−− 2005.02.18 エルニーニョ深沢(ElNino Fukazawa)
2005.02.25 改訂
今年も「美しい日本文化研究所」恒例の「近畿地方の一の宮初詣で」に行って参りました。今年は播磨国一の宮・伊和神社です。1月23日(日)の肌寒い日でしたが、お酒を飲み温泉に入れば寒さも「何の其の」です。
午前9時に森之宮神社前を出発したチャーター・バスは中国自動車道を通り、途中加西IC(インターチェンジ)で20分程休憩し、私はここで私恒例の”朝蕎麦”を戴きました。旨かった、寒い朝は特に旨い!
[ちょっと一言] 私は寒い朝に乗用車やバスで遠くへ出掛ける時は途中で暖かい日本蕎麦を食うのをほぼ恒例にして居ます。これを食べると体が温まって宜しいのです。
。
それから中国自動車道を少し進み福崎を過ぎ山崎ICで国道29号線(旧因幡街道)の緩い登り道を揖保川に沿ってくねくねと北上して行くと、前方の山の頂や民家の日陰に薄らと雪が見え出しやがて「宍粟(しそう)郡一宮町」という道路標識が見えて来ました。一の宮が地名に成ってるんですね。すると間も無く右手(国道の東側)に道の駅「いちのみや」の駐車場が在り、国道を隔てて西側に伊和神社の石の鳥居が見えて居ます。予定通り11時前に到着しました。
伊和神社の在る兵庫県宍粟郡一宮町は、農業と林業が中心で黒大豆や手延素麺(※1)などを生産、面積約214ku、人口約1.1万で、人口は若干減少傾向に在ります。
では先ず伊和神社の参拝から始めましょう。
伊和神社(宍粟郡一宮町須行名(すぎょうめ))の鎮守の杜は姫路の北北西、四方を山に囲まれた盆地の中に浮島の様に鎮座して居ます。国道から杉の大木が繁る表参道を西に進み随神門を潜ると左手に、即ち南側に拝殿が見えます(左下の写真)。拝殿の奥には幣殿が在り、その奥に本殿が在ります(右下の写真)。つまりここは神社建築には珍しい北向き社殿なのですが、その理由は後述します。そう言えば03年に越前国一の宮・気比神宮を訪れた際に寄った武生市の大塩八幡宮も北向き社殿でしたね。
嘉永5(1852)年に神域が全焼する以前は出雲大社と同じ妻入様式だったのが、文久2(1862)年の再建時に現在の入母屋造(元来は寺院建築様式)に変わって仕舞った様です(△1)。
左が拝殿隣室に飾られた絵馬で、太鼓が設置されて居ます。16弁の菊花紋も見えます。
神社由緒書に拠ると主祭神はこの地方で伊和大神(いわのおおかみ)と称される大己貴神(※2)で、他に少彦名神(※2−3)と下照姫神(※2−4)が祀られて居ます。【脚注】に在る様に要するに国津神の総元締めとされる大国主命とその縁者です。民間信仰では大国は「ダイコク」と音読みされることから七福神の大黒天とも同一視され、今では何でも御座れの福の神に成って居て、御利益を売る神社側にとっては誠に都合の好い神様です。
しかし伊和大神は記紀には登場せず『播磨国風土記』(※3、※3−1)にだけ登場し、『風土記』ではこの神が播磨国を経廻り、揖保・宍禾(宍粟)・讃容(佐用)3郡の国占め・国作り・国巡りの英雄としてその地名起源説話のキーマンに成って居ますので、西播磨地方の豪族を神格化した神と考えられます。と同時に『風土記』はこの神が出雲から遣って来たとも記して居ますので、或いは出雲の大己貴神(=大国主命)を掲げて侵入して来たのかも知れません。
この神社の創祀は成務天皇甲申歳二月十一日丁卯(=144年)、そして社殿の創建は欽明天皇甲申歳(=564年)の鶴石伝説(後述)に由来すると伝えられ、何れも甲申の年である点に何か意味が有りそうですが不詳です。
平安初期の「延喜式神名帳」には伊和坐大名持御魂神社(いわにいますおおなもちのみたまかみやしろ)と在り、播磨国一の宮として名神大社に列せられ、明治期には国幣中社に成って居ます。
境内摂社として五柱社・市杵島姫神社・播磨十六郡神社・御霊殿、境外摂末社として庭田神社(一宮町能倉)、与位神社(山崎町与位)、邇志神社(波賀町皆木)、安志姫神社(安富町安志)などが在ります。
又、南北朝時代に播磨守に任ぜられた新田義貞(※4)が足利尊氏を追討する為に当社に祈願し、梵鐘や義貞の甲冑や寄進状・古文書類が約200通程保管されて居ます。又、地元の赤松氏や江戸時代の歴代藩主より産業興隆神として崇められて来ました。
◆鶴石伝説
左下の写真が本殿の裏に鎮座して居る鶴石です。鶴石はコンクリートの柵で囲まれ、脇に謂れを刻んだ石柱が立って居ます(中央下の写真)。そして右下は幣殿の廊下に置かれて居た鶴の像です。ここで鶴石伝説をご紹介しましょう。
++++ 鶴石の謂れ ++++
欽明天皇の甲申の歳(=564年)、この地方の豪族・伊和恒郷に「我を祀れ」との御神託が有り、一夜の内に杉や檜が群生して多くの鶴が舞い、その中の大きな白鶴が2羽この石の上に北向きに眠って居たのでその跡に北向き社殿を造営したのが当社の起源という伝承で、その為この鶴石を降臨石とも呼びます。
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この伝説に従えば伊和大神=伊和恒郷という事に成り、確かに境内摂社の御霊殿には恒郷が祀られて居ます。『播磨国風土記』に神格化された伊和氏はこの地方を治めた豪族で、神社の記録に拠れば天平宝字2(758)年、伝説の伊和恒郷の後裔と考えられる伊和恒雄が神領を寄進した最初の人物で、或いはこれがこの神社の創建かも知れません。
神社創建の謂れを秘めた鶴石こそこの神社の性格を体現した霊石で境内の磐座空間であり、最も神聖な場所です。
一夜にして杉や檜が生えたという鎮守の杜は現在約5.5万uを有します。
左が境内摂社の市杵島姫神社、即ち弁天さんです(祭神の市杵島姫命は宗像三女神の一人ですが、後に弁財天と同一視されます)。現在は4月10日に近い日曜日に春季大祭と兼ねた弁天祭(理由は後述)が行われます。
右は境内の夫婦杉で、一つの根から2本の太い幹が生えて居ます。
◆地名及び神名の「伊和」の由来
伊和神社の鎮座地を古くは「伊和の村」「伊和の里」と言いましたが、その由来を『播磨国風土記』は
伊和の村。本(もと)の名は神酒(みわ)なり。大神、酒(みわ)をこの村に醸(か)みたまふ。故(か)れ、神酒(みわ)の村と曰(い)ふ。又、於和の村と云ふ。大神、国作り訖(を)へて以後、云(の)りたまひしく、「於和。我が美岐(みき)と等し。」とのりたまひき。
と記して居ます(△2のp93)。つまり
神酒(みわ) → 伊和(いわ)
於和(おわ) → 伊和(いわ)
の2つの説を併記して居ます。「神酒」説は大和の三輪と同様な由来で、「於和」説は「おおっ」という様な感嘆の声からの由来です。何れにせよ地名由来であると同時に神名由来でもある訳です。
◆地名「宍粟(しそう)」の由来
宍粟郡については『風土記』は、伊和大神が国作りを終えて国境を定める為に山河を巡って居る時に、舌を出して歩いて居る大鹿に出会い、「矢はその舌に在り」と宣ったので「宍禾(しさは)の郡」と名付け、村を「矢田の村」と名付けた、と記して居ます。この文は一部省略が有る様で意味が通らない部分が有りますが、多分伊和大神が射た矢が大鹿の舌に当たったのだと解釈されます(△2のp84)。兎に角
舌(した) → 宍禾(しさは=しさわ) → 宍粟(しそう)
という変化で現在に至って居ます。「禾(のぎ)」の字源はアワ(粟)や稲の穂先の毛のことで、広くは穀物一般を指す様です。
神社を去る前に国道29号線に面した表参道入口の鳥居の前で全員の記念写真をバスの運転手に撮って貰いました。ハイ、チーズ!!
◆伊和神社の祭礼と磐座信仰
上の表参道入口の鳥居の左上方に一つ山祭の謂れを書いた大きな看板が在り、下にその写真を載せますのでお読み下さい。
当社には特筆すべき珍しい祭が3つ存在しますので、最後にそれをご紹介しましょう。
1番目は毎年二百十日の1週間程前に行われる風鎮際です。これは夜に境内の900余りの土器(かわらけ)に油を注ぎ灯火を点し、幻想的な雰囲気の中で台風シーズン前に風を鎮める祭で、別名を油万灯祭とも呼ばれて居るものです。
そして2、3番目が60年に1度の甲子(きのえね)の年に行われる三つ山祭(三つ山:花咲山[北]・白倉山[東]・高畑山[西]の伊和三山)と、その臨時祭として20年に1度行われる一つ山祭(一つ山:宮山(みやま)[東北])で、これこそは古代の磐座信仰を今に伝える神事です。
冒頭で伊和神社を「四方を山に囲まれた盆地に鎮座」と記しましたが、周囲の山々は何れも聖山であり磐座信仰の対象だったのです。では一体どんな祭を行うのか?、と神社の方に伺った所、凡そ次の様な内容です。
両祭礼共、事前に山の神祠の周りを清め神紋菊(前述)入りの白旗を立てたりしますが、今は祭礼当日には山には登りません。三つ山祭では通常のお旅所である神社西方の揖保川の「ばんない淵の河原」で伊和三山の磐座を祀る神事を執り行います。一つ山祭では宮山に近い小丘上のお旅所「篳篥(ひちりき)の宮」から神祠を遥拝します。そして両祭礼共元々は4月10日頃に行う春の祭でしたが、現在では毎年の秋季大祭日に重ねて行うのだそうです。
その秋季大祭は毎年10月15(宵宮)・16日(本宮)に行われ、本宮の日には4基の飾り屋台(=ダンジリのこと、播州では「屋台」と呼びます、※5)が宮入りをして、境内の杉木立の中で勇壮に「練り」を行います。この例祭では昔は「ばんない淵の河原」で白鹿の生け贄に捧げたそうです(△1のp17)。
10月と言うとあの「灘のけんか祭」(松原八幡神社/姫路市)や「坂越船祭」(大避神社/赤穂市)や「甲山の屋台祭」(甲八幡神社/姫路市)など、姫路や播州では祭の多い月でもあります。
4月10日頃と言うと現在は前述の摂社・市杵島姫神社の弁天祭が春季大祭と兼ねて行われて居る日ですが、この日が嘗ての(=本来の)「一つ山」「三つ山」祭の名残で、大正13(1924)年甲子の三つ山祭から現在の様に成ったそうです。そこで直近の「一つ山」「三つ山」祭の行われた年と今後の予定年を記して置きましょう。
|→ 今後の予定
一つ山祭 1967 1984 2004 | 2024 2044
(本来は1964) |
|
三つ山祭 1924 1984 | 2044
甲子 甲子 | 甲子
|
フーム、三つ山祭が行われる年は一つ山祭と重なる訳ですね。私は前述の伊和神社創祀の伝承が何れも甲申の年だったので、三つ山祭は甲申の年ではないかと思っていたのですが、それには関係無いそうです。
次の三つ山祭前には私はアノ世(=地獄)に行って居るでしょう。次の一つ山祭迄に阪神タイガースは優勝するでしょうか?、ところで阪神のフランチャイズ・甲子園球場は1924年の甲子(きのえね)の年に完成したのがその名の由来っせ!!
◆伊和神社周辺の古代遺跡について
伊和神社周辺は古くから人が住み着き栄えていた所で、周辺には以下の様な考古学的遺跡が点在して居ます。
・家原遺跡:宍粟郡一宮町北部の御形盆地を一望出来る河岸段丘の上に営まれた、縄文時代から中世に掛けての大規模な複合遺跡です。この地は古くより山陽と山陰を結ぶ交通の要衝でした。『播磨国風土記』で「宍禾郡御方里(みかたのさと)」と記された所で、遺跡の北方約600mの地点には本殿が国重文の式内社・御形神社(みかたじんじゃ)が在ります。
・伊和中山古墳:伊和神社東方の丘陵地に約20基が点在する古墳群。1号墳は4世紀末頃の前方後円墳(全長約60m)で、被葬者は「伊和君」又は「石作首」(後述)との繋がりが指摘されて居ます。
・銅鐸の出土:伊和神社西の閏賀(うるか)の西山山腹から明治41(1908)年に銅鐸1個が出土。
これらは『播磨国風土記』の英雄・伊和大神を祖神とする伊和氏一族の居住を示唆する有力な”状況証拠”です。
右の写真は帰りのバスの窓から撮った国道29号線沿いを流れ下る揖保川の風景で、中央に三角形の頂上を覗かせているのが一つ山祭の聖山の宮山です。
揖保川は兵庫県南西部を南流する全長約71kmの川。中国山地の若杉峠付近に源を発する引原川(ひきはらがわ)が、一宮町で三方川(みかたがわ)と合流して揖保川と成り、姫路市南西部で播磨灘に注いで居ます。
この後は昼飯、即ち斎(いみ)を終えた後は直会(※6)を戴きます。着く迄は車中でビールです、アッハッハ!
昼食は飾磨郡夢前町の「夢前亭」です。左下の写真が入口で、中は田舎風に演出された庭園に各種の庵と露天風呂が配置され、宿泊も出来ます。結構お客で賑わって居ましたね、今の時代「田舎を売る」のは戦略の一つだと思います。私はふと九州の「やまめ山荘」を思い出して居ました。
料理は地鶏料理が名物で、私たちは地鶏の味噌焼きとお造りや山菜料理をセットにした籠盛り料理(右上の写真)とワインを戴きました、旨かった!
そして締めは温泉、初詣で心を清めた後に温泉で体を清めることは”物の道理”です。左が夢前亭のトルマリン露天風呂で寛ぐ私。マイナスイオン・遠赤外線・微弱電流を発生するというトルマリン(※7、※7−1)なる石が袋に入って沈んで居ます。
まあ、食い物でも温泉でも、こういう成分や効能書は所詮”ノーガキに過ぎない”と高(たか)を括っている私は、要するに「気持ち好いかどうか」だけで判断します。温泉はやはり寒い冬の露天が好いですね、外気は寒いが湯の中は暖かい、という落差の大きさがタマラナイのです。
ところでこの温泉、私の背後の左手に通路が在り、単に「立ち入り禁止」と書いて在りました。禁じられると入ってみたく成るのが俗世間の人間の性分、私がちょろちょろとチン入して行きますと何とそこは女湯の入口でしたゾ、しかし誰も入ってません・で・し・た。逆にこの男湯は外から覗ける構造に成ってまして女性たちがキャアキャアと嬌声を上げて居ました。まあ、これも温泉の良い所です。
夢前町は昭和30年(1955)7月1日に鹿谷・置塩・菅野の3村が合併して誕生しましたが、その際『古今和歌六帖』(※8)の
うつつには さらにもいはず 播磨なる
ゆめさき川の ながれてもあはん
紀貫之
という歌に基づき、夢前川の名を冠して千余年前の名前を復活させたのです。町興しに「夢」を託す意味も有ったのかも知れません。因みに「夢現(ゆめうつつ)」と言われる如く、「うつつ」で始まる歌にはこの歌の様に「夢」が織り込まれるのが通例で、これを古典の決まり事、或いは「型(かた)」と言います。
夢前町は現在人口約2.2万で稲作や果樹・野菜・タバコ栽培などの農業が中心です。その夢前川は、雪彦山の裾の熊部辺りに源を発し塩田温泉郷、書写山円教寺の山裾を通り青山で菅生川と合流して姫路市広畑から瀬戸内海に注いで居ます。町花は桜だそうで春の花見の季節も宜しいし、又、夢前川上流では初夏の鮎も宜しいでしょう。
♪夢前良いとこ、一度はおいで〜♪
\(^O^)/ ...気持ち好かった〜!!
さて揖保と言えば「揖保乃糸」と呼ばれる「そうめん(索麺・素麺)」(※1)が有名ですが、この後再び山崎迄戻り揖保川沿いに南下して龍野市神岡町の揖保乃糸資料館「そうめんの里」に寄り、手延べ素麺を作る工程を見学しました。私が面白いと思ったのは、説明員の女性がここには素麺神社が近くに在り(「そうめんの里」から白い石の鳥居が見えました)、それは「三輪素麺」で有名な奈良県三輪の大神神社(おおみわじんじゃ)から三輪明神を勧請したとのことで、やはり「三輪素麺」が”本家”だったのです。
素麺と冷や麦(※1−1)の違いは、素麺は本来こうして手延べで引き伸ばし天日で乾燥させた乾麺 −今では工場で機械延べと機械乾燥で生産された製品が多い− なのですね、対して冷や麦は細饂飩。又、素麺の方が冷や麦より細いのです。乾麺はパスタと同じですが、古くは中国の索餅(※1−2)が素麺のルーツと考えられて居ます(『Microsoft エンカルタ総合大百科』より)。
竜野は今は行政上は「龍」の字の龍野市と書きますが、ここは揖保川下流域に位置し元は脇坂氏5万石の城下町でした。産業としては他に醤油が有名で、関東の野田地方の醤油はここから派生して居ます、つまり醤油ではここが”本家”です。
そして竜野と言えば、詩人・歌人の三木露風(※9)の生まれ故郷で、
♪夕焼小焼の赤とんぼ 負われて見たのはいつの日か♪
という童謡の「赤とんぼ」の里(※9−1)としても知られて居ます。
この後バスは竜野ICから山陽自動車道を通って18時頃森之宮神社前に到着。バスの中で私はビールを飲んで何事も無かった様にずっと寝てました。寝る子は育つ、私は”不健康不良児”ですゾ、ウァッハッハッハッハ!!
私はこの伊和神社訪問記を書く為に色々と調べて来ましたが、疑問が解決する所か益々深まって仕舞いました。その疑問を大きい順に列記すると
[1].伊和大神と「岩」との関係。「伊和」は「岩」ではないか?
[2].伊和大神を部族神とする伊和氏は鹿トーテム部族ではないか?
[3].白鶴の伝説に由来する北向き社殿。「北」に何か有るのでは?
というものです。これについては説明を要する部分が有るので以下に述べましょう。
(1)「岩」について
『播磨国風土記』は既に記した様に、「神酒(みわ)」説と「於和(おわ)」説を挙げていて、私はそれを否定はしませんが、それよりも単純に伊和大神と「岩」との結び付きの方が強いのではないか?、と思えます。その根拠は
a.鶴石伝説や今に残る「一つ山」「三つ山」祭の磐座祭祀。又『風土記』の宍禾郡から移り住んだ伊和氏支族の飾磨郡伊和部(いわべ)の14の丘は明らかに磐座(△2のp33)。
b.『風土記』の「石作の里。本(もと)の名は伊和なり。」の記述(△2のp89)。伊和の里には石作首(いしつくりのおびと)に率いられた石工集団が居たことを記して居ます。
c.伊和大神の子に「石竜比古(いわたつひこ)」「石竜比売(いわたつひめ)」「建石敷(たけいわしき)命」、孫に「大石命」など、子孫に「石(いわ)」の字が付く神名が多い。「オオナムチ」という発音に幾通りもの漢字が当てられて居る様に(※2)、古代に於いては漢字の字義よりも音(おん)に重点が有るので、「伊和(いわ)」は「石=岩=磐=巖(いわ)」に通じると考えられます。
(2)鹿トーテムについて
a.祭礼で嘗ては鹿を生け贄にして居た。
b.『風土記』に於いて、既に見た宍禾(しさわ)の地名由来の様に伊和大神の行く手に鹿が良く出現する。
(3)北向き社殿について
北向きの意味の重要性については【参考文献】△1のp16でも指摘して居ますが、私は
a.伊和氏が出雲出身かどうかは疑わしいが、伊和氏の本貫地が北に在る。つまり北から移動して来た為先祖の方を向いている。
b.伊和神社周辺の古代遺跡との関連、特に北に在る家原遺跡との関連。
c.真北に在る伊和三山の一つ・花咲山との関連。
の可能性に注目して居ます。
以上が現在私が抱いている疑問ですが要は、古代伊和氏一族とは何者か?、という問題に集約されると思います。
さて、例に拠って「結び」の言葉で終わるハズでしたが、益々謎は深まるばかりです。今の心境を歌にすると
あな不思議 結び結べぬ 伊和神社 白鶴白鹿 磐座の謎
月海
ですね。「白鶴」「白鹿」は酒の銘柄ではありませんゾ!
以上の様な訳で、この疑問を解く為、私は先ず「一つ山」「三つ山」祭の御神体山の神祠やお旅所に行ってみたいと思って居ます。
【脚注】
※1:索麺/素麺(そうめん)とは、(サクメン(索麺)の音便)小麦粉に食塩水を加えて捏ね、これに植物油を塗って細く引き伸ばし、日光に晒して乾した食品。茹で又は煮込んで食する。和風の麺類では最も細い。奈良県桜井市三輪が発祥地と言われ、1年以上経って引き伸ばしに使う油の臭さの抜けたものが良いとされる。<出典:一部「学研新世紀ビジュアル百科辞典」より>
※1−1:冷麦/冷や麦(ひやむぎ)とは、細打ちにした饂飩(うどん)を茹でて冷水で冷やし、汁を付けて食べるもの。饂飩よりも細く素麺よりは太い。季語は夏。<出典:一部「学研新世紀ビジュアル百科辞典」より>
※1−2:索餅(さくべい)とは、唐菓子の一。小麦粉と米の粉とを練って、縄の形に捻じって油で揚げたもの。陰暦7月7日に瘧(おこり)除けの呪(まじな)いとして内膳司から禁中に奉り、又、節会の時、晴れの御膳に供した。麦縄(むぎなわ)。
※2:大己貴神/大穴牟遅神/大汝神(おおなむちのかみ)とは、大国主命の別名。大名持神(おおなもちのかみ)とも。
※2−1:大国主命(おおくにぬしのみこと)は、日本神話で、出雲国の主神。素戔嗚尊の子とも6世の孫とも言う。少彦名神と協力して天下を経営し、禁厭(まじない)・医薬などの道を教え、国土を天孫瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)に譲って杵築(きずき)の地に隠退。今、出雲大社に祀る。大黒天と習合して民間信仰に浸透。大己貴神・国魂神・葦原醜男(あしはらしこお)・八千矛神(やちほこのかみ)などの別名が伝えられるが、これらの名の地方神を古事記が「大国主神」として統合したもの。古事記の「因幡の素兎」の話は有名。
※2−2:大黒天(だいこくてん)は、七福神の一。頭巾を被り、左肩に大きな袋を負い、右手に打出の小槌を持ち、米俵を踏まえる。我が国の大国主命と習合して民間信仰に浸透、「えびす」と共に台所などに祀られるに至る。
※2−3:少彦名神(すくなびこなのかみ)は、日本神話で高皇産霊神(たかみむすびのかみ)(古事記では神産巣日神(かみむすびのかみ))の子。体が小さくて敏捷、忍耐力に富み、大国主命と協力して国土の経営に当り、医薬・禁厭(まじない)などの法を創めたと言う。
※2−4:下照媛・下照姫(したてるひめ)は、(古くはシタデルヒメ)記紀神話で大国主命の女(むすめ)、味耜高日子根命(あじすきたかひこねのみこと)の妹、天稚彦(あめわかひこ)の妃。天稚彦が高皇産霊神に誅せられた時、その哀しみの声が天に達したと言う。
※3:播磨国風土記(はりまのくにふどき)は、古風土記の一。1巻。713年(和銅6)の詔に基づいて播磨から撰進された地誌。文体は常陸風土記などよりも素朴。
※3−1:風土記(ふどき)は、713年(和銅6)元明天皇の詔に依って、諸国に命じて郡郷の名の由来、地形、産物、伝説などを記して撰進させた、我が国最古の地誌。完本に近いものは出雲国風土記のみで、常陸・播磨の両風土記は一部が欠け、豊後・肥前のものは可なり省略されていて、撰進された時期も一律では無い。他に30余国の逸文が現存。文体は国文体を交えた漢文体。平安時代や江戸時代に編まれた風土記と区別する為「古風土記」とも言う。<出典:一部「学研新世紀ビジュアル百科辞典」より>
※4:新田義貞(にったよしさだ)は、南北朝時代の武将(1301〜1338)。1333年(正慶2)鎌倉に入って北条氏を滅ぼし、左兵衛督に任ぜられる。36年足利尊氏を九州に走らせたが、東上した尊氏を兵庫に防いで敗れる。恒良(つねよし)親王・尊良親王を奉じて越前金崎城に拠るが、陥落。再挙をはかったが藤島に戦死。
※5:檀尻/楽車/山車(だんじり)は、関西・西日本の祭礼の曳物。太鼓をのせ、車輪を付けて引いたり、担いだりして練って行くもの。東京地方の山車(だし)・屋台に同じ。浄、夏祭浪花鑑「留主の間へ―でも持つて来たな」。物類称呼「屋台、...大坂及西国にて―と云」。
※6:直会(なおらい)は、(ナオリアイの約。斎(いみ)が直って平常に返る意)神事が終って後、神酒・神饌を下ろして戴く酒宴。又、その下ろした神酒・神饌。
※7:トルマリン(tourmaline)とは、電気石の内、透明で美しいもの。複雑な組成の珪酸塩鉱物の為、化学組成に依って無色・赤・黄・緑・青・紫・褐色・黒など、多様な色彩を持つ。一つの結晶名で複数の色を持つものも在る。
※7−1:電気石(でんきせき)は、硼素・アルミニウムなどを含む珪酸塩鉱物。三方晶系、柱状結晶で、柱面に著しく縦の条線が有る。色は化学組成に依って異なり、ガラス光沢乃至は樹脂光沢を持ち不透明乃至は半透明。透明で美しいものは宝石と成る。
※8:古今和歌六帖(こきんわかろくじょう)は、類題和歌集。6巻。編者に紀貫之・貫之の女(むすめ)・具平親王・兼明親王・源順(したごう)などの諸説が在るが、未だ定説は無い。成立は後撰集と拾遺集の間とする説が有力。天象・地儀・人事・草虫木鳥の25項を細分、517の各題に相当する和歌を掲げる。六帖。古今六帖。紀氏六帖。
※9:三木露風(みきろふう)は、詩人・歌人(1889〜1964)。本名、操。兵庫県竜野市生れ。1907年(明治40)相馬御風らと早稲田詩社を結成、「白き手の猟人(かりゅうど)」で神秘的な象徴詩を完成した。他に「廃園」「幻の田園」、童謡「赤とんぼ」など。
※9−1:童謡「赤とんぼ」は、1918年に鈴木三重吉に依って創刊された児童文芸雑誌「赤い鳥」に依る新しい童謡運動に露風が参加した成果で、作曲は山田耕筰。
(以上、出典は主に広辞苑です)
【参考文献】
△1:『日本の神々 神社と聖地2』(谷川健一編、白水社)。
△2:『新編 日本古典文学全集5−風土記』(植垣節也校注、小学館)。
●関連リンク
@参照ページ(Reference-Page):二百十日について▼
資料−「太陽・月と暦」早解り(Quick guide to 'Sun, Moon, and CALENDAR')
@横顔(Profile):「美しい日本文化研究所」について▼
鵲森宮と「美しい日本文化研究所」
(Kasasagi-Morinomiya and Elegant JPN culture)
@横顔(Profile):磐座研究会や温泉や大神神社について▼
日本磐座岩刻文字研究会(Megalith and ancient sign club)
延喜式神名帳について▼
2004年・出雲大神宮の御蔭山(Mikage-yama, Kyoto, 2004)
磐座信仰についての私見▼
2003年・年頭所感−感謝の心を思い出そう!
(Be thankful everybody !, 2003 beginning)
「田舎を売る」商法の例▼
2003年・福岡&大分食べ歩る記(Eating tour of Fukuoka and Oita, 2003)
成分や効能書に高(たか)を括る「不健康不良児」の心▼
私の健康論−不摂生は健康の母(My healthy life)
索餅や饂飩について▼
2004年・鯉幟の町−加須市(Kazo and carp streamer, Saitama, 2004)
私がアノ世で地獄に行く理由▼
エルニーニョ深沢とは何者か?!(Who am I ?)