2005年・空から大阪の古墳巡り
[大空を舞う旅#1]
(Flight tour of TUMULI, Osaka, 2005)

−− 2005.05.19 エルニーニョ深沢(ElNino Fukazawa)
2014.09.27 改訂

※注意:このページは写真が多く、読込みに時間が掛かります。
★−−−暫くお待ち下さい(Wait a minute)−−−★

 ■はじめに − 待ちに待った小型機飛行

 05年5月14日(土)に、長年の念願が遂に叶って八尾空港から小型機に乗って、大阪府の古市古墳群(※1)と百舌鳥古墳群(※2、※2−1)を上空から撮影することが出来ました。時代区分に古墳時代(※3)と言うのが在りますが正にその時代を空から眺めようという訳です。
 日程を決めた以後は当日の天候だけが心配だったのですが、普段の私の行いが良かった?!、と見えこの日は若干靄が掛かって居ましたが晴れで風も弱く、フライトには絶好・最高・ヤッホーの穏やかな日和でした。
 同乗したのは「関西歴史散歩の会」(下村治男会長)の香嶋さんと藤田さんですが、会としてでは無く全員個人参加です。2人には2月の例会の帰りに話を持ち掛け同意を得て、2月下旬にインターネットで航空会社を調べて昭和航空(株)本社にメールと電話でコースと料金などを打診しました。そして既存の30分遊覧飛行コースを、同一料金で2古墳群遊覧コースに変更して戴き実現した次第です。料金は
  30分飛行:       ¥13,000(税込み)/1人
  「HPを見た」割引特典:  ¥1,000/1フライト
ということで、3人で¥38,000でした。この料金には賠償保険(最大2,300万円)も含まれて居ますので、保険金を欲しい方は知り合いを口車に乗せ、大空へ旅立たせて遣って下さい、アッハッハ!
 尚、このページの写真は大きいのが多いですが、小型飛行機の臨場感をお伝えしたいが為です。皆さんも小型機に搭乗した気分でご覧下さい。又、古墳と土師氏(※4) −朝廷に土師器(※4−1)を貢納した品部(※5)− の密接な関係にも触れて行きたいと考えて居ます。関東の古墳も土師氏が密接に関与して居ます。
 → 前玉神社と「さきたま古墳群」(Sakitama shrine and tumuli, Saitama)

 ■愈々発進!

写真0:「八尾空港」の標識。 午前11時からのフライトなので、地下鉄谷町線の終点・八尾南駅の改札(地上駅で改札は1つだけ)で10時15分に待ち合わせました。駅から東にゆっくり歩いて15分で現地事務所に着きます。
 ところが10時過ぎに全員揃ったので、ボチボチと出発しました。途中には右の様な「八尾空港」の標識が在ります。10分置き位に飛び立つ小型飛行機がエンジン音を誇らし気に立て真上を掠めて行き、我々の気分も高まって来ました。
 10時20分に事務所に到着、搭乗者全員の住所・氏名を用紙に記入し暫く雑談後、予定を切り上げて10時45分フライトにしました。
 するとそれ迄事務を執っていたオジサンが、「今日は私が操縦します」と宣ってすっくと立ち上がり、ジャケットを引っ掛けてサングラスを掛けました。ムムッ、サングラスを掛けたらパイロットに変身か〜!!
 これが小型飛行機の良い所です。このオジサンは禾本(のぎもと)機長、この道40年、飛行時間1万?千時間のベテラン(→後出)でした。
 機長に案内されて事務所裏の飛行機格納庫(→後出)を通って空港内エプロン(※6)に出ると、生駒山や二上山(→後出)(※7)を背景に我々の搭乗機セスナ172型JA3652(※8、※8−1)が待機して居ました。先ずは搭乗機と共に記念撮影(左下の写真)、右下は我々の拡大(右から藤田さん、香嶋さん、そして私)です。
写真1−1:搭乗機を前にして記念写真。写真1−1−2:記念写真の人物拡大。

 八尾空港は昭和9(1934)年に阪神飛行学校設立に伴い離着陸訓練飛行場として開港した大正飛行場を前身とする第二種空港(※9)、即ち主要な国内航空の一つで、現在A滑走路(主:1490m、東西方向)B滑走路(副:1200m、北西南東方向)の2本を有し、空港利用時間は8:00〜19:30です。

 ということで、昭和航空(株)は9:00〜18:30を飛行開始時間として遊覧飛行を営業して居ます。これから愈々搭乗です。
写真1−2:空港管制塔。 搭乗時刻は10時45分機長が前席左で私がその隣、後部座席に香嶋さんと藤田さん、これで満席です。機内は狭く軽自動車並みです、まあ軽飛行機ですから。機長は高度1000フィート(300m)、時速180kmで飛行すると仰いました。高度は低いですが、スピードは目一杯出す様です(※8−1)。右が機長が英語で交信して居る空港管制塔、滑走中に撮りました。
写真1−3:離陸直後の八尾空港北面の様子。 この日は好天なのでA滑走路に向かいます。練習機の着陸&離陸(一旦着陸後直ぐに再離陸)を待った後愈々発進、ブルブルーンというエンジン音とプロペラ音を高鳴らせA滑走路を西に向かってまっしぐら。そして10時50分、遂に離陸。待ちに待った瞬間です!!
 右が離陸直後の八尾空港北面の様子です。
 先ずは西に向かって百舌鳥古墳群を目指しますが、何だか足の裏がムズムズと擽(くすぐ)ったく成って来ましたよ。では古墳の地図を広げて下さい、このページと併行して見れますよ。
  地図−日本・大阪の河内地方(Map of Kawachi country, Osaka -Japan-)

 ■百舌鳥古墳群

 (1)大和川に沿って

 西に向かって飛び立つと直ぐ眼下に大和川が見えます(左下の写真)。手前が上流で、右岸には大阪市平野区の長吉高校グラウンド長吉長原西団地瓜破霊園が見えて居ます。
 その儘大和川に沿って西に飛行すると、やがて右手に大阪市東住吉区の長居競技場(右下の写真)、左手には堺市南花田町の大泉緑地公園の大泉池(写真無し)が見えて来ました。
写真1−4:大和川沿岸の風景。写真1−5:長居競技場。
写真1−6:大和川河口の遠景。
 すると直ぐに百舌鳥古墳群の緑が前方に見え出し、それは見る見る内に大きく成って来て、大阪湾も手に取る様に見えます。私はもうワクワク、ドキドキです。

 右が北西の遠景。大阪市と堺市の境界を成す大和川河口の遠景です。
写真1−7:新浜寺大橋と浜寺公園の遠景。
 左が西南西の遠景。湾岸4号線の新浜寺大橋の白いアーチが見えます。アーチの左側に見える緑地帯が浜寺公園の松林、アーチの向こうには堺市臨海工業地帯の白いタンクや紅白の煙突が見えて居ます。アーチの手前の緑地が諏訪ノ森、その手前の高架道路が国道26号です。
 

 (2)百舌鳥古墳群

 到頭百舌鳥古墳群の上空に来ました。これから古墳群の上を旋回します(→百舌鳥古墳群の地図)。
 下が大仙陵古墳(百舌鳥耳原中陵、仁徳天皇陵)(※2−2)の全景です。古墳の北から見て居ます。全長480mで日本最大の古墳です(△1のp239〜241)。
写真2−1:大仙陵古墳(仁徳天皇陵)。
 これこれ、これなのです、私が見たかったのは。大きな古墳は地上からその全体の姿を見ることは出来ませんし、この様に天皇陵に比定されて居る古墳は中に入ることも出来ません。しかしこうして上空から見ると古墳の全体像を一目で把握可能で、前方後円墳(※3−1〜※3−3)の鍵穴型や濠の構造が手に取る様に判ります。もう、何の説明も要りません。

 下も大仙陵古墳、機体は右旋回し古墳の北東から後円部の正面から見たものです。古墳の向こう側の白い塔の辺りが大仙公園の平和塔で、更にその塔の向こうに百舌鳥耳原南陵が見えて居ます。
写真2−2:大仙陵古墳。

 機体は更に右旋回し、下の写真は大仙陵古墳の南東から撮ったものです。手前に見えているのが御廟山古墳です(いたすけ古墳は主翼アームで隠されて居ます)。その向こうが大仙公園大仙陵古墳です。この辺りは私は10回以上訪れて居ますが、歴史の教科書や古墳の本で見た光景と全く同じです。私は思わず、オーッ!!、と感動の声を上げて仕舞いました。
写真2−3:御廟山古墳と大仙公園・大仙陵古墳。

写真2−4:百舌鳥耳原南陵(履中天皇陵)。
 飛行機は右旋回を続け、今度は大仙陵古墳の南西からの光景です(左の写真)。手前が先程遠くに見えていた見た石津ヶ丘の百舌鳥耳原南陵(履中天皇陵)です。その向こうに大仙公園大仙陵古墳(一部主翼アームの陰に成っている)が見えて居ます。
 南陵の濠は藻で緑色に成っているのが判ります。
写真2−4−2:いたすけ古墳と御廟山古墳。
 上の写真で、大仙公園の右にJR阪和線を隔てて2つの緑地が見えて居ますが、この部分を拡大したのが右の写真です。手前がいたすけ古墳、奥が御廟山古墳です。

 これで大仙陵周辺の古墳を見終わって、次の古市古墳群に向けて飛行機は東に進路を取りました。
 


写真2−5:にさんざい古墳。 大仙古墳群を去る時、右手遠方に見えて来たのがにさんざい古墳で、右の写真は古墳の北から見たものです(遠景からの抽出なので画質は良く無いですが)。古墳の右が前方部です。
 古墳の左側のビル群は堺市学園町の大阪府立大学のキャンパスです。

 ところで「にさんざい古墳」の向こう側(南側)が堺市土師町です。ここは嘗て百舌鳥古墳群の造成・埋葬儀礼や埴輪製作を世襲的に家職とする古代の土師氏(※4〜※4−2)が集団で住んで居た所で、土師遺跡も出土して居ます。大鳥の化身で出雲建国の神・天穂日命(※4、※4−3)を祖神とする土師氏は鳥トーテムの習俗を持つ出雲族です。そして天穂日命を祀って居るのが堺市鳳北町に在る和泉国一の宮・大鳥神社で、百舌鳥耳原南陵の南西2.5kmの地点に鎮座して居ます。更に石津太神社石津神社も天穂日命や野見宿禰(※4−4)を祀って居ます。これらの詳細は「阪堺電車沿線の風景−浜寺編」を参照して下さい。
 私は更に鳥トーテムを持つ土師氏が関東地方の「酉の市」の発祥に深く関わっている、と見て居ます。「酉の市」の縁起物の熊手には必ず稲穂が付きますが、これは大鳥の穂落し伝説(△2のp283)に由来するもので、埼玉県の鷲宮を始め関東に多い鷲神社や大鷲神社(鷲や大鷲は何れも「おおとり」と読む)は「酉の市」が盛んで、土師氏の伝承が伝えられて居る神社が多いからです。
 古墳と埴輪と土師氏の関係は「古墳在る所に埴輪在り、埴輪在る所に土師氏在り」なのです。「関東の土師氏」の足跡については、何れ纏まった論考を掲載する予定ですが、取り敢えずは「客観主義のエルニーニョ的転回」を参照して下さい。又、百舌鳥(もず)という地名は大鷦鷯(おおさざき)の名であった仁徳天皇(※2−2) −鷦鷯(さざき、※2−3)はモズ(※2−1)と同じスズメ目のミソサザイ(※2−4)の古名− とも鳥トーテムの土師氏にも関係深い名です。
 その土師氏、特に「関東の土師氏」についてのページがやっと出来上がりました(←10年以上掛かった!)ので、▼下▼に
  「おおとり神社」と土師氏(Otori shrine and Haji-clan)

リンクを張ります。{このリンクは2014年9月27日に追加}

 [ちょっと一言]方向指示(次) 土師氏に因む地名の例として、地名の「鷲」は、土師氏の居住地にしばしば付けられる名称。そして読みの「わし」は「はじ」が転訛して居る場合も有ります。埼玉県鷲宮町の鷲宮(わしのみや)は関東地方の神楽の源流と言われる土師一流催馬楽神楽「酉の市」を伝えている神社ですが、江戸時代迄は土師宮(はじのみや)と呼ばれて居ました(△2のp282〜283)。地名の「埴生」(はにゅう)は、埴輪を造る原料の赤土を産する所。埼玉県の羽生(はにゅう)も元は埴生です。

 これからこの儘東に向かい古市古墳群を目指します。前方には金剛生駒国定公園の連峰(生駒山、二上山、葛城山、金剛山)が連なって見えて居ます。

 ■古市古墳群

 (1)河内大塚山古墳

写真3−1:大塚山古墳。 古市古墳群に向かう途中、松原市と羽曳野市に跨る河内大塚山古墳が左手に間近に見えて来ました(左の写真)。これは古墳の南から見たもので、これが雄略天皇陵という説も在ります(→大塚山古墳の地図)。
写真3−2:八尾市上空を飛ぶジェット旅客機。 続いて左手に羽曳野市の丹比高鷲原陵(雄略天皇陵)が遠くに見えたのですが、飛行機がここで大きく右旋回して仕舞ったので撮影出来ませんでした。私は右座席なので、左側は時間的余裕が必要なのです。
 この時上空にジェット旅客機が飛んで居たのでパチリ(右上の写真)。その上に別のジェット機の飛行機雲が見えている様に、この藤井寺市や八尾市上空は大阪国際空港(伊丹市)に着陸する旅客機の飛行コースに成って居ます。それで淀川から見ると旅客機が生駒山麓から”湧き出て来る”様に見えるんですね。

 (2)古市古墳群

 古市古墳群は藤井寺市と羽曳野市に跨って居ます(→古市古墳群の地図)。飛行機は大塚山古墳の上空で右に90度旋回して南進後180度左旋回してUターンして下の写真の一番手前に見える仲哀天皇陵(※10)の西に北向きに侵入しました。
写真4−1:仲哀天皇陵と正面の二上山。
 この写真は仲哀陵の西北西から見たもので中々雄大な眺めです。仲哀陵の向こうの左側の大きな緑地が古市古墳群の主陵・誉田(こんだ)御廟山古墳(応神天皇陵)(※1−1)、その右の緑地が墓山古墳です。この両古墳の間の少し手前に在る2つの小さな緑地が、左が夾塚古墳で右が宮山古墳です。因みに、応神天皇は仲哀天皇の息子とされて居ますが、私は否定的(→後出)に見て居ます。
 そして遠く真正面に見える2瘤が二上山(※7)の雄岳と雌岳です。この二上山はこうして遠くからでも識別され標的に成るので、古代から神聖視され万葉の歌にも歌われて居る磐座(いわくら)の一つです。

 飛行機は仲哀天皇陵の後円部に沿って右旋回して東に向かい、誉田御廟山古墳を目指します。
 下はその途中、大阪外環状線(手前の高架の道路)の上空で右手に見えて来た小古墳群を北から見たものです。手前から夾塚古墳宮山古墳墓山古墳が先程と反対の角度から近くに見えて居ます。墓山古墳の更に奥の緑地が日本武尊陵、その右側の緑地が河内坂門原陵(清寧天皇陵)で、その手前が青山古墳です。
写真4−2:夾塚古墳、宮山古墳、墓山古墳。

 もう誉田御廟山古墳の北側上空です。ここからは下の写真の様に西名阪自動車道を走っている車や建物の屋根がはっきり見えます。実は今迄の写真はこのページサイズに収める為に可なり縮小して居るのですが、高度300mの眺望の迫力を知って戴く為に、ここでは原寸で載せました。
写真4−3:高度300mから間近に見る西名阪自動車道。

 そして下が誉田御廟山古墳(応神天皇陵)北から見た全景です。全長420mで先程見た大仙陵古墳に次ぎ日本で2番目に大きい古墳ですが、土塊の容積は日本一です。前方部から手前に突き出して居る部分には3つの陪塚(何れも円墳、※11)が並んでいて、前方部に近い方から丸山古墳大鳥塚古墳赤面山古墳です。
 手前の高速道路が上で原寸で示した西名阪自動車道です。右側に直前に見た夾塚古墳宮山古墳墓山古墳が手前から並んで居ます。
写真4−3−2:誉田御廟山古墳(応神天皇陵)。
写真4−3−4:誉田御廟山古墳の鳥居。写真4−3−3:誉田八幡宮を遠望。 上の写真で後円部の奥の小さな緑地が誉田八幡宮(→後出)で、左がその拡大で神社の屋根が見えて居ます。
 又、前方部の濠の外の茶色く見える部分に宮内庁書陵部の古市陵墓監区事務所が在り、古墳の管理をして居ます。その部分を拡大したのが右の写真で、天皇陵に必ず在る鳥居が立っているのが見えます。普段私たちはここから古墳のほんの一部を眺めているに過ぎず、上空から見る醍醐味にはとても及びません。

写真4−4:大和川支流の石川。 飛行機の上からは大和川の支流・石川も見えました。左の写真は北から見た眺望です。石川流域は蘇我氏の居住地で、蘇我倉山田石川麻呂などはこの川の名を名乗って居ます。蛇行部に架かる橋は手前が臥龍橋、奥が近鉄南大阪線の橋です。この川の左側が近つ飛鳥で右側に羽曳野丘陵です。
 この後飛行機は右旋回します。
 


写真4−5:古市高屋丘陵(安閑天皇陵)。

 右は古市高屋丘陵(安閑天皇陵)東から見たものです。奥に近鉄古市車庫が見えて居ます。鳥瞰図という言葉が在りますが、このページに掲載した上空からの写真は、鳥が見る様な鳥瞰写真と言えるでしょう。正に「鳥に成った気分」です。
 ここで又、右旋回します。
写真4−6:河内坂門原陵(清寧天皇陵)、芦ヶ池、埴生坂本陵(仁賢天皇陵)。
 左は河内坂門原陵(清寧天皇陵)南から見た風景です。
 清寧陵の奥が芦ヶ池、その向こうが埴生坂本陵(仁賢天皇陵)です。芦ヶ池の左が峯ヶ塚古墳、その左が小口山古墳です。
 飛行機は又、右旋回し芦ヶ池の上に行きます。

 下の写真白鳥陵(日本武尊陵)(※10−1)を西から撮ったもので、手前の前方部の濠の外に鳥居が見えます。日本武尊は白鳥伝説(※10−2)を持ち、三種の神器(※10−3)の一つの草薙剣(天叢雲剣)に関わる記紀の神話的英雄です。
写真4−7:白鳥陵(日本武尊陵)。


写真4−8:墓山古墳。
 飛行機はその儘北上すると直ぐ右手に墓山古墳が見えて来ます(右の写真)。これは古墳を西から見て居ます。


 この後更に右旋回し北東に向かいます。機体が誉田御廟山古墳の前方部の北側に来ると、右下の3つの古墳が見えます。これは3古墳の南西から撮ったものです。
写真4−9:古室山古墳、仲津媛皇后陵、恵我長野北陵。 手前から古室山古墳仲津媛皇后陵、更にビルの奥が恵我長野北陵です。
 写真の右手前の道路は西名阪自動車道、左手前からカーブして伸びているのが近鉄南大阪線で、恵我長野北陵の手前のビル辺りが土師ノ里駅です。

 飛行機はその儘北東に進み、恵我長野北陵の北側で右旋回し、逆に3古墳の北東から見たのが下の写真です。
写真4−10:恵我長野北陵(允恭天皇陵)、仲津媛皇后陵。
 この写真で手前に見えているのが恵我長野北陵(允恭天皇陵)、その後円部の奥のビルの辺りが近鉄南大阪線の土師ノ里駅で、その右奥が仲津媛皇后陵です。又、恵我長野北陵の左奥の緑地が道明寺天満宮と道明寺の鎮守の杜です。その鎮守の杜の部分を拡大したのが左下の写真で、左側の大きな緑地が道明寺天満宮、右側の小さな緑地が道明寺(※12)の境内です。それらしき建物が見えますね。
 道明寺天満宮の祭神は、菅原道真/天穗日命/覚寿尼(道真の叔母)です。野見宿禰が埴輪の制を創ったことに依り土師姓と共にこの「土師ノ里」の土地を賜って以来、土師氏は代々この地に住み祖神の天穂日命とその子・天夷鳥命をその丘に祀り、毎年旧暦の8月1日に盛大な祭礼を行いました。これが道明寺天満宮で毎年9月1日に行われる八朔大祭です。

 この後、飛行機は右旋回し南に進路を向けました。すると右手に道明寺天満宮の社殿が間近に見えて来ました。それが右下の写真で、東から見下ろしたものです。
写真4−10−2:道明寺天満宮と道明寺。写真4−11:道明寺天満宮の社殿。
 土師ノ里という駅名でもお解りの様に、この辺りも土師氏が集団で居住した所で、勿論古市古墳群を造る為です。一般に天満宮が菅原道真(※4−5)を「天神さん」として祀って居ることは良く知られて居ますが、菅原氏が土師氏の出(※4)であることは殆ど知られて居ません。しかしこの道明寺天満宮は天暦元(947)年に天満宮が創建される迄、現在の境内摂社・土師社が本社で、故に土師社は元宮(もとみや)とも呼ばれます。又、道明寺は嘗ては土師寺と呼ばれて居ました(※12)。この様に土師氏一族の氏社が道明寺天満宮、氏寺が道明寺 −こういう寺を神宮寺(※13)と言います− なのです。土師氏の伝統は道明寺天満宮の八朔大祭などに今も受け継がれて居ます。
 更には古市古墳群の一角に在る羽曳野市の埴生野高鷲という地名は何れも土師氏に因む地名です。


 機長は最後の見納めに再び誉田御廟山古墳の周りを右旋回で一周して呉れました。
写真4−12:誉田御廟山古墳と誉田八幡宮境内の一部。
 左の写真は誉田御廟山古墳の後円部の方から、つまり南から撮ったものです。後円部の先から手前に伸びている道路に連なって緑地の一部が見えて居ますが、これが誉田八幡宮の境内です。全国の八幡宮(※1−2)の主祭神はこの誉田御廟山古墳に眠っている応神天皇です。即ち誉田八幡宮はその御膝元で主祭神の墓守をして居る、という訳です。
 ところでこの地には江戸時代迄は神宮寺の長野山護国寺が在り、寺の塔や伽藍が立ち並んで居ました。


写真4−13:仲津媛皇后陵。
 飛行機は誉田御廟山古墳を右旋回で一回りして北東に進み、仲津媛皇后陵(右の写真)の北を掠めて古市古墳群を抜けます。これは北から見たもので、仲津媛皇后陵の向こうに西名阪自動車道、その向こうに誉田御廟山古墳が半分だけ姿を見せて居ます。
 この写真を撮った後、私は心中密かに古市古墳群に別れを告げました。

写真4−14:後部座席の藤田さんと香嶋さん。

 これで古墳は全て見終わりました。離陸から約20分です。あっと言う間に古墳遊覧は終わりました。
 右の写真は後部座席から古市古墳群を眺めている藤田さん(左側)と香嶋さんの表情です。2人共真剣に見入って居ました。
 これから八尾空港に戻ります。

 ■八尾空港へ帰還

写真5−1:信貴山麓。
 八尾空港は古市古墳群からは大和川を越えて北に直線距離で約5kmです。飛行機は北東の進路で生駒山麓に侵入し、左旋回でUターンし八尾空港に西向きに侵入します。
 右が生駒山系の信貴山南から見た眺望で、この山麓が柏原市のブドウ畑です。この山麓で左旋回すれば間も無く八尾空港です。
写真5−2:八尾空港A滑走路へ進入直前。
 見えて来ました。下の写真で正面に真っ直ぐ延びているのがA滑走路、それと斜めに交差して居るのがB滑走路です。さあ、これからA滑走路に侵入します!
写真5−3:着陸寸前の視界。


 そして右が着陸寸前の視界です。プロペラが写っていて臨場感が有りますね。
 いざ、着陸〜!
 この日は仏滅でしたが、こうして飛行機は11時13分頃に無事着陸しました。終わって見れば、あっと言う間の飛行でした。

                (^O^)/

区切り線。

  ◆禾本機長 − サングラスを掛けると名パイロット、
            外すと只のオジサン

 左下が着陸後、機体を格納庫前に走行させて居る禾本機長です、パイロットの象徴であるサングラスを掛けて居ますね。
写真5−4:機体を格納庫前に走行する機長。
 右下が飛行を終え所定の位置に戻った我々の搭乗したセスナ機でJA3652という機体番号が読めますね。
写真5−5:飛行後の搭乗機の尾翼部分。

 機長は搭乗前に古墳の位置にマジックで印を付けた大きな地図を持って居ましたが、古墳や標的物の位置と名前を全てインプットして居ました。そして良く説明して呉れましたが、時々背後に見える標的を説明する時は操縦桿から両手を放して居ました。でも空の上は障害物も無いし、対向車も来ないし、脇から急に人が飛び出すことも無いので、自動車よりも安全と言えるでしょう。そしてベテランの腕前を披露して呉れました。
 私が後日このページを作る為に、撮影した写真を地図と見比べて、どの古墳をどの角度から写したのかを判別し乍ら古墳名を特定する作業を進めて行くと、逆に飛行機がどの様なコースを飛んだのかが解って来ます。すると高度300mも古墳を見るには最適で、実に無駄無く必要且つ最短のコースを飛んだことが解ったのです、脱帽です。
 でもこのサングラスを外すと普通の事務のオジサンに戻ります、クックックッ!!
              カタツムリ君。カタツムリ君。カタツムリ君。

 右下が昭和航空(株)の格納庫です。11時15分にここに帰還、搭乗してからピッタリ30分(飛行時間は正味23分位でした。
写真5−6:昭和航空(株)の格納庫。
 10人乗りのセスナ404型や20人乗りのフェアチャイルド社製SA226−AT型機など、我々が乗ったセスナより大きい飛行機も在ります。この奥が事務所です。
                                  ↑
                               セスナ404型
                               (07年に墜落)

 我々はここに置かれて居る飛行機を見てから事務所に戻り、八尾南駅に向かって歩いて帰りました。そして梅田で3人揃って乾杯しました、ビールが旨い!!

  ◆禾本機長、07年11月15日に恵那山で墜落死

 「今の不況を笑い飛ばせ!」に書いた掲示板の記事を引用すると「[2007年の]11月15日の21時頃のホットなニュースで、岐阜県中津川市神坂の恵那山(2191m)の山頂付近に、「昭和航空」(大阪市)の3人搭乗の小型機セスナ404が墜落しました。測量会社の人が1人乗り、パイロットは禾本(のぎもと)さんです。整備士は助かり、1人死亡、1人行方不明です。亡くなったのがパイロットか測量会社の人か分かりません。」と在ります。この記事は私が投稿したもので日時は
  2007/11/16(Fri) 01:41 No.176 <新板−1>」
と成って居て、このニュースを知って直ぐに投稿して居ます(日付は翌日に成りましたが)。これがこのニュースの第1報です。
 墜落したセスナ404型は上の写真の機体です。

              ◇◆◇◆◇

 11月16日の18:00のニュースに拠ると「事故は15日午前10時40分頃、恵那山の山頂付近で起きました。岐阜県警は16日午後に収容した2遺体は、機長の禾本賢吾さん(67)とカメラマンの棚田伸二さん(40)で、整備士の後藤田満さん(60)は救出されたが頭と全身を強く打ち重傷という。」と伝え、更にニュースは「岐阜県警の調べでは、登山中の男性(66)から午前11時10分頃、岐阜・長野県境の恵那山の山頂付近で「小型飛行機が墜落した」と、長野県警に110番通報があった。岐阜県警のヘリコプターが約1時間半後、大破した軽飛行機の機体を発見した。墜落地点は山頂から北西へ約500メートル。事故機は主翼を立ち木にぶつけて墜落したとみられ、機体の前部が破損、現場に部品などが散乱していた。尾翼など後部はほぼ原形をとどめていた。
 墜落の際、通報した男性も、倒れてきた立ち木で右手親指に軽いけがを負い、県の防災ヘリで運ばれ、中津川市内の病院で手当てを受けた。
 飛行計画によると、事故機は午前8時46分に県営名古屋空港を出発。御岳周辺の地形や川筋を測量するために上空を飛行し、7時間後に戻る予定だった。昭和航空によると、墜落したセスナ機は77年製造。航空法に基づき、会社の整備規定で定めた50時間の飛行ごとの点検を10月27日に済ませたという。
 捜索時の恵那山頂付近はガスがかかるなどの悪天候で、捜索や遺体の引き揚げが難航。岐阜県警は16日朝から捜索を再開し、国交省の調査官も現地入りする。
 昭和航空の佐々木博夫社長は、「重大な事故を起こし、関係する皆様に対し衷心より深くおわび申し上げます」とするコメントを出した。」
と伝えて居ます。

              ◇◆◇◆◇

 それにしても吃驚しました。当ページに書いた05年の古墳を上空から眺める企画のパイロットを務めた禾本機長が07年に墜落するとは...言葉が有りません。

 私は何と事故の直前の07年10月12日に恵那山の麓に在る美濃岩村城 −大和高取城/備中松山城と共に日本三大山城の一つ− を訪れて居たのです!...何たる因縁か。この城に行くにはJR中央本線の恵那駅で降り、三セク線の明智鉄道 −明智光秀所縁の地− に乗り換え岩村駅で降り、そこから山城を登るのです。因みに岩村城は織田信長の叔母が城主を務めた城で、町では「女城主の里」として宣伝して居ます。右が岩村城から撮った恵那山です(07年10月12日の午後撮影)。
 「私が行った先々で後から事件や天変地異がよく起こる」ので、私はこういう事例を定着させて在りますが、全く不思議です!!
 禾本さんに、合掌!
                (-_-)
                _A_
    {この節の記事は09年1月2日に追加}

区切り線。

 ■考察 − 応神王朝、そして土師氏

 空から応神・仁徳に関わり深い古墳群を眺めて来た後で、この時代に対する私の考えを少し披露して置きましょう。

 1.卑弥呼時代と応神・仁徳時代のミッシング・リンク

  (1)古市古墳群と百舌鳥古墳群の特徴

 古市古墳群や百舌鳥古墳群が属する古墳時代中期(4世紀中〜5世紀末)の古墳は未だ竪穴式石室巨大な墳丘鉄製武器や甲冑や馬具多量の副葬品を一般的特徴とし、誉田御廟山古墳と大仙陵古墳はその代表です。これらの特徴は中央集権的大首長の存在、騎馬軍団を擁した戦闘集団の存在、土木や武具・副葬品を大量に生産する職人集団の存在、そして先進の技術や文化を齎(もたら)した渡来人の存在を明かして居ます。土師氏はその様な職人集団の中の一つです。
 そして、これら地方的大首長の中から現在の奈良盆地に依拠し全国を統一する大王が生まれ、やがてその系譜は推古朝頃から天皇と呼んだ様です。{このリンクは06年2月18日に追加}

 誉田御廟山古墳の被葬者と目される応神天皇は神功皇后が新羅との戦の最中、筑紫で産み落としたとされる皇子です。応神は九州から畿内に進出した大王で軽島豊明宮(現・奈良県橿原市大軽町)に都し、恵我藻伏岡陵 −現在の誉田御廟山古墳に比定− に葬られました。仁徳天皇は応神の皇子で、難波高津宮(現・大阪市中央区の大阪城辺り)に遷都し百舌鳥耳原中陵 −現在の大仙陵古墳に比定− に葬られました。

  (2)応神・仁徳の河内開発

 奈良に大王としての足懸かりを据えた応神・仁徳は、隣接する河内平野の開拓に乗り出します。南河内に狭山池を造り灌漑を図り、北河内の淀川左岸に茨田の堤(まんたのつつみ)を築き淀川の氾濫を抑え、河内平野低部の河内湖の干拓を進め屯倉(みやけ)を設置しました。これは中国の聖王・(※14)の治水事業を髣髴とさせます。この様な河内開発の事蹟や応神の難波大隈宮造営、仁徳の高津宮遷都、関連古墳の河内や和泉への偏在から、この王朝 −応神、仁徳、履中、反正、允恭、安康、雄略、清寧、顕宗、仁賢、武列− を別名・河内王朝とも呼びます。
 但しこれらの大王の内、河内に宮殿を構えたのは応神・仁徳・反正だけで、その他は奈良です。但し清寧・顕宗・仁賢・武列はその実在性は疑わしいとされて居ます。又、仁徳が難波に居を構えたのは、奈良では葛城氏や物部氏などの既存勢力が強かった為とも言われ、事実仁徳はは葛城之曾都毘古(かずらきのそつひこ)の女(むすめ)・磐之媛(いわのひめ)を妃に迎え既存勢力との同化を図って居ます。これらのことから河内王朝の存在性には更に検討が必要でしょう。

  (3)誉田御廟山古墳の奇妙な逸話

 ところで誉田御廟山古墳に纏わる話として、『日本書紀』雄略紀に次の様な奇妙な逸話が載って居ます(△3のp62〜64)。

  飛鳥戸郡の田辺史伯孫(=帰化系)が娘の出産を祝し嫁ぎ先を訪ねた帰り、月夜に誉田陵の下で飛竜の様な赤駿(あかうま)に騎乗する者と出会い、願い出て馬を交換して貰い喜び勇んで帰り赤駿を厩に繋ぎます。ところが翌朝見ると厩の赤駿は土馬(はにま、=埴輪の馬)に変わっていて、驚いて誉田陵に引き返すと自分の馬が埴輪の馬の列の中に居たのです。そこで伯孫は厩の埴輪の馬を返し、自分の馬を取り返した。

 正に秦始皇帝陵の兵馬俑坑から発見された等身大の士卒や軍馬などの陶俑を彷彿とさせる光景ですが、土師氏が作った埴輪馬が見事な出来映えであったとも取れます。もしかしたら、誉田御廟山古墳の濠の外には実際に埴輪馬が並んで居たのかも知れません(△4のp132)。誉田御廟山古墳の陪塚からは多数の鉄製武器や農工具や甲冑や馬具類が出土し、特に陪塚・丸山古墳からは2つの大陸製の金銅製竜文透彫鞍金具(国宝)が出土して居ます。
 大仙陵古墳からも金銅製甲冑や銅鏡やガラス製品や馬鐸(ばたく)や硬玉製の大型勾玉や大量の埴輪などが出土して居ます。

  (4)卑弥呼から応神・仁徳へ − 鉄と馬

 1−(3)の逸話と、1−(1)で述べた中期古墳の一般的特徴を考えると、どうしても「馬」が問題に成ります。何故なら『魏志倭人伝』(△5)に拠ると卑弥呼(※15)の時代(3世紀前半)には「牛・・虎・豹・羊・鵲なし」と記されて居るからです。卑弥呼の時代とは即ち、弥生時代後期の2世紀末頃から勃興した地方的部族の群雄割拠と対立に因る「倭国大乱」を、卑弥呼という巫女(=シャーマン)を押し立てた邪馬台国が部族連合国家として北九州の −私は邪馬台国九州説を採ります− 覇権を握った時代で、この頃日本に馬は居なかった様です。
 その後、卑弥呼の死(247年頃)以降から古墳時代中期迄の約150年位の間に日本の情勢は大きく様変わりします。即ち、の普及との導入です。これは信長が鉄砲を導入して近世の戦の端緒を開いたのと同じく古代の戦闘様式を一変する技術革新 −つまり殺傷力と機動力のアップ− であり、この新兵器を手にした者が支配者に成れたのです。同時に支配者もカリスマ的なシャーマンから組織的統率者へと脱皮して行きました。と言っても未だ祭政一致の段階ですので、地方首長から西日本統一国家の大王に君臨した後も、その王権を子々孫々迄安定的に世襲する為には、一代のカリスマ性に代わる永続的な補完物、即ち「王権の象徴」が必要と成り、それが三種の神器(鏡・剣・勾玉)(※10−3)という形に収斂して行ったと考えられます。それを示唆する様に、年老いた卑弥呼も中国の魏から銅鏡100枚を与えられて権力を象徴化したことが『倭人伝』に記されて居ます。

  (5)鉄と馬を齎(もたら)したのは誰か?

 ということで「馬」の前に「鉄」について少し論じて置きましょう。日本に於いて製鉄技術は弥生時代から定着し、その基礎を齎したのは大陸や半島経由の渡来人です、その遡源がヒッタイト(※16〜※16−3)かどうかは判りませんが。そこから日本人は砂鉄を原料に蹈鞴(たたら)に依る低温溶鉱法と鍛造・焼き入れ・焼き鈍しを組み合わせた日本的技を得意の”改良精神”で編み出しました(△6のp84〜88)。卑弥呼の時代には鉄鏃(てつぞく)が骨鏃と併用 −鏃は矢尻のこと− されて居ましたが、鉄製武器の大量生産が可能に成り普及したのは卑弥呼晩年以降、服(まつろ)わぬ狗奴国と九州の覇権を懸けて戦った頃からでしょう。何時の時代でも「戦争は文明の母」で、これはエルニーニョの中定理です。この様な大きな戦いが武器生産技術の飛躍を齎しました。
 では「馬」はどうか?、が次の問題です。日本に居なかった馬だけが大陸や半島から泳いで来た、などということは起こり得ない話ですから、当然人が、即ち「馬文化」を持った渡来人が馬を連れて来たのです。ではその渡来人がどういう人々だったのか?、どの程度の規模で遣って来たのか?、その人々が日本の支配者に成ったのか?、ここから1948年に江上波夫の所謂「騎馬民族征服説」(※17、※17−1)が導き出されました。
 江上説の骨子は「東北アジア騎馬民族出身の辰王の子孫が古墳時代前期に朝鮮半島南部の加羅(=任那)を基地として九州筑紫を征服した第1期建国が崇神王朝で、その子孫が畿内大和に侵攻し大和朝廷を樹立した第2期建国が応神王朝とし、故に日本は騎馬民族の征服王朝である」というものです(△7のp187〜198)。又、神武東征物語は応神東征の反映として居ます。
 記紀神話では、高天原の天津神を掲げた天孫族が天下り国津神を祀る土豪(=弥生人)や土蜘蛛・国栖などと呼ばれる縄文系先住民を平定して行きましたので、後から渡来した侵入異民族に依る先住民族の征服が行われたのは確かですが、江上説は征服民族(天孫族)=外来の騎馬民族である、と大胆な断定を下して居る所が結論を曖昧にする傾向の強い日本の学者の中では特筆に値します。その論拠として彼は広い視野でユーラシア騎馬民族の特性を挙げて居ます。古墳との関連で言えば、そもそも古墳という埋葬形式がユーラシア騎馬民族の特徴であること、そして日本の古墳から出土する馬具や馬型埴輪が中期以降激増することでした。
 この説は今日の日本の学会では殆ど否定されて居ますが、応神天皇の墓と言われる誉田御廟山古墳に纏わる馬の逸話(前述)と符合し、又最近の中国での発掘などから誉田御廟山古墳陪塚から出土した国宝の鞍金具は鮮卑族(※18)が使用して居た物に酷似して居るそうで、鮮卑族は太陽崇拝 −日本の天照大神も太陽神− の遊牧騎馬民族です。

  (6)古代王朝交替説

 江上氏の「騎馬民族征服説」とは別の視点から、しかし結果的に江上説を補完するものとして、江上説の僅か後の1952年に提唱されたのが水野祐氏の「三王朝交替説」(△8、△8−1)です。水野氏は「ハツクニシラススメラミコト」と呼ばれる大王が神武・崇神の2人居て、「神」の文字を含む大王神武・崇神・応神(←応神の母が女性で唯一「神」の字を含む神功皇后)の3人居る、ことから神武は架空性が高いとして崇神天皇が実在の初代で、以後「崇神王朝・応神王朝・継体王朝」の三王朝が交替 −水野氏は仁徳王朝と呼んで居ますが私は各王朝の初代の名を冠するべきと考えます− してる、という主張を展開しました。更に応神は邪馬台国と覇権を争った狗奴国の王の末裔である、として居ます。
 そして神武東征物語は正に神話で、九州の日向(ひむか)から難波に出て長髄彦(ながすねびこ)に撃退され熊野に迂回する迄の話は江上説と同じく応神の東征、そして吉野・大宇陀を経て奈良に入る話は天武の壬申の乱の勝利、という”歴史的事実”に基づく2つの物語を合成して神武神話に反映させたものだ、として居ます。
 江上説も、外来の騎馬民族が征服して応神天皇に成った、と主張して居るので当然「王朝交替説」です。騎馬民族征服説や王朝交替説は「万世一系」という皇国史観を否定しますので、戦後に成って相次いで発表されました。

  (7)私の見解

 以上の様に、群雄割拠の卑弥呼の時代から大王に依る統一の時代の間には、所謂「空白の4世紀」と呼ばれる不明な欠落部分(=ミッシング・リンク)が存在し、その欠落時代こそ古墳時代(※3)である事は確かです。従って古墳を考える時には考古学的な遺跡や遺物と、ここに挙げた幾つかの問題点を総合し欠落部分を上手く繋ぎ合わせる事が出来るか否かが鍵と成ります。
 古墳時代に入る前にそれ以前の時代に対する私の考えを先ず述べますと、私は日本列島には初め縄文系先住民が居住し悠久の年月を狩猟・採集で暮らして居た所(=縄文時代)へ後から稲作の技術と文化を携えた人々(=後の弥生人)がアッサム・中国雲南方面から江南を経て渡来し日本に稲作と農耕を定着させた(=弥生時代)という考えです(△9のp485〜486、p497、△10の「はじめに」)。そして弥生人の後裔が古墳時代に先住民族を駆逐し日本の支配層に伸し上がり大王権力を形成したと考えて居ます。
 従って江上説(=騎馬民族征服説)には否定的ですが、騎馬民族が遣って来て日本の王権形成に何らかの役割を果たした可能性は有り得ると考えて居ます。それよりも私は水野説(=三王朝交替説)は万世一系の虚構を見事に突き崩して居るという点で、従来の枠組みを変革した捉え方に基本的に賛成です。『日本書紀』でも継体天皇は「天皇→皇太子」の継承では無い事を明記して居ます。又、神武神話の成り立ちについての考察にも基本的に賛成です。つまり応神は”哀れ”な仲哀天皇の子では無いという見解です。神功皇后が女性で唯一「神」の字を含み「天皇紀」の形を採る『日本書紀』で唯一の例外として天皇と同列に一章が割かれて居る事の理由は未だ良く解明出来てませんが、の字に値する績”を仮託すべき何らかの理由が在ったからと考えて居ます。
 騎馬民族が征服したかどうかは未だ解りませんが、騎馬民族が馬とその飼育法や騎乗術を伴って日本に遣って来たと考えて居ます。そして『続日本紀』(※19)の記述から、後述する様に桓武天皇(※19−1)の血の1/4は朝鮮民族(百済族とされて居る)の血です。この様な点から考えると、古墳を日本国内だけの視野で見るのでは無く、もっと韓国や北朝鮮、中国やモンゴルや西域迄視野を広げて比較する必要性を痛切に感じます。江上波夫氏はそういう意味では、広くユーラシア文化と日本文化の比較を論じている訳で、「騎馬民族征服説」は否定されても、その様な学問的姿勢を私は強く支持するものです。


 2.その後の土師氏について

 本文でも焦点を当てて述べて来た土師氏についても纏めて置きましょう。

 土師氏は古墳時代前期頃に出雲から中央に出て古墳の造成・埋葬儀礼と埴輪製作を専門的に世襲する部民(※5−1)の一つの品部(※5)です。一般に土師氏の様な部民は家職として「巧の技」を世襲的に代々受け継ぐので一族は集団で住み、従って先祖崇拝と同族意識が強く氏神や氏寺を尊びます。これは既に道明寺天満宮や道明寺で見て来た所です。この事は当時”辺境”であった北関東で「さきたま古墳群」造成に従事した土師氏に於いて一層顕著です。
 そういう職業柄の故に家風は保守的で推古朝頃から権力を持った蘇我宗家に追従した −皇極2(643)年の蘇我入鹿の山背大兄王(聖徳太子の子)攻めに土師娑婆が先陣を務めた− 為、645年の大化改新で中央から一旦追放されましたが、672年の壬申の乱で土師馬手が大海皇子(後の天武天皇)側の武将として功を上げて中央に復し、天武が即位後の天武13(684)年の「八色姓」(※20)の制では連(むらじ)から宿禰(すくね)に昇格、天武の孫の文武天皇の大宝律令の制定(701年)にも参画して居ます。
 8世紀初め頃から一族の族長は諸陵頭(みささぎのかみ)を歴任しますが、7世紀半ばの大化改新の「薄葬令」(646年)で古墳造成は急速に縮小され、8世紀初頭で古墳時代は終焉を迎えます。多分既存の古墳のメンテナンスや葬礼儀式を暫くは続けたと考えられますが、古墳に埋葬する埴輪職人としての土師氏の役割も終わり、多くは生活用具としての土師器製作(※4−1)に転じ、一部は歌人や学者に転じました。
これは1980年頃に日本の重厚長大産業の斜陽から、鉄鋼マンや造船マンが営業職などに転職して行ったのと全く同じです。
 斜陽を迎えた河内の土師氏は、桓武天皇(※19−1)の天応元(781)年に土師宿禰古人らが本拠地を土師ノ里から大和国添下郡菅原(添下は「そうのしも」、現・奈良市菅原町)に移すことと改姓を上表して認可され、一族の大半は菅原に転籍し菅原氏に改姓しました。その後間も無く桓武天皇の延暦16(797)年には喪葬の任を正式に解かれて居ます。彼等はその後更に分家してそれぞれの居住地に従って、秋篠氏、大枝(後に大江)氏、物集女(もずめ)氏などが派生しました。菅原道真はこの菅原氏から出た学者兼政治家(※4−5)です。薄葬令は要するに、古代的な祭政一致から合理的な祭政分離への当然の流れだったのです。

 ところで土師氏から派生した前述の各氏の居住地を注視すると、面白い事が解ります。それを先ず一覧表で示しましょう。

  菅原氏 :大和国添下郡菅原伏見邑(現・奈良県奈良市菅原町)
       *天応元(781)年、菅原宿禰を賜る → 菅家(※4−6)
       *菅原神社、喜光寺(菅原寺)
       *直ぐ南には野見宿禰(※4−4)が土師姓を賜った
        垂仁天皇陵が在る
  秋篠氏 :大和国添下郡秋篠(現・奈良県奈良市秋篠町)、菅原町の直ぐ北
       *延暦元(782)年、秋篠宿禰を賜る
       *秋篠寺
       *直ぐ東には平城京跡や佐紀古墳群が在り、その中に殉死に代わり
        埴輪を最初に副葬した日葉酢媛命陵が在る(※4−2)
  大枝氏 :山城国乙訓郡大枝郷(現・京都府西京区大枝町)
       *延暦9(790)年、大枝朝臣を賜る
        (この年、菅原・秋篠も朝臣に昇格)
       *貞観8(866)年、大江朝臣に改める → 江家(※4−7)
       *大枝神社
       *付近には「御陵」が付く地名が多く、淳和天皇陵の他に
        大枝陵(桓武天皇の母の陵墓)が在る
  物集女氏:山城国乙訓郡物集郷(現・京都府向日市物集女町)、大枝町の東隣
       *淳和天皇御火葬塚が在り、葬礼関連地
       *河内国大鳥郡百舌鳥の一族(=土師氏)が移り住む


 この表に基づいて更に論を進めます。その前に今迄再三名前が出て来た桓武天皇は土師氏の血を受け継いで居る、ということから述べましょう。桓武は良く百済王家の後裔と言われますが、それは桓武の母・高野新笠(たかののにいがさ、※19−2)の父が百済から渡来した和乙継(わのおとつぐ)で、乙継が武寧王の直系と『続日本紀』(※19)に記されて居るからです。一方、新笠の母はと言うと、これが土師真妹 (はじのまいも)で、土師氏です。

  (1)菅原氏

 土師古人が大和国添下郡菅原を上表した理由は何と言っても、土師姓を賜った垂仁天皇の御陵が在る(※4−4)、ということです。先祖崇拝と同族意識の強い土師氏一族にとって、土師という姓(かばね)を授けて呉れた垂仁天皇陵を守るということは、取りも直さず土師氏のルーツを再確認することであり、時代の荒波の中で再出発するには最も相応しい地である、と考えたに違い有りません。この地は後に「菅原の里」と呼ばれる様に成ります。道真の系から美作菅家七党が出て居ます。

  (2)秋篠氏

 秋篠の地は、宝亀7(776)年に桓武の父・光仁天皇の発願で開山した秋篠寺 −鎌倉末期の伎芸天立像(重文)で有名− が在り、土師宿禰安人も古人と同じく延暦元(782)年にここに移り秋篠宿禰を賜り、秋篠寺を氏寺としました。ところでこの土師安人は桓武天皇の勅に拠る国史『続日本紀』を、同族の菅原真道(←道真では無い!)らと編纂に列して居ます。以上の様に見て来ると秋篠は元々桓武天皇の”息の掛かった”地で有った訳です。
 秋篠氏は戦国時代には武家として登場し、同郷の筒井順永 −筒井氏は大和国添下郡筒井− と行動を共にして居ます。
そう言えば筒井氏の家紋は菅原氏と同じ梅鉢紋です。

  (3)大枝氏

 百済族と土師氏の混血である桓武の母・高野新笠は幼少の桓武を大枝で育てました。その時桓武の外戚の土師氏も大枝に移り住みました。桓武が遷都した長岡京は大枝と目と鼻の先です。大枝の土師氏は新笠の陵墓を築き祀り、現在その地には大枝神社が在ります。彼等は延暦9(790)年に桓武から大枝朝臣を賜わり、この年に菅原・秋篠両家も朝臣に昇格して居ます。
 その後貞観8(866)年に大枝音人が上奏して大江朝臣に改め、以後文章家を家職とし、朝綱匡衡匡房(※4−8)・広元など著名な学者を輩出します。広元の母は再嫁し中原氏が、広元の兄の匡範からは北大路氏が、広元の末からは戦国時代に活躍した毛利元就の毛利氏が出て居ます。

 私見を挿めば、大江匡房は貴族的な有職故事に通じ『江家次第』(※4−7)を著しただけで無く、古代のオカルト的な超人や奇人の伝説集の『本朝神仙伝』や、最下層の人々や芸人の風俗を記した『傀儡子記』『遊女記』『洛陽田楽記』を著し(△11)、日本では珍しく真に「自由な学問」を実践した”特異な学者”で、有名人の菅原道真などより私は匡房を格段に評価して居ます。傀儡子(くぐつし)は日本の人形遣いのルーツで、その詳細は「人形浄瑠璃「文楽」の成り立ち」をご覧下さい。

  (4)物集女氏

 物集女氏は930年代に書かれた『和名抄』では、この地は向日市の物集郷と記されて居て、その頃は地名から物集氏を名乗った様で当時洛西を支配して居た秦氏の傘下に在りました(△12のp550)。ここは秦氏の拠点の太秦に近く直線距離で約6km弱です。太秦と向日市の地図は▼下▼。
  地図−日本・京都市洛西(Map of West of Kyoto city, Kyoto -Japan-)

 この物集一族は河内国大鳥郡百舌鳥の一族が移り住んだもので、京都物集女氏を遡ると百舌鳥古墳群の「百舌鳥」に行き着きます。ところで今では「毛受」と書いて「めんじゅ、めんじょ」と読む苗字が在りますが、和泉国発祥の毛受氏は土師氏出身であり(△13)、私は古代は「毛受(もず)」と読んだであろう、と推測して居ます。と言うのは『古事記』では仁徳記の最後に仁徳御陵の地を「毛受(もず)の耳原」と記して在り(△14)、後にこの辺りに毛受荘(又は万代荘、もずしょう)という荘園も出来たからです。つまり河内国大鳥郡百舌鳥から移り住んだ毛受一族は土師氏であり
    毛受(万代)→ 物集→ 物集女
と変化して行きました。又、物集郷が大枝郷に隣接して居るのも、毛受(万代)氏が同族の大枝氏を頼って移ったと考えられます。


 以上の様に、土師氏が再出発を期して新しい土地に移り、それぞれ新しい姓を賜ったのは桓武天皇の時代で、桓武の祖母が土師氏だったことを思えば全て頷けることです。言わば外戚の桓武天皇の御代に、土師氏は「物作り」のブルーカラーから「頭を使う」ホワイトカラーに転身したと言えるでしょう。
 最後に、本貫の土師姓が現在少ないのは、平安時代中期頃の貴族に発した「穢れ」思想の蔓延に因り、土師氏の他、斎部・忌部(いみべ)氏なども含め、葬礼に関わる人々が「穢れ」と見做され中世を通じて徐々に賤視されて行った為、多くは支族の姓に改姓し出自を隠したからです。これは我が国の肉食の禁忌が中世に定着したのと同じ理由に拠ります。
    {この章は05年6月19日に加筆し再編集}

 ■結び − 正味25分弱の初体験

 正味25分弱の飛行でしたが貴重な成果が得られましたし、何よりも良い体験が出来ました。大空を自分の翼で飛んで居る様な興奮は旅客機では味わうことの出来ない小型機ならではの感覚で、正に「鳥に成った気分」でした。
 冒頭で述べた長年の念願を自分なりに分析してみると、その内容は即ち、

  [1].小型機に乗ってみたい
    (標的は何でも良い、単に乗りたい)
  [2].大型古墳を上空から見たい
    (大型古墳は地上からでは全体視不可能)

の2つだった様に思います。初めは[1].の願望だけだったのですが、どうせ乗るなら[2].も実現したいと思う様に成り、今回この2つを同時に果たすことが出来大変満足して居ます。大古墳は上空から鳥瞰してこそ意義も意味も面白味も有る、という思いを今回体験的に実感し確信しました。

 最後に昭和航空(株)の皆さん、有り難う御座いました。今回も面・白・か・っ・た。そして私はもう次の標的をあれこれ考えて居ますよ、ムッフッフ!

              m(_=_)m  (^o^)/~~~

 ◆◆◆参考資料 − 古墳データ

φ−− おしまい −−ψ

【脚注】
※1:古市古墳群(ふるいちこふんぐん)は、大阪府羽曳野市と藤井寺市に跨る大古墳群。全長420mの誉田御廟山古墳(応神天皇陵)などの前方後円墳の他、径10m程の円墳や方墳など約百基から成る。
※1−1:応神天皇(おうじんてんのう)は、記紀に記された天皇。5世紀前後に比定。名は誉田別仲哀天皇の第4皇子。母は神功皇后とされるが、天皇の誕生については伝説的な色彩が濃い。大阪府羽曳野市古市に応神天皇陵に比定される前方後円墳が在る。全長約430mで、日本で2番目の大きさを持つ。誉田山古墳。子が仁徳天皇。全国八幡神社の主祭神
※1−2:八幡宮(はちまんぐう)/八幡神社(はちまんじんじゃ)は、応神天皇(=誉田別)を主座として祀った神社の総称。弓矢・武道の神として古来広く信仰された。八幡の神(やわたのかみ)。宇佐八幡宮・石清水八幡宮を初め全国各地に在る。

※2:百舌鳥古墳群(もずこふんぐん)は、大阪府堺市に在る大古墳群。全長480m余で、日本最大の大仙陵古墳(百舌鳥耳原中陵、仁徳天皇陵)を含む前方後円墳二十数基を始めとする百基以上の古墳から成る。
※2−1:百舌・百舌鳥・鵙(もず、shrike, butcher bird)は、スズメ目モズ科の鳥。ヒヨドリ大で尾が長い。雄は頭部は栗色で目を通る黒斑が有り、背・腰は灰褐色、下面は中央白色、他は赤褐色。雌の下面には横斑が多い。日本・中国北部で繁殖し、北方のものは冬は南へ渡る。昆虫・蛙などを捕食。他種の鳥や動物の鳴き声を良く真似る。秋から冬に雌雄別々に縄張を張り、その宣言として高い梢などで鋭い声で鳴き、それを「モズの高鳴き」と言う。「モズの速贄(はたにえ)」を作るのは有名。伯労。季語は秋。万葉集10「秋の野の尾花が末(うれ)に鳴く―の」。
※2−2:仁徳天皇(にんとくてんのう)は、記紀に記された5世紀前半の天皇。応神天皇の第4皇子。名は大鷦鷯(紀)/大雀(記)、読みは何れも「おおさざき」。難波に都した最初の天皇で、高津宮(たかつのみや)は今の大阪城の辺り。水利や治水事業を行い、租税を3年間免除したという聖帝伝承が在る。その墓が大仙陵古墳に比定され、大阪府堺市に在る前方後円墳。全長約485mで日本最大。大山古墳・百舌鳥耳原中陵(もずのみみはらのなかのみささぎ)とも言う。因みに鷦鷯(さざき)とはミソサザイの古名。
※2−3:鷦鷯(さざき、さざい)は、ミソサザイの古名。仁徳紀「斎槻(いつき)が上の―捕らさね」。
※2−4:鷦鷯(みそさざい、winter wren)は、スズメ目ミソサザイ科の鳥。非常に小さく、翼長約5cm。背面は焦茶色。腹面は淡色で所々に細かい黒褐色の横斑が有る。山間の水辺に多く、動きは敏捷で、昆虫類を捕食する。一夫多妻。鳴き声が良い(チョッチーチーチリリチッチッチッチリチーチーチュクチュク)。季語は冬。<出典:一部「学研新世紀ビジュアル百科辞典」より>

※3:古墳時代(こふんじだい)は、日本で壮大な古墳の多く造られた時代。弥生時代に次いで、略3世紀末〜7世紀に至る。但し、土盛りした墓は弥生時代に始まり、古墳時代以降も存続。古墳時代は畿内を中心として文化が発達した時期で、統一国家の成立・発展と密接な関係が有るとする説も在る。現在、古墳の築造時期を前期(3世紀末〜4世紀後半)中期(4世紀末〜5世紀)後期(6〜7世紀)に分けるのが一般的。前期は司祭者的な首長の統治が始まり、中期には強力な首長の統合に依って大和政権が確立された時代。後期には大陸から伝来した仏教文化が開花した。<出典:一部「学研新世紀ビジュアル百科辞典」より>
※3−1:前方後円墳(ぜんぽうこうえんふん)は、日本の古墳の一形式。平面が円形と長方形、又は台形とを連結した形の墳丘で、江戸後期の蒲生君平の「山陵志」に始まる名称。3世紀末から7世紀頃迄、特に畿内で発達した日本独特の形 −しかし朝鮮半島南部にも存在する− と考えられ、大王(後の天皇)一族、有力な豪族たちの墳墓にはこの形が多い。大仙陵古墳(仁徳天皇陵)・誉田御廟山古墳(応神天皇陵)など巨大化したものも出現。俗称、車塚/ひさご塚/銚子塚/茶臼山など。<出典:一部「学研新世紀ビジュアル百科辞典」より>
※3−2:蒲生君平(がもうくんぺい)は、江戸後期の勤王家(1768〜1813)。名は秀実。君平は字。宇都宮に生れる。当時荒廃していた歴代天皇陵を調査して「山陵志」を著し、ロシアが北辺を侵すと聞いて「不恤緯(ふじゅつい)」を著して沿海防衛の必要を説く。寛政の三奇人(他に林子平・高山彦九郎)の一。<出典:一部「学研新世紀ビジュアル百科辞典」より>
※3−3:山陵志(さんりょうし)は、大和・河内・和泉・摂津・山城などの歴代天皇の陵地を考証した書。蒲生君平著。2巻。前方後円墳という名称は、この書物に拠る。1808年(文化5)刊。漢文体。

※4:土師部(はじべ、はにしべ)は古代、大和朝廷に土師器を貢納した品部。北九州から関東地方迄各地に分布。埴輪の製作葬儀にも従事。
 土師氏は、天穂日命を祖とし埴輪の制を作った野見宿禰が「相撲(角力)の祖」と成り土師姓を賜わったことに始まる。土師氏からは菅原氏(道真など)、大江氏(広元など)が出て文章道(もんじょうどう)の名家に成る。菅原氏からは高辻氏、五条氏(代々相撲の司家)、清岡氏、桑原氏、前田氏(利家など)が派生。大江氏(初めは大枝と書いた)からは秋篠氏、中原氏、毛利氏(元就など)、長井氏、上田氏、北大路氏などが派生して居る。
※4−1:土師器(はじき)は、弥生土器の系譜に繋がる、古墳時代以降の素焼の赤褐色の土器。文様は少なく、実用的で、煮炊きや食器に用いるものが多い。
※4−2:埴輪(はにわ)は、古墳の上や周囲に立て並べた土製品。円筒埴輪形象埴輪とが在り、後者は人物・動物・器具・家屋などを象(かたど)ったもの。前者は筒形のもので、弥生土器の祭祀用の器台から発展したとされる。垂仁紀「其の土物(はに)を始めて日葉酢媛命の墓に立つ。仍りて是の土物を号(なづ)けて埴輪と謂ふ」
※4−3:天穂日命(あまのほひのみこと)は、日本神話で、素戔嗚尊と天照大神の誓約(うけい)の際に生れた子。天孫降臨に先立ち、出雲国に降り、大国主命祭祀の祭主と成る。出雲国造らの祖とする。千家氏(=出雲大社の宮司)はその子孫と言う。又、その子が天夷鳥命(あまのひなどりのみこと)で、武蔵国造や近江国造などの祖とされる。
※4−4:野見宿禰(のみのすくね)は、天穂日命の子孫。日本書紀に、出雲の勇士(いさみびと)で、垂仁天皇の命に拠り当麻蹶速(たいまのけはや)と相撲(角力)を取って勝ち、朝廷に仕えたと在り、又、皇后・日葉酢媛の葬儀の時、殉死に替えて埴輪の制を案出土師臣(はじのおみ)の姓(かばね)を与えられたと言う。
※4−5:菅原道真(すがわらのみちざね)は、平安前期の貴族・学者。是善の子(845〜903)。宇多天皇に仕えて信任を受け、文章博士・蔵人頭・参議などを歴任、894年(寛平6)遣唐使に任ぜられたが、その廃止を建議。醍醐天皇の時、右大臣と成ったが、901年(延喜1)藤原時平の讒言に因り大宰権帥(だざいのごんのそち)に左遷され、配所に没。書を良くし、三聖の一。「類聚国史」を編し、「三代実録」の撰に参与。詩文は「菅家文草」「菅家後集」に所収。死後、種々の怪異が現れた為に御霊(ごりょう)が天神様として北野天満宮に祀られ、後に学問の神として尊崇される。菅公(かんこう)。菅丞相(かんしょうじょう)。菅家(かんけ)。
※4−6:菅家(かんけ)とは、[1].菅原氏の家筋。江家(ごうけ)と共に紀伝の儒家。
 [2].菅原道真の異称。「―文草」。
※4−7:江家(ごうけ)とは、大江氏の家筋。
※4−8:大江匡房(おおえのまさふさ)は、平安後期の貴族・学者(1041〜1111)。匡衡の曾孫。江帥(ごうのそち)と称。後冷泉以下五朝に仕え、正二位権中納言。又、白河院司として別当を兼ねた。著「江家次第」「本朝神仙伝」「続本朝往生伝」「遊女記」「傀儡子記」など。その談話を録した「江談抄」が在る。

※5:品部(ともべ/しなべ)とは、(「品々の部」の意。多くの種類が在るから言う)
 [1].世襲的な職業を通じて大和朝廷に隷属した私有民(=部民)の組織。平生は一般の農民・漁民として生活し、朝廷に対しては、毎年一定額の特産物を貢納する者、交代で勤務して労働奉仕する者、などの別が有る。管理者は(むらじ)・(みやつこ)・(おびと)などの(かばね)を持つ豪族。
 [2].[1]の内、大化改新後も解放されずに諸官司に配属された特殊技術者の集団。図書寮の紙戸、雅楽寮の楽戸の類。奈良中期から次第に廃止。
※5−1:部民(べのたみ/べみん/ぶみん)とは、大化改新前代に於ける私有民の総称。朝廷全体に隷属するものを品部(しなべ)、天皇が皇族の為に設定したものを子代(こしろ)・名代(なしろ)、諸豪族に隷属するものを部曲・民部(かきべ)と言う。大化改新で全て廃止される事に成ったが、品部の一部は律令制官庁に配属されて残り、部曲は律令貴族の給与の一部である封戸(ふこ)に変質した。

※6:エプロン(apron)とは、旅客の乗降、貨物の積み下しなどの為に航空機が停留する飛行場内の区域。

※7:二上山(ふたかみやま/にじょうさん)は、奈良県北葛城郡当麻町と大阪府南河内郡太子町に跨る山。雄岳(517m)と雌岳(474m)の2峰から成る。万葉集にも歌われ、大津皇子墓と伝えるものや葛城二上神社が在る。

※8:セスナ(Cessna)の原意はアメリカのセスナ社製の軽飛行機。転じて軽飛行機のこと。
※8−1:セスナ172型の素人向けの仕様は以下の通り(「昭和航空(株)」公式サイトより)。

  最大搭載人数  4人(操縦士を除くと、最大乗客数=3人)
  全幅      10.97m
  全長       8.04m(客室全長=1.45m)
  全高       2.59m
  最大運航速度   185km/h
  最大運航高度  3800m
  最大航行距離   740km(最大航行時間=4.5H)

※9:現在の空港整備法に拠ると空港には、以下の3種類が在り、その名称及び位置は政令で定められて居る。
  第一種空港:国際航空路線に必要な飛行場
  第二種空港:主要な国内航空路線に必要な飛行場
  第三種空港:地方的な航空運送を確保する為必要な飛行場
 この区分に該当しない飛行場は、「その他飛行場」と言う。<出典:「フリー百科事典ウィキペディア(Wikipedia)」>

※10:仲哀天皇(ちゅうあいてんのう)は、記紀伝承上の天皇。日本武尊の第2王子。皇后は神功皇后。名は足仲彦(たらしなかつひこ)。熊襲(くまそ)征伐の途中、筑前国の香椎宮で没したと言う。
※10−1:日本武尊/倭建命(やまとたけるのみこと)は、古代伝説上の英雄。景行天皇の皇子で、本名は小碓命(おうすのみこと)。別名、日本童男(やまとおぐな)。大碓命は双子の兄。天皇の命を奉じて熊襲(くまそ)を討ち、後に東国を鎮定。往途、駿河で草薙剣(くさなぎのつるぎ) −三種の神器の一つの天叢雲剣(あまのむらくものつるぎ)の別名− に依って野火の難を払い、走水(はしりみず)の海では妃弟橘媛(おとたちばなひめ)の犠牲に依って海上の難を免れた。帰途、近江伊吹山の神を征そうとして病を得、伊勢の能褒野(のぼの)で没したと言う。没後、白鳥化成伝説が在る。
※10−2:日本武の白鳥化成伝説(やまとたけるのはくちょうかせいでんせつ)とは、日本武が伊勢の能褒野で没した後、その屍が八尋白智鳥(やひろしろちどり=大きな白鳥)と化し御陵を出て大和国琴引原河内国古市を経て最後に和泉国大野里に留ったという伝説。
※10−3:三種の神器(さんしゅのじんぎ)は、皇位の標識として歴代の天皇が受け継いで来たという三つの宝物。即ち、八咫鏡(やたのかがみ)・天叢雲剣(あまのむらくものつるぎ)・八尺瓊曲玉(やさかにのまがたま)。天叢雲剣は別名を草薙剣(くさなぎのつるぎ)とも言う。

※11:陪塚(ばいちょう/ばいづか)とは、大きな古墳に近接して在る小さい古墳。近親者や従者を葬ったと伝える。

※12:道明寺(どうみょうじ)は、大阪府藤井寺市に在る真言宗(御室派)の尼寺。山号は蓮土山。敏達天皇朝、聖徳太子の開基と伝え、称旧は土師寺(はじでら)。本尊の十一面観音は藤原時代の彫像で国宝、菅原道真の作と伝える。
 補足すると、6世紀末に土師連八嶋が現在の道明寺天満宮の南の邸宅の一部を寺にしたと伝えられ、寛永10(1635)年の大洪水で高台の現在地に移りました。四天王寺式伽藍配置の寺の旧地には塔の礎石群が残って居ます

※13:神宮寺(じんぐうじ/かみのみやでら)とは、神仏混淆の表れとして、神社に付属して置かれた寺院の称。明治維新以後神仏分離に拠って廃絶或いは独立。宮寺。神供寺。神護寺。神宮院。別当寺。謡曲「道明寺」に「神仏一如なる寺の名の...曇らぬ神の宮寺ぞたふとき」と在る。

※14:禹(う)は、中国古代伝説上の聖王。(か)の始祖。鯀(こん)の子で、尭(ぎょう)の時、治水に功をおさめ、天下を九州に分ち、貢賦を定めた。舜の禅譲を受けて位に就き、安邑(山西省)に都し、国を夏と号した。洪範九疇を定める。大禹。夏禹。夏伯。

※15:卑弥呼(ひみこ/ひめこ)は、3世紀半ば頃の邪馬台国の女王(?〜247年頃)。「魏志倭人伝」に拠れば、約30国が女王の統治下に在り、239年に使者難升米を遣わして、明帝より親魏倭王の称号を与えられ金印紫綬を授かった。又、「鬼道に事(つか)え、能く衆を惑わす。」と在り、呪術を行う巫女(みこ)であったらしい。<出典:一部「学研新世紀ビジュアル百科辞典」より>
※15−1:鬼道(きどう)とは、[1].〔仏〕六道の一。餓鬼道。鬼趣。古今著聞集13「成佐―にありといへども」。
 [2].magic, enchantment。呪術/幻術/妖術。魏志倭人伝「―に事へ、能く衆を惑はす」。

※16:ヒッタイト(Hittite)は、紀元前2千年頃小アジアに移動して来たインド・ヨーロッパ語系諸族の一派とその王国。馬と鉄器・戦車を使用して軍事に優越、前16世紀に小アジア/メソポタミア/シリアの各一部を征服、前14〜13世紀小アジアを中心に大帝国を建設したが、前12世紀、海の民に都ハットゥサ(トルコのボアズキョイ)を破壊され急激に衰亡。楔形文字象形文字を残す。ハッティ。ヘテ人(旧約聖書)。
※16−1:インド・ヨーロッパ語族(―ごぞく、Indo-European)とは、東はインド北部から西は大西洋沿岸に到り、北はスカンディナヴィアから南は地中海に及ぶ広い範囲で用いられている諸語の総称。先史時代に於いて一つの共通原語(印欧祖語)から派生したものと考えられる。この語族に属する語派は、インド・アーリア語派イラン語派ギリシャ語派イタリック語派ケルト語派ゲルマン語派スラヴ語派バルト語派アルメニア語派アルバニア語派トカラ語派アナトリア語派で、形態的には屈折語であるのが特徴。印欧語族。→印欧祖語
※16−2:印欧祖語(いんおうそご、parent language)とは、比較文法の手続きに従って理論的に再構成された、インド・ヨーロッパ諸語に共通する祖語の形。
※16−3:アーリア人(―じん、Aryan)とは、(元「高貴な」を意味する arya[梵]から)インド・ヨーロッパ語族の人々の総称。特にインド・イラン語派に属する人が自らをアーリアと称した。

※17:騎馬民族(きばみんぞく、equestrian people)とは、中央アジアなどに住み、馬の機動性を利用して遊牧と軍事力を発展させ対外進出を行なった遊牧民族。西方のスキタイ/フン、中央の烏孫(うそん)、東方の匈奴(きょうど)/烏桓(うがん)/鮮卑/突厥(とっけつ)/ウイグル/モンゴルなど。夫余(ふよ)/高句麗/渤海/女真などを加えることも有る。
※17−1:騎馬民族征服説/騎馬民族説(きばみんぞく[せいふく]せつ)とは、中国やアジアの征服王朝と照らし合わせ、日本の大和政権は大陸から渡来した東北アジア系の騎馬民族が樹立した征服王朝であるとする仮説。騎馬民族の一派が4世紀前半に朝鮮半島から海を渡って九州を支配し、4世紀後半に近畿地方に攻め込んで新しい王朝を建てたとする。1948年東京大学教授江上波夫が唱えて各界に大きな反響を呼び、これ以後の日本の古代史を東アジア史の一環として扱う研究が進む様に成った。<出典:一部「学研新世紀ビジュアル百科辞典」より>

※18:鮮卑族(せんぴぞく)とは、古代アジアのモンゴル系(トルコ系とも)に属する遊牧民族。中国戦国時代から興安嶺の東に拠った。2世紀中葉、遼東から内外モンゴルを含んで大統一したが、三国時代、慕容・宇文・拓跋などの部族集団に分裂。晋代に、前燕・後燕・南燕・西秦・南涼の国を建て、拓跋氏は南北朝時代に北魏を建てた。

※19:続日本紀(しょくにほんぎ)は、六国史(りっこくし)の一。40巻。日本書紀の後を受け、文武天皇(697年)から桓武天皇(791年)迄の編年体の史書。藤原継縄菅野真道らが桓武天皇の勅を奉じて797年(延暦16)撰進。略称、続紀(しょっき)。
※19−1:桓武天皇(かんむてんのう)は、奈良後期〜平安初期の天皇(737〜806、在位781〜806)。柏原天皇とも。光仁天皇の第2皇子。母は高野新笠。名は山部(やまのべ)。784(延暦3)年に長岡京に遷都したが中断、794(延暦13)年に山城国宇太に遷した(=平安京)。797(延暦16)年に坂上田村麻呂を征夷大将軍として東北に派遣。
※19−2:高野新笠(たかののにいがさ)は、光仁天皇の妃(?〜789)。百済の武寧王の後裔と伝えられる和乙継(やまとのおとつぐ)の女(むすめ)。母は土師真妹(はじのまいも)。光仁の白壁王時代に嫁し、山部親王(後の桓武天皇)・早良親王らを儲ける。後に高野朝臣に改姓。781(天応元)年に桓武即位に依り皇太夫人の尊号を受け、正三位に叙される。大枝山稜に葬られる。790(延暦9)年に皇太后、806(大同元)年に太皇太后を追贈される。<出典:「日本史人物辞典」(山川出版社)>

※20:八色姓(やくさのかばね、はっしきのかばね)は、(「かばね」は、元はのこと。父系の血筋は骨に宿ると考えられたことから。<出典:「漢字源」>)
 天武天皇が684年に整理再編した8種の姓。即ち真人(まひと)・朝臣(あそみ)・宿禰(すくね)・忌寸(いみき)・道師(みちのし)・(おみ)・(むらじ)・稲置(いなぎ)。この年から翌年に掛けて実際に与えられたのは上位4姓で、序列は各氏祖先の皇室に対する親疎に依っている。八姓(はっせい)。

    (以上、出典は主に広辞苑です)

【参考文献】
△1:『古墳辞典 増補・新装版』(大塚初重・小林三郎編、東京堂出版)。

△2:『日本の神様[読み解き]事典』(川口謙二編著、柏書房)。

△3:『日本書紀(三)』(坂本太郎・家永三郎・井上光貞・大野晋校注、岩波文庫)。

△4:『カラーブックス 古墳』(森浩一著、保育社)。

△5:『魏志倭人伝 他三編』(石原道博編訳、岩波文庫)。
 晋の陳寿が撰した中国の魏の史書「三国志」の中の「魏書」の「東夷伝」の倭人の条に収められて居る部分 −正確には『三国志・魏志』巻三〇東夷伝・倭人の条− を日本では「魏志倭人伝」と通称します。

△6:『弥生』(高倉洋彰著、光文社文庫)。

△7:『騎馬民族国家』(江上波夫著、中公新書)。

△8:『日本古代王朝史論序説』(水野祐著、小宮山書店)。
△8−1:『大和王朝成立の秘密』(水野祐著、ワニ文庫)。本書は「三王朝交替説」の手軽な本。

△9:『歴史読本・特別増刊 日本人の起源を探る』(新人物往来社編・発行)。

△10:『古代朝鮮と倭族』(鳥越憲三郎著、中公新書)。

△11:『人物叢書 大江匡房』(川口久雄著、日本歴史学会編、吉川弘文館)。

△12:『日本地名ルーツ辞典』(池田末則・丹羽基二監修、創拓社)。

△13:『姓氏苗字事典』(丸山浩一著、金園社)。

△14:『古事記』(倉野憲司校注、岩波文庫)。

●関連リンク
参照ページ(Reference-Page):大阪府の古墳群の地図▼
地図−日本・大阪の河内地方(Map of Kawachi country, Osaka -Japan-)
参照ページ(Reference-Page):太秦と向日市(物集郷)の地図▼
地図−日本・京都市洛西(Map of West of Kyoto city, Kyoto -Japan-)
参照ページ(Reference-Page):山背大兄王について▼
資料−聖徳太子の事績(Achievement of Prince Shotoku)
補完ページ(Complementary):関東の古墳と土師氏▼
前玉神社と「さきたま古墳群」(Sakitama shrine and tumuli, Saitama)
補完ページ(Complementary):「天皇」という称号が使われたのは
推古朝以後の事▼
獲加多支鹵大王とその時代(Wakatakeru the Great and its age)
百舌鳥古墳群周辺の土師氏について▼
阪堺電車沿線の風景−浜寺編(Along the Hankai-Line, Hamadera)
関東の土師氏について▼
客観主義のエルニーニョ的転回(ElNino-like change of objectivism)
関東の土師氏▼
「おおとり神社」と土師氏(Otori shrine and Haji-clan)
淀川から見た八尾市上空の旅客機▼
私の淀川(My Yodo-river, Osaka)
磐座について▼
2003年・磐座サミットin山添(Iwakura summit in Yamazoe, Nara, 2003)
満開の誉田八幡宮や道明寺天満宮▼
日本全国花見酒(Cherry blossoms and banquet in Japan)
禾本機長の墜落死を「後から起こった不思議な現象」に定着▼
今の不況を笑い飛ばせ!(Laugh off the current recession !)
私が行った先々で後から事件や天変地異がよく起こる事例▼
日本、珍にして奇なる光景(The RARE and STRANGE scene, Japan)
仁徳の「茨田の堤」について▼
猪甘津の橋と猪飼野今昔(The oldest bridge and Ikaino, Osaka)
「戦争は文明の母」について▼
狩猟民族国家アメリカの本性(United States of Hunting people, America)
土蜘蛛や国栖と呼ばれた人々について▼
都島の鵺と摂津渡辺党(Nue of Miyakojima and Watanabe family, Osaka)
遊牧民族、騎馬民族の特徴▼
民族占い(Comparative Ethnologic approach)
「神」の文字を含む大王について▼
2003年・気比神宮初詣で(Kehi shrine, Fukui, 2003 beginning)
神武に抵抗した長髄彦▼
2003年・交野七夕伝説を訪ねて(Vega and Altair legend of Katano, 2003)
弥生人の故郷の一つと目される中国雲南省の生活▼
2002年・雲南タイ族民家宿泊記(Homestay at Dai's-house, China, 2002)
菅原氏・秋篠氏と同郷で「梅鉢紋」の筒井氏▼
大和筒井城(Ruins of Tsutsui castle, Nara)
土師氏支流の大江匡房が記した傀儡(くぐつ)とは▼
人形浄瑠璃「文楽」の成り立ち(The BUNRAKU is Japanese puppet show)
中世の「穢れ」思想と肉食の禁忌▼
日本の肉食文化の変遷(History of MEAT-EATING in Japan)
「関西歴史散歩の会」のサイト▼
外部サイトへ一発リンク!(External links '1-PATSU !')


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