−− 2003.12.05 エルニーニョ深沢(ElNino Fukazawa)
2005.03.24 改訂
※注意:このページは写真が多く、読込みに時間が掛かります。 ★−−−暫くお待ち下さい(Wait a minute)−−−★ |
★このページは<阪堺電車沿線の風景・その1>大阪編の続きです。ここから堺に入ります。
大阪編から引き続いて阪堺電軌阪堺線に沿って大和川を越え、堺市に入り御陵前迄、嘗ての自由都市・堺の街の風景を見て行きましょう。又この堺編と次の浜寺編では与謝野晶子の生い立ちと青春にも焦点を当てて居ます。
(1)大和川
大阪市住吉区の我孫子道駅を出ると約500mで大和川(※2)に差し掛かります。下の写真が阪堺電軌鉄道全線中最長の大和川鉄橋 −全長約190m、明治44(1911)年完成− を渡る阪堺電車の勇姿で、写真の左側が大阪市、右側が堺市です。阪堺電車の向こうに白く見えるのが遠里小野橋、見えませんが更にその向こうには南海高野線やJR阪和線が通っていて、私が立っている所が大和川鉄橋から一つ西の大和橋、私の背後には南海本線が通っている、というシチュエーション(=位置関係)です。背後左側の高層ビルは大阪市立大学の学術情報総合センターです。
しかしです、JRや南海は列車が数珠繋ぎに成って通過しますが(当たり前や)、我が阪堺チンチン電車のみが健気にも”たった1輌”で長い鉄橋を渡っている姿は力強く孤高です!!
阪堺電車はもう1ヶ所、浜寺地区の石津川鉄橋を渡ります。全線で鉄橋はこの2ヶ所だけです。
大和川を渡り切ると堺市に変わり、直ぐ大和川駅に着きます。
→ 堺の概略や地図を見る(Open the map)!
地図を見ると大和川駅(七道東町)の直ぐ東隣は遠里小野町です。遠里小野(おりおの)という地名は住吉区にも在りましたね、何故?
実は大和川は最初からここを流れて居たのでは無いのです、現在の川は江戸時代に柏原から真っ直ぐ西に放流する為に開削されたものです。それが「大和川の付け替え」と呼ばれる大工事で、新大和川には大坂と堺を繋ぐ為に大和橋(←現在の大和橋とほぼ同位置)が架けられました。詳しくは下のコラムをお読み下さい。
++++ 大和川の付け替え ++++
大和川は奈良県笠置山地の初瀬の渓谷に発し(初瀬川)、桜井市から北上し川西町で奈良市から南下して来る佐保川と合流して大和川と成り、飛鳥川・葛城川・高田川・富雄川・竜田川などを吸収して王子町を通り亀瀬(かめがせ)から大阪府柏原市に至り南河内からの石川と合流します。昔はここから東大阪低湿地帯(今のJR鴻池新田駅辺り)に向かい玉串川と寺川の2筋に分かれて北上して、森河内(今のJR放出(はなてん)駅辺り)で再び合流し(※2−1)、大阪城の東(今の城東区)で旧平野川を吸収して淀川に注いで居たのです。
大阪は湾近くが上町台地で土地が高く、東大阪(=河内)地方は生駒山に至る迄土地が低く古代に於いては元々河内湾だった地域で、後に河内湖→深野池(ふこのいけ)と成り江戸時代頃は深野池と新開池でした。そこへ前述の様に大和川の蛇行の為に大雨が降ると東大阪一帯は元の湖に復した様に水浸しに成り、又淀川下流も負荷が過大な為に沿岸は洪水に見舞われました。それを防ぐ為に柏原から真っ直ぐ西へ、つまり堺港の北に向かって放流する必要が有ったのです。それには河内今米村の庄屋・川中九兵衛と子の太兵衛・甚兵衛らの足掛け40年に亘る嘆願運動が開削地周辺の反対運動を押し切り、幕府が漸く聴き入れて宝永元(1704)年10月に完成しました。延べ244万人の人足を要したこの工事は僅か8ヶ月の超突貫で行われました(△1のp189〜193)。
同時に東大阪低湿地帯は約1千町歩の新田として開墾され、中でも鴻池家が行なった鴻池新田(1707年、約200町歩)は有名です。又、新大和川河口もその後に新田開発され文久3(1863)年の『堺絵図』には現在の国道26号以西に「松屋新田」「南嶋新田」「山本新田」「塩浜新田」などが見られ、その儘今の町名に成っている所も有ります(△2のp101)。
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何故?、の答えは新大和川が摂津国遠里小野の集落を分断した為でした。分断された両方の遠里小野を結んでいるのが、先程見た現在の遠里小野橋です。
(2)刀鍛冶から鉄砲、そして包丁へ
大和川駅の次が高須神社駅です。この辺りは鉄砲町などという名の町が在る様に、嘗て鉄砲鍛冶たちがポルトガル伝来の火縄銃を鍛冶打ちして居た地域です。現在鉄砲鍛冶の末裔たちは包丁を作り、全国のプロの板前や料理人たちの9割が堺の包丁を使っているそうです。鉄砲鍛冶も元々は刀鍛冶だった訳ですから、元の鞘に収まったということでしょう。
因みに戦国時代の鉄砲鍛冶のもう一方の雄、滋賀県長浜の国友鍛冶の末裔たち(=国友姓が多い)は鉄砲火薬の技術を生かし、今は花火職人に成って居ます、面白いですね!
ところで駅名に成っている高須稲荷神社(左の写真、砂道町1丁)も鉄砲鍛冶に縁の有る神社です。芝辻理右衛門という鉄砲鍛冶が慶長14(1609)年、徳川家康から命じられ我が国初の大筒(銃身1丈(約3m)・口径1尺3寸(約39cm)・砲弾1貫500匁(約5.6kg)の大砲)を造り、元和元(1615)年幕府よりこの高須の地を賜わりここに稲荷明神を勧請したのが縁起で、毎年11月8日には鞴祭(※3)が催されますが、【脚注】に在る様に何故か稲荷神が鞴祭を司る場合も有る様です。
次の綾ノ町駅を過ぎると専用軌道は終わり、堺市の南北のメインストリート・大道筋(だいどうすじ)に出て神明町駅に向かいます。それ迄が狭苦しい感じなので、幅50mのだだっ広くて真っ直ぐに伸びる大道筋に出るととても開放感を感じます。何でも大道筋は戦後の復興工事で中央緑地帯と片側3車線の道路に拡張され、昭和35(1960)年にチン電の線路を今の様に中央に持って来て現在に至っているそうです。
左右の写真は刃物職人の家です(大道筋沿いの神明町駅東辺り)。独特の造りの灯籠に「堺打刃物 (株)和泉利器製作所」と書いて在ります(左の写真)。
この職人の家は右の様に成っていて、独特の造りの灯籠の下方に
/\
「 ト 打物所」と大きな表札が在り、更には大きな鎌が店先に出て居ます。
職人の「拘泥り」が感じられます。
(3)堺の寺町と妙国寺
この神明町駅辺りから御陵前迄、大道筋の東の阪神高速15号堺線に沿って寺町が続きます。この寺町は嘗ての堺の豪商たちが私財を投じて仏教に帰依し、天下を夢見た「兵(つわもの)どもが夢の跡」です。何故、「夢の跡」なのか、それは最後迄お読み戴ければ解ります。この「夢の跡」こそ堺編の隠れたテーマなのです。
電車は次の妙国寺前駅へと進みます(→妙国寺の地図)。
左が国指定天然記念物の夜泣き蘇鉄と妙国寺(材木町東4丁)です、蘇鉄は裏庭に在ります。山号は広普山で日蓮宗です。創建は永祿5(1562)年、三好義賢が土地と蘇鉄を寄進したのが始まりで、この蘇鉄を信長が安土城に移植したら毎夜「堺に帰ろう」と泣いたので再び返された、という曰く付きの代物で、以来ここで見事に生き続けて居ます。
他にもこの寺には色々と纏わる話が多く、寺の創建に関わった日bが「安土問答(又は安土宗論)」に出て来る僧であり、本能寺の変の時、堺に逗留して居た家康がこの寺で茶を服した後伊賀を経て三河に逃げ帰った話、四国征伐の秀吉を援軍した大友宗麟がこの寺に泊まった話などが有ります。
堺に於ける妙国寺の様な日蓮宗の寺の建立は、天文法華の乱(※4)に因って天文5(1536)年に法華宗(日蓮宗も法華宗の一派)の寺が京を追われたのを契機として居ますが、元々は法華宗徒が京で暴れた法華一揆(※4−1)に端を発して居ます。
◆堺事件とは
ところで妙国寺は何と言っても堺事件(※5)の土佐藩士たちがここで壮絶な死を遂げた話は有名です。
++++ 堺事件と「土佐藩十一烈士之英霊」の碑 ++++
事の真相は徳川幕府最後の年の慶応4年(1868年は明治元年でもある)、堺に上陸したフランス人水兵たちが日本の女性を揶揄して騒ぎに成った所へ、当時堺の警備を担当して居た土佐藩士が駆け付け口論の挙句フランス人11人を殺害したことから事は外交問題に発展、責任を取らされた土佐藩士20名がここ妙国寺境内で切腹する事に成りました。土佐藩士たちは腹を切り勇敢にも内臓をフランス人目掛けて投げ付けたので、フランス側は度肝を抜かれて11人が切腹した所で中断し退散して仕舞ったという、侍魂溢れる事件でした。右が境内墓地に在る「土佐藩十一烈士之英霊」と刻まれた墓碑と十一烈士の氏名です。
ところで土佐藩士20名の内、切腹が中断された為に十一烈士に名を残すことが出来なかった9名のその後はどうなったのでしょうか?、私は寧ろこの方に興味が有りますね!
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これを書いた時私は思わず、これは「歴史の横漏れ」(←私の造語です)だ!!、と声を発して仕舞いました。その後、「土佐藩十一烈士」から漏れた9名について調べ纏めましたので、ここからリンクを張ります。何故声を発したかは▼下▼を読んで戴ければ解ります。
歴史の横漏れ(Spill sideways from history)
{このリンクは05年3月24日に追加}
余談ですが、この事件が切っ掛けで日本の公娼制度が整い、大阪川口の外人居留地の近くに松島遊郭(←戦後、今の松島新地に移転)が誕生した話を既にレポートして居ますので、興味有る方は参照して下さい。
更に余談ですが、私は政治家に対しては切腹復活論者ですよ。まぁ切腹は出来なくても、大幅に政策を誤ったり私利私欲に走ったら”小指の1本位は詰めて貰いたい”ですね、ブワッハッハッハッハ!!!
尚、この近くには堺奉行所跡や堺最大の木造建築の西本願寺堺別院なども在ります。
(4)堺ルネサンス
さて下が広い広い大道筋のド真ん中を悠然と走る我がチンチン電車です、カッコエエでっしゃろ。ここは花田口駅、背後の緑の林がザビエル公園(櫛屋町西1丁)です。
古墳時代以後、再び堺が歴史に登場して来るのは応永6(1399)年の応永の乱(※6)ではないでしょうか、この時は大内義弘(※6−1)が堺を火の海に包み約1万戸を焼いたと言われて居ます。そして堺が発展し脚光を浴びるのは、応永11(1404)年の足利義満の日明勘合貿易の条約締結で始まった遣明貿易船が、中央の争い(=応仁の乱)の影響で文明元(1469)年に堺に帰港した時以降です。貿易船の齎(もたら)す富に商人が集まり、それらの権益を独占しようと政治が乗り出し、その財力で街が整備され続々と寺院が建てられ、海外貿易と商業経済を基盤とした「自由と独立と進取」の気風が新しい文化を生み、やがて堺が日本の政治経済を動かす迄に成ったのです。15、6世紀は正に堺ルネサンス(→後で詳述、※7)とも言うべき時代でした。その一つの象徴がイエズス会(※8)の伝道師フランシスコ・ザビエル(※8−1)という訳です。
ザビエル公園は元は、天文19(1550)年に堺に来たフランシスコ・ザビエルを持て成した日比屋了慶の屋敷跡で、昭和24(1949)年ザビエル来堺400年を記念して命名されました。
左の写真がそれを顕彰するフランシスコ・ザヴィビエル芳しょく碑(「しょく」は「足」偏に「蜀」)です。碑には「是れ西洋文明伝来の始で近世日本文化は茲に花と匂った」と彫って在りますが、甘いですなあ、こういう考え方は。
イエズス会がこの時期世界の未開地域に積極的に神の尖兵たる宣教師を送り込んだ歴史的背景の中で、ザビエルが何の目的で遥々日本へ来たかは学者の見解も様々ですが、「伝道」や「文明伝達」の為だけに来たのでは無いのは確かでしょう。後のペリーの下田来航も同じですが、明治以降の極端な西欧カブレの弊害でしょうね。西洋文明の開化以前に殖民地にされて居たかも知れないんでっせ、何事も極端は行けません、「中庸の精神」ですね、私は。
さて、その文明ですが、ザビエルの頃は文明人たる彼等は”手掴み”で食事をして居たという事実をご存知ですか?
ザビエルより後に来日したルイス・フロイス(※8−2)は日本人が箸を使って食べるのに対し「われわれはすべてのものを手を使って食べる。」と記して居ます(△3のp92)。ヨーロッパにナイフとフォークが遍く普及したのは実に17世紀のことなのです!!{このフロイスの記事は05年3月24日に追加}
(5)国を分かつ大小路と「堺」の地名由来
さて次が大小路駅、ここが堺市の中心です。ここは南北の大道筋と東西の大小路の交差点です。大小路(おおしょうじ)は現在、西の南海本線堺駅と東の南海高野線の堺東駅を結ぶ東西のメインストリートです。
「さかい」の地名は、少なくとも寛徳2(1045)年以前に記された権中納言藤原定頼の歌集『定頼卿集』に
さか井と伝所にしほゆあみにおはしけるに
の「さか井」が初出です(△1のp95)。「しほゆあみ」については後述します。
左は堺東駅近くに在る堺市役所の展望ロビー(南瓦町)から西に伸びる大小路を写したものです(大小路の右側が北です)。
右は大小路の堺駅と堺東駅を頻繁に往復するシャトルバスで、ザビエル時代の自由都市・堺に居留して居た「南蛮人」を描かれて居ます。
大小路の名は南北朝時代(1331)頃に登場し、その南北の地名は
930年頃の『和妙抄』 1300年頃
北側:摂津住吉郡朴津(いなづ)郷 → 摂津堺北荘
南側:和泉大鳥郡塩穴(しあな)郷 → 和泉堺南荘
と変化しました。この様に大小路は明治に至る迄ずっと摂津国と和泉国を「分かつ道」であり、明治に入って漸く大和川を大阪と堺の境界に定めたのです。そして堺は摂津・河内・和泉3国(=摂河泉)の境に跨って在り、その名残として三国ヶ丘の地名や駅名も現存します。
(6)堺の神社
◆菅原神社
私はこれから大小路付近をチャリンコ(=自転車)で散歩しましょう。
右が大小路の北側に在る菅原神社(戎之町東2丁)の鳥居とその奥の楼門(※9、大阪府指定有形文化財)で、楼門とは2階建ての門で上層に手摺り付きの縁を巡らせた門のことです。
御祭神は菅原道真、天穗日命、野見宿禰ということで完璧に土師氏一統を奉って居ます(土師氏についての詳細は浜寺編の大鳥神社をご覧下さい)。他に境内には堺戎神社及び日本最古の薬祖神社が祀られて居ます。
又、都会の真ん中なのに初夏にはホタルが見られるそうです。
この神社は菅原道真自作の木像が堺の浜に打ち上げられたのを奉ったのが始まりとされる天神さんなのですが、町名は戎之町で地元では寧ろ堺戎(えべっさん)として親しまれて居るという不可解な神社です。この不可解さは「道真の木像が海から流れ着いた」とする伝承が、恰も「蛭子(=戎神)が海から流れ着く」蛭子伝説と酷似して居る所為だ、と私は勘繰って居ます。蛭子伝説についての詳細は又もや浜寺編の日本最古の戎神社を是非ご覧下さい。
◆開口神社
次に大小路の南側に行くと開口神社(あぐちじんじゃ)(甲斐町(かいのちょう)東2丁)が在ります(左下の写真)。
ここは嘗ては神仏習合で天平18(746)年、行基が念仏寺を建立し大同元(806)年に空海が宝塔を建てたので「大寺」と呼ばれて居ました。『大寺縁起絵巻』『伏見天皇宸翰御歌集』『短刀銘吉光』は国の重文です。
主祭神は塩土老翁神(※10)、他に素戔嗚神、生国魂神を祀って居ます。社名は主祭神の塩土老翁神が神功皇后の神饌を奉り初めて口を開いたという謂れに由来する、可なり古い式内社です。塩土老翁は山幸彦の話に登場したり、『日本書紀』神武紀にも「東に美き地有り」と語り神武天皇に東征を思い立たせた人物として登場する不可思議な神で、これぞ元祖”塩爺”です。
因みに”塩爺”とは小泉首相の番頭役を務めた塩川正十郎さんです。
塩土老翁神は又、全国の塩竈神社に祀られて居て、製塩や塩の霊に関係深い海の神と考えられます(△4のp352〜354)。そう思って境内を見渡すと朱の鮮やかな竈神社(左下の写真の境内摂社)が在りました。鳥居の扁額には「竈大神」と書かれて居ます(中央下の写真)。祭神は勿論、竈の神の奥津日子命(※11)で通称は荒神さんです(△4のp329〜331)。
右の写真は神社が塩に因んで「御清の塩」を授けている旨の貼り紙です。
開口神社は念仏寺を抱え町の中心に位置して参詣客で賑わい、海会寺(後出)も西門付近に建立されたり明治22(1889)年に市制に移行した当初は市役所がこの境内に置かれたり、「縁起」や「文書」も残り、堺を語る上で重要な神社です。今は境内の南側が山之口商店街(アスティ山之口)に連なって居ます。
左は開口神社南側に置かれた灯籠ですが、「曽呂利」と書かれて居ますが、堺で「曾呂利」は怪しい名です。後述する曾呂利新左衛門と何か関係が有るのでしょうか?
以上の様に、堺は平安中期(約1040年頃)には塩湯浴みの名所 −海水で温浴する塩風呂で行基が開いたとされる)− として記され、この辺りはその頃塩穴郷(しあなむら)と呼ばれて居ました(△1のp47、p95〜96)。
屹度この塩風呂も塩土老翁神に守護されて来たのでしょう。
(*_@)
(7)旧竹内街道に続くフェニックス通り
次が宿院駅、ここは大道筋とフェニックス通りとの交差点に在ります。
フェニックス通りは大道筋と直交する東西方向の道路の中では一番広い通りで、西は大浜公園へ、東は国道310号に続き仁徳陵古墳の後円端(北端)で大阪中央環状線と分岐します。環状線が昔の竹内街道に、国道310は昔の西高野街道にほぼ沿って在り、私たちを古代へ誘(いざな)います。特に竹内街道に沿って存在する仁徳陵古墳と応神陵古墳(応神は仁徳の父)の地理的意味付けが確かに有ることに気付かされます。
左の写真が宿院交差点からフェニックス通りの東方向を見た風景で、ご覧の様に写真右に写っている中央分離帯に名前の如くフェニックスが植えられて居ます。しかしそれよりも車線間の大きな石灯籠が目に付きます。この灯籠には「左海たむこ庖丁鍛冶」と書いて在ります。
フェニックス通りを少し東に行くと、通りの南側に駅名の元に成っている宿院頓宮(宿院町東1丁、右の写真)が在ります。小さなお宮で祭神は住吉大神と大鳥井瀬大神。堺は中世迄は住吉大社の神領だったのでこの辺りの神社は住吉大社との繋がりが深いのですが、中でもここは古くから旧暦6月晦日に住吉の神を迎える住吉行宮・御旅所としての役割を担い、頓宮の名の由来に成って居ます。屋根の千木が住吉大社と同じ形をして居るのを注意して見て下さい。でもこの辺りから浜寺編の和泉国一の宮・大鳥神社の影響も出て来ます。
今では7月31日に大鳥神社から、8月1日には住吉大社から神輿を迎え「荒和大祓神事」(あらにこのおおはらえ)を執り行なうそうです。住吉大神は海路平安の神なので、例大祭の日には全国から漁師たちが神前に鮮魚を献じて大漁と航海安全を祈願し、合わせて魚を大浜で販売したのが堺大魚夜市で、毎年7月31日の夜に開かれます(現在はザビエル公園で開催)。
大社の祭神の渡御、それを迎える頓宮と漁師たちの大漁祈願の祭という構図は、気比神宮と常宮の夏の漁師祭でも見られますよ。
(8)堺人の雄飛 − 与謝野晶子と千利休
◆与謝野晶子と近代日本の浪漫
大道筋に戻りフェニックス通りの北へ行くと、大道筋の西側の甲斐町(かいのまち)西1丁に「与謝野晶子生家の跡」の石柱(※12)と歌碑が在ります(左下の写真)。右下がその説明板に在る、明治初期の「住吉・堺豪商案内記」から採った晶子の生家・鳳(ほう)家の店と大道筋の絵です。歌碑には、晶子が23歳迄過ごした生家を想う歌
海こひし潮の遠鳴りかぞへつゝ
少女(をとめ)となりし父母の家
が刻まれて居ます。
晶子は維新間も無い明治11(1878)年12月7日、この地に在った菓子の老舗・駿河屋の鳳(ほう)宗七の三女に生まれました。「水晶の様に美しく在れかし」という願いを込めて晶子と名付けられましたが、男児出産を望んで居た父に疎んじられ2歳迄は里子に出されて居ましたが、2歳の時に後年「君死にたまふことなかれ」と歌われた弟・籌三郎(ちゅうざぶろう)が生まれ漸く実家に戻された、という経緯が有ります。この辺が何とも運命的ですね。
父の躾で幼い頃から漢詩に親しみ、宿院小学校から堺女学校に進みました。そして「敷島会」という堺の歌会のサークルに入り短歌に親しんだのは18歳頃でした。晶子の歌には良く琴とか三味線が出て来ますが、これも小学校時代から習わされ、父の蔵書で歴史や古典も身に付けました(この古典の教養が後に『新訳源氏物語』に結実する訳です)。そして家では帳簿付けや菓子製造も手伝い、夜は寝室に錠を掛けられた程厳しく躾けられました。「老舗(しにせ)」とはそういう所なのです。
良く晶子の詩や歌から、晶子自身の生き方自体が「自由奔放」とか「官能的」とか「時代を超えた」とか表現されて居ますが、彼女のバックボーンにはこうした”一見封建的”な厳しい「躾」が叩き込まれて居ることを、私は強調して置きたいですね、今の教育に一番欠如して居るのがこの「厳しさ」です。そういう「芯」が無いと、単なるアバズレ女(=ズベタ、ズベ公)に堕落するだけなんですよ。確か古関裕而も老舗の教育を受けて居ますが、今、嘗ての老舗の家庭教育を見直す時期に来ていると思いますよ。
そして明治33(1900)年8月、来阪した与謝野鉄幹(※12−1)と大阪北浜の平井旅館で歴史的対面を果たし、1年後の1901年8月、晶子23歳の時に処女歌集『みだれ髪』を刊行します。この年は晶子にとって一大転機で、10月には前妻・林滝野と離婚した鉄幹と結婚し、故郷を出て東京渋谷に居住します。
以上が『みだれ髪』刊行迄の経緯ですが、その中から私が好きな歌を幾つか挙げて置きましょう(△5のp8、10、16)。
やは肌の あつき血汐に ふれも見で
さびしからずや 道を説く君
ゆあみする 泉の底の 小百合花
二十(はたち)の夏を うつくしと見ぬ
春三月(みつき) 柱(ぢ)おかぬ琴に 音たてぬ
ふれしそぞろの 宵の乱れ髪 以上、晶子
そして歌の上でも実生活の上でも晶子に決定的影響を与えた鉄幹の代表作である新体詩「人を恋ふる歌」の冒頭部分も載せて置きましょう(△5のp119)。読めば誰でも一度は聴いた詩です。
妻をめとらば才たけて
顔(みめ)うるはしくなさけある
友をえらばば書をよんで
六分(りくぶ)の侠気四分の熱 鉄幹
ちょっと古臭い感じがしますね。それが仇に成り後年は晶子が経済的に支えて行く事に成ります。
ここで晶子の最も有名な詩『君死にたまふことなかれ』も挙げて置きましょう(△5のp125)。晶子の歌の理解者でもあった弟・籌三郎が24歳で日露戦争の戦地へ向かった時の詩で、1904年、夫鉄幹の主宰する「明星」 −近代日本の浪漫主義(=ロマン主義)の拠点的雑誌− に発表されたものです。
あゝをとうとよ、君を泣く、
君死にたまふことなかれ、
末に生まれし君なれば
親のなさけはまさりしも、
親は刃(やいば)をにぎらせて
人を殺せとをしへしや、
人を殺して死ねよとて
二十四までをそだてしや。 晶子
太平の時代に”平和”を唱える輩(やから)は大勢居ますが、敗戦の記憶を風化させつつ在るこれからの日本ではどうでしょうか?、私は戦時にこの非戦詩を発表した所に晶子の真価が有ると思って居ます。又、晶子のことを良く「自由奔放」と簡単に言いますが、「自分に忠実に生きる」という”単純な”生き方が、実は最も難しいのです、その為には確たる信念が必要ですから。この「単純こそ至難なり」をエルニーニョの単純性中定理と呼びますよ、ムッフッフ!
晶子は1911年に「元始、女性は実に太陽であった」で有名な平塚雷鳥(※13)の主宰する「青鞜社」の賛助者と成り、翌1912年には『新訳源氏物語』を刊行し、同年西村伊作が創立した文化学院(※14)の学監に成り、女性啓蒙家・教育者としても活躍します。
[ちょっと一言] 与謝野晶子は学院の創立に加わり、その設立趣旨を「貨幣や職業の奴隷とならずに、自己が自己の主人となり、自己に適した活動に由って、少しでも新しい文化生活を人類の間に創造し寄与することの忍苦と享楽とに生きる人間を作りたい」と述べ、「完全な個人を作ることが唯一の目的」と言い切って居ます。
2003年の今日、偏差値の垢に塗(まみ)れた高等教育が正に「貨幣や職業の奴隷」に堕して居るのを見ると、何たる卓見か!、と思わざるを得ません。1921年のことですよ。
その後、夥しい著作を世に出しますが、遂に1942年5月29日、64歳で死去。現在その西村伊作設計に成る多磨霊園の墓に鉄幹と共に眠って居ます、合掌!
(-_-)
_A_
しかし忘れて為らないのは、晶子が11人の子の母であったということです。ここが今時の舞い上がったギャルとは大違い、勘違いして貰っては困りまっせ!!
ところで晶子と鉄幹の恋愛成就には浜寺での出会いが大いに寄与して居るのですが、これについては浜寺編をご覧下さい。
晶子の詩歌碑は全国至る所に在り、日本の詩歌句碑に引用されて居る中でダントツに第1位です。従って私も通常は晶子の碑は割愛しますが、ここ生家跡の碑だけは外せません。そしてそういうポピュラリズムの中で表面的にしか理解されて無いので、敢えて長々と私見も交えて記述した次第です。事実、「自由奔放」に妻子有る男の元に走ったり、戦勝ムードとは異質の詩を発表したりと、晶子の地元での評判は芳しく無く、堺で晶子の詩歌碑が建ち始めたのは割りと最近に成ってからだ、ということも是非知って置いて貰いたいのです。
尚、通り過ぎて来た神明町駅の東側には、歌人であった嘗ての住職・河野鉄南が晶子と鉄幹を引き合わせた正中山覚応寺(九間町東3丁)が在ります。この寺にも晶子の歌碑が在り、毎年5月29日の晶子の命日には白桜忌が開かれます。「白桜」の名は、晶子の没後に刊行された最後の歌集『白櫻集』から採られて居るのですが、しかし何故「白萩」では無く「白桜」なんでしょうかねえ?
私が何でこんな事を言うのかは浜寺編の晶子を読んで戴ければ解ります。
◆千利休と堺ルネサンスの人々
お次はフェニックス通りの南へ進みましょう。大道筋の一つ西側の裏通りには右の千利休の屋敷跡(※15)が在ります(宿院西1丁)。写真の奥で屋根を掛けて在るのが、茶水に使ったであろう井戸の跡です。利休は豪商・魚屋(とや)に生まれ17歳で茶の湯を学び、南宗寺で侘茶(わびちゃ、※15−1)を完成させました(→南宗寺は後で訪ねます)。
さて隣に結構有名な蕎麦屋が在るので、ここでちょっと腹拵えしますよ。その間皆さんは下の堺所縁の人物などを、思い浮かべてみて下さい。
++++ 堺生まれの歴史的人物 ++++
晶子や利休が登場した序でに、ここで堺生まれの歴史的人物をざっと列挙して置きましょう。先ず古代人としては
行基(浜寺編で詳述)
ルネサンス時代の人では
武野紹鴎、今井宗久(※16)、津田宗及(※17)、小西行長(※18)、
曾呂利新左衛門(※19〜※19−2)、呂宋助左衛門(※20)
近世以降では
河口慧海(※21)、曾我廼家五郎(※22)、坂田三吉
などです。これを見ると圧倒的にルネサンス時代に人材が輩出して居ます、そして三吉を除き皆富裕な門閥や商人階級出身というのがもう一つの共通項です。その分析は「考察」の章に譲ります。
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私はこの後フェニックス通りを西に進み海岸の方へ一っ走りしに行きました、是非見たい物が在ったのです。
(9)明治の面影
先ず大浜公園(大浜北町4丁)が在りますが、詰まらない公園です。サルなどが居ますが、動物園じゃあるまいし、コンセプトがはっきりしない空き地ですね。多分堺市の重厚長大コンビナート路線が昔の勢いで発展して居れば潰されて何処かの工場に成っていたんでしょうが、それが挫折して他に使い道が無いので仕方無く公園にした感じに見えて仕舞います。事実周りは工場地帯で大型トラックがガンガン走っていて、市民に親しまれて居るとは言えません。「もう少し何とかせえよ」と思いますね。
大浜公園の外側の道を北から回り込んで4号湾岸線を越えた所に旧堺燈台(左下の写真、大浜北町5丁)が在ります。これはイギリス人技師・ビグルストン設計の日本最古の木製洋式灯台(高さ9.8m、光達力10海里(約18km))で、明治10(1877)年に旧堺防波堤南端に築造〜昭和43(1968)年の廃灯迄、約100年間堺港を照らし続けました。「是非見たい物」とはこれだったんですよ。
左の写真は旧堺防波堤方面を望み乍ら撮影しました。
その後ここに移築され1972年国の史跡に指定されました(下の写真)。
帰りは旧堺港沿いの遊歩道を通ります。ここには龍女神像(北波止町)が立ち、像を取り囲む様に公園に成って居ます(左の写真)。右が拡大した龍女神像です。
ここでは人々がベンチや階段に腰掛けのんびりと陽光を浴びて時を過ごして居ます。
この像は明治36(1903)年、第5回内国勧業博覧会の際に大浜水族館前に築造されましたが(第1会場の大阪天王寺の様子はココを参照)、その後昭和36(1961)年頃から始まった臨海工業地帯建設で撤去されたものを、2000年市政110周年事業としてここに復元されました。一体堺市の”市政”って何だったんでしょうか?!
(10)堺の禅と侘茶
再び大道筋に戻り、阪堺電車は寺地町駅を過ぎ御陵前駅に着きます。この駅の東には堺最大の寺・南宗寺(なんしゅうじ)が在ります(南旅篭町東3丁)。山号は龍興山で臨済宗大徳寺派、堺を語る時この寺は欠かせません!
++++ 寺町の形成と茶道 ++++
堺は南北朝(1331年)頃から貿易港として頭角を表し、中国(宋や元)と京との中継基地に成った為、当時京に広まっていた臨済宗の寺院 −海会寺(創建時は開口神社西門付近、現在は南宗寺境内)や大安寺(南旅篭町東4丁)など− が堺で逸早く建立されたのです。そして後に珠光や紹鴎や利休が禅に帰依した為、経典(=知識を多く身に纏う)よりも坐禅(=心身から雑念を削ぎ落とす)を旨とする禅の教えが侘茶の完成に多大な影響を与えたのです。
→ 「日本の茶の歴史」はこちらを参照
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◆南宗寺
それでは南宗寺の境内に入りましょう。ここは堺の寺町の最南端に位置し、三好長慶(※23)が弘治3(1557)年に大林宗套を開山に建てた寺で、往時は東西8町(=約870m)、南北30町(=約3200m)有ったと言われて居ます(※24)。その後、天正2(1574)年松永久秀の襲撃や元和元(1615)年大坂夏の陣の戦火に遭いましたが、元和3(1617)年に当時の住職・沢庵和尚(※25)に依り現在地に再建され今日に至って居ます。現在でも約9千坪の広大な敷地を占める大阪府下随一の臨済禅寺です。
左下が甘露門(国重文)、右下が一門と共に供養されて居る武野紹鴎の墓です。右下の写真では見え難いですが、手前の石柱に「武野紹鴎之墓」と刻んで在ります。
そして大きな鬼瓦(※26、※26−1)が近くに在りました。元来は多くの部材が集まる頂点に雨水の浸入を防ぐ為に乗せたものですが、後に厄除けの意味が付加されました。それでご覧の様に恐ろしい面(つら)をして居ます。
右下が、京の村田珠光に始まり、ここに眠る武野紹鴎に受け継がれた侘茶(※15−1)を利休が完成させた茶室の実相庵です。フーム、実に侘びて、寂びて、枯れて居ますね。正に一期一会の心(※27)ですねえ!
私は利休の侘心の窮極は「一期一会」に表されて居ると思います。
[ちょっと一言] 「一期一会」は利休の弟子・山上宗二(※27−1)の『山上宗二記』の「一期に一度の会」に由来します。宗二は堺の山上に住み姓を山上(やまのうえ)とし、初め秀吉に仕えるも後に小田原に下り後北条氏(ごほうじょうし、※27−2)の客分に成り、秀吉の小田原攻めで耳と鼻を切られて処刑されたと伝えられて居る人物で、秀吉の逆鱗に触れ落命した点で師の利休と同じです。秀吉が茶を心の糧にして居たとは考えにくく畢竟、権力者は茶の湯も茶器も茶人も”利用”したのです。
左下が古田織部(※28)作と伝えられる桃山様式の枯れ山水の方丈前庭(国名勝)です。
右がこの庭園の端に生えていた真っ赤な櫨(はぜ)の葉です。
そして左が仏殿に描かれた天井絵「八方睨みの龍」(国重文)です。狩野外記信政の作です。
右の写真が絵と共に「狩野外記信政筆」と書かれて居た作者の銘です。
そう言えば有名な寺の天井にはこの「八方睨みの龍」が在りますね。京都の妙心寺や天竜寺にも在りました。何れも狩野派の絵師が描いて居ます。「八方睨み」は、有らゆる面に気を配るという意味を有し、八方を同時に見れる様な心眼を得るという修行の目標を表して居るのかも知れません。
南宗寺境内には他に徳川家康の墓や東照宮を安置した坐雲堂、三好長慶一族の墓、利休一門の墓などが在ります。
◆◆海会寺(海会禅寺)
南宗寺の最後に、今は南宗寺境内社の海会寺(又は海会禅寺)をご紹介しましょう。右下が境内に在る海会寺の門です。
この寺は臨済宗東福寺派で南北朝の元弘2(1332)年に元々は開口神社西門付近に創建されましたが、大坂夏の陣で焼失後、沢庵の門人の幽庵に依ってここに再興されました。本堂・庫裏・門廊が一棟建ての独特の建築様式です。
ところで右の写真の屋根瓦の部分を拡大したのが左の写真ですが、これは「二つ引両」、即ち足利氏の家紋です。そして前述の創建年は尊氏が足利幕府を開く6年前なんですね。フーム、海会禅寺と足利尊氏の間に何か有りそうですね。
これで大道筋に戻ります。これ迄堺の街を見物して今再び堺編最後の御陵前駅に来て居ます。ここから東に御陵通を2km位行けば、駅名が示す様に仁徳陵古墳の南端に至り、通りの南側には大仙公園が在ります。しかし、仁徳陵古墳を中心とする百舌鳥古墳群へは今回は行かず、ここで堺の街を振り返り、堺の歴史を少し振り返ってみることにします。
堺の街を振り返る為に、どうぞ地図をご覧下さい。
→ 堺の地図を見る(Open the map)!
(1)環濠都市の名残
地図を見ればお解りの様に、堺の中心部は北の「北半町」から南の「南半町」迄の長方形と言うか「人の足型」の様な形がくっきりと見えますが、足型の周縁が環濠の跡です。この足型の西縁と南縁には今でも土居川が流れ、東縁は今は15号堺線の高速道路が走り東縁に沿って寺町が形成されて居ます。実はこの土居という名称自体が「集落の周囲に防御の為に廻らした土塁」を表す言葉なのです。
この足型の内部が嘗て堺ルネサンスの時代に町衆自らが納屋衆(※29)の中の36人の会合衆(※29−1)の合議制で自治を確立した環濠自治都市の名残であり、土居川は嘗ての環濠です。環濠の内部を当時は「濠(ほり)の内」と呼んで居ました。
左が足型南縁の土居川です。手前に見えるのが山之口橋の欄干、環濠の左手奥に先程見て来た南宗寺が在ります。
会合衆を中心とした天文期(1532〜1555)の環濠自治都市の絶頂期こそ堺の”黄金の日々”(△6)であり、織田信長の統一権力の登場に因り自治組織は次第に中央権力に屈服させられて行きます。しかし織豊政権下では武器商人の金力や茶人の教養で、中央権力に対し一定程度”自立”を保って居ましたが、元和元(1615)年の大坂夏の陣での戦火は堺を灰塵に帰しました。
(2)元和の町割
再び地図を見て下さい。環濠内部の真ん中を長軸方向に貫いているのが大道筋です。町名は大道筋の西を「××町西×丁」、東を「××町東×丁」という呼び名で整然と区画されて居ますね。これは大坂夏の陣で全焼した町を復興した際の「元和の町割」の名残なのです。その後、明治5(1872)年の町名改正でもこの町割の独自性を残す為、町の細分に「町」と同格の「丁」を用い、以後堺市では町を細分化する際「丁目」では無く「丁」を使用して居ます。
もう一つ注意したいのは「人の足型」の環濠内の北端が「北半町」「北旅籠町」、南端が「南半町」「南旅篭町」と、南北端が対照的な町名ですが、更に注意すべきは北の「籠」に対し南は「篭」という同意異字が当てられて居る事です。
(3)堺ルネサンスとは
街を振り返った後は、歴史を振り返ってみましょう。嘗て宣教師ガスパル・ヴィレラ(※30)に「東洋のヴェニス」と形容された自由都市・堺 −ヴェニスは共和制都市− も1615年の大坂夏の陣の戦火で、歴史舞台の主役の座を降りることを余儀無くされました。つまり私の言う堺ルネサンス(※7)とは、応仁元(1467)〜文明9(1477)年の応仁の乱で衰退した京都に代わって堺が台頭した1世紀半の
<堺ルネサンスの概要>
1469年の日明貿易船の初帰港で開幕
活動:貿易と鉄砲中心の商工業 → 「才覚と金力」
自治組織と新興商人階級の台頭 → 納屋衆・会合衆
精神:「自由と独立と進取」の気風、文化創造
遺跡:環濠自治都市と町割、寺町の寺院
1532〜55年(天文期)に最盛期を迎える
1550年フランシスコ・ザビエル来堺 → 西洋文明の洗礼
1568〜1598年の安土桃山時代(=日本のルネサンス)
1615年の大坂夏の陣で終幕
を指します。堺では「武力と土地支配」を背景にした中世的政治機構に縛られず、「才覚と金力」を持った自立的商人が「進取の気風」で雄飛しましたが、それを可能にしたのが「海外貿易」です。特に安土桃山時代(※31)の中央権力に依る「日本のルネサンス」は堺から始まって居るという事実は注目すべき点です。この時代は正に日本の中世から近世への転換期に当たり、同時に世界史的なヨーロッパのルネサンスに端を発する大航海時代/地動説/宗教改革などの大転換期(=コペルニクス的転回の転換点)(※32)とも呼応し同期して居るのです。
(4)ルネサンスを忘れ公害都市と化した、その後の堺
堺はその後、国家に管理された形で国内貿易港として一定程度の役割を果たしますが、二度と歴史の舞台の主役に踊り出ることは無かったのです、それ故に堺ルネサンスこそが唯一度の堺の”黄金の日々”だったと言えるでしょう。ルネサンス以降の堺の衰退について、歴史学者の多くは夏の陣の戦火(1615年)と大和川の付け替え(1704年)を指摘します。前者に因り人々が焼け出され、後者に因り新大和川が運ぶ土砂が堺の港を埋め尽くし貿易港(←堺の「富」は貿易に負っていた)としての機能不全を齎したという指摘です。その指摘に私も同感ですが、しかし今日の様に「後戻りの出来ない街」に変貌させたのはそれでは無い、と私は考えて居ます。
私は、それ以上に堺を決定的に変えて仕舞ったのは戦後1961年頃からの臨海工業都市の建設ではないか、と思って居ます。「高度経済成長」という”短絡的”な標語に踊らされて堺を後戻りの出来ない街、不可逆的な公害都市 −1970年代、堺と言えば公害で有名だった− に変貌させて仕舞ったのです。臨海工業地帯に誘致した重厚長大産業の多くはそもそもが東京に本社を置く大企業で、例え儲かっても堺に落ちるカネ(=法人税)は僅かで殆ど東京に持って行かれ、誘致した企業は今では競争力を失い最早富を産み出さないばかりか”負の遺産”を曝け出し喘いで居ます。私が”短絡的”と言ったのは、僅か50年の見通しも無かったという点です。
堺はルネサンス時代が頂点でそれ以降、ルネサンスを超えることは遂に今迄叶わなかったのです。それは結局、総体としてそれ以降の「堺人」がルネサンス時代の「堺人」を超えることが出来なかった、ということです。個別的には与謝野晶子の様に「超えた」人も出ましたが、「堺人」総体としてはルネサンス時代の人々の足元にも及ばなかったのです。その違いを一言で言えば、現代の「堺人」が晶子の言う「貨幣や職業の奴隷」と化し拝金主義に陥ったのに対し、ルネサンス時代の「堺人」は富を善と見做し商業活動の目標にはしましたが、それを人生の目標とはせず、富を基に得た余剰時間を「文化創造」に使ったという点です。
要は「人生の価値」を何処に置くかという問題なのですが、そういう意味で現代の”短絡的”で”安直”な思考パターンを是正するには、もう一度「老舗の教育」を見直す必要が有る、というのが私の主張です。しかし誰もが老舗の家に生まれる訳には行かないので、そうなるとそこに「大衆の限界」或いは「大衆民主主義の限界」が有るのかも知れませんねえ、ムッフッフ!
現在の堺はルネサンスの「自由と独立と進取」の気風も、環濠自治都市を築いたエネルギーが創り出した文化も、恰も臨海工業地帯の埋め立て地の中に閉じ込められたかの様です。これは言葉の綾ですが、閉じ込められた「自由と独立と進取」の気風を臨海工業地帯から掘り起こしたらどうですか?、いっその事、臨海工業地帯を取っ払ったらどうですか?
左の写真はザビエル公園に咲いていたビヨウヤナギの花です。どうでしたか、堺の街は?
私はこの堺という街を見ていると、どうしても或る種の空虚感と言うか無念さを感じて仕舞います。上で見て来た寺町も環濠も町割も、正しく「兵(つわもの)どもが夢の跡」です。これらは往時の文化の薫りを今に伝えては居ますが、臨海工業地帯と対比するとそれは兵(つわもの)が去った後の蝉の抜け殻、即ち空蝉(うつせみ)の様に思えて仕舞うのです。この事は次の浜寺編で更にはっきりするでしょう。
尚、この堺編の記述全般に於いて【参考文献】△7を参照させて戴きました。これは利用者の視点で良く作られて居ます。これからの堺も先ず生活者の視点を大切にお願いしたいですね、私は部外者でっせ!!
さて我が阪堺チンチン電車は、この御陵前駅で大道筋の路面は終わり、又々専用軌道に入り浜寺へと進んで行きます。この続きはモダンでレトロな次の<その3>浜寺編でお楽しみ下さい。与謝野晶子も、もう一度・出・て・来・ま・す・よ。
尚、[阪堺電車沿線の風景]シリーズの他画面への切り換えは最下行のページ・セレクタで行って下さい。(Please switch the page by page selector of the last-line.)
【脚注】
※1:リバティ・コース(liberty course)とは、私の造語で、自由都市コース。嘗て明貿易に依って富みを成した海運貿易商人たちが環濠自治都市を築いて「自由と独立と進取」の気風を確立したのに因み、名付けました。
※2:大和川(やまとがわ)は、奈良県北部から大阪府の中央を経て堺市で大阪湾に流入する川。元は東大阪から淀川に合流して居たのを宝永1(1704)年の「付け替え」工事で堺へ放流した。笠置山脈に発源。長さ68km。佐保川との合流点より上流は初瀬川と呼ばれる。
※2−1:放出(はなてん)は、大阪市の東部、城東区と鶴見区に跨る地帯の名称で、平安末期の記録に放出村として初見。淀川旧流路の寝屋川と大和川旧流路の長瀬川が合流する低湿地で新開池の流出口にも当たり、「水の放出口」という意味で「はなちで」→「はなて」→「はなてん」と変化したと考えられる。<出典:「日本地名ルーツ辞典」(創拓社)>
補足すると、大阪の難読地名の一つですが、それ以上に奇妙・可笑しな地名で如何にも大阪的です。
※3:鞴祭(ふいごまつり)は、旧暦11月8日に、鍛冶屋/鋳物師など常に鞴(ふいご)を使う者が行う祭。祭神は、金屋子神(かなやごがみ)或いは稲荷神。踏鞴祭(たたらまつり)。
※4:天文法華の乱(てんぶんほっけのらん)は、天文5年(1536)に法華一揆への報復として比叡山延暦寺の僧徒ら18万人が京都の法華宗徒を襲撃した事件。日蓮宗21寺が焼き払われ、洛中殆ど焦土と化した。天文法難。
※4−1:法華一揆(ほっけいっき)は、戦国時代に起った日蓮宗(法華宗)信徒の一揆。日蓮宗は京都の町衆を中心に台頭し、幕府・大名と対抗。1532年(天文1)には一向一揆と衝突して山科本願寺を焼き払い京中に勢力を張ったが、36年(天文5)の天文法華の乱で壊滅。
※5:堺事件(さかいじけん)は、慶応4(1868)年2月15日、土佐藩の堺警備兵が海岸測量中のフランス兵士を攻撃し、死者11人の被害を与えた事件。維新政府はフランスの要求に従い賠償金を支払い、土佐藩士に切腹を命じ、土佐藩士11名が堺の妙国寺で切腹した。森鴎外に同名の小説が在る。
補足すると、実際には堺に入港したフランス軍艦デュプレックス号の水兵が上陸し日本女性をからかい侮辱したことに原因が在り、この報せを聴いて駆け付けた土佐藩兵がフランス人に発砲したものです。
※6:応永の乱(おうえいのらん)は、応永6年(1399)大内義弘が室町幕府に抗した反乱。足利義満の挑発に因って堺に挙兵したが、戦い利無く討死。
※6−1:大内義弘(おおうちよしひろ)は、南北朝・室町前期の武将(1356〜1399)。九州・中国に力を伸ばして、周防・長門・豊前・石見の守護と成り、更に明徳の乱の功で和泉・紀伊の守護職を併せた。朝鮮と交易、又、南北両朝合一に功が有った。義満と対立して討伐され、堺に戦死(応永の乱)。
※7:ルネサンス/ルネッサンス(Renaissance[仏])とは、(再生の意)13世紀末葉から15世紀末葉へ掛けてイタリアに起り、次いで全ヨーロッパに波及した芸術上及び思想上の革新運動。現世の肯定、個性の重視、感性の解放を主眼とすると共に、ギリシャ・ローマの古典の復興を契機として、単に文学・美術に限らず広く文化の諸領域に清新な気運を引き起こし(人文主義)、神中心の中世文化から人間中心の近世文化への転換の端緒を成した。文芸復興。学芸復興。
※8:イエズス会(Society of Jesus)は、スペインのイグナティウス・デ・ロヨラ(又はイグナチオ・デ・ロヨラ)やフランシスコ・ザビエルらが1534年に結成し、40年にローマ教皇の公認を得た修道会。「イエズスの友」を自称、人類救済を志し、又、反宗教改革の先頭に立った。日本にも同会士ザビエルらが渡来。ジェズイット教団。耶蘇会。日本では上智大学がイエズス会系。
※8−1:フランシスコ・ザビエル(Francisco de Xavier)は、日本に渡来した最初のイエズス会士(1506〜1552)。スペインのナバラ王国の貴族。1541年東洋伝道の為インドからマラッカなどを遍歴、49年(天文18)鹿児島に来り、平戸・山口など日本各地に伝道。51年離日、中国に入ろうとして広東付近で病没。「インドの使徒」の称号を贈与された。漢名は方済各。シャビエル。ザベリヨ。
※8−2:ルイス・フロイス(Luis Frois)は、ポルトガルのイエズス会士(1532〜1597)。インドで司祭と成り、1563年(永禄6)来日。長崎で日本二十六聖人の殉教を目撃し、滞日中140余通の日本通信を本国に送り、又49年(天文18)以降の布教史「日本史」を執筆。長崎で没。
※9:楼門(ろうもん)とは、2階造りの門。特に、初重に屋根の無い1重屋根のもの。
※10:塩土老翁(しおつちおじ)は、山幸彦が海幸彦から借りた釣針を失って困っていた時、舟で海神の宮へ渡した神。又、神武天皇東征の際、東方が統治に適した地であると奏した神。塩筒老翁(しおつつのおじ)。古事記では塩椎神(しおつちのかみ)。
※11:竈の神(かまどのかみ/かまのかみ)とは、[1].竈を守護する神。奥津日子命(おきつひこのみこと)・奥津比売命(おきつひめのみこと)を祀る。後に仏説を混じて三宝荒神(さんぽうこうじん)、略して荒神(こうじん)とも言う。竈神(かま[ど]がみ)。狂、栗焼「我はこれ―」。
[2].妻の異称。
※12:与謝野晶子(よさのあきこ)は、明治〜昭和初期の歌人(1878〜1942)。旧姓、鳳(ほう)。堺市生れ。寛の妻。新詩社に加わり、雑誌「明星」で活躍。格調清新、内容は大胆奔放。歌集「みだれ髪」「佐保姫」「春泥集」の他、「新訳源氏物語」など。
※12−1:与謝野鉄幹(よさのてっかん)は、明治〜昭和初期の詩人・歌人(1873〜1935)。名は寛。初め鉄幹と号。京都生れ。晶子の夫。落合直文に学び、浅香社・東京新詩社の創立、「明星」の刊行に尽力、新派和歌運動に貢献。自我の詩を主張。詩歌集「東西南北」「天地玄黄」、歌集「相聞(あいぎこえ)」など。
※13:平塚雷鳥(ひらつからいちょう)は、女性解放運動家(1886〜1971)。本名、明(はる)。号、らいてう。東京生れ。日本女子大卒。雑誌「青鞜」創刊。「新しい女」と名乗り、女性解放・婦人参政運動に尽力。自伝「元始、女性は太陽であった」。
※14:文化学院(ぶんかがくいん)は、自由と学芸尊重、男女平等の思想に基づく、1921年(大正10)創立の私立学校。創立者西村伊作。43年西村が不敬罪で拘禁、学院も強制閉鎖。46年4月、再開し今に続く。東京都千代田区駿河台。
補足すると、文化学院は西村伊作という多才な人物の理想の結実です。「自由な心を伸ばす」という建学の精神を今でも守っている「小さな学校」ですが、この学院から輩出した著名文化人は数多く、社会に発信出来る卒業生の多さでは地方国立大学など足元にも及びません。
※15:千利休(せんのりきゅう)は、安土桃山時代の茶人(1522〜1591)。我が国茶道の大成者。宗易と号した。堺の人。武野紹鴎に学び侘茶(わびちゃ)を完成。織田信長・豊臣秀吉に仕えて寵遇が厚かったが、秀吉の怒りに触れ自刃。
※15−1:侘茶(わびちゃ)とは、茶の湯の一。東山時代に流行した書院茶に対して、村田珠光以後、桃山時代に流行し、簡素静寂の境地を重んじたもの。千利休が完成したと言われる。
※16:今井宗久(いまいそうきゅう)は、室町末期の茶人(1520〜1593)。堺の納屋衆の一人。茶を武野紹鴎に学び、大蔵卿と称した。後に信長・秀吉に仕え、利休・津田宗及と共に三大宗匠と称された。
補足すると、今井宗久は出身は大和国今井で、特に信長に軍資金や当時の新兵器・鉄砲を調達したことからその信任を得て堺五箇荘代官を勤め、信長の茶頭(さどう)として京都妙覚寺や相国寺の茶会に参席した。武器商人にして茶人という、最も堺的人物です。
※17:津田宗及(つだそうきゅう)は、安土桃山時代の豪商・茶人(?〜1591)。堺の納屋衆の一人。更幽斎天信と号。宗達の子。茶を紹鴎・宗達に学び、千利休・今井宗久と共に三大宗匠の一。
※18:小西行長(こにしゆきなが)は、安土桃山時代の武将(?〜1600)。堺の豪商・立佐(りゅうさ)の子。名は弥九郎。豊臣氏の臣。摂津守。肥後半国二四万石の領主。キリシタン教徒。文禄の役に先鋒。石田三成に与して徳川家康と関ヶ原に戦い、敗れて刑死。
※19:曾呂利新左衛門(そろりしんざえもん)は、豊臣秀吉の御伽衆と伝える人物(生没年未詳)。本名を杉本甚右衛門、又の名を坂内宗拾とも言う。堺の人。鞘師(さやし)を業としたが、その鞘が刀を差し入れる時、「そろり」と良く合ったことからの異名と言う。頓知に富み、又、和歌・茶事・香技にも通じたと言う。
※19−1:御伽衆(おとぎしゅう)とは、室町時代以後、主君に近侍して話相手を務めた役。
※19−2:鞘師(さやし)とは、刀の鞘をつくる職人。
※20:呂宋助左衛門(るそんすけざえもん)は、安土桃山時代の商人。堺の人(生没年不祥)。1593年(文禄2)ルソンに渡り、持ち帰った壺などの物産は豊臣秀吉が買上げて巨利を齎したが、後、その忌諱に触れ罰せられた。後にカンボジアで活動した助左衛門と同一人と言われるが確証は無い。納屋助左衛門。
※21:河口慧海(かわぐちえかい)は、仏教学者・探検家(1866〜1945)。堺の樽桶製造業の生れ。大正大学教授。2度に亘りチベットを探検、チベット大蔵経等を将来。著「西蔵旅行記」など。
※22:曾我廼家五郎(そがのやごろう)は、明治〜昭和前期の喜劇俳優(1877〜1948)。本名和田久一。大阪府出身。歌舞伎役者を経て、1903年兄弟分の曾我廼家十郎と日本初の喜劇の一座「曾我廼家」を創立。一堺魚人(いつかいぎょじん)の名で963編の脚本も残した。<出典:「日本史人物辞典」(山川出版社)>
※23:三好長慶(みよしちょうけい)は、戦国時代の武将(1522〜1564)。管領細川晴元の臣。1549年(天文18)晴元らと戦って勝ち、52年入京、将軍足利義輝を頂いて権勢を振るった。晩年はその臣・松永久秀に圧倒された。
※24:1町=60間=109m(1間=1.81m)。
※25:沢庵和尚(たくあんおしょう)/沢庵宗彭(―そうほう)は、江戸初期の臨済宗の僧(1573〜1645)。諱は宗彭(そうほう)。但馬の人。諸大名の招請を断り、大徳寺や堺の南宗寺等に歴住。1629年(寛永6)紫衣事件で幕府と抗争して出羽に配流され、32年赦されて後に帰洛。徳川家光の帰依を受けて品川に東海寺を開く。書画・俳諧・茶に通じ、その書は茶道で珍重。著「不動智神妙録」など。
※26:鬼瓦(おにがわら、ridge-end tile)は、[1].屋根の棟の両端に用いる鬼の面に象った瓦。又、同様の所に用いるのは鬼の面が無くても言う。元来は多くの部材が集まる頂点に雨水の浸入を防ぐ為に乗せた丸瓦の事で、後に厄除け(=鬼の面)の意味が付加された。<出典:一部「学研新世紀ビジュアル百科辞典」より>
[2].厳(いか)つく醜い顔に譬える語。→「―にも化粧」。
※26−1:丸瓦(まるがわら、round tile)は、半円筒形の瓦。男瓦(おがわら)。筒瓦。←→平瓦。女瓦(めがわら)。
※27:一期一会(いちごいちえ)とは、(茶会の心得から。利休の弟子・宗二の「山上宗二記」に「一期に一度の会」と見える)生涯に唯一度目見えること。一生に一度限りであること。「―の縁」。
※27−1:山上宗二(やまのうえそうじ)は、安土桃山時代の茶人(1544〜1590)。堺の町人。千利休に茶道を習い豊臣秀吉、後に後北条氏(ごほうじょうし)の客分と成ったが、秀吉の怒りを買い惨殺された。著書「山上宗二記」は村田珠光・武野紹鴎・利休の茶説(=侘茶の道)を記した茶道の秘伝書。<出典:「学研新世紀ビジュアル百科辞典」>
※27−2:後北条氏(ごほうじょうし)とは、小田原北条氏を鎌倉時代の北条氏と区別する称。元は伊勢姓だったが北条氏を継いで関東の主と成るという狙いから、伊勢長氏(=北条早雲)の子の氏綱より北条を称。
※28:古田織部(ふるたおりべ)は、安土桃山時代の茶人(1543〜1615)。茶道織部流の祖。名は重然(しげなり)。美濃の人。千利休の高弟。初め豊臣秀吉に仕えて同朋(どうぼう)。秀吉の死後隠居し、茶道三昧の生活に入った。茶匠としての名声上がり、関ヶ原の戦には徳川方に功有りとして大名に復した。徳川家の茶道師範と称されたが、大坂夏の陣で陰謀を疑われ自刃。
※29:納屋衆(なやしゅう)とは、室町時代、納屋即ち海岸の倉庫を有した豪商。堺ではその中から選ばれた36名が会合衆として市政を執った。
※29−1:会合衆(えごうしゅう)とは、室町時代の自治都市の指導者。堺の会合衆は、倉庫を有した納屋衆の中から選ばれた36名で、3名の月行事が1ヶ月毎に交代して取り決めを行ったので、3*12=36名に成る。
補足すると、同時期に博多も中国・朝鮮・琉球などを相手に貿易を行い自治組織を作り、12名の年行事で運営して居た。更に摂津の平野や伊勢の桑名・大湊なども会合衆・月行事に依る自治組織を持っていた。
※30:ガスパル・ヴィレラ(Gaspar Vilela)はポルトガル人イエズス会宣教師(1525〜1572)。1556(弘治2)年豊後国着。59年上京し京都開教。結城忠正や高山図書(ずしょ:右近の父)等に授洗。65年将軍足利義輝暗殺後京都を追放され堺に避難、豊後に移り70年日本を去り、インドのゴアで没。ビレラ。<出典:「日本史人物辞典」(山川出版社)>
補足すると、ヴィレラは書簡集『耶蘇会士日本通信』の中で「堺の町はヴェニスの様に執政官に依り治めらる」と本国に報告したのが、堺が「東洋のヴェニス」と呼ばれる元に成りました。執政官とは古代共和制ローマで定員2名・任期1年で市政を司った政務官コンスル(consul[ラ])のことで、同じく月替わりで3人が自治政務を執った堺の会合衆のことを譬えた言葉です。
※31:安土桃山時代(あづちももやまじだい)は、織田信長・豊臣秀吉が政権を握って居た時代(1573〜1598年)。又は信長入京の1568年(永禄11)から関ヶ原の戦で徳川家康が勝利した1600年(慶長5)迄。戦国時代の争乱が治まって全国の統一が完成し、新しい支配体制が作られた時代。この時代の文化は新しく興った大名や大商人の活発な動きを反映して、豪華で雄大な性格を持つ。城郭・障壁画・茶道・能楽・浄瑠璃などが発達。織豊時代(しょくほう―)。<出典:一部「学研新世紀ビジュアル百科辞典」より>
※32:コペルニクス的転回(Copernican change)とは、
[1].コペルニクスが唱えた地動説を切っ掛けに、神中心の中世から人間中心の近世への、世界観の大転回を指す。地動説は、ルネサンス期の実証的自然科学を受け継ぎ近世科学の端緒を開いた。
[2].〔哲〕カントがその「純粋理性批判」の認識論に於いて、主観が客観に従うのでは無く、逆に客観が主観に従い、主観が客観を可能にすると考えた事を、天動説から地動説へのコペルニクスの転回に譬えて自ら称した語。
[3].転じて物事の考え方が、がらりと正反対に変わることに言う。
<出典:一部「学研新世紀ビジュアル百科辞典」より>
※32−1:コペルニクス(Nicolaus Copernicus)は、ポーランドの天文学者・聖職者(ポーランド名はMikolaj Kopernik、1473〜1543)。肉眼に依る天体の観測とギリシャ思想とに基づいて、太陽中心宇宙説を首唱、地球その他の惑星はその周囲を廻るという地動説を発表し、当時定説であった地球中心宇宙説に反対し、近世世界観の樹立に貢献。地動説を唱えた主著「天体の回転について」は長い躊躇と苦悶の末、死の直前に出版。
(以上、出典は主に広辞苑です)
【参考文献】
△1:『大阪府の歴史』(藤本篤著、山川出版社)。
△2:『大阪と堺』(三浦周行著、朝尾直弘編、岩波文庫)。
△3:『ヨーロッパ文化と日本文化』(ルイス・フロイス著、岡田章雄訳注、岩波文庫)。
△4:『日本の神様[読み解き]事典』(川口謙二編著、柏書房)。
△5:『みだれ髪』(與謝野晶子著、角川文庫)。
△6:『黄金の日日』(城山三郎著、新潮文庫)。
△7:堺市発行の観光案内冊子『ポケットさかい』。この冊子は地図付きで、手っ取り早い説明が在り、中々お役立ちです。
●関連リンク
@参照ページ(Reference-Page):阪堺電車沿線の堺の地図▼
地図−日本・阪堺地区(Map of Hankai area, Osaka -Japan-)
@補完ページ(Complementary):土佐藩十一烈士から漏れた
9名の土佐兵士の運命(堺事件の謎)▼
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