「再び草の野に」-川俣
[田山花袋を文学散歩#2:小市民的悲喜劇
('To the weed again', Kawamata, Saitama)

-- 2007.09.12 エルニーニョ深沢(ElNino Fukazawa)
2008.02.29 改訂

 ■はじめに - 何故、川俣か?

 初めに断って置きますが、当ページは[ 埼玉を”押し広げ”る旅]シリーズに入って居ましたが、08年2月29日に新たに[田山花袋を文学散歩]シリーズを創設し、「「田舎教師」-羽生」と共に新シリーズに移設しました。{この段は08年2月29日に追加}





 これが現在の東武伊勢崎線の川俣駅(群馬県)です(右の写真)。今も「ちっぽけな駅舎」です。

 私はそんな旧川俣駅跡に大変な興味を惹かれここを訪れました。このページは前作の羽生市探訪の続編的意味合いも在りますが、その前に川俣事件の話から先ずは入ることにします。

 ■足尾鉱毒事件と田中正造




更には日本初の公害問題として有名な足尾鉱毒事件の発端が旧川俣駅で発生した川俣事件です。



 足尾銅山が在ったのは、現在の栃木県上都賀郡足尾町で、渡良瀬川上流で群馬県と境を成す一画です。今では渡良瀬川沿いに「わたらせ渓谷鉄道」が走り、足尾駅が在ります。

 田中正造(※9)は埼玉県北埼玉郡北川辺町の出身です。渡良瀬川が利根川に合流する所で、群馬県・栃木県・茨城県と境を接する所です。

群馬県邑楽郡明和町川俣558番地







 西小学校には翁の墓が在り、佐■野市の惣宗寺から分骨され納められて居ます。

 ■旧川俣駅が生まれた訳

 前作の「田山花袋を文学散歩」#1に於いて、田山花袋の小説『田舎教師』の舞台・埼玉県羽生市を”文学散歩”しました。そしてその時初めて知ったのですが、田舎教師と共に埋没し掛かった東武鉄道が当初栃木県足利市まで敷設する計画を断念し、利根川南岸(埼玉県)に「川俣」という駅を作り、ここを終点にして仕舞いました。今、本川俣という地名が残って居る所です。何故、南岸にしたか?、それは利根川に鉄橋を架ける金が無かったからです。
 この瀕死の東武鉄道を買収し社長に就任して再建に乗り出したのが、後に「鉄道王」と呼ばれる根津嘉一郎(※8)です。根津は足尾銅山の銅を東京に運ぶ起死回生策を実現する為、早速利根川に鉄橋を架け東武線を延長しますが、その際、利根川南岸(埼玉県)の川俣駅を利根川北岸(群馬県)に移設したのです。
 その結果、旧川俣駅(埼玉県)は明治36(1903)年4月~明治40(1907)年8月迄の約4年4ヶ月のみ存在した駅と成り、今ではすっかり忘れ去られました。何しろ今から100年も前の話ですから。

 [ちょっと一言]方向指示(次) この辺りは群馬県が張り出していて利根川が埼玉県との県境に成って居ます。今の川俣駅が在る地を群馬県邑楽郡(おうらぐん)明和町川俣と言い、北に群馬県館林市が在りますが、その北隣は栃木県佐野市なのです。

 解り易く図解しましょう。下の図は現在の住所で示して居ますが、現在の羽生市・館林市etcなどは『再び草の野に』の当時は羽生町・館林町etcでした。

        <川俣駅(現旧)の図解>

  桐生市          足利駅(栃木県[下野国])
   (群馬県[上野国]) 北││
               ││
   栃木県[下野国]    ││佐野市(栃木県)
               ││
               ││館林市(群馬県)
               ││
   群馬県[上野国]    ││現川俣駅(群馬県邑楽郡明和町川俣)
             川俣││ 利根川橋梁完成→明治40(1907)年8月に移転
  ──────────────────────────────
  西  上流 >>>>>>>>> 利 根 川 >>>>>>>>>>>>> 下流  東
  ──────────────────────────────
   埼玉県[武蔵国] 上川俣││旧川俣駅(埼玉県羽生市本川俣)
      羽生市      ││ 明治36(1903)年4月~明治40(1907)年8月迄存在
               ││ 利根川に鉄橋を架ける資金が無かった為)
    明治34(1901)年4月   ││
     ~明治37(1904)年9月 ││
       田舎教師    ││
              南││
               ││
              浅草駅(東京都[武蔵国])

  *上野国は上州、下野国は野州、武蔵国は武州とも言います。

 前作でも「参考資料」に記しましたが、東武鉄道の鉄道事情「今度は川俣駅を中心」に下の年表に纏めて置きます。

        <東武鉄道の鉄道事情>

  明治30(1897)年11月 原六郎、浅田正文ら東武鉄道(株)を設立
  明治32(1899)年 8月 北千住~久喜を開通
  明治34(1901)年 4月 田舎教師着任
  明治35(1902)年 4月 吾妻橋~北千住を開通
              9月 久喜~加須を開通
  明治36(1903)年 4月 加須~(羽生)~川俣(利根川南岸を開通
                  → <吾妻橋~(羽生)~川俣(利根川南岸)>が連絡
  明治37(1904)年 9月 田舎教師”埋没”
  明治38(1905)年    根津嘉一郎が東武鉄道社長に就任、再建に乗り出す
  明治40(1907)年 8月 利根川の鉄橋が完成
                 川俣(利根川南岸)~足利町(現足利市)を開通
                  → <吾妻橋~(羽生)~足利町>が連絡
                 そして川俣駅を群馬県側(利根川北岸)に移転

 という事で今回私は川俣駅(利根川南岸→北岸に移転)を中心に述べる為に、埼玉県羽生市本川俣に旧川俣駅の残骸はないかと、2004年12月1日川俣駅(現旧)を取材 -単に写真を撮るだけですが- に訪れました(←この年の夏には『田舎教師』の羽生を取材)。今は既にこの事実は風化し、地元のお年寄りを除いて旧川俣駅が在ったという話すら知っている人は殆ど居ません。
 しかし、そうした旧川俣駅が現役で存在して居た頃のほんの数年間の、駅を取り巻く人間模様の悲喜交々(こもごも)が、『田舎教師』と同じ田山花袋の『再び草の野に』という小説に定着されて居るのです。マイナーな小説なので、その事実すら知って居る人は少ないですが...。

 ■旧川俣駅が出来て元に帰す迄 - 小説『再び草の野に』に定着された事実

 それでは愈々、小説『再び草の野に』の内容を詳しく”文学散歩”することにしましょう。しかし、今度は余り移動しません。カメラ・アングルは旧川俣駅とその周辺の人間模様に限定・固定されてるのです。又、私が参照したのは全集本ですので『再び草の野に』は【参考文献】△1のp207~404に収められて居ます、念の為。そして物語は「その一」「その二」「その三」の3部から成って居ますので、この”文学散歩”もそれに合わせます。
 尚、古い書体の漢字は現代の書体に直してる事を予めお断りして置きます。

 (1)その1 - 旧川俣駅が出来る迄

  (1)-1.明治36(1903)年4月以前

 最初は風景描写から始まります。
  「...<前略>...春になると、雲雀は高い声でその純な恋を名告るやうにして空に囀り揚つた。」
(△1のp207)と雲雀の描写が出て来ますが、これについては最後で述べます

 そして小説の、特に前半の部分を貫く或る言葉が提示されます。
  「それよりも、蘆萩の一茎が、または湛え残された錆びた沼の水が、そこに冬の来るたびにやつて来る渡り鳥が、この野を行くものに昔の野のさまをあざやかに眼の前に描いて見せた。」(△1のp208)
  「『何でも、その沼の出来たのは、そんなに古いことではないといふことです。さァ、寺とどつちが先だか? 多分寺の方があとだらうと面ふが、百五十年はまだ経つてゐますまい。』かう村の人達は言ふけれども、その沼はもつともつと昔の、原始時代からでもあつたかのやうに、錆色にどんよりと湛えて、藻も底深く気味わるく繁り、いつもさびしい空が何かの眼でもあるやうに憂鬱に映つて眺められた。」(△1のp213)
という部分です。利根川沿いの錆びた沼これから始まる物語の「川俣を象徴するキーワード」として使われ、特に物語の前半に多く出て来ます。例えば次の様に
  「H町から大きなT川をわたつて、国を異にしたT町へと通ずる塵埃の多い白い街道は、この錆びた沼の右の岸を通つて、それから大きな治水工事の施してある堤防の上へとかゝつて行くのであるが、この道路と沼との間に、一ところかなり広い地域を、水田にもせず、畠にもせずに、唯、草薮にして残してあるところがあつて、そこには春はげんげや菫が一面に見事に咲き、雲雀が好い声をたてゝ空に揚つた。」
(△1のp213~214)という具合です。
 花袋はここだけで無く、実際の町や川の名をローマ字のイニシャルで暈して居ますが、その意図が何であったのか私はちょっと疑問です。町や川はその儘の実名の方が良かったのではと思うのですが。イニシャルの所は
    H町    羽生町(埼玉県)
    T川    利根川(群馬-埼玉の県境)
    T町    館林町(群馬県)
です。以後でローマ字のイニシャル名の後に[×××]で実際の地名を入れた所は筆者の挿入です。「国を異にしたT町」と言っているのは先程の図解を見れば解りますね、羽生町は埼玉県[武蔵国]で館林町は群馬県[上野国]なのです。
 因みに、群馬県館林市は田山花袋の生まれ故郷田山花袋記念文学館が在ります。資料(△2のp138)を見ると「明治4(1871)年に館林に生まれ14歳迄この地で過ごした」と在ります。没年は昭和5(1930)年です。

  (1)-2.利根川とオムニバス形式

 利根川の情景
  「急に上流で、物の轟くやうな音響が川に響きわたつてきこえた。「ヤ、舟橋だ(※10)。舟橋があるんだ。」かう誰も彼も思はず声を挙げて言った。その舟橋の上を、さつきの街道が、錆びた沼に添つた街道が、車やら荷馬車やら乗合馬車やらを載せて、そしてT[館林]町へと通つて行つてゐるのであつた。」
(△1の214~215)の様に描かれて居ますが、舟橋と言うのは多くの小舟を連ねそれに板などを渡して橋の代わりとして使ったんですね。利根川は「坂東太郎」と呼ばれ日本一の川ですから橋を架けるのは大変で、こうした浮橋(※10-1)を渡して居たのです。
 この小説は特定の主人公というのは無く -利根川が或る意味でこの小説の隠れた主人公かも知れません、私にはそんな気がします- 物語はオムニバス形式(※11)で次から次へと展開して行きます。その最初の登場者が「都会から一人の若い文学者がハイカラな美しい細君」(△1のp215)を連れて隠棲の真似事をします。美しい細君は田舎では目立ちましたが結局又都会に帰って行きます。


 (2)その2 - 旧川俣駅の建設から移転迄

  (2)-1.明治35(1902)年 - 噂から事実へ、旧川俣駅

  「その流れの上に丘の一部を開いて、此頃、下等の煉瓦を焼く大きな竈が二つまで出来た。職工が五六集つて、せつせとその竈の火を燃した。」(△1のp223~224)なるものが出来た。竈を出したのは「川向こうのS[須賀]村では昔からきこえた金持」(△1のp226)ですが、
  「東京の浅草を出発点にして、下野の機業地に達する汽車が、必ず此処を通過して行くに相違ないといふことをKが何処かで嗅ぎつけたためであつた。」(△1のp226)と、旧川俣駅の噂が早くも飛び交って居ました。「下野の機業地」とは今の栃木県佐野市(※y)だと思います。Kは
  「今に、立派な家を立てゝ入れてやるよ。汽車さへ早く来れや、此処等一面に大きな工場にして見せるがな。」
(△1のp227)と強気です。

 そして愈々汽車が現実に成ります。
  「K[久喜]駅の交差点を突破してから、坦々として高低のない潤い平野を一直線に容易に進んで、W[鷲宮]駅K[加須]駅の二つの停車場を置き、更にH[羽生]駅の停車場が大きな寺の森を後にして準備された。」
(△1のp235)と在ります。これは明治35(1902)年9月に久喜~加須を開通した時の話です。この頃は駅を停車場と呼びました。

  (2)-2.明治36(1903)年4月 - 羽生駅・旧川俣駅の開通

 羽生の或る校長は
  「皆さん、私達の町も、汽車と停車場とを持つやうになりました。」(△1のp236)と生徒の前で演説し、鉄道会社の事情通の会話として
  「『で、川はどうするんだな...。この勢いで、鉄橋をかけて了えば、豪気なもんだが、それは出来まい。』『それは無理だ...。会社は今でも随分困つてゐる。毎年、欠損々々で、K[加須]駅までさへ延びるか何うかといふことは一時大きな疑問だつたが、N[根津嘉一郎]氏(※8)が力を入れるやうになつてから、やつとあそこまで出て来た。あそまで出た以上、何うしても此方に出て来なくちやならなくなつたので、T川[利根川]まではレイルを引くだけで、別に費用もかゝらないからグングン出来て来たが、さァ、T川[利根川]の鉄橋で一煩悶さ。』『でも、すぐ出来るやうな話も聞いたが───』『何うして出来るもんか、あの川の鉄橋をかけるだけで二三十萬円はかゝるといふ話だ。』『さうかな。』『この鉄道としては、何うしても野州から上州の機業地に連絡させ、更に運好くば、足尾まで延ばして、あの鉱山の銅を一手で運ぶやうにしなければ十分な成績を挙げる事は出来ないのだから、何うかしてT川[利根川]の鉄橋をかけなくちやならないのはならないんだが、それがまた一難関さ。』」
(△1のp237~238)という話を載せ「利根川の鉄橋」を強調して居ますが、実際その通りだったのです。明治40年の貨幣価値は正確には難しいですが当時の1円=7千円とするデータも有り、20万円として14億、30万円として21億という所です。ここで上州の機業地というのは足利(※y-1)や桐生(※y-2)(→後出)を指して居ます。しかし、作者の田山花袋は東武鉄道の戦略を的確に言い当てて居ます。

 そして東武鉄道の羽生駅と終着駅の旧川俣駅明治36(1903)年4月23日に開通しました。羽生町では知事代理が出席して開業式を遣り、夜はどの家でも「祝鉄道開通」の提灯を掲げ、羽生だけでは足りなくて近在の町から芸者を呼んで料亭で宴会を遣りました(△1のp238~239)。
 一方、川俣駅でも羽生町程の賑わいは無かったですが「川の畔りの停車場前の発展」(△1のp239)は約束されたかの如くで、「小さな家が、汽車の開通する日までに七軒も八軒も出来た。」(△1のp240)のです。そして
  「レイルはH[羽生]町の停車場を出て、暫し、その町の裏の白堊や、人家や、垣や、裏の畠の見えるやうなところを通つて、それから潤い荒涼とした野に出て、小さな川をわたつて、H[羽生]町からK[川俣]町に行く路に踏切の番小屋をつくつて、次第のその錆びた、蘆萩の緑の深い、菱や蓮の乱れた、田舟(※12)一二艘横はつた...<中略>...段々その沿いの家の見える方へと進んで行つた。」
(△1のp240)と、「川俣を象徴するキーワード」として「錆びた沼」が出て来ます。寂しい草藪が終端駅に変貌した為に一層人々の眼を欺いたのです。

 ところで、川俣駅の名は「T[利根川]駅、SG[新郷か?]駅、KM[川俣]駅」の候補が在りましたが、開通の2日前に川俣駅に漸く決まった様です(△1のp241)。
 川俣駅の駅長の食事は開業の10日前当たりから「小料理屋を始めかけてゐるT[館林]町のM屋のちよつと垢抜けのした酌婦(=お玉)がいつも三度々々運んで来た。」(△1のp242~243)と成り、駅の周りには急に料理屋・休憩店・新聞配達店・運送店などが出来て行きました。水は井戸(△1のp244)を掘ります。

  (2)-3.明治36(1903)年4月以降 - 旧川俣駅の初年度

 開業直後は汽車も駅も珍しいので「朝の六時半の一番の上りから夜の九時四十分の下り」(△1のp246)まで満員でした。新しく出来た料理屋の前で顔に白粉(おしろい、※z)を厚く塗った女たちが『休んでいらつしやいまし、お寄んなさいまし。』(△1のp246)と声を掛けます。又、車(=人力車)も10台位集まって来ます(△1のp247)。又、R[?]の渡頭(※13)には渡し舟が復活しました(△1のp249)。
 そして「M屋の酌婦のお玉」(△1のp250)、外国小説好きの「若い二十三四の車掌見習」「Kという駅員」(△1のp258)、文学志向の「この近所に姿を見せる二人づれの女」(△1のp268)の話などが、オムニバス風に展開されます。
 そんな中で「その土手の小学校にはS[清三(本名:小林秀三)]といふ若い教員がゐた。...<中略>...始めはそこと此処との中間にあるH[羽生]町の寺の一間を借りて自炊生活をしてゐたが、それも面倒になつて、去年あたりから学校の一間を借りて、そこに起臥するやうになつてゐた。」(△1のp295~296)と在るのは『田舎教師』の主人公です。私が『田舎教師』と『再び草の野に』は「表裏」の関係に在ると言ったのは、そういう事なのです。

  (2)-4.明治37(1904)年 - 旧川俣駅の1年目

 偶にはダイヤの指環を二つも嵌めてゐるやうな女」(△1のp301)が終着駅で降り、車夫にT[館林]町迄行く様に言います。そして財産家の益田うていふ家」を指定し渡し舟で利根川を渡って行きました。
 「駅員のKは転任」して行き(△1のp306)、「Kの女のお袖が亡くなり」(△1のp307)ます。
 春に成ると「チャンカラチャンカラと機を織る音」(△1のp313)が聞こえます。分福茶釜(※14)のある大きな寺」(△1のp316)とは茂林寺(※14-1、△2のp139)です。館林出身の花袋「汽車がないのですつかり衰えかけてゐたT[館林]町は、川向うまで汽車が出来たために、俄かに新たに呼吸をふき返した。」(△1のp316~317)と書き加えて居ます。
 要するに「平生見たこともないやうな小さな田舟に乗つて、矢張小さな櫂で巧に舟を行る船頭のさまなどに興がりながら、錆びた沼を渡つて、その向うの丘の上にある躑躅の乱れ開いた丘へと行くのであつた。交通の便のなかつたために、全く文化に後れたそのあたりの純朴な珍奇な生活や、風俗や、または田舎の静かな畔道」(△1のp318)が都会の人たちには懐かしく珍しいのです。都会人は更に「沼に臨んだ料理屋で川魚料理を肴に酒に酔ひ、...<中略>...幾人もゐないT[館林]町の芸妓を舟に乗せて、沼の中で三味線を弾かせたりなどして」(△1のp318)楽しむのです。分福茶釜のある寺(茂林寺)」でも都会人が訪れて来るので観覧料を取ることにし、5銭、10銭、そして遂には15銭にしたそうです(△1のp320)。土手下には「二間位の長屋が何軒か出来て」(△1のp321)方々から集まって来る車夫達の住居になりました。

 そして早くも
  「駅長も流石に驚いたやうに、『今日は千二三百人、もつと以上の乗降客があつた。随分やつて来たもんだな。矢張、都会の人達には田舎ののんきなところがめづらしいんだな。それに、今日は好い日曜日だつたから。』『これは、もう少し設備をよくして、広告を盛にすれば、もつとやつて来ますな...。今年はもう遅いが、来年は早くから設備をして置くんですな。』『料理店なんかも、もつとなくつては足りない位だね。』『本当でさ...。これでは、鉄橋が出来て、汽車が開通しても、此処は屹度賑やかな町になりますぜ。』『面白いもんだな。』かう言つて駅長は笑つた。」
(△1のp317~318)という意見が聞かれます。しかし”バスに乗り遅れるな”という現実追認の感覚が先に立ち、現実を冷静に直視することが出来なく成って来て危険の兆候が垣間見えて居ます。
 更に、
  「M屋はT[館林]町の方に本店があり、躑躅のある沼添ひの丘の上にも支店が出してあるので、その繁盛は一通りではなかつたが、停車場前の収入も大したもので、これでは来年までには、もう一棟建て増しをして、一方旅館としての設備をしなければならないなどと主人は言ってゐた。主人の腹では、この方の采配をお常にやらせて、行く行くは、隣のY屋のやうな妾宅にしやうと思つてゐるやうな口吻をみせた。...<中略>...夏の中頃には、M屋の旅館が完成して、その新しい瀟洒な欄干を取廻した二階屋は遠くから見えた。」(△1のp321~322)と、”良からぬ皮算用”をして居ます。因みに、躑躅のある沼添ひの丘というのが今の「つつじが岡公園」(△2のp138)です。

 そして「此頃、T[館林]町の益田の美しい妾がをりをり其処に見えた。」(△1のp322)という女は、
  「そのT川[利根川]の一目に見わたされる土手の附近に、一方かの女の妾宅として、また一方営利上ではあるが、損さへしなければ好い、また客種もちやんと渡りのついたものでなければ需めに応じないといふ程度で、静かに男女の世離れて遊ぶ席亭見たいなものを拵へたいといふのであつた。」(△1のp322~323)という話を駅長が齎しました。そして、その年の内に工事に取り掛かり、それも「田舎では駄目だち言ふので、わざわざ東京から大工の棟梁が弟子共を五人も六人もつれて来て」(△1のp325)という徹底したものでした。
 『田舎教師』の清三は、日記に
  「その愛する阿嬌(※15)のために築く台とかや。われ等の如くその月々の生活にすら不十分なるもの多きを。世はさまざまなるかな、真にさまざまなるかな──
(△1のp326)と嘆いて居ます。しかし、この年の9月に田舎教師”埋没”します。合掌!!
                (-_-)
                _A_

  (2)-5.明治38(1905)年 - 旧川俣駅の2年目

 そして、年を跨って翌年の春までには席亭は完成し、
  「その松原の中の家屋はもうすつかり出来上つて、枕流亭といふ広告札は、停車場を下りると、迷ふことなく、直ちにそこに人々を導いて行くやうに、それからそれへと路の角々に立てられてあつた。...<中略>...『枕流亭へ!』かう言ふ客があると、車夫は五六町のところを十五銭賃金を取つて曳いて行つた。」(△1のp326~327)と豪気なものです。花の季節には一銭蒸気(△1のp329)を当てて儲けた人が出て、分福茶釜の寺の和尚」も春はにこにこ顔(△1のp331)です。

 そんな中で田植えが始まろうという頃、鉄橋の噂(△1のp331)が立ち始めました。9月に成ると噂では無くて事実に成りました(△1のp332)。
  「川の工事の方の請負らしい男と、それに伴れられて来た大勢の工夫、そのはつぴにはいづれも野澤組といふ字が書かれて、土手から煉瓦の工場近くにかけて、バラックのやうな掘立小屋も何軒ともなく建てれば、鉄材の方の請負は、それとは反対に、停車場から沼の方へかけて、清水組事務所といふ大きな招牌(※16)をかけた板塀で取廻した家を拵へて、段々其処には技師らしい鬚の生えた肥つた紳士だの、背広服をつけてちよこちよことあたりを駆け廻る技手だのが出入した。」(△1のp332)と、俄然忙しく成りました。清水組は今の清水建設です。
 工夫を相手にする店が沢山出来ます。当時の工夫は”荒くれ者”が多かったですから、
  「殊に、一層目に立つて賑やかになつたのは、その駅前の料理屋、だるま屋(※17、※17-1)だけでは足りないので、沼の方へも、土手下の方へも、それと同じやうな小さな飲屋が沢山に出来て、卑しい、大きな声を張上げる、またいやに白くべたべたと白粉を顔中に塗り廻した女が、其処此処の町から狩催されて集つて来て、沢山賃金の入る工夫達を相手にして騒ぎ散らした。...<中略>...『これでも酌婦が違ふんですからね。工夫さん達を相手にする酌婦は別にいくらもあるぢやありませんか。』お玉は何うかすると、こんなことを言つて、いやにしつこい客に向つて、啖呵を切つたりした。」
(△1のp333)と、お玉さん(=M屋の酌婦)が頑張って居ます。この時から工夫さん達の酌婦(△1のp333)という言葉が良く使われる様に成りました。しかし、工夫の御蔭で一挙に活況を呈したのは事実です。
 川の方ではトンカントンカンする音」(△1のp333)が響き渡りました。工夫には女性も混じっていて
  「川の方の工事も中々困難であるらしく、土手へ上つて見ると、土手の向う側の下にもバラックが一列に並んで連つて、測量した川のところどころに、大きな棒杭を何本となく打込んだり、そこに積み上げる為めの煉瓦を女の土工(※18)がせつせと運んで働いてゐるさまが手に取るやうに見えた。」
(△1のp334)と在ります。
 そして
  「契約が二年かゝるといふことであるが、半年経つても、まだいくらも手がつけられてゐないのを人々は見た。」
(△1のp334)という状況でした。

  (2)-6.明治39(1906)年 - 旧川俣駅の3年目

 霜が白い朝に「若い車掌見習のA」(△1のp334)が土手から3、4人の土工が川へ落ちるのを見た話や、躑躅の季節には停車場の出来る前に来たことが有る文学者夫婦(△1のp337)が来たりします。そうかと思うと歌舞伎界でかなりに社会にその名を知られたMは、柳橋のS屋の抱妓に二世を契つた歌子といふのがあつて」(△1のp343)は枕流亭で逢引を繰り返し、そしてMの話が暫く続きます。この「歌舞伎界のM」の話の中で作者は面白い隠語を使って居ます。それは「かう行違ひになつた時には飽まで物事は行違ひになるものである。ぐれはま(※x~※x-2)になるものである。」(△1のp345)という箇所です。「ぐれはま」とは、元々は「ぐりはま」で蛤(はまぐり)の倒語で「食い違うこと」を言います。作者は「だるま」(※17、※17-1)とか「ぐれはま」とかの隠語 -隠語は多くの場合、下品な卑しい言葉ですが- を効果的に使い、しかし川俣駅周辺に集まって来た人々の人情を赤裸々に表現するには却って相応しいと言えます。
 そして秋も末に成った頃、蜆漁をしていて蜆の民公(△1のp361)と呼ばれた男が枕流亭付近で「有名なDと有名な音楽家のS子」(△1のp365)の心中死体を発見します。Love Affair(△1のp365)は世間で知らない者は無かったと書いて居ます。しかし、鉄橋の突貫工事をしている連中はそんな事は直ぐに忘れ、
  「いつものやうに日は照り、川は流れ、トンカントンカンする音はあたりに賑やかにきこえた。」
(△1のp372)と、自分の仕事に集中するのでした。

  (2)-7.明治40(1907)年の春 - 旧川俣駅の4年目の春

  「T川[利根川]に架けた鉄橋は次第に完成を急ぎつゝあつた。...<中略>...橋は既に此方から向うに架け渡されて、案内を知つたものは、それを渡つて大きなT川[利根川]を渡つて行くことが出来た。今年の躑躅の頃までには、何うしてもT[館林]町まで開通させるといふ予定で、会社では頻りに工事を急いでゐた。」
(△1のp374)と在り、鉄橋完成に近付いて来ました。ところで完成間際の鉄橋を渡って行く事は今の時代では無理でしょう。この時代は未だ大らかだったのです。
 「Y屋の隣の小料理店」(△1のp374)から出て来た二人の男は口論の挙句、虎が熊を殺して鉄橋の上から落として仕舞いましたが、間も無く虎は豚箱行きと成りました。しかし、その話も忘れられ、もうこの頃は人々の興味は、
  「好奇の近所の田舎の少年達は、小舟に艪を押して、わざわざその橋の下に行つて、その太い橋の支柱を叩いて見たり、顔を押し附けて見たりなどした。...<中略>...をりをりがその下を通つて往来した。」
(△1のp381~382)と、完成間近の鉄橋に移って居ます。


 (3)その3 - 利根川鉄橋の完成と、旧川俣駅移転から荒廃迄

  (3)-1.明治40(1907)年の春~8月 - 旧川俣駅の4年目

  「『え、それや大変だ...。』『うそだろ? そんなことはないだろう。こゝに停車場がなくなるなんてそんなことごあつてたまるものか。』『でも、本当らしいよ。』『誰がさう言つた...。』『駅長などももう知つてゐるらしいよ。何でも此処はH[羽生]町との距離も近いし、A[足利]町、K[桐生]町に行くにも渡しがないだけに向うの方が便利だし、何でも会社では、川をわたつて十五六町行つたところに停車場を置く方針らしい。それもごく小さな駅で、此処のやうに大きなものにはしないらしい。T[館林]町の停車場を大きくして、行く行くは、S[佐野]町の方へ支線を出す計画らしいから。』」
(△1のp382~383)という噂は事実と成り、人々は狼狽しました。又、足利・桐生という「上州の機業地」を鉄道で結ぶ事は、東武鉄道の当初からの戦略の一つだったのです。
 このごく小さな駅が川向こうに出来る新しい川俣駅(=現在の川俣駅)です。新しい川俣駅は終端駅では無いので小さくて済むのです。ここに書かれて居る東武鉄道の戦略はその通りに実行されました。現在、足利には東武伊勢崎線(本線)が、桐生には東武桐生線が太田から、佐野には東武佐野線が館林から、そしてあの鉱山の銅を一手で運ぶ(△1のp237)と言わしめた足尾には「わたらせ渓谷鐵道」がJR桐生(東武鉄道とは桐生線の相老(あいおい)で連絡)から、それぞれ出て居ます。

 川俣駅に近い重立つた人々は「その計画の撤回されることを会社側に運動」(△1のp383)します。M屋の主人、Y屋の主人、煉瓦の竈の主人、車夫の統領、それに枕流亭の益田などです。彼等は「会社の社長をわざわざ訪問したり、陳情書を出したり、代議士を中に立てて話をして貰つたり」(△1のp384)しましたが、鉄道の根本計画 - 他日、政府に譲り渡す場合をもその中に含んだ根本計画」(△1のp384)を覆すことは、とても出来る相談では有りません。
  「従つて、賑かになつて好いと思つたその立派なT川[利根川]の鉄橋も、今ではかれ等に恨めしく映つて見えた。かれ等は寄るとさはると、その繁華の間に儲けたことは言はずに、そこに資本を下したことなどをのみ話した。愚痴が到るところで出た。」
(△1のp385)と成り、正に「元の木阿弥」です。人々はもうここを見捨てる以外に有りません。
  「もう其頃には、鉄橋をつくるために入込んで来た工夫や土工も大方はゐなくなり、それと共にT街道の方に開けて出来た小さなだるまや(※17)の家屋なども逸早く取毀され、女達も時期に由って南から北に行く渡り鳥のやうに、散々にあちこちに散つて了つた。そうしたさびしい悲しい空気の中に、やがて賑やかなT川[利根川]の鉄橋開通式の日は来た。」
(△1のp387)のです。

  (3)-2.明治40(1907)年8月27日 - 利根川鉄橋開通式

 盛り上がらない開通式は
  「鉄橋の開通式と言っても、此処は形ばかりで、賑かな儀式や宴会やは、T[館林]町の停車場でやることになつてゐた。...<中略>...最初の試運転は、午前の八時に試みられたが、その時には、流石にめづらしいので、そこらの人達は老若男女を問はず、皆土手の上に登つてそれを眺めた。」
(△1のp387~388)というもので、子供達の「万歳」が空しく響きました。「その川沿ひの停車場に汽車が寄らなくなつたのは、それから猶ほ十日ほど過ぎてから(△1のp388)でした。
 こうして川沿いの旧川俣駅は捨てられ、川向こうに出来た新しいけれど「ちっぽけな川俣駅に取って代わらたのです。つまり鉄橋開通式から約10日後に川俣駅は移転したのです。

  (3)-3.明治40(1907)年秋 - 川俣駅移転直後

 旧川俣駅に集まり、この物語のオムニバスを担った人々がM屋の2階で送別会を遣り、挨拶に立った駅長は「3年の間」(△1のp389)(←4年半の誤り、東武鉄道の年表を参照のこと)を「面白かつたと思ひます。意味があつたと思ひます。...<中略>...何うか、諸君も御健全に、またお目にかゝる時があると思ひます。」と強気に総括しました。その後めいめいの思い出話や愚痴に成ります。或る者は「忽ちルウインになつちゃうんだね。」(△1のp393)と言いました。ルウイン(ruin)とは廃墟のことです。
 そして
  「凋落と破壊とは既に其処にあつた。早くも家屋の取崩しに取懸るものもあれば、家はそのまゝにして置いて、さつさと移住地へ移転して行くものもあつた。もう一人としてかうしたルウインに踏留まらうとするものもなかつた。」
(△1のp393)と、「捨て去られた町」の荒廃は直後から始まりました。

  (3)-4.川俣駅移転から1、2年後 - 「再び草の野に」帰した旧川俣駅

 翌年の梅雨の時期には
  「ところどころに散らばつた未製品の煉瓦、一かたまりになつて残された材料の土、竈の中には雨水が一杯に満ち溢れて、半ば燃えかけの石炭のそこらに散らばつてゐるさまは、人に竟に不成功に終わつた人間の事業の悲しさを語らずにはおかぬであらう。其処にも草は既に一面に繁り合つてゐた。」
(△1のp398)と、早くも草が一面を覆い朽ち果てて行く様が描かれて居ます。
 そんな中で「教員のS」事清三は、『田舎教師』では最晩年に弥勒から羽生への転任を願い出て居ましたが直ぐには無理で、そうこうする内に肺が愈々悪く成り転任をせぬ内に亡くなって仕舞いました。しかし、ここでは死なないで転任して生きて居ることに成って居ます。「教員のSは、枕流亭が出来てから間もなく転任を命ぜられて、同じ郡中ではあるが、四里ほど離れた村にやられたので、いろいろの噂は耳にしながら、遂に此処にやつて来たこともなかつたが、ある日用事があつて、ふと其処を通つ見た。」(△1のp399)と記し、これから日記の内容が綴られますが、私は気に入らないので割愛します。

 それから1、2年経った後には
  「誰ももう此処が一度さういふ風に繁華な町であつたなどといふことに気が附くものはなかつた。知つてゐるものは、益々其処が昔の一部に復帰しつゝあるのを見た。また知らないものは、此処は昔からこのまゝかうした野であつたとのみ思った。」
(△1のp403)と記して居ます。そして最後は
  「土手の上からは矢張美しいT川[利根川]の流が見えて、冬は遠山の雪が金属のやうに悶々と輝きわたつた。春はその草路の中のさゝやかな赤い花に露が置いて、天上の星の光が夜毎に来ては接吻した。雲雀はその変らない恋の唄を高く空にうたつた。」
(△1のp403~404)と、利根川の情景揚げ雲雀の囀りで終わって居ますが、これは冒頭の揚げ雲雀と対を成して居るのです。作者花袋は此処は昔からこのまゝかうした野であつたかの如くに、何も変わらなかった事を暗に言って居ます。
 旧川俣駅の「束の間の夢」はこうして終わり「再び草の野に」帰したのです。

 ■利根川南岸の風景 - 旧川俣駅を偲ぶ























 こういう所を散歩するのは”廃墟マニア”(※19)だけですが、私もマニアなんでしょうか(?)。確かに冬の寒い中を歩いていたのは私だけでした。


 ■小説『再び草の野に』の哀愁

 
利根川橋梁



 ■結び

 
可笑しくもあり悲しくもあり
小市民

 つまり人間という生き物は「100年前の事実は忘れて行く」というエルニーニョの小定理です。これを最初に公表したのは
  板東のドイツ人俘虜たち(The German captives in Bando, Tokushima)

ですので一度ご覧下さい。






 尚、[田山花袋を文学散歩]シリーズの他画面への切り換えは最下行のページ・セレクタで行って下さい。(Please switch the page by page selector of the last-line.)

φ-- おしまい --ψ

【脚注】
※1:田山花袋(たやまかたい)は、小説家(1871~1930)。名は録弥。群馬県館林市生れ。1907年(明治40)「蒲団」を発表して自然主義文学に一時期を画し、赤裸々な現実描写を主張した。他に「生」「妻」「田舎教師」「時は過ぎゆく」「一兵卒の銃殺」など。
※1-1:文学に於ける自然主義(しぜんしゅぎ、naturalism)とは、理想化を行わず、醜悪・瑣末なものを忌まず、現実を唯在るが儘に写し取る事を本旨とする立場。19世紀末頃フランスを中心として起る。自然科学の影響を受け、人間を社会的環境と遺伝とに依り因果律で決定される存在と考えた。ゾラハウプトマンなどがその代表。日本には明治後期に伝わり、田山花袋島崎藤村らが代表。







※8:根津嘉一郎(ねづかいちろう)は、明治~昭和時代の実業家(1860-1940)。山梨県出身。東武鉄道・富国生命など多くの事業に関与し、実業界に君臨。武蔵高校・根津美術館を創立。<出典:一部「学研新世紀ビジュアル百科辞典」より>



※9:田中正造(たなかしょうぞう)は、明治の政治家・社会運動家(1841~1913)。下野小中村(栃木県佐野市)生れ。自由民権運動に参加。1890年(明治23)以来衆議院議員に当選。足尾銅山の鉱毒問題解決に努力1901年天皇に直訴したが敗れた。以後も終生鉱毒問題に意を用いた。

※10:舟橋/船橋(ふなはし)とは、多くのを並べ繋ぎ、その上に板を渡して橋としたもの浮橋。万葉集14「かみつけの佐野の―取り放し親は離(さ)くれど吾(わ)は離(さか)るがへ」。
※10-1:浮橋(うきはし)とは、水上に、又は多くのを浮かべてその上に板を渡した橋。舟橋/船橋。浮桟橋。万葉集17「上つ瀬にうち橋渡し淀瀬には―渡し」。

※11:オムニバス(omnibus)は、(元ラテン語で「万人向き」の意)[1].乗合自動車。バス。
 [2].映画などで、幾つかの独立した短編を並べて一つの作品にしたもの


※y:佐野(さの)は、栃木県南西部の市。元、日光例幣使街道の宿場町、渡良瀬川水運の要地。広幅綿縮(佐野縮)の産地。人口8万3千。
※y-1:足利(あしかが)は、栃木県南西部の市。中世末以来、絹織物の産地。現在も、銘仙の他、人絹・交織等の機業地。機械・化学工業も発達。人口16万4千。
※y-2:桐生(きりゅう)は、群馬県南東部の市。足利・伊勢崎と並ぶ北関東の機業地。人口11万9千。




※12:田舟(たぶね)は、深田で、苗・刈穂や肥料を運ぶ舟。苗舟。


※z:白粉(おしろい、powder)は、(「お白い」の意)化粧に用いる白い粉。粉白粉/水白粉/煉白粉/紙白粉/固形白粉などが在る。原料は炭酸鉛(鉛白)で在ったが、鉛毒の為1935年販売禁止。今はタルクカオリンなどを用いる。「―を付ける」。



※13:渡頭(ととう)とは、渡し場。渡船場。

※14:分福茶釜/文福茶釜(ぶんぶくちゃがま)は、この場合、群馬県館林南方に在る古寺茂林寺の伝説の什宝の茶釜。応永(1394~1428)年間、老僧守鶴が愛用したもので、汲んでも汲んでも湯が尽きないので不思議がられたが、守鶴は住持に狸の化身で在ることを見破られて寺を去ったと言う。
※14-1:茂林寺(もりんじ)は、群馬県館林市に在る曹洞宗の寺。1468年(応仁2)領主赤井照光の創建。開山は大林正通(だいりんしょうつう)分福茶釜の伝説で有名。

※15:阿嬌(あきょう)とは、(幼少の漢の武帝を惹き付け、後に皇后に成った美人の名から)美人。

※16:招牌(しょうはい)とは、看板のこと。

※17:達磨(だるま)とは、この場合、下等な売春婦の異称。じごく(地獄)。
※17-1:達磨屋(だるまや)とは、私娼を置いている宿。曖昧屋

※18:土工(どこう)とは、[1].築堤・道路工事など、土砂を取り扱う土木工事。土功。
 [2].土木工事に従う労働者。


※x:「ぐれはま」とは、ぐりはまに同じ。佐夜中山集「ありかひも何―の生き身玉」。
※x-1:「ぐりはま」とは、(「はまぐり(蛤)」の倒語物事が食い違うこと。当てが外れること。ぐれはま。浄、曾我会稽山「言ふことなすこと―になり」。
※x-2:倒語(とうご)は、対話の当事者には相互に了解済みの事柄で、明示する事を憚る場合/洒落て言う場合/又意味を強める場合などに、音節や語の順序を逆にして造った語「ねた(種)」「れこ(此)」など。



※19:マニア(mania)は、[1].熱狂。熱中。夢中。
 [2].一つの事に異常に熱中する人。「切手―」。

※20:揚げ雲雀(あげひばり、ascending lark)は、ヒバリが空高く舞い揚がること。又、そのヒバリ。季語は春。




    (以上出典は主に広辞苑です)

【参考文献】
△1:『定本花袋全集 第8巻』(田山録弥著[録弥は花袋の本名]、定本花袋全集刊行会編、臨川書店)。

△2:『東武本線ハイキング&ウォーキングガイド みちしるべ』(東武鉄道営業企画課編・発行)。埼玉・栃木・群馬方面の案内書としてお薦め

●関連リンク

補完ページ(Complementary):人間という生き物は
「100年前の事実は忘れて行く」というエルニーニョの小定理▼
板東のドイツ人俘虜たち(The German captives in Bando, Tokushima)

[埼玉を”押し広げ”る旅]シリーズの最初▼
2003年・「忍の浮城」-武蔵忍城
(The Oshi floating-castle, Gyoda, Saitama, 2003)




明治・大正の頃は駅を停車場と呼んだ▼
恥ずかしや深谷の”東京ステンショ”
(Shameful Fukaya station, Fukaya, Saitama)








Select page:1:「田舎教師」-羽生('Country teacher', Hanyu)
          |2:「再び草の野に」-川俣('To the weed again', Kawamata)|
          3:「妻」「野の花」(柳田国男の悲恋)-布佐('A wife', 'Field flowers', Fusa)

トップメニューに戻ります。Go to Main-menu 上位画面に戻ります。Back to Category-menu