大和多聞城と大和郡山城
[松永久秀と筒井順慶・その1]
(Tamon and Yamato-Koriyama castle, Nara)

-- 2004.04.26 エルニーニョ深沢(ElNino Fukazawa)
2011.09.28 改訂

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 ■はじめに - 天下を取れなかった戦国武将を追って

 03年9月7日(日)、「日本古城友の会」(尾原隆男会長)の皆さんと多聞櫓発祥の大和多聞城を見て来ました。近鉄奈良駅で集合し、行き掛けに東大寺転害門を見、帰り掛けに聖武天皇稜や奈良女子大学の校舎などを見て近鉄奈良駅で解散しました。この日は残暑がきつかったですが、空は澄み秋を思わせて居ました。
 そして03年10月18日に私は、この記事を書く為に多聞城と”因縁”浅からぬ大和郡山城を、そして明けて04年5月25~26日大和筒井城と再び郡山城を一人で見に行きました。それは「天下を取れなかった戦国武将」に興味を抱いたからです。
 その後、大和郡山には04年10月15日12月3~5日に来て居ます。{この行は05年3月10日に追加}

 ■大和多聞城

 (1)東大寺転害門

 先ず多聞城に行く途中に在る東大寺転害門(てがいもん)を見て行きます。何故か?、大仏で有名な東大寺(※1~※1-2)は聖武天皇の勅願に依り建立された華厳宗の総本山で、又、国家鎮護の為に全国に建立した国分寺(※1-3)の総元締め(=総国分寺)ですが、その東大寺大仏殿に火を放ったのが、これから行く多聞城を築いた松永弾正久秀(※2)という関係なのです。
写真T1-3:木肌を見せる転害門の門柱。写真T1-1:転害門。
写真T1-2:転害門の注連縄。
 平家の南都焼き討ちや松永久秀の大仏殿放火の禍をを逃れた転害門は、創建当時の姿を今に残す貴重な遺構で国宝に指定されて居ます。転害門は東大寺境内の北西の門で、佐保路(現国道169号)の東京極通りに面して建って居ます。左上の上の写真が転害門で、三間一戸本瓦葺の切妻造八脚門です。他に天平時代の八脚門は法隆寺の東大門が在るのみです。ご覧の様に門の入口には注連縄が懸かり、少し離れて見るとの様に見えます、左上の下の写真が注連縄の拡大写真です。注連縄の懸かった門を潜(くぐ)ることは出来ませんが、左上の上の写真の柱右手の脇門から中へ入ることが出来ます。
 八脚門とは門柱が8本有るからですが、右上の写真が転害門の右端の太い門柱です。直径は目測で50cm近く有り、ご覧の様に無加工の丸太の柱で荒々しく”時代”の歳月を感じさせます。私はこの渦の様な節目やひび割れや木肌の造形が大変気に入りました、これこそ自然と時間の為せる芸術と言えます。
 左下の写真は転害門の懸魚(けぎょ)の部分です。これは匠の造形美です。
写真T1-4:転害門の屋根の懸魚。写真T1-5:バス停の「手貝町」の標識。 門の前には「謡曲史跡保存会」の立て札が在り、それに拠ると「転害」という名称は、東大寺の鎮守・手向山八幡宮の転害会がここを御旅所としたことに由来するそうで、別名佐保路門或いは景清門とも言われて居ます。景清門の謂れも、平景清(※3)がここ転害門に潜み源頼朝を狙うが果たせなかったことに由来し謡曲『大仏供養』に成っている、と立て札に記されて居ます。兎に角【脚注】の様に景清は伝説的虚像と実像とが不可分な人物なのです。
 ところでこの門の前はバス停に成って居ますが、バス停では「手貝町」と成っていて(右上の写真)、町名も今では「手貝町」です。由緒有る名も変わって行きます。
 話は変わりますが、先程の写真で見えていた門前の草地には鹿の糞が沢山転がっていて、奈良公園の観光名物の鹿がこの辺り迄来ている証拠です。最近は鹿の交通事故が絶えず、1200頭位居る内年間100頭以上が事故に遭って居るとのことです。
 尚、序で乍らこの転害門の柵に囲われた中には私の同族である猫たちが暮らして居ますよ、ここなら安全です。

 (2)多聞城跡

写真T2-2:民家の芙蓉の花。 愈々多聞城(又は多聞山城)へ向かいます。佐保山(那羅山)丘陵の東南部に築かれた多聞城は、南に佐保川が流れ東には京街道が通る交通の要衝で、南西には聖武天皇稜と聖武天皇の皇后稜が位置して居ます。
写真T2-1:佐保川に架かる佐保橋。 左が佐保川に架かる佐保橋です。
写真T3-1:若草山中学校の校門。 橋の背後のこんもりした小山が目指す多聞城跡です。
 右上はこの橋を渡った所に在る民家に咲いていた芙蓉の花です。

 多聞城本丸跡は現在、奈良市立若草中学校(奈良市多聞町)の敷地に成っていて、右がその校門です。
 


写真T3-3:「多聞城跡」の石柱。写真T3-2:「多聞城跡」の石柱と石の階段。 門を入ると「多聞城跡」の石柱が立って居ます(右の2枚の写真)。写真に見える正面の石の階段を登った所が多聞山で、現在校庭と校舎が建って居ますが、私たちは石柱の右手の緩い大倉坂を登って行きました。

 ここに校舎が建てられる前は草と古松が生い茂り、頂上部には土塁が延々と連なって居たそうですが、戦後の六・三制の実施で昭和23(1948)年に若草中学校が建設されました。この時と昭和53(1978)年の校舎増築に伴なう調査では土塁の基底部の地固めに石塔を並べ、その上に瓦敷きを設けていた様子が確認されて居ます。しかし発掘された遺物の中では墓石が一番多く、その他骨壺も出土して居ることから、築城前この山上が墓地だったと推測されて居ます。
写真T4-1:無縁仏墓地から見た東大寺大仏殿。
写真T4-2:無縁仏墓地から見た県庁と興福寺五重塔。 大倉坂を上り切った所には校舎建設時に発掘された五輪塔や石仏などが無縁仏として集められて居ます。
 左は無縁仏墓地から望んだ東大寺大仏殿で、右は県庁と興福寺五重塔です。
 多聞山上の若草中学校庭からの眺望は大変素晴らしいものです。


            若草山
             ↓
写真T4-3:嘗ての空堀の上に架かる若草大橋。
 右が校庭(多聞山)とグラウンド(善称寺山)の間に在る若草大橋です。橋の向こうに黄緑色を覗かせているのが若草山です。この橋の下は空堀の跡だったことが見て判ります。
 城跡の遺跡としては他に校舎の北西裏手に土塁・堀切・曲輪の一部が残っていて、その近くには井戸跡も発見されて居ます。しかしこの日はそこへは行かず、帰りに校舎の北西部を回り、外から見るだけに成りました。
 

 左下往時の多聞城の復元想像図です(△1)。手前の橋が今の若草大橋で、橋のこちら側の善称寺山上空から西に向かって鳥瞰した図で、橋の向こう側が多聞山です。
図T1:往時の多聞城の復元想像図。
 多聞城は永禄3(1560)年に松永久秀が築城を開始し4~5年を掛けて完成。石垣積みの城郭は白壁で囲み、城内には4階の櫓を始め多数の櫓と多聞櫓(※4)と呼ばれる長屋形式の櫓(△2のp377)や家臣の屋敷を配し、殿舎内部は金や彫刻や壁画で豪華に装飾し庭園をも備えていた、ということが永禄8(1565)年のイエズス会修道士ルイス・アルメイダ(※5)の多聞城訪問記としてルイス・フロイス(※5-1)の『日本史』に記載されて居ます(→フロイスについては又後で出て来ます)。この中で彼は多聞城城内を「都市/宮殿」と呼び(△3のp265)、京の都の諸建築も「これに比べれば、全ては劣っている」と絶賛して居ます(△3のp267)。この進取性と独創性は信長の安土城に先駆け近世城郭の原型と成りました(△1)。尚、「多聞」の名は信貴山(後出)の守護神の毘沙門天の別名:多聞天に肖ったものです。
 しかし又、久秀は築城に利用出来る物は手当たり次第利用して居て、近くの聖武天皇稜・皇后稜の一部を破壊して出城(※4-1)や曲輪に取り込んだり、前述の墓地の墓石や更に近隣の寺院からも墓石を調達して石材に利用して居ます。大仏殿焼き討ちと合わせて、正に神仏を屁(へ)とも思って無い行為です。そこで久秀の生涯を見てみましょう。

    ++++ 松永久秀の生涯 ++++
 1510~1577年。出自のはっきりしない戦国の梟雄(=小悪)・松永久秀(※2、※6)は最初、阿波の三好氏に仕えますが、主君の細川氏追い落としを謀る空き巣狙い三好長慶(※2-1) -大阪の堺に三好長慶が建てた寺が在ります- に仕える振りをし乍らその足元を掬い、天文23(1554)年には生駒山麓の信貴山城に入城し勢力を蓄えます。永祿2(1559)年には日和見主義者(=小悪)・筒井順慶を破り大和を事実上の領国として掠め取り、その翌年に多聞城の築城を開始します。そして永祿7(1564)年に三好長慶が死ぬと翌年にはチンピラ・三好三人衆(※2-2)と組んで時の将軍・足利義輝(よしてる、※7)を殺害します -前出のルイス・アルメイダも「弾正殿は、自らは家臣であるにもかかわらず、公方様(=足利義輝)と三好殿をいわば掌握してしまいました。」と記して居ます(△3のp264)- が、次は筒井順慶と通じたチンピラに反逆される破目に陥り、遂に永祿10(1567)年10月10日、東大寺に立て籠もった三好軍攻撃と多聞城奪回の為に大仏殿焼き討ちの暴挙に出ます。
 しかし、やがて久秀の前に非道さに於いては数段勝る天下人(=大悪)・織田信長(※8、※6-1)が立ち塞がります。信長が足利義昭(※7-1)を奉じて入京すると取り敢えず信長に従いますが、天正元(1573)年に義昭が信長に反旗を翻すとこれに呼応、一旦は和睦し多聞城を明け渡しますが再び翻意し信貴山城に籠城、しかし命運尽きると知るや同5(1577)年10月10日名茶釜「平蜘蛛」を抱いて壮絶に自爆して果てます。それは大仏殿焼き討ちから丁度10年目に当たり、正に大仏の祟りと言えましょう。尚、久秀は茶人として知られ武野紹鴎に師事しました(△4のp113)。
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 ここで関連城郭の地図を載せて置きますので適宜参照して下さい(△5のp570)。

 以上がその生涯の大要ですが、久秀は一生賭けて”仁義無き闘い”を挑んだ人物です。しかし正に中国の諺が教える通り

  小盗は拘(とら)われ
   大盗は諸侯と成る


を地で行って居ます(※6-2)。所詮は小悪・久秀は大悪・信長の敵では無かったと言えるでしょう。

 しかし私は、多聞城に見られるド派手好みや目的の為には手段を選ばない久秀と、人前で好んで異様な風体や言動をし「歌舞伎者、空け者(うつけもの)」と言われて情け容赦無い信長とは、深層心理に於いて通底して居る部分が有る、と考えて居ます。そして一向衆の石山本願寺や天台僧兵の比叡山延暦寺を焼き払った信長にしてみれば、その内自分の手で果たそうと考えていた東大寺大仏殿焼き討ちを久秀に先を越され、仕方無くその7年後の天正2(1574)年に東大寺の名香・蘭奢待(※1-4)を切り取り、辛うじて溜飲を下げたことは他人には言えぬ屈辱だったろう(※1-5)と察して居ますが、皆さんはどうお考えでしょうか?!

 (3)眉間寺跡と聖武天皇稜/皇后稜

写真T5-2:聖武天皇稜。写真T5-1:「眉間寺遺蹟」の石碑。 多聞山西の丘陵には奈良地方気象台が在りますが、そこと多聞山の間の道には、嘗て眉間寺(みけんじ)という寺が在りました。左の写真の石碑には「眉間寺遺蹟」と刻まれて居ます。
 多聞山の南部には松永久秀に石材を掠め取られた聖武天皇稜(佐保山南稜)・光明皇后稜(佐保山東稜)が在ります。右上の写真は聖武天皇稜で、この右隣に皇后稜が在ります。
 眉間寺は元は左上の写真の所に在ったのですが、多聞城築城の際にこの聖武天皇陵南西に移され明治の廃寺迄可なり広い敷地を有して居たそうです。多聞山は築城前にはこの眉間寺の墓地だったのかも知れません。
 

写真T6:奈良女子大学の正門と旧本館。 (4)宿院辻

 その後は奈良女子大の前を通り、宿院辻と呼ばれて居た道を通って帰りました。平安時代の昔、東向北商店街の北の道と女子大とが行き会うT字路の辺りに春日大社参詣の為の宿院が在ったそうです。
 右の写真が奈良女子大学の正門(奈良市北魚屋西町)。奥に見えるのがハーフティンバー(※9)の旧奈良女子高等師範学校本館(現大学記念館)で、関西に残る貴重な明治建築の一つです(文部省技師・山本治兵衛設計、明治42(1909)年竣工)。

    ◆多聞城と大和郡山城/筒井城の”石垣の因縁”

 ここで冒頭に言及した多聞城と大和郡山城の”因縁”について述べましょう。
 天正元(1573)年に久秀を多聞城から追放した信長はその3年後の天正4(1576)年に筒井順慶を大和守護に任じ、多聞城の城割り(※4-2、※4-3)を命じます。翌天正5(1577)年7月に順慶は多聞城を「大旨崩了」し、4階櫓を始めとする殿舎は二条城新造用に京都に運びます。この時石垣などの石材を大和郡山城筒井城に運んだのです。運搬には佐保川の水路が利用されました。

              ◇◆◇◆◇

 そういう訳で、先ず大和郡山城に向かいます。

 ■大和郡山城

 03年10月18日(土)、私は大和郡山城(大和郡山市城内町)を訪れました。それも近鉄西大寺駅のレンタサイクルで秋篠川と佐保川沿岸を走り”入城”しました。

 (1)大和郡山城跡

 別名は犬伏城。ここに初めて城を構えたのは平安末期の武士団・郡山衆小田切氏説郡山中氏説が在ります。明応7(1498)年、筒井氏がこの居館を攻め改築。以後、松永氏も絡んで激しい城取り合戦が繰り広げられましたが落ちませんでした。筒井順慶は松永久秀憤死後3年目の天正8(1580)年にここを本城とする為に本格的に築城工事に取り掛かり、これが今日の郡山城の原型に成って居ます。この時順慶は様々な石材を掻き集め、平安京羅城門の礎石や前述の多聞城の五輪塔、石地蔵などを用いて居ます。
 天正13(1585)年には豊臣秀長(※10)が100万石の太守として入封し、紀伊根来寺大門を移築して城門にして居ます。この秀長の時に郡山城は五層八階の宏壮な天守閣を造りましたが間も無く大地震で倒壊し、以後再建されませんでした。尚、東大寺大仏殿が大分話題に成りましたが秀長は大仏殿の修築を行って居ます。又、秀長はこの年に大和の高取城(←日本三大山城の一つ)の太守にも成っていて、大和大納言とも呼ばれました。
 文禄4(1595)年、増田長盛は堀を造り近世城郭として形を整えました。その後、水野氏、松平氏、本多氏と城主を代えた後、現在の城郭は享保9(1724)年の柳澤吉里の頃のものです。本丸は天守閣を中央に天守曲輪と本丸曲輪が接続して、この周りを内堀(=本丸堀)が囲む構造です。以後柳澤15万石が明治迄続きました。


写真K1-1:郡山城の東側入口の石垣。 右が郡山城の東側の入口の石垣です。写真で堀の右側に近鉄橿原線が通って居ます。ここを左の方に入って行くと「鉄御門跡」の石柱が立って居ます(左下の写真)。
写真K1-2:郡山城の「鉄御門跡」の石柱。
写真K2-1:柳澤神社。

 本丸跡には柳澤神社が鎮座して居ます(右の写真)。石柱には「祭神 旧川越・甲府城主 柳澤美濃守吉保公」と刻まれている通り、柳澤家中興の祖・柳澤吉保を祭神(※11)にした神社です。
 

 左下が柳澤神社の拝殿、右下が本殿です。
写真K2-3:柳澤神社の本殿。写真K2-2:柳澤神社の拝殿。

 柳澤氏は甲斐国出身で元は武田氏家臣、近世の譜代大名家です。武田氏没落後、安忠が徳川氏の下に入り、後に館林藩の徳川綱吉に仕え、安忠の子・吉保は将軍職を継いだ綱吉の下で異例の昇進を遂げ、荻生徂徠らの学者を重用して元禄期の幕政を主導しました。元禄14(1701)年、松平姓を与えられ宝永元(1704)年甲府15万石余を領し、宝永6(1709)年綱吉の死後、家督を吉里に譲り隠居、保山と号しました。享保9(1724)年、吉里の時に大和国郡山に転封、以後代々郡山藩主として維新を迎えました。

 城内には柳澤家代々の資料を展示する柳沢文庫が在ります(左の写真)。

 これは昭和35(1960)年に郷土の有志が柳澤家歴代藩主の書籍を展示する為に郡山城毘沙門曲輪に設立しました。現在は図書館として利用されて居ます(右が内部の写真)。



 右が追手東隅櫓です(04年5月25日に撮影)。説明板に拠ると、この櫓は元は法印斜曲輪巽角櫓と呼ばれていたそうで柳澤氏入城後に今の呼び方に成りました。小型の櫓で、古絵城図の中にこの櫓の肩に「今太鼓櫓」と記したものが在るのは、当時はこの櫓は太鼓を備え時刻を知らせていたからです。{この写真は04年9月28日に追加}
  


写真K3-4:天守台の石垣。 右が天守台の石垣で、荒々しい野面積みです。この石垣には逆さに成った地蔵(さかさ地蔵)が見られます。前述の様に順慶は石垣が不足し様々の庭石や石仏を利用したのです。
 左下が本丸から東の眺望です。山の辺の道方面の山が見えて居ます。手前に見えているのは城内の休憩所・大和郡山市民会館です。
写真K3-3:城内の郡山市民会館。
写真K4:堀の内側の石垣。



 堀の外は巡回出来る様に成っていて、「極楽橋跡」「馬場先門跡」「五拾間馬場」などという石柱が立って居ます。
 右が堀の外側、北から見た堀の内側の石垣です。枯れた松の木が在りました。
 しかし04年10月15日に行ったら、野面積みの石垣で右の様な表示を見付けました。
      危険
    石垣が崩れる恐れ
    があります。
    絶対に登らないで
    下さい。

と書いて在りました。

 順慶が突貫工事で作った野面積みの石垣の脆さがこういう所に出ていると思いました。{この写真は05年3月10日に追加} 

 下が再建された大手向櫓と大手門です。春には約1000本もの桜が咲く、花見の名所の一つです。
写真K5:大手向櫓と大手門。

 (2)城内の学校
写真K6-1:城址内の郡山高校。
 郡山城址内には現在2つの高校が建って居ます。内堀の南に在るのが郡山高校(右の写真)、西に在るのが城内高校です。郡山高校の地は嘗ての二の丸の地で、藩主の居館と松倉蔵が在り、城内高校の地には麒麟曲輪が在りました。
 

 左下が郡山高校の南の鷺池(さぎいけ)です。右下が城内高校の南西の西公園の南西に在る鰻堀池(うなぎぼりいけ)です。
写真K6-2:外堀跡の鷺池。写真K6-3:外堀跡の鰻堀池。
 鰻堀池の説明板に拠ると、昔より地元の人が農業用水として利用して来たもので、郡山城築城の際には内堀として利用された、と在ります。
    {この節は04年9月28日に追加}

 (3)永慶寺

写真K7-1:郡山城唯一の遺構の永慶寺山門。 永慶寺(永慶寺町)は柳澤家の菩提寺です(右の写真)。郡山城唯一の遺構とされる南門 -黒塗りの木造切妻桟瓦葺(△6のp21)- が永慶寺の山門として移築されて残って居ます。04年5月25日はご覧の様に工事中でした。
 永慶寺は黄檗宗の禅寺で、山号を龍華山と言います。宝永2(1705)年柳澤吉保が甲斐国山梨郡岩窪村に菩提寺として建立したものを、享保9(1724)年に子の吉里が郡山城に国替えの命を受けたので大和郡山に移しました(△6のp21)。


 04年10月15日に行ったら門の工事は終わって居ました(右の写真)。リニューアルした山門の左には板に「宗現録提唱」と書かれて居ます。山門の右の石柱には「黄檗宗 龍華山 永慶寺」と陰刻されてます。{この写真は05年3月10日に追加}

 寺には柳澤吉保と夫人の坐像が安置されて居ます。

 (4)春岳院と大納言塚

 春岳院(新中町2)には04年12月4日に訪ねました。ここは豊臣秀長の菩提寺で、山号を如意山、宗派は高野山真言宗です。
 元は東光寺と言いましたが秀長の菩提寺に成ってから、秀長の戒名に因み春岳院と改めました。
 左が春岳院の山門です。山門の右の石柱に「春岳院」と大きく刻まれて居ますが、他は字が小さくて読めませんでした。
 本堂は正徳元(1711)年再建と伝わり、狩野貞信筆の秀長画像箱本制度で使われた御朱印箱→後出)など、秀長時代の郡山を伝えるものが数多く在ります。寺宝は足利尊氏の念持仏と言われる千手観音で、他に「七重石塔と四方仏」も在ります。
 右の写真がその戒名
  「秀長公戒名
   大光院殿前亜相春岳紹栄大居士
   天正十九年一月二十二日夜 享年五十一」

と書かれて居ます。
 この様に本堂の中に上がって戒名などを見せて貰ったら、住職は「有り難い戒名を拝んで行け」と言って先ず自分から拝みました(左の写真)。住職の後ろに豊臣秀長公の坐像が在ります、それを拡大したのが中央の写真です。



 (仕方無く)私も拝みました、「あぁ、有り難や、有り難や!」(右の写真)。住職が私の写真を撮って呉れました、サービス精神は旺盛です!

 秀長関連で言うと、大納言塚(箕山町14)が在ります(右の写真、04年12月3日撮影)。案内板に拠ると、秀長の初めの菩提寺の大光院は移転し、新たに菩提寺と成った春岳院に託されたのです。上の戒名で大光院殿前亜相」と在るのは、その事を指します。墓所は一時荒廃しましたが安永6(1777)年に春岳院の僧や地元住民らの努力に依り現在の様な高さ2mの五輪塔が建立されました。
 右の写真では、大納言塚の手前に「本箱」(←右から読む)と陰刻された石柱が在ります。これが箱本制度の箱本を表して居ます。
    {この節は05年3月10日に追加}

    ◆大和郡山の城郭と遊郭

 この住職は中々面白いと感じ、実は明日、「関西歴史散歩の会」(会長:下村治男)という会が在り「大和郡山の城郭と遊郭」という題で私が皆さんに説明し乍ら大和郡山の町を案内する事に成っていて、そこでちょっと喋って呉れませんか?、と言ったら「それじゃあ、秀長公の話をしてやろう」と快諾して戴きました。
 コースは

  近鉄郡山駅 → 大和郡山城跡 → 柳沢神社 → 柳沢文庫
    → 永慶寺 → 鷺池・鰻堀池(昼食) → 箱本十三町
    → 薬園八幡宮 → 源九郎稲荷神社 → 春岳院(住職の話)
    → 洞泉寺町遊郭 → 東岡町遊郭 → 郡山八幡宮

というものでした。春岳院の住職の話は前日に決まったものなので予定には入って居ません。因みに、【参考文献】△6は04年10月15日に大和郡山図書館で必要部分をコピーしたものです。

 [ちょっと一言]方向指示(次) 「関西歴史散歩の会」毎月第1日曜日の歴史散歩の例会に勝手に参加して次回の場所と集合時間をそこで知る、という遣り方なので入会/退会の手続きは不要で会員番号も有りません。私は2003年頃から、この会に参加して居ます。

 そして04年12月5日(日)の当日、午後2時半頃に春岳院に到着しました。
 左が当日皆さんの前で秀長公や春岳院や大和郡山の事を説明した住職です。この”にこやかな顔”を見て下さい、上の”ぶっきらぼう”な顔と見比べて下さい。住職、貴方は役者ですな~あ!!
 そして右が前出した御朱印箱です。箱には「郡山 總町中」と書いて在ります。住職の話は非常に面白く好評でした。
 無事に終わり、ほっとして居ます。会が解散した後、私は1人で郡山八幡宮近くの大門湯で疲れを癒し、大和郡山の飲み屋で飲んだビールは最高でした!!

 後日、会より戴いた当日の写真を載せます。左下の写真は柳沢文庫の前の会員。右下はハンドスピーカーを持ち大和郡山城の大手門の前で説明している私です、私はカエルの帽子を被って居ますね。






←後列右端が会長
    {この節は05年3月10日に追加}

 尚、大和郡山の金魚や箱本制度や城下町については▼下▼をご覧下さい。{このリンクは05年3月10日に追加}
  大和郡山の城下町(The castle town, Yamato-Koriyama, Nara)

 大和郡山の遊郭や大門湯については▼下▼をご覧下さい。{このリンクは2011年9月28日に追加}
  大和郡山の遊郭街(Red light district, Yamato-Koriyama, Nara)

 ■豊臣秀長と秀吉の比較論
    - ナンバー・ツウ(No.2)の秀長を中心に

 秀長(※10)は秀吉の異父弟で、大和/紀伊/和泉と伊賀の一部を領有する100万石の太守として郡山城主に成り大和大納言と呼ばれました。行政に於いても箱本制度と呼ばれる町方自治組織を育成し商工業の発展に寄与したとされて居ます。性格も温厚で地元の評判も良く大納言様と慕われて居ます。
 一方の秀吉(※10-1)は贔屓方から敵視方迄評価は様々ですが、特にルイス・フロイス(※5-1) -フロイスは多聞城の所で前出- には”ぼろ糞”に言われて居ます。それは秀吉の性格の悪さと前言をころころと引っ繰り返す為で、それは彼が書いた『日本史』を読めば判ります。私はルイス・フロイス以上の秀吉に対する辛辣な意見を知りません。そこでフロイスの秀吉感が良く出で居る箇所を、少し長いですが紹介しましょう。

 「ところで事態をより明らかに理解するためには、まず関白(秀吉)の素性および性格を知っておくと少なからず役立つであろう。
    ...<中略>...
 彼は美濃の国の出で、貧しい百姓の伜として生まれた。若い頃には山で薪を刈り、それを売って生計を立てていた。彼は今なお、その当時のことを秘密にしておくことができないで、極貧の際には古い蓆(むしろ)以外に身を掩(おお)うものとてはなかったと述懐しているほどである。だが勇敢策略に長けていた。
 ついでそうした賤しい仕事を止めて、戦士として奉公し始め、徐々に出世して美濃国主から注目され、戦争の際に挙用されるに至った。信長は、美濃国を征服し終えると、秀吉が優れた兵士であり騎士であることを認め、その封禄を増し、いっぽう、彼の政庁における評判も高まった。しかし彼は、がんらい下賤の生まれであったから、重立った武将たちと騎行する際には、馬から降り、他の貴族たちは馬上に留まるを常とした。
 彼は身長が低く、また醜悪な容貌の持主で、片手には六本の指があった。眼がとび出ており、シナ人のように鬚が少なかった。男児にも女児にも恵まれず、抜け目なき策略家であった。
    ...<中略>...
 齢(よわい)すでに五十を過ぎていながら、肉欲不品行においてきわめて放縦に振舞い、野望と肉欲が、彼から正常な判断力を奪いとったかに思われた。この極悪の欲情は、彼においては止まるところを知らず、その全身を支配していた。彼は政庁内に大身たちの若い娘たちを三百名も留めているのみならず、訪れて行く種々の城に、また別の多数の娘たちを置いていた。彼がそうしたすべての諸国を訪れる際に、主な目的の一つとしたのは見目麗しい乙女を探し出すことであった。彼の権力は絶大であったから、その意に逆らう者とてはなく、彼は、国主や君侯、貴族、平民の娘たちをば、なんら恥じることも恐れることもなく、またその親たちが流す多くの涙を完全に無視した上で収奪した。彼は尊大な性格であったから、自らがこれらの悪癖が度を過ぎることについてもまったく盲目であった。彼は自分の行為がいかに賤しく不正で卑劣であるかにぜんぜん気付かぬばかりか、これを自慢し、誇りとし、その残忍きわまる悪癖が満悦し命令するままに振舞って自ら楽しんでいた。」


という部分です(△3-1のp202~204)。
 これを読めば一目瞭然です。フロイスが悪癖と呼んでいるものが、秀吉の「肉欲と不品行」に起因し、しかも秀吉はそれを「自慢誇りとし自ら楽しんでいた」ので、これ以上どうしようも無い訳です。フロイスの秀吉評は当たっていると思います。「男児にも女児にも恵まれず」と在りますが、秀吉は後に側室の淀君(名は茶茶) -室(しつ)は若い方が良い!- に男児(後の秀頼)が出来ます。この胤(たね)が秀吉のもので無いとする説や小説は多く、この件はそちらに譲ります。すると秀吉は後を継がせようとしていた養子の秀次を自殺させます。しかし、淀君は徳川家康に攻められ遂に大坂城に於いて後継ぎの秀頼は母(=淀君)と自刃して果てますが、私はこれを秀吉の「肉欲と不品行」の成れの果てだと思って居ます、つまり自業自得です。しかし「片手には六本の指があった」は凄いですね、これ程辛辣な言葉は有りません!!
 私は更に晩年の秀吉はパラノイアであるという結論に至って居ます。それについては
  2003年・「忍の浮城」-武蔵忍城(The Oshi floating-castle, Gyoda, Saitama, 2003)

をお読み下さい。

              ◇◆◇◆◇

 秀長は誠に優等生の感がしますが、所詮は秀長はナンバー・ツウ(No.2)でしか無いと思います。もし秀吉が居なかったら、秀長では身分制の枠を越えられず百姓の伜で一生を終わったでしょう。秀吉はこれを”猿” -秀吉を”猿”と呼んだのは「美濃国主」の信長です- の様な身軽さで乗り越えて仕舞います。秀長が100万石の太守に成れたのも「肉欲と不品行」で尊大な秀吉が在ってこそなのです。幾ら悪く書かれようが、やはり或る時期にナンバー・ワン(No.1)に成ることは大変な事であり、又幸運にも恵まれないと中々No.1には成れません。秀吉には「それが有った」という事です。しかし秀吉は「この日本国を弟の美濃殿(羽柴秀長)に譲り、予自らは専心して朝鮮とシナを征服することに従事したい。」と語っている(△3-1のp99)通り、秀長を信頼していたことは確かです。
 大和郡山城の話から秀長と秀吉の比較論に成ったので「秀長を中心に」比較論を進めて来た積もりですが何しろ客観的な文献はどれも秀吉のことばかりで、秀長については非常に少ないのです。まぁ、これがNo.1とNo.2との違いなのです。即ち、

    優等生の秀長     対     「肉欲と不品行」で尊大な秀吉
       ↑                  ↑
       │ No.2はNo.1が在ってこそ  │
  文献資料は│  ←─────────────  │大量の文献資料
   殆ど無し│                  │
      No.2               No.1

という図式に成る訳です。フーム、これは色々考えさせられました!!

 ■結び - 城こそ人間ドラマの晴れ舞台

 戦国時代の戦い、それは正に城取り合戦です。城を守り城を攻める、それ故に城には様々な知恵が懲らされて居ます。私は城跡の光景には「兵(つわもの)どもが夢の跡」(※12)という思いを何時も感じて仕舞いますが、その中から城を巡る人間ドラマを浮かび上がらせる、これが私の城を見る楽しみの一つです。そういう意味で戦国の城こそ人間ドラマの晴れ舞台なのです。
 しかし

  人は城 人は石垣 人は堀

などと宣った柳澤吉保・吉里親子の同郷人が居りましたね(※13)。フーム、城は奥が深い!!
 この次は筒井城へ向かいます。この続きは[松永久秀と筒井順慶・その2]で記します!!

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φ-- つづく --ψ

【脚注】
※1:[1].東大寺(とうだいじ)は、奈良市に在る華厳宗総本山。別称、金光明四天王護国之寺・大華厳寺・城大寺・総国分寺。南都七大寺の一。745年(天平17)聖武天皇に依り創建、本尊は「奈良の大仏」として知られる盧舎那仏(るしゃなぶつ)(=毘盧遮那仏(びるしゃなぶつ))。751年(天平勝宝3)大仏殿(金堂)完成、翌年開眼供養を行い、754年に唐僧鑑真(がんじん)に依り日本で最初の戒壇院を設立、日本三戒壇の一。9世紀には広大な荘園と僧兵とを有して寺勢を誇った。草創以来の堂舎として法華堂・転害門(てがいもん)・経庫及び正倉院を残し、天平時代作の仏像を蔵し、又、鎌倉時代再興の南大門の仁王は運慶・快慶の合作。現存の大仏殿は江戸中期の再興で、世界最大の木造建築
 [2].(聖武天皇朝、中国から奉献、東大寺に納めたから言う)香の名の蘭奢待(らんじゃたい)を指す。
※1-1:盧舎那仏(るしゃなぶつ)は、〔仏〕毘盧遮那仏(びるしゃなぶつ)に同じ。旧訳(くやく)華厳経で用いられた音写語。
※1-2:毘盧遮那仏(びるしゃなぶつ)とは、(毘盧遮那(びるしゃな)は Vairocana[梵]で「輝きわたるもの」の意。光明遍照と訳す)華厳経などの教主で、万物を照らす宇宙的存在としての仏。密教では大日如来と同じ。「毘盧遮那」は新訳華厳経で、「盧舎那仏」は旧訳華厳経で用いられる。遮那。舎那。遍照遮那仏。
※1-3:国分寺(こくぶんじ/こくぶじ)は、741年(天平13)聖武天皇の勅願に依って、五穀豊穣・国家鎮護の為、国分尼寺と共に国毎に建立された寺。正式には金光明四天王護国之寺と言う。奈良の東大寺を総国分寺とした。
※1-4:蘭奢待(らんじゃたい)とは、聖武天皇の時代、中国から渡来したという名香。東大寺正倉院宝物目録には黄熟香と在る。「蘭奢待」には「東大寺」の3字が隠されて居ると言う。熱帯地方に産する伽羅(きゃら)の木の芯から採ったもので、現在約1.5m、13kgを正倉院(=元は東大寺の宝蔵で勅封倉、現在は宮内庁の管轄)に保管。
 補足すると、東大寺の蘭奢待は1465(寛正6)年に足利義政が、1574(天正2)年に織田信長が、1877(明治10)年に明治天皇が切り取ったことが、付箋で明らかです。
※1-5:信長の蘭奢待切り取りは、「信長公記」に信長が1574年3月28日に家来を遣わし6尺(=約1.8m)の長持に納められた蘭奢待を多聞城へ持参させ1寸8分(=約5.5cm)を切り取らせた旨が在り、更に「唯ならぬ事」とも記されて居ます(△7のp167~168)。

※2:松永久秀(まつながひさひで)は、室町末期の武将(1510~1577)。三好長慶の家臣。弾正少弼。大和の多聞城・信貴山城の城主。主家を滅ぼし、1565年に足利義輝を暗殺、67年には東大寺大仏殿を焼失させた。織田信長入京の際降伏したが、後に叛いて信貴山城で敗死。<出典:一部「日本史人物辞典」(山川出版社)より>
※2-1:三好長慶(みよしながよし)は、戦国時代の武将(1522~1564)。管領細川晴元の臣。1549年(天文18)晴元らと戦って勝ち、52年入京、将軍足利義輝を頂いて権勢を振るった。晩年はその臣松永久秀に圧倒された。
※2-2:三好三人衆(みよしさんにんしゅう)は、戦国末期の武将三好長慶の家臣、三好長逸(ながゆき)・岩成友通三好政康の三人の称。長慶の死後、養子の義継を擁して専権をふるい、松永久秀・織田信長らと争ったが次第に衰えた。

※3:平景清(たいらのかげきよ)は、平安末期の平家方の武将(?~1196)。藤原忠清の子。体が大きく力が強かったので悪七兵衛(あくしちびょうえ)と称された。屋島の戦に美尾谷十郎と接戦、その兜の錏(しころ)を断った話は有名。壇ノ浦の戦後、源氏に降り、後に絶食して没。
 補足すると、平景清は頼朝を30回以上も狙った話、阿古屋との恋愛、娘人丸との哀話、断食して生命を絶った話、最後は日向に下り自らの眼を刳り貫いた話、などの伝説に包まれて居て能・幸若舞・浄瑠璃・謡曲・歌舞伎など様々に脚色され、又、宮崎市下北方町の生目神社は怨霊の権化である景清の「刳り貫かれた眼」を祀る、と言われて居ます。

※4:多聞櫓(たもんやぐら)とは、城の石垣上の長屋。城壁を兼ね、兵器庫などに用いる。松永久秀多聞城で始めたから言う。多聞。
※4-1:出城(でじろ)とは、本城の周辺に築いた城。〈日葡〉。←→根城。
※4-2:城割り(しろわり)とは、城郭を破却すること。織豊期から江戸初期に、大名の居城、或いは根城以外の在地領主の城郭を破却したこと。
※4-3:根城(ねじろ)とは、この場合、根拠とする城。主将の居城。←→出城(でじろ)。

※5:ルイス・アルメイダ(Luis de Almeida)は、ポルトガル人の外科医・イエズス会士(1525~1583)。1552年(天文21)来日、生涯をキリスト教の伝道に捧げ、傍ら豊後の府内に育児院・病院を興し、医療事業に尽力。天草で没。
※5-1:ルイス・フロイス(Luis Frois)は、ポルトガルのイエズス会士(1532~1597)。インドで司祭と成り、1563年(永禄6)来日。長崎で日本二十六聖人の殉教を目撃し、滞日中140余通の日本通信を本国に送り、又49年(天文18)以降の布教史「日本史」を執筆。長崎で没。

※6:小悪(しょうあく)とは、小さな悪事。又、それを行う人←→大悪。
※6-1:大悪(だいあく)とは、酷く大きな悪事。又、それを行う人。極悪。大兇。「―無道(ぶどう)」。←→小悪。
※6-2:「小盗は拘(とら)われ 大盗は諸侯と成る」の諺の元は
  鉤(かぎ)を窃む者は誅せられ、国を窃む者は諸侯となる
という「荘子」の格言。

※7:足利義輝(あしかがよしてる)は、室町幕府第13代将軍(1536~1565、在職1546~1565)。義晴の子。初め義藤と称す。三好・松永氏に圧迫され、松永久秀らに攻められて殺された。
※7-1:足利義昭(あしかがよしあき)は、室町幕府第15代将軍(1537~1597、在職1568~1573)。義晴の子。興福寺一乗院門跡と成り覚慶。還俗して初め義秋。織田信長に擁立されて将軍と成ったが、後に不和を生じ、1573年(天正1)京都を追われる。諸国を流浪、豊臣秀吉に保護され、大坂に没。

※8:織田信長(おだのぶなが)は、戦国・安土時代の武将(1534~1582)。信秀の次子。今川義元を桶狭間(おけはざま)に破り、1567年(永禄10)斎藤竜興を稲葉山城(後の岐阜城)に滅ぼして、そこに移った。翌68年(永禄11)足利義昭を擁して上洛したが、義昭が信長を排斥する動きを示すと、71年(元亀2)これに加担した延暦寺を焼き討ちし、73年(天正元)義昭を追放し浅井・朝倉氏をも滅ぼし、室町幕府を滅ぼす。次いで75年(天正3)徳川家康と同盟して武田勝頼(信玄の子)を長篠の戦いで破り、翌年(天正4)安土城を築いてここに移った。77年(天正5)以後中国地方に出兵し、80年(天正8)本願寺光佐を服従させた。しかし82年(天正10)毛利氏討伐の豊臣秀吉の援軍に行く途中、京都の本能寺で家臣の明智光秀に襲われて自害。<出典:一部「学研新世紀ビジュアル百科辞典」より>

※9:ハーフティンバー(half timber)とは、(半木造の意)骨組が木造で、土台・柱・斜材・梁などを組み合わせた軸組の間に、煉瓦・石などを充填する建築構造。

※10:豊臣秀長(とよとみひでなが)は、秀吉の異父弟で、織豊期の武将(1537~95)。秀吉と同じく木下姓、羽柴姓、そして豊臣姓と成る。天正13(1585)年の紀伊攻めや四国平定に活躍し、秀吉の片腕的存在。同年、大和郡山城主として大和・紀伊・和泉と伊賀の一部を領有、後に大和大納言と呼ばれた。九州攻めや小田原攻めにも参陣。<出展:「日本史人物辞典」(山川出版社)>
 補足すると、東大寺大仏殿の修築や領国内に溜池を作って居ます。
※10-1:豊臣秀吉(とよとみひでよし)は、戦国・安土桃山時代の武将(1537~1598、一説に1536~1598)。尾張国中村の人。木下弥右衛門の子。幼名、日吉丸。初名、藤吉郎。15歳で松下之綱(ゆきつな)の下男、後に織田信長に仕え、やがて羽柴秀吉と名乗り、本能寺の変後、明智光秀を滅ぼし、四国・北国・九州・関東・奥羽を平定して天下を統一。この間、1583年(天正11)大坂に築城、85年関白、翌年豊臣の姓を賜り太政大臣、91年関白を養子秀次に譲って太閤と称。明を征服しようとして文禄・慶長の役を起し朝鮮に出兵、戦半ばで病没。

※11:柳澤吉保/柳沢吉保(やなぎさわよしやす)は、江戸中期の幕府老中(1658~1714)。名は元は保明。美濃守。徳川綱吉の側用人を経て、老中に列し、甲府藩主となる。綱吉の没後、致仕。

※12:「兵(つわもの)どもが夢の跡」は、松尾芭蕉の「奥の細道」の句
  夏草や 兵(つわもの)どもが 夢の跡
からの引用。

※13:「人は城 人は石垣 人は堀」は、武田信玄の作として『甲陽軍鑑』に引用されて居る
  人は城 人は石垣 人は堀 情は味方 讎(あだ)は敵なり
という歌の一部です(△8のp239)。
 信玄は孫子の兵法をかじっていて、発想が独特な武将です。信玄が軍旗に書いた有名な「風林火山」も『孫子』-「軍争篇」の一節
  疾如(はやきことかぜのごとく)、
  徐如(しずかなることはやしのごとし)、
  侵掠如(しんりゃくすることひのごとく)、
  不動如(うごかざることやまのごとし)
の略記です。

    (以上、出典は主に広辞苑です)

【参考文献】
△1:「日本古城友の会」第479回例会資料『大和 多聞山城を偲んで』。

△2:『別冊歴史読本 日本「廃城」総覧』(新人物往来社編・発行)。

△3:『完訳フロイス 日本史1』(ルイス・フロイス著、松田毅一・川崎桃太訳、中公文庫)。
△3-1:『完訳フロイス 日本史4』(ルイス・フロイス著、松田毅一・川崎桃太訳、中公文庫)。

△4:『カラーブックス 茶道入門』(井口海仙著、保育社)。

△5:『歴史と旅臨時増刊 日本城郭総覧』(鈴木亨編、秋田書店)。

△6:『ふるさと大和郡山 歴史事典』(大和郡山市文化財審議会編、大和郡山市発行)。

△7:『信長公記』(太田牛一著、奥野高広・岩沢愿彦校注、角川文庫)。

△8:『甲陽軍鑑(中)』(作者不詳、腰原哲朗訳、教育社新書)。

●関連リンク
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ノラ猫狂詩曲(What's new PUSSYCATS ?, Japan)
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2010年・年頭所感-吼えよ若者!(Roar, YOUNG MEN !, 2010 beginning)
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2003年・但馬八木城(Ruins of Yagi castle, Hyogo, 2003)
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2003年・「忍の浮城」-武蔵忍城
(The Oshi floating-castle, Gyoda, Saitama, 2003)

「日本古城友の会」や「関西歴史散歩の会」のサイト▼
外部サイトへ一発リンク!(External links '1-PATSU !')


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