2003年・気比神宮初詣で
[「一の宮」初詣での旅・その1]
(Kehi shrine, Fukui, 2003 beginning)

-- 2003.03.30 エルニーニョ深沢(ElNino Fukazawa)
2005.06.19 改訂

 ■はじめに - 一の宮参り

 石崎正明氏(鵲森宮宮司)の主宰する「美しい日本文化研究所」では、日本人の心のルーツを探求する一環として、ここ数年近畿地方の「一の宮」(※1)へ初詣でを兼ねて出掛けて居ます(過去の参拝地については「美しい日本文化研究所」のページに載せて居ます)。そして今年は越前国一の宮・気比神宮とその周辺の神社、ということで1月26日(日)に行って参りました。例に依って私は後から付いて行くパターンです。
 「諸国一の宮」の制が成立したのは平安後記の11世紀末~12世紀初頭とされて居ます。ここで言う「国(くに)」とは大和国や山城国や摂津国などの当時の行政区画で、「国」の中に複数の「郡(こおり)」が在ります。従って「一の宮」は近世以前の各「国」の筆頭神社を指します。

 ■越前国一の宮 - 気比神宮

 この日は寒かったのですが晴れて清々しい天候でした。8時15分(予定は8時でしたが私が風邪気味で遅刻)に森之宮神社前をチャーターしたバスで出発しました。バスは琵琶湖の東を廻るコース、即ち名神高速道路で米原迄行きそこから北陸自動車道を抜けて、10時半頃敦賀に入りました。
 → 敦賀の地図を見る(Open the map)

写真1:御祭神の説明板。 気比神宮は福井県敦賀市曙町、と言うよりも気比の松原(国定公園)近くに在る元官幣大社。右の写真の由緒書に在る様に、主祭神は伊奢沙別命(いざさわけのみこと=気比大神)で、他に帯中津彦命(たらしなかつひこのみこと=仲哀天皇(※2))・息長帯姫命(おきながたらしひめのみこと=神功皇后(※2-1))・日本武尊(※3)・誉田別命(ほむたわけのみこと=応神天皇(※2-2))・玉姫命・武内宿禰(※4、※4-1)を配祀し、古くより越前国一の宮・北陸道総鎮守として仰がれて居ます。
 さて気比神宮と言うと、何と言っても都怒我阿羅斯等(つぬがあらしと)伝説です。『日本書紀』垂仁紀の一節を要約すれば、都怒我阿羅斯等は金官加羅国の王子で、崇神天皇の時に日本に帰化しようと船で笥飯(けひい=気比)浦に上陸したが天皇の崩御に遭い日本に留まり垂仁天皇に仕え、やがて崇神天皇の名の”御間城(みまき)”を賜わり帰国し任那(※5)と国号を換えたが、土産に給わった赤絹が原因で新羅と争う様に成った、との事です(△1のp18~20)。
 任那は朝鮮半島の南部に在った伽耶諸国(実際には金官加羅国、※5-1)の呼称で、当時日本の占領基地を置いたとされて居る所なので、この話は任那が日本の属国であるという日本の主張を正当化して居る様に思われます。事の真偽は解りませんがこの話や神功皇后の話からも、当時日本海は盛んに朝鮮半島との行き来が有り、しかも情勢は緊迫して居たのは事実で、由緒書に在る様に天平時代(729~749年)には渤海使(※6)がしばしば来着したので気比の松原に松原客館を設けられ、ここが対朝鮮半島の要衝の地であった事は確かです。
 気比神宮には境内社として都怒我阿羅斯等を祀った角鹿神社が在ります。そして都怒我阿羅斯等は「額(ぬか)に角有ひたる人」と言われ

  角鹿(つぬが) → 敦賀(つるが)

と成ったと、敦賀の地名起源が語られて居ます。
 一方『古事記』に拠れば、新羅から帰還直後に筑紫で誉田別命(=後の応神天皇)を生んだ皇后が凱旋途中に忍熊王の反乱に遭ったので、禊として武内宿禰が幼い誉田別命を連れ敦賀に逗留した際に伊奢沙別和気大神(=伊奢沙別命)が現れ「自分の名を誉田別に替えて欲しい」と言い宿禰もこれを聞き入れて翌日浜で会う約束をし、翌日浜に行くと鼻に傷付いた入鹿魚(いるか)が湾に入って来たので誉田別命は大神が「自分に食料の魚を授けて呉れた」と叫んだので大神を御食津大神(みけつおおかみ、※7)と名付け今の気比大神に成った、そして入鹿魚(いるか)の血が臭かったので

  血浦(ちうら) → 都怒我(つぬが) → 敦賀(つるが)

と成った
、と別の地名起源を伝えて居ます(△2のp135~137)。結局、イルカの御蔭で誉田別命は名を替えずに済んだ訳です。尚、「気比(けひ)」の意味は後で詳述します。

 下が境内入口から撮った重文の両部型大鳥居(※8)です。ご覧の様に通常の鳥居の主柱の前後を稚児柱で支えたもので、この形式の鳥居は両部鳥居と呼ばれ厳島神社が有名です。この大鳥居は明治の頃は国宝でしたが、大戦で焼失後再建したものです。正面の扁額は有栖川宮威仁親王の御染筆です。
写真2:気比神宮の大鳥居。


写真3:気比神宮の伊奢沙別の社。
 右が主祭神・伊奢沙別命を祀った境内摂社の伊佐々別神社伊奢沙別命は古くは笥飯大神(けひのおおかみ)或いは御食津大神(前述)と呼ばれた事からも解る様に元々は食物神です。そもそも「けひ」の音は笥飯(けひい)に由来し器に盛られたご飯を指します。器を笥(け)とか笥子(けこ)(※7-2、※7-3)と呼びました。
 この神に、あの神風を起こし新羅との戦いを征した息長帯姫命(=神功皇后)の事跡及び北陸道の要所に位置する地政学とが結び付いて、気比神宮の御神徳は航海安全と水産漁業の繁盛、衣食住の平穏に特に霊験灼(あらたか)、と成りました。

 下が拝殿(奥の建物)と拝殿前の両部鳥居です。
写真4:気比神宮拝殿と両部鳥居。

 ということで一通り見終わった後、拝殿の前で皆で記念撮影(下)。
写真5:気比神宮拝殿前で記念撮影。

 今度は私が入って記念撮影(左下)。右下は境内の椿の花で鮮やかに咲いて居ました。
写真6:気比神宮拝殿前で記念撮影(マスクが私)。写真7:気比神宮境内の椿の花。

 ■安産の神 - 常宮神社

写真8:敦賀湾に臨む常宮神社入口の鳥居。 次に昔は気比神宮の奥宮だった常宮神社(敦賀市常宮13-11)に向かいます。敦賀半島の”付け根”に在る常宮神社迄はバスで15分程です。この神社の御祭神は天八百萬比売命(あまのやおよろずひめのみこと=常宮大神)・神功皇后仲哀天皇です。その他気比神宮と同じ祭神を奉って居るので判る様に、長い間気比神宮の摂社としてこの地方の信仰を集めて来ましたが、明治の社格制度に拠って県社と成り気比神宮より独立したそうです。右が神社入口の鳥居の写真。鳥居の向こうに松林が在り、その向こうが敦賀湾です。
 主祭神の天八百萬比売命は古来より養蚕の神とされて居ます。養蚕の神で想い起こされるのは秦氏の織女神の天万千幡比売(あまのよろずちはたひめ)との関係ですが、今は解りません。
 又、神功皇后が三韓征伐の前、この地にて御腹帯を付けて後に九州で応神天皇を安産した故事に拠り、安産祈願の社として全国から参拝者が詣で、更に気比神宮と同じく航海安全の神としても神徳が有ります。左下が武内宿禰を祀った社、右下が本殿です。
写真9:常宮神社の武内宿禰を祭った社。写真10:常宮神社の本殿。
 さて安産の神に関連するものとしては、常宮の部落の各氏子区には、白砂を敷き天井から力綱を吊るして在る産屋(男子禁制)が在るそうで、この地の産婦はこの産屋で出産するそうです。又、秀吉が朝鮮出兵の際、慶州から持ち帰った国宝の新羅鐘が在ります。
 ところで常宮神社を語るには是非とも触れて置かねば為らない事が有りますので、以下にそれを述べましょう。

    ++++ 気比神宮と常宮神社 ++++
 それは気比神宮と常宮神社とは創建当初から「口の宮」と「奥宮」、「神籬の宮」(※9)と「鏡の宮」の関係に在り、常宮神社が県社として独立した今も継承されて居ます。
 その切っても切り離せない関係を示すのが7月22日の気比神宮と常宮神社の総参祭(そうのまいり)で、気比神宮の神々を船型の神輿に移し、御座船に奉安して御幸の浜より船出し、漁師の小船に曳航してこの常宮へ海上渡御し、常宮神社本殿で祭事を執り行い夕方帰還します。海上渡御の間、船中で祭典を行い神饌を海中に撒き海神に供え奉ります。
 漁師達は曳航を一度奉仕すれば3年は豊漁に恵まれるとされ、この日敦賀湾は禁漁日と成ります。供奉船も随い両社全て神事に加わるこのから総参祭と言われて居るそうです。
    -------------------


 [ちょっと一言]方向指示(次) 私はこの総参祭に或る意味の興味を惹かれます。それは主神の天八百萬比売命が養蚕の神(七夕の織女の神と似た性格)でそこへ伊奢沙別命が渡るという七夕的形式を持って居るからです。そして7月22日という夏の土用の疫病祓え(夏祭の発祥)であり、海上渡御という儀式で海神への供養、更に漁師を曳航に参加させることで豊漁祈願、という複合的要素を全て含んで居ます。

 敦賀湾を臨む景勝地に在る常宮神社は中々良い神社です。この後我々は常宮を後にし、元来た気比の松原を通過して、この日の正式参拝地・武生の大塩八幡宮へ向かいました。車で約4~50分程です。

 ■北向き社殿と木曾義仲本陣 - 大塩八幡宮


写真11:大塩八幡宮の両部鳥居と参道。 大塩八幡宮は福井県武生市国兼町の静かな里の中の、桜井峯という杉で覆われた小高い丘の上に在り、明治7年県社に指定されて居ます。
 右が神社の在る桜井峰下の一の鳥居で、通常は八幡社は八幡鳥居(※8-1)ですが、ご覧の様に気比神宮と同じ両部鳥居です。これは当地に於ける気比神宮の神威の大きさの表れでしょう。
 鳥居の奥の階段を上がった所(桜井峯の頂上のやや下)に重文の拝殿、本殿が在りますが、現在この拝殿を改装中でした。
 御祭神は帯中津日子天皇(=仲哀天皇、※2)・品陀和気天皇(ほむたわけのみこと=応神天皇)・息長帯日賣尊(おきながたらしひめのみこと=神功皇后)で、気比神宮の御祭神と共通です。まあ八幡宮と言うのはそもそも応神天皇を奉った社ですが、八幡鳥居では無く気比神宮と同じ両部鳥居であり、この越前一帯で如何に気比神宮の威光が大きいか、更に如何に仲哀天皇と神功皇后の故事が重きを成して居るかが窺えます。

写真13:大塩八幡宮裏山の木曽義仲の布陣図。写真12:大塩八幡宮裏山の木曽義仲本陣跡伝承の碑。 左が八幡宮背後の桜井峯の木曾義仲本陣跡伝承の碑。右が碑の近くに在る義仲の布陣図です。
 我々は背後の桜井峯を散策した後、改装中の拝殿内で宮司さんの祝詞で玉串を捧げて正式参拝をし、その後宮司さんにこの神社の由緒や木曾義仲本陣の話を伺いました。
 それに拠ると寛平(かんぴょう)3(891)年、京都石清水八幡宮(※10)を勧請してこの地に祀り、日本海を隔てて異国に近く国内に於いては北方の夷(えみし)と相対して居たので、越前鎮護の為に社殿を敢えて北向きにしたそうです。
 重要文化財の拝殿は木造入母屋造・柿葺(こけらぶき)。社伝に拠れば寿永2(1183)年5月、木曾義仲(※11)が平家を追ってこの社に陣を張った折、兵火で社殿を焼失させて仕舞ったのを、杣山(そまやま)山麓の日吉山王社の社殿を3日3晩でここに移築したそうです。
 この様な謂れを宮司さんは和やかに話して呉れました。深閑とした鎮守の杜の中には大きな絵馬を納めた絵馬殿が在り、木陰に雪の残る冷たい空気には心を引き締められました。目立たないが良い神社です。
 さて大塩八幡宮の真東に日野山という標高800m位の山が在りますが、紫式部が幼少の頃父・藤原為時の越前国司赴任に伴なって武生に住んで居た頃の、日野山を詠んだ歌が残って居ます。

  ここにかく 日野の杉むら 埋む雪
    小塩(をしほ)の松に 今日やまがへる

 ■神功皇后の遠征と縁が深い北陸の諸神社

 こうして気比神宮・常宮神社・大塩八幡宮と参拝して来て気が付いた事は、何れも神功皇后が新羅征伐(※2-1)に向かう途次の逸話に絡む神社で何れも仲哀天皇神功皇后を祭神 -しかし仲哀天皇は影が薄く神功皇后の事蹟が主- とし、更に大塩八幡は当然ですが気比もこの夫婦の子である応神天皇を祭神として居ます。特に気比の都怒我阿羅斯等伝説常宮の新羅鐘(国宝)など、越前が新羅との関連が深い事は興味有る問題です。滋賀県の琵琶湖周辺も新羅の事蹟が多いので越前→敦賀→琵琶湖と地理的に繋がって来るのです。

 応神は神武・崇神と共に”神”の名の付く3人の天皇の内の一人で応神王朝の開祖と目されます(異説も在り)が、その母の神功皇后は女性で唯一”神”の名が付く人です。彼女は『日本書紀』では天皇と同じ本紀を立てられてる事でも解る様に、仲哀天皇には失礼ですが”女帝”と呼ぶに相応しい存在感を今回の旅で感じました。まあ、『書紀』は神功紀の中で『魏志倭人伝』を引用し(△1のp172)無理矢理に神功皇后から女王卑弥呼を連想させ結び付けようとする”意図”を感じます。それ故に神功皇后は女王然と大変勇ましく書かれて居ますが、新羅との関係などは半島側の資料も精査し実証的な歴史学として理論を構築する必要が有ると考えて居ます。
 そして大塩八幡宮が八幡鳥居(※8-1)では無く気比神宮と同じ両部鳥居(※8)だったのが面白かったですね、気比大神は偉大也!
 尚、▼応神王朝の詳論▼を別稿に記しましたので参照して下さい。
  2005年・空から大阪の古墳巡り(Flight tour of TUMULI, Osaka, 2005)

    {応神王朝詳論へのリンクは05年6月19日に追加}

 ■結び - 歴史の重み

 大塩八幡宮を辞す時は午後1時を過ぎて居ました。我々は越前蟹の昼食と温泉に入る為に、越前岬手前の玉川温泉に行き、この日の疲れを癒して早めに帰路に着きました。
写真14:越前海岸から見た敦賀半島。
 帰りは越前海岸を海沿いに南下し、嘗ての河野水軍(※12)の出先基地・河野村から敦賀を通り、以後は往路と同じコースで帰りました。
 右の写真は杉津辺りから敦賀半島を写したものです。半島の上半分が少し白く見えるのは雪です。
 この日も良い旅でした。チャーターバスで足早に廻りましたが、やはり気比神宮の様な謂れ有る神社の威光は大変なものでした。単なる現世利益では無い、どっしりとした”重み”を実感出来ました、これぞ「温故知新」、「日本再発見の旅の心」です。

φ-- おしまい --ψ

【脚注】
※1:一の宮/一宮(いちのみや)とは、この場合、各国の由緒有り信仰の篤い神社で、その国の第1位のもの。大宮市の氷川神社を武蔵国の一の宮とした類。今、各地に地名としても存続して居る。(「宇都宮(うつのみや)」もその転訛)。

※2:仲哀天皇(ちゅうあいてんのう)は、記紀伝承上の天皇。日本武尊の第2王子。皇后は神功皇后。名は足仲彦(たらしなかつひこ)。熊襲(くまそ)征伐の途中、筑前国の香椎宮で没したと言う。
※2-1:神功皇后(じんぐうこうごう)は、仲哀天皇の皇后。名は息長足媛。開化天皇第5世の孫、息長宿禰王の女。記紀伝承に拠ると天皇と共に熊襲征服に向い、天皇香椎宮に崩御の後、新羅を攻略して凱旋し、誉田別皇子(応神天皇)を筑紫で出産、摂政70年にして崩。
※2-2:応神天皇(おうじんてんのう)は、記紀に記された天皇。5世紀前後に比定。名は誉田別仲哀天皇の第4皇子。母は神功皇后とされるが、天皇の誕生については伝説的な色彩が濃い。大阪府羽曳野市古市に応神天皇陵に比定される前方後円墳が在る。全長約430mで、日本で2番目の大きさを持つ。誉田山古墳。子が仁徳天皇。全国八幡神社の主祭神

※3:日本武尊/倭建命(やまとたけるのみこと)は、古代伝説上の英雄。景行天皇の皇子で、本名は小碓命(おうすのみこと)。別名、日本童男(やまとおぐな)。大碓命は双子の兄。天皇の命を奉じて熊襲(くまそ)を討ち、後に東国を鎮定。往途、駿河で草薙剣(くさなぎのつるぎ) -三種の神器の一つの天叢雲剣(あまのむらくものつるぎ)の別名- に依って野火の難を払い、走水(はしりみず)の海では妃弟橘媛(おとたちばなひめ)の犠牲に依って海上の難を免れた。帰途、近江伊吹山の神を征そうとして病を得、伊勢の能褒野(のぼの)で没したと言う。没後、白鳥化成伝説が在る。
※3-1:日本武の白鳥化成伝説(やまとたけるのはくちょうかせいでんせつ)とは、日本武が伊勢の能褒野で没した後、その屍が八尋白智鳥(やひろしろちどり=大きな白鳥)と化し御陵を出て大和国琴引原河内国古市を経て最後に和泉国大野里に留ったという伝説。

※4:武内宿禰(たけのうちのすくね)は、大和朝廷の初期に活躍したという記紀伝承上の人物。孝元天皇の曾孫(一説に孫)で、景行・成務・仲哀・応神・仁徳の5朝に仕え、偉功が有ったと言う。その子孫と称するものに葛城・巨勢・平群(へぐり)・紀・蘇我の諸氏が在る。
 補足すると、謎の多い人物で日本書紀神功紀に、仲哀天皇崩御の後神功皇后が巫女と成り占った際に宿禰は琴を奏したと在り、是から推察すると審神者(さにわ)の様な役職であったと思われます。
※4-1:さ庭/審神者(さにわ)とは、(「さ庭」のサは神稲の意)
 [1].斎(い)み清めた場所。神降ろしを行う場所。古事記中「―に居て神の命を請ひき」。
 [2].神慮を審察する人。神命を承る人。神功紀「審神者(さにわ)にす」。
 [3].神楽で和琴(わごん)を弾く人

※5:任那(みまな)とは、4~6世紀頃、朝鮮半島の南部に在った伽耶諸国の日本での呼称。実際には同諸国の内の金官国(現、慶尚南道金海)の別称だったが、日本書紀では4世紀後半に大和朝廷の支配下に入り、日本府という軍政府を置いたとされる。この任那日本政府については定説が無いが、伽耶諸国と同盟を結んだ倭・大和朝廷の使節団を指すものと考えられる。にんな。
※5-1:伽耶/伽倻(かや)とは、古代、朝鮮半島南東部に在った国々。諸小国全体を言う場合も有り、特定の国(金官伽耶・高霊伽耶など)を指す場合も有る。562年新羅に依り併合。日本では多く任那(みまな)と呼ぶ。加羅。「―琴(きん)」。

※6:渤海(ぼっかい)とは、8~10世紀、中国東北地方の東部に起った国(698~926)。高句麗の遺民とも言われる大祚栄が靺鞨族(まっかつぞく)を支配して建国。唐から渤海郡王に封ぜられ、その文化を模倣し、高句麗の旧領地を併せて栄え、727年以来しばしば日本と通交。15代で契丹に滅ぼされた。都は上京竜泉府以下の5京が在った。

※7:御食津神/御饌津神(みけつかみ)とは、
 [1].一般には食物を主宰する神大宜都比売神(おおげつひめのかみ)、保食神(うけもちのかみ)、倉稲魂神(うかのみたまのかみ)(=稲荷神)、豊宇気毘売神(とようけひめのかみ)(=伊勢外宮の祭神)、若宇迦乃売神(わかうかのめのかみ)など。
 [2].宇賀御魂神(うかのみたまのかみ)、即ち稲荷神の一名。「三狐神」とも当て字されたので狐に付会された。
 [3].敦賀の気比神(けひのかみ)。古事記で、応神天皇に魚を奉ったので御食津大神と称された。
※7-1:食(うか/うけ)とは、(古くは「ウカ」で後「ウケ」に転)食べ物。食物。「ウカ」はウカノミタマ/ウカノメの形で用いる。古事記上「宇迦之御魂神(うかのみたまのかみ)」。
※7-2:笥(け)とは、元々は竹製の四角い箱状で、食物を盛る器(=笥籠)。又、物を入れる器。万葉集2「―に盛る飯を」。枕草子201「碁石の―に入るる音」。
※7-3:笥籠/笥子(けこ)とは、食物を盛るのに用いた器。伊勢物語「―のうつはものに盛りけるを見て」。

※8:両部鳥居(りょうぶとりい)とは、柱の前後に控柱(又は稚児柱)を設け、本柱と控柱との間に貫(ぬき)を付けた鳥居。宮島の厳島神社の鳥居が有名で、神仏混淆の神社に多い。例えば敦賀の気比神宮の鳥居。別名を権現鳥居/四脚鳥居/稚児柱鳥居/枠指鳥居など。
※8-1:八幡鳥居(はちまんどりい)とは、鳥居の一様式。垂直丸柱を用い、笠木と島木の木口を斜めに切り落したもの。宇佐八幡宮石清水八幡宮に見られる。宇佐鳥居。

※9:神籬(ひもろぎ)とは、(古くは清音)往古、神霊が宿って居ると考えた山・森・老木などの周囲に常磐木(ときわぎ)を植え廻らし、玉垣で囲んで神聖を保った所。後には、室内・庭上に常磐木を立て、これを神の宿る所として神籬(ひもろぎ)と呼んだ。現在、普通の形式は、下に荒薦(あらむしろ)を敷き、八脚案(やつあしのつくえ)を置き、更に枠を組んで中央に榊(さかき)の枝を立て、木綿(ゆう)と垂(しで)とを取り付ける。ひぼろぎ。万葉集11「神なびに神籬立てていはへども」。

※10:石清水八幡宮(いわしみずはちまんぐう)は、京都府八幡市に在る元官幣大社。祭神は誉田別尊(応神天皇)・息長帯姫尊(神功皇后)・比売神(ひめがみ)の三座。859年(貞観1)、宇佐八幡を勧請。歴代朝廷の崇敬篤く、鎌倉時代以降、源氏の氏神として武家の崇敬も深かった。例祭は9月15日。伊勢神宮・賀茂神社と共に三社の称が有る。二十二社の一。男山八幡宮。

※11:木曾義仲(きそよしなか)は、(木曾山中で育ったから言う)源義仲の異称。平安末期の武将(1154~1184)。為義の孫。2歳の時、父義賢が義平に討たれた後、木曾山中で育てられ、木曾次郎(義仲)と言う。1180年(治承4)以仁王(もちひとおう)の令旨を奉じて挙兵。平通盛らを越前に破り、平維盛を礪波山(となみやま)に夜襲し、平氏を西海に走らせて京都に入り、84年(寿永3)征夷大将軍に任ぜられたが、範頼・義経の軍と戦って敗れ、近江粟津原で戦死。

※12:河野水軍(こうのすいぐん)は、伊予の豪族河野氏が率いた海上勢力。源平合戦では源氏に応じ、南北朝動乱にも活躍したが、徐々に衰退。

    (以上、出典は主に広辞苑です)

【参考文献】
△1:『日本書紀(二)』(坂本太郎・家永三郎・井上光貞・大野晋校注、岩波文庫)。

△2:『古事記』(倉野憲司校注、岩波文庫)。

●関連リンク
参照ページ(Reference-Page):福井県敦賀市の地図▼
地図-日本・福井県(Map of Fukui prefecture, -Japan-)
横顔(Profile):「美しい日本文化研究所」について▼
鵲森宮と「美しい日本文化研究所」
(Kasasagi-Morinomiya and Elegant JPN culture)

補完ページ(Complementary):”神”の名の付く応神王朝の詳論▼
2005年・空から大阪の古墳巡り(Flight tour of TUMULI, Osaka, 2005)


Select page:|1:気比神宮(Kehi)|2:丹生都比売神社(Nifutsuhime)3:伊和神社(Iwa)

総合目次に戻ります。Go to Main-menu 上位画面に戻ります。Back to Category-menu