-- 2013.10.21 エルニーニョ深沢(ElNino Fukazawa)
2014.02.05 改訂
柳田国男(※1)と言うと『遠野物語』(※1-1、△1)などで知られた日本の民俗学を確立した民俗学者と誰もが思って居ますが、勿論それはその通りなのですが、しかし乍ら「柳田国男は若い頃は文学青年だった」(←裏を返せば「多情多感な青年」だった)という事実は、今と成っては殆ど知られて居ません。
私は兼ねてより「柳田国男は若い頃は文学青年だった」という事を一度きっちり纏めて型を付けたいと思って居たのですが、どうもそれには”壁”が在るのです。この”壁”の為に「柳田国男は若い頃は文学青年だった」を遣ろうとすると、或る所で立ち往生して仕舞うのです。しかし私はこの”壁”を何時か突破して遣ろうと思って居たので、今回は腰を落ち着けて取り組むことにしました。
その”壁”とは、柳田自身が青春文学を封印した事で、彼は死ぬ迄封印しました。死んだ以降も封印はされた儘で何時の間にか有耶無耶に成りました。こういうローカルな話は100年も経てば関係者は生きて居らず、況してや本人が封印し否定したと成ればエピソードや事実は忘れられ、やがては”無い事が事実”に成って仕舞うのです。
それと柳田国男は若い頃は松岡姓、即ち松岡国男と呼ぶのが厳密な意味で正しいのです、これも殆ど忘れられて居ますが。と言うのは1901年(26歳)に柳田家と養子縁組をし初めて柳田姓に成るのです。ですから当ページでは若き頃は国男と呼ぶことにします。今回姓が何故重要かと言うと、封印と養子縁組が緊密に関連して居るからです。尚、当時は「國男」と書きましたが「国男」に統一します。但し、引用文の場合は原文重視の立場から原文通りとします。
こうして国男は自らの青春文学を或る時から一貫して否定したので、一般には「柳田国男は若い頃は文学青年だった」という事実は殆ど忘れられました。しかし国男が若い頃に公刊雑誌などに発表した詩や歌は記録が残って居ます。『桃太郎の誕生』(角川文庫)の年譜は可なり詳しいので、それに基づいて見て行きます(△1-1のp443~455)。但し、西暦を主体で進めます。そして何故封印しなければ為らなかったのか?、について出来るだけ迫ってみます。
尚、今回の文学散歩はバーチャルな旅です。どうか貴方(貴女)の想像力を思い切り働かせて下さい。又、100年という言葉が何度か出て来ますが、これは当ページのもう一つのキーワード(keyword)です。又、引用文の漢数字をアラビア数字に改めました。
(1)若き国男は文学青年だった
1875年7月31日、兵庫県神東郡田原村辻川(今の兵庫県神崎郡福崎町辻川)に松岡家の8人兄弟の6番目として松岡国男は生まれます。国男は早くも頭角を現し1885年(10歳)に『花鳥春秋』を書きます。そして1887年(明治20年、12歳)に三兄井上通泰(※1-2)に連れられて東京の三兄の下宿へ先ず行き、それから長兄鼎(=医者)の住む下総布川(現:茨城県利根町) -ここはカッパ(河童)の子ゝコの伝説地です- に住むことに成り、故郷を離れるに際し『竹馬余事』(詩文集)を作って居ます。
『利根川図志』(※2、※2-1)(赤松宗旦著、柳田国男が校訂)の解題で国男が「「利根川圖志」の著者赤松宗旦翁の一家と、此書の中心となって居る下總の布川(フカワ)といふ町を、私は少年の日からよく知って居る。...<中略>...明治二十年の初秋に、私は遠い播州の生れ在所から出て来て、此地で医者をはじめた兄の家に三年ばかり世話になった。」と記している(△2のp3)通り、赤松宗旦は布川の人(※2)と在りますが、先祖は播州赤松氏(※2-2)に連なる豪族です(△2のp6)。そういう意味で国男と赤松宗旦は共に播州から下総布川へと”流れ着いた者同士”(→後出)という思いが有ったのです。国男と宗旦は歳が69歳違い国男が生まれる13年前に宗旦は亡くなって居ます。だから国男は「宗旦翁の一家」を知っていると書いている訳です。
その両者が布川について、同書の本文で宗旦が「古(いにしえ)は府川と書きて、豐島(とよしま)家に有し、千葉家に属し、數(しばしば)軍功ありし。」(△2のp145)、「布川は一帯の丘山を背にし、前は利根川に臨みて街衢(がいく)を列ね、人烟輻湊して魚米(ぎょべい)の地と称するに足れり。」(△2のp148)と記し、一方国男は解題で「布川は銚子から關宿(せきやど)への全航程の、ほゞまん中であつたといふのみで無く、流れが両丘の間に挟まつて、爰(ここ)へ来て大いに屈曲して居る。」と記して居ます(△2のp4)。
後から考えれば、若かりし国男が布川の長兄鼎宅に転居した事、やがて鼎が川向こうの布佐に転居した事が今回のテーマを決定的に左右して居るという事が後で解ると思います(→後出)。
国男の文学歴は、1889年(14歳)に「しがらみ草紙」に短歌1首を発表、1890年(15歳)に東京の三兄通泰宅に同居し「しがらみ草紙」に「秋元安民伝」を発表します。そして通泰を通じ森鴎外を知り、通泰に薦められて和歌を松浦辰男 -桂園派(※3~※3-1)の歌人、号は萩坪- に入門し、その縁で田山花袋(※4)や宮崎湖処子(※5)や太田玉茗らと交わり、新様式の新体詩(※6) -鴎外は新体詩の詩人でもある- に傾倒して行きます。
1893年(18歳)、「しがらみ草紙」「小桜縅」に短歌を発表。1895年(20歳)に遠縁に当たる中川恭次郎を介して「文学界」(※7)に赤松某の名(←赤松宗旦の姓を借りたのか不明)で抒情詩を発表。この頃、変名が多いのです。そして1897年(22歳)に詩集『抒情詩』(国木田独歩・田山花袋・太田玉茗・矢崎鎮四郎・宮崎湖処子・松岡国男の共著)を民友社(※5-1)から刊行し、これが国男の文学で一番知られた作品です。民友社の徳冨蘆花(※5-2)や独歩(※5-3)・玉茗・湖処子らは当時の田園生活(又は田舎生活)を理想化する「田園派」の人達です。
しかし、詩集『抒情詩』を出した2年後辺りから国男は”何故か?”、空想的な文学から現実社会に向かって大きく舵を切るのです。しかも『抒情詩』さえも否定してです。これは余りにも突然で理由もはっきりせず唐突感は否めません、”何故か?”。
(2)この当時、帝国大学は3年制で秋入学だった
帝国大学(※8)は1886(明治19)年 -国男が11歳の時- に出来た帝国大学令に依り、それ迄の東京大学(1877年設立)が帝国大学と成りました。そして1897(明治30)年に京都帝国大学が設立されたので帝国大学が東京帝国大学に名称変更しました。国男が大学に行くのは正にその1897年で東京帝国大学の1期生です。日本もやっと大学制度が出来て間も無い時期で教授陣もイギリス人やドイツ人が多いのです。日本人の大臣よりも御雇い外国人教授の方が給料が高いと言われた時期です。従ってこの時期は学校制度の過渡期で、秋入学(=入学は9月で卒業は7月)、修業年限は3年(医学部のみ4年)、つまり国男が行く法科は3年制なのです。これに合わせて第一高等学校も9月入学、7月卒業です。しかし、この時代の学制は未だ過渡的です。以下で一覧表などを見る場合、この点をインプットして見て下さい。
今、日本は大学入学を9月に移行しようとして、多くの人はこれを”新しい制度”と思って居ますが、然に非ず、これは約100年前の制度に戻って居るのです。欧米の大学が9月から始まるのはキリスト教の影響ですが、更に遡源そればユダヤ暦(太陰太陽暦) -イエス・キリストはユダヤ教の改革者即ちユダヤ人です(←私は”性教徒革命”と言ってますが、ムッフッフ!)- に行き着きます。ユダヤ暦の1月は西暦の秋分の頃(=9月頃)なのです。だから欧米の大学が9月から始まるのです。
又、これからの日本は英語、特に英会話に力を入れるそうですが、100年前の日本も御雇い外国人教授の授業を理解する為に大学の下部組織の高等学校に於いて外国語(特に英・独・仏)の試験を課し、中でも第一高等学校はレベルが高かったのです。
[ちょっと一言] 第一高等学校の様な第n高等学校を今ではナンバースクール(※8-1)と呼びますね。この頃は第n高等学校の定員と帝大の定員とが略等しく、第n高等学校から帝大には無試験で行けたのです。ご存知でしたか?
因みに旧制高等学校は、一高が後の東京大学、二高が東北大学、三高が京都大学、四高が金沢大学、五高が熊本大学、六高が岡山大学、七高(造士館)が鹿児島大学、八高が名古屋大学です(※8-1)。
だから高校・大学のバンカラ(蛮カラ)(※8-2)が一つの流行/一つのファッションに成ったのです。寮には落第(=今の留年)を何年も重ねた猛者(もさ)が居て、酒を飲み語り明かし寮歌をがなり、バンカラが青春を謳歌した「旧き佳き時代」でした。
花袋でさえ -彼は丁稚も遣ったし大した学歴も無い- 外国語の小説を原文で読んで居ました。だから花袋を始め文学青年たちがお互いで会話する時は、英語とかドイツ語とかフランス語とか時にはイタリア語を交えるのです。文学青年の一種の気取りですが、又それが流行りでも有りました。
100年も経つと100年前の事は判らなく成り”新しい制度”に見えて仕舞うのですね。
(3)田山花袋の小説『妻』が伝える国男の変節
ここに自然主義作家(※4-1)の田山花袋の小説『妻』(△3)は、国男の変節(※9)を間接的乍ら小説の場面として描いて居るのです。この小説は1908~09年に新聞に連載され1909年に今古堂から出版され、独歩・玉茗・国男・花袋自身 -詩集『抒情詩』を出した面々- がモデルとして登場するのです。小説の中で妻が花袋の長子を懐妊して居り翌年に長女を生みます。これに依って年代が解ります、1900年です。これを表にしましょう。
<小説『妻』作中人物と実在のモデル>
<作中人物> <実在のモデル> <1900年初夏の年齢>
田邊 国木田独歩 29
西(大学3年生=最終学年) 松岡国男(後の柳田国男) 25
早川貞一 太田玉茗(後、建福寺住職) 29
中村勤 田山花袋 29
花袋の妻お光(主人公) 太田玉茗の妹・伊藤りさ 20
祖母様(品の好いお婆さん) 安東菊子(養父の末娘・孝の祖母) --
戸澤先生 養子縁組を世話した松波遊山 --
一見して判るのは独歩・玉茗・花袋の3人は皆略同じ歳で、国男だけ4歳年下です。ここで皆有名人ですが、太田玉茗のみ知られて居ないので少し触れて置きます。彼については
「田舎教師」-羽生('Country teacher', Hanyu, Saitama)
を参照して欲しいのですが、11歳の時に埼玉県羽生市の建福寺(曹洞宗)に預けられ三村玄綱に改名(三村は母方の姓)、やがて住職の養子と成り曹洞宗大学林(駒沢大学の前身)で仏教や禅を修めた後、文学を学ぶ為に東京専門学校(早稲田大学の前身)の文学科に進み1894年に卒業します。卒業後2年間は三重県の「伊勢の一身田の専修寺の中学」で英語・国語教師を勤め、上京後は新体詩や小説や翻訳で活躍、1897年には花袋らと前出の詩集『抒情詩』を出しますが、1899年5月に建福寺の住職を継ぎ29歳で羽生に引き籠もりました。玉茗の妹りさが花袋の妻(=小説『妻』の主人公)であり、花袋と最も気心が通じた人物です。そして羽生市の田舎教師 -小説『田舎教師』の主人公- に最も精神的に影響を与えた人物です。更に花袋の『蒲団』の女弟子のモデルが学生との間に為した子を花袋の頼みで寺に引き取り”恋の不始末の後始末”をした事で、玉茗の人柄が偲ばれます。尚、この子は3歳位で亡くなりましたが。
小説『妻』で国男に関係有る部分は、上述の様に花袋の妻が長子を妊娠中で玉茗が田舎寺へ引き籠もる決心をして「遅咲の躑躅が赤く庭を彩った。」(△3のp55)頃に久々に花袋の借家へ遣って来る所から始まります。花袋も虫の知らせで会社 -当時花袋は博文館に勤めていた- の帰りに豚肉を買って来たので早速七輪で「豚肉のすき焼き」を始め酒も付けます。小説では「「(花袋)さういふ處に身を落附けて了ふのも却て心に餘裕が出来て好いかも知れない。けれど君(玉茗)、田舎といふ處は恐ろしい所だよ。田舎は底の知れない泥深い澤のやうなもんだからねえ。まごまごすると埋つて出られなくなる!」「(玉茗)僕もそれは考へるんだがね」」(△3のp66)という会話が描写されて居ます。
すると、どういう訳か国男 -「眉の昂(あが)つたかの大学生」(△3のp65)- もこの後花袋の家に遣って来て玉茗・国男・花袋の3人はそれぞれの将来について「すき焼き」を突き乍ら語り合うのです。酒やビールが入って話が酣(たけなわ)に成った頃に国男は「「僕にしても、もう」と大学生は愈々調子に乗って、「もうそんなことを考へて居られない。甘かつた酔(ゑひ)が苦い痛恨の追懐(おもひで)になつて了つた今は到底昔の境に帰ることは出来ないぢやないか、君。あれほど努力し、あれほど苦悶したのは君達も知つて居る。それに結果は? と言ふと、あの有様ぢやないか」とビールを呷って「僕はもう詩などに満足しては居られない。これから実際社会に入るんだ。戦ふだけは戦ふのだ。現に、僕はもう態度を改めた!」...<中略>...「けれど僕は文学が目的ではない、僕の詩はディレッタンティズム(※10、※10-1)だった。もう僕は覚めた。恋歌を作つたッて何になる!その暇があるなら農政学(※11)を一頁でも読む方が好い」」(△3のp75~76)と非常に強い言葉で、しかし明解に農政学の啖呵を切るのです。事実、1899年から国男は「松崎蔵之助に師事し、農政学を勉強」(△1-1のp445)と在りますが、これは多分今で言う松崎教授の農政学のゼミ(※12、※12-1)に入ったという事だと思います。国男はこの時大学3年 -この当時は3年制であった- です。ここで「ディレッタンティズム」と難しい語を使って居ますが、これが私の言った気取りです。その後国男は「今度は卒業だから、少しは点も取つて置き度いと思つてね。……それに、それが済むと、またすぐ文官試験だから、一二年は忙しくつて駄目だ」(△3のp77)と話し、それから3人は玉茗の寺行き -これは本当は1899年5月なので1年前ですが小説では1900年の事として居ます- に乾杯をして国男は帰ります。ここで啖呵を切る前に国男が言った言葉「苦い痛恨の追懐」とか結果が「あの有様」とかが何を指すのか?、が引っ掛かるのですが、それについては後で”問題”にする事にし、ここは取り敢えずこの”問題”を置いて前に進みます。
国男は1901年5月に柳田家への養子縁組(←養父の末娘と許婚に)を決め、これで正式に柳田姓と成ります。しかし『定本柳田国男集』の年譜に拠ると明治三十二年(1899年)の項に「秋、兄井上通泰の歌の師松波遊山を通じて柳田家の養嗣子となる話が出る」と記されて居るのです。つまり養子縁組の打診は1899年の秋(陰暦)に齎されて居た(→後出)のです。そして国男はそれを受け入れるのです。実は国男の「唐突な変節」はこの時に始まるのです。
小説にもその話が出て来ます。それは上の場面の続きで、国男が帰った後で花袋の家に泊まった玉茗と花袋の義兄弟の会話の中です。「昨年の夏だツた。突然僕の處に来て、その話をした。西君(国男)は平生家庭に非常に重きを置く人だが、其時もね、僕はもうラブなどはお終ひだ。好い家庭の快楽さへあればそれで満足だと謂ってね。...<中略>...田邊君(独歩)などは西君(国男)の養子問題は大不賛成なんだ。...<中略>...西君は屹度『やさしい束縛』といふやうな處が欲しいんだと僕は思ふね」(△3のp78~79)という場面が在り、国男がこの時は未だ弱気に「好い家庭の快楽さへあればそれで満足だ」と語った事が描かれて居ます。それが翌年には啖呵を切る程「強い意志」に変わって居るのです。ではその養子縁組とはどういうものかと言うと、打診を受諾した去年(1899年秋)の時点では、国男は24歳だから良いとして相手は未だ12歳(→結婚時の歳の差を参照(後出))なのです。今で言えば小学校6年生位です、江戸時代なら不思議では無いですが明治32年にも成って、これって少し異常(→後で詳しく論じます)です。
小説もその後の会話で「「それぢやまだ結婚するまでには、大分間があるんだね?」今度は貞一(玉茗)が訊く。「(花袋)間があるともね、君。昨年西君(国男)がちよいちよい行き始める頃、まだほんの子供だからツてよく言つて居たさ。...<中略>...君、考えると、ロマンチックぢやないか、西君のやうな烈しい恋に憧れた人が、さういふ幕を打つといふのは余程反映(コントラスト)の妙があるね」」(△3のp81)と言って居ます。
国男の「唐突な変節」は明らかに養子縁組打診の受諾 -即ち1899年の秋から- と関係が有るのです、”何故か?”は解りませんが。それ故に独歩の批判は一理有るのですが、又国男には他人には言えない悩みも有りました(→後出)。事実、東京帝国大学を出て農商務省農務局に勤務した国男は早稲田大学で農政学を講義 -後の1905年に『農政学』(早稲田大学講義録)を刊- し、1904年(29歳)には許婚と結婚(17歳)し、官僚としての地歩を固めて行くのです。こうして国男は詩集『抒情詩』を否定し青春文学を自ら封印したのです。
(4)詩集『抒情詩』が暗示する「利根の悲恋」
ここで『遠野物語・山の人生』の解説を読むと桑原武夫(※13、※13-1)が「彼(国男)の養子縁組みと抒情詩否定とは深くつらなっているのではないか」と記して居る確信的な箇所に出会(くわ)します(△1のp323)。更に「私は、父母の死による寂しさと養子縁組みを直結するのではなく、その間に女性という中間項をおき、それの表現が抒情詩であったと考えるべきではないかと思う。」と言って居ますが、全く同感です。更に「彼がなぜ柳田家の養子となったのか、なぜ貴族院書記官長の地位を捨てて官僚生活に終止符を打ったのか、事実は記載されているが、その真の理由は蔽われたままである。なぜであろうか。」(△1のp320)と言ってます。これは全く全く同感です。桑原は「なぜであろうか。」と敢えて言ってますが、これが私の言う”何故か?”なのです。桑原が記す通り「基本資料かじゅうぶんに公開されていない現状」(△1のp330)では憶測は仕方が無いのです。
再び田山花袋に戻って、実は国男は例の養子縁組の前に”或る女性”と恋愛関係に在ったのです。しかし女性は死にました。これが私の言う「利根の悲恋」です。小説はその事に触れ「「国の方は何うしたねえ、もう終をつげたと言って居たが、一体何うしたんだ?(玉茗)」「肺で死んだんだらう(花袋)」「さうか、それは可哀想だね、何でも親の無い、兄に懸つてる娘だつて聞いて居た。僕はその写真を見たことがあるよ(玉茗)」「君も見たか(花袋)」「まア西(国男)さんに前にそんな人があつたんですか(花袋の妻=主人公)」...<中略>...「死んだのは、何でも去年の三月頃(←本当は今年の3月(→後出))だらう。布施あたりの姉さんの處か何かで死んだんだ。利根川を夜舟で其死骸を郷里に下して葬式をした相だが、実にロマンチックさね・・・昨年雑誌に出た先生(国男)の『利根のうれひ』といふのを君(玉茗)は知つてるだらう、あれがそれを歌つたんだ(花袋)」...<中略>...「此度のはその反動だね!(玉茗)」」(△3のp81~82)と可なり具体的に記して居ます。当時は栄養状態も悪く肺結核が蔓延して、特に文学青年など”肺結核に成って一人前”と思われて居ました。布施は今の千葉県柏市布施です。実際にその女性の写真を持って居たかは解りませんが、それだけ国男はその女性との恋に真剣であった事は確かです。そしてこの部分は明らかに「利根の悲恋」を暗示して居るのです。
その『利根のうれひ』を彷彿とさせる歌が桑原の解説に載って居ます(△1のp322)。
利根川の 夜舟の中に 逢見つる 香取少女は いかにしつらん
松岡国男
この歌もそうですが、私の憶測 -即ち”独断と偏見”- を交えて言わして貰えば、詩集『抒情詩』にはこの女性への恋愛感情を吐露した詩が載って居たのではと思われるのです。だから「柳田家の立場」や「自分の恋の負い目」を考慮して詩集をそれ以上広めたく無いと考えたのでしょう。それ故に桑原武夫が「彼はなぜ抒情詩の再録を厳禁したのか。」(△1のp322)と率直に疑問を呈して居るのです。
事実、『抒情詩』は殆ど恋の詩で「利根の悲恋」を歌った詩を含んで居たのです。それ故に『抒情詩』を封印する必要が有ると国男は考えたのです。国男が青春文学を何故封印しなければ為らなかったのか?、の一応の答えです。「一応の」と付けたのは未だ疑問が残るからですが、それは後で又取り上げます。
国男は『利根川図志』の解題(△2のp3)に記して居る様に1887(明治20)年から長兄鼎を頼って茨城県布川(←今の茨城県北相馬郡利根町、ここがカッパの子ゝコの伝説地という話は前にしました)に住みますが、1889年には父母も布川に一緒に住みます。そして1890年からは国男は東京の三兄通泰の下谷御徒町の家にも世話に為ります。
ここで布川時代の国男のエピソードを一つ。国男は徳満寺で間引き絵馬(※14、※14-1)を見て心を痛めて居ます(△4のp152)。と言っても間引き絵馬はそれ程珍しいものでは有りません、インターネットで検索すると他にも出て来ます。要するに赤ん坊の「間引き」は当時は田舎では半ば公然と行われて居たという事を押さえて置かなければ為りません。でも12~14歳の国男には辛かったのだと思います。
(5)花袋宛柳田国男書間集が明らかにした「利根の悲恋」 - 母なきいね子
1893年(国男18歳)、長兄鼎が布佐(千葉県南相馬郡布佐町(現:我孫子市))に引っ越すのです(△1-1のp443~444)が、実はこの布佐こそ「利根の悲恋」の舞台であり「母なきいね子」の故郷なのです。『利根川図志』に布佐は「布川より渡場を南に渡れば布佐ノ郷なり。」(△2のp163)と在る様に、布川と布佐は県が異なりますが利根川を挟んで対岸に位置し直線距離で略1km位しか離れて居ません(→こういう例は大きな河川では良く有る事です)。
国男は同書の解題にて「對岸の布佐の町は新地だと言はれて居る。その木村は元禄にはまだ岡の上に在って、河岸は漁師の住む網代場であつた。夜の宿なまぐさしと芭蕉の紀行にも記してゐる。」と在ります(△2のp4)。新地とは色町のことで木村という料亭が在ったのでしょう。「芭蕉云々」は『利根川図志』本文から採ったもので、本文に「芭蕉翁鹿島紀行(※15)云、日既に暮れかゝる程に、利根川の畔布佐といふ處に着く。この川にて鮭の網代といふ物巧みて、武江の市に鬻(ひさ)ぐ者あり。宵の程その漁家に入りて息(やすら)ふ。夜の宿腥(なまぐさ)し。」と在ります(△2のp166)。武江とは武蔵国江戸です。又、戦国時代は「布佐ノ砦」と言いました(△2のp163)。
布佐と布川の位置関係を▼下の図▼で示しましょう。
<布佐と布川の位置関係図と
国男の「唐突な変節」と「利根の悲恋」との関係>
新
大 布川:国男12歳の時に
茨城県 利 (現:取出市) 播州から布川に転居
↑ 根 (長兄鼎宅に住む)
│ 橋 利根川 (現:北相馬郡 赤松宗旦の故郷
────││───────────\ 利根町)/─────────────
────││──────────\ \ 布川 / /────────────
│ 布施(現:柏市、 \ \──/ /布佐:国男18歳の時に
│ 姉の家) 布佐\────/ 長兄鼎が転居
↓ (現:我孫子市、 母なきいね子の故郷
千葉県 いね子布施に隔離 JR成田線布佐駅) 布佐の天台宗勝蔵院には
いね子の遺骸は夜舟で 国男の父母と鼎の墓と、
布施→布佐を運ばれた いね子の墓が在る
*.国男20歳、いね子13歳の時に、いね子の母逝く。
国男21歳、布佐のいね子(14歳)に国男の片思いの恋が始まる。
国男24歳、春頃いね子、布施の姉の家に隔離
国男、いね子(17歳)との別れ(6月発表の詩『別離』)
→ 「利根の悲恋」を永遠化(昇華)
養父直平の末娘・孝(当時12歳)との養子縁組の打診される → 受諾
その直後、国男の「唐突な変節」
国男25歳、いね子(18歳)は3月に肺結核で逝く。
以後、国男は苦い思い出の「利根の悲恋」を記憶から抹殺。布佐についても多くを語らず。
ご覧の通り布佐と布川は利根川を挟んで相対して居ますので、昔は両方共下総国でしたが今では県が違い少々ややこしく成って居ます。上の図で「*....」の部分は、これから一つ一つ詳細に説明して行きます。
ところで、柳田国男が田山花袋に宛てた「117通もの花袋宛柳田国男未発表書間集」が発見され、花袋の次男・田山瑞穂氏から田山花袋記念文学館(群馬県館林市)に寄贈され1991年には『田山花袋宛柳田国男書簡集』として公刊されました(△4のp10~11)。この新資料に依り今迄曖昧に雲を被って居た”或る女性”とは、国男が「母なきいね子」 -いね子は1895年6月17日に母を亡くして居た(△4のp36)- と歌って居た女性(←と言うより少女)である事が判明し、ここに初めて「利根の悲恋」の主人公が浮かび上がったのです。「この書間集によって明確になったことが二つある。一つは、「三年此かたの我恋のうたハ皆此母なきいね子が為によまれたる也」という書間の一節により、松岡國男の恋をめぐる曖昧な雲が吹き払われたことである。...<中略>...以上の事実は、必然的にもう一つの事実を白日のもとにさらす。つまり柳田國男は、その新体詩について真実を偽っていたということである。」(△4のp11~12)と、『柳田國男の恋』の著者・岡谷公二氏は書いて居ます。
そして同書は「松岡國男がその恋人いね子の名前をはじめて花袋にあかした手紙は、明治29年8月3日付で、銚子の暁鶏館から出したものである。当時國男は満で21歳、第一高等学校の3年生であった。この年、7月8日に母たけが死去、國男は看病疲れから肺尖カタル(※16~※16-2)を患い、その保養のため、一人で暁鶏館に来ていたのである。」「...けふ又新詩一を得たり太田にも御示し被下度候
母なき君をあはれとて なくさめたりし我も亦
はゝなき人となりにけり あはれと君ハおほすへし
今より後はつゆの身の かなしくつらくある毎ニ
かたるもきくも君ならて 誰かはあらむ広き世に
三年此かたの我恋のうたハ皆此母なきいね子が為によまれたる也 之も亦縁にや思へは彼女ハ幸なるものに候 されど彼女ハまだ僅に16にして至て罪なき也 切に君(花袋)が誤解し給はざらんことを祈る 之ハかつてより君に告けむとして機なかりし事也...」(△4のp14~15)と記して居ます。
明治29年は1896年で、年譜を見るとこの手紙の後の9月には国男は父操も布佐で亡くして居ます(△1-1のp444)。つまり、この年の国男は母と父を相次いで亡くし自らも肺尖カタルを患うという人生の大きな試練の年でした。しかし、その悲しみにも増して母なきいね子に対する思いは強く「文中の詩は「露子に」という題でほとんどそのまま、この年12月発行の『国民之友』(327号)に、他の5篇の詩とともに発表されている。」(△4のp15)と在ります。いね子の歳が16と在るのは数え年で満では14歳、国男は21歳です。
実はこれも【参考文献】△4の著者・岡谷公二氏が勝蔵院で突き止めたのですが、いね子の墓もこの寺に在り、本名・伊勢いね子(二女)。1882年3月31日生まれ~1900年3月3日(肺結核で18歳で死去)、戒名は頓誉貞寿清信女。当時のいね子の家は川べりに在り鼎の「凌雲堂医院を「去る事数十歩」の位置」(△4のp36)で、布佐の天台宗勝蔵院は、何と国男の父母の墓と鼎の墓が在る寺なのです。いね子の墓は国男の父母及び鼎の墓の「隣と言っていい場所」(△4のp37)に在るのです!
いね子の実家伊勢家は魚屋「つるや」、父の実家も取手で魚屋「丁子屋」、父もやがて布佐で魚屋を始め利根川を川船で運ばれて来る魚の仲買・仕出屋をして居ました(△4のp36)。食べ物を扱っている店から結核患者を出したら商売に差し障りが有るので晩年は姉の家(布施)に隔離したそうです(△4のp61)、位置関係図を参照。小説『妻』には「利根川を夜舟で其死骸を郷里に下して葬式をした」と在りましたが、布施は布佐から15km位上流です。彼女を知る人々の間では「美人薄命を絵に描いたような人」(△4のp37)と言います。病的な美しさは一種独特で正に「透き徹る様な月下の乙女」だったのでしょう。
尚、いね子の死が小説『妻』では去年(1899年)に成って居ますが本当は今年3月ですが、これは花袋の記憶違いでしょう。この小説が書かれたのは1908年頃ですから(△4のp62)、記憶違いも致し方有りません。
これを解り易く一覧表にし、章を改めて更に論じます。
(1)養子縁組の打診を受諾、全てはここから始まる
一覧表にすると解り易いですね、じっくり見て下さい。
<一覧表 - 若き国男の年譜と
国男の「唐突な変節」と「利根の悲恋」との関係>
1887年 松岡国男12歳 国男、布川(茨城県利根町)の長兄鼎宅に寄宿
1893年 // 国男18歳 長兄鼎宅、布川から布佐(千葉県)に転居
1895年 // 国男20歳 9月高校2年、いね子の母逝く
1896年 // 国男21歳 9月高校3年、いね子14歳
→ この頃、いね子への片思いの恋=「利根の悲恋」
国男の父母逝く、肺尖カタルを患う
1897年 // 国男22歳 4月詩集『抒情詩』(共著)を刊、「文学界」に詩を発表
7月第一高等学校卒業、9月東京帝大政治科入学
夏、国男の束の間の恋(隣家の「總領娘」数えで20)
→ 結婚を被申込み → 国男、優柔不断 → 破談
いね子(15歳)の父も逝く
1898年 // 国男23歳 変名にて「文学界」「帝国文学」に詩歌を発表
9月大学2年
1899年 // 国男24歳 春頃、肺結核でいね子(17歳)布施の姉の家に隔離される
6月、詩『別離』で「利根の悲恋」を永遠化(昇華)
秋(陰暦)、養父直平の末娘・孝との養子縁組の打診有り
→ 国男、打診を受諾、孝(当時12歳)と許婚に
→ 国男の「唐突な変節」
9月大学3年、松崎蔵之助に農政学を師事
→ 青春文学を自ら封印
1900年 // 国男25歳 いね子18歳、3月に肺結核で逝く
初夏、農政学の啖呵を切る(変節完了)
→ 強い意志の人
7月大学卒業後、農商務省農務局勤務
→ 早稲田大学にて農政学を講義
1901年 // 国男26歳 5月、柳田家と養子縁組 → 柳田国男誕生
養父直平は大審院判事、牛込区加賀町に住む
1902年 柳田国男27歳 専修学校で農政学を講義、『最新産業組合通解』刊
1903年 // 国男28歳 地名・伝説などに興味
国の雑誌に「日本産業史略」を連載
1904年 // 国男29歳 許婚(17歳)と結婚、官僚の地歩を固める
横須賀の捕獲審検所検察官に成る
養子縁組は今でも不透明部分が有り霧は完全には晴れて無いのです。結論を先に言うと、1901年5月に正式に国男の三兄通泰の歌の師・松波遊山(遊山は号で名は資之、桂園派)に依って行われ、これで正式に国男は柳田姓と成りここに柳田国男が誕生するのです。同時に養父直平の4女(末娘)・孝と許婚に成ります。しかし、この話は同じく松波遊山に依って1899年の秋(陰暦)に養子縁組の打診 -陰暦の秋は7~9月です- が有り、国男は打診を受諾するのです(△4のp60)。それに依り国男の「唐突な変節」が、正式な養子縁組(1901年5月)を待たずに打診の受諾(1899年秋)の時点から始まるという事は押さえて置かなければ為らない重要なポイント、即ち国男の養子縁組の核心です。しかし乍ら、初めは弱気で変節が完了する迄には国男の裡(なか)で葛藤が有り、変節が完了するのは約1年後(1900年初夏)の農政学の啖呵で「強い意志」が示されるのです。
(2)両家の家系
先ず両家の家系から見て行きましょう。国男はやはり柳田家に遠慮が有ったのでしょうか、何しろ養父直平(1849~1932年)は元の信州飯田藩士で大審院の判事(※17) -今で言えば最高裁判事- ですからね、直平の弟は軍人で台湾総督を務め男爵に叙された安東貞美(―さだよし、1853~1932年)です。ちょっと余談ですが国男の養父直平も実は養子で弟の安東姓が本流です。従って一族の中では直平よりも貞美の方が力が有った様です。
では松岡家は柳田家に比べ見劣りがするのか?、そんな事は有りません。長兄鼎(1860~1934年)は何度も出て来た医者です。三兄井上通泰(※1-2)は歌人(桂園派)として名高く、長弟松岡静雄(1878~1936年)は海軍軍人としてより言語学者として名高く南洋庁長官も務め、次弟松岡映丘(※1-3)は日本画家として著名です。そして国男は民俗学の草分けです。
しかし養子縁組と成るとやはり「家」の壁が在って、柳田家に入る前のちゃらちゃらした生き方をきっぱり改める様に養父直平に直接にか、或いは長兄鼎か、或いは三兄通泰と通泰の歌の師且つ養子縁組を仲介した松波遊山の結託か、はた又別の第三者か、”誰か?”に諭された考えるのが妥当でしょう。それ迄の自分の生き方を全て否定する訳ですから。総じて松岡家は父の代から医者の家系ですが、長兄が医者を継ぎ他は文人・学者系(空想型・理想型)です。対する柳田家は判事や軍人という堅物系(現実型・こちこち型)です。国男の「唐突な変節」とは空想型から現実型への180度の転換を指す訳ですから、柳田家の意向が反映した形です。
一方、国男が生まれたのは播州辻川、今の兵庫県神崎郡福崎町です。父操も医者で明治初年迄は相応な暮らしでしたが維新の大変革で家運は傾き、その為に父は精神を患らいました。それで兄たちが東京とか茨城県(後に千葉県に転居)に出て来て、国男もやがて兄たちを頼り移住し、更に父母迄もが長兄鼎の所に来て墓もそこに在るのです。桑原の言う様に「半漂泊」(※18、△1のp319)の生活から安定した生活を望む気持ちが人一倍強かった事も確かです。そのことは小説にも「やさしい束縛」として描かれて居ました。しかし本当にこれだけだったのか?
(3)別の角度から検討 - 田山花袋の小説『野の花』
ここで小説『妻』の中で置いて来た事が引っ掛かるのです。即ち国男が啖呵を切る前に言った「「僕にしても、もう」と大学生は愈々調子に乗って、「もうそんなことを考へて居られない。甘かつた酔(ゑひ)が苦い痛恨の追懐(おもひで)になつて了つた今は到底昔の境に帰ることは出来ないぢやないか、君。あれほど努力し、あれほど苦悶したのは君達も知つて居る。それに結果は? と言ふと、あの有様ぢやないか」」(△3のp75)という部分です。これは何を指すのか?、少なくとも母なきいね子からはこれに該当する様な話は出てきません、いね子は隔離されたのですから。
それにはやはり田山花袋の小説『野の花』(1901年刊)が大いに参考に成ります(△3-1のp14~57)。「「野の花」は夏草の繁みの中に咲いた色の香も無いつまらぬ花である。明治卅四年五月二十七日。」(△3-1のp15)という日付が序に在り、明治34年は1901年でこの本はこの序を書いた後直ぐ出版されました。年代設定は1897年の夏休みです(△3-1のp25)。ここで1897年というのは国男にとって大変な年でした。先ず4月に『抒情詩』(共著)を出版し、7月に第一高等学校を卒業し、9月に東京帝大政治学科に入るのです。その夏休みです。
<小説『野の花』作中人物と実在のモデル>
<作中人物> <実在のモデル> <1897年夏の年齢>
宮崎定雄 松岡国男(後の柳田国男) 22
(7月第一高等学校卒業、9月東京帝大政治科入学)
染子 母なきいね子/利根の悲恋(片思い) 15
小島秀子 隣家の「總領娘」と束の間の恋 数えで20
(=松島お蝶) (満で18~19)
おば様、賢母様 大竹たき --
(いね子や秀子らに裁縫を教える)
兄 長兄鼎 37
従兄 中川恭次郎 29
弟 弟(後の映丘) 16
舞台は布佐です。「わが故郷の船越(布佐)の西丘と、對岸の船山(布川)の明神の森」(△3-1のp19)と在ります。「船山(布川)の明神の森」とは布川大明神(△2のp155)の事です。
国男は数え年で23(満22)歳の夏休みに布佐の兄の家へ避暑に行き、理由はいね子に自分の思いを告げる為です。国男はいね子が恋しいという思いは「おば様」 -母が死ぬ時「この人に子供等を頼むと遺言」(△4のp18)した人- と遠縁の従兄の中川恭次郎だけに打ち明けて居ました。つまり未だ片思いなのです。が「おば様」は塩原に出掛けて仕舞い、隣家の「總領娘」(←数え年の20歳で、花袋が「總領娘」と呼んだのは家を継ぐ即ち養子を迎えること)(△3-1のp21)の白粉の匂いや猛烈アタックについ絆(ほだ)されて -彼女も美人で国男も多情多感(惚れ易い)でした- 朝一緒に散歩などをして二人一緒の姿を口煩い田舎の人々に見られて仕舞うのです。そこで従兄が乗り出し、彼は国男のいね子に対する思いも知ってますから、どっちにするのか迫りますが国男は優柔不断なのです。国男がまごまごして居る間に結婚話が成立寸前まで進んで仕舞い隣家からは正式に結婚の申し込みをされるのです。話を纏めたのは従兄で、この話には兄鼎と従兄は賛成でした。しかし優柔不断の国男も初めて気が付くのです、自分が本当に恋しているのはいね子だと。返事を迫られた国男は返答に窮し「良く考えるから」と日光の友だちの避暑先を廻って東京に帰り断りの手紙を書くのです(兄の鼎からは手紙の返事は来なかったと在ります、鼎もむっとしたのでしょう)。
この様に小説『野の花』は舞台が布佐、年代設定が1897年夏、いね子の「利根の悲恋」、「總領娘」との「束の間の恋」が結婚問題に成って仕舞う事、国男が多情多感・優柔不断である事、など国男の恋の核心部分に触れて居る貴重な本です。更に「117通もの花袋宛柳田国男未発表書間集」に拠って読み解くことが出来た事が非常に大きいと言えます。
小説『妻』に於いて1900年の場面で国男が「苦い痛恨の追懐」「あの有様」と語って居るのは、この1897年(つまり3年前)の「總領娘」から結婚を迫られた際その後始末を自分で出来なかった事、卑近な言葉で言えば「自分のケツを拭けなかった」苦い思い出を指すのです。これが”問題”の答えです。
尚、「總領娘」のモデルは鼎の布佐の隣家の松島お蝶(←彼女も婿養子を迎えて居る)と考えられます(△4のp39)。又、国男と「總領娘」とが顔見知りに成るのは鼎が布佐に越して来てから(←一覧表に依ると1893年)なので、即ち国男18歳・「總領娘」は数えで16歳の時ですので、「妾(わらわ)が丁度12位で」(△3-1のp36)と在るのは花袋の勘違いです。多分、花袋は布川時代も含めて考えて居るのです。
ではいね子は、と言うと結局思いを告げる機会を失い片思いで終わるのです。ドジな!!。国男はこの時から、この恋を「永遠の恋」として自分だけの心の中に永遠化し、学業に専念する覚悟を決めた様なのです。つまり、この恋を純粋に永遠なプラトニック・ラブに昇華(※19)したのです。この事が在ってからは国男は布佐には行き辛くなり、と言っても布佐には両親と鼎の墓が在るので行かない訳には行きませんが、行った折には「共同墓地の利根川の方に向いた處」に在るいね子の墓に密かに手を合わせて居たに違い有りません。『野の花』ではいね子の墓の前で国男は泣いて居ます(△3-1のp56)。
「總領娘」との束の間の恋の翌々年即ち1899年には「おば様」といね子が亡くなり「總領娘」は婿を取ります(△3-1のp56)。そしてこの年の秋(陰暦)に国男に養子縁組の打診が有り事態はドラマの様にドラスティックな展開(※20)を見せるのです。この養子縁組の打診に際しては「苦い痛恨の追懐」「あの有様」を持ち出して、”誰か?”に「その様に優柔不断では駄目だ。最高学府の東京帝大を出るからには甘い夢から目を覚まし現実を直視せよ!」位の事は言われたに違い有りません。更に「農政学を勉強したらどうか」と諭されたのかも知れません。国男も2年前の不甲斐無い有様を持ち出されては「ぐうの音も出ない」のです。
そこで最後の残った疑問”誰か?”ですが、大胆に推理すると私は「三兄通泰と通泰の歌の師且つ養子縁組を仲介した松波遊山の結託説」を採ります。何と言っても柳田家との養子縁組話を持って来たのは松波遊山で、当然色々と相談すべき事が出て来ますが松波遊山が相談するとしたら通泰でしょう。国男は御徒町の通泰宅にも世話になって居り、森鴎外を紹介したのも通泰で、松浦辰男に歌の入門を薦めたのも通泰で、その縁で花袋を知り『抒情詩』の共著者達を知るのです。通泰は国男の文学趣味形成に無くては為らない存在だったのです。通泰からしたら、国男が文学青年に成る事は良いが多情多感(惚れ易い)・優柔不断は困ったものだ、と考えたのでしょう。松波遊山とは黒子ですが意外とこういう状況では黒子は捨て難い面が有ります。
これで”問題”と”誰か?”という疑問に答える事が出来ましたが、丸で人間が変わったかの如く優柔不断の国男から強い意志を持った国男 -啖呵を切る国男- へと180度の転換を遂げるのです。正にここが国男のターニング・ポイント(turning point)(※21)なのです。しかし1899年という年は何という年か!、「おば様」といね子が逝き、「總領娘」は婿を取り、中川恭次郎は元々隠遁者みたいな人(←彼については△4の「中川恭次郎という存在」の章を参照されたし)ですから、国男が打診を受諾する迄に「利根の悲恋」の関係者が全て”関係無く成る”のです!!
(4)養子縁組の受諾の裏には、国男の壮絶な一大決心有り
『野の花』が大筋に於いて真実が書かれて居ると言えるのは例の『田山花袋宛柳田国男書簡集』が裏付けて居るからです(△4のp28、p47~48)。この書簡集でいね子の名が出る最初の手紙の一部を既に紹介しましたが、最後の手紙の一部を紹介しましょう。これは1897年10月15日付けのもので帝国大学寄宿舎から出されたものです(△4のp47~48)。
...<前略>...
目を閉ちて思へば何物か 急に我に迫り来るが如し
日中頭に軋るか如き痛あり 夜は悪熱恠夢を醸し来りて
始我を狂せしめんとす
此間にして君よいね子 父を失へりときく
嗚呼彼ハまた 我をも失ふのかあらすや
母なきいね子が父をも亡くした事を知って詠んだものですが、これはちょうど養子縁組の打診を受け入れた頃の手紙です。つまり『書簡集』で国男がいね子という名を記すのは1896年8月3日~1897年10月15日のみです。
次は国男の最後の新体詩です。1899年の6月に国男が野上松彦の変名で『帝国文学』に発表した2篇の新体詩が在りますが、その中の「別離」には国男の全ての気持ちが表されて居る、と思います(△4のp58~60)。
別離
...<前略>...
わかきや何の罪ならん
やさしかれとは誰がをしへ
少女うまれて一たびの
夢などかくは覚め易き
さらばさ月の山の露
今よりぬれん菅笠の
遠き行方よさらばいざ
かの日の歌もいざさらば
「今よりぬれん菅笠の」とは菅笠を持って現実界の旅に出る覚悟を言い、「かの日の歌もいざさらば」は今迄の詩歌や青春文学、更には今迄の自分(=松岡国男)に、そして全読者に別れを告げて居るのです。「少女うまれて一たびの 夢などかくは覚め易き」の「少女」は勿論「母なきいね子」ですが、国男が本当に心底から「夢などかくは覚め易き」という境地に至ったかどうか?、今と成っては知る由も有りません。
国男はこの詩を以て詩歌を捨て、「ほぼ同時期に柳田家へ養子に入る決心を固めている」(△4のp57)のです。即ち1899年秋の養子縁組の打診を受諾の裏には
<1899年秋の「養子縁組の打診」と国男の「唐突な変節」の関係>
1899年秋 松波遊山(三兄通泰の歌の師)が柳田家との養子縁組を打診
(陰暦) 国男24歳 │ (養父直平の末娘・孝(12歳)と許婚に)
↓
空想型から現実型への転換を説諭 → 国男、打診を受諾
↓
6月 詩『別離』で母なきいね子(17歳)との別れ
→ 「利根の悲恋」を永遠化(昇華)
↓
詩歌や優柔不断な国男と決別 → 松岡国男の否定 → 柳田国男誕生の準備
│ (正式の誕生は1901年5月)
↓
国男の「唐突な変節」=空想型から現実型への180度の転換
=青春文学を自ら封印
9月大学3年、松崎蔵之助に農政学を師事
↓
1900年3月 国男25歳、いね子18歳で肺結核で逝く
↓
初夏 農政学の啖呵を切る(変節完了) → 強い意志の人
という壮絶な一大決心が有ったのです。この一大決心を僅か1ヶ月位の間に遣って退けるのです。それ故に何度も言いますが路線変更の啖呵が切れた訳です。そして母なきいね子は翌1900年3月に肺結核で逝き、本当に永遠の存在に成りました。これが国男の「唐突な変節」が養子縁組受諾と結び付いている”何故か?”、に対する答えです。しかし、霧は完全には晴れて無いのです。それについては又、次節で扱います。
この後、国男は1901年5月に松波遊山の世話で正式に柳田家と養子縁組を行い、ここに柳田国男が誕生します(→一覧表を参照)。
(5)依然として残る疑問 - 何故封印しなければ為らなかったのか?
前節迄で
[1].青春文学を何故封印しなければ為らなかったのか?
[2].国男の「唐突な変節」が養子縁組受諾と結び付いて居るのは”何故か?”
[3].「苦い痛恨の追懐」「あの有様」とは何を指すのかという”問題”
[4].柳田家に入る前の空想型から現実型に改める様に諭した人物は”誰か?”
という疑問に答え、養子縁組の打診を受諾するに当たって国男の壮絶な一大決心が在った事を述べました。それでは、これで全て疑問が解決したのか?、と言うと否ですね。[2][3][4]については略解決したと考えて良いですが、[1]の青春文学を何故封印しなければ為らなかったのか?、については未だ疑問点が残ります。
そもそも国男が投稿してた雑誌『文学界』や『帝国文学』は公刊されている雑誌です。つまり国男がどんなに隠蔽しても記録は残って居るのです。況してや詩集『抒情詩』は文壇でも評価の定まった公刊詩集 -柳田国男が晩年に著した回顧録『故郷七十年』(1959年刊)の中で1千部印刷したと在る(△5のp176)- で、しかも後に有名に成る作家・詩人が共著者に名を連ねて居るのです。柳田は後に成って新体詩を「やっト二十そこそこの若い者に、そうたくさんの経験がある気遣いはない。それでいて歌はみな痛烈な恋愛を詠じているのだから、後になって子孫に誤解せられたりすると、かなり困ることになる。」(△5のp176)と語っていますが、柳田国男を神格化し奉り上げる連中ならいざ知らず私はこれでは到底納得出来ません。
しかし、この論理を中々覆せなかったのも事実です、1990年頃迄は。私が冒頭で「どうもそれには”壁”が在るのです。この”壁”の為に「柳田国男は若い頃は文学青年だった」を遣ろうとすると、或る所で立ち往生して仕舞うのです。」と述べた”壁”とはこの事だったのです。今迄柳田国男の伝記とか解説を書いた人は何人か居ますが、何れもがこの”壁”即ち柳田自身が青春文学を封印した事にぶち当たり桑原武夫の様に鋭く追い詰めるのですが、そこで或る憶測を入れて引き下がるより仕方が無かったのです。
ところが田山花袋の次男・田山瑞穂氏から「117通もの花袋宛柳田国男未発表書間集」が発見され、それ迄柳田国男の口から「僕の詩はディレッタンティズムだった」と言って居た新体詩や歌が、そうでは無くて新体詩や歌の内容は殆ど真実であり、その上「母なきいね子」という「利根の悲恋」の主人公が浮かび上がったのです。そこで歌われた詩歌は既に見て来た様に国男の痛切な叫びです。桑原武夫が『遠野物語・山の人生』の解説で言って居た通りに成ったのであり、私の「独断と偏見」で憶測した通りであり、岡谷公二は「いね子」の墓を突き止めその結果「いね子」の全てが明らかに成りました。
これに拠り国男が柳田国男に成って以降も一貫して否定し続けた事は”嘘”だった訳です。『故郷七十年』の中で『抒情詩』の事は書いてますが当たり障り無く言い逃れ(△5のp170~176)、当然「いね子」の名など出る訳も無く、年譜にも『抒情詩』は載って居ません(△5のp427)。何故この様な”嘘”を吐かねば為らなかったのか?
一体それが公にされたからと言って柳田国男に如何なる不都合が在るのか?、私には理解し兼ねるのです。更に国男は青春文学を封印しましたが、いね子との悲恋を「永遠の恋」に昇華したからには、寧ろそれを青春時代の恋として国男の方から積極的に公にした所で何ら差し障りが無い様に思えるのですが、未だ何か問題が在るのでしょうか??
今でも上の様な疑問を禁じ得ないのですが、もうどうしょうも有りません。しかし、もし「花袋宛柳田国男未発表書間集」が発見されて無かったら私の作業は苦しかったですね。小説『野の花』をこれ程には読み解くことは到底無理です、『野の花』は国男の恋の核心部分に触れて居ますから。国男は「花袋宛柳田国男未発表書間集」が世の中に出て来るとは夢にも思って無かったでしょうから、これは国男の予想外の結果でしょう。封印を破るのには「花袋宛柳田国男未発表書間集」は絶対に必要でした。
ということで、[1]の何故封印しなければ為らなかったのか?、については大分クリアには成りましたが、未だ疑問が残り相変わらず養子縁組には”怪”なのです。
そのヒントに成るか成らないか皆さんの判断に任せますが、花袋が編集する『文章世界』という雑誌(1906年4月号)に「大学生の日記」と称して国男のものと思われる日記が掲載されましたが、「花袋はあとがきに、「こは誰人の日記なるかを詳にせず。友の携え来てわが家に忘れたるもの」と書いているが、それに続く「読みもて行けば面白く優にやさしき節あり。大学生なることは確かにて、此日記の他の条に、恋のこと多く書けるを見ても、角帽金釦鈕の色白姿のいかに路上の少女の眼を惹くに足るかを知るべし。」という一節からも、日記そのものの内容からも、これが國男のものであることは、まずまちがいない。しかもこの日記こそ、私が冒頭に記した、國男が結婚前に花袋に託し、のちに発見されて柳田未亡人に焼かれたとされる「恋愛日記」ではないか、と思われるのである。」(△4のp49)と記して居ます。
私は”そういう事”が在ったので、花袋の次男・田山瑞穂氏が「花袋宛柳田国男未発表書間集」を公にするのを未亡人の事を考え憚って居たのでは、と勘繰ったりして居ます。
{この章は2013年12月25日に追加、2014年1月18日に最終更新}
(1)柳田国男と病理 - +α・βの病理
(1)-1.+αの病理・その1 - 潔癖律儀症
国男という男は、松岡国男も柳田国男も律儀(※22)であると私は考えて居ますが、若干それが”行き過ぎる”のです。即ち潔癖に律儀 -これを潔癖律儀症(←これは新病名で私の造語です)と呼ぶ事にします- で無いと気が済まないのです。特に青春文学を封印した律儀さは正に正常の域を食み出た潔癖症(※23~※23-2)の傾向が有ります。潔癖律儀症は潔癖症の一種で、要するに神経衰弱(※23-3)と同じく神経症(※23-4)の一種です。潔癖症は近頃の日本で流行って居て -この手の病気には流行廃れが在る- 、例えば「自分の手が不潔感がして何度も手を洗わないと気が済まない」とか、バブル経済の時ブームに成った「朝シャン」も潔癖症と結び付いて居ます。
有名な所では泉鏡花がそうで「饅頭は自分の手が触れた所は捨てる」「酒は夏でも超熱燗」「豆腐はぐらぐらと煮沸する」「アルコール消毒液を携帯し絶えずそれで指を拭いて居た」など、今のノロウイルス蔓延の社会では表彰されてしかるべきですが、清潔でないと「気が済まない」人でした(△6のp96~109)。裏を返すと黴菌恐怖症(=潔癖症の一種)(△6のp97)なんですね。
そもそも潔癖症は他人に説明するのは困難で潔癖律儀症も同様です。兎に角もっと律儀でないと「気が済まない」のです。他人には充分律儀に思われても本人が未だ完璧な律儀では無いと感じたら「気が済まない」のです。この「気が済まない」というのが潔癖症のキーワードなのです。
国男の潔癖律儀症を例を挙げて提示しましょう。国男の最後の新体詩「別離」を思い出して下さい(←この詩は1899年の6月に発表されました)。そして1899年の一大決心の表を見て下さい。恐らくこの頃に養子縁組の打診と、この養子縁組を受けるに当たっての態度改めの説諭が有ったのです。私は農政学もこの時説諭されたのではと考えて居ます。養子縁組の打診は秋(陰暦で7~9月)に行われたのですが、その準備などで6月頃にはすっかり予定が決まっていたと思われます。そして国男はどうしたか?、律儀にも最後の詩を「別離」と名付けて直ぐその時点で投稿して居るのです。律儀にも国男は「いざさらば」と呼び掛け、今迄の詩歌や青春文学、更には今迄の自分(=松岡国男)に、そして全読者に別れを告げて居るのです!!
もう一つ。いね子の名を記した最後の手紙(例の未発表書簡集)の日付は1897年10月15日ですが、これは小説『野の花』が時代設定している年の初冬(陰暦)です。小説『野の花』の表を見て下さい。律儀にも国男は「利根の悲恋」を「永遠の恋」に昇華した最後のいね子の名を投稿して居るのです。
これは何を表して居るのか?、自分の履歴書を横に置いて恰もそれと照らし合わせて居るかの如くに大事な節目節目の詩歌を投稿して居るのです。しかも直後に一転して否定する詩歌惹いては青春文学をです。私はこれを「完璧に律儀にしなければ気が済まない」潔癖律儀症と診断する訳です。国男の場合、「気が済まない」だけで無く段々と「苛付いて」来るのが特徴です。
【参考文献】△4の「殺された詩人」の章を読むと、国男は神経衰弱(※23-3~※23-4)で何度か危機が有ったと書いてます(△4のp105~110)が、彼の父も始めは神経衰弱だった様です。しかし神経衰弱と言って仕舞うと範囲がもの凄く広く、軽いノイローゼ(神経症のこと、※23-1)から重い思考障害迄全て入って仕舞い、御負けに神経衰弱の「他覚的所見に乏しい」(※23-3)という特徴から、解った様で解らない、しかし何でも”神経衰弱”という病名を付ければ世間は納得して仕舞うという”優れ物”です。
そういう事で私は潔癖律儀症という新病名にしてみました。「殺された詩人」の章の「神経衰弱」を「潔癖律儀症」で置き換えて読んでも全然違和感が無いばかりか「潔癖律儀症」の方が事態が解り易いのです。
しかし柳田国男の”病理”はそれだけでは無いと思い始めました。やはり”嘘”を吐いて迄青春文学を封印しようとした点は異常ですよ、どう考えても。”+αの病理”が有ったのでは、という考えに至って来たのです。これを”+αの病理・その1”として、未だ有るのです。以下にそれを述べましょう。
(1)-2.+αの病理・その2 - ”君付け”と「先生付け」
”柳田君”は自分の周り人間を皆「君付け」で呼ぶ癖が有り、自分より年長の人に対しても「君付け」で呼ぶので歳(とし)の関係など解らぬ者からすると”柳田君”が偉そうに見えて仕舞うのです。花袋や独歩(←花袋や独歩の方が先輩)に対してもそうですね。”柳田君”は若い頃は背が高く美男子(→後で詳述)だったので往々にして美男子に有り勝ちな「ええ恰好しい」なのか。しかし私は”柳田君”のそういう所は好きに成れないですね。この点も何らかの”+αの病理・その2”が有ると思います。
ところが南方熊楠(※24)に対しては「南方熊楠先生のこと」(△5のp297~299)と「先生付け」で呼んで居るのです。因みに『故郷七十年』の中で「先生付け」で呼ぶのは南方熊楠先生だけです(←私もこの本を全て読んだ訳では無く飽く迄も目次を見た限りでは)。熊楠の方が8歳年長では在りますが、花袋や独歩や湖処子(←彼は11歳年長)と比較して熊楠を「何故か意識」して居ます。その理由を探るとどうも柳田の仮説やアプローチについて熊楠から痛烈に批判された事が解りました(△4のp120、130)。『遠野物語・山の人生』の解説でも桑原が「南方熊楠と柳田の対立した一面」(△1のp327)が有ると言って居ます。その「南方熊楠先生のこと」の中で、熊楠が後で旅館に行くと言って置いて「初めての人に会うのはきまりが悪いからといって、帳場で酒を飲んで」(△5のp298)いると語り(←柳田は下戸)、要するに熊楠は人間的に柳田の苦手のタイプだという結論に達しました。つまり”柳田君”は相手と自分との力関係を計り乍ら、相手が自分より下と見れば年長でも「君付け」にし、熊楠の様な苦手には「先生付け」をするという、ちょっと嫌な面が透けて見えるのです。明らかに”+αの病理・その2”が存在して居ました。
(1)-3.+βの病理 - ロリコン
更に言わせて貰えば”+βの病理”として国男はロリコン(=ロリータ・コンプレックス)(※19-1、※19-2)ではなかったか?、という事ですね。いね子の名が初めて出るのが14歳で或いは13歳位から恋 -言っても片思いですが- をして居たかも、と思う訳です。又養子縁組を受諾するのが孝が12歳の時です。晩婚に成って居る今と単純に比較は出来ませんが国男が”病的少女好き”な嗜好を明らかに持っていた可能性が考えられます。リビドー(=性欲衝動)(※19-3) -フロイトやユングが用いた- という仮説を用いて国男の精神分析を試みるのも有効かも知れません。否、寧ろその方が国男の「唐突な変節」に対し綺麗に説明が付くのです。当時の社会状況の中でロリータ偏愛は恥ずかしいし問題にされては困る、だからこれだけは世間に明らかに成る事は断じて避けねば為らないとね。これが一番すっきりする説明なのです!
ところで当サイトは2002年11月20日に立ち上げ、そして「掲示板のおちゃらけ議論」を2003年5月20日に開設しましたが、既にロリコンの議論もリビドーも同年の3月28日に始めてるんですね。では私は毅然としてロリコンを攻撃して居るか?、と言えば然に非ず、ロリコンは極めて真っ当な審美眼であり「花は蕾が花開く時が最も美しい」のです。
現実を素直に見て下さい。人間以外の全ての有性生殖生物は生殖可能に成れば即ち「大人」として、その生物社会で扱われて居るのです、これは本能です。蝶やトンボや猫をご覧為さい。人間だけが社会的制約を色々と設けて居るのです。しかし、人間の制約も高々200年位の歴史しか有りません。それ以前は元服(※19-4)とか民間では十三参り(※19-5)などの通過儀礼をしたら「大人」です、年齢的には11~15歳位です。肉体的には「大人」とは「男はチンポから白い液体が出た、女は初潮が在った」という事です。私は今の「ババコン」全盛(※19-6)の方が、美学を持たない、理解し難い、悍(おぞま)しい状態です!!
下の▼掲示板のおちゃらけ議論▼を是非ご覧下さい。ロリコンやババコンについては
超甘コンプレックス論(Super sweet theory of COMPLEX)
をご覧下さい。又、総合的且つ「文化スケベ学」的観点からロリコンや元服や十三参りの意味を論ずる
「文化スケベ学」とは何ぞや?(What is the Cultural Sukebelogy ?)
を、是非ご覧下さい。
{この節の”+α・βの病理”については2014年02月05日に追加}
(2)三村竹清の日記に書かれていた若き日の国男
柳田国男関係の記事をインターネットで検索していたら、三村竹清(―ちくせい)の日記というのが目に止まりました。竹清とは『フリー百科事典ウィキペディア(Wikipedia)』に拠ると、書誌学者(1876~1953)(※25)です。本人は篆刻(※25-1)が得意であったとか。早稲田大学演劇博物館(※26)には竹清の日記『不秋草堂日歴』が保管されていて、この日記は明治43(1910)年~最晩年迄が克明に綴られ全145冊という膨大なもの。何でも演劇博物館が発行する紀要『演劇研究』に載ったものですが、日記『不秋草堂日歴』には次の様な”とんでもない事”が書かれて居たのです。
大正7年9月21日 此間柳田にて買ひし 木越安綱夫人貞子宛てかミの事を 内田君にとひしに 柳田氏養父は直平とて 法官也 初め此貞子柳田國男氏之妻たるへき処 嫌はれし故 妹を妻としたる也 此貞子ハ三宅花圃さんと同期之女学生にて 色は白けれと花王石鹸と字さるゝ ひたゐとあこか出はり居る也...<中略>...柳田氏之細君は美しい方にて柔順なれハ 柳田ハ却て仕合だよ かゝる為に婚期を失して 木越之後妻にゆきたる也 木越か最愛なる貞子とかいてあるつて なぜそんなものが出たらう
大正7年は1918年です。内田君というのは作家の内田魯庵(※27)です。まぁ、大体解ると思いますが竹清が内田魯庵に訊いて居る訳です。すると魯庵は「直平は云々」と答え始めるんですな。そして「初めは貞子を國男の妻にしようとしたが貞子は國男に嫌われたんじゃ。この女性は花王石鹸と渾名され額と顎が出張って居るんじゃ。...<中略>...柳田の細君(末娘)は美しくて従順なので柳田は仕合わせ者じゃ。貞子は木越の後妻に行ったんじゃ。...」という訳です。木越とは陸軍大臣を務め男爵に成った木越安綱(1854~1932年)です。木越安綱と貞子が結婚したのが1896年です。
勿論、これは単なる噂話とする意見も在りますが、私はこれは真実ではないかと思う訳です。と言うのは小説『妻』にこの事を暗示する記述が有るからです。皆さんも、この頃の花袋が自然主義小説を確立する為に背景には殆ど事実で押し進めて居る事を理解されたと思いますが花袋はこの部分を次の様に記して居ます。この話が本当だとすれば木越安綱と貞子が結婚した1896年以前にそういう話が有った事に成ります。今迄の話では出て来てません。
例の玉茗・花袋・国男が3人で話し国男が啖呵を切って帰った後で尚も話する玉茗・花袋の会話の中で「「何故養子になど入らつしやる気になつたんでせうねえ」と傍に居たお光(この小説の主人公)は笑ひながら聞いたが、勤(花袋)はそれには返事をせずに、「だから僕も少しは其時は言ったけれど、西君(国男)は自分で思ひ立つと、ぐんぐん一人で遣つて了ふ方だから、それに僕も先生の為めにさうした方が或は幸福になるかも知れぬと思つたからね」「(玉茗)何(ど)ういう関係でその家に出入するやうになつたんだえ?」「(花袋)それは中々面白いさ。先の家ではね、君、西君(国男)が高等学校に居る時分から眼を附けて居たんださうだ。僕等が昔よく行った戸澤先生(養子縁組を世話した松波遊山)の家ね、あの歌の會に、品の好いお婆さんが来たらう?、被布(ひふ)(※28)などを着た? あれが西君の将来の細君になる人の祖母様なんだ。先方ではあの頃から眼を附けて居たんだ。戸澤先生も中に入つたらしいよ。」」(△3のp78)という箇所が在るのです。それで既に紹介した「昨年の夏だツた。...」が続いて、その後で「(花袋)ごく好い家庭らしい。僕はまだ行って見ないから知らんが、姉さんが二人(順子と貞子)あつて、それが皆な好い處に嫁(かたづ)いて、西君の細君になるのは、末の娘(孝)ださうだがね。まだ虎の門に通つてゐるさうだ。中々快活な娘さんだツて、知つてる人が話して居たよ」(△3のp79)と続きます。「虎の門」とは東京女学館のことで当時は「虎の門」が代名詞でした。何しろ伊藤博文が創立委員長を務め渋沢栄一・岩崎弥太郎らが委員に名を連ねて作った学校で英国風のハイカラ貴婦人教育を目指した学校ですから。しかし未だ女子の高等教育など必要無いという考え方が強く、又女子には特に家制度の壁は厚く、実態は”御免遊ばせ”(→後出)の良妻賢母教育でしたね、養子というのも畢竟家制度ですから。こういう学校に娘を遣るのは殆ど”親の見栄”なのです。
この中で「品の好いお婆さん」「祖母様」と称してるのが養子縁組のキーウーマンの安東菊子(養父の末娘・孝の祖母) -この家は安東姓が本流という話は前にしました- なのです。そして「戸澤先生も中に入つたらしいよ。」とは松波遊山が養子縁組の仲介をした経緯を言って居るのです。国男が「高等学校に居る時分から眼を附けて居たんだ」ということは1896年が高3です、でも貞子はこの年に木越安綱と結婚ですからちと忙しい。1895年が高2、この年に国男に貞子を妻わしたのかも知れません。そう仮定して図式化して示しましょう。
それにしても花袋が相当詳しく国男の内部事情を知っている事が判ります、勿論それは国男が花袋に事情を話して居るからですが。
<国男の女遍歴から見た「唐突な変節」>
安東菊子(養父直平の末娘・孝の祖母)が国男の高校生の時から画策
↓
1895年9月 国男高2、菊子が直平の3女・貞子(花王石鹸と渾名)
との縁談を持ち掛ける:国男断る(面食い)
1896年9月 国男高3、父母死亡、肺尖カタルを患う
木越安綱と貞子が結婚
母なきいね子 = 透き徹る様な月下の乙女:面食い、ロリコン
(伊勢いね子) 「利根の悲恋」(片思い)
1897年夏 7月第一高等学校卒業、9月東京帝大1年
隣家の總領娘 = 白粉を匂わせた美人(破談):
自分で後始末出来ず(優柔不断)
(松島お蝶) ┌───────────┘
│
1899年6月 詩『別離』で母なきいね子(17歳)との別れ
→ 「利根の悲恋」を永遠化(昇華)
│
秋 国男24歳、9月東京帝大3年│
↓
養父直平の末娘・孝との養子縁組の打診される
国男を説諭し、空想型から現実型への180度の転換
(人格改造:優柔不断・多情多感・面食い)
打診を受諾、国男の「唐突な変節」
↓
孝 = 従順な美人(12歳):受諾(面食い、ロリコン)
(正式な養子縁組は1901年5月、結婚は1904年)
↓
1900年3月 国男25歳、いね子18歳、いね子肺結核で逝く
↓
初夏 農政学の啖呵を切る(変節完了)→強い意志の人に成る
でも、これは実に面白いですね。何故面白いかは後で述べましょう。柳田国男って非常に取っ付き難いイメージが有りましたが、この女遍歴の図式を見たら。国男さん、貴方は面食いです。でも、これで貴方も我々凡人と同じ事を考えてるって事が解りました、少なくとも女性に関しては。しかし花王石鹸とは良く言いますが、私が言ったんじゃ有りませんゾ。忘れましたか?、文献に出て来るのです!!
ちょっと脱線しますが、まぁ世の中は美人が居て、残りが美人で無い方=ブ○ -伏字にします、今ではブ○は差別用語の様ですから- に成る訳です。美人とブ○を数で比較したら圧倒的にブ○が多いのです。何故美人が尊ばれるのか?、と言えば数が少ないから、つまり希少価値なのです。でもそれって圧倒的に数が多いブ○が居て初めて美人の希少価値が生きる訳で、ブ○有っての美人なのです!。
一方、ブ○は?、と言うと数が多いので注目を引かないという訳です。しかし今の世の中ご覧なさい、メディア中心の民主主義の社会では”数が多い”事即ち”正義”なのです。我々はこの事実を肝に銘ずべきです。詳しくは「掲示板のおちゃらけ議論」をお読み下さい。
美人とブ○の話はこの位にして、1899年秋の養子縁組の打診を受諾する直前に国男を説諭した人間が居た筈です。それに依って国男は優柔不断・多情多感(惚れ易い)・面食いから強い意志の人間に改造されたのです。正に180度の転換です。岡谷公二氏が【参考文献】△4で「殺された詩人」という章のタイトルを付けたのは、そういう意味なのです。
{この節は2014年02月05日に追加}
(3)柳田国男が意識的に避けた事と運命に依り故郷を失った事
柳田国男が生きた時代は、自分の考えを書物で発表して行く文筆業にとっては難しい時代でした。何と言ってもこの時代は”戦争の時代”でしたから。柳田はしかし上手く生きました、本業では彼方此方で対立していた柳田がです。柳田は非常に巧妙に筆禍に為らない様に計算して居た、と私は思うのです。当時、筆禍で権力(=軍部)から咎めを受けた人は大勢居たのですから。
その理由は柳田の文章には「戦争が無い」のです。戦争を書けば検閲とか色々面倒な問題が出て来ますが柳田はそれを避けたのです。従って戦争に依って派生する「植民地が無い」のは当然です。特に国男の養父の弟の安東貞美は台湾総督を務め植民地台湾の経営に当たり勲一等旭日桐花大綬章を貰ってる人ですから尚更で、柳田は意識的に避けて居るのです。又、民俗学に於いてはどうしても出て来る卑猥な話や猥褻な表現も避けました、つまり「性が無い」のです。更に柳田は『山の人生』(△1のp85~304)の様に漂泊民に興味を抱きましたが、そういう人々を扱うとどうしても被差別民とか差別の歴史が関係して来るのですが柳田の文章には「差別が無い」のです。これには彼の周到な計算が有ったと私は考えて居ます。
後は好みの問題ですが柳田は農具とか民具には余り興味を示しませんでしたね、これはこれで民俗学の一分野ですが。
以上の事から柳田の論理や食い付きに何か物足りなさを感じる事も確かで、”柳田学”の限界と言う人も在ります。それはそうですが、今にして思えば柳田が”戦争の時代”に打ち勝つ事が出来たのは強い意志の人間に人格改造した養子縁組打診時の説諭(→国男の女遍歴の図式を参照)の御蔭と言わざるを得ません。充分に現実型の発想が出来る様に成った彼はこの問題を絶妙に避けて切り抜けたのです。
さて、ここで大きな問題が一つ残ります。それは民俗学に於ける故郷の問題です。彼は既に見た様に播州の実家は没落し12歳の時に三兄通泰に連れられて関東の田舎に出て来ます。生家は4.5畳(座敷)、4.5畳(納戸)、3畳(玄関)、3畳(台所)(△5のp23)の狭い家で、ここに両親夫婦と長兄鼎夫婦が同居し兄嫁は1年で逃げ出しました(△5のp34)。長兄鼎は茨城県の旧家から後妻を迎え布川に住み、暫くして布佐に転居し鼎と両親の墓は布佐に在ります。国男は若い時から長兄に付いて半漂泊の生活を余儀無くされて居たので、養子に出る覚悟を早くから決めて居たフシも覗えます。こうして最終的に東京 -1927年に北多摩郡砧村(現:世田谷区成城)に自宅を構える- に落ち着きますが、彼は「故郷を失った」と言っても過言では有りません。
そこで柳田の民俗学ですが、例えば『遠野物語』(△1のp1~83)の様に或る土地の古老に話を聞いて民俗学的な書物を作る時に、古老は故郷に立脚して居ますが自分は故郷という立脚点を失った人間なんだと、ふと考えなかっただろうか?、と思ってみたりします。
(4)柳田国男の民俗学の方向性 - 歌の師・松浦辰男の強い影響
ところで国男は桂園派歌人の松浦辰男門下で花袋と知り合い、更に後の詩集『抒情詩』の共著者らを知るのですから、国男の松浦辰男門下への入門は運命的とも言えます(←それを薦めたのは三兄通泰ですが)が、それだけでは無いのです。松浦は又、平田篤胤の幽冥論(幽冥道とも言う)(※29~※29-2)の信奉者 -神秘的な異界・幽界・冥界が「実在する」と信ずるもの- で、例えば幽霊が「居る」と信じる人は幽冥論信者の資格充分です(△4のp110、128)。平田篤胤は『仙境異聞』(仙道寅吉物語)(△7)で天狗(※30)の世界を開示して見せました。柳田国男の最初の民俗学的考察は1905年に雑誌に発表した「幽冥談」で何と天狗を論じたものですが、題名からも解る通り上記の幽冥論の影響を諸に受けているのです。松浦辰男は歌のみ為らず柳田国男の民俗学の方向性に強い影響を与えて居たという事は、これ迄余り指摘されて来ませんでした。
柳田国男も神秘的体験の持ち主だった様で、前述の間引き絵馬の話もそういう性格の現れかも知れず、『山の人生』の中で「神に隠されるような子供には、何かその前から他の児童と、ややちがった気質があるか否か。これが将来の興味ある問題であるが、私はあると思っている。そうして私自身なども、隠されやすい方の子供であったかと考える。」(△1のp125)と語って居ます。そして仙道寅吉の話の後では何と「故に神道があまり幽冥道を説かぬ時代には、見てきた世界は仏法の浄土や地獄であった。」(△1のp129)と語って居るのです。こうして『山の人生』では柳田の想像力が赴く儘に山窩(さんか)(※18-1)と呼ばれる漂泊民/マタギ(※31、※31-1)と呼ばれる狩人達/神隠し(※30-1)/山の神(※30-2)/仙人/山姥(※30-3)などに話が及び(△1のp89~267)、これを見るとどうも現実界(=こちら側の世界)と幽冥界(=あちら側の世界)との境目に依拠するマージナルマン(境界人)(※32、※32-1) -マージナルマンは文化人類学や社会学の専門用語でずっと後に出来た用語ですが広辞苑に在ります- に興味を示して居ます。マージナルマンへの興味には大きく2つに分けて考えられ、1つは外から境界人を凝視する立場と、もう1つは自分が境界人に成って境界人の視線で物事を見る立場です。私が見る所では柳田は前者であり平田篤胤は後者です。だから篤胤は仙道寅吉の天狗に成った話に異常な程の興味を示しました。
同様な興味は『遠野物語』にも示されて居て題目を見るだけでそれと解ります(△1のp11~13)。特に『遠野物語』で特に第111話~114話に棄老(※33)の話が出て来ます。姨捨(※33-1)の話とは違いますがダンノハナ(壇の塙なるべし。境の神を祭るための塚なりと信ず、と注記)という所が在りその傍には必ず蓮台野(※33-2)という墓場が在って「昔は60を超えたる老人はすべてこの蓮台野へ追い遣るの習ありき。老人はいたずらに死んで了うこともならぬ故に、日中は里へ下り農作して口を糊(ぬら)したり。そのために今も山口土淵辺にては朝(あした)に野らに出づるをハカダチと言い、夕方野らより帰ることをハカアガリというといえり。」(△1のp68~69)と在ります。マージナル(※32-1)な場所には柳田の依れば「境の神」が居るそうです。
私は柳田はやはり発想が自由に羽搏く学問(発想のベクトルが内→外へ)の方が性に合って居ると思います。農政学は農商務省時代に一定の成果は有ったでしょうが、所詮”戦争の時代”の農政学(外→内へ)(※11)は植民地経営と密接不可分であり教条的で帰納的で、まぁ後は言わなくても解るでしょう。1919年に貴族院書記官長を辞任(44歳) -真相は議長徳川家達との不和(△4のp108)- し翌1920年には「農政学関係の蔵書をすべて帝国農会に寄贈して、農政学をも捨て去ってしまう」(△4のp110)のです。そして柳田国男は民俗学に羽搏いて行きました。
{この節については2014年02月05日に加筆し最終更新}
(5)大江匡房の『傀儡子記』について柳田が書いて居る事
柳田国男の民俗学について関係する事をもう一つだけ述べさせて下さい。彼は若い頃は播州の田舎から下総布川という関東の田舎へ移住し自らの生活も半漂泊的だったと記しましたが、民俗学を遣る様に成ってから取り分けこの漂泊民(※18)に興味を抱いた様で、そのことは前々節でも触れました。そんな中で「わが邦のクグツは九州より上りたりと覚ゆれば、朝鮮を通過して大陸より入り込みしジプシーの片われではなきか」(△4のp136)と書いて居る部分が在りました。柳田はこの仮説を南方熊楠宛の手紙(1912年12月5日付け)に書いたそうですが、自由な発想に基づいて居ます。
ここで「クグツ」とは傀儡(くぐつ)(※34)の事で古代の人形遣い(又、操り人形)ですが、これが漂泊民なのです。しかも傀儡は定住民の一定の境界の外側で生活をするマージナルマン(境界人)なのです。私が非常に興味を持って上記の文を読んだのは、傀儡に対し私が抱いたイメージと全く同じイメージを柳田先生も持って居たのかという驚きです。ここで問題にしている文献は書いてませんが、明らかにこれは大江匡房の『傀儡子記』(※35、△8のp200~201)です。傀儡(くぐつ)の文献を辿ると結局ここに行き着く”唯一無二”の文献です。柳田が「ジプシーの片われではなきか」と言って居るのは、広辞苑で傀儡女たちが売色もしたことから(※34)で、傀儡の生活様式が限り無くジプシーに近いのです。又「美濃・参河系統が第一」(△8のp200)と傀儡をランク付けして居ます。
「傀儡に対し私が抱いたイメージ」については既に2003年に▼下の論考▼で論じて在りますので、そちらをご覧下さい。
人形浄瑠璃「文楽」の成り立ち(The BUNRAKU is Japanese puppet show)
大江匡房(※35) -大江氏は元々は土師氏の出、つまり出自は菅原道真と同じで道真の100年位後の人です- は大変広く自由に学問をした人です。その辺のことについては▼下▼を参照して下さい。
2005年・空から大阪の古墳巡り(Flight tour of TUMULI, Osaka, 2005)
「文化スケベ学」とは何ぞや?(What is the Cultural Sukebelogy ?)
「2005年・空から大阪の古墳巡り」の中から引用すれば「大江匡房は貴族的な有職故事に通じ『江家次第』を著しただけで無く、古代のオカルト的な超人や奇人の伝説集の『本朝神仙伝』や、最下層の人々や芸人の風俗を記した『傀儡子記』『遊女記』『洛陽田楽記』を著し、日本では珍しく真に「自由な学問」を実践した”特異な学者”」と言ってます、私が。まぁ、その通りで私は日本の古今の学者の中で最も「自由な学問」をした人物として尊敬しています。「学問の自由」などと良く仰いますが、大学へ行けば「自由な学問」が出来るのかと言えば然に非ず、譬えて言えば明治・大正の女子大の如く”御免遊ばせ”を一日何十回と無く唱えるみたいな、要するに御題目に過ぎません。
菅原道真は堅物で日本の神社では学問の神様に納まって居ますが、あれは”受験勉強の神様”です。私は「天神信仰の成り立ち」に興味が有るので道真を採り上げて居ますが道真自体には興味無いのです。天神信仰の成り立ちについて興味有る方は▼下▼を参照して下さい。
2009年・年頭所感-聖牛に肖ろう(Share happiness of Holy Ox, 2009 beginning)
一方、大江匡房は凄い。彼は天皇の傍に仕え乍ら一方で漂白民や被差別民を取り上げ、それが今日”唯一無二”の文献に成って居るのです。私は何時か採り上げてみたいですね。本当の学問というのは、そういう具合に「納まり切らない」ものではないかと思って居ます。大江匡房は『小倉百人一首』にも撰ばれて居ます(73番歌)。
八幡古表神社(福岡県築上郡吉富町)の4年に1度(←オリンピックの有る年と同じ年)、夏に行われる放生会(※36)の時に細男舞(くわしおのまい、※37~※37-1)・神相撲が奉納されますが、これに傀儡(くぐつ) -この場合は操り人形- が遣われます。これは日本全国でも大変珍しいもので、私は2009年にここを初めて訪れその事を知り2012年の夏を楽しみにしてたのですが、2011年の暮れに脳出血で倒れて仕舞い2012年は見に行けませんでした。
(6)「白皙に美男」国男と「反っ歯の醜男」花袋
若き日の国男は島崎藤村が「白皙に美男」(△4のp51)と形容する程の美男で、御負けに「眉の昂(あが)つた」(△3のp65)顔は男らしく、背が高い・頭が非常に良いと来ています。「祖母様」の安東菊子(養父の末娘・孝の祖母)で無くても養子に欲しいと思うのです。もしかしたら「祖母様」が高校生の頃より眼を付けていた背景には国男争奪戦が有ったのかも知れません。まぁ、それ程国男は「好い男」だったのです。唯、難点は「自分で思ひ立つと、ぐんぐん一人で遣つて了ふ方だから」(△3のp78)とか「燃え易く触れ易き天才」(△4のp51)と友達からも見抜かれて仕舞う一本気な性格で、それが時として潔癖律儀症として表に出て仕舞う所です。
対する花袋は「反っ歯の醜男」(※38)で体は大きいが、とても女性から惚れられるタイプでは有りません。これは私が言ってるんじゃ無くて花袋自信がそう言ってるのです。若い時は丁稚も遣った花袋は、しかしネアカな性格 -根が明るいので根明とも書きます- から反っ歯を吹き飛ばしました。
それにしても「117通もの花袋宛柳田国男未発表書間集」の持つ意義は極めて大です。花袋が小説『妻』や『野の花』でこれだけの文章を確信的に書く為には、国男から相当詳しく内部事情を聞いていなければ書けるものでは有りません。逆に国男からすれば一般にはぼやかして居ても、心のどこかで自分の真情を解って貰いたいという、じりじりした気持ちが有ったに違い有りません。これは恋をした事が有る人 -大抵の人は有りますが- なら説明しなくても解る筈です。花袋は多分「聞き上手」なのです。そしてこの才能は小説家にとっては非常に有用です。
国男は花袋より4つ年下ですが国男は頭が切れ「友達の中でも殊に理解力の発達した人であつた」(△4のp20)と花袋も認めて居ました。又、国男の方でも花袋に喋ればその話の内容は、花袋と実の兄弟以上の玉茗に何れ知れ渡るであろう事は読んで居た筈です。国男はそれを知りつつ花袋を”操縦”し書かせたのだと私は考えます。だから「利根の悲恋」が或る程度近しい友人の間に広まるのは仕方無いと考えて居たのです。それが突然封印したのですから花袋も吃驚した筈です。
その後国男は段々花袋を避ける様に成りました。確かに『蒲団』(1907(明治40)年発表)の様な赤裸々な自然主義小説を国男が毛嫌いした面は有りますね、或いは自分の事を『蒲団』みたいに書かれたらヤバイと思ったのかも知れません。明治40年というと国男は32歳で孝と結婚して3年目です。未だ文壇人と交友は続けて居ましたが段々本格的に官僚としての道を突き進んだ時期です。こうして国男と花袋は疎遠に成りましたが、ネアカの花袋だったら”もう一回蒲団を敷いて匂いを嗅いで仕舞えば”もう一作小説が書けるというものです(→小説『蒲団』を参照)!
尚、国男は官僚を辞めた45歳位から頭が薄く成り、嘗ては「眉の昂(あが)つた」(△3のp65)男も眉が垂れ下がって来まして、もうこう成ると「白皙に美男」も何処へやら、普通のおっさんに成りました。
それにしても、三村竹清の日記『不秋草堂日歴』には吃驚しましたね。こんな”とんでもない物”が出て来るとは全く”想定外”でしたが、これに依って国男が面食いである事が判り何故か私はほっとして居ます!
(-v-) (>o<) (-_@)
その後の柳田国男の歩みは改めてここに記す必要は無いでしょうが、直ぐに民俗学に進んだ訳では無く、その前に官僚をそれも一流の官僚(←ちょっと癖の有る官僚)を勤め上げました。民俗学の仕事では私はやはり『遠野物語』(1910年刊、民俗学を確立した書)と『蝸牛考』(※1-4)(1930年刊、方言周圏論(△9のp14~20)を導く)を挙げます。
国男の生涯は3段階から成り以下の様に発想の仕方が違うのです。この様な正反対な生き方を器用に出来る人など殆ど居ません。特異な生き方で、これも才能の一つなのでしょう。
<国男の発想のベクトル>
<発想のベクトル>
第1段階 松岡国男 文学青年 空想型 (内→外)
唐突な変節:松岡国男の否定 → 柳田国男の誕生
第2段階 柳田国男 官僚(農商務省、貴族院書記官長) 教条・帰納型(外→内)
第3段階 柳田国男 民俗学の基礎を確立 羽搏き型 (内→外)
柳田国男は関東大震災をロンドンで知り第二次大戦を生き延び高度成長も半分位見て1962年8月8日に心臓衰弱で大往生しました。享年満87歳でした。
現在、生まれ故郷の兵庫県神崎郡福崎町には柳田國男・松岡家顕彰会記念館が在り、西隣には生家が移築保存されて居ます。茨城県布川(今の茨城県北相馬郡利根町)には柳田國男記念公苑資料館が在ります。又、東京の成城大学民俗学研究所は柳田国男の自宅が成城なので蔵書が寄贈されたのを記念して出来ました。
しかし田山花袋は面白いですね。小説『田舎教師』では埼玉県羽生市に埋没して行った実在の教師をモデルにし、その田舎教師に大きな影響を与えたのがその地に引っ込んだ「田園派」の太田玉茗でした。小説『再び草の野に』では東武鉄道の川俣駅が突然出来、そして又数年で無くなり前とは違う場所 -利根川のこちら側かあちら側かの違いなのですが埼玉県と群馬県の違いが在るのです!- に出来、それに伴う小市民的人間の悲喜交々が描かれました。又、三度(みたび)ここでお世話に為るとは思いませんでした。今迄の2作については▼下から▼ご覧下さい。
「田舎教師」-羽生('Country teacher', Hanyu, Saitama)
「再び草の野に」-川俣('To the weed again', Kawamata, Saitama)
私は小説『妻』に於いても花袋が国男の変節について書いて居る事は略真実であろうと思って居ました。それは小説『田舎教師』と小説『再び草の野に』に於いて、勿論作者の創作部分も当然有りますが、物語の背景は徹底的に真実に基づいて居た事、それが花袋の自然主義なのだと理解しました。特に『田舎教師』では、私が創作だろうと思って居た部分も良く調べると実は事実に従って居た程です。花袋も日本の自然主義文学を確立する為に”生みの苦しみ”を経験しますが、「現実を唯在るが儘に写し取る」という自然主義の大義名分(※4-1)を或る意味で忠実に実行して居ます。花袋というと”好い加減”に思われて居る向きも有ります -それは多分に彼のネアカな性格に依ります- が、「自然主義の確立者としての拘泥り」は極めて彼を律儀にして居ます。この律儀の意味は国男の律儀と異なりますが、しかし共通した部分も在るのです。それは確立者としての拘泥りは、人間の生き方を”或る原則”に対し律儀にするという事です。国男と花袋の違いは”原則”が違うのです。
それでは次に花袋の拘泥りについて少し述べましょう。小説『野の花』は定雄(国男)が主人公で定雄中心に物語が展開しますが、小説『妻』では妻が本のタイトルなので一応主人公なんでしょうが、本を読めば解る通り実は特に主人公では無く「どの人物をも平面的に発展させようとした。」(△3のp302)のであり、しかし「主観を交えず、結構を加えず、客観の材料を材料として書きあらわす手法」(△3のp304)として[自然主義の]平面描写を花袋は突き詰めました。小説的に見てこの平面描写が成功してるかと言われれば、否、ですね。300ページにも及ぶ小説で妻は没個性で「どの人物をも平面的に」では読む方が疲れます。でも、この小説を平面描写という手法で書くんだ、その為には背景の場面設定はなるべく真実その儘に書くんだという花袋の側の拘泥り、即ち「自然主義の確立者としての拘泥り」が有ったのです。その結果、花袋が予期したかどうかは知りませんが、小説としては面白くは無いけれども、この小説は証拠物件として価値は大いに在り、これを解読すると国男の若き日の秘密が -本人が最後迄隠蔽して居た秘密が- 明らかに成るのです。
これには、何度も書きますが、「117通もの花袋宛柳田国男未発表書間集」が決定的でした。良く青春時代の書簡集を保存してましたね、普通なら数年間は保存しても結局邪魔に成り捨てても可笑しく無いものを。しかし、これが花袋の拘泥りなのです。これに依って「母なきいね子」と国男自身が呼んだ乙女の身元が明らかに成り「利根の悲恋」の真実が証明されたのです。僅か18歳で散り去りし月下の乙女は哀れなるかな!!
以下は私の歌です。
哀れかな 花は蕾(つぼみ)の 月下の乙女
利根に散る恋 誰が知るらむ
月海、母なきいね子を哀れに思い詠む歌一首
国男は柳田国男に成ってから、一貫して「利根の悲恋」を否定し更に抹殺し続け、回顧録に於いても「布川時代」という章は在りますが「布佐時代」という章は無く、布佐時代については多くを語らずに -布佐には両親と鼎の墓が在るにも拘わらず- 逝きました。しかし小説『野の花』に書かれた最も多感な時期 -国男21~22歳、いね子14~15歳- の恋が、どうして忘れられるでしょうか?
私はこの点が今でも解らないのです!!
国男自身が青春文学を封印した事について、今後これ以上の突っ込みは出来ないでしょう。そういう意味で非常に満足しています。私は人間的には自分の周りに煙幕を張って居る”柳田君”(←彼には人間的に嫌な面が在る事は前に述べました)よりも花袋の方がずっと好きですね。
地方的(=ローカル)な事柄は100年も経つと忘れられインターネットで検索しても適切に書いて在る文章に遭遇する事は甚だ少なく、遂には”無い事が事実”に成って仕舞うのです。100年前の事実を知って居る人は殆ど物故して居る訳ですから。私は数年前からこの事は定理に出来る普遍性が在る様に思います。つまり人間という生き物は「100年前の事実は忘れて行く」というエルニーニョの小定理です。その様な状況に対し花袋の小説は貴重且つ希少な資料と成って居ます。上述の様に三度、花袋の自然主義に感謝、感謝です!!
{この節については2014年02月05日に加筆し最終更新}
小説『妻』では花袋の妻が一応主人公ですが、平面描写に依って重きを置かれず没個性に描かれて居るので、英語タイトルを 'The wife' にせずに 'A wife' にしました。定冠詞と不定冠詞の違いですが、つまり「その妻」では無く何処にも有り触れた大勢居る妻の中の一人という意味です。作者の妻だから良い様なものの、第三者だったら「あたしが主人公なのに、これじゃ全然脇役以下じゃないの!」と文句が出たかも知れませんね。
ところで利根川は1900年頃は未だ船便が主流でした。小説『野の花』にも帆前船(※39、△3-1のp19)とか汽船(※39-1、※39-2)が描かれて居ます。定雄(国男)が隣家の總領娘の結婚申込の返答に困り布佐の兄の所を逃げ出す時、定雄は布佐から汽船を利用して居ます。その場面を引いて見ましょう。「自分は滊船に乗る、水夫は竿を入れて、滊笛が川に響き渡つて、船はごとんごとんさあつさあと水を切つて動き出す……。...<中略>...そこに三階や半鐘台の聳えてゐる船越(布佐)の町は、丁度浮出たやうに黒くなつて顕れて見える。あゝ自分はかうして、此處を別れて行かうとはおもはなかつた。」(△3-1のp56)と在ります。尤もここの場面は花袋のフィクションかも知れません。花袋は利根川の風景描写は得意なのです、彼は群馬県館林の出身ですから。
右の絵は布佐より下流の押砂・神崎の白帆船で『利根川図志』(△2のp311)から採りました。いやぁ、当時は風情が有りましたね。
押砂河岸は「神崎と相対す。」(△2のp312)と在る様にちょうど布川と布佐の位置関係と同じです。今の住所は押砂が茨城県稲敷郡東町押砂、神崎が千葉県香取郡神崎町で、やはり利根川が県境に成って居ます。『図志』は1855年刊(※2)なので約150年前の風景ですが、僅か150年で随分変わりました。
利根川の船については国男自身も書いて居て『故郷七十年』には、布川の思い出として「今までついぞ白帆など見たことのなかった私にとって、このように毎日、門の前からほんの少し離れたところを、何百という白帆が通るというのは、本当に新しい発見であった。」(△5のp350)と在り -この話は花袋にも話したらしく『野の花』にも情景として出て来ます(△3-1のp19)- 、布佐時代に母が中川恭次郎宅で卒中で倒れた時には「高瀬舟(※39-3)を一艘借りよせ、浜町河岸まで持ってきておいた。病体をそこまで戸板にのせて運んで行き、そっと舟に移して、私どもみながいっしょにのって、二日がかりで利根川をまわって布佐へ連れて帰った。」(△5のp270)と在る様に東京から布佐迄船で行って居るのです。この後母は布佐で亡くなりました。
坂東太郎と呼ばれた利根川は古くから水運が発達し、特に近世には運河が開け銚子航路が出来て太平洋の魚を直接江戸に運ぶことが可能となり、明治時代には高瀬舟・帆船・蒸気船などが最盛期を迎えましたが、明治後期に鉄道が出来ると東北本線・高崎線・東武鉄道などの発達に押され水運は次第に衰退しました(△10のp76)。
それにしても日本は、否、日本だけで無く世界はこの100年で大きく変わりましたね。今回の文学散歩はバーチャルな旅でしたが、どんなものでしたでしょうか?!
どうも長い間お疲れ様でした、この辺で失礼させて戴きます。どうも有難う御座いました。
m(_~_)m
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【脚注】
※1:柳田国男(やなぎたくにお)は、明治・大正・昭和時代の民俗学者(1875~1962)。兵庫県生れで旧姓松岡。井上通泰の弟、松岡映丘(えいきゅう)の兄。東大卒。詩人として出発。宮内省官吏・貴族院書記官長を経て朝日新聞に入社。1932年同社を退き、以後本格的に民間伝承の研究活動に入る。この間、1913年雑誌「郷土研究」を刊行し、民間に在って民俗学研究を主導。民間伝承の会・民俗学研究所を設立し、日本の民俗学研究の基礎を築いた。「遠野物語」「蝸牛考」など著作が多い。1951年文化勲章。<出典:一部「学研新世紀ビジュアル百科辞典」より>
※1-1:遠野(とおの)は、岩手県南東部の市。遠野盆地の中心、北上盆地と三陸海岸とを結ぶ交通上の要地。柳田国男の「遠野物語」で知られる。人口2万8千。
※1-2:井上通泰(いのうえみちやす)は、国文学者・眼科医(1866~1941)。宮中顧問官。姫路生れ。柳田国男・松岡映丘・同静雄の兄。和歌に堪能、又、万葉集・風土記などの地誌学的研究に貢献。著「万葉集新考」など。
※1-3:松岡映丘(まつおかえいきゅう)は、日本画家(1881~1938)。名は輝夫。兵庫県生れ。井上通泰・柳田国男の弟。東京美術学校卒。新興大和絵運動を興し、武者絵にすぐれる。作「右大臣実朝」など。
※1-4:蝸牛考(かぎゅうこう)は、語学書。柳田国男著。1930年刊。日本各地の「かたつむり」の方言を調査し、その分布を説明する理論として方言周圏論を導き出す。
※2:利根川図志(とねがわずし)は、地誌。赤松宗旦(義知)著、葛飾北斎他画。6巻。1855年(安政2)刊。著者は下総布川(ふかわ)の人。利根川沿岸の名所・旧跡・物産・風俗等を挿絵入りで詳述。
※2-1:赤松宗旦(あかまつそうたん)は、江戸時代後期の医師、地誌学者(1806~1862)。下総相馬郡布川村の開業医の傍ら、父初代宗旦の志を継いで「利根川図志」を完成させた。名は義知(よしとも)。著作は他に「銚子日記」など。
※2-2:赤松氏(あかまつし)は、姓氏の一。播磨の豪族。鎌倉時代佐用荘を本拠として興り、南北朝時代以降同国守護。室町幕府四職家(ししきけ)の一。
※3:桂園派(けいえんは)とは、和歌の流派。香川景樹及びその門流。古今集を宗(むね)とし、平易を旨とし調(しらべ)を重んずる。
※3-1:香川景樹(かがわかげき)は、江戸後期の歌人(1768~1843)。号は桂園・梅月堂など。鳥取の人。小沢蘆庵・香川景柄の門人。歌は自然な感情を調べとし、平易な言葉で詠むべきとし、「新学異見(にいまなびいけん)」を著して賀茂真淵の崇古主義に反対。その派を桂園派と言う。歌集「桂園一枝」、著「古今和歌集正義」。
※4:田山花袋(たやまかたい)は、小説家(1871~1930)。名は録弥。群馬県館林市生れ。1907年(明治40)「蒲団」を発表して自然主義文学に一時期を画し、赤裸々な現実描写を主張した。他に「生」「妻」「田舎教師」「時は過ぎゆく」「一兵卒の銃殺」など。
※4-1:文学に於ける自然主義(しぜんしゅぎ、naturalism)とは、理想化を行わず、醜悪・瑣末なものを忌まず、現実を唯在るが儘に写し取る事を本旨とする立場。19世紀末頃フランスを中心として起る。自然科学の影響を受け、人間を社会的環境と遺伝とに依り因果律で決定される存在と考えた。ゾラ/ハウプトマンなどがその代表。日本には明治後期に伝わり、田山花袋/島崎藤村らが代表。
※5:宮崎湖処子(みやざきこしょし)は、評論家・作家・牧師(1864~1922)。本名、八百吉。筑前(福岡県)生れ。民友社に入り、「帰省」「空屋」などの田園趣味に依って知られ、「湖処子詩集」で新体詩の先駆を成した。
※5-1:民友社(みんゆうしゃ)は、1887年(明治20)徳富蘇峰が創立した出版社。雑誌「国民之友」を発行、90年「国民新聞」を創刊。蘇峰を始め、その弟蘆花・竹越与三郎・山路愛山・国木田独歩らがこれに拠る。
※5-2:徳冨蘆花(とくとみろか)は、小説家(1868~1927)。名は健次郎。肥後生れ。蘇峰の弟。同志社中退。「不如帰」「自然と人生」に依って認められた。トルストイに心酔して社会的視野を持つ作品を書き、晩年はキリスト者として田園生活を送る。作「思出の記」「黒い眼と茶色の目」「みみずのたはこと」など。
※5-3:国木田独歩(くにきだどっぽ)は、詩人・小説家(1871~1908)。名は哲夫。千葉県生れ。1906年(明治39)の短編集「運命」は自然主義文学の先駆として世評を高くした。作「武蔵野」「牛肉と馬鈴薯」「酒中日記」、日記「欺かざるの記」など。
※6:新体詩(しんたいし)は、明治初期に西洋の詩歌の形式と精神とを取り入れて創始された新しい詩型。従来の詩が主に漢詩を指して居たのに対して言う。外山正一ら共著の「新体詩抄」に起り、森鴎外・北村透谷・島崎藤村・土井晩翠・蒲原有明・薄田泣菫らに依って発展、我が国近代詩の淵源を成した。
※7:文学界(ぶんがくかい)は、1893年(明治26)1月創刊の文芸雑誌。北村透谷・島崎藤村・上田敏・戸川秋骨・平田禿木らが同人で、当時の文壇に清新なロマン主義を導入した。98年1月終刊。
※8:帝国大学(ていこくだいがく)は、旧制の国立総合大学。1886年(明治19)の帝国大学令に依り東京大学が帝国大学(後、東京帝国大学)と成り、97年京都帝国大学が設立、その後東北(1907年)・九州(1911年)・北海道(1918年)・京城(1924年、後のソウル大学)・台北(1928年、後の台湾大学) -日本支配時代の朝鮮と台湾にも置かれた- 大阪(1931年)・名古屋(1939年)の各帝国大学が設置。略称、帝大。第二次大戦後、学制の改革で新制大学として改組され「帝国」の2字も削除され、新制の国立大学と成った。<出典:一部「学研新世紀ビジュアル百科辞典」より>
※8-1:ナンバースクール(number school)とは、設立順に数字を校名に入れたエリート養成の学校。旧制高等学校では一高から八高迄。旧制中等学校も多くの都道府県で採用。因みに旧制高等学校は、一高が後の東京大学、二高が東北大学、三高が京都大学、四高が金沢大学、五高が熊本大学、六高が岡山大学、七高(造士館)が鹿児島大学、八高が名古屋大学。
※8-2:蛮カラ/バンカラ(ばん―)は、風采・言動の粗野なこと。ハイカラを捩って対応させた語。「―な校風」。←→ハイカラ。
※9:変節(へんせつ、apostasy)とは、節義を変えること。又、従来の主張をかえること。「成行きによって―する」。
※10:ディレッタンティズム(dilettantism)とは、好事(こうず)。道楽。
※10-1:ディレッタント(dilettante)とは、学問・芸術を慰み半分、趣味本位で遣る人。好事家(こうずか)。
※11:農政学(のうせいがく、agricultural administration study)は、農学の一分科。農業に関する国家の政策、並びに社会的保護・法令・施設などを研究する学問。
※12:ゼミは、ゼミナールの略。
※12-1:ゼミナール(Seminar[独])は、(seminarium[ラ]の神学校から)[1].大学の教育方法の一。教員の指導の下に少数の学生が集まって研究し、発表・討論などを行うもの。演習。ゼミ。セミナー。
[2].一般に、講習会。
※13:桑原武夫(くわばらたけお)は、仏文学者・評論家(1904~1988)。福井県生れ。隲蔵(東洋史学者)の子。京大卒。新京都学派の中心と目され、スタンダールやアランの発掘・紹介に努めた。第二次世界大戦後「第二芸術論」を著し、俳句の芸術性に疑問を呈した。又、京大人文科学研究所教授として中江兆民その他の学際的な共同研究を主宰。登山家としても知られる。文化勲章。主著「文学理論の研究」「ルソー研究」。<出典:一部「学研新世紀ビジュアル百科辞典」より>
※13-1:第二芸術(だいにげいじゅつ)とは、(桑原武夫の説に依る)第二義的芸術。伝統的詩型である俳句の持つ前近代性を批判。「―論」。
※14:間引き(まびき、thinning out, culling)は、(畑の作物などを)[1].間引くこと。間に在るものを省くこと。間隔を空けること。「―運転」。
[2].口減らしの為に親が生児を殺すこと。
※14-1:絵馬(えま)は、祈願や報謝の為に、社寺に奉納する絵の額。元々は馬、又は木馬を奉納する代りに馬の絵を描いたが、後に馬以外の画題も扱われる様に成った。今昔物語集13「板に書きたる―有り」。「―堂」。
※15:鹿島紀行(かしまきこう)は、俳諧紀行。芭蕉著。1軸。1687年(貞享4)門人曾良・宗波と常陸の鹿島へ月見に同行した時のもの。「鹿島詣」とも。
※16:肺尖(はいせん)は、肺の上部の尖端部。鈍円形で、鎖骨の上側の凹部に位置する。
※16-1:肺尖カタル(はいせん―)は、肺尖の部分の結核症。肺結核の初期病変として注目された。
※16-2:カタル/加答児(catarrhe[蘭], catarrh)とは、粘膜の漿液滲出と粘液分泌が強い炎症の一型。(宇田川玄随「西説内科撰要」に出る語)
「腸―」。
※17:大審院(だいしんいん)は、明治憲法下で最高の司法裁判所。1875年(明治8)設置。現在の最高裁判所に相当するが、違憲立法審査権が無いなど、権限内容は異なって居た。1947年廃止。<出典:一部「学研新世紀ビジュアル百科辞典」より>
※18:漂泊(ひょうはく)とは、[1].drifting。流れ漂うこと。
[2].wandering。一定の住居、又は生業が無く、彷徨い歩くこと。流離(さすらい)。奥の細道「片雲の風にさそはれて、―の思ひやまず」。「―の詩人」。
※18-1:山窩(さんか)は、村里に定住せずに山中や河原などで野営し乍ら漂泊の生活を送って居たとされる人々。主として箕作りや竹細工・杓子作り・川漁などを業とし、村人と交易した。
※19:プラトニック・ラブ(Platonic love)は、(「プラトン的な」の意)肉体的欲望を伴わない精神的恋愛。
※19-1:ロリコンとは、ロリータ・コンプレックスの略。
※19-2:ロリータ・コンプレックス(Lolita complex)とは、男性の少女への異常な性愛。ロリコン。V.ナボコフの小説「ロリータ」の主人公の少女ロリータに由来。<出典:「学研新世紀ビジュアル百科辞典」>
※19-3:リビドー(Libido[独])とは、(本来はラテン語で欲望の意)。精神分析の用語で、フロイトは性的衝動を発動させる力(=性欲衝動)とし、ユングは全ての本能のエネルギーの本体とした。
※19-4:元服(げんぶく/げんぷく)とは、(元は首・頭、服は着用する意)
[1].男子が成人に成った事を示し祝う儀式。髪型・服装を改め、頭に冠を加える。年齢は11~17歳頃が多く、幼名を廃し命名・叙位の事が在る。武家では冠でなく烏帽子を着け烏帽子名に改める。16世紀頃から庶民では前髪を剃る事に代る。女子では髪上(かみあげ)・初笄(ういこうがい)・裳着(もぎ)・鬢除(びんそぎ)がこれに当る。首服。冠礼。加冠。初冠(ういこうぶり)。御冠(みこうぶり)。冠(こうぶり)。源氏物語桐壺「この君の御童姿、いと変へま憂く思せど、十二にて御―したまふ」。
[2].江戸時代、女子が嫁して後、眉を剃り、歯を染め、丸髷(まるまげ)に結うこと。
→半元服。
※19-5:十三参り(じゅうさんまいり)は、旧暦3月13日(今は4月13日)に、13歳の少年・少女が盛装して、福徳・知恵・音声を授かる為に、虚空蔵に参詣すること。当日境内で13品の菓子を買って虚空蔵に供えた後、持ち帰って家中の者に食べさせる。京都嵯峨の法輪寺が有名。知恵詣。季語は春。
※19-6:ババコンとは、ババア・コンプレックスの略。男性が中年以上の小母さんを偏愛するという、審美眼・美意識の倒錯した病的境地。
※20:ドラスティック(drastic)は、思い切った様。徹底的で過激な様。「―な改革」。
※21:ターニング・ポイント(turning point)は、物事の変わり目。転換点。転機。<出典:一部「学研新世紀ビジュアル百科辞典」より>
※22:律儀/律義(りちぎ)は、[1].honest, conscientious。義理堅いこと。実直であること。醒睡笑「年五十ばかりなる男…―に重宝なるが」。「―な男」「―に年始の挨拶を欠かさない」。
[2].healthy。健康なこと。壮健。丈夫。浄、山崎与次兵衛寿の門松「お―で重畳重畳」。
※23:潔癖症(けっぺきしょう、neat paranoiac)とは、強迫神経症の一種で、或る物事に過度の不潔感を感じ気が済まない、とか強迫感を覚える症状。自分の手を不潔に感じ何度も洗う、電車やバスの吊革を不潔に感じ掴めない、他人が箸を入れる鍋料理を食べられない、など。不潔恐怖症。
※23-1:強迫神経症(きょうはくしんけいしょう、obsessive-compulsive neurosis)とは、不合理だと自分にも分かる観念や行為が自己の意思に反して現れ、これに不快な感情や強迫感を持つ一種の神経症。<出典:一部「学研新世紀ビジュアル百科辞典」より>
※23-2:精神病理学で言う強迫(きょうはく、obsession)は、〔医〕つまらない考えや感情などが頭にこびり付いて、抑えようとしても不可能な症状。
※23-3:神経衰弱(しんけいすいじゃく、Neurasthenie[独], nervous breakdown)は、神経症の一亜型。神経が過敏と成り、思考障害・集中困難が在って苛々し、仕事の能率が上がらず、疲労・脱力感・不眠・頭痛・頭重・肩凝り・眼精疲労などを訴えるが、他覚的所見に乏しい。
※23-4:神経症(しんけいしょう、neurosis)は、心理的な原因に因って起る精神の機能障害。器質的病変は無く人格の崩壊も無い。病感が強く、不安神経症・心気神経症・強迫神経症・離人神経症・抑鬱神経症・神経衰弱・ヒステリーなど種々の病型がある。ノイローゼ。
※24:南方熊楠(みなかたくまぐす)は、民俗学者・博物学者(1867~1941)。和歌山県の人。南北アメリカに遊学、1892年(明治25)渡英、大英博物館東洋調査部員。粘菌を研究し、諸外国語・民俗学・考古学に精通。著「南方閑話」「南方随筆」「十二支考」など。
※25:書誌学(しょしがく、bibliography)は、図書を調査・研究の対象とする学問。広義には、印刷術・製本術・古文書学・文献学・分類学・写真術・書道、紙・筆墨など材料の研究迄を含む。図書並びに図書関係事項の一般的研究と、個別の図書・文献についての考証的研究とがある。図書学。
※25-1:篆刻(てんこく)とは、[1].木・石・金などに印を彫ること。その文字に多く篆書(てんしょ)を用いるから言う。「―家」。
[2].文章の修辞・虚飾が多くて実用の伴わないこと。
※26:演劇博物館(えんげきはくぶつかん)は、演劇に関する各種の文献・資料を蒐集・研究・陳列する博物館。日本では、1928年、坪内逍遥の古稀の賀とシェークスピア全集40巻翻訳完成を記念して、早稲田大学構内に創設。
※27:内田魯庵(うちだろあん)は、文学者(1868~1929)。名は貢。初め不知庵と号。江戸下谷生れ。トルストイ作の「復活」の翻訳、小説「くれの廿八日」「社会百面相」の他、「獏の舌」など随筆多数。
※28:被風/被布/披風(ひふ)は、着物の上に羽織る衣服の一。羽織に似るが、衽(おくみ)深く左右に合せ、盤領(まるえり)のもの。江戸末期より剃髪・総髪の茶人や俳人などが着用。後、婦人・子供の外出用、次いで洋風を加味して東(あずま)コートに変った。季語は冬。
※29:平田篤胤(ひらたあつたね)は、江戸後期の国学者(1776~1843)。国学の四大人の一。初め大和田氏。後、平田藤兵衛篤穏(あつやす)の養子と成る。号、気吹舎(いぶきのや)・真菅乃屋(ますがのや)。秋田の人。本居宣長没後の門人として古道の学に志し、復古神道を体系化。草莽の国学として尊王運動に影響大。死後の霊は大国主命の主宰する幽冥に行くとする死後安心論を展開して宗教化を強め、儒教・道教・キリスト教の知識を用いて古伝説の再編を行い、独自の立場を打ち出した。著「古史徴」「古道大意」「霊能真柱(たまのみはしら)」「仙境異聞」など。<出典:一部「日本史人物辞典」(山川出版社)より>
※29-1:復古神道(ふっこしんとう)は、日本の古典に立脚し、儒仏の説を交えない神道説。荷田春満・賀茂真淵・本居宣長・平田篤胤らの国学者が唱道した。古道、又は惟神(随神)の道(かむながらのみち)とも言い、古史の伝える所を忠実に信じ、天皇の徳化に浴せしめることを理想とする。
※29-2:幽冥(ゆうめい/ゆうみょう)とは、[1].幽(かす)かで暗いこと。
[2].冥土。黄泉。
※30:天狗(てんぐ)は、[1].深山に棲息すると言う想像上の怪物。人の形をし、顔赤く、鼻高く、翼が在って神通力を持ち、飛行自在で、羽団扇(はうちわ)を持つと言う。日本の天狗は山伏姿をして居る。今昔物語集20「今は昔、天竺に―有けり」。
[2].be puffed up。高慢なこと。自負すること。又、その人。「―になる」「釣―」。
※30-1:神隠し(かみかくし)とは、[1].子供などが急に行方知れずに成ること。古来、天狗や山の神の仕業とした。狂、居杭「見た所は見へませね共、惣じて―などと申して」。「―に遭う」。
[2].服喪中、白紙を貼って神棚を隠すこと。
※30-2:山の神(やまのかみ、mountain god)は、この場合、山を守り、山を司る神。又、山の精。民間信仰では、秋の収穫後は近くの山に居り、春に成ると下って田の神と成ると言う。法華経(竜光院本)平安後期点「魑(やまのかみ)魅(さわのかみ)」。今昔物語集27「さやうならむ歌などをば深き山中などにては詠ふべからず。―の此れを聞きてめづる程に留むるなり」。
※30-3:山姥(やまうば/やまんば)とは、[1].深山に住み、怪力を発揮したりすると考えられて居る伝説的な山の女。山女。鬼女。やまんば。
[2].やまんば(ヤマウバの音便)。能や歌舞伎の演目の一。
※31:「またぎ/マタギ」は、東北地方の山間に居住する古い伝統を持った狩人の群。秋田またぎは有名。起源として磐次磐三郎(ばんじばんざぶろう)の伝説を伝える。まとぎ。山立(やまだち)。
※31-1:磐次磐三郎(ばんじばんざぶろう)とは、伝説で、狩人の元祖と言われる兄弟。山の神の難を兄弟で助け、或いは山の神の難産を一人は助けるのを拒み一人は助けたなどと伝える。万次万三郎(まんじまんざぶろう)。大汝小汝(おおなんじこなんじ)。大満小満(おおまんこまん)。
※32:マージナルマン(marginal man)とは、民族・地域・階層・文化などについて、異なる複数の集団の境界に在って、何れの集団にも十分帰属していない人々。境界人。
※32-1:マージナル(marginal)は、[1].周縁的。瑣末的。「―な位置」。
[2].限界である様。「―・コスト」。
※33:棄老(きろう)とは、老人を(山中などに)捨てること。「―伝説」。
※33-1:姨捨(おばすて/うばすて)とは、親が老齢に成ると山へ棄てるという棄老の習わし。
※33-2:蓮台野(れんだいの)とは、墓地又は死者を葬送する所。地名と成って居るものが多く、京都市北区に在る船岡山西麓の地は著名。
※34:傀儡(くぐつ)は、[1].歌に合わせて舞わせる操り人形。又、それを操る芸人。でく。手傀儡。かいらい。
[2].(傀儡の女たちが売色もしたことから)遊女。遊び女。浮かれ女。傀儡女。
※35:大江匡房(おおえのまさふさ)は、平安後期の貴族・学者(1041~1111)。匡衡の曾孫。江帥(ごうのそち)と称。後冷泉以下五朝に仕え、正二位権中納言。又、白河院司として別当を兼ねた。著「江家次第」「本朝神仙伝」「続本朝往生伝」「遊女記」「傀儡子記」など。その談話を録した「江談抄」が在る。
※36:放生会(ほうじょうえ)は、仏教の不殺生の思想に基づいて、捕えられた生類を山野や池沼に放ち遣る儀式。神社・仏寺で陰暦8月15日に行われる。季語は秋。
※37:細男・才男(せいのお)とは、
[1].奈良の春日神社の若宮の祭に白丁・立烏帽子姿で登場する六人の男。
[2].八幡宮などの祭に行われた行列の先駆の人形。又、その代りに歌舞する人。その舞を細男舞(せいのおまい)と言う。ほそおとこ。青農。さいのお。くわしお。
※37-1:細男(ほそおとこ)とは、細男(せいのお)に同じ。
※38:反っ歯(そっぱ)は、(ソリハの音便)前歯が前方に反り出たもの。出歯。出っ歯。
※39:帆前船(ほまえせん、sailing ship)は、西洋式帆船の称。帆に受ける風力を利用して航走する船。帆の張り方に依ってシップ/バーク/スクーナー/スループなど各種の形式が在る。帆船(ほぶね/はんせん)。
※39-1:汽船(きせん、liner, steamer)は、[1].蒸気機関で推進させる船。旧称、蒸気船。
[2].帆船に対して、動力機関に依って航行する船の総称。但し、小艇と軍艦は含まない。蒸気船/内燃機船/電気推進船/原子力船などに分けられる。
<出典:一部「学研新世紀ビジュアル百科辞典」より>
※39-2:蒸気船(じょうきせん、steamboat, steamer)は、汽船の旧称。又、川や湖で使用する小型の汽船の称。〈薩摩辞書〉。
※39-3:高瀬舟(たかせぶね)は、古代から近世まで広く各地の河川で用いられた、舳(へさき)が高く上がり底が平らな小形の箱型運送船。古く「日本三代実録」884年の条に記述が見える。後世、貨物輸送に多く使われて、角倉了以は京都の高瀬川など各地に運河を開削して高瀬舟を通した。近世、利根川水系で用いられた高瀬船のみは大形で別格。(書名別項)。<出典:一部「学研新世紀ビジュアル百科辞典」より>
(以上、出典は主に広辞苑です)
【参考文献】
△1:『遠野物語・山の人生』(柳田国男著、岩波文庫)。
△1-1:『桃太郎の誕生』(柳田国男著、角川文庫)。
△2:『利根川図志』(赤松宗旦著、柳田国男校訂、岩波文庫)。
△3:『妻』(田山花袋作、岩波文庫)。
△3-1:『明治文学全集67 田山花袋集』(田山花袋著、吉田精一編、筑摩書房)。
△4:『柳田國男の恋』(岡谷公二著、平凡社)。
△5:『故郷七十年』(柳田國男著、のじぎく文庫編、神戸新聞総合出版センター)。
△6:『文人悪食』(嵐山光三郎著、新潮文庫)。
△7:『仙境異聞・勝五郎再生記聞』(平田篤胤著、子安宣邦校注、岩波文庫)。
△8:『人物叢書 大江匡房』(川口久雄著、日本歴史学会編、吉川弘文館)。
△9:『日本の方言地図』(佐藤亮一・真田信治・沢木幹栄・徳川宗賢・野元菊雄著、徳川宗賢編、中公新書)。
△10:『埼玉県の歴史散歩』(埼玉県高等学校社会科・教育研究会歴史部会、山川出版社)。
●関連リンク
@参照ページ(Reference-Page):ユダヤ暦や
日本の旧暦(陰暦)の季節と月について▼
資料-「太陽・月と暦」早解り(Quick guide to 'Sun, Moon, and CALENDAR')
@参照ページ(Reference-Page):ノロウイルスとは▼
資料-最近流行した感染症(Recent infectious disease)
@参照ページ(Reference-Page):大江匡房の『小倉百人一首』の73番歌▼
資料-小倉百人一首(The Ogura Anthology of 100 Poems by 100 Poets)
@補完ページ(Complementary):カッパの子ゝコの話や
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