−− 2003.06.18 エルニーニョ深沢(ElNino Fukazawa)
2003.11.26 改訂
03年6月8日(日)、「日本古城友の会」(尾原隆男会長)の皆さんに付いて但馬の山城(※1、※1−1)・八木城跡に行って来ました。因みに私は「日本古城友の会」の”付録会員”です。何故って私の会員番号は「ふ−6」だからです、アッハッハッハ!
朝8時30分に森之宮神社前に集合し、観光バス(何とバスガール付きです)で中国自動車道で福崎を経て播但連絡道で和田山へ行き和田山町立郷土歴史館を見学、養父町の但馬楽座で昼食後、八鹿町から国道9号に入り八木城の山の下迄行きます。そこからは徒歩で八木城跡迄山を登りました。帰りは同じ道を下山しバスも同じ道を戻り、森之宮神社前で解散というスケジュールです。前日は雨でしたがこの日は天候に恵まれ、大した渋滞にも遭わず順調に往復出来ました。
→ 地図を見る(Open the map)
播但連絡道で和田山町に入る少し手前(時間にして10分位前)に、前方の山の頂上に名城・但馬竹田城跡の石垣(国指定史跡、※2)が道路から見えました。バスはこの竹田城跡の山をトンネルで抜けて行き、トンネルを抜けると逆方向からも石垣が見えます。石垣は特に麓から見上げると何かのモニュメントの様で美しく、とても崇高な感じがします。この日探索する八木城も竹田城には及びませんが同じ山城です。
然う斯うする内に和田山町に入り、私たちは和田山町立郷土歴史館(兵庫県朝来郡和田山町寺内)に寄りました。昭和52年(1977)、京極家陣屋跡(旧寺内小学校跡)に開館したもので、右の写真がその陣屋の門で、門の奥に見える建物が展示館です。
ところで但馬には古代の古墳群(※3)が可なり在り、この和田山町にも城の山古墳(三角縁神獣鏡などを出土)や秋葉山古墳群が在ります。そんな関係からこの歴史館の庭には但馬最大の前方後円墳・池田古墳を1/10に縮小したミニチュアが在りました。ということはこの辺りには古墳時代から可なりの数の人々が住み着いて居たのですね。
そして昼飯。しかも豪華にも −と言うのは何時もは野っ原で「握り飯」ですから− 但馬楽座(兵庫県養父郡養父町)という温泉付きドライブインで豪勢な昼食(刺身、天麩羅、茶碗蒸、冷やしうどん、...etc)です。旨かった、ビールも飲んだしこの儘温泉入って寝ていたい気分を奮い起こして、「城跡見物、否城山登山」に行きました。
右の写真は但馬楽座から北を撮った風景で、写っている川は丸山川支流の大屋川です。
ここは「養父」と書いてヤブと読みますが、この付近には大藪とか藪崎、上藪崎など「藪」の字を当てたヤブと読む地名が多いのです、藪が多かったのですかねえ。私は元々は「養父」も「藪」だと思いますが、どうでしょうか?
ところで養父と言えば鯉ですが、私は観賞用の鯉には余り興味有りませんが、食う方の鯉には興味有りまっせ、アレ旨いでっせ!、特に「洗い」(※4)が好いですねこの季節は、しかし養父の鯉は知名度が売れて居る所為か高いですな、滋賀県行ったら安く食えますよ、一緒ですよ味は。
昼食後バスで国道9号脇の八木城の山の下迄行き、ここから徒歩で登ります。ここは兵庫県養父郡八鹿町八木。登り口に下の写真の様な案内板が在り、簡単な道案内と今は「八木城歴史の森」と成っている一帯の植生などを説明して居ます。下の写真で現在地と記された地点が今居る下八木ルートの登山口です。
国指定史跡の八木城遺跡は以下の4ヶ所の遺跡を総合したものです(△1)。
[1].穴太積(※1−2)の石垣を持つ八木城跡(織豊時代)
[2].土塁の縄張(※1−3)を残す八木土城(南北朝時代)
[3].畑ヶ中の八木氏屋敷・殿屋敷跡(鎌倉時代)
(鎌倉時代の中国陶磁器多数、和鏡、石鍋などを出土)
[4].畑ヶ中に祖神を祀った地の赤淵遺跡(鎌倉時代)
[1]、[2]はこれから登る山の上に在り、[3]、[4]はこの山の東方の平地に在ります。[3]は登山口の東方250m位の所に位置し、[4]は[3]の北方300m位の所に在ります。
さて八木城跡を探索する前に少し八木城の歴史と沿革について整理して置きましょう。この項は読まずに飛ばしても良いですよ。
八鹿は古代「屋岡(やおか)の里」と呼ばれ、屋岡は「八桑枝」のことで桑の葉が良く繁った様子を表して居て、何時の頃からか「屋岡」を「八鹿」と書く様に成ったと言います。八木の地は古来より但馬と因幡を結ぶ要衝の地で、平安時代末期の康平6年(1063)頃、閉伊四郎頼国が源義家から但馬国八木の地を与えられ治めました。[2]の八木土城はこの時に最初に築城されたとの説も在ります。
その後、鎌倉初頭の建久5年(1194)に朝倉高清が源頼朝から但馬国朝倉(八木の東隣の国)を与えられ城を築きましたが、領有権を巡って閉伊氏と朝倉氏が対立し閉伊氏が滅ぼされます。そして高清の次男重清が八木庄に入り八木安高と名乗り、八木庄に館を築きました。その屋敷跡が[3]で、屋敷跡の前には「古市場」という地名も残って居ます。
この様に八木氏と朝倉氏は共に日下部を本姓とし、共通の祖神・表米親王(孝徳天皇の子)を祭神とする赤淵神社を祀る同族です(※5)。八木氏が居館の北方300m程の地に赤淵神社を祀った跡とされるのが[4]で、今は天保6年(1835)に灌漑及び防火用に掘られた赤淵池が在ります。以後、八木氏は15代300余年に亘ってこの地で栄えます。[2]の八木土城は細い尾根上に一直線に曲輪が続く南北朝時代の築城様式を残して居ます。
室町から戦国時代には但馬守護の山名氏の家老格として太田垣氏・垣屋氏・田結庄氏と共に「山名四天王」と呼ばれ、この頃が八木氏のピークでした。
天正8年(1580)織田方の統領・羽柴秀吉の但馬侵攻で、毛利方の八木但馬守豊信は降伏し秀吉の家臣に成り、続く因幡攻めの時には秀吉傘下の武将として前線の因幡若桜鬼ヶ城に移されますが、吉川元春(毛利元就の子)に攻められ失脚しました(※6)。
替わりに天正13年(1585)に播磨の別所重棟が八木に1万5千石で入城し、[1]の穴太積の石垣の城に改築したのです。別所氏は重棟の子の吉治が関が原の合戦に石田三成方に与した為に丹波園部に移封され、八木城は廃城に成りました。
一方八木氏の嫡系は関ヶ原の合戦で徳川家康方に就いた為、代々徳川氏の旗本(4千石)として幕末に至って居ます。
いやあ、徳川の旗本と成った八木氏や【脚注】※6の九州での八木氏のその後の命脈を見ると、歴史に翻弄され乍らも滅びずしぶとく系図を連ねている、という感じで面白いですね。さて、山に登る前にここでウィスキーで「気付け」をして置きましょう!
(1)八木城跡
さあ、愈々八木城跡への”登山”です。登山口から登ると直ぐに、右の写真の様な細い山道に成ります。雑木はやがて竹林や杉や赤松の林に変わりますが、樹木が陽光を遮って呉れるので立ち止まると涼しくて汗が引き気持ち好いです。
登る途中の所々には名も知らぬ草花やヤマツツジなどの花が咲いて居ました(下の写真)。そして約20分位登った所に少し展望のきく場所が在り、そこには右下の写真の「秋葉さん」と呼ばれる小さな像が岩を掘って安置されて居ます。これは静岡県に総本社を置く秋葉神社(※7)の主祭神である火之迦具土神(ひのかぐつちのかみ)の像(※7−1)だと思いますよ。城を火災から守る為の護符・魔除けですね。と同時にここから城郭域に入るという結界でもあります。
「秋葉さん」から5、6分で曲輪(※1−4)の台地に行き着き、その先端には左の写真の様な「三ツ顔さん」と呼ばれて居る2体の石彫仏像が在ります。それは2体の内の左側の像の顔が3つ有るからです、写真を良くご覧下さい。右側の像は千手仏で、手が幾つも在ります。
更に7、8分で主郭(※1−5)の下迄来ますが、ここには2体の観音像ですかねえ、左の写真の様に手を合わせている石彫仏像が在ります。
右の写真はこの辺りで良く見掛けた蛇苺の実です、毒は有りませんが普通食いません。真っ赤な色が綺麗でした。
もう一息で主郭です。
左が主郭の上八木城郭本丸跡(※1−5)の全景で、「本丸跡」という石柱が立って居ます、ここは標高330m。石柱の背後に少し高く成っている台地が本丸の天守台跡です。天守と言っても後世の城の様な豪奢な天守閣などを想像しては行けません。その背後に見える小山が八木土城跡の在る山で標高409mです。
左の写真は私です。その右の写真は上の全景写真の右側の樹木の背後に在る3体の石彫仏像を拡大したものです。亡き戦士の魂を鎮めて居るかの様です。
左の写真は本丸跡から「ふるやが谷」下の八木川及び川に架かる橋とその先の琴弾トンネルを樹木の間から見下ろしたものですが、実はこの「ふるやが」「琴弾」という地名には八木城に纏わる悲しい伝説が秘められて居ます。
<八木城の「血の谷」「琴弾」伝説>
先ず「ふるやが谷」は「降る矢が谷」です。建久5年(1194)に朝倉高清が土城の閉伊氏を攻め滅ぼした時、両軍の戦いは熾烈を極め矢が降る程であったのが由来とされて居ます。又、別名「血の谷」とも言われ両軍の兵士から流れ出した血が谷川を何時迄も赤く染めて消えなかったそうです。
「琴弾」の地名は、城の姫たちが近くの峠に出て琴を弾いたので「琴弾峠」と言われる様に成ったとか、落城に際して姫たちが峠に来て炎に包まれて居る城を見て嘆き悲しみ乍ら琴を弾いたから、と言い伝えられて居ます。
フーム、壮絶な戦いだったのですね。私は伝説のことは全く知らずに上の写真を撮ったのです。
{この伝説は03年11月26日に追加}
そして右の写真が主郭の南下から、ぐっと張り出した主郭の櫓台石垣を写したもので、八木城跡として良く紹介される写真です。
右上の櫓台石垣の角下の右側の坂を登った所に桝型虎口(※1−6)の跡が在ります。
右の写真は右上の櫓台石垣の左に連なる主郭の高石垣(高さ9.3m)で、但馬竹田城と同じ穴太積(※1−2)です。
今はもうすっかり草に覆われて石垣の部分が余り見えません。この辺は冬は雪が積もるので、露出した石垣を見るには早春か晩秋が一番良いそうです。
左の写真は高石垣の西側の角の部分を見上げたものです。
土城跡を見に行った帰りには同じアングル上空に月が出て居ましたので、後で月の写真をご覧下さい。
この城は八木川の流れる城下町側(南側)に向かって3方に石垣が積まれて在り、背面(北側)は今滝寺川に落ち込む自然の急斜面に任せた儘で石垣は在りません。
(2)八木土城跡
八木城本丸跡から400m程北西に尾根伝いに登って行くと(約15分)、曲輪が階段状に直線的に続く土城跡が在ります。頂上が主郭跡で16m×12m、高さ0.8mの土塁で、ここは標高409mです。左下の写真が主郭上から北側を見た様子です。
ここから更に奥に下って行くと堀切跡が在ります。右下の写真は堀切跡から戻って来る途中の赤松林です。
(3)再び八木城本丸跡
土城から戻り再び本丸跡で集合・休憩しました。左下の写真は本丸の天守台跡と目される台地の上で説明して居る尾原会長と同行のメンバーたちです。その背後に見えるのが今往復して来た土城の在る山です。
右下の上の写真は戻って来て主郭の石垣の西の角を見上げた時に、未だ明るい夕空に出ていた月です、『荒城の月』という歌が在りますね。その下は本丸跡に幾つか咲いていて印象的だった薊(アザミ)の花です。左下の写真でも手前に小さく写って居ますよ。
以上で城郭跡の見学を終了し元来た道を下山しました。下の写真2枚は下山して登山口近く迄降りて来た時に撮った写真です。左下が城下町の佇まい、右下は東側の村落と山々です。
八木は小さい乍らも嘗ての城下町、西方寺・永照寺・柳谷寺・実行寺・薬師堂など町の規模に比べ寺の数が多い所です。
八木土城及び石城合わせて、山上の砦という感じでした。石垣は夏草が覆い始めて居ましたが、ここは冬は結構雪が積もる所で厳しいものが有ります。山城、それは正に「兵(つわもの)どもが夢の跡」(※8)です。こんな砦に立て籠もり、松林を吹き抜ける風の音を聞き夜は煌煌と照る月を見て、兵(つわもの)たちの心は如何ばかりならむ、ですね。
そんな想いで登山口近く迄降りて来たら、右の写真の真っ白いホタルブクロ(蛍袋)の花(※9)が咲いて居ました。花の外側は白いですが内側には紫の斑点が有り、釣鐘型の花が妙に未練気でした。
帰りはバスで同じ道を戻ったのですが、「日本古城友の会」でもう30年以上も活動して居るという古参の会員がバスの中でカラオケを始め、バスガールとデュエット迄してヤンヤの喝采を浴びて盛り上がりました。尾原会長も唄いましたよ。
この日も又オ・モ・シ・ロかった!!
\(^O^)/
【脚注】
※1:城郭用語には独特の表現が多いので、このページに出て来る城郭用語を以下に纏めて列記して置きます。<出典:【参考文献】△2のp362〜363>
※1−1:城の築かれて居る地形に依り、江戸の儒学者・荻生徂徠が平城、平山城、山城に分類したのが始まり。
山城(やまじろ/さんじょう、mountain-castle)とは、通常独立した山頂に築かれ山頂の平坦部に段状に曲輪の配置が為されて居る城を言う。日本では、古代に北九州の大野城、近畿の高安城などが最初。これらは古代朝鮮の築城法の影響を受けて居るとされ、古代山城(又は朝鮮式山城)と言う。以後これに倣い中世〜戦国に掛けて自然の要塞としての地形を利用した山城が多数造られ、中世山城と言う。中世城郭には山城が多く、戦闘専用の砦(=詰の城)としての性格が強く、居住用には「根小屋」と言われる館を山麓に構える場合が多い。
※1−2:穴太積石垣(あのうづみいしがき)とは、織田信長の安土城築城を皮切りに近江穴太(あのう)の石垣師(=穴太衆)の整然とした強固な石垣を言い、その石積み技法は近世城郭の端緒を開いた。
※1−3:縄張(なわばり)とは、城を築く場所を選定(=地取り、選地)した所に、機能・目的に応じて設計し曲輪や虎口の配置を決めること。配置工事する際に縄打ちすることから縄張と言う。
※1−4:曲輪/郭/廓(くるわ)とは、一定の区域の周囲に築いた土や石の囲い。
※1−5:主郭(しゅかく)/本丸(ほんまる)とは、一城内に於いて中心を成す曲輪。
※1−6:虎口(こぐち)とは、城の内外、曲輪間の出入口のことで、小さく出入口を築く「小口」から来ている。
※2:但馬竹田城(たじまたけだじょう)は、(兵庫県朝来(あさご)郡和田山町竹田)但馬の守護大名の山名宗全が嘉吉年間(1441年頃)に13年を費やして築いたと伝えられる。当初は土塁の城で山名氏の武将・太田垣氏が5代に亘って治めた。しかし天正5(1577)年、羽柴秀吉の2度の但馬征伐で落城、その後赤松広秀が城主と成り文禄年間から慶長の初期(1600年頃)に、安土城と同じ近江穴太(あのう)流石積技法の現在の石垣城郭を築いた。南北400m東西100mで、完存する遺構としては全国屈指。虎が臥せている様にも見えることから、別名「虎臥城」とも。
※3:朝来町の船宮古墳群、村岡町の八幡山古墳群、養父町の大藪古墳群、八鹿町の箕谷古墳群(みいだに―、戊辰年銘大刀が出土)など。何れも国造(くにのみやつこ)や県主(あがたぬし)などの豪族の墳墓と考えられる。
※4:洗い(あらい)とは、この場合、(「洗膾」、「洗魚」とも書く)コイ・タイ・スズキなどの肉の生身を冷水や氷で洗い縮ませた刺身で、夏の味覚。
※5:戦国大名として有名な朝倉義景の越前朝倉氏も但馬の日下部姓朝倉氏出身で、一乗谷にも赤淵神社が祀られて居る。朝倉高景の時に足利尊氏に従い但馬から越前に移る。
朝倉氏や八木氏は各地に赤淵神社を建てるが、養父郡和田山町牧田の赤淵神社が本社。枚田内高山の麓、507年に創建されたと伝えられる式内社。現在の本殿は室町時代初期に建てられ、国の重要文化財。三間社流造、柿葺(こけらぶき)。又、勅使門は元禄7年(1694)に八木城主・八木勘十郎宗織が大願主と成って再建し、寛政9年(1797)修理したと伝えられる。更に平成3年度(1991)には文化庁の補助に依り「平成の大修理」と言われる本殿と履屋を改修。
※6:八鹿町教委と宮崎県史編纂室の調査で、都城の島津家文書に残されて居た豊信の手紙と和歌2首が2000年に直筆と判明し、八木豊信は若桜鬼ヶ城落城後、日向の佐土原島津家(島津家の一支族)に仕えていたことが明かにされたそうです。薩摩や日向の島津家には多くの八木一族が居り今でも鹿児島には八木姓が多いことから、南九州の八木氏は但馬八木氏の子孫の可能性が高まったと言えます(△1)。
※7:秋葉神社(あきばじんじゃ)は、静岡県周智郡春野町の秋葉山に在る元県社。祭神は火之迦具土神(ひのかぐつちのかみ)。火難除け(火伏せ)の信仰と12月15・16日の火祭で有名。
※7−1:[火之]迦具土神([ひの]かぐつちのかみ)は、記紀神話で、伊弉諾・伊弉冉2尊の子。火を司る神。誕生の際、母を焼死させた為、父に切り殺される。火産霊神(ほむすびのかみ)。
※8:松尾芭蕉の「奥の細道」の句
夏草や 兵(つわもの)どもが 夢の跡
からの引用。
※9:蛍袋/山小菜(ほたるぶくろ)は、キキョウ科の多年草。原野・路傍などに自生し、高さ30〜50cm。夏、茎頂に淡紫色又は白の大きな鐘形花を数個下垂、その様が提灯(古名を火垂る(ほたる))に似る。山地のものは紅紫色を帯びる。若芽は食用。
(以上、出典は主に広辞苑です)
【参考文献】
△1:「日本古城友の会」第476回例会資料『但馬・八鹿 八木城を訪ねて』。
△2:『別冊歴史読本 日本「廃城」総覧』(新人物往来社編・発行)。
●関連リンク
@参照ページ(Reference-Page):兵庫県八鹿町八木の地図▼
地図−日本・兵庫県の城(Map of castles, Hyogo -Japan-)
静岡県で神威を誇る秋葉神社▼
2006年・金谷急ぎ旅(Kanaya hurryingly, Oi-river Railway, 2006)
『荒城の月』の歌▼
2003年・豊後岡城の「荒城の月」
(Moon over the ruined Oka castle, Oita, 2003)
「日本古城友の会」のサイト▼
外部サイトへ一発リンク!(External links '1-PATSU !')