-- 2003.10.29 エルニーニョ深沢(ElNino Fukazawa)
2005.09.14 改訂
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2003年10月21日(火)~24日(金)迄、つまり03年の日本シリーズで福岡ダイエー・ホークスが甲子園で我が阪神タイガースに連敗して居る間、私はホークスの本拠地に乗り込んで来ました。博多を起点に大分県の湯布院を中心に、大分県臼杵そして福岡県小石原村から甘木市と廻りました。旅程を以下に略記します。
21日(火):博多に入り明太鰯、モツ鍋、キムチを食す。
22日(水):大分県湯布院に宿泊し、地鶏焼きとだんご汁とステーキを食す。
23日(木):大分県臼杵で河豚のコースを食し、博多に帰りラーメンを食す。
24日(金):福岡県小石原村でやまめ料理、甘木市でスペアリブを食し、帰阪。
博多に着いた21日の夜、早速飲み処の中洲に行き川端の屋台で名物の明太鰯 -鰯の腹を裂いて明太子を詰め焼いて食う物- やバブル崩壊直後に全国的に流行ったモツ鍋を食って力(りき)を入れ、中洲のダイエー・ホークスのファンと野球談義をしました。
→ 博多の中洲の地図を見る(Open the map of Fukuoka)
その後も食ってばかりでしたが、人間生きて行く為には先ずは「食う」こと、「食う為に生きる」を宣言して居る私は、秋の味覚を只管(ひたすら)食い捲ったのでした。表題を「食べ歩き」ではなく「食べ歩る記」としたのは「食って書き撒くっている」からです。
(1)久大本線の風景
21日(火)の夜は博多で先ず温泉に入り、ガンガン食ってガンガン歌って、22日(水)の朝はやや二日酔い気味で湯布院に向かいました。
→ 九州北東部の地図をみる(Open the map of North-East Kyushu)
10:28 ゆふいんの森3号 12:38
博多 ---(鳥栖)--> 由布院
特急「ゆふいんの森3号」は中々良かったですね、各車輌に女性の美形の客室乗務員を添乗させ、通過する風景の説明や記念写真やらとサービス満点でした。
久留米駅を過ぎると列車は東に折れ久大本線(別名:ゆふ高原線)に入りますが未だ福岡県、進行方向右手、即ち南側に長閑な稜線を見せる耳納山地沿いに進みます。「耳納」は「みのう」と読み「水縄」とも書きますが、耳納山にはその昔、牛鬼という怪物が出没したのを金光上人という有徳の僧侶が退治しその耳を納めたという伝説が在り、牛鬼の手首のミイラが麓の石垣山観音寺に今も保管されて居るそうです。
やがて大分県に入り天ヶ瀬駅を過ぎ杉河内駅の直ぐ近くには左の写真の慈恩の滝(大分県日田郡天瀬町)が在り、列車は速度を落として呉れました。この滝は2段に成っていて、今写っている上方にもう1段在ります。「慈恩」の名は昔この地方で悪事を働く大蛇の病を旅の僧が治したらそれ以後悪さを止めた、という伝説に由来します。鬼やら大蛇やら、この辺りは魑魅魍魎の棲息地(※1~※1-2)の様です。
そして右上が豊後森駅近くの切り株山(大分県日田郡玖珠町)で、田園の中に切り株の様に逆光のシルエットが見えて居ました。
(2)大分県湯布院
然う斯うする内に列車は久大本線の由布院駅 -建築家・磯崎新設計- に到着、ここは大分県大分郡湯布院町です。
→ 湯布院の地図を見る(Open the map of Yufuin)
「由布」と「湯布」、二通りの書き方が有り何だか紛らわしいですが、読みは両方共「ゆふ」です。これは1955年に由布院町と湯平村(ゆのひらむら)が合併して湯布院町に成ったからで、それ迄の田舎温泉が現在の様にオシャレな観光地に変貌したのは、合併後の1959年に湯布院町内の全温泉が国民保養温泉に指定されたからで、それに64年の「やまなみハイウェー」開通が拍車を掛けました。現在は「阿蘇くじゅう国立公園」の一角を占めて居ます。
従って合併以後の命名や町全体を指す場合には「湯布」が、合併以前の名前には従来の「由布」が付されて居ますが、やがて1世代(=約20年)経た頃には温泉イメージと直接結び付く「湯布」に統一されて仕舞うだろう、と私は予測して居ます。「ゆふ」にはもっと深い意味が有るのですが、それは後で述べることにします。
[ちょっと一言] 国民保養温泉地の指定は1954年から環境庁(現環境省)が指定する制度で、指定を受けるには温泉の効能・湧出量・温度・温泉地の環境など所要条件を満たす必要が有ります。湯布院町の様に合併直後に指定を受けた事は、優良温泉地として「御墨付」を与えられた形に成り全国的な知名度を高めました。
駅の傍には観光用のレトロな辻馬車が係留されて居ました(左の写真)。
駅の東からメインストリートの由布見通りが北東に伸び、その名の如く通りの真正面に湯布院町のシンボル・由布岳の頂上の二瘤が顔を覗かせて居ます(右の写真)。こういう光景は何処かで見たなと思ったら、中国の麗江がそうでした。
由布見通りを北東に進むと、右手に宇奈岐日女(うなぎひめ)神社の鳥居(右下の写真)が車道を跨いで居ます。
神社はこの鳥居を潜り南東1km位 -途中で大分川に架かる「城橋」を渡る- の所(川上字六所2220)に鎮座して居ますが、時間の関係で行けませんでした。
その昔、この辺り一帯は大きな湖で宇奈岐日女が力持ちの蹴避(けさき)権現に命じて湖の底を蹴破って湖が盆地に成った、という由布院盆地発祥伝説を秘めた神社です。御祭神は国常立尊(※2)、国狭槌尊(※2-1)、彦火火出見尊(=山幸彦で神武の祖父)、鸕鷀草葺不合尊(うがやふきあえずのみこと、=神武の父)、神倭磐余彦尊(=神武天皇)、神渟名川耳尊(=綏靖天皇で神武の子)の六柱で、通称「六所宮」と呼ばれる旧式内社です。末社の一つの大杵社(おおごしゃ、川南746)には国指定天然記念物の大杉が在ります。
宇奈岐日女は湖の主としての鰻(ウナギ)の化身、蹴避権現は古代の相撲力士の当麻蹴速(※3)を連想させます。しかし神社名から言えば古来は宇奈岐日女が祀られて居た筈ですが、宇奈岐日女の名は現在の祭神中には無く代わりに天地開闢や大和建国の神々の名が列せられて居て、唐突感は否めません。実はこの様な神社は他にも在ります、ココをクリックして下さい。これは由布岳が古くから山岳信仰の対象に成り、その女人禁制思想の影響が有ったと推測されます(六柱は全て男神)。
ところで、湯布院町の”結束の固い”町創りの陰には合併前の1952年の白滝川ダム建設計画で由布院盆地が埋没し掛けたことを知る人は今日殆ど居ません。宇奈岐日女が湖を盆地にし人が住める様にしたいう謂れを持つ所を、高度成長の権化である土建・金権・利権の力で再び湖底に沈めようとした訳で、罰当たりな話です。地元の人には是非とも宇奈岐日女神社を大切にして貰いたいですね。
左の写真は大分川支流に、アーチ状木橋の蛍観橋が架かる湯の坪川が合流して居る様子です。名前の通り5月~7月半ばには、蛍観橋から湯の坪川上流の源氏蛍の光の乱舞が見られるそうです。
この合流点近くに在る宿にチェックインし荷物を置いて、先ずは昼飯に出掛けました。大した距離では無いので駅の方に戻り地鶏屋を探して地鶏の刺身と地鶏焼きを食い日本酒を飲んで腹拵えです。
帰りには湯の坪街道を歩きました。由布見通りの1本南側の裏通りを2001年4月に湯布院観光のメッカとして”新装開店”させた通りです。アートっぽさを気取った土産物屋が立ち並ぶ通りはメディア戦略も当たり、大いに賑わって居ます。車で来てここだけ寄るミーハーな日帰り組が圧倒的多数で、結局この混雑が好きなんですねミーハーは。しかし私はそんな物には一切興味無し。
湯の坪街道でこんにゃく田楽を頬張りだんご汁をすすってたら猫に出会いました。右の黒トラ[♂]です。猫の奥に写っているお土産物屋のガラス戸の前に座り鳴いて居ました。尻尾の先が折れ曲がった猫で、私が傍へ行くと寄って来て「戸を開けて呉れニャン」と言いました。
この猫については「ノラ猫狂詩曲」のも登録しました。
私はこの喧騒を離れる為に、近くに中央児童公園(川上字新町1)を見付けたので、逃げ込みました。すると右下のD51型1032番のSL(蒸気機関車)の実物が置かれ、子供が二人遊んで居ました(右下の写真)。型番プレートの拡大にはD511032と在ります。
デゴイチの愛称を持ち日本SLの代名詞とされるD51型は、貨物牽引用に1936~45年間に1115輌と、大量に製造され全国に配置されました。
説明板に拠ると、D511032は1944年9月29日に三菱重工業(株)で製造された過熱タンク機関車(炭水車付き)で、1944年9~56年12月は門司機関区、56年12月~74年4月は南延岡機関区で活躍しました日豊本線電化で引退、1976年大分機関区に移され当地に静態保存されましたが、”野晒し”状態です。
総重量78t、最高運転速度85km/h、最大出力1200馬力です。
尚、SLの型式番号の詳細についてはココをクリックして下さい。
{D51の詳細は大井川鐵道(=大井川鉄道)のSL動態保存に触発されて05年9月14日に追加}
左下がSL運転席の計器類(右下の写真)です。
右下はこの公園のトイレですが、流石は”九州の軽井沢”を標榜して居るだけ在って、トイレも和風に渋くデザインされて居ます。
その後、由布見通り北側の緩やかな山裾を登り佐土原の方へ登ってみました。途中下の写真の様な由布岳(標高1584m)の雄大な姿を見ることが出来ました。ご覧の様に火山性の双耳峰ですが、大分市から見ると双耳が一つに重なり、「豊後富士」と呼ばれる如く富士山型に見えます。私は翌日大分に向かう列車の窓からその姿の変容を確認しました。
由布岳の美しい姿を眺め、ここで暫し小休止をし「由布(ゆふ)」の地名に想いを馳せました。この時、付近の道端の柿の木から柿をもいで食ったら大変旨かったことも正直に記して置きましょう。
ところで、「ゆふ」の地名は古人(いにしえびと)がここで木綿(ゆふ)(※4)を作っていたのが起こりで、それが由布(ゆふ)に変化したのです。今の由布岳は「木綿の山」と呼ばれて居ました。『万葉集』にも
巻7-1244(雑歌)
未通女(をとめ)らが はなりの髪を 木綿の山
雲なたなびき 家のあたり見む 詠み人知らず
未通女を「をとめ」と読む感性は実に素晴らしい!{このリンクは04年1月10日に追加}
巻10-2341(冬相聞歌)
思ひ出づる 時は術(すべ)なみ 豊国の
木綿山雪の 消(け)ぬべく思ほゆ 詠み人知らず
と詠まれて居ます(△1)。
一方、『豊後国風土記』速見郡の条 -由布院盆地は嘗ては速見郡に属して居ました(後述)- には「柚富(ゆふ)の郷」と記されて居ます(△2のp302)。
この郷の中に、栲(たく)の樹多(さは)に生(お)ふ。常に栲の皮を取りて、木綿(ゆふ)を造る。因りて柚富(ゆふ)の郷と曰ふ。
木綿(現代読みでは「ゆう」)は楮(こうぞ)(※5)から作る繊維で、栲(たく)も楮の古名です。従って昔この辺りは楮(こうぞ)の産地だったことが解ります。又『風土記』では由布岳のことを「柚富(ゆふ)の峰」と呼び、頂上に大きな石室(いわや)が在りその中の氷は夏でも解けない、と記して居ます。
更に「柚」を字義通りミカン科の「ユズ」(※6)と解釈すると現在の状況に当て嵌まります。ここは今はユズの産地で地元の土産物屋でも柚を使った和菓子や柚胡椒などを売って居ます。何れにしても火山灰の土壌で米作には適さず、米で年貢を納めていた時代は苦労した様です。
(-_*)
さて暫し休憩した後、又少し登ると牛の牧場が在り数頭の牛が居て、右の写真の様に牧草を差し出すと寄って来て食べました。耳にはカウベル(cowbell)を付けて居ます。フーム、これが豊後牛か、旨そうですね!!
湯布院の牧場は由布岳裾野にゴルフ場計画が持ち上がった時に、土地買収に対抗する為の「牛一頭牧場運動」に始まって居ます。そう言えば、ここにはステーキを食って由布岳に向かって叫ぶ「牛喰い絶叫大会」が有りましたね。他にゆふいん音楽祭や湯布院映画祭も人気ですが、これらは皆1975年4月21日の直下型地震から復興の為に考案されたイベントです。この地は阿蘇から連なる火山地帯、慶長豊後地震を始め昔から何度も大地震に見舞われて居ます。
この近くには陸上自衛隊駐屯地が在り、その上方奥の並柳地区には県内最大規模のキリシタン墓地(川上716) -内57基が十字墓- が在りますが、時間が無く行けませんでした。豊後はキリシタン大名・大友宗麟(※7)が治めた地で安土・桃山の最盛期には村人の半数近くが入信し、外人宣教師が由布岳の頂上に十字架を立てたそうです。
更に登って行くと川上鳥越辺りの温泉宿やペンションなどが見え、近くでは湯煙が立ち上って居ます。そして見付けたのが左の写真の温泉の湧き出し口で、柄杓が置いて在り飲める様です。
付近には二・二六事件の際、戒厳令司令官を務めた香椎浩平の旧別荘を保存した香椎荘(川上3015)も在りましたが、私は腹が減ったので店に入り蕎麦を食って降りました。
再び町に戻ると観光用の人力車がお客を乗せて走って居ました(右の写真)。
★これは後で知ったのですが、人力車は地元の運営では無く、「えびす屋」(※8)などの外部資本の経営らしいです。湯布院町の町創りは同じ県で歓楽街として古くから有名な別府温泉との差別化と、もう一つは前述のダム資本やゴルフ場資本などの外部資本との闘いでした。人力車の場合はダムやゴルフ場の様に地元の環境を後戻り出来ない形に変えて仕舞う訳では無いので、地元の観光方針との共存は可能だと思いますが、今後の成り行きはどうなるでしょうか?!
{この部分は03年12月28日に追加}
この後私はレンタサイクルを湯の坪街道の床屋の太田さん(ここのご主人はとても感じの好い方でした)で借り、サイクリングをしました。”演出過剰な湯の坪街道”を避け、蛍観橋から小川(=大分川支流)に沿って御幸橋辺り迄ゆっくり走りました。左下が小川から眺めた夕映えの由布岳です。春にはこの川沿いに桜が咲くそうです。
この小川には足の悪いガチョウと子鴨が親子の様に泳いで居ました(右下の写真)。餌を遣りに来ていた地元の小母さんに訊くと、このガチョウは7年位前に足を傷めて遣って来て、その儘ここに住み着いて居るそうです。小母さんは「こんな動物でも互いに助け合って生きている姿が可愛いくてねえ」と話して居ました。
この後、左下の写真の金鱗湖(きんりんこ、川上字弓矢)に行きました。湖底には温泉と冷泉が湧き冬でも水温が高く、これが由布院盆地の朝霧の発生源の様です。湖畔には「下ん湯」と呼ばれる共同露天風呂(左下の写真の右下方の藁葺きの家屋の所)が在ります。背景の山裾の湯煙が2筋上がっている辺りが先程登った所で、長閑(のどか)な眺めです。
しかし湖と言うには小さく「池」です、事実昔から「岳下(たけもと)の池」と呼ばれて居ました。「金鱗湖」の謂れは、鶴崎の儒学者・毛利空桑という人が明治17(1884)年に「下ん湯」に浸かり池を眺めていたら鯉が跳ね、その鱗が夕日を浴びて金色に光った、と説明板に書いて在りました。
又、池の辺(ほとり)には右下の写真の天祖神社(川上字弓矢)が鎮座して居ます。
御祭神は天御中主命(※9)・素戔嗚男命(※9-1)・軻遇突智命(※9-2、※9-3)・事代主命(※9-4)で、景行天皇12年、速津媛に勅して皇祖霊神を祀ったのが創祀、という素朴な祠ですが、祭神はほぼ出雲系が主体です。
ここで速津媛(はやつひめ)については知って置いた方が良いでしょう。『豊後国風土記』速見郡の条には、景行天皇が熊襲退治(※10)の為に九州を訪れた時に速津媛はこの地方の女酋長をして居て、自ら天皇を迎え出てこの地に「土蜘蛛」(※10-1)と呼ばれる服(まつろ)わぬ原住民が居ることを告げると、その情報を基に天皇軍は「土蜘蛛」一派を滅ぼし、因ってこの地を「速津媛の国」、後の人改めて「速見の郡」と呼んだ、と在ります(△2のp300~301)。当時(4世紀頃)の速見の郡は朝見・八坂・大神(おおが)・山香・由布の5郷で、今の大分県速見郡を含み更に由布院盆地から田野迄及んで居ました。
ところで、この近くの「亀の井別荘」には与謝野鉄幹と晶子が逗留したことが有り、2人は天祖神社脇に今も残る柳を織り込み
山影の 池青くして 片岸に 白き裏葉 かへす銀柳
鉄幹
われは浴ぶ 由布の御嶽の 高原に 銀柳の葉の 散り初めし秋
晶子
という歌を残して居ます。
この日の夕食は牧場の牛たちの顔を思い出し乍らステーキを食いました。翌朝、盆地独特の冷え込む朝に散歩をしましたが、気持ち好か!
古人に「雲なたなびき」と詠まれた通り、今も由布岳頂上には雲が掛かり易く、早朝にそれを確認出来ました。由布岳は一度登ってみたいですね、そして頂上に在るという石室を見てみたいですね。
石仏で有名な臼杵ですが、23日(木)は湯布院から臼杵へ河豚を食いに行き、再び博多泊まり。
10:03 ゆふ1号 10:46
由布院 -----> 大分
10:58 にちりん5号 11:36
大分 -------> 臼杵
【この間に河豚を食い、臼杵城跡を見学】
15:05 にちりん10号 15:39
臼杵 --------> 大分
15:45 ソニック40号 17:59
大分 --------> 博多
→ 臼杵市の地図を見る(Open the map of Usuki city)
(1)臼杵で河豚を食う
左が往きに大分から乗った日豊本線の特急「にちりん5号(RED EXPRESS)」です。30分ちょいで臼杵に到着、右が臼杵駅ホームの河豚マークの乗車位置指示板、やはり臼杵は”河豚所”(※11)なのです。
で、どういう”河豚所”かと言うと、下関は素人が行く所、臼杵は通(つう)が行く所なのです。呼び方も下関では「ふぐ」は不具(ふぐ)に通じるということで福に通じる「ふく」と発音しますが、臼杵はそんな事に拘泥らず「ふぐ」。
「不具」だろうが「福」だろうが、私はタラフク食いまっせ。因みに、上の河豚マークに描かれているのは最も美味と言われるトラフグですね。
JR臼杵駅で降り、北東に向って海添橋を渡り左手に赤い鳥居が見えたら左折し暫く行くと、この日フグ(河豚)を食した料亭「山田屋」さん(臼杵市臼杵港町本通5)です(左下の写真)。明治38(1905)年創業の老舗で、ケイコとか言うタレントの生家らしいですね。
そして右上の写真の様に真っ昼間から美人に酌をして貰い、鰭酒(私が右手で掲げているヤツ)を飲み乍ら、豊後水道で獲れた「河豚のコース」を皮ゆびき、鉄っさ、肝、空揚げ、鉄っちり&雑炊と食い進んで行くのは、堪らんばい!!
ところで、こちらではたれの醤油がドロッと成る迄肝を入れ大分特産のカボス(※6-1)を搾り込み、これに大皿の「鉄っさ」を付けて食べます。面白いものですね「所変われば品変わる」で、昨日の湯布院では柚茶や柚胡椒などと何でも柚(※6)でしたが、大分やこの臼杵ではカボスです。因みに大阪では酸橘(すだち)でっせ(※6-2)。
それともう一つ。大阪の人間は河豚の刺身を「鉄っさ」、河豚の「ちり鍋」を「鉄っちり」と言いますが、これは「当たったら死ぬ」という意味で河豚を鉄砲に掛けている洒落でっせ。しかし死んだら洒落もヘチマもあらしまへんがな!!
えっ、私の隣の美人は誰かって?、「山田屋」の女将(おかみ)です!、良かオナゴたい!
(2)豊後臼杵城
たっぷりと河豚を堪能した後は臼杵城跡(臼杵市祇園南区)の見学です。料亭から先程来た道を戻り、左側に稲荷社の鳥居の見える階段(左下の写真)を登って行くと、直ぐに本丸跡に出ます。
本丸跡から東方の埋立地の向こう側には海が見え、嘗ての海城の面影を少しだけ偲ぶことが出来ます(右下の写真)。写真で海上に椀を伏せた様に見える島が津久見島です。
この城は元々は臼杵湾に浮かぶ丹生島に大友宗麟(※7)が永禄5(1562)年に、中国地方の毛利氏と南の島津氏に備え且つ海上貿易の基地として築いた海城で、城の周囲は海だったのです。別名を丹生島城とも亀城とも呼ばれ東側本丸と西側二の丸に区画され、両曲輪に土橋を渡す構造で、往時は本丸には3層の天守閣が在ったということですが、天正14(1586)年島津氏に攻められ落城。
その後福原直高(6万石)・太田一吉(3万5千石)を経て、慶長5(1600)年に稲葉貞通が5万石で入封し改築、明治に至り廃藩。明治10(1877)年、西南戦争で西郷軍と戦い落城して居ます。
現在は城の周囲は埋め立てられ護国神社が建ち県指定史跡として臼杵公園に成り、櫓2基、空堀、石垣が残存して居ます。嘗ての武家屋敷などの町並みも一部保存されて居ます。
15時5分発の帰りの列車迄あと約30分、私は海を眺めた後、急ぎ足で城跡を一周しました。
左が北側の眺望です。臼杵小学校の背後の諏訪山上には真っ白な仏舎利塔(※12)が建って居ます
これは日蓮宗日本山妙法寺の藤井日達山主(※13)が日本の敗戦後世界平和を祈願して、世界に仏舎利塔建立運動(Peace Pagoda)を展開した一環として、1974年に釈迦生誕日の4月8日に臼杵市諏訪に建立したもので、マハトマ・ガンディーの秘書長をして居たカカ・カレルカル博士のインド語の刺文が刻まれて居るそうです。この仏舎利塔は遠くからでも目立ち、臼杵に向かう列車の中からも見えて居ました。
そして西側には残存する石垣(左下の写真)と2001年に再建されたばかりの大門櫓(右下の写真)が在ります。
この後特急で福岡に帰る途中の列車の中で睡眠、中洲ではさっぱりした刺身と松茸ご飯、そして醤油ラーメンを食いました。
(1)福岡県小石原村
24日(金)は帰阪の日ですが、大阪には夜中に着けば良いのでこの日も目一杯廻ることにしました。先ずは朝の散歩を兼ね博多っ子の台所・柳橋の市場へ買い物。博多ならではの鰯明太などを買いました。
そして午前11時、知り合いの運転で福岡県朝倉郡小石原村へ山女(やまめ)(※14)を食いに行きました、小石原村は人口約1、300の山村です。
→ 小石原村の地図を見る(Open the map of Koishibara village)
車は国道3号を南へ向かい、福岡空港、太宰府、二日市と過ぎて行き甘木市に入り、そこから東に折れ小石原川(筑後川の支流)沿いに遡って行きます。車に乗ること2時間やっと目指す「やまめ山荘」(小石原村塔ノ瀬)に着きました。ここは「福岡の奥座敷」という雰囲気たっぷりで、福岡県以外の方には間違い無く、そして福岡県在住者にとっても恐らく秘境と言える所です。
左が門に掛かる大きな「やまめ山荘」の表札。
右が山荘の佇まいです。山荘の中の囲炉裏でかっぽ酒(竹筒に入った燗酒)を飲み乍ら、自分たちで地鶏を炭火で焼き(左下の写真)、焼き山女や山女の「背ごし」(右下の写真)を食う醍醐味は格別です。
「背ごし」とは山女の刺身と思って下さい。活き山女の頭と尻尾を切り落とし、背骨を抜いた身を薄く直角に切った物で、これに薬味の柚胡椒を付け玉葱のスライスと一緒に食すのです。山女の身は薄橙色で、もう「旨い」の一言!!!
私は「背ごし」の身と一緒に出て来た頭と尻尾、焼き山女の骨も焼いて食って仕舞いました。つまり山女は残さず食った、という事に成ります。私に全身全霊を食われた山女は嘸かし本望でしょう!!
ここは「田舎の良さ」を見事に演出して個性を出して居る様に見えます。
帰りは国道211号を通り村役場横の道の駅「小石原」(小石原村大字小石原941)に寄り休憩。道の駅では自然薯と「飛鉋」「刷毛目」の小石原焼(※15)が目に付きました。小石原村は昔から「陶の里」と呼ばれた所です。先程の地名の「塔ノ瀬」も「陶の里」の訛りかも知れません。運転手兼案内人の話では、小石原焼の皿はトンカツの皿として良く用いられて居るそうですので、「食う」時は器にも気を付けましょう!
その後、左の写真の江川ダム(甘木市大字江川)で鴨が泳いで居るのを見乍ら小休止。このダムは1972年8月に完成し、福岡市と甘木市に水道用水、甘木市周辺に農業用水と工業用水を供給して居ます。
その後再び小石原川に沿って下りました。右が小石原川の風景です。小石原川は福岡県中央部宝珠山系に源を発し、筑後川中流部に流入して居ます。
この川では川海苔が採れ、その酢の物が川茸と呼ばれるこの地方の名物料理という話ですが、残念乍らこれは食べ逃がしました。
「やまめ山荘」には又来たいですね。
(2)福岡県甘木市
そして「食い納め」としてキリンビール(株)福岡工場近くの同工場が経営するビア・レストラン(福岡県甘木市大字馬田字上原)でスペアリブ(※16)をビールと共に食いました。
→ 甘木市の地図を見る(Open the map of Amaki city)
レストランの前は広大な花畑に成っていて、今は色取り取りのコスモス(秋桜)が咲いて居ました(左下の写真)。ここは甘木鉄道の太刀洗駅から徒歩10分の所だそうで、太刀洗駅と言うと湯布院に行く時通過した久本線の筑後草野駅や田主丸駅とそんなに離れて居ません。
右上の写真の2人がこの日の運転手兼案内人です。Thank You!!
(^O^)/
この後、博多のホテル迄送って貰い、預けて置いた荷物を受け取り、この10月から新設された新幹線「のぞみ」自由席で帰りました。
山女料理の項で述べましたが、出て来た料理で「食える箇所は全て食う」というのが私の流儀です。その心は「無残食即無後悔」、全て食えば即ち思い残す事も無し、という訳です。
今回は只管「食う」ことに全力投球した旅でした。御蔭で帰って来たら糞がよう出ました、「入れたら出す」...これも私の流儀、と言うより自然の道理でっせ!
左上の写真は湯布院の蛍観橋近くに居た白鷺、右の写真は甘木市のビア・レストラン入口に咲いていた花です。
ということで万事「目出度し、目出度し」、博多弁で「良か、良か」の旅でした、アッハッハッハ!!
私が福岡の中洲で福岡ダイエー・ホークスのファンに「擽(くすぐ)り」を入れたにも関わらず、阪神タイガースは王手を掛け乍ら福岡で連敗(←相変わらず勝負弱い)です。博多は福岡ダイエー・ホークスで熱く燃えて居ましたよ!
\(^O^)/
尚、このシリーズは、それぞれが独立した内容でページ毎に完結して居ます。[2003年・九州の旅]シリーズの他画面への切り換えは最下行のページ・セレクタで行って下さい。(Please switch the page by page selector of the last-line.)
【脚注】
※1:魑魅魍魎(ちみもうりょう)とは、山の怪物や川の怪物。様々の化け物。
※1-1:魑魅(ちみ)とは、[史記五帝本紀](「魑」は虎の形をした山神、「魅」は猪頭人形の沢神)山林の異気から生ずるという怪物。山の神。すだま。「―魍魎」。
※1-2:魍魎(もうりょう)とは、[1].水の神。
[2].山川の精。木石の怪。「魑魅―」。
※2:国常立尊(くにのとこたちのみこと)は、日本書紀の冒頭に記されて居る、天地開闢と共に最初に現れた神。国底立尊(くにのそこたちのみこと)。
補足すると、古事記で天地開闢の時に現れた神は天常立神(あまのとこたちのかみ)。
※2-1:国狭槌尊(くにのさづちのみこと)は、日本書紀中の「一書」に国常立尊の次に置かれて居る神で、国狭土尊 -大山津見神の子- とは別とされる。
※3:当麻蹶速/当麻蹴速(たいまのけはや/たぎまのくはや)は、伝承では垂仁天皇時代の人。相撲(角力)の祖とされる。大和国当麻に住み、強力を誇ったが、垂仁天皇の命に拠り出雲の野見宿禰と力を競べ、腰を蹴折られ殺されたと言う。
※4:木綿(ゆう)とは、(古文では「ゆふ」)楮(こうぞ)の皮を剥ぎ、その繊維を蒸し、水に浸して裂いて糸としたもの。主として幣(ぬさ)とし、祭の時に榊に付けた。
※5:楮(こうぞ)は、(カミソ(紙麻)の音便)クワ科の落葉低木。西日本の山地に自生し、繊維作物として各地で栽培。高さ約3mに達する。葉は桑に似て質はやや薄く粗い。雌雄同株。6月頃、淡黄緑色の花を開く。果実は赤熟、桑の実に似る。樹皮は和紙の原料。かぞ。かんず。伊呂波字類抄「楮、カウソ」。
※6:柚・柚子(ゆず、Chinese lemon)は、ミカン科の常緑低木。高さ約3m。中国原産。庭木、ミカン類の接ぎ木の台木とする。耐寒性が有る。枝幹、葉の付け根に刺が多く、葉は長卵形で有翼。夏、白色の小花を開き、花後、球形黄色のミカンに似た果実を結ぶ。果皮には疣(いぼ)状突起が有り、香気と酸味とを有する。果実・蕾は香味料用。浴用(=柚湯)などに利用。スダチは同類。ゆう。ゆ。<出典:一部「学研新世紀ビジュアル百科辞典」より>
※6-1:カボスは、ユズの一種。果実は酸が強く独特の風味が有る。果皮は緑色で、熟すと黄色に成る。大分県特産。
※6-2:酸橘・酢橘・醋橘(すだち)は、ミカン科ユズ類の常緑低木。果実はユズより小形、緑色の内に独特の香気と酸味を賞味する。香味料として賞用。主に徳島県で栽培。
※7:大友宗麟(おおともそうりん)は、戦国時代の武将(1530~1587)。名は義鎮(よししげ)。豊後の府内に居り、九州の内6ヵ国守護と成る。キリシタンに帰依して、南蛮貿易を盛んにした。
※8:えびす屋(―や)は、観光人力車を全国の観光地に展開して居るユニークな会社です。展開先は京都嵐山・京都市街・東京浅草・鎌倉・奈良・北海道小樽・九州門司・大分湯布院など。
※9:天御中主神(あまのみなかぬしのかみ)は、古事記で、造化の三神の一。天地開闢の初め、高天原に最初に出現、天の中央に座して宇宙を主宰したという神。中国の思想に拠る天帝の観念から作られたと言う。
※9-1:素戔嗚尊・須佐之男命(すさのおのみこと)は、日本神話で、伊弉諾尊(いざなぎのみこと)の子。天照大神の弟。「すさ」は「荒(すさ)ぶ」に通じ凶暴で、天の岩屋戸の事件を起した結果、高天原から追放される。反面、出雲国では八岐大蛇(やまたのおろち)を斬って天叢雲剣(あまのむらくものつるぎ)を得、天照大神に献じ国を守った。又、新羅に渡って、船材の樹木を持ち帰り、植林の道を教えたと言う。本地垂迹説では、牛頭天王の垂迹とされる。出雲系の祖神(おやがみ)。<出典:一部「学研新世紀ビジュアル百科辞典」より>
※9-2:軻遇突智命(かぐつちのみこと)は、迦具土神(かぐつちのかみ)。
※9-3:[火之]迦具土神([ひの]かぐつちのかみ)は、記紀神話で、伊弉諾・伊弉冉2尊の子。火を司る神。誕生の際、母を焼死させた為、父に切り殺される。火産霊神(ほむすびのかみ)。
※9-4:事代主神(ことしろぬしのかみ)は、日本神話で大国主命の子。国譲りの神に対して国土献上を父に勧め、青柴垣(あおふしかき)を作り隠退した。託宣の神とも言う。八重言代主神。
※10:熊襲(くまそ)とは、記紀伝説に見える九州南部の地名、又そこに居住した種族。肥後の球磨(くま)と大隅の贈於(そお)か。日本武尊の征討伝説で著名。景行紀「―反(そむ)きて朝貢(みつきたてまつ)らず」。
※10-1:土蜘蛛(つちぐも)とは、(「土雲」「都知久母」とも書く)神話伝説で、大和朝廷に服従しなかったという辺境の民の蔑称。
※11:河豚/鰒(ふぐ、globefish, puffer)は、この場合、(古くはフク)フグ目フグ科とその近縁の硬骨魚の総称。多くは体は肥り、背鰭(びれ)は小さく、腹鰭は無い。歯は板状で鋭い。攻撃されると、腹部を膨らますものが多い。肉食性。肉は淡泊で美味、冬が旬であるが、内臓などには毒を持つものが多い。マフグ/トラフグ/キタマクラ/ハコフグなど約50種が分布。肉はトラフグが最も美味で、刺し身/ちり鍋などにする。フグ毒の成分はテトロドトキシンで、中枢神経を麻痺させ死ぬことも在る。かとん(河豚)。ふくべ。ふくとう。ふくと。季語は冬。〈和名抄19〉。<出典:一部「学研新世紀ビジュアル百科辞典」より>
※12:仏舎利(ぶっしゃり)とは、釈尊の遺骨。仏骨。遺形(ゆいぎょう)。中国・朝鮮・日本の様に北方に伝来した大乗仏教は経文が中心だが、南方に伝来した小乗仏教(=上座部仏教)では仏舎利が最も尊ばれて居る。ジャワ島のボロブドゥール遺跡群も仏舎利塔です。
※13:藤井日達(ふじいにったつ)は、日本山妙法寺山主、平和運動家(1885~1985)。熊本県阿蘇の農家に生まれる。大分県立臼杵農学校に入学後、日蓮への関心を深め、1903年(明治36)臼杵の日蓮宗法音寺で得度、その後日本・中国・インドで日本山妙法寺を開く。戦争中インドで会ったマハトマ・ガンディーの非暴力・不服従の思想の影響を受け、黄色の僧衣に団扇太鼓を叩き乍ら「南無妙法蓮華経」を唱えて歩く平和運動を実践。南京大虐殺では遺体の処理に当たった。
※13-1:団扇太鼓(うちわだいこ)とは、一枚革を円く張り柄をつけた太鼓。日蓮宗で用いる。
※14:山女(やまめ)は、サクラマスの稚魚乃至は陸封魚の称。体側に黒色斑紋の並ぶ清楚な魚で、小朱点の無い所がアマゴと異なる。西南日本では上流域のみに陸封されるが、東北地方では雌の殆どが、北海道では雌雄が降海する。陸封魚は全長約20cm。美味。ヤマベ。エノハ。
※15:飛鉋(とびがんな)とは、化粧土を掛けた器をロクロで回転させ乍ら、トタンの切れ端を当て鉋傷を付ける装飾法。刷毛目とはロクロで回転する器の中心から外へ、刷毛に付けた釉薬を断続的に打ち模様を付ける工法。
補足すると、これらの装飾法や水車を利用した唐臼で陶土を挽く技法は、隣の大分県日田市の小鹿田(おんた)焼を、民芸運動家・柳宗悦やバーナード・リーチが「世界一の民窯」と紹介してから脚光を浴び、小鹿田焼の工法として有名に成りました。しかし、小鹿田焼の発祥は宝永2(1705)年に大鶴村の黒木十兵衛が小石原村から陶工を招き窯を開いたのが始まりで、元々は小石原で生まれた”一子相伝”の工法なのです。
※16:スペアリブ(spareribs)は、肉が少しだけ付いている豚の肋骨(あばらぼね)。
(以上出典は主に広辞苑)
【参考文献】
△1:『万葉集(上)』(佐佐木信綱編、岩波文庫)。
△2:『新編 日本古典文学全集5-風土記』(植垣節也校注・訳、小学館)。
●関連リンク
@参照ページ(Reference-Page):福岡県、九州北東部、大分県の地図▼
地図-日本・福岡県(Map of Fukuoka prefecture, -Japan-)
地図-日本・九州地方(Map of Kyushu region, -Japan-)
地図-日本・大分県(Map of Oita prefecture, -Japan-)
@参照ページ(Reference-Page):SLの歴史や型式番号について▼
資料-SL発達史と日本SLの型式番号(The history and naming rule of SL)
@参照ページ(Reference-Page):豊後地方の地震▼
資料-地震の用語集(Glossary of Earthquake)
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