初のページに次の一文が記して在ります(△1)。
「この書を太田玉茗氏に呈す」
つまり「はじめに」の章の「このページを埼玉人に呈す」は、これのパロディーだったのです。
そしてこの小説には幾人かの「実在のモデル」が存在し「作中人物」との関係は
<作中人物> <実在のモデル>
成願寺の住職 山形古城 太田玉茗(建福寺の住職、本名は三村玄鋼)
花袋と同年の親友、妹りさは花袋夫人
主人公 林清三 小林秀三(建福寺に間借り、同寺に墓)
熊谷中学の親友 加藤郁治 狩野益三(東京高等師範に進学、恋のライバル)
熊谷中学の友人 石川機山 石島薇山(『行田文学』主宰、青縞商)
熊谷中学の友人 荻生秀之助 萩原喜三郎(羽生町の郵便局員、秀三を助ける)
小川屋の娘 お種 小川ネン(弥勒で秀三に弁当などを運ぶ)
作家 原杏花 田山花袋自身
と成って居ます。そこで玉茗の略歴と花袋との関係について次に述べましょう。
(2)太田玉茗と花袋
太田玉茗は花袋と同年の明治4(1871)年の7月、旧武州忍藩の伊藤重敏の次男として行田市で生まれます、幼名は蔵三。11歳の時に建福寺に預けられ三村玄綱に改名(三村は母方の姓)、やがて住職の養子と成り曹洞宗大学林(駒沢大学の前身)で仏教や禅を修めた後、文学を学ぶ為に東京専門学校(早稲田大学の前身)の文学科に進み明治27年に卒業、島村抱月、後藤宙外らと同期です。そして卒業後2年間は三重県の「伊勢の一身田(いしんでん)の専修寺の中学」で英語教師を勤め、上京後は新体詩や小説や翻訳で活躍、明治30(1897)年には花袋、国木田独歩、柳田国男らと詩集『抒情詩』を出したりしましたが、明治32(1899)年5月に建福寺の住職を継ぎ27歳で羽生に引き籠もります。
同年で共に下級士族の出で趣味も合い、単に妹が花袋に嫁ぎ義理の兄弟、という以上に花袋とは因縁浅からぬものが有り、その極め付きが『蒲団』の女弟子のモデルが学生との間に為した子 -この事実は小説には書かれて居ません- を花袋の頼みで寺に引き取り”恋の不始末の後始末”をした事で、玉茗の人柄が偲ばれます。玉茗は再び中央に戻ること無く昭和2(1927)年に56歳で没し、その3年後に花袋も没します。
(3)『田舎教師』誕生の切っ掛け
花袋は明治37(1904)年3月から日露戦争の私設写真班の一員として博文館から派遣されて従軍しましたが、病を得て9月に帰国。そしてふと建福寺に玉茗を訪ね、墓地で「小林秀三之墓」という墓標を目にしたのが、この小説の発端なのです。何故なら小林秀三なる青年はその1、2年前に建福寺に間借りして居たことを覚えていたからです。この時花袋は、「志を抱き乍ら空しく田舎に埋もれて行く青年の一生」を書いてみようと思い立ったのでした。幸いに秀三の日記が中学生時代と小学校教師時代と死ぬ年の1年分とが玉茗の手許に在ったので、それを基に旧友たちに取材し羽生や弥勒を実地に歩いて、5年の歳月を懸けて明治42(1909)年10月25日に佐久良書房から『田舎教師』の初版が刊行されました。
生命力の弱い人間の埋没せざるを得ない一生、というテーマは『田舎教師』の前年に発表された『一兵卒』(△2)でも追究されて居て、日露戦争の満州行軍中に脚気衝心に陥り死んで行く”取るに足りない”人間を描き、主人公に
「何うせ遁れられぬ穴だ。思ひ切りよく死ぬサ。」
と言わしめて居ます。そう、埋没とは正に「”穴”に埋もれて行く」ことです。片や田舎、片や外国の荒野ですが、何れも砂地に零された水の如く、誰にも称えられず儚く消えて行く人生を描いて居ます。そこには日露戦争の従軍記者として荒野を歩き病を得て危うく埋没し掛かった花袋自身の体験が反映されて居るのかも知れません。
(4)円照寺
前述の「田舎教師の像」近くの真言宗豊山派・円照寺(羽生市弥勒1536)には「お種さんの資料館」が在ります。先ずは下の写真をお読み下さい。

上の写真は境内の入口に在る「円照寺とお種さんの墓」の由緒書で、寺やお種さんや「小川屋」の概略が記して在ります。それに拠れば、弥勒という地名はこの円照寺の弥勒菩薩に由来して居るそうですが、左下がその弥勒菩薩を安置して在る弥勒堂です。



そして中央上が「お種さんの資料館」の立て札で、立て札の手前右に資料館入口が在ります。昭和56(1981)年に羽生市の後援で建てられた資料館には田舎教師・小林秀三、「お種さん」こと小川ネンと「小川屋」、青縞と藍染め、などの貴重な資料が常設展示され、羽生紹介パンフレット(△3)も置いて在ります。
右上が明治34年4月、熊谷中学校卒業時の「林清三」こと小林秀三の姿です。花袋が描写した様な「顔の蒼白い、鼻の高い、眉と眉との間の遠い」顔に見えますか?!

左が地場特産の青縞で仕立てた印半纏(しるしばんてん、つまりハッピのこと)です。羽生の藍染めは天明年間(1781~88)に始まったそうです(△3)。
右が小川ネンさんの顔で、可なり歳取ってからのものです。この資料館に在る「小川ネン(お種さん)についての年表」に拠ると彼女は明治9(1876)年新潟県で生まれ12歳の時に一家で弥勒に転居し2年後に「小川屋」開業、15歳で嫁ぎますが16歳で離婚して戻り「小川屋」を手伝います。
そして明治34(1901)年、彼女が25歳の時に田舎教師・小林秀三が弥勒高等小学校に着任し、昭和37(1962)年埼玉県浦和市の老人福祉施設「尚和園」にて86歳で他界しました、当時としては長寿です。その後、昭和48(1973)年この円照寺境内に墓が建立されました。
(5)建福寺
羽生駅前の大通を少し進むと小説『田舎教師』を生む切っ掛けと成った曹洞宗(※9)の建福寺(羽生市南1-3-21)が在ります、先ずは境内に入ってみましょう。
左下が現在の本堂で中々立派です、右手前に我が国の曹洞宗の開祖・道元像(※9-1)が見えて居ます。


境内には詩・小説・翻訳などの才人であった玉茗の「宇之が舟」詩碑(右上の写真)が在り
見わたす限り秋の野は 千くさの花となりにけり...
と刻まれて居ます。『宇之が舟』は玉茗が在学中の明治26(1893)年に発表した詩です。墓地には勿論玉茗の墓も在ります。
更に境内を見渡すと前田晁氏の解説(△1)にも記されて居る様に「田舎教師墓入口」と刻まれた標石が在りますので、そこを一番奥迄進むと田舎教師・小林秀三の墓所が在り、羽生市教育委員の説明板が立って居ます。


左が「故小林秀三君之墓」と刻まれた墓石(狩野徳次郎・筆、市指定文化財)で可なり大きなものです。狩野徳次郎こそ小説中の加藤郁治こと狩野益三の父で、秀三に代用教員の口を与えた人です。
右が墓石近くに在る「田舎教師」の石碑(小杉放菴・筆、※10)です。
又ここには小説の有名な一節(前出)の「運命に従ふものを勇者といふ」が刻まれた小さな石碑も在ります。

以上の様な経緯で、以後ここには所謂”純文学”派の作家やファンが数多く訪れることに成ります。
右が境内に在る川端康成・片岡鉄兵・横光利一の田舎教師巡礼句碑です。
山門に木瓜(ぼけ) 吹きあるる
羽生かな
と刻まれて居ますが、錚々たる文人の句にしては取って付けた様な御粗末な句ですね、屹度羽生を訪れた宴会の席で酒の余興に捻り出したものでしょう。
尚、断って置きますが私は決して”純文学”派でもアンチ”純文学”派でもありませんゾ、念の為!
以上を”文学散歩”して来た所で、冒頭に掲げた私の仮説の有効性について考えてみましょう。先ずハッキリして居ることは、埼玉の埋没感が明治42(1909)年以降の小説『田舎教師』に100%起因する、とは決して言えないということです。言い換えると「私の仮説の有効性は100%では無い」ということです。
それでは「埼玉の埋没感の何%位が明治42(1909)年以降の小説『田舎教師』に因るものか?」というのが次の命題に成って来ます。そこでこの”When?”と”Why?”を別個に分けて考えてみることにします、つまり分析的に考察して行きます。
(1)埼玉の埋没感は何時頃発生したのか(When?)
何時からか?、という問いに対して私は少なくとも明治の廃藩置県以降だ、と考えます。そもそも埋没感とは、「自分たちの共同体を”かっこ悪い”と感じて仕舞う」ことに第一歩が有ります。従って原始社会の様に皆が狩猟や農業をして居た時代には発生しなかったのです。或る地域的共同体の住民に”かっこ好い”、”かっこ悪い”という概念が発生するのは都市の発生に始まります。
奈良時代や平安時代の地方の人々は偶に見る都人(みやこびと)を”かっこ好い”と感じましたが、だからと言って自分たちを特別に”かっこ悪い”とは感じては居ませんでした。都人が去って仕舞えば自分たちは皆一様に「田舎っぺ」だからです。そういう意味で埼玉人の中に”かっこ悪い”概念が生まれたのは都が身近な所に移って来た江戸時代以降で且つ東北や日光方面の街道が整備され埼玉地方(=武蔵国)の中に宿場町などを中心に地方都市が出現し整備された時、即ち江戸中期頃です。この頃の埼玉の農民(=百姓)は江戸や埼玉の商人に対して”かっこ悪い”と感じていた部分は有ったでしょうが、しかしこの時代は「士農工商」で農民は建て前的には都会人より重きを置かれて居た時代ですから、それも大したものでは無かったと思えます。しかも藩政で領民は各藩に半ば囲われて居た時代ですから、埼玉の農民が江戸の農民に対し”かっこ悪い”とは全く感じて居ませんし、これは商人でも同じです。そもそも他藩の領民と比較などしなかったのです。
そういう意味で廃藩置県以後の大日本帝国が富国強兵を目的として「工業と標準語」を中央集権的に推進し、中央が”国策”で地方の農村基盤を押し潰して行って帝都・東京に本社を置く大企業が”新たな城”として登場し、しかも”新たな城の都会人”が常に新聞に登場し都から”去る”ことが無くなった時、が「田舎っぺ」が常時”かっこ悪い”意識を持つ転回点と成りました。言い換えると新聞というマスメディアの普及と日本の中での国内グローバル化が前提条件だった訳です。それは時代的には明治後期、『田舎教師』出版の明治42年と重なって来ます。この傾向は次の大正デモクラシーに於ける”モダン・ハイカラ”に依って更に助長されて行きました。
(2)埼玉の埋没感に及ぼした『田舎教師』の影響度(How much?)
影響度はナンボか?、という話です。影響度と為ると『田舎教師』がどれだけ読まれ、書かれて居る埋没悲劇が埼玉の埋没感にどれだけ影響したか、ということなので学者的に”真面(まとも)”に考えると難しい問題で、答えが出て来ない可能性の方が強いと思います。
私が考えるに『田舎教師』の様な”地味な(=日常的な、刺激の無い)”小説は一般大衆には殆ど読まれなかった、と結論付けて良いと思います。それなら影響度は限り無くゼロに近い、と考えるのは学者的”真面”志向の陥穽(=落とし穴)です。”真面”で無い私はそうは考えません。では読みもしないで大衆はどうして作品に影響され得るのか?
「読みもしない大衆」と「作品」を媒介するもの、それはマスメディアです。大衆は作品を全く読むこと無く新聞記事で田山花袋が『田舎教師』を書いた、ということ位は知り得ます。そして新聞記事から
田舎、埼玉、羽生、埋没、...
という断片的文字の塊がインプットされ、それは更にクチコミに依って伝播するのです、それはもう暗示に懸けられるのと同様です。これは現代の我々が『蹴りたい背中』を読んで無くても作品や作者についてのイメージを間接的に得ているのと同じです。
そして実際、こういう短絡的イメージの方が「埼玉の埋没感」という集団的な共同幻想に及ぼす影響力は断然強い、というのが私の考えです。テレビCMの宣伝手法、新興宗教教団の不況活動、政治化の選挙作戦など、何れも短絡的イメージこそが決定的な重要性を持って居ます。
影響度はナンボか数値で示せ、という話は正直言って難しいのですが、『田舎教師』は読まれなかったからこそ影響力が有ったと言えます。そして『田舎教師』という作品が持って居る”暗いイメージ”だけは埼玉人や他県の人々に確実にインプットされた筈です。これは今日、埼玉県に対して”明るいイメージ”を持って居る人は殆ど皆無、という状況を作り出したのに大いに寄与して居ます。この暗さこそが埼玉を埋没させる底無し沼なのです。
(3)埼玉は何故埋没するのか(Why?)
それにしても埼玉は、埼玉だけは何故こうも埋没するのか?、その答え(=私の個人的見解)は既に「前玉神社と「さきたま古墳群」」の結びに於いて述べて在りますので、それをお読み下さい。その結論のみを引用すると、埼玉人が己の特徴を己で発見出来ない点に埋没する原因が有ります。
[ちょっと一言]
埼玉県人が己の特徴を己で発見出来ないについては、【参考文献】△4のアンケート調査を基にした欄外の「県民性」という項に、埼玉の県民性は
『人口の増加が激しく、核家族と独身者が世帯数の8割近くを占めるので、郷土意識・県民意識がきわめてうすい。生活環境に不満が多く、「市町村の政治に満足している」は46位、「今住んでいる所は住みよい」は47位で、その様に思って居る人の割合は全国で最低。「東京に魅力を感じる」が3位で、流行には敏感に反応する。』
と記述されて居ることからも充分裏付けられて居ます。
{この「考察」の章は04年8月10日に追加}
田山花袋は明治4(1871)年に群馬県館林市に生まれ、現在館林市には田山花袋記念文学館と6歳から14歳迄住んだ旧家が保存されて居ます。実は羽生市と館林市は県は異なりますが意外と近く、羽生市から利根川を越えて直線距離で僅か9km真北が館林市であり、東部伊勢崎線でも3つ目の駅、言わば隣町なのです。
前述の如く羽生市建福寺の住職・太田玉茗の妹を妻にして居る関係から、花袋は『田舎教師』以外にも羽生を舞台にした作品を幾つか書いて居ますので、それを列挙して置きましょう(△3)。
『縁』 明治43(1910)年
『幼きもの』 明治45=大正元(1912)年
『ある僧の奇蹟』 大正 6(1917)年
『再び草の野に』 大正 8(1919)年
機会が有れば、これらの作品もお読み下さい、えっ、私ですか?、読んでま・せ・ん!!
唯この中で『再び草の野に』は移転の為”駅が無くなり再び草の野に帰る”という題材を扱って居る(※7)ので、オモシロそうですね。
以上で『田舎教師』が埼玉の埋没に少なからぬ影響を与えたという推論を述べましたが、実は『蒲団』の影響力はもっと直接的で大きいのです。それは何と言っても「女のなつかしい油の匂ひと汗のにほひ」の衝撃、即ちセンセーションと申せましょう。
その第1は「大衆文学に対して、純粋な芸術を志向する文芸作品、殊に小説」と定義される”純文学”が、後年”自分を曝け出す”私小説とほぼ同義に成ったのは、花袋の『蒲団』の呪縛である、ということです。これについては何も私だけの感想ではありませんので、興味や疑問の有る方は近代文学史の書物をお読み下さい。
第2として挙げる、埼玉のベッドタウン化(=単に寝に帰る街への変貌)も『蒲団』の呪縛である、というのが私独自の考えです。03年に浦和市(旧県庁所在地)・大宮市・与野市の3市を合併させて逸早く「さいたま市」を出現させ「彩の国(さいのくに)」などと軽薄にコジツケているのも、埼玉人の「東京に近付きたい」という東京コンプレックスの表れに他なりません。しかしこういう方向に背伸びしてメガロポリス(※11)に組み込まれて行くことは、自らを益々墓穴(=埋没する穴)を掘る結果に成り兼ねないことを指摘して置きましょう。
しかしこのベッドタウン化については説明は要らんでしょう、何しろ蒲団即ちベッドですから、ブワッハッハッハ!!
(^O^)/
笑ってばかりは居られませんゾ、今現在のマスメディア状況や大衆文化の有り様を鑑(かんが)みると、『蒲団』こそはその後の近・現代の方向性、即ちセンセーショナリズム(=刺激の誇張=煽情主義)を図らずも示して居るという点に於いて、世間が評価した通りのエポックメーキング且つ呪縛的な作品と言えます。しかしここに世間が見落として居る陥穽(=落とし穴)が有るのです。つまり同じ作者が同時期に、同じく写実主義という手法を用い乍ら”地味な”アンチ・センセーショナリズム(=日常描写主義)の『田舎教師』を提示したという点に作家・田山花袋の真骨頂が有る様に、私には感じられるのですが如何でしょうか?!
この記事の写真を撮る為に私は、シルクロードの旅から帰国直後、行田市に行きJR行田駅のレンタサイクル(何と料金はタダです!)を利用して、1日で羽生市を走り廻り、利根川土手を走り -御蔭で普段大阪の淀川を自転車で走って居る私は、今回初めて利根川の土手を走ることが出来ました、半ズボン穿いて!- 帰りに行田市の水城公園の花袋の碑に立ち寄り、自転車をJR行田駅に返却後JRで熊谷に行き晩飯を食い、秩父鉄道で羽生に行って毘沙門堂近くの”埴生の宿”(※12)に泊まりました。
『田舎教師』の中で「羽生の町はさびしかった。」と書かれて居ましたが、現在の羽生市も、駅前商店街も無く人通りも少なく夜は暗い、賑わいの無い町でした。私がこの日熊谷で晩飯を食ったのも、昼間レンタサイクルで宿の場所を確認して居る時に、町の”寂しさ”を感じたからに他なりません。羽生市の東部を東北自動車道が貫通して居ますが、私の様な”物好き”を除いて殆どが見向きもせずにこの町を通過して仕舞います。そういう意味では年に1度は養蚕の市が立ち、「料理店では三味線の音が昼から聞えた。」という田舎教師時代の方が一時的な活気が有ったのかも知れません。
右の写真は羽生水郷公園(羽生市大字三田ヶ谷、東北自動車道の羽生PAの直ぐ近く)で、園内にはムジナモ(※13)の唯一の自生地・宝蔵寺沼や淡水魚を中心に展示するさいたま水族館が在ります。
『田舎教師』の中で一家が行田から羽生に引っ越した時に近所の人や大家(おおや)からご祝儀に貰った「あいそ」という「鱗の粗い腹の側(わき)の紅い色をした魚」とはタナゴ(※14)の一種で、水族館には国の天然記念物のミヤコタナゴ(※14-1)やトミヨ(※15)の一種で県の魚のムサシトミヨなどが居るそうです。
羽生には一般受けする観光スポットは何も有りませんが、文学やムジナモや淡水魚に興味を持つ”物好き”な方は是非一度羽生市を訪れてみて下さい。
(^o^)
ところで、先程私は駄洒落で”埴生の宿”と言いましたが、羽生市の「羽生」は元々は「埴生」であり
埴生(はにふ)→埴生(はにう)→埴生(はにゅう)→羽生(はにゅう)
と変化して来ているのです。丹生(にう)という地名が丹(たん)即ち水銀を産する土地を表すのと同様、埴生という地名は埴(はに)という「質の緻密な黄赤色の粘土」を産する土地を表し、これこそ私が埼玉を”押し広げ”る発端と成った土師氏と濃密な関係を持つ地名なのです。土師氏はこの埴を使って古墳に副葬する埴輪を造って居た同族集団です。
尚、[埼玉を”押し広げ”る旅]シリーズの他画面への切り換えは最下行のページ・セレクタで行って下さい。(Please switch the page by page selector of the last-line.)
【脚注】
※1:田山花袋は小説家(1871~1930)。名は録弥。群馬県館林市生れ。1907年(明治40)「蒲団」を発表して自然主義文学に一時期を画し、赤裸々な現実描写を主張した。他に「生」「妻」「田舎教師」「時は過ぎゆく」「一兵卒の銃殺」など。
※1-1:文学に於ける自然主義とは、理想化を行わず、醜悪・瑣末なものを忌まず、現実を唯在るが儘に写し取ることを本旨とする立場。19世紀末頃フランスを中心として起る。自然科学の影響を受け、人間を社会的環境と遺伝とに依り因果律で決定される存在と考えた。ゾラ、ハウプトマンなどがその代表。日本には明治後期に伝わり、田山花袋・島崎藤村らが代表。
※2:旧制小学校で、免許状を持たないで勤務した教員。無資格教員。
※3:旧制の地方教育行政官。府県視学・郡視学・市視学などが在り、学事の視察、教育の指導監督、教員の任免等を司った。
※4:かっこ悪い、鈍い、野暮ったい、ドンくさい、トロい、芋っぽい、洗練されて無い、などの意を表す俗語。<出典:一部「最新日本語活用事典」より>
1980年頃から使われだした言葉。「ダサイ」と埼玉の結合力の強さについてはココをクリック。
※5:生れた年を1歳とし、以後正月に成ると一歳を加えて数える年齢。
※6:明治初期に西洋の詩歌の形式と精神とを取り入れて創始された新しい詩型。従来の詩が主に漢詩を指して居たのに対して言う。外山正一ら共著の「新体詩抄」に起り、森鴎外・北村透谷・島崎藤村・土井晩翠・蒲原有明・薄田泣菫らに依って発展、我が国近代詩の淵源を成した。
※7:先ず厳密に言うと、明治37年9月当時は羽生から川俣(利根川南岸:埼玉県側)迄しか結ばれて居ません、羽生と足利が結ばれたのは明治40(1907)年8月、即ち
明治30年11月 原六郎、浅田正文ら東武鉄道(株)を設立
明治32年 8月 北千住~久喜を開通
明治35年 4月 吾妻橋~北千住を開通
9月 久喜~加須を開通
明治36年 4月 加須~(羽生)~川俣(利根川南岸)を開通
→ <吾妻橋~(羽生)~川俣(利根川南岸)>が連絡
明治37年 9月 田舎教師”埋没”
明治38年 根津嘉一郎が東武鉄道社長に就任、再建に乗り出す。
明治40年 8月 川俣(利根川南岸)~足利町(現足利市)を開通
→ <吾妻橋~(羽生)~足利町>が連絡
その後、川俣駅を群馬県側(利根川北岸)に移転
です。そして川俣駅移転に伴ない、廃駅と成る埼玉県側の川俣駅及び周辺住民を扱った作品が花袋の『再び草の野に』です。
当初計画では明治37年9月頃には足利町迄開通させる予定でしたが、東武鉄道は資金難から利根川に鉄橋を架けることが出来ず埼玉県側に川俣駅(利根川南岸)を作り断念しました。この倒産寸前のボロ会社を明治38年に買収して再建、事実上の創始者と成ったのが根津嘉一郎です。根津は利根川に鉄橋を架ける大工事を敢行し、群馬と東京を結ぶことに依って業績を回復しただけで無く沿線開発を積極的に行い、昭和6(1931)年には浅草を始発駅とし地下鉄(今日のメトロ銀座線)と結び、後に鉄道王と呼ばれる礎を築きました。
※8:熊谷~行田~羽生が結ばれたのは大正11(1922)年8月、即ち
明治32年11月 上武鉄道(株)を設立
明治37年 9月 田舎教師”埋没”
<熊谷~波久礼>が連絡
大正 5年 3月 秩父鉄道(株)に改称
<熊谷~秩父>が連絡
大正10年 4月 羽生~行田を開通
大正11年 8月 熊谷~行田を開通
→ <秩父~熊谷~羽生>が連絡
です。尚、秩父鉄道も根津嘉一郎が経営参加して居ます。
※9:曹洞宗(そうとうしゅう)は、禅宗の一派。中国で洞山良价と弟子の曹山本寂に依って開かれ、日本では、道元が入宋して如浄からこれを伝え受けた。臨済宗が公案(こうあん、参禅者に示して坐禅工夫させる課題のことで、難問奇問が多い)を用いるのに対し、只管打坐(しかんたざ)を説く。永平寺・総持寺を大本山とする。
※9-1:道元は、鎌倉初期の禅僧(1200~1253)。日本曹洞宗の開祖。京都の人。内大臣久我(土御門)通親の子。号は希玄。比叡山で学び、後に栄西の法嗣に師事。1223年(貞応2)入宋、如浄より法を受け、27年(安貞1)帰朝後、京都深草の興聖寺を開いて法を弘めた。44年(寛元2)越前に曹洞禅の専修道場永平寺を開く。著「正法眼蔵」「永平広録」など。諡号(しごう)は承陽大師。
※9-2:只管打坐/祗管打坐(しかんたざ)とは、禅宗で余念を交えず、只管(ひたすら)に坐禅をすること。道元禅の特色を表す。
※10:洋画家(1881~1964)。名は国太郎。別号、未醒。栃木県生れ。院展洋画部、後に春陽会に属し、装飾的な独自の画風を持ち、日本画も良くした。作「水郷」など。
※11:megalopolis。メトロポリス(大都市)が発展し、幾つかの大中都市が帯状に連続した地域。1957年ウクライナ出身の地理学者ゴットマン(J.Gottmann、1915~1994)が提示した概念に基づいて設定された都市の一型。巨帯都市。
※12:貧しい小さい家。埴生の小屋。土間に莚(むしろ)を敷いて寝る様な貧しい小屋。しずがや。賤(しず)が伏屋。
歌曲にも「埴生の宿」と題された歌が在る。(原題Home, Sweet Home)歌曲の名。イギリスのビショップ(H.R.Bishop, 1786~1855)作曲。原詩はアメリカ人ペイン(J.Payne)作。1889年(明治22)刊「中等唱歌集」で紹介(里見義訳詩)。
※13:狢藻(形状がムジナの尾に似るのに由来する)。モウセンゴケ科の多年生水草。食虫植物。池沼・水田などに浮游し、根が無く、長さ6~25cmの茎に円形・嚢状の葉が6~8枚ずつ輪生。この嚢の毛に小虫が触れると閉じて捕らえ、消化・吸収する。夏、淡緑色5弁の小花を開く。1属1種でヨーロッパ/インド/オーストラリア/日本に点在するが稀。天然記念物として保護。
※14:タナゴ(鱮、Japanese bitterling)は、コイ科の淡水産の硬骨魚。形はフナに似て側扁し、体高が大きい。全長8cm内外。背部は青灰色、腹部は銀白色。生殖期には雄の下腹部及び胸びれ・臀びれが紅色を帯びる。類似の種類が多く、ヤリタナゴとも混同される。日本各地の川や沼に産。又、広義にはタナゴ類の総称で、タナゴ・イタセンパラなどのタナゴ属の他、バラタナゴ・ミヤコタナゴ・ゼニタナゴの各属を含む。ニガブナ。ボテ。田平子。
※14-1:ミヤコタナゴ(都鱮)は、タナゴの一種で全長約5cm。関東地方に分布するが絶滅の恐れが有る。天然記念物。
※15:富魚。トゲウオ科の淡水産の硬骨魚。全長約5cm。体側に鱗板が1列に並び、背びれに約9本の鋭い棘(とげ)が有る。雄は水草などで球状の巣を造り、雌を誘ってその中に産卵させる。北陸地方以北に分布。
(以上出典は主に広辞苑です)
【参考文献】
△1:『田舎教師』(田山花袋作、岩波文庫)。
△2:『蒲団・一兵卒』(田山花袋著、岩波文庫)。
△3:羽生市観光協会のパンフレット『羽生』。
△4:『県別日本人気質』(河出書房新社編・発行)。
●関連リンク
@参照ページ(Reference-Page):日本の旧暦や旧正月について▼
資料-「太陽・月と暦」早解り(Quick guide to 'Sun, Moon, and CALENDAR')
@補完ページ(Complementary):埋没する埼玉の扱き下ろしと再評価▼
(当サイトで最初の埼玉埋没論)
東西三都物語(The 3-cities of east and west)
埼玉論と関東の土師氏について▼
客観主義のエルニーニョ的転回(ElNino-like change of objectivism)
与謝野鉄幹の新体詩(晶子の歌も有ります)▼
阪堺電車沿線の風景-堺編(Along the Hankai-Line, Sakai)
大阪の淀川の風景▼
私の淀川(My Yodo-river, Osaka)
私が夏季に半ズボンを穿く理由▼
エロレタリアート白色革命(White revolution by the eroletariat)