2004年・丹生都比売神社初詣で
[「一の宮」初詣での旅・その2]
(Nifutsuhime shrine, Wakayama, 2004)

-- 2004.02.18 エルニーニョ深沢(ElNino Fukazawa)
2013.02.25 改訂

 ■はじめに - 雪が空気を厳粛に

 石崎正明氏 -鵲森宮(通称:森之宮神社)宮司- の主宰する「美しい日本文化研究所」の、今年の近畿「一の宮」巡りのターゲットは神秘的な丹生都比売神社(※1)ですが、道中の途中に在る隅田八幡神社(※2)に先に寄りました。ここは国宝の人物画像鏡を蔵する事で「知る人ぞ知る」 -知らない人は全く知らない- 存在です。
 初詣でに訪れたのは2004年1月25日(日)で、岡本さんの運転するワゴンに宮司さん、宮司の弟さん、そして私が乗り込みました。大阪を出る時は雨でしたが奈良県~和歌山県橋本市(※3)に入ると小雪に変わり丹生都比売神社では雪は本降りに成り、何やら厳粛な凜とした空気に包まれました。そして最後は例に依って和歌の浦(※4)の温泉で締め括り非常に良い旅でした。
 では先ず隅田八幡神社から見て戴きましょう。

 ■隅田八幡神社


 10時45分頃に和歌山県橋本市隅田町垂井字庵崎隅田八幡神社隅田八幡宮とも、右の写真)に着きました。隅田の読みは隅田(すだ)で、最寄りのJR和歌山線の駅名も隅田(すだ)です。
 奈良県五条市との県境に位置し、周辺には古墳や弥生時代の遺跡などが散在し、この辺りは古くから人々が生活を営み、磐座信仰の対象だった様です(△1のp336~337)。因みに、今回の旅のメンバーは磐座と聞くと「居ても立っても居られない」人たちです!
 主祭神は誉田別尊(=応神天皇)・足仲彦尊(=仲哀天皇:応神の父)・息長足姫尊(=神功皇后:応神の母)を祀って居るのはお決まりのパターン -八幡宮は応神天皇を主祭神とし、その父母を祀る神社- ですが、副祭神に丹生津姫命(=丹生都比売命)・瀬織津媛命(=瀬織津比女命)を配して居るのがこの神社の特徴です。丹生津媛命は後で行く丹生都比売神社の主祭神です。瀬織津媛命は天照大神の荒御魂(※5)です。境内の説明板には、両姫命は明治43(1910)年合祀と在りますので比較的新しいものですが、やはり丹生都比売命の威徳が大きかったものと思われます。
 『隅田八幡宮由来略記』に依れば、応神天皇が武内宿禰に供奉(ぐぶ)されて紀伊国日高郡の衣奈宮から大和国へ赴く途中、隅田に長く滞在した事に因んで貞観年中(859~877年)に創建し応保元(1161)年に再建、応永年中(1394~1428年)に復修造したと在ります(△1のp338)。

 下が人物画像鏡(国宝:大正5(1916)年指定)の模型(左下の写真)で、本物は国立博物館に移管されて居ます。実物の直径は19.8cmですから、台座に「奉納」と彫られたこの模型は相当に大きく誇張されて居ます。
 左下の写真の鏡部の拡大が、右下の写真です。橋本市教育委員会と当神社が作成した境内の説明板に拠れば、真ん中の鈕(ちゅう、※6)の周りに9人の人物と紋様が描かれ、その外側に日本最古の金石文(※7)の一つで48文字の銘を左回りに鋳出した青銅鏡です。因みにこれは鏡の裏面で、表面は鏡面ですからノッペラとして居ます。


 銘文は

  癸未年八月日十大王年男弟王在意柴沙加宮時斯麻念長寿遺開中費直穢人今州利二人等取白上同二百旱作此竟

というもので、冒頭の「癸未年(きびねん、みずのとひつじどし)」が問題に成ります。これに該当するのは西暦383年・443年・503年です。銘文解釈として良く採り上げられるのは「癸未の年の八月、男弟王が意柴沙加の宮に坐(いま)しし時、斯麻が長寿を念じて開中費直穢人と今州利の二人等を遣わし白上銅二百旱(かん)を取らしめて、この鏡を作った」とするもので、「男弟王」を「オオトノオウ」即ち継体天皇として503年説を取るもので有力ですが、未だ定説には至って無い様です。
 ところで、これは中国鏡の仿製鏡(※6-1)で、原型にされた鏡は大阪府八尾市の古墳から出土して居ます。その鏡が何時頃から隅田八幡神社の所蔵に成ったかは詳らかでは有りませんが、『紀伊続風土記』や『紀伊国名所図会』に記されて居ますので少なくとも江戸時代には隅田社の鏡として知られて居ました。


 当社の祭としてユニークなものとしては、正月15日の管祭(くだまつり) -稲の豊凶を占う粥占神事- が在ります。

 右の写真は、右から隅田八幡神社の宮司さん、石崎宮司の弟さん、そして森之宮神社の石崎宮司さんです。雪が降って来たのが解ると思います。凜とした空気を吸って、この後私たちは厳かな気持ちで正式参拝に臨みました。
 近くには猿田彦神社が在りました。

 ■丹生都比売神社

 橋本市を発ち西へ回り込み、高野山の西の登り口の所に丹生都比売神社(住所は和歌山県伊都郡かつらぎ町上天野)は在ります。13時30分頃着きました。下の2枚が重要文化財(重文)の楼門(※8)です。雪が降り方が時間と共に直ぐ変わり、左下は小降りの状態、かと思いきや5分後には右下の様に激しく降って来ました。


 この楼門を潜って中に入ると楚々とした美しい神殿が広がって居ます。右の写真が四棟式春日造の本殿で、これも重文です。神々は1殿1神ずつ祀られて居ます。即ち、第一殿(一宮)に丹生都比売大神(丹生明神)、第二殿(二宮)に丹生高野御子大神(高野明神)、第三殿(三宮)に大食都比売大神(おおげつひめのおおかみ(※9)、気比明神)、第四殿(四宮)に市杵島比売大神(厳島明神)が祀られて居ます。これら4つを合わせて「四社明神」とも呼ばれます(△1のp341)。
 因みに、気比神宮へは昨年(=03年)の「一の宮」初詣で参上しました。

 当社「延喜式」(※10)の伊都郡二座の一座「丹生都比女神社」であり別名を天野大社と言い、貞観元(859)年に従四位下を、寿永2(1183)年には従一位という神階を授与されて居ます。神職は元々は「天野祝(あまののほうり)」(※11)と呼ばれ『日本書紀』にも記された名族です(△1のp339~341)。
 その後、当社にも仏教の本地垂迹説の影響で七堂伽藍を備えた神宮寺が建てられました -『紀伊国名所図会』に描かれて居る- が、明治の廃仏毀釈で取り払われました。
 この様に古くから当社は紀伊国の名社の一つなのです。



 左の写真も神殿を反対の角度から撮ったものです。格式と品格を具えた美しさは雪に一層映え、正に圧巻です!!
 しかし、この朱色こそ水銀の色、即ち丹(たん、に)の色(※1-1~※1-3、※1-5)なのです。
 その事は後で述べることにします。


 右の写真は両部鳥居(※12) -厳島神社や気比神宮の鳥居- と、鳥居の奥の太鼓橋です。当社が祀る四神の内の第三神が気比明神で第四神が厳島明神ですので、又神仏混淆の経歴も有り、当社の鳥居が両部型なのも頷けます。

 現在「丹生」を称する神社は和歌山県で伊都郡に53社、以外に32社在るそうです。奈良県にも丹生川上神社の上社・中社・下社が在ります。

  ◆丹生都比売と水銀、そして空海

 『播磨国風土記』逸文(※13)に次の様な話が載って居ます(△2のp490~491)。

  息長帯足女(おきながたらしひめ)の命、新羅の国を平けむと欲したまひて下り坐しし時、衆の神に祷りたまひき。その時、国堅めましし大神の子、尓保都比売(にうつひめ)の命、国の造石坂比売(いはさかひめ)の命につきて、教へて曰りたまはく「好く我が前を治め奉らば、我ここに善き験を出して、比々良木(ひひらぎ)の八尋桙根(やひろほこね)の底不附国(そこつかぬくに)、越売(をとめ)の眉引の国、玉匣(たまくしげ)賀々益国、苫枕(こもまくら)有宝国、白衾(しらぶすま)新羅の国を、丹の浪を以ちて平伏け賜はむ」とのりたまふ。かく教え賜ひここに赤土(まはに)(※1-1、※1-2)を出だし賜ひき。その土を天の逆桙(※14)に塗りたまひ、神舟の艫(とも)と舳(へ)に建てたまふ。また御舟の裳(も)と御軍の着衣を染めたまひぬ。また海水を攪き濁して渡り賜ふ時、底潜る魚また高く飛ぶ鳥どもも往き来せず、前を遮るものなし。かくて新羅を平伏け己訖(をは)りて還上りたまひぬ。乃ちその神を紀伊の国の菅川(つつかは)なる藤代の峰に鎮め奉りき。

 これは有名な息長帯足女の命(=神功皇后)の新羅平定に纏わる多くの話の一つです。「国堅めましし大神」とは国生みの神の伊弉諾尊と伊弉冉尊で、丹生都比売はその娘(※1)です。「石坂比売の命」とは祭場の「磐境」(※15)を表し神を招く巫女の事です。従って「好く我が前を治め奉らば、...(中略)...平伏け賜はむ」の部分の難しい幸先の良い語句の羅列は、要するに祝詞なのです。「比々良木(ひひらぎ)」魔除けで、今日でも節分の夜にヒイラギの枝と鰯(いわし)の頭を門戸に挿します。
 問題はここからです。「かく教え賜ひここに赤土(まはに)を出だし賜ひき。...(中略)...かくて新羅を平伏け己訖(をは)りて還上りたまひぬ。」です。「赤土(まはに)」とは辰砂(しんしゃ)(※1-4)の事です。その辰砂を天の逆桙 -降魔の呪術(※14)- に塗り、神舟の艫と舳と裳に塗り、御軍の着衣を染めた、と在ります。神社の社殿が赤いのは珍しいことでは有りませんが、私は丹生都比売神社の朱色の社殿に丹生都比売に隠された水銀の精という性格を考えない訳には行きません。
 こうして新羅を無事平伏させて帰還した神功皇后ですが、「その神を紀伊の国の菅川なる藤代の峰に鎮め奉りき。」と在ります。その菅川(つつかは)和歌山県伊都郡高野町筒香(つつが)に比定され、藤代の峰はその東の峰とされて居り、ここは丹生川の水源地なのです(△1のp340)。それに依って丹生都比売には水の精(水神)の性格も付加されました。その後、社地が現在地に移ったのです(△2のp491)。

 又、『日本書紀』の神武紀には、神武天皇が熊野から大和に入るに際して、

  又祈(うけ)ひて曰(のたま)はく、「吾今当に厳瓮(いつへ)(※16)を以て、丹生之川に沈めむ。如(も)し魚大きなり小しと無く、悉(ふつく)に酔ひて流れむこと、譬えば柀(まき)の葉の浮き流るるが猶(ごと)くあらば、吾必ず能く此の国を定めてむ。如し其れ爾(しか)らずは、終(はた)して成る所無けむ。」とのたまひて、乃ち瓮(いつへ)を川に沈む。其の口、下に向けり。頃ありて、魚皆浮き出でて、水の随(まま)に噞喁(あぎと)(※17)ふ。

という話が載って居ます(△3のp220~222)。これなどは、丹生川の川原の土で造られた厳瓮(いつへ)を川に沈めたら魚が皆口をパクパクさせて浮き出した、と言って居る様にも取れます(△1のp342~343)。水俣病(※18)などの水銀中毒(※18-1)を彷彿とさせる、”怖い話”なのかも知れません。

 そして最後にどうしても書いて置かねば為らない事は、水銀と空海(※19)の関係です。水銀と空海、関係は濃密なのです。讃岐に生まれた空海は若い時に修行を行ないますが、彼の場合普通の宗教気触れの若僧とは可なり異なり文字通り山師的(※20)な -つまり山岳修行も遣ったし鉱山の採掘なども遣った- 或る意味で実践的なものでした。最澄(※21)の場合とは異なり私費で入唐した空海は資金を自分で作り出す知恵と胆力が必要だったのです。後に有名に成る高野聖(※19-1)も、弘法大師の数々の奇跡も空海の若い頃のこうした人脈・金脈が有ってこその賜です。中でも水銀は一首独特です。特に聖武天皇の大仏開眼供養では、アマルガム法(※22、※22-1)に依る金メッキが行われ、職人が水銀蒸気を大量に吸い込んだ為バタバタと倒れて落ちましたが、にも拘わらずアマルガム法の威力は絶大でした。空海もその情報を得て居た筈です。空海はこうした情報に対して極めて聡く、しかも実践的に捉えて居ました。そうで無ければ若くして『三教指帰』(※19-2)など著せられない、と思いますが。
 そもそも空海が真言密教を開くに当たり何故高野山で無ければ為らなかったのか、それは高野山の周りに水銀鉱脈が多いからなのです。そして空海はそれが金脈に発展する事を予見して居た、と私は考えて居ます。この点に於いても最澄の比叡山とは異なります。
    {この節は2004年3月22日で未完成の儘手付かずでしたが、出版の為に改めて2013年2月12日より加筆し同年2月25日に更新を終了しました。}

  ◆丹生都比売と高野山

 そして丹生都比売神社は高野山の地主神として祀られたのです。現在、金剛峰寺(※19-3)所蔵として丹生都比売の画像が残されています。真言密教の修験の霊場は、同時に丹生都比売の精力 -水銀の精と水の精- で守られて居るのです。
 丹生都比売神社の境内には左の写真のように仏塔(碑)が並んで建っている場所が在りました。
 「高野先達の碑伝」という説明板に依れば、鎌倉時代に全国的に成った修験道は高野山の修験者に導かれて大峰山(※23)に登り記念に碑を建てたものです。碑にはリーダーの僧 -これを大峰先達(※23-1)とか大峰聖(※23-2)と呼ぶ- の名、参加人数(数10名~190名)、年が記載されて居ます。元は先程見た太鼓橋の傍に在りましたが、神仏分離令に依りここに移されました。
 ここでも丹生都比売と高野山の結び付きの強さを覗わせます。

 ■最後は温泉


 そして最後は和歌の浦の温泉(※4)です、17時頃ここに着きました。右の写真が温泉宿 -温泉宿と言っても今は車で来て温泉に入り車で日帰りする人が殆どです- からの眺めです。雪も上がり今はうっすらと西日が射し、海沿いの宿からの眺めは中々のものです。


 左は温泉を楽しむ我々です。写真右から森之宮神社の石崎宮司、運転手の岡本さん、私、石崎宮司の弟さんです。写真を良く見て下さい、私たちの背後は海です。和歌の浦をバックに露天の温泉、もう最高です。
 我々も車で来て温泉入って車で帰る”通りすがりの客”でした。

 皆さん、今日はご苦労様でした!!

 ■結び - 西欧オカルト学での水銀

 水銀は西欧に於いても重要な役割を担って居ます。西欧の錬金術やオカルト学では、硫黄・水銀・塩の3原質(※24、△4のp99)と考えて居ます。水銀というのは西欧でも神秘の象徴なのです、何となれば常温で液体の金属など他には有りません。そしてアマルガム(※22)の力は神秘以上の魔力だったのです。やがて魔力に合理を求め、こうした諸知識から化学が生まれた事は皆さんもご存知でしょう。
 西欧占星術では水星(※25)が水銀を象徴して居て、理知を表します。そもそも水星の英語(Mercury)が水銀(mercury)に由来するのです。そして守護神はヘルメス(※26)です(△4のp52)。

 この日の隅田八幡神社と丹生都比売神社の初詣では大変印象に残るものでした。

φ-- おしまい --ψ

【脚注】
※1:丹生都比売神社(にふつひめじんじゃ/にうつひめ―)は、和歌山県伊都郡かつらぎ町に在る元官幣大社。祭神は伊弉諾尊と伊弉冉尊の娘の丹生都比売神高野山に近い為に真言宗と神仏習合して栄えた。<出典:一部「学研新世紀ビジュアル百科辞典」より>
※1-1:丹(たん)とは、[1].赤土硫黄と水銀との化合したもの。辰砂(しんしゃ)。「丹砂」。
 [2].あか。あか色。。「丹朱・丹頂」。
※1-2:丹(に)とは、[1].(古くは、染料に用いた)赤色の土。あかつち。あかに。〈和名抄13〉。
 [2].(赤土で染めた)赤色。万葉集9「さ―塗りの大橋の上ゆ」。
※1-3:朱砂(しゅしゃ/すさ)は、辰砂(しんしゃ)に同じ。
※1-4:辰砂(しんしゃ/しんさ)とは、[1].(cinnabar)水銀と硫黄との化合物。深紅色の六方晶系の鉱物。塊状で産することが多い。水銀製造や赤色絵具の主要鉱石。朱砂(すさ)。丹砂。丹朱。
 [2].銅で着色した鮮紅色の釉(うわぐすり)。
※1-5:水銀(すいぎん、mercury)は、金属元素の一。元素記号Hg、原子番号80。原子量200.6。辰砂(しんしゃ)を焼いて造る。常温で液体である唯一の金属。セ氏356.6度で沸騰し、セ氏マイナス38.84度で固化する。硝酸には容易に溶解し、又、金属と合金(アマルガム)を造る事が容易である。蒸気は有毒。金の精錬、温度計、各種の水銀塩(昇汞(しょうこう)・甘汞(かんこう)など)・火薬(雷汞(らいこう))・硫化水銀(赤色顔料)などの製造に用いる。日葡辞書「スイギン、ミズカネ」。

※2:隅田八幡宮(すだはちまんぐう)は、和歌山県橋本市隅田町に在る元県社。祭神は誉田別尊(ほむだわけのみこと)他。癸未年(443年など諸説在り)の銘文を持つ青銅製の人物画像鏡(国宝)を蔵する。

※3:橋本(はしもと)は、和歌山県北東部の市。紀ノ川河谷に位置し、高野山参詣の宿場。河港・商業の中心として発達。人口5万4千。

※4:和歌の浦(わかのうら)は、和歌山市南部に在る湾岸一帯の地。湾の北西隅に妹背山、東に名草山が聳え、古来の景勝地。玉津島神社が在る。若の浦。明光浦(あかのうら)(歌枕)。

※5:荒御魂(あらみたま)とは、荒く猛き神霊。〈神功紀訓注〉。←→和御魂(にきみたま)。

※6:鈕(ちゅう)は、[1].印、又は鏡などの摘(つま)み。多くは紐を通す孔が在る。鈕子。「印鈕」。「多鈕鏡」。
 [2].ボタン。「鈕釦(ちゅうこう)」。
※6-1:仿製鏡(ぼうせいきょう)とは、(「仿」は、「真似る」の意) 大陸から輸入した漢鏡や唐鏡などを模倣して作った鏡。弥生時代に始まり、古墳時代に多い。

※7:金石文(きんせきぶん)は、金文と石文。鼎・鐘・石碑・仏像など金石に刻された文字・文章。銘。

※8:楼門(ろうもん)とは、2階造りの門。特に、初重に屋根の無い1重屋根のもの。

※9:大宜津比売/大食都比売(おおげつひめ)は、(「け」は食物)食物を司る女神。古事記で、鼻・口・尻から種々の食物を取り出して奉り、穢らわしいとして素戔嗚尊に殺されたが、死体から五穀が化生した。日本書紀では保食神(うけもちのかみ)。

※10:延喜式(えんぎしき)とは、弘仁式・貞観式の後を承けて編修された律令の施行細則。平安初期の禁中の年中儀式や制度などの事を漢文で記す。50巻。905年(延喜5)藤原時平・紀長谷雄・三善清行らが勅を受け、時平の没後、忠平が業を継ぎ、927年(延長5)撰進。967年(康保4)施行。

※11:祝(はふり/ほふり/ほうり)とは、神に仕えるのを職とする者。普通には禰宜(ねぎ)の次位で祭祀などに従った人。はふりこ。はふりと。神代紀上「熱田の―の掌りまつる神」。

※12:両部鳥居(りょうぶとりい)とは、柱の前後に控柱(又は稚児柱)を設け、本柱と控柱との間に貫(ぬき)を付けた鳥居。宮島の厳島神社の鳥居が有名で、神仏混淆の神社に多い。例えば敦賀の気比神宮の鳥居。別名を権現鳥居/四脚鳥居/稚児柱鳥居/枠指鳥居など。

※13:逸文/佚文(いつぶん、lost writing)とは、
 [1].散逸して伝わらない、又は一部分のみ残存する文章。「風土記―」。
 [2].世に知られない文章。
 [3].優れた文章。

※14:天の逆鉾(あまのさかほこ)とは、[1].降魔の呪術として、鉾を逆さに立てたものか。播磨風土記逸文「赤土(あかに)を出し賜ひき。その土(こ)を―に塗りて」。
 [2].「天の瓊矛(ぬほこ)」の後世の称
※14-1:天の瓊矛(あまのぬほこ)とは、(玉で飾った美しい鉾の意)日本神話で伊弉諾・伊弉冉の2神が、滄溟(あおうなはら)を探ったという鉾。神代紀上「―を以て指し下ろして探る」。

※15:磐境(いわさか)とは、(イハは堅固の意)神の鎮座する施設・区域。神代紀下「天つ―を起し樹てて」。

※16:厳瓫・厳瓮(いつへ)とは、(イツは神聖・厳粛の意。ヘは容器)神聖な土器。主として神酒(みき)を盛り、祭祀に用いる。〈神武紀訓注〉。

※17:顎門う/顎う/腮う/鰓う/噞喁う(あぎと/あぎと)う、とは、(顎(あぎと)を動詞化した語)
 [1].(幼児が)片言を言う。垂仁紀「皇子の鵠(くぐい)を見て―ふこと得たりと」。
 [2].(魚が)水面で口を開閉する。神武紀「魚皆浮き出でて水のままに―ふ」。
※17-1:顎門/顎/腮/鰓(あぎと)とは、[1].(あご)。
 [2].魚の鰓(えら)。
 [3].釣針の針先の内側に逆向きに付けた尖った鉤。逆鉤

※18:水俣病(みなまたびょう)とは、有機水銀中毒に因る神経疾患。四肢の感覚障害・運動失調・言語障害・視野狭窄・震えなどを起こし、重症では死亡する。1953~59年に水俣地方で、工場廃液に因る有機水銀に汚染した魚介類を食したことに因り集団的に発生。64年頃に新潟県阿賀野川流域でも同じ病気が発生(第二水俣病)。
※18-1:水銀中毒(すいぎんちゅうどく、mercury poisoning)は、水銀、又は無機・有機水銀化合物に因る中毒。無機水銀金属水銀中毒は多くは慢性で、口内炎、震え、皮膚・腎臓の障害などを来すが、昇汞(じょうこう)は飲むと激しい急性消化管損傷・腎尿細管壊死(えし)・尿毒症を来して致死的。有機水銀中毒にはフェニル水銀中毒(農薬中毒)メチル水銀中毒とが在り、後者は神経系を侵し水俣病として知られる症状を来す。

※19:空海(くうかい)は、平安初期の僧(774~835)。我が国真言宗の開祖讃岐の人。灌頂号は遍照金剛。初め大学で学び、後に仏門に入り四国で修行、804年(延暦23)入唐して恵果(けいか)に学び、806年(大同1)帰朝。京都の東寺・高野山金剛峯寺の経営に努めた他、宮中真言院や後七日御修法の設営に依って真言密教を国家仏教として定着させた。又、身分を問わない学校として綜芸種智院(しゅげいしゅちいん)を設立。詩文に長じ、又、三筆の一。著「三教指帰」「性霊集」「文鏡秘府論」「十住心論」「篆隷万象名義」など。諡号は弘法大師
※19-1:高野聖(こうやひじり)は、[1].高野山の聖人(しょうにん)。平安末期に名誉や利益を嫌った僧が俗世間を逃れ、不断念仏を願って高野山に集まったのに始まる。<出典:「学研新世紀ビジュアル百科辞典」>
 [2].中世、勧進の為に高野山から諸国に出向いた下級僧。行商人と成り、悪僧化した者も在る。
※19-2:三教指帰(さんごうしいき)は、空海の著。3巻。797年(延暦16)成る。儒・道・仏の3教を対話形式で比較し、仏教を最も優れたものとする。「聾瞽指帰(ろうこしいき)」はその稿本。
※19-3:金剛峯寺(こんごうぶじ)は、和歌山県の高野(こうや)山上に在る高野山真言宗の総本山。816年(弘仁7)空海の創立だが、伽藍は没後完成。東寺と共に真言宗の中心寺院。平安末期以後、空海の入定処として多くの参詣者を集め、大師信仰・納骨信仰の中心

※20:山師(やまし)は、[1].山の立木の売買、鉱山の採掘事業などを経営する人。山主。山元。
 [2].山事(やまごと)をする人。投機などをする人。又、他人を欺いて利得を図る人。詐欺師

※21:最澄(さいちょう)は、平安初期、日本天台宗の開祖(767~822)。近江の人。受戒後の785年(延暦4)比叡山に入って修行、法華一乗思想の中心として一乗止観院を建立。804年(延暦23)入唐、天台教学等を学んで翌年帰朝、天台宗を設立した。晩年は天台宗独自の大乗戒壇建立を主張して南都諸宗と対立したが、没後に実現。著「顕戒論」「守護国界章」「山家学生式」など。866年(貞観8)伝教大師と諡(おくりな)し、日本の大師号の初め。叡山大師・根本大師・山家大師とも言う。

※22:アマルガム(amalgam)は、(ギリシャ語の「柔らかい物質」に由来)水銀と他の金属との合金。鉄・白金・タングステン・ニッケル・マンガンなどの高融点金属との間には出来難い。汞和金(こうわきん)。
※22-1:アマルガム法(―ほう)は、水銀を用いて金・銀を抽出する方法。金銀鉱石を水銀に接触させてアマルガムを作り、これを蒸留して金又は銀を回収する方法。金・銀の製錬に古くから用いられ、比較的粗粒の鉱石に適する。混汞法。

※23:大峰(おおみね)は、奈良県吉野郡十津川の東の山脈。最高峰は八剣山(仏経ヶ岳)1915m。重畳して和歌山県熊野に及ぶ。昔は、金峰山(きんぷせん)の頂上と考えられた。修験道の根本霊場
※23-1:大峰先達(おおみねせんだつ)は、度々大峰に入って修行の功を積んだ人。
※23-2:大峰聖(おおみねひじり)は、大峰で修行する修験者。

※24:原質(げんしつ)とは、元の性質。元と成っている物質。

※25:水星(すいせい、Mercurius[ラ], Mercury)は、太陽系の惑星の一。太陽に最も近く、日没直後又は日の出直前、短時間だけ見える。楕円軌道を持ち、太陽からの距離は4千6百万~7千万km。88日で太陽を1周。質量は地球の約18分の1。赤道半径は2千4百km、衛星・大気は無い。辰星

※26:ヘルメス(Hermes)は、ギリシャ神話の神。ゼウスとマイアとの子。幸運・富裕の神として商売・盗み・競技の保護者で在り、同時に旅人の保護神でも在った。霊魂を冥界に導く役目を持つ

    (以上、出典は主に広辞苑です)

【参考文献】
△1:『日本の神々 神社と聖地6』(谷川健一編、白水社)。

△2:『新編 日本古典文学全集5-風土記』(植垣節也校注、小学館)。

△3:『日本書紀(一)』(坂本太郎・家永三郎・井上光貞・大野晋校注、岩波文庫)。

△4:『魔術師の饗宴』(山北篤と怪兵隊著、新紀元社)。

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鵲森宮と「美しい日本文化研究所」
(Kasasagi-Morinomiya and Elegant JPN culture)


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