-- 2010.01.01 エルニーニョ深沢(ElNino Fukazawa)
2010.01.08 改訂
■はじめに - 寅年に因んで
今年は寅年(とらどし)です。猫族の私は”我が族”の族長たる虎(※1) -因みに猫族は両頭制(=双頭制)でもう一人の族長はライオン(獅子、※2)です(→それについては後述)- には親近感から大いにハッスルして貰いたいと常日頃から思って居ます、何しろ猫は十二支に入れなかったですから。
そして虎と言えば、私はどうしても阪神タイガースが気になるのですが、今は”眠り猫”を決め込んでる様で中々目覚める気配が無いですね。私も期待して無いのでタイガースの話はしたく有りません。しかし、2008年の子年(ねどし) -子(ね)は十二支の先頭- から「年頭所感」で十二支に関係の有る神社をご紹介して居ますので、今年もそうします。ところが、そうすると話が阪神タイガースに行って仕舞うのです、以下をご覧戴ければその訳が解ります。
まぁ、神社に初詣でする道すがら「寅」や「虎」に纏わる四方山話でも聞いて遣って下さい。
■「虎」を含む熟語や諺
先ず、冒頭で引き合いに出した我が猫族の両頭政治(dyarchy)について述べましょう。つまり、虎とライオン(獅子)の両頭は「棲み分け」(※3)して居るのです。【脚注】※1、※2に在る様に、虎は東北アジア/東南アジア/インドに分布、ライオンは熱帯のアフリカからインドに分布、唯一インドで共存しますがトラは森林を単独行、ライオンは草原を家族群で生活しますので「棲み分け」が成り立って居ます。共に夜行性ですが、これはネコ科(=猫族)に共通の属性 -私もどちらかと言えば夜行性- です。従って虎とライオンの”両頭は並び立つ”という訳で、世間では取り合わせの良好例として「牡丹に唐獅子、竹に虎」(△1)などと並び称して居ます。序でに言うと映画「唐獅子牡丹」の題の由来はこれですね。
しかし虎同志は並び立たないらしく「両虎相搏(う)つ」や「両虎相闘えば勢い倶(とも)に生きず」(※4)など、中国の「両虎相闘」を起源とする諺が在り、後には両雄が争った後に第三者が得をするの譬えに成りました(△2のp81)。
中国にはライオンは居なかったので古来から虎を「百獣の王」と考えて来ました(△2のp101、△3のp63)。皆さんも良くご存知の「虎の威を借る狐」の諺も中国起源の「狐仮虎威」からで、『戦国策』楚策一の
或る時、虎が狐を捕まえて食おうとすると、狐が「余は天に定められし”百獣の王”なるぞ、余を食らえば天に背く事に成るぞ。嘘だと思うなら余に付いて来い。」と威張って見せました。虎は半信半疑乍ら狐の後を行くと行き会う獣共が皆逃げ出すのを見て、虎は百獣が本当は自分を恐れて逃げた事を知らずに、騙された狐に感心しました。
という話が元です(△2のp78~79)。この話は中国で虎が「百獣の王」と考えられて居たからこそ成立した訳で、虎威という熟語は強者が弱者の群れを威圧する事を指します。実在する動物の中で並ぶ者の無い虎は竜虎と言われ、中国の想像上の最強神たる竜と並び称される存在に成り、更には方位を守る四神の一つとして神格化されました。即ち、
東の青竜、西の白虎、南の朱雀、北の玄武
です。虎は西の方位の守護神です。これは高松塚古墳の彩色壁画古墳で御馴染みですね、又相撲で「青房下に寄り切り」などと言う「青房、白房、赤房(←朱)、黒房(←玄(くろ))」もそうで、土俵の吊り屋根の各方位には四神が祀られて居ます。
さて熟語や諺の虎に戻ると、「虎に翼」は「鬼に金棒」と同意、「虎の尾を踏む」は極めて危険度が高い行為、「虎を野に放つ」は元凶を断たず看過して後で大害を被ること、「張り子の虎」とは虚勢を張る人、「前門の虎、後門の狼」は「一難去って又一難」と同意、と虎は人々から非常に恐れられて居ましたが「苛政は虎よりも猛し」は”苛酷な政治”はもっと怖いと教えて居ます。日常良く使うものとして虎視眈々は機会を狙って様子を窺う様(△1)、「虎の巻」は「秘伝の書」のことで転じて「安直な学習書」を指します。
辞書を引いてたら虎刺という熟語に出会(くわ)しました。”虎の刺身”では無いですよ!、これで「ありどおし」と読み蟻通し(※5)という植物のことです。棘が細いので蟻をも通す、長いので虎をも刺すという意味でしょう。もう一つ虎落(もがり)という語も見付けました。これは先を斜めに削いだ竹を筋違いに組んだ垣根のことで元は中国で「虎を防ぐ柵」として開発され後に合戦用の柵や紺屋の物干しに応用されたそうです。虎口(ここう、こぐち)は「虎の口」の意味で極めて危険な場所のことですが、特に城の専門用語の虎口(こぐち)は城門に枡形を造り直進出来ない様にした要所を指します。虎皮(こひ)は虎の皮が昔は貴人の敷物だった事から「上席」や「儒者の講席」を指しますが「虎皮の褌」を穿くのは雷神でしたね。「虎の子」「虎子」は非常に大切なものの譬えで野球でも「虎の子の1点を守り切った」などと言い、「虎穴に入らずんば虎子を得ず」は危険を恐れて居ては功名(=虎子)も立てられない、「虎子地に落ちて牛を食らうの気有り」は虎の子供は生れた直ぐ後から牛を食う程の気性を持って居るの意味ですが、十二支の順番でも寅(虎)が丑(牛)を直ぐ背後から追尾して居ます。おお怖~~、私は丑年なのです!
(>v<)
■虎に纏わる話
(1)虎斑の蝶 - ギフチョウ
虎の熟語をもう一つ。虎の毛皮の様な模様を虎斑(とらふ)と言いますが、その典型例の一つがギフチョウ(岐阜蝶)(※6)です。右の写真は昨年4月3日に岐阜県谷汲で撮ったもので、ほぼ実物大です。アゲハチョウ科なのでアゲハチョウ(揚羽蝶)に似て居ますが小型で良く見ると斑紋が全く違います(→アゲハチョウはココをクリック)。”昆虫屋”の私は希少種のギフチョウを撮影する為に態々朝5時に起き大垣から樽見鉄道に乗り継いで10時前に現場に着きましたが、谷汲は私にとって大変”験(げん)が好い場所”なので苦に成りません。
ところでギフチョウは、【脚注】に在る様に明治時代に岐阜県本巣出身の昆虫学者・名和靖氏(※6-1)が岐阜県で”発見”したのが名称由来 -谷汲と本巣は共に樽見鉄道の駅が在り距離的に近く、現在岐阜市には名和昆虫博物館が在ります- ですが、実はギフチョウは江戸時代の岸岱(がんたい、1782~1865年)という絵師の筆で「こんぴらさま」として有名な金刀比羅宮奥書院の『群蝶図』に描かれて居たのです。又、江戸時代の図録にも錦蝶(にしきちょう)という名で記載が在りますので厳密には再発見でした。何故新発見と思ったか?、それは上述の如く当時から希少種だった所為です。その存在が極僅かの好事家(=私の様な”数寄者/好き者”)以外には知られて無かったんですね。
07年の暮れ~08年1月に金刀比羅宮の書院が一般公開された機会に、”数寄者/好き者”の私は正月が明けて直ぐに『群蝶図』を見に四国に行きました。奥書院の襖の長押(なげし)の上の壁板に実在・想像上の蝶400匹以上が所狭しと群飛して実に壮観でした。撮影禁止なので絵を網膜に焼き付けようと食い入る様にギフチョウに注目して40分以上も見てた事を思い出しました。世間では全く無名の岸岱は父・岸駒(がんく) -岸駒は円山応挙の弟子で「虎絵」に秀でた人- が京都で創始した岸派2代目で寅年生まれです。応挙や岸派は「虎絵」を得意とし、応挙の『遊虎図』は金刀比羅宮書院に在り当日のチケットに印刷され、岸岱の虎絵は但馬の隆国寺(通称:牡丹寺)に残存して居るそうです(△4)。成る程、虎絵を得意とする寅年絵師が「虎斑の蝶」を描いたという訳ですね!
多数の蝶の標本やスケッチを岸岱に提供したのは信州生まれで”蝶狂い”し琴平に住み着いた合葉文山(あいばぶんざん)という絵師ですが、四国に棲息しないギフチョウを何処で採集したか?、は日本最古の蝶標本と認定された彼の標本中に存在せず謎の儘です(△5のp125~128)。尚、【参考文献】△5は”虫屋”の私にとって興味有る話が沢山載ってる貴重な本で、07年7月末に中国遼寧省の山裾で非常に優雅な飛び方で舞う”ギフチョウを白くした様な尾の長い蝶”を撮影し名前が判らず半ば諦めて居た時に、別の目的でこの本を開いて偶然にホソオチョウ(細尾蝶)という名であることを発見しました。私が思った通りホソオチョウはギフチョウと同じウスバアゲハ亜科に属し中国東北部に居る虎斑の蝶です。
(2)アジア各地の虎 - マレーシア/中国/インドなど
虎はアジア特産(※1)なのでアジア各地の虎の話を拾ってみましょう。
先ず、日本人に関係有る虎と言えばハリマオですね。「ハリマオ」とはマレー語で「虎」を指すのですが、ハリマオは実在した九州出身の日本人・谷豊氏です。私の子供時代には「怪傑ハリマオ」として偶像化された英雄でした。彼は現地の宗教であるイスラム教に帰依し、彼と現地の仲間達は戦時中に日本の陸軍特務機関の藤原機関(通称:F機関)の密命を帯び破壊工作を受け持って居ましたが、マラリアに罹り最後はシンガポールの兵站病院で死ぬ(享年31歳)とイスラム式の葬儀を行なう為に仲間達が遺体を引き取り墓所は不明です(△6のp161~165)。虚像で覆われたハリマオの実像を知りたい方はこの本をお読み下さい。そう言えば私の知り合いで第二次大戦中マレー半島に出征しハリマオを見たと仰ってた人が居ましたが、この人も現在どうして居られるか...?
奇想天外な話や図で知られる古代中国の『山海経』(※7)を見ると、海外東経に「君子国の人々は衣冠を着け剣を帯びて獣を食う。二匹の文(あや)ある虎を馴らして使う。(虎が)傍に居る。この人たちは謙虚で人と争わぬ。」と在ります(△7のp131)。又、海内北経には「林氏国に珍獣在り、大きさ虎の如く、五彩皆具わり、尾は身より長い。名は騶吾(すうご)。これに乗れば日に千里を行く。」と出て来ます(△7のp142)。
虎に乗ると言えばインドのシヴァ神の妃である女神ドゥルガーは10本の腕に種々の武器を持ち虎(時にはライオン)に跨って登場します(△8のp59)。中国古来の民間信仰である道教の土地神(=土地爺)も虎に乗るとされ土地廟には虎爺(ホウヤ)という虎も祀られて居ます(△9のp258)。
次は”虎穴に入って虎子を得た”話を紹介しましょう。ハルビン(哈爾浜)の東方の鍋盔山(通称:虎山)の切り立った崖に在る虎の洞穴に母虎が餌を捕りに行ってる間に忍び込み子虎に袋を被せて生け捕る話が出て居ます(△10の「虎の洞穴」の章)。この本には虎に関する記述が沢山載って居ます。
中国雲南省のミャンマーとの国境に近い地域にはラフ族(拉祜族)という少数民族が住んで居ますが、私が02年に行った時に地元のガイドに「ラフ族は嘗て虎狩りをし虎を食べて居た」と聞かされ大変印象深く覚えて居ます。そもそも漢語の「拉祜」とは「虎の肉を煮て食べること」の意味だそうでで、ラフ族は羌族や彝族と同系統の祖先から発したチベット・ビルマ語派で近年迄原始的な狩猟をして居た民族ですが最近は農耕主体に転じ、今はコーヒーも栽培して居ます。しかし虎の肉は旨いんですかねえ...?!
やはり雲南省の麗江県と香格里拉県(旧名:中甸県)の境界には虎跳峡 -虎跳峡鎮という県庁所在地は香格里拉県- と呼ばれる観光スポットが在り、その昔、虎がこの峡谷を飛び越えたという伝説の地です。玉龍雪山と哈巴雪山 -雪山(せつざん)とは万年雪が在る山- に挟まれた峡谷には金沙江の急流が岩を食み飛沫(しぶき)を飛ばして流れ、観光客は恐る恐る飛沫を浴びる地点迄峡谷を下って行きます。私は2001年と04年の2度ここに行きました。峡谷左岸の急坂を一気に下る「上虎跳」コースと、右岸の峡谷沿いの道をトンネルを潜ったりし乍ら徐々に下る「中虎跳」~「下虎跳」コースが在りますが、01年に前者を04年に後者を歩きました。01年の虎跳峡の写真をご覧下さい、「上虎跳」コースには急坂を上り下りする駕籠屋が居ました。又、飛行機の上から見た玉龍雪山は圧巻でした。
再び日本に戻って、一昔前迄はお正月映画の定番は「フーテンの寅さん」物でしたが、今はどうなんでしょう?、私は映像には興味無いので知りませんが。
{虎跳峡の記述は10年1月3日に追加}
(3)万葉集に詠まれた虎
虎が居ない古代日本にも虎が記されて居ます。『万葉集』巻2-199の柿本人麻呂の長歌中に
敵(あた)見たる 虎か吼ゆると 諸人の おびゆるまでに
と出て来ます。又、巻16-3833の境部王が数種の物を詠みこんだ短歌
虎に乗り 古屋を越えて 青淵に
鮫龍(みづち)とり来む 剣刀(つるぎたち)もが
や、巻16-3885の乞食者(ほかひびと/ほがいびと)の長歌中に
韓国(からくに)に 虎とふ神を 生取りに
八頭取(やつと)り持ち来 その皮を 畳に刺し 八重畳(やへだたみ)
と出て来ます(△11、△11-1)。虎の実物を見た事の無い古(いにしえ)の日本人は中国などの文献から想像を巡らして居たのでしょう。尚、この長歌は人に食われる為に解体される「鹿の痛み」を慮った歌として「日本の肉食文化の変遷」中に引用した歌です。
韓国(からくに)が引用されて居ますが中国と陸続きの朝鮮半島には虎が生息し、秀吉の朝鮮出兵に従った加藤清正の虎退治の武勇伝は槍の遣い手である清正を誇張したもので、私が子供時代には何度も聞かされましたが実際には槍では無く遠くから鉄砲で撃った様です(△3のp70)。又、清正は虎之助と呼ばれ虎に縁が深い人(←しかし1562年生まれで戌年)でしたが、武士の時代には虎の勇猛さに肖り男児名に「虎」や「寅」の字を付けることが多く、上杉謙信の虎千代(←1530年の寅年生まれ)は割と良く知られて居ます。吉田松陰が寅次郎と呼ばれたのは1830年の寅年生まれの為でしょう。
という事で、「寅」や「虎」に纏わる話を聞いて戴いた後は虎に関係の有る神社などに初詣でしましょう。
■狛虎が居る神社 - 阪神ファン”必詣”の大江神社(大阪夕陽丘)
寅年には”狛虎”が居る神社を初詣でするのがオシャレですが、私の一推しは大阪市夕陽丘の大江神社です。ここは既に04年に
浪速のケッタイ(Strange spots in Naniwa, Osaka)
の中で紹介済みなので、重複する部分が多いですが改めてご紹介します、お正月なので。
ここは地元の小さな神社です。地下鉄「四天王寺夕陽ヶ丘駅」で下車し谷町通りから愛染堂勝鬘院に行く路地に入れば奥に鳥居(左の写真)が見えて来ます。鳥居の左の坂は「天王寺七坂」の一つ愛染坂です。この鳥居を潜ると拝殿が見えますが、神社の由緒は「浪速のケッタイ」に譲ります。
その拝殿の左側奥に鳥居が在り、その奥に1対の”狛虎”が鎮座する空間が在ります(右の写真)。この凜とした雰囲気こそ阪神タイガースの聖地に相応しいのですが、単に狛虎が居るからでは無い訳が有ります。そう、”訳有り”ですね。1対と言い乍ら新しそうな白い虎(左側の吽形)と古色を帯びた黒っぽい虎(右側の阿形)とでは”不揃い”ですが、この”不揃い”が”訳有りの訳”を解く鍵です。
以下に何故”狛虎”なのか?[第1の疑問]、”訳有りの訳”とは何か?[第2の疑問]、についてお答えしましょう。
[第1の疑問]の答えは、ここは四天王寺(※8)の北西の方角(=戌亥、乾)に当たり北方の鎮護の為に江戸時代には毘沙門天(多聞天とも言う)(※9、※9-1)を祀った毘沙門堂が”狛虎”の奥の赤い柵で囲まれた空き地に在りました。この毘沙門天の「神使」は虎とされ虎が毘沙門天をお守りするという意味で狛虎が安置されたのです(→「毘沙門天と虎」に関しては更に後で詳述)。
[第2の疑問]の答えは、先ず左側の吽形が白いのは新しいからです。元々は「阿吽」1対が揃って居たのは当然の話ですが、左側の吽形が明治の廃仏毀釈のドサクサ紛れに消失し -滋賀県の某寺に持ち出されたらしい- 長が~い間右側の阿形だけでこの空間をお守りして居ました。2002年に低迷する阪神タイガースの監督に星野仙一氏が就任したのを機に、或る阪神ファンが優勝祈願したら1年目(02年)は4位でしたが2年目(03年)の夏にはぶっち切りで優勝が目前に成りました。この話を聞いた氏子たちが優勝を実現する為に失われた吽形を復活建立することを決議し03年8月31日に入魂除幕式を行って献納し、願い叶って03年秋に18年振りのリーグ優勝を成し遂げました。だから左側の新しい吽形は阪神タイガースへの熱き思いから復活したと言えるのです。これが”訳有りの訳”の真相で、この事を記した手作りの説明板「狛虎由来記」が在ります。
これで”新虎”の誕生日が判りましたが、”古虎”は?、と言うと台座側面の刻印が風化して読み難いですが
丙 安政三年
辰 十二月十日
と縦書きして在ります。安政3年は1856年で干支は確かに丙辰ですので間違い有りません。貫禄の有る古色は約150年間の風雪の賜です。以上の”訳有りの訳”故にここは阪神タイガース・ファン”必詣”の聖地でっせ!
(-_@)
_A_
因みに、この神社は近隣の幾つかの社を合祀したもので当初は乾社などと呼ばれて居ましたが、慶応3(1867)年に大江社に改められました。「江(え)」という字は「海や湖の一部分が陸地に入り込んだ所」即ち「入江」のことですが、上町台地の一角のこの辺りは嘗ては「大江の岸」(=大きな入江の岸辺)と呼ばれ海が迫り夕陽の美しい所でしたので、境内には「夕陽岡」の石碑が在ります。そして、ここから少し北には藤原家隆(※10)が晩年に菴を営み「夕陽丘」の地名起源に成った▼下の歌▼を詠んで没した家隆塚と歌碑が在りますので、初詣での序でにお寄り下さい。
契りあれば 難波の里に やどりきて
波の入日を 拝みつるかな
家隆は「従二位家隆」の名で『小倉百人一首』の98番歌にも採録されて居ます。成る程、現在のミナミの繁華街は嘗ては海だったんですね。
■毘沙門天と虎が結び付いた寺 - 信貴山寺(奈良生駒の平群町)
私は先程、毘沙門天の「神使」は虎とされてると記しましたが、平安前期頃からそういう通年が一般に定着した様で、例えば毘沙門天を本尊とする鞍馬寺(※11)にも立派な狛虎が居ます。しかし実は「毘沙門天の「神使」が虎」というのは”変な話”なのです。【脚注】※9をご覧下さい。毘沙門天とは元々は古代インドのヒンドゥー教の財宝神クベーラが仏教化し中国経由で日本に輸入されたものですが、クベーラの神使は百足(※12)であって虎では無いのです、だから変なのです。神話に拠ると、クベーラは夜叉を従え貴金属や玉を採掘させて財宝を得て暮らした神で、百足は鉱脈に見立てられたり坑道入口の守り神としてクベーラを補助する役割を担って居ました。
この神の性格は我が国にも引き継がれ、上述の鞍馬寺では昔は生きた百足を売り、買った方はこれを黒焼(※12-1)などにして漢方薬に利用して居たのです。そこで大きなムカデをご覧に入れましょう、お正月なので。右の写真は04年4月24日に京都の出雲大神宮の御神体山 -磐座(いわくら)の一つ- に登った時に枯葉の下から這い出して来た奴でほぼ実物大です。神宮の神使ですかねえ?!
こういうのが居るんですね、山には。他人の坑道に侵入し鉱石を横取りしようとした時、此奴が出て来たらビビるでしょう、そこが坑道の守り神に成り得た所以です。どうです?、御節料理の煮物に加えては!、或いは黒焼にして煎じて飲んでは!、精力剤でっせ効きまっせ、ブワッハッハッハ!!
実は私もこの時ビビりましたが冷静に写真を撮って仕舞いました。こんな所で役立つとは思ってもみなかったですね。本題に戻り、では何時から如何なる理由で虎が神使に加わったのか?[第3の疑問]、にお答えするとしましょう。
[第3の疑問]の答えを探求すると、「信貴山寺創建の奇譚」(※13)に行き着きます。時は仏教導入を巡って排仏派の物部守屋と崇仏派の蘇我馬子・厩戸皇子(=後の聖徳太子)連合が争い、守屋が穴穂部皇子を奉じて挙兵した年の話です。「信貴山朝護孫子寺」公式サイトから「創建の奇譚」を解り易く要約すると「厩戸は物部守屋を討伐せんと河内稲村城へ向かう途中、”この山”で戦勝祈願するや天空に毘沙門天が現われ必勝の秘法を授かったが、その時が奇しくも寅の年・寅の日・寅の刻であった。秘法を以て勝利した厩戸は自作の毘沙門天像を本尊とし”この山”に毘沙門堂を中心とした伽藍を創建、”この山”を「信ずべき貴ぶべき山」として『信貴山』と命名した。以来、信貴山の毘沙門天は寅に縁の有る神として信仰されて居る。」という内容です。
ところで守屋・穴穂部皇子連合と馬子・厩戸連合 -厩戸(=後の聖徳太子)の血筋は完璧に蘇我氏系- の戦は古代の重大事件でしたので当然『日本書紀』にも記されて居ます。「崇峻紀」を少し引用すると
是の時に、厩戸皇子、束髪於額(ひさごはな)して、軍(いくさ)の後に随(したが)へり。「将(はた)、敗らるること無からむや。願(ちかひこと)に非(あら)ずは成し難けむ」とのたまふ。乃(すなは)ち白膠木(ぬりで)を斮(き)り取りて、疾(と)く四天王の像(みかた)に作りて、頂髪に置きて、誓を発(た)てて言(のたま)はく、「今若し我をして敵(あた)に勝たしめたまはば、必ず護世四王(ごせしおう)の奉為(みため)に、寺塔(てら)を起立(た)てむ」とのたまふ。
と、厩戸側が緒戦に於いて形勢不利に陥った為に戦勝祈願した経緯が記され、この後で形勢を覆し物部守屋討伐の場面が記され、更に
乱(みだれ)を平(しづ)めて後に、摂津国にして、四天王寺を造る。...(中略)...蘇我大臣、亦本願の依(まま)に、飛鳥の地にして、法興寺を起(た)つ。
と続きます(△12のp66~70)。つまり厩戸が祈願したのは毘沙門天では無く、毘沙門天をも含めた四天王(※9-2)であり、書紀は四天王寺(※8)及び法興寺(=飛鳥寺、※14)の創建の縁起を述べた形で信貴山寺や寅年云々の話は何処にも無いのです。又、物部守屋が挙兵した年は用命天皇元(586)年ですので干支は丙午(=つまり午年(うまどし))、もし寅年とするなら守屋挙兵は敏達天皇治世の582年(壬寅)でなければ為らず史実と全く矛盾します。従って「信貴山寺創建の奇譚」は筋違いな作り話で創建年はそんなに遡れないという事です。
しかし平安前期には信貴山寺が全国の毘沙門堂の総本山として霊験が世に知られる存在に成り、延喜2(902)年には醍醐天皇から「朝廷護持・子孫長久」の祈祷寺として朝護孫子寺(ちょうごそんしじ)の勅号が贈られて以来これが正式名称に成りました。現在は真言系で山号が信貴山です。その醍醐帝の病気平癒祈祷の模様を伝えるもう一つの”荒唐無稽な奇跡譚”が現存するからこの寺は不思議です。それが12世紀後半成立の『信貴山縁起絵巻』(国宝)で、信州出身の超能力僧・命蓮(みょうれん)が醍醐帝の病を剣鎧童子(けんがいどうじ)という分身を飛ばして遠隔治療した話が載って居ます(△13のp62)。又、『絵巻』は本尊の毘沙門天像は命蓮が山崎長者から取り上げた米倉の朽ちた古材から造ったと記し「創建の奇譚」に対立します(△13のp133)が、寺の創建年代に関しては『絵巻』成立頃の12世紀後半と考えるのが妥当と思われます。尚、『絵巻』は「縁起」と謳い乍ら信貴山寺創建の経緯については何も触れて居らず、命蓮なる人物が『宇治拾遺物語』巻第8の「信濃国聖事」の聖と同一人物である点でも特異です(△13のp139、△14のp187~192)。
その後、戦国時代には山上に信貴山城が築かれ松永久秀が信長に逆らい茶釜を抱いて爆死し城と共に寺も戦火に巻き込まれ、現在の建物は豊臣秀頼の再建です。
以上の如く「創建の奇譚」が伝える寅年云々は有り得ない話ですが、大江神社の狛虎の由来で既に述べた通り、この奇譚に拠って虎が毘沙門天の神使として全国に流布されたのは確かな様で、一旦民衆に流布して仕舞えば話の筋の矛盾などは無視される好例です。これは正に「三人虎を成す」(=熟語で三人成虎、三人市虎) -街中に居る筈の無い虎も三人が「居る」と言えば皆が「居る」と信じ込む- という中国の諺通り(△1)ですが、裏を返せば「虎(=聖徳太子や超人命蓮)の威を借る”頭の良い狐”」が『絵巻』成立の少し前には信貴山に居たという事です。
一方、百足は消えた訳では無く本堂扁額などに健在です。百足は「客足が付く」「御足が入る」(※12)などと商売人からは金運を良くする動物とされ、それは同時に財宝神としての毘沙門天の性格 -これはクベーラの性格を引き継いだもので毘沙門天が日本で七福神に加えられた理由は「福」を齎す財宝神だから- とも合致するのです。
◆毘沙門天と聖徳太子の共通項
ここで「信貴山寺創建の奇譚」に聖徳太子が無理矢理にこじ付けられた理由について私見を述べて置きましょう。
++++ 多聞天(=毘沙門天)と豊聡耳命(=聖徳太子) ++++
太子は別名を豊聡耳命(とよとみみのみこと)とも称し「同時に10人の言葉を聞き分けた事」に由来するのですが、毘沙門天の別名の多聞天の意味も「遍く聞く者、良く聞く者」(※9-1)で、両者に付与された”多くを聞く”威徳が一致する事が挙げられます。
太子は更に”馬小屋で生まれたイエス・キリスト”のイメージが重ね合わされた厩戸皇子で在らせられたので”超人気アイドル”として担ぎ出される事が多く、聖徳太子と言われると我が国の民衆は妙に大人しく納得して仕舞います。逆にこの”出来過ぎたアイドル化”に対し私と同じく「虚構」の臭いを嗅ぎ取る人も少なく無く、専門家や学者に依って様々に -即ち全面虚構か部分虚構か、部分虚構説の場合はどの部分が虚構かなどが- 論じられても居ます。
この事は弘法大師にも共通し、大師の伝説が高野聖(※15)や大師講(※15-1)の人々に依って広められたのと同様に聖徳太子の伝説化も太子講(※15-2)の人々が大きく寄与しました。即ち「人気アイドルの出現の陰には必ず「仕掛け人」(=”頭の良い狐”)が存在する」という事です。
---------------------------------
ともあれ、信貴山の参道では大きな「張り子の虎」が参詣者を出迎えて呉れますので、ここを初詣でするのも良いでしょう。とは言っても昔から大和と河内の国境に位置し、現在も大阪府と県境の奈良県生駒郡平群町に在り行き難い場所です。近鉄奈良線「生駒駅」又はJR大和路線「王寺駅」から近鉄生駒線「信貴山下駅」で下車しバスです。登山や古代遺跡が好きな人には近鉄大阪線「河内山本駅」→近鉄信貴線「信貴山口駅」→近鉄西信貴ケーブル「高安山駅」と乗り継ぎ古代山城の一つ高安城が在ったとされる高安山を越えて行くルートも在ります。何れにしても簡単では無いですね。
■「張り子の虎」を御守りにする神社 - 少彦名神社(大阪道修町)
「張り子の虎」と言えば関西では道修町(どしょうまち)の少彦名神社 -関西以外の方は「どうしゅうちょう」と読みそうすが違いまっせ、そして大阪の中心部では「町」は「ちょう」では無く「まち」と発音しまっせ!- が有名で、道修町は大阪市のド真ん中、株屋が並ぶ北浜のちょい南の通りで、神社は堺筋のちょい西のオフィス街のビルに挟まれた狭い入口 -入口の大きな「金色の虎の像」(右の写真)が目印- の奥まった所に1本だけ残った楠の大木の下に鎮座して居ます。少彦名神社は何処ですか?、と訊いても知らん人が多いですが、「神農さん」と言えば若い人以外は誰でも知って居ます。それ程「神農さん」の名は通って居ます。少彦名命を祀った神社は全国に多数在りますが道修町の「神農さん」は別格なんですね。何故別格か?[第4の疑問]、この疑問からお答えしましょう。
[第4の疑問]の答えを順を追って説明しましょう。先ず当社は道修町で漢方を営む薬種業者が中国道教で「薬の神」とされる神農(※16、△9のp154~156)を祀ったのが起源で、後に日本の少彦名命(※16-1)を配祀し現在に至って居ます。【脚注】でお解りの様にこの二柱は共に「医薬の祖神」、神威は強い方が良いので神農さん1人よりも少彦名も居た方が心強く御利益も大きいという訳です。そして毎年11月22・23日の神農祭(※16-2)は屋台も沢山出てごっつう賑わうので、そういう由緒と神農祭の名で「神農さん」の方が通りが良いのです。
では何故そんなに賑わうのか?、それは即ち道修町(どしょうまち)とは何ぞや?、という質問と等価であり延いては[第4の疑問]の答えに成るという順序で述べます。道修町は江戸初期頃迄は道修谷(どうしゅだに)と呼ばれ上町台地に切れ込む谷地だったのです。そして道修町は船場(※16-3)の一角を占めるのですが、【脚注】の如く船場は豊臣秀吉が堺商人を集めて開発した地(←堺筋という通りの名称もこれに由来)で、道修町は秀吉亡き後に堺の小西吉右衛門が徳川秀忠の命で寛永年間(1624~44年)に薬種屋を開業したのを皮切りに江戸中期迄には薬種問屋街として発展しました。そこで安永9(1780)年に京都の五条天神宮(現京都市下京区) -ここは「天の神」を祀る神社で菅原道真とは無縁の天神社の一つで祭神は大己貴命・少彦名命・天照大神- から薬祖神の少彦名命を勧請して祀り、後に「少彦名神社」に改名されました(△15)。道修町の薬種業から出発し現在もここに本社を置く大手製薬会社 -田辺五兵衛家の田辺製薬、武田長兵衛家の武田薬品、塩野義三郎家の塩野義製薬など- は多く1904年設立の道修薬学校(夜間)は阪大薬学部に成り、現在も通りには薬品店や漢方薬の店が立ち並び道修町は今も「薬の街」です。
ここ迄話せば後は説明不要でしょう。当神社の祭神が江戸時代から薬関連業者の信仰を集めたのは当然の話で、江戸の昔から大阪の一年の祭は1月10日の戎祭(=十日戎)で始まり11月23日(←嘗ては冬至の日、※16-2)の神農祭で終わるので、神農祭のことを「止(と)めの祭」とも呼ぶんですね。それ故に大阪のド真ん中で一年を締める祭に薬関連の人のみならず浪速っ子が押し寄せ大いに賑わうので別格という訳なんです。
[ちょっと一言] 船場(せんば)の地名が記録に登場するのは大坂の陣(17世紀初め)以後です。幾重にも波が打ち寄せる千波(せんば)や当て字の仙場(せんば)の他に、単に平仮名の「せんば」も出現しますので「センバ」の発音は確かです。ところが地名由来は、川や堀が多く船が出入りしたので船場(ふなば)から、中世以来戦いの場に成ったので戦場(せんば)から、豊臣時代に城の馬を洗った洗馬(せんば)の地なので洗場(せんば)から、など諸説在り確定されて居ません(△16のp16)。
又、道修町の核を成した小西家は代々堺の名門で、キリシタン大名の小西行長や談林系俳人の小西来山は一族です。薬種商としては小西弥九郎が有名 -行長の幼名も弥九郎- で道修町の吉右衛門の先祖です(△16のp80~84)。
よっしゃ、では何で「神農さん」に虎なんや?[第5の疑問]、というダミ声が聞こえて来ました、浪速っ子はせっかちですからね。確かに虎が神農や少彦名命に直接的に由来する訳では有りません。
[第5の疑問]の答えは、文政5(1822)年に大坂で疫病即ちコレラが流行した時、道修町の薬種仲間が疫病除薬として「虎の頭の骨」を配合した「虎頭殺鬼雄黄圓」という丸薬を作り神前で祈祷をして庶民に無料で施した際に、病除祈願の御守りとして「張り子の虎」も一緒に施与した所、その効能が顕著だった為、以来当神社の「張り子の虎」(←神虎と呼ぶ)が無病息災の御守りとして知れ渡ったのです(△17、△16のp86)。現在では神農祭の日に五葉笹に付けた「張り子の虎」が配られますが、この日は大変混み合い境内が狭い為に道路に溢れた長い行列に長時間並ぶ必要が有ります。しかし、だからこそ御利益も倍加し一層有り難いと言えます。
それにしても「虎の頭の骨」とはインパクトが有りますね、中国では虎骨酒(ここつしゅ)や虎のペニスの漢方薬が在ります。江戸時代にはコレラのことを「コロリと死んで仕舞う」に引っ掛けて虎狼痢(ころり、※17)などという当て字 -虎と狼を合わせた位に恐ろしい痢病の意味で上述の「前門の虎、後門の狼」を連想させます- が使われましたので、”虎を以て虎を制す”思いで「虎の骨」を持ち出したのでしょう、言葉遊びですね。しかし日本で虎の骨を入手するのは大変だと思いますが...。そして「虎頭殺鬼...」も凄い、「虎の頭の骨」で鬼をも殺すと誇張するのは洒落心です。江戸時代は言葉遊びや洒落が上手かった(=粋の時代)ですね、今は品の無いギャグばかり(=野暮の時代)ですが。
寅年にはここを初詣でするのも良いでしょう。そして神様に願い事をするだけで無く感謝する事も大切ですので、晩秋の神農祭に行き1年の無病息災を祭神に感謝するのが更に良いでしょう、11月23日は勤労感謝の日です。関西では当社の「張り子の虎」を阪神タイガースの御守りにしてる人も可なり居りますが、私は「虎の頭の骨」を煎じてダメ虎の阪神タイガースの選手に飲ませたいですな、ブワッハッハッハ!!
■年頭のご挨拶 - 目覚めよ猛虎、吼えよ若者!
寅年にはやはり我が阪神タイガースにはダメニャンの眠りから「目覚めよ猛虎!」と言いたいですね、冒頭で申し上げた通り期待薄ですが。タイガースのみならず経済でも今年は昨年に引き続いて我慢の年に成りそうで、私は若者に檄を飛ばしたいですね。私が若い頃は、私も含めて同世代の若者がもっと社会的に主張し行動してたと思いますが、今の若者は”自閉症的”個人主義に埋没し更にはニートの様に”後ろ向きの精神病”を患い全く覇気が感じられません。だから私は「吼えよ若者!」と思わず吼えて仕舞うのです。老い先短い私が吼えても始まりませんが、今の若者は「多老」(←「多老」は私の造語)に押し潰され”草食系”とか言って勃たないのでヴァイアグラを常用してる奴が多いそうで、だから余計に「虎の頭の骨」を煎じて飲め!、と再び吼えたく成るのです。私は虎骨酒を飲んでみたいですね、当ては虎の刺身が宜しい、オッホッホ!
ところで南方熊楠(※18)の『十二支考』を繙(ひもと)くと、「虎」の章の冒頭は「虎梵名ヴィヤグラ、...」と梵語から始め各国語の虎の名を連ねます(△18のp7)。
[ちょっと一言] 熊楠の『十二支考』は何故か「虎」から始まり十二支順に章立てし「鼠」迄行きますが、何故か「牛」の章が在りません。因みに熊楠は1867年の卯年生まれで、1914年の寅年から十二支話の雑誌掲載を始め以後10年間その年に因んだ動物の話を連載して行った事が巻末の解説に在ります(△18-1のp399)ので、何かの理由で「牛」の掲載に至らなかったものと思われます。{この付言は10年1月8日に追加}
しかし「ヴィヤグラ」でっせ、「ヴァイアグラ」と近い発音ですなあ。そこで私も「神農さん」に肖り若者が多老を駆逐する事を願って、「虎の頭の骨」の煎じ薬を
和名「虎頭殺老万金丹」(※19)、洋名「ヴィヤグラ(Viyagra)」
と名付け「吼えよ若者!」と叱咤し乍ら若者に飲ませ”ドーピング”する事を新年早々思い付きました、ブハハハハハハ!!
いやぁ、良く笑いましたね。全てが期待薄の今年は「笑う門には福来たる」で福を招来する以外に手は有りませんゾ。皆さんも笑いましょう!
【脚注】
※1:虎(とら)は、[1].tiger。(タイ語系南方語起源か)ネコ科の哺乳類。アジア特産。頭胴長2m、尾長90cmに達する。雌は雄より小形。黄色の地に黒の横縞を持つ。シベリアからアジア東北部/東南アジア/インドなどの森林に生息。毛皮用に乱獲され、現在では各地で保護されて居る。多くは単独で森林・水辺に棲み、昼間は洞穴などに潜み、主に夕方から活動(=夜行性)し、種々の獣や鳥を捕食。水泳も巧みだが木には登らない。万葉集16「韓国の―と云ふ神を」。
[2].drunkard。俗に、酔っ払い。「大―」。
<出典:一部「学研新世紀ビジュアル百科辞典」より>
※2:ライオン(lion)は、ネコ科の哺乳類。体長約1.8m。普通は茶褐色で毛は短い。尾の端に黒い毛の総(ふさ)が有る。頭が大きく、成長した雄には鬣(たてがみ)が有るが、雌は鬣が無く体もやや小さい。「百獣の王」と言われる。草原に雌を中心とする数頭の家族群(=プライド(prides))で生活、大形動物を捕食。夜行性。アフリカからインドに広く分布して居たが、南アフリカの一部やモロッコなど絶滅した地域が多い。獅子(しし)。
※2-1:獅子/師子(しし)とは、[1].ライオン。唐獅子。〈和名抄18〉。
[2].左右の狛犬の内、左方の、口を開いた方(=阿)を言う。
※3:棲み分け/住み分け(すみわけ、habitat segregation)とは、[1].〔生〕生活様式が類似する動物の個体又は個体群が、種としては同じ所に棲めるのに、競争などの相互作用の結果、生活の場を空間的又は時間的に分け合う状態で生存する現象。今西錦司・可児藤吉の水生昆虫の研究から生れた概念。近年は植物群落についても言うことが有る。
[2].一般語として、空間的・時間的に互いに生息場所を違える現象を言う。
※4:両虎(りょうこ)とは、2匹の虎。転じて、力量の匹敵した二人の勇者の譬え。「―相搏(う)つ」。
※4-1:「両虎相闘えば勢い倶(とも)に生きず」とは、[史記廉頗藺相如伝]両雄が戦う時はどちらかが必ず倒れる。又、どちらも倒れる意に用いる。
※5:蟻通し/虎刺(ありどおし)は、アカネ科の常緑小低木。山地樹陰に自生。高さ約60cm。葉腋に鋭い長い棘(とげ) -1~2cm- が有る。初夏、白色筒形の花を開く。核果は赤熟。本州中部以南から東アジアに広く分布。<出典:一部「学研新世紀ビジュアル百科辞典」より>
※6:岐阜蝶(ぎふちょう)は、アゲハチョウ科のチョウ。明治初期に岐阜県で発見され命名、後に江戸時代の絵に描かれて居た事が判明。開張5~5.5cm。本州の固有種で、幼虫は黒色多毛(成虫も胸部は多毛)で、食草はカンアオイ(寒葵)とウスバサイシン(薄葉細辛)。蛹で越冬し春先に羽化し「春の女神」と愛称される。ダンダラチョウ。<出典:一部「学研新世紀ビジュアル百科辞典」より>
※6-1:名和靖(なわやすし)は、動物学者(1857~1926)。岐阜県の人。1896年(明治29)名和昆虫研究所を設立、農作物害虫駆除予防を研究。雑誌「昆虫世界」を発刊。著「貝殻虫図説」「名和日本昆虫図説」など。ギフチョウの命名者。
※7:山海経(せんがいきょう/さんかいきょう/さんかいけい)は、中国古代の神話と地理の書。主に洛陽(周代の洛邑)地方を中心に山や海の動植物や金石草木の他、祭祀・神話・伝説・怪談などを記し、中国神話の宝庫と言われる。18巻。禹の治水を助けた伯益の著とされるが、戦国時代~秦・漢代の作。<出典:一部「学研新世紀ビジュアル百科辞典」より>
※8:四天王寺(してんのうじ)は、大阪市天王寺区に在る和宗の総本山。山号は荒陵山(こうりょうさん)。聖徳太子の建立と伝え、623年頃迄に成立。奈良時代には五大寺に次ぐ地位に在り、平安時代には極楽の東門とされて信仰を集めた。伽藍配置は塔・金堂・講堂を中心線上に並べた、四天王寺式と称する古制を示す。堂宇は幾度も焼失したが、第二次世界大戦後、飛鳥様式に復原建造。扇面法華経冊子(せんめんほけきょうさっし)などを所蔵。荒陵寺(あらはかじ)。難波寺。御津寺。堀江寺。天王寺。
※9:毘沙門天(びしゃもんてん)とは、(Vaisravana[梵]の音訳ヴァイシュラヴァナから)〔仏〕四天王・十二天の一。須弥山(しゅみせん)の中腹北方に住し、夜叉・羅刹を率いて北方世界を守護し、又、財宝を守るとされる神。甲冑を着けた忿怒の武将形に表され、片手に宝塔を捧げ、片手に鉾(又は宝棒)を持つ。日本では七福神の一ともされる。又、原語の意味から多聞天とも訳し、四天王を列挙する場合には普通この名称を用いる。インド神話の財宝神クベーラ(Kubera[梵]、倶毘羅)が元。毘沙門天王。
※9-1:多聞天(たもんてん)とは、毘沙門天の別称。四天王の一とする場合、普通この名称を用いる。毘沙門天の原語(Vaisravana[梵])の「遍く聞く者」の意味から。
※9-2:四天王(してんのう)とは、〔仏〕四方を守る護法神。須弥山の中腹に在る四王天の主。持国天(東方)・増長天(南方)・広目天(西方)・多聞天(毘沙門天の別称、北方)の称。像容は、甲冑を着けた忿怒の武将形で邪鬼を踏み、須弥壇の四方に安置される。四大天王。四王。
※10:藤原家隆(ふじわらのいえたか)は、(名は「かりゅう」とも)鎌倉初期の歌人(1158~1237)。新古今集撰者の一人。俊成の門に出で、定家と並称。素直で清潔な歌風。家集「壬二集」。
※11:鞍馬寺(くらまでら)は、京都の鞍馬山の中腹に在る鞍馬弘教(くらまぐきょう)の本山。元は天台宗。本尊は毘沙門天。770年(宝亀1)鑑真の弟子鑑禎の創建と言う。平安京の北方鎮護と京人の福徳の寺として信仰を集める。融通念仏の地として知られ、竹伐り・火祭などの行事は有名。
※12:蜈蚣/百足(むかで、centipede)は、ムカデ綱の節足動物の総称。体は扁平で細長く、体長5~150mm。多数の環節から成る。各節に1対ずつの歩脚があり、数は種に依り異なる。頭部に1対の触角と大顎とを持ち、顎肢の毒爪から毒液を注射して小昆虫を捕えて食う。ジムカデ/トビズムカデ/オオムカデ/イシムカデなど、日本に百種以上。地表・土中に棲み、人に有害なものも在るが、「客足が付く」「御足が入る」などと言って縁起が良い動物とされる。古来、神の使い、又、怪異なものとされ、藤原秀郷(俵藤太)の伝説は有名。漢方では薬用に使う。季語は夏。枕草子161「古き所なれば―といふもの、日ひと日落ちかかり」。
※12-1:黒焼(くろやき、char, charred)は、動植物を土製の容器などに入れて蒸焼きにすること。又、そうしたもの。薬用などにする。「いもりの―」。
※13:信貴山寺(しぎさんじ)は、信貴山の東腹に在る信貴山真言宗の総本山。正称は朝護孫子寺(ちょうごそんしじ)。聖徳太子の創建と伝え、延喜(901~923)年間、命蓮が再興。初め天台系、次いで真言系修験道の道場と成る。本尊は毘沙門天。信貴山縁起絵巻(国宝)を所蔵。
※14:飛鳥寺(あすかでら)は、奈良県高市郡明日香村に在った寺。現在は旧地に飛鳥大仏を本尊とする真言宗の安居院(あんごいん)が在る。596年、蘇我馬子が創建した日本最初の本格的寺院。法興寺とも言い、718年(養老2)平城京に移して元興寺と称して後は、本元興寺とも呼ばれた。
※15:高野聖(こうやひじり)は、[1].高野山の聖人(しょうにん)。平安末期に名誉や利益を嫌った僧が俗世間を逃れ、不断念仏を願って高野山に集まったのに始まる。<出典:「学研新世紀ビジュアル百科辞典」>
[2].中世、勧進の為に高野山から諸国に出向いた下級僧。行商人と成り、悪僧化した者も在る。
※15-1:大師講(だいしこう)とは、真言宗で空海に帰依する人々の講社。
※15-2:太子講(たいしこう)とは、聖徳太子を奉賛する講。江戸時代からは大工職人らの間で盛んであった。
※15-3:講(こう)とは、[1].神仏を祀り、又は参詣する同行者で組織する団体。二十三夜講・伊勢講・稲荷講・大師講・富士講の類。
[2].一種の金融組合又は相互扶助組織。頼母子講(たのもしこう)・無尽講の類。
※16:神農(しんのう)は、中国古伝説上の帝王。在位120年、子孫は8代続いて中国を治めたとされる。三皇の一。姓は姜(きょう)。人身牛首、民に耕作を教えた。五行の火の徳を以て王と成った為に炎帝と言う。百草を舐めて医薬を作り、5弦の瑟(しつ) -箏(そう)に似た楽器- を作り、八卦を重ねて六十四爻を作る。神農氏。<出典:一部「学研新世紀ビジュアル百科辞典」より>
※16-1:少彦名神(すくなびこなのかみ)は、日本神話で高皇産霊神(たかみむすびのかみ)(古事記では神産巣日神(かみむすびのかみ))の子。体が小さくて敏捷、忍耐力に富み、大国主命と協力して国土の経営に当り、医薬・禁厭(まじない)などの法を創めたと言う。
※16-2:神農祭(しんのうまつり)とは、漢方医が冬至の日に医薬の祖として神農氏を祀り祝うこと。大坂道修町では少彦名神社の祭りを言う。季語は冬。
※16-3:船場(せんば)は、大阪市中央区北西部のビジネス街。東西を嘗ての東・西横堀川、北と南を大川及び長堀川に依って囲まれた南北に長い長方形の地。北浜や御堂筋などを含み、薬種・繊維・金物などの問屋街が発展し、現在は証券街・銀行街が在る。元は豊臣秀吉が堺商人を集めて開発した地。<出典:一部「学研新世紀ビジュアル百科辞典」より>
※17:コロリ(虎狼痢・古呂利)は、(ころりと死ぬ意を掛ける)コレラの異称。とんころり。三日ころり。緒方洪庵の「虎狼痢治準」、浅田宗伯の「古呂利考」などの医書に記載。
※18:南方熊楠(みなかたくまぐす)は、民俗学者・博物学者(1867~1941)。和歌山県の人。南北アメリカに遊学、1892年(明治25)渡英、大英博物館東洋調査部員。粘菌を研究し、諸外国語・民俗学・考古学に精通。著「南方閑話」「南方随筆」「十二支考」など。
※19:万金丹(まんきんたん)とは、[1].気付け・胃腸疾患・解毒などに効く丸薬の名。伊勢国朝熊岳(あさまがたけ)で作られた。浄、鎌倉三代記「幸ひ浅間の―、気付に飲ませいたはれば」。
[2].(形が似ていることから)一分金の異称。好色一代女6「―一角づつに定めて」。
<出典:一部「学研新世紀ビジュアル百科辞典」より>
(以上、出典は主に広辞苑です)
【参考文献】
△1:『実用新ことわざ辞典』(荻久保泰幸著、ナツメ社)。
△2:『中国の十二支動物誌』(鄭高詠著、白帝社)。
△3:『十二支物語』(諸橋轍次著、大修館書店)。
△4:Webサイト「但馬ぼたん寺【布金山長者峰隆国寺】」。
△5:『地獄蝶・極楽蝶』(今井彰著、築地書館)。
△6:『マレーの虎 ハリマオ伝説』(中野不二男著、文春文庫)。
△7:『山海経 中国古代の神話世界』(高馬三良訳注、平凡社)。
△8:『インド神話入門』(長谷川明著、新潮社)。
△9:『道教の神々』(窪徳忠著、講談社学術文庫)。
△10:『バイコフの森-北満州の密林物語』(ニコライ・バイコフ著、田中甫訳、集英社)。
△11:『万葉集(上)』(佐佐木信綱編、岩波文庫)。
△11-1:『万葉集(下)』(佐佐木信綱編、岩波文庫)。
△12:『日本書紀(四)』(坂本太郎・家永三郎・井上光貞・大野晋校注、岩波文庫)。
△13:『コンパクト版 日本の絵巻4 信貴山縁起』(小松茂美編、中央公論社)。
△14:『宇治拾遺物語』(中島悦次校注、角川文庫)。
△15:『日本地名ルーツ辞典』(池田末則・丹羽基二監修、創拓社)。
△16:『わが町 船場(いま・むかし)』(大阪市立開閉小学校編著・発行)。
△17:「少彦名神社(道修町)」の公式サイト。
△18:『十二支考(上)』(南方熊楠著、岩波文庫)。
△18-1:『十二支考(下)』(南方熊楠著、岩波文庫)。
●関連リンク
@参照ページ(Reference-Page):雲南省の虎跳峡の地図▼
地図-中国・雲南省北部(Map of Northern part of Yunnan, -China-)
@参照ページ(Reference-Page):十干や十二支について▼
資料-十干十二支(Chinese zodiacal signs and 60 years cycle)
@参照ページ(Reference-Page):聖徳太子について▼
資料-聖徳太子の事績(Achievement of Prince Shotoku)
@参照ページ(Reference-Page):『小倉百人一首』の藤原家隆の歌▼
資料-小倉百人一首(The Ogura Anthology of 100 Poems by 100 Poets)
@補完ページ(Complementary):狛虎が居る神社▼
浪速のケッタイ(Strange spots in Naniwa, Osaka)
私は猫族▼
ノラ猫狂詩曲(What's new PUSSYCATS ?, Japan)
猫が十二支に入れなかった理由▼
2006年・年頭所感-十二支と猫
(Chinese zodiacal signs and Cat, 2006 beginning)
十二支に関係の有る神社をご紹介し始めた子年(ねどし)▼
2008年・年頭所感-鼠の話あれこれ
(Several Rat's topics, 2008 beginning)
「虎皮の褌」を穿く雷神やインドのシヴァ神やヒンドゥー教について▼
2009年・年頭所感-聖牛に肖ろう
(Share happiness of Holy Ox, 2009 beginning)
ギフチョウと異なるアゲハチョウの斑紋▼
私の昆虫アルバム・日本編-チョウ・ガ類
(My INSECTS album in Japan, Butterflies and Moths)
マレー半島のハリマオ▼
まどかの2001年シンガポール・マレーシアの旅
(Travel of Singapore and Malaysia, 2001, Madoka)
虎狩りをして居た中国雲南省のラフ族▼
2002年・パーリャン小学校視察の旅
(Report of Paliang's primary school, China, 2002)
虎跳峡の風景▼
2001年・麗しの麗江(Beautiful Lijiang, China, 2001)
人に食われる「鹿の痛み」を慮った歌▼
日本の肉食文化の変遷(History of MEAT-EATING in Japan)
03年の阪神タイガース優勝の光景▼
2003年・阪神、御堂筋パレード
(The victory parade of HANSHIN Tigers, 2003)
出雲大神宮探訪記▼
2004年・出雲大神宮の御蔭山(Mikage-yama, Kyoto, 2004)
特大の乾燥百足を精力剤として売る中国▼
中国のヘビーなお食事-”食狗蛇蠍的!”(Chinese heavy meal)
松永久秀が信貴山城で爆死した話▼
大和多聞城と大和郡山城(Tamon and Yamato-Koriyama castle, Nara)
大阪の一年の初めの祭の十日戎▼
阪堺電車沿線の風景-大阪編(Along the Hankai-Line, Osaka)
道修町の核を成した小西家出身の小西行長▼
阪堺電車沿線の風景-堺編(Along the Hankai-Line, Sakai)
言葉遊びのすゝめ▼
「言葉遊び」と遊び心(The 'play of word' and playing mind)
江戸時代は言葉遊びや洒落の時代(=粋の時代)▼
[人形浄瑠璃巡り#3]大阪市西成([Puppet Joruri 3] Nishinari, Osaka)
若者を覆う”自閉症的”個人主義や”後ろ向きの精神病”▼
(「多老」にも言及)
戦後日本の世相史(Shallow history of Japan after World War II)
「多老」とは▼
日本の現状は「多老」だ(Present Japan is the SURPLUS OLD-PEOPLE society)
招福の笑いの効用▼
2005年・年頭所感-幸せ保存の法則
(Law of conservation of HAPPINESS, 2005 beginning)