2003年・豊後岡城の「荒城の月」
[2003年・九州の旅#2]
(Moon over the ruined Oka castle, Oita, 2003)

−− 2003.12.21 エルニーニョ深沢(ElNino Fukazawa)
2003.12.23 改訂

 ■はじめに − 遂に豊後竹田の岡城へ

 03年11月30日(日)、遂に豊後竹田(たけた)(※1)の岡城(又は竹田城)を訪ねる機会に恵まれ、予てから訪ねてみたいと思っていた岡城の石垣に遂に登ることが出来ました、そして「荒城の月」も(→豊後竹田の地図)。
 大分県の西南部を筑後川の支流の大山川に沿って国道212号で南に進むとやがて熊本県に入り、小国(おくに)に着きます。ここは火の国、馬刺しの本場、阿蘇高原には馬肉専門店が在り地元の人は相当な量の馬肉を買い込みますが私は旅の途中なので馬刺しを2人前食べました、肉が新鮮で旨い(←大阪は冷凍肉を解凍したヤツ)。あんまり旨いので写真を撮るのを忘・れ・ま・し・た!!

            (>_<)...スンマヘン

    ◆車窓から久住山を眺めて

 竹田市を目指し国道442号に入って南東に向かい田の原温泉、黒川温泉郷辺りに来ると車窓から左前方に西日を浴びて輝く九重連山(くじゅうれんざん)の峰々が見えて来ました。九重連山は鐘状火山の集合で、久住山(標高1787m)、中岳(1791m、最高点)、星生山(ほっしょうさん、1762m)、大船山(だいせんやま、1786m)、三俣山(1745m)、黒岳(1587m)などの総称です。
 下の2枚は何れも走行中の車から撮った久住山の山容で、見る角度に依りその姿を刻々と変えて行きます。
写真a−1:九重連山。
 右が黒川温泉郷辺りから、つまり久住山の北西側から撮ったもので、良く見ると3つの峰が見えます。左の峰から順に、星生山、中岳、久住山です。この中岳が九州の最高峰です。
 下は西を通過する時撮った久住山です。
写真a−2:西から見た久住山。
 車はこの後、阿蘇へ通じる「やまなみハイウェイ」と交差し再び大分県に入りますが、ここは「阿蘇くじゅう国立公園」の真っ只中で久住高原の眺望は素晴らしく、北に今通って来た九重連山、西には阿蘇外輪の高原(=波野原)が連続して連なりその背後に以外と近く阿蘇山が見えます。この日は半曇り状態だったので阿蘇山の頂上は雲に隠れて居ましたが、日が沈む方向に阿蘇山麓の高原がずっと見渡せ、正に360度の大パノラマです。高原には天然記念物のコケモモミヤマキリシマの群生地も在ります。車は久住高原を下り乍ら竹田市に向かいます。

 [ちょっと一言]方向指示(次) 通常ここで言う久住山と中岳を合わせて主峰・久住山と呼んで居る様です。以下は【参考文献】△1よりの抜粋です。孫引きですがそれに拠ると、この山群も富山県の立山などと同様に、修験道や山岳仏教の聖地として開かれたのです。
 先ず「九重」と「久住」の対立は、延暦年間(782〜806年)に久住山猪鹿狼寺(いからじ)が、正中元(1324)年に九重山法華院白水寺が相対立して開山し、その山号をその儘引き継いで来た所に発祥して居る様です。地図を見て戴ければお解りですが、山群の北に九重町(ここのえちょう)、南に久住町(くじゅうちょう)が在ります。そして九重町には「法華院温泉」(ここが嘗ての法華院白水寺で、現在も十一面観音が祀られて居るそうです)とか「阿蘇野白水温泉」という地名が在り、久住町には「猪鹿狼寺」が今でも在ります(天正の兵乱(1573〜92年)で本堂を残し全焼し、寛永年間(1624〜44)に現在地に移ったそうで、こちらにも十一面観音が在ります)。長い間山名を九重とするか久住とするかの論争が有った様ですが、結局「山群を九重、その主峰を久住」とする今の形に落ち着きました。
 次に「くじゅう」という読みについても諸説有り、古くは「くじう」で、神代の
  「くしふるの峰」の「くしふる」→ 「くじう」
とか『万葉集』の
  朽網山(くたみやま)の「くたみ」→ 「くさみ」→ 「くすみ」
   → 久住(くすみ)→ 久住(くじう)
とかの説が在ります。
 それにしても「猪鹿狼(いから)」とはスゴイですね、多分昔は猪や鹿や狼が沢山居たのかも知れません、私は一瞬「猪鹿蝶」か?!、と思って仕舞いましたよ、ウワッハッハッハ!!

 ■『唱歌「荒城の月」』の源郷 − 豊後竹田の岡城

 竹田市は盆地です。北の九重連山、東の佩楯山(はいだてやま)、南の祖母山系、西の阿蘇の高原に囲まれて居て、盆地に降りると西日が山に遮られ辺りは夕暮れて薄暗く成りました。やがてJR豊肥本線の豊後竹田駅脇の踏切を北西から横切り、可愛らしい駅舎の南東側へ回り込んで竹田市の中心街へ入ります。駅前と言っても毳毳(けばけば)しい装いは何も無く、鄙びた田舎町という感じです。岡城は駅から東方2km位の所に在り車で7、8分で城址の駐車場に到着しました。もう5時近くで駐車場の売店が店仕舞いした所でしたが未だ滝廉太郎の『荒城の月』(後出)のメロディーが流れて居ました。ここからは歩きです。
 駐車場の売店から歩いて数分で、大手門への登り口に着きます(左下の写真)。坂道の途中に案内書などに良く載っている「史蹟 岡城址」の石柱が立っているのが見えます。岡城は竹田盆地の中の天神山の上に築城され、ここが既に山の中腹です。既に日没寸前だったので、私は急ぎ足でこの坂道を登りました。
写真b−1:岡城址の登り口。
 岡城(或いは竹田城)、ここは大分県竹田市大字竹田字岡です。城の外観が牛が臥せた姿に見えたことから別名は臥牛城(がぎゅうじょう)です。
 文治元(1185)年に大野部緒方荘の豊後武士団棟梁・緒方三郎惟栄(これよし)が頼朝に追われて居た源義経を迎える為に下原口に砦を築いたのが初めとされて居ますが、惟栄は大持浦(兵庫県)を出航しようとして捕らえられ、翌年上野国(群馬県)沼田荘に流されて居ます。
 その後建武年間(1333〜38年)に、当時豊後を領して居た藤原秀郷流の大友氏(※2、※3〜※3−1)の支族で大野荘志賀村南方の志賀貞朝(※3−2)が、後醍醐天皇の命令でこの砦を修築し北朝側と戦ったとされて居ますが、それは騎牟礼城(きむれのしろ)で、志賀氏の入城は南北朝半ばの応安2(1369)年以後だそうです。
 ここに入城後は頂上の天神山に本丸を築き岡城と命名し、以後17代・260年間に亘り志賀氏が居城しましたが、天正14(1586)年に若干18歳の志賀親次が城主の時に島津義弘の薩摩軍に激しく攻められしも城は死守、豊臣秀吉から褒状を賜わりました。しかし文禄2(1593)年大友義統(よしむね)の時に文禄の役の過失で大友氏改易に因り退去しました。
 翌文禄3(1594)年に播磨国三木城から中川秀成が6万6千石(総勢4千人)で入部して城を大改修し近世城郭を築き、本丸は慶長元(1597)年に完成し、寛文3(1662)年には西の丸が完成。その後も増改築され本丸南西には安永3(1774)年に3層4階の天守閣と本丸御殿が築かれ、二の丸には御殿・月見櫓・御風呂櫓、本丸西方の三の丸に武器庫、西の丸には武家屋敷がそれぞれ配置され、秀成以後13代・277年間中川氏が居城し明治に至りました。
 ところが明治に成って廃藩置県に拠り中川氏が東京に移住する事に成り、明治7(1874)年城主を失った城は大分県(←大分県に成る前に一時”岡県”に成る)が実施した払い下げの為に城内の建物は全て破却されたのです。故に今は往時を偲ぶ石垣のみが残っているという訳です。


 駐車場の説明板に拠ると、それ以降更に荒廃して居たものを昭和6(1931)年から公園として整備し、城址は今は国指定史蹟に成って居ますが、「遅きに失した」ということでしょう。しかし城は最高部に本丸を置き、その北から西に二の丸と三の丸を配し、南側は白滝川が流れる深い谷に落ちる絶壁、北側は地獄谷を隔てて稲葉川に対して居て、自然の地形を生かした典型的な中世の山城であることが今でも確認出来ます(以上、城址及び駐車場の説明板と【参考文献】△2)。


写真b−2:岡城址西側の石垣。


 私は城のあちこちを急いで見て回りました。以下は城址の風景です。

 右が城址西側・三の丸の石垣です。ご覧の様に高くて重量感溢れる石垣に、赤や黄色の紅葉が彩りを添えより一層引き立たせて居ます。高さは20m位有るでしょうか、噂に違わぬ名石垣です。
 この石垣を見て「美しい」と感じる方は古城ファンに成れますよ。
写真b−3:岡城址の本丸の岡城天満神社。写真b−4:岡城天満神社の扁額。 本丸跡には左の写真の岡城天満神社が在ります。右はその内部に掛けられた社名の扁額。天井には絵が描かれて居ます。

 岡城の説明の所で既に記しましたが、ここは嘗て天神山と呼ばれて居た所ですので、天満宮が在るのでしょう。祭神は当然の事乍ら菅原道真です。
 

 岡城の縄張(※4)は下の絵の如く東西に細長く連なる連郭式です(この絵は城址の説明板の絵を基にして居ます)。臥牛の様に見えるでしょうか。
絵b−1:岡城の縄張図。



+→東

 左下が三の丸から西に阿蘇山を望んだもので、日没直後です。雲が掛かりはっきりとはして居ませんが、入り日の右側のシルエットが阿蘇山です。
 右下は二の丸から北側の地獄谷の背後に広がる紅葉と、その向こうの九州アルプス(九重連山から由布岳)方面の眺望です。私の足元からは地獄谷へ急斜面で落ちて居ます。ご覧の様に今が紅葉真っ盛りで、昼間であればもっと鮮やかに写っていたことと思われます。
写真b−5:岡城址から西に阿蘇山を望む。写真b−6:岡城址から北の紅葉。
 日が沈むと急に暗く寒く成って来ましたが、私はこの後南側の絶壁の谷を見る為に南に回り、淵に立って下を覗き込むと、下は既に暗くそれが余計に深淵の底を思わせ、何やら足の裏が擽(くすぐ)ったく成る例の”足が竦(すく)む感じ”を体験しました。上から見るとどの位の高さか判断出来ませんが、恐らく100m位は有るのでは、と思われます。
 良く見ると白滝川に沿って道路が在るらしく、ほんの時偶、車のヘッドライトが通過するのが見えました。

 その後、東の突端迄駆け足で行き引き返して来ました。気が付くと辺りはすっかり青紫色の夜の帷に包まれて、少しずつ黒さを増して行くのが判ります。そして元来た登り口(今度は降り口)に向かう途中ふと南の空を見上げたら流れる雲間から上弦の月が見えて居ます。これぞ正しく「荒城の月」と思い、円柱状の大岩の陰からシャッターを切りました、それが下の写真です。晩秋の「荒城の夜半の月」は格別な寂寥感が有ります。
写真b−7:岡城の「荒城の月」。
写真b−8:上弦の月のアップ。
 右がその月だけをもう一度アップで撮ったものです。後で調べるとこの日は旧暦の11月7日、即ちこの月は「7日の月」、ご覧の様に旧暦7日は必ず上弦の月に成ります。
 

    ◆『唱歌「荒城の月」』

 東京生まれでしたが父の転勤で少年時代をここ竹田で過ごした滝廉太郎(※1−1)は、東京音楽学校(後の東京芸術大学音楽部)在学中の明治33(1900)年土井晩翠(※5)の詩に曲を付け『中学校唱歌「荒城の月」』として作曲しましが、滝は「荒城」のイメージを第2の故郷の岡城から得ました。

 現在『唱歌「荒城の月」』の城として、土井晩翠は生まれ故郷の仙台の青葉城や晩翠が好んだという会津若松の鶴ヶ城がモデルです(→会津若松の地図)。しかし『唱歌「荒城の月」』は晩翠と滝のイメージの相乗で、滝はこの岡城を心に描きながら作曲しました。竹田の岡城は「荒城」という題名が持つ”荒れ果てた”感じにぴったりです。しかも前述の様に岡城は『荒城の月』が作曲された明治年間が最も”荒れ果てた”時期でした。
 下が土井晩翠の『荒城の月』の歌詞です。

         荒城の月       土井晩翠

    1  春高楼の花の宴
       めぐる盃影さして
       千代の松が枝わけ出でし
       むかしの光いまいづこ

     2  秋陣営の霜の色
        鳴き行く雁の数見せて
        植うるつるぎに照りそひし
        むかしの光今いづこ

      3  いま荒城のよはの月
         変らぬ光たがためぞ
         垣に残るはただかづら
         松に歌ふはただあらし

       4  天上影は変らねど
          栄枯は移る世の姿
          写さんとてか今もなほ
          あゝ荒城の夜半の月

 滝はこの曲が中学生唱歌に当選した直後の明治34(1901)年にライプツィヒ音楽院に留学しますが肺結核で翌年帰国、明治36(1903)年に療養先の大分で没しました。それは『荒城の月』作曲の3年後、僅か23年の短い生涯でした。
 ところで滝廉太郎の歌碑(譜碑)を生まれ故郷の東京で見付けました。

 ■日本のナイアガラ − 原尻の滝

 さて滝と言えば、恐らく九州以外の方には殆ど知られて無い滝が岡城の東方、車で15分位の所に在ります。それには先程見た岡城の南側の絶壁の下の道路を通って行きます。それでその絶壁の下を通過した時上を見上げてみましたが、もう暗くて石垣は見えませんでした。そればかりか城址と空との境界さえも判然としませんでした。
 原尻の滝(左下の写真、大分県大野郡緒方町原尻)は竹田市の南を流れる緒方川の途中に在ります。そう、前述の緒方三郎惟栄の出身地がこの辺りなのです。この滝の特徴はご覧の様にナイアガラ瀑布(※6)の如く横幅が広いことで、地元では”東洋のナイアガラ”とか”日本のナイアガラ”と呼び習わして居ますが、”東洋”はちょっとオーバーでアジア諸国に申し訳無い気がしますので、私は”日本のナイアガラ”にして置きます。高さ20m、幅120m、柱状節理の断層(※7)で、「日本の滝百選」にも選定されて居ます。
写真c−1:東洋のナイアガラ−原尻の滝。写真c−2:原尻の滝の傍の不動明王坐像。
 中々迫力が有るでしょ、ここ迄飛沫が飛んで来ます。こういう滝は私も初めて目にしました。
 滝に着いた時はすっかり夜に成っていて、それでも眼では見えるのですが写真にするには完璧に光量不足、安物のデジカメで「夜モード」にして10枚近く撮った中でやっと下の写真が撮れました。元々はもっと暗い画像なのですが、パソコンで明るく補正してやっとこの程度です。まあ、少しは”ナイアガラ的”であることが解って貰えるものと思います。
 そして右上の写真が滝近くの河岸、丁度上の写真で私が撮影の為に立った地点の近くに在った不動明王の坐像(※8)です。

 ■結び − 昔の光、今何処

 私は今迄知りませんでした、岡城天守が潰されたのが明治に入ってから、ということを。戦乱の世を生き延びた城が、城攻めでは無く廃藩置県後払い下げの為に潰された、とは。それには明治の廃城令 −「城郭存廃決定」− が有ったのです。
 明治元(1868)年江戸城は新政府に開け渡され「東亰城(とうけいじょう)」(※9)と改称、翌2年版籍奉還と成りこの時点で約260の城郭が在りました(内6つの幕府城は新政府持城)。続いて明治4年に全城郭を兵部省築造司の管理下に入れ、明治5年12月を明治6年1月に改め兵部省を陸軍省に改称し「城郭存廃決定」を下したのです。存城と成った58城は陸軍基地として建物は処分され、廃城と成った城郭は士族授産の名目で公示入札後に破却されました。この徹底的な破壊には戊辰戦争(会津若松城)や西南戦争(熊本城)や函館戦争(五稜郭)の苦い経験が影響して居る様です。
 城を破却し使えなくすることを城郭の専門用語では城割(しろわり)と言いますが、実はこれを最初に実行したのが織田信長で豊臣秀吉もこれに倣い、徳川家康の「一国一城令」へと連なります。城割は天下の主(あるじ)が誰であるかを”眼に見える形”で知らしめる効果が有るます。明治新政府の城割は廃仏毀釈・天皇絶対制と横一線の歩調を合わせ乍ら、縦の線では戦国武将の戦略を踏襲したものでしょう。
 しかし一旦失われたものは戻りません、浮世の栄華盛衰を見詰めて来た廃城跡は「世の無常」を私たちに語り掛けて来る様です。正に「昔の光、今何処(いずこ)」ですね。
                (-_*)

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φ−− おしまい −−ψ

【脚注】
※1:竹田(たけた)は、大分県南西部の市。元、中川氏7万石の城下町滝廉太郎「荒城の月」を作曲した岡城跡(又は竹田城跡)が在り、又画家田能村竹田(ちくでん)の旧宅竹田荘が在る。人口1万8千。
※1−1:滝廉太郎(たきれんたろう)は、ピアノ奏者・作曲家(1879〜1903)。東京生れ。父の任地大分県竹田などに住む。東京音楽学校卒。1901年(明治34)「中学唱歌」の作曲募集に「荒城の月」「箱根八里」などが当選。同年ライプツィヒ音楽院に留学、病を得て帰国。歌曲集「四季」(「花」を収める)など。

※2:藤原秀郷(ふじわらのひでさと)は、平安中期の下野の豪族。(生没年未詳:890頃〜950頃か)。左大臣魚名の子孫と言われる。田原(俵)藤太とも。下野掾・押領使。940年(天慶3)平将門の乱を平らげ、功に依って鎮守府将軍。弓術に秀で、百足(むかで)退治などの伝説が多い。

※3:大友氏(おおともし)は、中世豊後国の大名。初代・能直(よしなお)の父は藤原秀郷流の近藤能成(よしなり)、母も同流の大友経家の女。後に中原親能(ちかよし)の養子と成り相模国大友郷(現神奈川県小田原市)を支配し大友氏を称した。源頼朝の有力御家人で、筑後・豊後両国の守護と成る。宗麟(=義鎮(よししげ))の時代(1530〜87年)が全盛期で筑前・筑後・豊前・豊後・肥前・肥後6国の守護に成る。キリスト教を保護し南蛮貿易で活躍するが、その権益を巡り島津氏に大敗し衰退。宗麟の子・義統(よしむね)は秀吉から豊後1国を安堵されたが文禄の役の過失で改易。子孫は徳川氏に仕え高家(こうけ)に成った。支族に詫摩・志賀・田原各氏が居る。<出典:「日本史人物辞典」(山川出版社)>
※3−1:高家(こうけ)とは、江戸幕府の職名。幕府の儀式・典礼、朝廷への使節、伊勢神宮・日光東照宮への代参、勅使の接待、朝廷との間の諸礼を司った家。室町時代以来の名家、大沢/武田/畠山/大友/吉良など26家が世襲奥高家とも言い、官位を持たないのを表高家と言う。
※3−2:志賀氏(しがし)は、中世の豊後の豪族。藤原秀郷流大友氏の支族。大友氏初代・能直(よしなお)の八男・能郷(よしさと)が大野荘志賀村南方(現大分県朝地町)の地頭と成り、志賀氏を称したのに始まる。能郷の嫡子・泰朝は元寇の時勲功を立てる。泰朝の惣領家は後に岡城に移り、大友氏の加判衆として活躍。泰朝の兄弟・禅季の庶子家も南山城(みなみやまじょう、現久住町)に移る。岡城を退去した親次は後秀吉から知行を与えられ、その子孫は肥後細川氏に仕え明治に至る。「志賀文書」は中世武士団研究に不可欠の資料。<出典:「日本史人物辞典」(山川出版社)>

※4:縄張(なわばり)とは、城を築く場所を選定(=地取り)した場所に、機能・目的に応じて設計し曲輪や虎口の配置を決めること。配置工事する際に縄打ちすることから縄張と言う。

※5:土井晩翠(つちいばんすい)は、(「どい」でも通用)詩人(1871〜1952)。本名、林吉。仙台生れ。東大卒。二高教授。詩集「天地有情」「暁鐘」の他「イリアス」「オデュッセイア」の邦訳などが在る。文化勲章。

※6:ナイアガラ瀑布(―ばくふ、Niagara Falls)は、アメリカ合衆国とカナダとの国境を流れるナイアガラ川に在る大瀑布。エリー湖の流出口から約35kmの地に位置し、ゴート島で二分されてカナダ瀑布・アメリカ瀑布と成る。前者は幅約700m、高さ54m、後者は幅約300m、高さ56m。

※7:柱状節理(ちゅうじょうせつり、columnar joint)とは、マグマが冷却固結する時に生ずる柱状の割れ目。多く岩脈・岩床・溶岩などに生ずる。兵庫県玄武洞・福井県東尋坊などは火山岩に生じた柱状節理の為に出来た奇勝。

※8:不動明王(ふどうみょうおう)は、(Acalanatha[梵]、「動かざる尊者」の意)五大明王・八大明王の一。仏典では最初、大日如来の使者として登場し、やがて大日如来が教化し難い衆生を救う為に忿怒(ふんぬ)の姿を仮に現したものとする。普通、一面二臂で、右手に降魔の剣を持ち、左手に羂索(けんさく)を持つ。矜羯羅(こんがら)・制た迦(せいたか)の2童子などを従える。不動尊。無動尊。
※8−1:羂索(けんさく、けんざく)とは、〔仏〕[1].一端に金剛杵(こんごうしょ)の半形を付け、他端に鐶(かん)を付けた青・黄・赤・白・黒の5色線を撚(よ)った索条。不動明王・不空羂索観音などの持つもので、衆生摂取の象徴とする。本来は鳥獣を捕る罠(わな)。
 [2].凡夫(ぼんぶ)が我見に束縛される譬え。

※9:「亰」は「京」と同じく「みやこ」の意味ですが、この字を使います。

    (以上、出典は主に広辞苑です)

【参考文献】
△1:『日本百名山』(深田久弥著、新潮文庫)。

△2:『日本の名城・古城』(井上宗和著、角川文庫)。

●関連リンク
参照ページ(Reference-Page):大分県竹田市の地図▼
地図−日本・大分県(Map of Oita prefecture, -Japan-)
参照ページ(Reference-Page):会津若松(鶴ヶ城)の地図▼
地図−日本・福島県(Map of Fukushima prefecture, -Japan-)
参照ページ(Reference-Page):日本の旧暦について▼
資料−「太陽・月と暦」早解り(Quick guide to 'Sun, Moon, and CALENDAR')
「猪鹿蝶」とは▼
2005年・丹波篠山牡丹鍋(The BOAR STEW of Sasayama, Hyogo, 2005)
「昔の光、今何処」の他の例▼
阪堺電車沿線の風景−堺編(Along the Hankai-Line, Sakai)
阪堺電車沿線の風景−浜寺編(Along the Hankai-Line, Hamadera)
旧暦の7日が必ず上弦の月に成る理由▼
2003年・交野七夕伝説を訪ねて(Vega and Altair legend of Katano, 2003)
東京の滝廉太郎の歌碑(譜碑)▼
ぶらり浅草(Drift in and trip out Asakusa, Tokyo)


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